理由もなくこればかり聴いてしまうCDのコーナー

CDはたくさんあるのですが、なぜか、いつもこればかり聴いてしまうCDを紹介します。

 

 

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250:ジョージ・川口・ジャズ・ バトル    
  ジョージ・川口さんの、何十周年だかの記念ライブのCDです。

内外から、親交のあるミュージシャンを集めて行われたものです。

書くのが面倒なので、はしょりますが、すごいメンバーです。
豪華過ぎて、どこかまとまりのなさすら感じてしまいますが、ジョージさんくらいしか、こういうメンバーを集めることはできませんでしたので、良いのではな いかと思います。

ライブはテレビでも放映されたそうです。
インターネット・オークションでは、その録画がDVDになって売られていたりしたのを見たことがあります(笑)。

下には日本人メンバーの写真を掲載しています。

何か、日本人メンバーだけの方が、私好みではあります。
しかし、ジョージさんのように、戦争で飛行機に乗ったような人には、私にはない、独特な感覚が外国人、特にアメリカ人に対してはあるのかもしれません。
     
それは、何も、悪い感情ということではなく、いろいろでしょう。

ジョージさんを見ていると、いろいろ思いますが・・・
とにかくドラムの腕前は、戦後すぐから、日本1だったようです。
私の知っている限りでも、なくなるまで、「日本1」と言っても、反論する人は少ないでしょう。
そして、戦後すぐから、1960年前くらいまでに、すでに大金を手に入れました。

私がもし、そうだったら、果たして死ぬまで、「日本1のドラマー」でいられただろうか?

それは興味のあるところです。
おそらくは、途中で現役半分引退して、違うことをはじめてしまうのではないか、と想像します。
これは、ポール・マッカートニーのところでも書いたことではありますが。

「ドラマー」で考えるから、非現実的ですが、ピアノだったろうでしょうか?
「ナンバー1」の腕前で、大金と人気を手に入れ、それでいながら、「ナンバー1」の腕前を死ぬまで維持し続けていく・・・

もちろん、運命でそうなっていたからと言えばそれまでですが、3次元的には、おそらくは、「好き」がそうさせていたのではないでしょうか。

「好き」に中には、「あくなき追求」、「貪欲なまでの探究心」といった言葉がツキモノですが、ジョージさんなどは、まさに、そうだったのだろうと思いま す。

実際、「好き」なら、みんな、ジョージさんのようになれるのか?と言われれば、そうではありません。
やはり、運命が関係しているのでしょう。

3次元的には、「好き」であり、5次元的には、「音楽に関係した守護霊」が付き・・・
そして、高次元全体としては、「運命」である。

実際、「好き」なら、みんな、ジョージさんのようになれるのか?と言われれば、そうではあり ません
これが、長年のなぞだったのは確かです。

しかし、運命以外で、何らかの運命変更が起きた可能性もあるのだろうと思っています。
「問い」でしょうか?
他の何かでしょうか?




となりは、左が日野皓正さん、右が松本英彦さんです。
どちらも、世界的に通用する日本人ジャズプレーヤーですね。

日野皓正さんは、傍目に見ると苦労の人のようです。
もっともで出だしの話ですが。

父親も芸能関係の人で、幼少から弟の元彦さんとタップダンスの勉強をし、その後トランペットのプロに弟子入りし就業し、スターダスターズなどにも所属して いたようです。

独立後は、深夜放送の番組を持ち、若いファンなども あり、若手時代から、実力派でならし、80年代にはニューヨークに渡り、ジャズ雑誌か何かで、ニューヨークのある年のナンバーワン・トランペッターにも選 ばれたりしました。

今は、世界中を飛び回り活動していますね。

若い時は相当生意気で、白木秀雄クインテットでは、 「私のやっているのは芸術なので、お客さんに頭など下げません」というようなことを言って、バンマスの白木さんを相当困らせていたようです。
テレビで当人は、昔話として、「反省しています」と語っていました。

弟の元彦さんも、第二世代のナンバー1・ドラマーと して活躍していましたが、若くしてなくなってしまいましたね。
そう言えば、バンマスの白木さんは、ジョージ川口さんと、1,2を争う実力・人気のドラマーだったようですが、知っての通り(?)、早くなくなっていま す。

ジミー竹内さんなどは、まだ現役ですし、ジョージさ んも、長生きしましたが、ドラムは一見、体を駆使しますので、健康に良くないようにも感じますが、ひょっとしたら一番体には良い楽器かもしれません。
足から何から満遍なく使います。
その意味ではピアノは座りっぱなしですので、健康にはどうでしょうか?
吹奏楽器は、肺活量が増えて良いですね。
いつでも、複式呼吸です。
拭いていてシータ派にならないでしょうか(笑)?


松本英彦さんは、医療ミスで、治るものも治らなくな り、なくなってしまいました。
日本一のテナーでしたので、残念ですが、当人は、きっと気にしていないようにも思います。
なにせ奥さんが、相当献身的に看護をしてくれたようです。

森田健さんの不思議の科学を読むと、どうも、なく なった音楽関係者が集まって、あの世で何かやっている可能性が高いですので(笑)、松本さん、ジョージさん、世良さん、鈴木章治さん・・・などなど、さぞ かし楽しいセッションが可能かもしれません。
良く分かりませんが。

基本的にジャズミュージシャンは明るいですので、4 次元に行くことはないでしょう。
5次元にいるはずです。



後年の松本英彦さんは髭ともみ上げを伸ばしていましたが、写真を見ると、若い時よりもかっこ良いように感じます。
ジョージさんも日野皓正さんも、若い時は髭は生やしていませんね。
ここら辺は人相と何か関係があるのかもしれませんね。






なんでも、アメリカでは、「メリークリスマス」か、 宗教色を薄めた「ハッピー・ホリディ」かで、論争が起きているそうです。
ツリーの呼び方やクリスマスカードの文言まで及んでいるようです。


ブッシュ大統領再選の言動力になったキリスト教右派が開始した「非クリスマス化反対キャンペーンが元にあるそうです。
他宗教の信仰者には反発も強いそうです。


普通に考えると・・・
他宗教からは、いろいろあるでしょうし、キリスト教右派というのは、キリスト教的なものを維持したいと当然思うでしょう。
意図はいろいろあるでしょうが。


昔から宗教・・・特にキリスト教は、侵略した土地を自分の”臭い”を付ける道具として使われてきたように感じますが、 日本に今、クリスマスなどのキリス ト教的行事が根付いているのは、アメリカのその政策のせいでしょうか?

