理由もなくこればかり聴いてしまうCDのコーナー

CDはたくさんあるのですが、なぜか、いつもこればかり聴いてしまうCDを紹介します。

 

 

 

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クリスマスアルバムのコーナー                          








す ばら しい明日に向かって(1)

   すばら しい明日に向かって http://www21.0038.net/~gaia-as1/era.cmt6.html
 
私たち は、あなた方をサポートし、尊敬し、あなた方から学ぶために、時間を通り抜けて、ここへやって来ました。
私たちの意図は、あなた方とは別の観点から、あなた方の世界の出来事を説明することです――厚情をもって、あなた方に真実をもたらすために。

そして、これらの真実のいくつかは、耐え難い真実かもしれませんが、十分に考慮に値するものです。
私たちは多次元的な存在で、あなた方の世界にいて、私たちの世界にもおり、そして同時に多くの他の世界にも存在しています。
私たちは、こうした様々な空間で、情報を伝え合ったり働いたりすることができます、その成功の程度は色々ですが。



そして、 あなた方のために、あなた方自身の多次元的な運命のモデルになります。
あなた方の気付きは、段々多次元的になってきていて、《つかの間の25年》の1日ごとに、あなた方 は、あなた方の独自性の真実に近づきつつあります。

あなた方が、《今この時》にやることは、古代のカルマ的なドラマに波及します。
それは、ずっと《繰り返しモード》に嵌っていて、万物の巨大なサイクルを通して、何度も何度も演じられているものです。

その同じ古いトラウマ劇には、幾層ものウソを含んで意図的に流布され販売されている、造られた恐怖や暴力を含んでいます。
そして、見ることができる者には、つまり人類を上昇させるために探索し疑問を提起し説明することを使命としている者には、真実は簡単に識別できるのです。

友よ、私たちは持ちこたえるつもりです――平和的で持続的な公算が創られようとしているこの世界のために。
私たちの質問を言いましょう。
あなた方はどうしますか?

 ここでは、私たちをサポートして いる《すばる意識》の真意を、双方が持っているバックグラウンドの違いに触れながら、アピールしようとしています。
私たちへの愛が、しみじみと伝わってくるのではないでしょうか。

 
これから明らかになってくる「真実のいくつかは、耐え難い真実」であることは、多年にわたって地球と 人類が、悪意の存在たちによって支配され、徹底的に操られてきたという事実だけではありません。
それには、彼らによって私たちの遺伝子が、操り易いように改変(劣等化)されているという事実も含みます。


 

《すばる意識》が、「あなた方の 世界にいて、私たちの世界にもおり、そして同時に多くの他の世界にも存在して」 いることは、(私たち自身を含む)すべての多次元的存在が持つ本質的な性質です。


あなた方の独自性の真実」とは、地球という(「この時代」の銀河宇宙 で)特別の役割を持った極めてユニークな星において、その星の住民という独特の役割を担っていることを指します。
それに気付いている人でも、気付いていない人でも、その役割の重みには違いはありません。



同じ古いトラウマ劇」が、「《繰り返しモード》に嵌って」、「何度も何度も演じられて」きたのは、ひとえに、人類の歴史を支配してき た存在たちの作為的なコントロールの《賜物》であり、また私たちが歴史や体験から学ぶことを怠ってきたためです。
そして、その中に「幾層ものウソを含んで意図的に流布され販売されている、造られた恐怖や暴力を含んで」 いるとういうわけです。
しかし、その気になれば「真実は簡単に識別できる」のだから、「あなた方はどうしますか?」という問いかけにあるように、後は、真実を 認識した上で、私たちが何を選択していくかにかかっています――目を覚まして「古 代のカルマ的なドラマ」を癒し、それから抜け出すか、それとも、相変わらず「繰り返しモード」に嵌ったままでいるか。

(以上:引用)



あなた方はどうしますか?
と、問われています。

とにかく、今、何かの価値観が変わろうとしていることは事実のように感じます。
そして、
バー バラ・マーシニアックさんが、宇宙意識から得ている情 報は、本当なのかもしれません。

しかし・・・・・・
ひょっとしたら、それを受け取っている私たちの解釈が間違っている、という可能性はあるかもしれません。
もちろん、正しいかもしれません。


「そし て、あなた方のために、あなた方自身の多次元的な運命のモデルになります。
あなた方の気付きは、段々多次元的になってきていて、《つかの間の25年》の1日ごとに、あなた方 は、あなた方の独自性の真実に近づきつつあります。

あなた方が、《今この時》にやることは、古代のカルマ的なドラマに波及しま す。
それは、ずっと《繰り返しモード》に嵌っていて、万物の巨大なサイクルを通 して、何度も何度も演じられているものです。

その同じ古いトラウマ劇には、幾層ものウソを含んで意図的に流布され販売されている、造られた恐怖や暴力を含んでいます。
そして、見ることができる者には、つまり人類を上昇させるために探索し疑問を提起し説明することを使命としている者には、真実は簡単に識別できるので す。」。


と、あります。

とにかく、間違った何かを、ずっと繰り返しているようです、人類は。
このくり返しを、地球の初めから終わりのスパンで言っているのか、今回の文明を含めた今までの文明ひとつずつのスパンで言っているのかは、不明です が・・・。

もし、どちらでも、大きくは変わらないかと思いますが、もしこれが過去のいくつもの文明単位で語られているとすれば、今多くの方が語られていることは、今 までと同じなのではないか?と思います。

どうしても、どこか解釈の違いがあるような気がしてなりません。

岡田多母さんを引用することが、すっかり多くなってしまいましたが、岡田多母さんの「いとしのテラ」(風雲舎:1997年発行)には、次のようなことが書 いてあります。

(要約74〜77ページ)
神は教えてくれても、命令することはない。人に命令するのは、人間を作り、人間 に近い四次元の神と言われている。ああしない、行使なさい、と言うのが好きな神です。それをやらないと次にやりたいことをさせてくれません。
昔から神の言うことは聞いたほうが良いといわれていたのは、源との接触が人間には なかったので、このレベルの神の言い分が正しいということになっていたのでしょう。

私はあるときから、こういう神に抵抗しました。
身体をぼろぼろにされたこともあります。
それは、神の言うとおりにすると、妻、母、愛しい自分を無視し、この世界が味わえ なくなってしまうからです。
いっそこのまま源に戻ってやり直した方が楽かとも思いました。
しかし、子供、現実を考えるとそれはできない。
ある時から神の要求には一切耳を貸さないと決心しました。

それまでは、私の生活に関わらず、一方的に通信してきました。
子供の世話、買い物の時間をください。眠らないので、夜中にしてください、と神と 話しあいました。
孫悟空のように分身の術を使わせてください、とも言いました。
そうすると、身体を引き上げられて、肉体だけ落ちるのです。
身体が壊れそうでした。
それから神との接触は夜中にしました。大学ノート十数冊のメッセージを受けたとこ ろで、私自身の自立を認めてくれたことが分りました。
源は「それがいちばん」とはっきりおっしゃいました。
よく神の声を聞き取った方が、その方の感覚でメッセージを公表されますが、私は聞 く耳をもつ者は、そのメッセージについて発進したものと質疑応答し、相談する必要があると考えています。
「地震がある」というのなら、「なぜそういうプログラムにしたのか?」と聞き、 「この部分をこうしてくれないか?考え直してくれないなら、必要事項を教えてください」などと話し合うと、具体的になにができるか分かります。
できるだ具体的にできることを聞いて欲しいです。そうでないと、「臨時ニュースを 申し上げます」になってしまいます。
神は必要があるから話しかけてくるのであって、命令でなく相談事として聞いて欲し いと思います。・・・・・・」

(以上)



岡田多母さんは、さすがに相当、「神と対等」に近いようですね。

次元の分け方が、森田健さんなどと同じなのか、どうかは分かりませんが、岡田多母さんによれば、4次元にも、神はいるようです。
岡田多母さんの4次元が森田さんなどの5次元以上なのかもしれませんし、4次元神界に変更になったから、そうなのかもしれません。
そこのところは、良く分かりませんが。