しかし、 日本人はすごいですね。
今の日本を見て、アメリカは、日本を「アメリカ色」に塗り替えたと感じているでしょうか?
それは知りませんが、クリスマスは祝っても、キリストの誕生日を祝っている人は、ほとんどいないでしょう。
ましてキリスト教に改宗した人というのも、ほとんどいないでしょう。

要するに、無宗教というべきか、心に根付いた仏教徒 というべきか、それとも、創造主を信じているのか・・・
良く分かりませんが、こだわりがありません。

もし、クリスマスがアメリカの戦略だったとしたら、 日本人は、クリスマス、という楽しい行事のみ、自分たちのものとして、キリスト教そのものは、受け入れなかった、ということになりますね・・・


但し、いろいろ読んでみますと、キリスト自身は間違ったことは言っていなかった可能性が高いですね。
その後の各宗派が、いろいろと自分や、当時の政治に都合の良い解釈を加えていくうちに、どうも高次元の事実とは異なった中身になってしまったものがあるよ うです。
よく分かりませんが。


政木和三さんによれば、「すでの宗教の根源はみな同じ。宗教の違いにより、争いごとが起きるなど、間違っている。それぞれの地域などの事情により、それに あわせた内容で伝えようとはしているが、元々言っていることはみな同じである」
ということですが、これもいろいろ読むと、確かにそのようですね。

要するに、高次元のそれなりの存在が創造主の意思と いうか、高次元の事実を伝えるために、人間として生まれ、そうしたわけですので、違っては困ります。


その意味では、どんな宗教に関する行事だろうが、どんな宗教施設だろうが、それが、まともなものであるのなら、どんどんやってしまってよいのかもしれま せん。


私は以前の仕事で、ある仏教系の比較的新しい宗教団体がお客さんだったので、その本部のようなところへ行ったことがあります。
そこは、その施設に入るのに、何か白い羽織のようなものを着なくてはならないということで、しかたがなく出されたものを着ましたが・・・嫌でした(笑)。

その宗教では、それなりの意味があるのでしょうが、 少なくとも、どこの神社でも、昔からある寺でも、境内に入るのに、何かを着せられたりした覚えはありません。
私は皆さんと同じように創造主の分身ですので、そんな穢れてはいません・・・(笑)。


何が嫌なのかと言うと、「あなたにも主義があるでしょうが、私にも主義があります。あなたの主義を聞いたら、私の主義も聞いてくれるのでしょうか?私はお 客だ、とは言わないでください。主義とサービスは別物です。」
というようなことですが。

ちなみに、その団体はまじめな団体です。
本当は拒否しようと思いましたが、それで、会社の売り上げを減らすわけにもいきませんでしたので、従ったのですが。

そこでは、信者さん用のビデオの編集システム一式が 必要だったようです。


それで、今だったらどうかと言えば・・・
きっと、こだわらず着るかもしれません。

それを着ようが着まいが、高次元的には、大きな影響 はないでしょうし、ひょっとしたら、その関係者と高次元の議論くらいできるかもしれません(笑)。


宗教のあり方として、教祖に従う、という形が多いで すね・・・。
神道は違うようですが。
しかし、本当は宗教という枠を外して、創造主が何を考えているのかを知る、というのが、正しいように感じています。
あるいは、高次元の本当の仕組みを知る、というのが、正しいのかもしれません。
創造主に従う、というのではないのでしょう。

もちろん、だれも、正しく高次元の仕組みなど知りは しなかったようですので、それはそれで、その時点で分かっていることだけで良いのでしょうが・・・。

その一つの手段が、宗教である、と言えば、そうとも 言えるかもしれません。
但し、どうも思うに、神と人間が対等である、ということを言ってくれるものでないと、宗教であれ、なんであれ、信じようという気が起きません。


とにかく・・・
クリスマスは、クリスマスでいいです、私には。
無宗教者として・・・創造主を信じる者として、キリストの誕生日を祝い、みんなで騒ぎます(笑)。

みなさんは、どう思うでしょうか?







左が原信夫さん、右が市川秀男さんです。
市川さんは、昔から思いますが、根津
甚八 さんに、似ていますね。

確か国立音大だったか、付属高校だったかの出身だったように覚えていますが、詳しくは忘れてしまいました。

以前は超テクニック派のように聴いていましたが、最近は、そうでもなく・・・つまり、速弾きとか、あまりしなくなっているようです。
音には年齢が出ますね。


衰えたということではなく、過激、激しい、というも のには興味がなくなっていく、ということなのでしょうか。
3次元的には、それが良い場合も悪い場合もありますが。

原さんについては、何度も書いていますので、ここでは割愛します。



左が、水橋孝さん、右が中村誠一さんです。
中村さんも国立音大だったでしょうか?
良く分かりませんが。
天地真理さんは、国立音大でしたね。

水橋さんは、ジョージ川口&ビッグフォーのメンバーだったこともありますが、ソロ名義の作品は聴いたことがありません。

中村さんもソロ名義の作品は聴いたことはありませんが、山下洋輔さんのトリオにいたので、山下さんの本でいろいろ読んでいますので親しみがあります (笑)。

中村さんの書いた本もありますが、それも読みまし た。
確か、タモリさんの「笑っていいとも!」というのは、中村さんの「いいとも」という口癖がタイトルの元になっていたはずです。

要するに、中村さんは以前はフリージャズの人だたっ たのですが、現在はスタンダードな奏法になっていますね。
基本的にフリーの人は、スタンダードな弾き方も相当上手です・・・知っている限りでは。

山下さんも、武田和命さんも、みなさん、私好みのス タンダードな弾き方ができる人です。
その意味では・・・
私が好き、ということは、相当スタンダードな演奏ということですので、表裏一体なのかもしれませんね。
あたりまえの演奏と、フリーな演奏というものが。
良く分かりませんが。

どうも、その意味では中途半端にモダンな演奏が嫌い なのかもしれません。
またまた高橋信次さんの中道とはずれそうな私の一面なのかもしれませんが。

ただ、モダンが中道であるとも限りませんので、なん とも言えません。

むしろ、スタンダードな演奏、スイング系の演奏とい うのが中道にお可能性もあるかもしれません。

理論化するなら・・・
モダンな演奏というのは、資本主義というか近代的なありかた・・・つまり、ある大きな理屈のもとにストイックに行動する・・・

それに対して、スタンダードなものは、それより昔の 穏やかな世の中、
フリーというのは、その人から出てくる音をそのまま形にしているわけですので、本当に自由奔放、そしてその中で自然な秩序が形作られていく形式・・・これ は何でしょうか?
良く分かりませんが。
原始時代でしょうか(笑)?


もしこの理屈が正しいとすれば、私は、近代よりは原始時代が好きだが、一番好きなのは、現在より少し前あたりの世の中だ、ということかもしれませんね。

しかし、それはそれで、身分制度などもあり、きっと いろいろあるでしょう。

きっと、明治、大正くらいのことを指しているのかも しれません。

全部想像ですが。




さて・・・・・・
今、森田健さんの不思議研究所のサイトで、0・5秒の話が出ています。
無意識が知覚してから意識が知覚するまでに、0・5秒かかる・・・ということなのですが。
詳しくは、不思議研究所をご欄ください。


どうも、私はこのわずかな差ということに昔から、いろいろ思います。

例えば、字を読むとき・・・
字が目に入ってから、知覚し、読み始めるまでに、どういう時間の差が生じているのか?
意識が知覚してから読み始めても、うまく読めません。
どうも、意識の前に、知覚しているとしか思えません。

また、演奏・・・
クラシックなどで、だ大編成のオーケストラの場合、一番端と逆の端の人では、距離が相当あります。
また大ホールならば、音の到達する時間に差が生じます。

一体何を以って、正しいリズム、時間、としているの か・・・

などなどですが。

どちらにしても、顕在意識でない、 何かが働いてい る、としない限りは、説明できないことであるように感じます。
私はこれらを、メンタル体の働きに何かがあるのではないか?と思っています。
但し、脳の無意識と意識の近くの時差も、何かありそうに感じます。


みなさんは、どう思うでしょうか?



料理をする時に、ベテランは塩を一つまみ指先で、瞬 時につまみ、鍋に入れます。
料理教室では、料理の初心者を相手に、「小さじ何杯」、「何グラム・・・」と説明します。

もともとの能力なのか、鍛えればできるのか・・・
きっと鍛えればできるのでしょう。
但し、鍛える場所が問題なのでしょう。

脳ではないはずです。
きっと生命体とのパイプの太さ、スムーズ度、ということでしょうか?

昔は良くこれをして、「動物的勘」と言っていたよう に思います。
どうも私は、最近これは間違っているのではないうかと思っています。

動物的ではなく、超人間的勘、というべきなのでしょ う。


みなさんは、どう思うでしょうか?



さて・・・・・・
今日、徳の高いお坊さんが出演していた番組を見ていました。
慈悲の心が大切である、というお話だったと思います。

アナウンサーが、
「ある日、友人と電車に乗っていたら、老い年寄りが乗ってきまして・・・友人は大きな声で、だれか、この方に席を譲ってあげる方はいませんか?、と大きな 声を出しまして。
そうしたら、中年の男性が席を立って、どうぞと・・・」

というような話をしました。
徳の高いお坊さんは、
「そういう言葉も、また慈悲というものです」
とい話していました。

ここまでは、普通の話ですが・・・

その後、アナウンサーだったか、お坊さんだったか が、
「みんな人の目気にして、なかなか譲れない、ということはありますね。人の目なんか気にしないで・・・」
というような話をしました。

「ああ・・・」
と思いました。

「人の目を気にする」
ということですが、

これは、多かれ少なかれ人はやりますね。

自分のやっていること、やろうとしていることが、正 しいかどうか分らない時にもそうしますし・・・
正しくとも、あるいは、その人の自由なことでも、そうしたら、人が変な風に思わないだろうか?と心配すうような時にも、そうします。

ですので、「人の目を気にしないで・・・」
と言う言葉は、なかなかむつかしい言葉ですね。

もちろん全てが決まっている、あるいは自分の意志で はにということから発想すれば、どうでもよいことですが、3次元的に考えると、きちんと説明しませんと、意味を間違える人が出てきそうな言葉だと感じま す。
もっとも、普通、こんなことは気にしないでしょうが。

「人が変な風に思わないだろうか?」なんてことは、 基本的にはどうでもよいことですので、要するに、「何が正しいことなのか?」がはっきりしていさえすれば、「人の目を気にしない」ということは、むつかし いことでもなんでもないことなのでしょう。

ここで言っている正しいこととは、善ではなく、「常 識」、「しきたり」、といったものです。

私は平均よりは数多く電車の椅子を譲るようなことは します。
これは、どうも悪いことではないようですので、「しきたり」も「常識」もどうでも構わず、人の目を気にする必要がありません。

しかし、むしろ道を歩く方が苦手です(笑)。
前から人が歩いてきた時、どういう目をしたらよいか分らない時があったりします。

これは、きっと、相手の「しきたり」に合わせようと するからでしょう。
違う言い方をすれば、私のしきたりが他の人と異なっているのかもしれません。
人に危害さえ加えなければ、どんな歩き方をしようが、どんな目つきをしようが自由なはずなのですが。

本当はこちらも、「人の目」なんかは、気にせず、自 由に歩けば、良いことなのでしょう。




さて・・・・・・
今日、美空ひばりさんの特集がテレビでやっていました。

最後の方で、壮年の音楽関係者が、「川の流れのよう に」について、「自然に身を任せる、という心境になったのでしょう。これは昭和という時代の悲鳴のようなもの・・・」
というような発言をしていました。

これは、ちょっと間違っていまするように思います。
きっと美空さんは、何かが分ったのでしょう。

想像するに・・・
強引に人生の舵をとっても結局とれはしない。
はじめから決まっていた何かに導かれるようにして、人生を歩んだような気がする。
そして、そうすれば、自然に最善の場所へ時空は導いてくれるものだ・・・
というようなものではないでしょうか?

但し、その壮年の音楽関係者の言葉も、あながち間 違ってはいないようにも思います。
昭和の悲鳴・・・ですが、結局、上へ上へと、目標を持って目指していくことに疲れる、意義を感じられなくなる、ということを語っているのだと感じますが、 その心境が更に深くなっていけば、場合によっては、私の想像したものと似たようなことを考える可能性もあるように感じます。

実際、私がそうだったようにも、思います。
上へ上へを目指して、8割方うまく行った人というのは、壮年の音楽関係者のような発想すら生まれないのかもしれません。

但し、その考え方が生まれても、「本当はどうなん だ?」というような気持ちがないと、私が想像した美空さんの心境のようなものへは行かないのかもしれません。
もっとも、全て私の想像ですので、実際は、美空さんがどう思っていたのか分かりませんし、本当に悲鳴の後、「ハンドルを手放す」的な心境になるものかも分 かりません。
私がそうだった、というだけの話です。

みなさんは、どう思うでしょうか?


ジョージさんは、本名を川口譲二といいます。
ハイカラな名前だったのですね。
運命が決まっている、と言う観点で考えると、実にうまい名前が付いたものだと感じます。
1927年6月15日生まれで、2003年の11月1日になくなっています。
昭和2年生まれということでしょうか?





そう言えば、思い出しましたが、中学生の時に、日比谷野外音楽堂でのジャズフェスティバルで、私は一番前に座っていましたが、その列の左の端に出演してい たジョージ川口さんが、座って、他人の演奏を聞いていたのを見たような記憶があります。
但し・・・あまり定かではありません。
ずいぶん、昔ですので。

むしろ、阿川泰子さんが舞台へ上がる階段を登ってい る時に、スリットからはみ出た足を近くで見たことのほうが、鮮やかに目に焼きついています(笑)。





さて・・・・・・
今、昆布茶を飲んでいます。
確か生まれて初めてのはずです(笑)。
どうして、そうなったかと言いますと・・・
確か4,5歳の時だったかと思います。
母方の祖母がこちらに来ており、妹と私は先に布団に入っていましたが、祖母が寝顔を見に来ました。
まだ起きていたわけですが、何かの話で、昆布茶の話になりました。
私は飲んだことがありませんでしたが、確か祖母が「飲んでおいで」と言いましたので、母親のところへ行き、「昆布茶が飲みたい」と言いましたところ、何か ひどく怒られたように記憶しています(笑)。
どうも、それ以来、昆布茶とは縁がなかったわけですが、今飲んでいます。

それほどこだわりが無いところを見ると、以前にも、飲んだことがあるのかもしれません。
よく覚えていません。

とろろ昆布のお吸い物みたいですね。
塩気が足りないので、100円ショップで買ってきた中国製のあら塩(海の水100%)を加えてみます・・・・・・

・・・・・・これくらいの方が私には良いようです(笑)。



私は基本的に塩味が強い方がなんでも好きです。
どうやら政木和三さんや船井幸雄さんなどの話によると、海の水から作った塩や岩塩は、多く取りましても高血圧にはならないようです。
マッカーサーが日本人の体力を奪うために、日本に化学合成の塩を広めたようです。

牛肉は半年以上食べていませんが、ステーキなどでも、たれがかかっているものは大嫌いです(笑)。
なんでも塩です。

これも、決められた運命によるものであるなら、化学合成塩ばかりであった時代というのは、正に私おの健康には良くはない時代であったということかもしれま せん(笑)。
塩が薄いほうが好き、と言う方には、それは、ほとんど関係のないことですね。


同様に、ほとんど牛肉を食べなくなった私には、アメリカ産の牛肉が入ってこようが来まいが、運にはほとんど関係しません。

飛躍した話ではありますが、このように運命というのは、いろいろな流れが巧妙に絡み合っているのでしょうね。



みなさんの周りにはそういうことはないでしょうか?