また、神と言っても、政木和三さんなどが言う「自分の中にいる神」と、このような外側にいる神とは、いくらかその人にとってのありようが違うのかもしれま せん。
もちろん、元を辿れば、同じなのでしょうが。


ここで言われている”源”とは、創造主のことだと思って良いのだと思います。





何が言いたいかと言いますと・・・
解釈、大元の「神」観、時空観、価値観、あるいは精神レベルなどによって、高次元の存在からのメッセージの解釈は、当然違ってくるのだろう、ということで す。

そうとは言え、4次元の神と話し合いをするほどの岡田多母さんも、また、この本の中では、「精神レベルが一定以上に達しないと、地球にいられなくなってし まう」というようなことを書いています。

ですので、おそらく、アセンションの啓示を受けている人は、かなり、確かな言われ方で、同じようなことを聞く、感じているのだろうとは思います。

ただ、単なる空想で言わせてもらえば、精神レベル、意識レベル、のようなものを考える時に、何を基準にしているのだろうか?と考えます。

デ ヴィッド・R・ホーキンズ著、エハン・デラヴィ&愛知ソニア訳による「パワーか、 フォースか 人間のレベルを測る科学」(2004年9月発行:三五 館社)式に、それを考えれば、なんとな く、多くの人がいう今後の結果は、そうなのだろう、と想像は付きます。

しかし、何度か書きましたが、この考え方の基本は上下の流れです。
私は、何かそこに大きな「勘違いの元」があるような気がしてなりません。
もっと立体的なのかもしれません。

これですと、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の主人公は、精神レベル競争が糸を伝わって上っていく行為であるのなら、肯定されなくてはなりません。
最も、蹴落とす、ということは、精神レベルを上げる、という行為には含まれないと思いますが。
ただ、上下というのは、「蜘蛛の糸」を連想させます。


私は、精神レベル、意識レベルがアセンションに関わるのなら、これをもっと、多次立方体で捉えるべきなのではないかと感じます。
とは言っても、「ダブルメビウスの輪」が良く分からない私ではありますが(笑)。


上の要約で、大学ノートに神からの言葉を書き終えた後、源から「それがいちばん」と言われ、大学ノートを「スメラナル」としてまとめた後、源から直接聞い た話をまとめたものが、「ヘソのはなし」という本だそうです。
そこには、何度か取り上げた、次のようなことが書いてあります。

「ヘソの話」(風雲舎:2004年6月25日発行)
(189 ページより引用)
つまり質の向上というのは、振動を微細にして密にしていくことだから、外側が真素直(マスナオ)で真直(マチョク)、純粋で温和な自然体であ れば、自動的に内側も、さらに微細で密にきわまるわけだね。


(219ページより引用)
『自分ともうひとりの自分がひとつになるためのその点が現れること.....つまりさ「色即是空」と「空即是色」が同時に起こる点、「阿の呼吸」と「吽の 呼吸」が両方同時にある点、ブラックホールとホワイトホールが一緒にある点、破壊と創造が同時に起こる点。
そう........、ゼロ(0)点かな、「絶対の0(ゼロ)」 だね。
あっちとこっちの中点ではなくて、「絶対に0(ゼロ)」という0点だね。こ の0点が現れることで、大きな範囲の「反転」が起こって、全体が本当の現実になるわけだね。
「反転」すなわち「絶対の0」で生まれ変わっちゃうんだ。.............』




どうも、これらから感じることは、直線の上下によるレベル判定からは、「真実」が見えないように感 じます。
上下は上に行くほど良いものです。
しかし、いくら上へ行っても、0(ゼロ)にはなりません。


「色 即是空」と「空即是色」が同時に起こる点・・・」とあります。

goo辞書によれば、
色即是空とは、
〔仏〕〔般若心経〕この世にあるすべてのもの(色)は、因と縁によって存在しているだけで、 固有の本質をもっていない(空)という、仏教の基本的な教義。

で、

空即是色とは、
「般若(はんにや)心経」の語。宇宙の万物の真の姿は空であって、実体ではない。しかし、空とは、一方的にすべ てを否定する虚無ではなく、知覚しているこの世の現象の姿こそが空である、ということ。

です。
これだと良く分かりませんが、この辞書の文言と、私の知りえたことで言い直してみると、
色即是空とは、「原因の世界の投影が3次元の世のことである」(森田健さん式)
空即是色とは、「3次元の大元は空であり、それは、正に今ここにある3次元の有様(色)のことである」
ということでしょうか?

もっと簡単に言えば、「空とは色である」が色即是空、「色とは空である」が空即是色でしょうか?
とすれば、
「色 即是空」と「空即是色」が同時に起こる点・・・」とは、空も色も同じ、大元も実 体も同じ、ということでしょうか。


「「阿 の呼吸」と「吽の呼吸」」は、阿と言えば吽ですので、問いと回答が一緒の状態でしょうか。



森田健さんの本には、自分が小さくなり、体の中に入っていくと、高次元に通じ、体の外側から出てきた・・・・というくだりがあります。
これは、内側と外側が同じ、ということでしょうか?

政木和三さんが、真空にも物質がある・・・という話の中で、確か、高性能望遠鏡を作ると、覗いた先に見えているものは、自分の頭の後ろだったりするかもし れない、というようなことを書いていたように思います。


これらをして、ダブルメビウスの輪と言っているのかもしれません。
何せ立体音痴なもので・・・。

あるいは、螺旋の形をしている道があり、前に行っても後ろに行っても、高低の上限こそあれ、同じ緯度に行き着く、しかし、その高低さがなくなったとき、つ まり螺旋のがあたかも平面になった時・・・という状態に、本当の精神レベルというものがあるのかもしれませんね。

しかし、それでは、円周を回っているのと同じですね。

それでも、螺旋が円周になった時というのは、どんな状態でしょうか?
階段の形状にもよるとは思いますが、螺旋の真ん中にいれば、平面と言いますか、似たような状態かもしれません。


こう考えますと、立体ではなく、点なのでしょうか?
安直ですが?

点なら、内も外も一緒のような気がします。


もし0地点が円の中心の点であるとするなら、精神レベルなどは、直線ではなく、レコードのように段々と内側へ向かって針が動くような解釈が正しいのかもし れません。

そこでは、移動は円状で、もちろん、円周に近いほど良いのですが、但し、ある点というのは、ある方向から見れば、同じ緯度上のもっと円周よりも人と同じと ころにいるようにも、見えるわけです。

すると、エハンさん式の精神ンレベルだけ上げたのでは、ひょっとすると、アセンションには叶わないのかもしえません。
どういうことかと言えば、何かと何かのバランスが取れていないといけない、ということなのですが・・・

ここから先は、今のところ、不明です。
もちろんここまでも、仮説です。

森田健さんの不思議研究所の孫さんや、岡田多母さんではありませんが(なくもないが)、神と対等、天神合一というのは、この中心点、望遠鏡で覗いたら、頭 の後ろが見えた、というようなことと、関係があるのかもしれません。
みなさんは、どう思うでしょうか?




その2

   すばら しい明日に向かって http://www21.0038.net/~gaia-as1/era.cmt6.htm

あなた方 の前途には、いくつかの厳しい現実認識が出てくるでしょうが、空からの介入による偉大な奇跡もみられるでしょう。
それには、悪の役者たちが、自己啓示によって役割から降りることさえあり得ます。
彼らは、加害しては隠れるという秘密の役割が、もはや要求されないという新しい認識に達するのです。


厳しい現実認識」とは、上に出てきた「耐え難い真実」と表裏の関係にあります。

つまり、人類の歴史を通じて植え込まれてきた 虚構が、あまりにも深く私たちの現実認識に根を張っているので、それと異なる現実に直面することの抵抗の大きさを言っています。
しかし、《柔軟性》もまた、地球人類の大きい 特質です。
私たちは、急速にそうした現実に適応して、新たな共通認識を確立することができるでしょう。
その際、宇宙からのサポートもあります。



悪の役者たち」とは、前に出てきた「暴君の使用人」のことです。
彼らが、ここにあるように、自ら目覚めるのを 期待しようではありませんか。


(以上:引用)