 


251:THE BIG FOUR
   
    ジョージ川口さんが、続きます。

1976年の録音です。
ジョージさんが49歳の時のものですね。
段々、私の年齢と近づいてきました(笑)。

曲目です。

1.インヴェーダー7
2.ブルース・フォー・ビッグ・トーク・ジョージ
3.月曜日のサンバ
4.アルバトロス
5.スリーピィズ・ファンク
6.ラヴ・フォー・セール

ベースの音がやや迫力不足の録音のように感じます が、よいプレーが記録されています。
ジョージさんは、ジャケットを見る限り、あのチョビ髭はまだ生やしていないようです。


バンダイ・ミュージック・エンターテイメントというところから出ていたようですが、あの「バンダイ」の関連会社なのでしょうね。



 
バブル期には、いくつかの音楽に関係のない大手企業 が音楽業界に進出したようです。
きっと社内ベンチャーなのか、なんなのか・・・

想像するに、本当は音楽業界に行きたかった社員が、バブル期に乗じて、新しい企画と称して、提案でもしてみたのかもしれません。
分かりませんが。
NECアベニューという会社もありました。
他にもいろいろあるのでしょうか。


ジョージ川口さんの年齢と近づいた・・・と書きましたが、例の鶴田浩二さんの「男たちの旅路」で、20代の水谷豊だったかが、夜の繁華街を歩いていると、 向こうから特攻隊経験のある40代後半から50代くらいのサラリーマンが酔っ払って歩いてきて喧嘩になる、というシーンがありました。

要するに、あの特攻隊経験のある40代後半のサラリーマンの年齢近づいてきた、ということでもありますね。
ジョージさんの年齢と重ね合わせますと、ちょうど合致します。

それは、つまり、あの頃の鶴田浩二さんと同じくらいの年齢でもある、ということですね。
鶴田さんの特攻隊に関しては、いろいろと言われてはいますが、年齢的には、そういう年齢です。


思い出したので、どんどん書いていきますが・・・
池部良さんは、当然戦争に行っています。
180センチを超え、あの風貌ですので、ある程度、指揮をする立場の人間であったようです。
(こういうところにも運命は出ているのだな、と感じます)
ずっと前に、「徹子の部屋」に出た時に次のようなことを言っていました。

なんでも、戦争中、潜水艦だったか、船だったかの中で、攻撃を受け、沈没しかかっていた時のことです。

「部下の兵隊と2人になりまして・・・水は腰のあたりまで来ていました。
その兵隊は、私が差した軍刀を水に浸からないように大事にしていますので、”そんなもなの、どうでもい良いから、早く逃げるんだ”、と言いましてね・・・
そうしたらその兵隊は、”しかし、大切な軍刀が水に浸かってしまいます”、って言うんですね。
私は、馬鹿、お前の命とその刀とどちらが大切だと思っているんだ、と言いまして・・・」

その話を聞いて、私はすっかり池部良さんが好きになってしまいました(笑)。

「ああ、やっぱりそういう人もいるんだな」
と、ひどく嬉しかったのを覚えています。






しかし、水谷豊さんが、もう50代ですね・・・。

「男たちの旅路」で好き・・・と言いますか、心に残る巻きがあります。
桃井かおりが死んでしまい(ドラマの話(、恋にやぶれて鶴田は、一人北国(北海道だったか?)に傷心の放浪の旅に出ます。
しばらく音信普通でしたが、消印のみ記した葉書が水谷豊に届きます。
それを見た部長役の池部良が、「あの男がそういう手紙を送ってくるってことは、探しにきてくれってことさ。あいつはそういうヤツだ」として、水谷豊に探さ せに行きます。

やっと思いで鶴田の居場所を見つけだしましたが、鶴田は、食堂だか、居酒屋だかで、皿洗いのアルバイトをしていました。
柔道技で人を投げたり、ライフルを突きつけられても、「私にはプライドがある」と言って、犯人の要求を飲まなかったあの姿はありません。

水谷豊が、「帰りましょう」といくら言っても、帰ろうとしません。

結局、必死の説得で連れてかえることになるのですが、水谷豊が、「もっと素直に、はじめから一緒に帰ってくれればいいじゃないですか」と言うと、「私は恥 というものを知っている。そう簡単に帰れるか・・・」というようなことを言います。
確か、帰りの電車の駅でのシーンだったかと思います。


何が心に残ったのでしょう?

「恥」でしょうか?
「プライド」でしょうか?
水谷の「必死さ」でしょうか?

それとも、二枚目で仕事もでき、説教もして、ちょっとひねくれてて・・・その癖、50代まで独身でいる男が、20代の女性と恋に落ちて・・・そうしたら、 その女性が死んでしまって・・・
そして、立ち直れなくなり、それでも、だれかが迎えに来てくれて・・・
そういうストーリーでしょうか?



鶴田は、水谷が必死で「戻ってきてください」をすることを、自分のプライドを捨て去る理由にするために、探しに来てもらったのでしょうか?
そんな気もします。

あんな強い人(もちろん役柄)でも、一人では立ち直れない、ということが言いたかったのでしょうか?
良く分かりません。
ただ、ひどく、心に残っています。

実際の鶴田浩二は、必ずしもここで描かれているような人と同じではありません。
岸恵子さんと駆落ちのようなことをして、松竹を辞め、当時ご法度であった独立プロを作り、それでも岸さんとは結婚できず、東映に入り・・・
というようなことですので、失恋くらいでダメにはならないようです(笑)。

でも、実らぬ恋の痛手は知っていたでしょうね。


そう言えば、鶴田浩二さんと岸恵子さんの「ハワイの夜」はまだ見ていません。
その内見るかもしれませんし、見ないかもしれませんし・・・。


みなさんは、心に残ったドラマというのは、あるでしょうか?
私は、あるのですが、なぜか、そのドラマと同じような運命を辿っているなぁ・・・と感じる時があります。
想念でしょうか?
問いでしょうか?
運命でしょうか?
予言でしょうか?
偶然でしょうか?

問いを発した覚えはないのですが・・・発したのかもしれません。

みなさんは、どう思うでしょうか?











さて・・・・・・
最近、またオーディオを買ったりしています。
この4年間くらい、まったくそういうことはなかったのですが。
(DVDプレーヤーは買いましたが、私にとって、ビジュアルはオーディオではありません)

4年前に、良いスピーカーを買いまして、3年前に、良いアンプを買いましたので、そこで、私のオーディオは完成しました。
そこで、また昔の癖の「卒業する」が起こったようで、意図的にオーディオから興味がなくなりました。
今思うと、どうも、その頃から、自分らしくない、が起こった様にも感じます。
別に高次元的なことを言うとしているのではなく、「卒業という名の下に、自分の好奇心をしずめていたんだな」と感じています。

この卒業は何かと言えば・・・
一つは、趣味にお金がかかりますので、何とかしてそれを終わらそうとする、
二つ目には、成長を意図的になそうとする、

ということのようです。

これは、どちらもいけませんね。



無用の贅沢は問題あると感じます。
しかし、自分が興味、好奇心を持つものに対しては、どんどん時間と、労力と、お金をかけて良いようです。

それを贅沢とも言わないし、無駄使いとも言わないようです。

精神的な病気にかかり、ブランドものなどを買いあさる女性が、ときどきテレビに出てきますが、あれは、ちょっと違うのでしょう。
買ったきり、箱も開けないで、ほっぱらかしてあるようです。
「買うときに、店員さんが優しくしてくるのが嬉しいので・・・」
というようなことを言っているのを聴いたように思います。