厳しい現実認識」とは、上に出てきた「耐え難い真実」と表裏の関係にあります。
つまり、人類の歴史を通じて植え込まれてきた 虚構が、あまりにも深く私たちの現実認識に根を張っているので、それと異なる現実に直面することの抵抗の大きさを言っています。


新しい現実というのは、それ以前はうまく行っていた人にとっては、受け入れ難いものだと思います。
もちろん、いろいろな人がいますので、それ以前もうまく行っているにも拘らず、受け入れられてしまう、という人もいるようですが。


新しいものが受け入れられるというのは、良く世間では「頭が柔軟だ」という言い方をしますね。

これも、ある意味、非常にあいまいな表現で、たとえば官庁が改革を受け入れないのを指して、「柔軟性がない」とも言いますが、これは、既得権益を守りたい が、本当の理由かもしれません。

政府が強引に民間の土地を何かにしようとして、それに対して立ち退かない人がいると、それも、「柔軟性がない」というかもしれません。
本当の理由は、政府の強引なやり方に対して、憤りを感じていたり、何らかのポリシー、信念があったりするからなのかもしれません。
あるいは、先祖代々の土地を守りたい、ということもあるでしょう。これは信念の一種かもしれませんが。
そうでなければ、立ち退き条件が金銭面などで会わないというようなものもあるでしょう。
これは、官庁の場合と似ているのかもしれません。


官庁の場合の柔軟性がないは、損得の部分を除けば、「頭に柔軟性がない」でも、置き換えられるように感じますが、後者の方は、どうでしょうか?
確かに、異常に頭が柔軟であったなら従うかもしれませんが、根本的には「頭の柔軟性」とは、違うものが理由なように感じます。

基本的に過去のできごとが、受け入れられない原因でありますが、一種の信念ということで、くくれるかもしれません。
もちろん、中には心情的に理解できるものもケース・バイ・ケースであると思います。
と言いますか、心情的には、きっと、多くのものが理解しやすいものなのだろうな、と想像します。

きっと、本当は第三者がとやかく言う種類のことではないのでしょう。
当事者同士の問題なのだと感じます。
それでも、公的交通機関、身近なこと、などが関わってきますと、そうとばかりは言っていられないところもありますが。




さて・・・・・・
それを踏まえてですが、とにかく、今、何らかの価値観が大きく変わろうとしているのは事実のようです。
変わる、というよりは、新しい真実が暴露される、と言った方が正しいように感じます。
高次元的にも、3次元的にも。


新しい真実は、変な話、たくさんの人が、きっと、たくさん出しているでしょう、毎日のように。
中には、真実ではないものもあれば、中には真実もあると思います。

とは言え、「どうも、これは、間違っている」、「これはうさんくさい」、あるいは「これは本当かもしれない」、「良く分からないが、もう少し深く知ってみ てから結論をだそう」と、それぞれの
(多次元的)精神レベルや知識での主観、あるいは直感によって、人間はそれらを選別していくことになるのだと思います。
(私は、本当の意味で、人に客観はないと思っています。あるのは、その人の
(多次元的)精神レベルや知識での主観、ある いは直感によって判断された主観だけだと感じていま す)


輪廻転生一つとっても「、興味を示さない」人もいれば、「ありえない」という人もいれば、「ありそうだ」、「あるに違いない」、「ある」などなどと、
(多次元的)精神レベルや知識での主観、あるいは直感によって、事実とは別個に、人様々に頭の中で整理していま す。


ですので、一般論を作るのはむつかしいのですが、少なくとも、それを認めたことにより、主張している相手に、第一義的に大きな金銭的利益が及ぶことがない ようなことで、一生懸命主張しているものについては、是非、一度、耳を傾けてみると良いのではないかと考えます。
柔軟に、ということですが。


つまりここで言えば、
高次元的、あるいはもっと簡略して精神的なことで、何か大きな変化がありそうだ、ということが目に 留まったなら・・・そして、それを認めたとしても、主張している人の3次元的利益には、すぐには繫がらない種類のものであるのなら、どんな人でも、一度、まじめに、頭を使ってみても良いように感じます。

もちろん、それで、その人にとって「これは、間違っている」なら、実際、事実であっても、事実でなくとも、それで、良いのではないかと感じます。



牛丼がどうしても、食べたいので、しのごの言わずに輸入を再開すればいいんだ、という人も、一度、周辺の事情について、頭を使ってみても良いのではない か、ということと、似ているのかもしれません。

基本的には、当事者同士にまかせておけば良いことではありますが、高次元となりますと、ひょっとしあたら、多くの人に関わってくることなのかもしれませ ん。

みなさんはどう思うでしょうか?







悪の役者たち」とは、前に出てきた「暴君の使用人」のことです。 彼らが、ここにあるように、自ら目覚めるのを 期待しようではありませんか。
ですが・・・
もし、運命が決まっていて、特定の占いなどを知っている人以外には、それを左右することができないのならば、この発想は、考えても仕方のな いことだと思います。


しかし、波動の法則が正しいと考えれば、3次元的なのでしょうか、もっと上の次元からなのでしょうか、多くの人が事実に気づくことによって、これをなすこ とはできるように考えます。

あるいは、多くの人が、問いを発することによっても、その相互作用により、それはできるのかもしれませんね。



今の時期と、インターネットの成熟度、アセンション系の話や、高次元系の話の新たな流れの話、など は、実にうまく同期しているように感じられます。

これは、決まっていたプログラムかもしれませんが、波動、ネットワークというようなものにより起 こったとも想像できるように感じます。

あるいは、
インターネットの成熟度、アセンション系の話や、高次元系の話の新たな流れの話、などの中で、何か が何らかの方法で運命変更されて、その影響によって、新たな同期が始ったのかもしれません。



みなさんは、どう思うでしょうか?






   すばら しい明日に向かって http://www21.0038.net/~gaia-as1/era.cmt6.htm

大衆を混 乱させる目的で増え続ける企てに対する、直接的な抵抗として、宇宙から到来するエネルギーが「ゲームの競技場」のバランスをとります。

それは、人類の知覚力の水門を開き、内部の深いところ――あなた方自身の内在知としての霊的存在――に由来する新しい情報源に、もっと仔細に注意するよう に、計画的に鼓舞するのです。

一旦このたいへん強力な霊的存在が《ボトル》の外に出ると、あなた方は、新たに認知した超自然的で直感的な能力によって、個人の力をものにした新しいレベ ルに迅速に到達し、それによって、変容のための精神的原動力をうまく扱えるようになるでしょう。

人類が内に秘めている能力が、強化され束縛を解かれると、真実を隠すことは、あらゆるレベルでますます困難になるでしょう。

否定のベールが運び去られると、隠されていた膨大な情報が明るみに出て、かつては秘密だったものが、次々と鮮明になってくるでしょう。

内在知としての霊的存在」とは、非物質的存在で私たちの本質である、 《魂》または《意識》のことです。

それは、無限に近い時を経て存在してきた、知識と知恵の集合であるだけでなく、常時この宇宙のあらゆる存在や情報源にアクセスする能力も持っています。


リラックスして表面意識の雑念を消し、無心に なる時間を増やせば増やすほど、《魂》からの知らせをキャッチするチャンスが増えて、「変容のための精神的原動力をうまく扱えるようになる」はずです。

それが、「人類が内に秘めている能力が、強化され束縛を解かれ」て、「ボト ル》の外に出る」という意味です。
こうなると、「かつては秘密だったものが、次々と鮮明になってくる」というわけです。



(以上:引用)


さて・・・・・・
今テレビを見ていましたら、例の、4人でてきて、一人役者がまじっていて、どれが偽者でしょうか?という番組がやっていました。
今日は、東大生女子大生の巻きでした。


だれが、偽者かはどうでもいいのですが、
一人が「チンプンカン、・・・」という言葉を使ったら、ゲストが「それは、チンプンカンプンというの。もしかして、トンチンカンと間違った?」
と、言っていました(笑)。


「ああ、そう言えば、ひょっとしたら普段、チンプンカン、という言葉を使っているかもしれない」
と思いました。
みなさんは、使っていないでしょうか?