それは別としても、買って箱も開けないのは、きっと贅沢でしょう。


買って、それをとことん使ってやる、取り組んでやる、調べてやる、大事にしてやる、一緒にいてやる・・・こういうのは、良いようです。
そして、好奇心をつきつめて行くと、どうも何かが見えるようです。


今回まずスピーカーを買いました。
そうしたら、なんと、アンプの故障が見つかりました(不思議)。
どういうことでしょう?(笑)。
もう10年は新しいものは必要ないだろう、と思っていたのですが。
一つ動かしたら、全部動いてきました。

どうやら、また私のオーディオへの放浪の旅が始ったようです。

欲しいものを買う、というのとはちょっと違うようです。
興味のあるものを買う、手を出す、ということのようです。

オーディオで言えば、
「これは、どんな音がするんだろう?」
「これとこれを組み合わせたら、どうなるんだろう?」

というような感じですが。




どうも、興味がすごくあることは、卒業できない、してはいけないようです。
みなさんは、どう思うでしょうか?





さて・・・・・・
私の「うまく映像がでない」ですが、
新しい想像ですが・・・。

心臓は、意識とは別に、勝手に動いている、まかせておけば、ちゃんとうまくやってくれる、ものです。
頭に映像を出す機能もそれと同じかもしれません。

それは、メンタル体かもしれませんし、他の場所かもしれません。
とりあえず、第一生命体にまかせる、というのを実験中です(笑)。
さて、どうなるでしょうか?

小学生の頃、漫画で、自分の器官を全て意志で動かす超能力者が主人公のものがありました。
運動などですごい記録を出すのですが、心臓まで自分の意志で動かそうとします。
激しく走った後、心臓を意志で休めます。
そして死んでしまう、という落ちなのですが。

3次元的に、その漫画のせいとは言いませんが、どうも私は、体のすべてを自分の意志で動かそうとしていたのかもしれません。
あるいは、自分の意志が最終まですべてに関わっている、と思い、発想していたのかもしれません。

新しい発想はどういう結果を生むでしょうか?


しかし、それにしても、自律神経系で動いているものというのは、高次元的に考えると面白いですね。
緊張すると汗が出る、暑いと汗が出る、というのは、自律神経のようですが、緊張する、暑いという事象が決められた運命によるできごとであるとしたなら、自 律神経というのは、その決められた運命によって動かされた体により、どう動くかを決められている、という運命下にあるようですね。

自律神経失調症というのがあります。
このような自律神経がきちんと動作しないことのようですが、これは、どこか決められた運命通りに動けない病、との言えるのかもしれませんね。
もちろん、その状態すら決められた運命であるのかもしれませんが。

ただ、もしそうではなく、決められた運命をきちんと歩んでいれば、うまく機能するはずのものが、そうでない状態になったために、動かなくなった、と考える と、どこか、運命の理論のようなものを感じてしまいます。

さながら
「舵の方向が間違っていますよ」
というメッセージのようですが。

よく自律神経失調症の原因として、
「働きすぎです」
のように言われることがあるようですが、
「強引にハンドルを切っています」
と言われるようになると、面白いですね。

あるいは、
「好奇心のあることをやっていませんよ」
でも、良いのかもしれませんが。

これが正しいとすれば、
「好奇心のあることを、追い求めている限りは、”働き過ぎ”という言葉は存在しません」
ということになるかもしれません。


みなさんは、どう思うでしょうか?




いろいろ考えますが・・・
先にも書きましたが、「好奇心」と「欲」は、どこか違うもののように感じます。

もっと言えば、「好奇心がある」、
「好き」、「欲」、のい3つも違うように感じます。

どういうことかといいますと・・・

なんでも良いのですが、スピーカーで例えますと・・・


私の場合、「好奇心のあるスピーカー」というのがあります。
「これは、一体どんなどんな音がするのだろうか?」
「これでピアノの音を聴いたら、どんな感じなんだろうか?」
同様、
「これで、ピアノの音を聴いたら、どんな感動が得られるのだろうか?」
「これと、このCDプレーヤーの組み合わせからは、どんな音がするのだろうか?」
「このスピーカーは、どんなセッティングでよい音になるのだろうか?」
などなどのように感じるスピーカーが「好奇心のあるスピーカー」のように感じます。


「好きなスピーカー」というのもあります。
これは、予め、ある程度”以上”、音が分っている、推測が付いているものです。
「ああ、あのスピーカーの音が聴きたいな」
「あのスピーカーでピアノが聴きたいな」
というような感じです。


「欲」・・・ここで言えば「所有欲の対象となるスピーカー」というのもあります。
「歴史的名機と呼ばれるようなスピーカー、
「評論家、世間から絶大な評価を得ているスピーカー」、
「価格がものすごく高価なスピーカー」
「あのメーカーとこのメーカーは持っているから、あそこのメーカーも欲しいな」
というようなスピーカーです。


これら3つは、こうやって見てみると、やはり別ものですね。
ただ、これら3つが複合されている場合もあります。

1:「好奇心」があり、「好き」、
2:「好奇心があり」、「欲もある」、
3:「好き」で、「欲もある」、
というようなことです。

しかし、ちょっと考えてみましたが、これは机上の理論で、深く考えて見ますと、1は実在しますが、2と3はしないように感じます。


1は、「このスピーカーは好きな音がするのだけれど、こういうスピーカー台にう置いたら、一体どんな音がするのだろうか?」
となりますが、
2は「この馬鹿でかいスピーカーは、評価が高いけれど、一体どんな音がするのだろうか?安いCDプレーヤーを鳴らしたら、どれくらい性能を引き出せるのだ ろうか?」
となり、
3は「このスピーカーの音は好きだな。予備にもう一台欲しいな」
「このスピーカーの音は好きだな。評判が良いから、買っておこうか・・・」
のようにあなるかと思います。

しかし、1は、分りますが、2と3は「欲」よりも、2は「好奇心」、3は「好き」が勝っていて、「欲」の出番がないように感じます。

良く分かりませんが、みなさんが「好奇心」のあるもの、「好きなもの」に置き換えてみますとい、分るのかもしれません。




似たような検証(?)で、

「好奇心はない」けれど、「好き」、
「好奇心はある」けれど、「好きでない」、
「好奇心はない」けれど、「所有」したい、
「好奇心はある」けれど、「欲しくない」、


「好き」だけど、「所有したくない」
「好きでない」けれど、「所有したい」

というようなこともあるでしょうか。


「好奇心はない」けれど、「好き」、は、要するに「好き」なだけ、ですね。
「好奇心はある」けれど、「好きでない」、は、「好奇心だけ」ですね。
「好奇心はない」けれど、「所有」したい、「所有欲だけ」ですね。
「好奇心はある」けれど、「欲しくない」、 なぜでしょうか?お金がもったいない、あるいは、好奇心に素直ではない、ということでしょうか?

「好き」だけど、「所有したくない」、は、「好き」に素直ではない、あるいは北方謙三さん風にでも言えば、「俺には、それを所有する資格が無い」というよ うな斜に構えた態度なのか・・・。

「好きでない」けれど、「所有したい」、は、単なる「欲」でしょう。



ちなみに、北方さんの小説には、この資格がないう」が良く登場しますが、以前はどこかストイックで格好良いと感じていましたが、これは間違いです。
何かに対して資格が無い、だなんていう人間はいません。


それはさておき・・・・・・
要するに、「好き」と「好奇心」は「欲」に勝つが、「欲」が心の中で勝つ時というのは、「好奇心」も「好き」もいない場合が多いように感じます。

みなさんは、どう思うでしょうか?