宇宙エネルギーにより、政木和三さんの言う生命体の力を飛躍的に使える量が増えるようです。
読んでくると、そういうことなのだろうな、ということは、多くの方が分るとは思いますが。

いくつかのDNAがONになる、ということなのかもしれません。
まるで、菜の花がキャベツになったように・・・でしょうか?
ちょっと違うかもしれませんが。


一旦この たいへん強力な霊的存在が《ボトル》の外に出ると、あなた方は、新たに認知した超自然的で直感的な能力によって、個人の力をものにした新しいレベ ルに迅速に到達し、それによって、変容のための精神的原動力をうまく扱えるようになるでしょう。

これは、興味深いです。
新しいレベルに達すると、直感的能力が上がるのか、それとも、直感的能力が上がると、新しいレベルに達するのか・・・。

どちらでも良いのかもしれません。
普通は、どちらかと言えば、前者の方かと感じます。

その意味で逆に言えば、新しいレベルに達することが先にできてしまえば、直感的能力も上がることでしょう。

しかし、ひょっとしたら、順番としては、後者が正しいのかもしれません。
そうであると、生まれながらにして霊能力がある人のありさまなどが理解しやすいかもしれません。


音楽で言えば、音の違い、フレーズの違い、乗りの違いなどが分る能力があるから、優秀なミュージシャンである、とも言えますし、
努力して、そこまでの能力をつけた結果として、優秀なミュージシャンになった、とも言えます。

しかし、天才と3次元で言われる人は、先に、そういう能力があって、優秀と言われるようになっています。


直感能力にしても、今上げた音楽にしても、直線で考えるから、努力して、そういうレベルに達したので・・・という考え方が生まれるのだと感じます。
時間を点で考えると、実はどっちが先とは言えない様に感じます。
その意味では、、森田健さんの言う「運命はデジタルで変わる」と言う言葉は分りやすいかと感じます。



1:幸せ感を感じるから、うまく行くのか?
2:うまく行くから幸せ感を感じるのか?
3:幸せ感と、うまく行っている感は、同時に訪れるのか?

を考えますと、
波動的には1のように思います。
2は、一般的な人(?)、少なくとも、以前の私などが思っていた感覚は、これです。
3は、いかにもデジタルを感じます。
六爻占術がこれかどうかは、なんとも言えません。

うまく行ってようが、どうであろうが・・・あるいは、いつでも、どんな状態でもうまく行っている:必要・必然・ベスト的な考え方であれば、いつでも、うま く行っている訳ですので、事実はどれに属するのだろうか?だなんて、余計なことは考える必要はないのだろうと感じます。

みなさんは、どう思うでしょうか?






人類が内に秘めている能力が、強化され束縛を解かれると、真実を隠すことは、あらゆるレベルでますます困難になるでしょう。
否定のベールが運び去られると、隠されていた膨大な情報が明るみに出て、かつては秘密だったものが、次々と鮮明になってくるでしょう。



ですが、それはそうでしょう。
あまりに私が細切れにしていますので、「否定のベール」が分らなくなっていますが、高次元的に見ても、3次元的に見ても、もはや隠し事はできないでしょ う。
なにせ、アーカシックレコードに接続されています。

それは、無限に近い時を経て存在してきた、知 識と知恵の集合であるだけでなく、常時この宇宙のあらゆる存在や情報源にアクセスする能力も持っています。
と、小松英星さんも言っています。







リラックスして表面意識の雑念を消し、無心に なる時間を増やせば増やすほど、《魂》からの知らせをキャッチするチャンスが増えて、「変容のための精神的原動力をうまく扱えるようになる」はずです。
それが、「人類が内に秘めている能力が、強化され束縛を解かれ」て、「ボト ル》の外に出る」という意味です。
こうなると、「かつては秘密だったものが、次々と鮮明になってくる」というわけです。


と書いています。

これなのですが・・・
森田健さんの現在言っていることによれば、「優れた超能力者でも、運命変更はできない」ということのようです。
岡田多母さんも、また、私の解釈によれば、「運命は決まっていて・・・、しかしながら、そこに行きつく方法は選べる」
というようなことを書いています。

そうとは言え、大勢の波動の連鎖、あるいは森田さん式のネットワーク、あるいは、他の何かが、運命を変える可能性はある、と考えています。




下記は、岡田多母さんの「多母の広場」の「天使と語る」にある、 多母さんのコメントの引用です。

いろいろと感心を向けて下さってありがとうございます。あな たのおっしゃるとおりです。愛や善の心があればそれに呼応する現象にこの世界は満ちて溢れます。
このことに人類全員が共感して共に生きて愛に活かし合う善を現象化できるように祈って生きています。「善き種を蒔けば善き実りを収穫できる」と信じていま す。
私は「1歳の子供がナイフで殺される」というような現象に苦しみや悲しみを感じていたたまれません。ですから、「二度と同じ現象を起こさない」決意と願い を同じ思いの人々と共有して生きてその和が拡がって「100匹目の猿現象」が起こったら不条理の現象は一切起こらなくなると信じます。今現象化している不 条理のすべては、人類全員の因果と思います。私は、正の因果 律に戻れるように因の法則のサイクルを善や愛の循環に反転させたい「変えられないものはない」と信じて愛して「変えていきたい」思いで毎日ささやかでも出 来るコトを生きています。

(以上:引用)

人類全員の因果と思います。」と書いています。
森田健さんの言う「全体の業」と同じ意味かどうかは、不明です。
私の勘では、両人がどう言うかは別として、近い内容ではないのだろうか?思っています。

私は、正の因果律に戻れるように因の法則のサイクルを善や愛の循環に反転させたい「変えられないものはない」と信じて 愛して「変えていきたい」思いで毎日ささやかでも出来るコトを生きています。
とも書いています。
同期します。
どうも、その状態(
正の因果律に戻れるように因の法則のサイクルを善や愛の循環に反転・・・)の方が、私にとって生きやすい と感じるからだろうと思います。
これをして、善行というのかどうかは分かりません。

一般的に言えば、善行であるし、良い子の考えだろうと思います。

いつかも書きましたが、政木和三さんは、「善行をしようと思って善行をしても、それは善行ではない・・・」と言っています。
「救われようと思って、善行をしようと思っても、別に救われない」あるいは、「善行をしよう、と思った時点で我欲が入る」ということなのだと思います。

これは、「やっていることを分析して、それが善行であろう、と思われることをやってはいけない」、ということではないと感じます。

「おいしいパンを焼きたい」が結果善行であろうとなかろうと、「おいしいパンを焼きたい人」は焼けば良いのだと感じます。
もちろん、「激辛ラーメンを作りたいという人」は作れば良いですし、それが善行か、悪行かは、俄かに分かりません。

もちろん、何をして、「おいしい」のかについては、いろいろあって良いのだと感じますが。

みなさんは、どう思うでしょうか?






もう一つ感じるのは、岡田多母さんのような種類の人にとって、「愛」であるとか、「善」であるような言葉は、ある側面で、私たちとは、違っている可能性も あるのかもしれません。

森田健さんは、「幸せは前提である・・・」というようなことを言っています。
この発想を理解するのに、私は相当時間がかかりました。
今でもどれほど分っているのか、何とも言えませんが。

その意味で発想していくと、岡田多母さんなどの人にとっての、「愛」、「善」は、配置されている位置が、標準的な人とは違う場所にある可能性もあります。
もちろん、岡田多母さんだけではないとは思いますが。

私は岡田多母さんほどではないですが、一般的な人と、「愛」、「善」がずれているな、と感じる時は往々にあります(笑)。
前提の位置がずれていて、人と話をしていて、うまくかみ合わない時があったります。
しばらく、そうであることに気が付きませんでしたが。




みなさんは、「幸せ」でも、「愛」でも、「善」でも、「辛い」でも、「おいしい」でも、その内容ではなく、配置が他の人と違っている、と感じた時はないで しょうか?




1〜20   21〜40   41〜60   61〜80   81〜100   101〜120   121〜140   141〜160   161〜180 181〜200      
201〜220   221〜240   241〜243

245〜250
251〜260
  261〜280   281〜300                        
クリスマスアルバムのコーナー                          





 

 

 

 

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