これは、事実だとすれば、大きな発見です。
「好奇心」と「好き」は、「欲」に勝つ・・・。

それでは、「好奇心」と「欲」の違いは何でしょうか?




先に、

・・・「好奇心のあるスピーカー」というのが あります。
「これは、一体どんなどんな音がするのだろうか?」
「これでピアノの音を聴いたら、どんな感じなんだろうか?」
同様、
「これで、ピアノの音を聴いたら、どんな感動が得られるのだろうか?」
「これと、このCDプレーヤーの組み合わせからは、どんな音がするのだろうか?」
「このスピーカーは、どんなセッティングでよい音になるのだろうか?」
などなどのように感じるスピーカーが「好奇心のあるスピーカー」のように感じま す。


「好きなスピーカー」というのもあります。
これは、予め、ある程度”以上”、音が分っている、推測が付いているものです。
「ああ、あのスピーカーの音が聴きたいな」
「あのスピーカーでピアノが聴きたいな」


と書きましたが・・・

これから推測すれば、
「好奇心」は、「何らかの理由で、その対象の持つ、現在、そして未来の能力、可能性」に対して、惹かれる、ということで、
「好き」は、その対象が現在形作っている「今」に惹かれ、もしその「今」が変わってしまったら、「好き」は、なくなってしまうののかもしれません。

ちなみに、今流行の「萌え」は、用法を見ていますと、要するに「惹かれる」ということのように聞えますが、どうでしょうか?

それはさておき・・・・・・
「好き」は、「今」が変わると「嫌い」になる可能性が高いですが、
「好奇心」は「変わって」も、「好奇心が失われることは無い」可能性が高いですね。

「好き」は比較的せまい事象に対して持つのかもしれません。
「好奇心」は比較的拾い事象に対して持つものかもしれません。

もちろん、そうでない時もあるかと思いますが。

「山口百恵が好き」、「山口百恵に好奇心がある」はあるでしょう。
しかし、普通、「山口百恵が好き」でしょうし、「山口百恵に好奇心がある」というのは、プロデューサー的な発言で、きっと、「音楽業界に好奇心がある」の でしょう。
また、「音楽業界が好き」よりも、「音楽業界に好奇心がある、興味がある」のような使われ方の方が、普通かもしれません。





それで、何かと言いますと・・・
「好奇心」のあることを追い求めていけば、終わりはないかもしれませんね。
それは、いつまでも飽きずにやっていける、ということです。

「好き」も、良いのですが、どうでしょうか?そのもの自体が変化した時に、「好き」がなくなり、終わってしまうかもしれません。

これは、職業にも言えるかもしれませんが、恋愛にも言えそうですね。
みなさんは、どう思うでしょうか?

私は山下達郎さんが好きでした。
しかし、途中でスタイルを変えたので、そこから聴かなくなりました。

大滝詠一さんは、「好き」で、「好奇心」があります。
ですので、ほとんど新譜は出しませんが、相変わらず興味があります(笑)。
むしろ、音楽そのものよりも、次に何をやるのか、に興味津々です。


潜在的に内在するもの、あるいはもっと言って、未来を薄々感じている状態が人にあるとすれば、「好き」よりも「好奇心」を追いかける方が、どこか正しいよ うに感じます。
きっと、「好奇心」と一言言えば、船井幸雄さんがよく書く「好き」で、「得意なこと」というような書き方はしなくてよいのかもしれません。
「好奇心」には継続的な「得意」が潜在的に内在されている可能性があるように感じます。
なにせ、それ自体に未来を含んでいますので・・・。



「あなたが好きなの」と言われるのと、「あなたに興味があるの」と言われるのでは、どちらが響くでしょうか?
「あなたに興味があるの」と言われる方が、どこが嬉しいのは私だけでしょうか(笑)。

みなさんは、どう思うでしょうか?






ところで、根本的な間違いを犯していたようなのですが・・・
私は、イエスマンばかり近くに置くのは危険なことだと思って、それを拒否していたのですが、それは間違いですね。
どうやら、自分と気が合う人ばかりで集まるのが正しいありかたなのだろうな、と最近思ってきました。
そして、それ自体はちっとも危険なことではないようです。

危険は別のところにあるようです。

みなさんは、どう思うでしょうか?

気が合わない人と付き合わなくてはいけない、という概念を持ちながら、気の合わない人とい付き合うのと、
気が合わない人とは付き合う必要が無い、という概念を持ちながら、場合によってはそういう人とい付き合わなくてはいけない、というのとは、違ってきます ね・・・

気が合わない人と付き合う、という概念を持っていると、「気の合わない人」に焦点があってしまいます。
そして逆に、気の合う人と焦点が合わなくなってしうまいます。
大きな間違いでした。

もちろん、それでも、争い合いは否定しますし、その他もろもろいろいろありますが・・・。


252: STARDUST/FLY ME TO THE MOON
   
  日本ベテランプレーヤーによるスタンダード集です。
基本的にはイージーリスニングの部類に入るかと思います。

また、一部の演奏は、カラオケ用に作ったオケに無理やりメロディを入れたかのようなものもあり、どうかな?と思いますが、大抵はよい演奏です。

「フライ・ミー・トウ・ザ・ムーン」は、だれかの歌物のアレンジそのもので、それが返って面白く良いです。

演奏者は、だれがどれを演奏しているのか、分かりません。
前田憲男アレンジは、きっと前田憲男さんを含めた近辺の方が演奏しているのだろう、とか、そんな感じです。

聞き流すには、私にはぴったりの作品です。

いつだったか、占いの番組がやっていました。

なんでも、売れ行きの良くない店のツボに釘のようなものを打ち、それにより、売り上げを上げる、というようなものだっ たかと思います。
結果については最後までやりませんでしたし、追加の番組もみたことはありませんが、最後の方に少しだけ、「客の入りが良くなった状況」が映し出されていま した。

この占いを見て、星新一さんの本に同じようなものがあったな、と思い出しました。

本当に、星新一さんは、何と言いますか、空想力があるというのか、設定が面白いというのか・・・私好きでした。

ハワイへ行き始めてから3回目くらいまでは、ワイキキのビーチで星新一さんの本を読む、というのが好きでした。
夜は夜でベッドで星新一さんを読む訳ですが(笑)。

しかしながら、森田健さん式の外側を変えると、運命が変わる、という言葉を考えると、ツボに釘という発想もありえるの ではないかと思います。


壁に映るテレビ、
デパートの監視カメラ映像のCATV化(普通の人が見れる、ということ)、
何でもいくらでも捨てられる穴があり、何でも捨てるが、ある日空から捨てたものが降って来た・・・。
タイムマシンで客を過去へ連れて行って、危険な場面を体験し、老後の充実感を得させる、という商売、

などなど、どこか高次元的なものが多いですが、こんなところが心に残っています。
実際は
ショート・ショートは、ほとんど全て読んでいますので、1000タイトル近 く読んだはずなのですが。


思い出しましたので書いてしまいますが、ワイキキのインターナショナル・マーケット・プレイスにあるスナック形式の中 華料理屋さんはおいしいですね・・・。
ここ2年くらい行っていませんが。
チャーハンがおいしいです。
海老と玉子がたっぷりです。
それに、中華スープを付けるのが好きです。


先達て行った時に、それをオーダーしたら、どこかの国の外国人家族が、「あれもください」と私のスープを指差していたのが、変にうれしかったですが。

基本的には女性と出かける時以外は、私は高級な場所で食事をしたことがありません。
大抵こういう大衆的なところです。

もちろんお金をかけない、ということもあるのですが、高いお金を払っておいしいのは、当たり前、と感じているのもあり ます。
いかに安い価格でおいしいものを探し出すか、ということが好きみたいです、特に海外では(笑)。


それにしても、どうも私はチャーハンが好きです。
今日も食べましたが(笑)。





ところで、正月CDーRを焼きましたが、別にWAVファイルでも書き込めるようですね。
ウインドウズ・メディアプレーヤーで焼くと、全てMP3に変換されますが、リアルプレーヤーで焼くと、WAVでOKのようです。
その他のライティングソフトはみななぜか、うまく機能しなくなっています。
なぜでしょう?
ソフトをアップすれば、できるのかもしれませんが、シリアルなど調べるのが、面倒ですので、そのままです(笑)。





さて、久しぶりにGIFアニメを作ろうと思い、ネットを見ていましたら、例のUNISYSのGIFのライセンス(LWZ 圧縮法)の特許期限というのは、2004年6月20日に切 れたということを知りました。

この問題が出た頃、「もうサイトでGIFアニメは無料で使えないのか・・・」と思ったものですが、どうやらもう使える ようです。
ただ今は、フラッシュでも同じようなことができるようですので、あまり意味がないのかもしれませんが、良く分かりません。



年末から正月にかけて、占いですとか、霊界などに関係した番組がいくつかやっていましたね。

時代がようやく変わってきたのでしょうか、以前のようにうおどろおどろしくやるような番組は見た限りではなく、少なく とも高次元というものを冷静に受けとっているような印象のものが多かったように感じます。

もちろん、全て、プレ森田健さん的なものですので、「行い、考え方を変えれば、困難を切り抜けられ、またより良い運命 を切り開くことができる」というものばかりではありましたが、精神世界では、20年も前から言っているこのようなことでさえ、以前はテレビではほとんど取 り上げていなかたように感じますので、進歩していますね。

但し、まだ、政木和三さんのように、

「神社、寺などにに神はいない。神は自分の中にいる。神に願いを懸けても叶ったりはしない。どうしても願いたいことが あるのなら自分の中の神に願うべき」
「宗教の教祖の中には動物霊の力で予言や病気治療をしているものがいる、そういう宗教は、金品を要求したりする」

というような、信心深い人が俄かに聞いたら怒り出しそうなことですら、テレビで放送するようなこともないようですの で、
森田健さん式の考えがテレビに登場するには、もう少し時間がかかるのかもしれません。

但し、確かに時間は速くなっていますので、思いのほか早い時期に訪れるのかもしれません。
もちろん、本人以外の人からの可能性もあるかもしれませんが。


森田さん式の「運命は決まっている」というのは、基本的には、分り人にはなかなか受け入れ難いものだと感じます。
森田さん自身、そのようなことをサイトで書いていたような気もしますが。
なぜかと言えば、若い時代、自信も可能性も夢も抱えきれないほどいっぱい持っている時に、「運命は決まっている。だから一生懸命努力しても、しかたがな い」という考えを受け入れることなど到底不可能に近いからです。

40を過ぎた私ですらなかなか受け入れられませんでした。
中学校でマラソン大会で一番になったこと、独学でピアノが弾けるようになったこと、その他いくらでもある”自力”と”努力”で成し遂げたと思ったことが、 全て決まっていた運命であった・・・
これからセレブや芸能人、青年実業家を根ざしているような20代10代の人が、どうして、「運命は決まっている」ということを信じられるでしょうか。


その意味では、浅見帆帆子さんのような20代〜の人達に指示されている人などが、森田健さんの言っていることを理解して、それを若い人達に受け入れられて いく、ということは、より正確な時空観を広めるためには良いことのように感じます。


逆に、今度は、50代、60代の人達である意味成功している人達・・・こういう人達は社会の中枢(?)を担っているこ とが多いわけですが、そういう人達もまた、森田健さん式の「運命は決まっている」あるいはそこから派生する「ハンドルを手放す」という考えは受け入れられ ないでしょう。

やはり少なくとも、3次元的に見て、「真面目で、一生懸命、努力する人」人材が目標とされる社員像でしょうし、運命は 決まっていると言われてしまえば、末は社長か取締役、と、目標を持っている人達へ、悪影響が出る、と普通考えざるを得ません。
あるいは、2流の経営者の中には、「今の自分は、自分の努力によって達成されたものだ」と思っている人もいるのでしょうから、そういう人の場合には、もう どうしようもなく、受け入れられないでしょう。


その意味では、船井幸雄さんの言っていること・・・本当に自分が真実だと認識した事実の全てを言っているのかは分かりませんが、・・・のようなことが、 50代、60代、70代の人達には受け入れやすいのかもしれません。

もちろん年を経た人が真実を知って3次元的には、もうどうしようもない、とも考えられますが、逆に社会の中枢握ってい る 人達が真実を正しく把握したなら何が起こるのか?ということには興味があります。


いつだったか、大学入試の話で、日本史がぜんぜんできない私が、たまたま試験の数日前に丸暗記したある時代のページがそのままテストに出た・・・といいう 話を書いたことがありますが、これを波動的に理解すれば、私の想念が試験に出る箇所を導いたと言えると思います。
しかし運命が決まっていた、という解釈からすれば、たとえ私が勉強しなくとも、その試験が出た大学には受かる運命だったのでしょう。
そしてたまたま勉強したことにより、試験に受かる運命が不自然でないようなできごとが起こった、というように解釈できるのかもしれません。
つまり努力ではない・・・と。

とは言え、私は、人生は波動と決まった運命の2本立てでできているように 思っています。
決まっている箇所と決まっていない道、高次元・ネットワークとのつながりが出来ている人は、道の上でも、決まっている運命に近いところにいるが、そうでな いとい、決まっている運命の前で、「とんでもない偶然が起こった」というような経験をすることになる・・・というのが私の考えです。


船井幸雄さんは、決まっている運命の話をする時に、
「私は若い時に、髪の毛が抜けてしまいました。若いのですからとてもショックでした。しかしそのせいで、若いときから年配に見られ、仕事がとてもしやす かったのです・・・」
と書きます。

しかし、もし私が30代で禿げてしまったら、ほぼ間違いなくカツラをしたでしょう(笑)。
目が悪くとも、外では意地で40歳までコンタクトレンズを使用していたくらいです。


これをして、高次元に繫がっているとか、ネットワークうんぬん・・・という話をしようとは思いませんが、それでも、何か私の言おうとしているニュアンスが 理解いただけるでしょうか。

みなさんは、どう思うでしょうか?



時々思いますが・・・
波動的に物事が動く時、願望実現でも良いのですが、運命が決まっているという方向から考えると、波動を導くような行為から含めて運命で決まっているのでは ないか?と考えることがあります。

それは、森田健さんがトランプに念を乗せ、思い通りのマークを出すようなことや、若山敏弘さんが船井幸雄さんの前で やったトランプで思い通りのカードを出すようなこと、あるいは病気治療、浅見帆帆子さん式の願望実現・・・

それらすべては、
「今から思い通りのカードを出してみます」
「ヒーリングで痛いところを治します」
まで、それをしようと思ったことから含めて決まっていた、ということなのですが。
そして、それらが起きた後に、その前後の出来事を理論的に解析すれば、まさに波動の法則のようになってはいるが実は法則が先にあるのではなく、そういう法 則が分析の結果でてくるような決まった運命というものが作られているのではないか?ということです。


しかし、これは、ちょっと思っただけです。
私は波動も決まった運命もある、と考えています。
ただ、決まった運命の中には、「波動なのか?」とまぎわらかしういものもありますね。

あるいは、波動でも、
「この人はこの瞬間、病気が治るという運命だったから治ったのかもしれない。波動に力があってそうなったのかもしれないが、この運命の人は温泉治療でも、 薬でも治ったのかもしれない」
と考えられるようなことはあるように思います。


もっとも、そういう側面というのはもともとあり、「人間の風上にも置けないようなヤツがお金持ちで、自分の願い通りの一生を送っている」ということなど は、最初から波動では測れないものです。
しかしながらこれくらい極端ですと、もともと運命は決まっている、ということにより説明することができます。


波動により、何かが変わる・・・病気治療などが分りやすいですが、しかし高次元に通じて運命そのものを変更して、病気 が治るということもあるようです。
六爻占術でもできるのでしょうが、これは、六爻占術をやっている、ということが3次元的に見えますので、どちらが起こったのか?ということに関して勘違い はないでしょう。

ですので、波動だったのか、高次元的に変更が起こったのか、ということは、見分けていきませんと、波動はそもそも何が できるものなのか?というところを見誤る可能性もあるのだろうと感じます。


「人間の風上にも置けないようなヤツがお金持ちで、自分の願い通りの一生を送っている」
ですが、
これは、だれにとっても相当主観が入っているとい感じます。

人間の風上にも置けない
自分の願い通りの一生を
というところですね・・・

「人間の風上にも置けないようなヤツがお金持ちで、自分の願い通りの一生を送っている」
で、みなさんはだれが思い浮かぶでしょうか?
横井社長などはどうでしょうか?

例の会社乗っ取りなどで有名な方ですが・・・
私は詳しく知りませんし、ネットでも、あまりヒットしませんので分かりませんが、彼の一生が
自分の願い通りの一生を」だったかどうかは分かりません。





あきらめる・・・ですが、「あきらめる」、と「手放す」、と「拒否する」は違いますね。


私は以前、3,4年前「あきらめる」を良くしていました。
もっとも短い期間・・・1,2年でしたが。
私は基本的にはあきらめが悪い人間でした。
信念の人という感じでした(笑)。

しかし私のやっていたあきらめは、仮にその後それが叶っても、受け入れない状態・・・つまり拒否に近いあきらめです ね。
そこに意地が入っているのです。

「そのポストはあきらめた」
とすると、確かに、オファーがあったりします。
しかし、今度は意地と信念で「あきらめている」のですので、絶対に受け入れません。

これはどこかいけないように思います。
波動的にもいけないでしょう。


「あきらめる」は、手放すでなければ本当の説明ではないのでしょう。
つまりは自力をあきらめるであり、ハンドルを手放すなのでしょうか。


「あきらめて」、その後、それが手に入るのなら、どうぞ私は手に入れて良いと感じます。
それすら決まった運命なのかもしれませんが。








贅沢とは?
と、考えてしまう時があります。
1月5日の船井幸雄さんがフナイ・ドット・コムで、船井幸雄さんが、

6.ムダをせずに(質素に、節約して)
(儀式・形式・偶像・修行などムダなことをなるべくやらないで)

と書いています。



私は括弧の中は良く分かります。
しかし、質素、節約の意味が今ひとつ分かりません。

そのまま理解せよということであれば、それで良いのですが、ただ、そうしますと、例えば船井さんは、私の友人には一人 もいないような大きな家に住んでいます(外国を除く)。
もっとも、私の交友関係が狭いのが原因かもしれませんが(笑)。

私は船井さんであれだれであれ、大きな家に住むということに関して、それはそれで良いと感じます。
そうすると、少なくとも、質素、節約とは、ただ、安く済ます、最低限ことの足りるもので済ます、ということでもないようです。
ただ、船井さんの本を読みますと、穴の開いた服でも、修繕して着れるまでは着る、ということをしているようですので、この意味では私が従来抱いていた、質 素、倹約、という概念と合致します・・・。

現状、辻褄があう解釈としては、
「自分の好奇心がないことに関しては、必要最低限、ことの足りるもの以上を求めない」
と、こうなるでしょうか。

この解釈が正しいとするなら、逆に「好奇心のあることに対しては、あまり金銭を気にすることなく、どんどん突き進んだ 方がよい」という解釈も成り立つように感じます。



括弧の中は理解できる、と書きましたが、まったくその通りだと感じます。
儀式、形式、偶像、修行などが無駄、ということですが、このことは
「結婚式の二次会もほとんど出ない・・・」というよ うな書き方で船井さんが良く本で書いています。

儀式は、恐らく上の意味で結婚式などの形式ばったものを指しているのだと感じます。

私は男ですので、これは良く分かります(笑)。
しかし、女性の中には、結婚式のあの状態に夢を見ている方が多いようですね。
良く分かりませんが、何となくそれはそれで良いのだろうとは思います。

防衛学校の学生は、あの卒業式の帽子を投げる儀式を楽しみにしているでしょう。

どちらかと言うと、私は、「長い儀式」が嫌いです。
短いものなら、そう我慢する必要もなく付き合うことはできます。

みなさんは、どうでしょうか?



形式は、恐らくは、どちらが先に車に乗るかとか、結納のお返しは・・・とはそのようなことでしょう。
私は、これは分かります。
分りますし、苦手ですので、逆に相手が、こちらがきちんと勉強した形式に則っていないと頭にきてしまうことなども以前はありました。
しかし、それこそ、パラドックスと言いますか、本末転倒ですね。



偶像は踏み絵の話のようなことでしょうか?
「天の理と時空のコーナー」に詳しく書いています(最近更新していませんが)。



修行は微妙ですね。
変な修行は別としても、修行と練習、訓練と言ったものは、なんとも区別がつきません。
修行を厳しい訓練、と解釈すれば、まだ分りやすいのかもしれませんが。

思いますのは、好奇心のあること以外には、練習も訓練も修行もしない方が良いのでしょう。
また、やっていて苦しくて仕方が無い、ということであるのなら、もうそこまでで、止めた方が良いのでしょう。

私は中学生の頃は、手首が腱鞘炎になってコンクリートのように固くなって、ぜんぜん曲がらなくなっても、ピアノを練習 していましたが、ぜんぜん辛く無かったです(笑)。
楽しくって楽しくってしかたがなかったです。

あれをピアノなんか弾きたくない人に強要したらさぞかし辛いことでしょう。


みなさんは、どう思うでしょうか?








さて・・・・・・

アセンションですが、私は間違いなく何かあるし、起こっている真っ最中なんだと感じます。
しかし、多くのアセンションを語っている人の結論と言いますか、人のあるべき姿というのは、何か違うように感じます。

同意できるのは、今の人への「一番良い概念」というのは間違っているだろう、ということです。
そして多くのアセンションを語る人達は、簡単に言ってみれば私が小学校の道徳の時間に教えられていたこととさほど変わらないことを言い、人間はそうあるべ きだ、と言っているように読めてしまってしかたがありません。


どちらかといえば確かに、アメリカ発の資本主義にのっとった人間の状態、パターン、思考形態を最高のものとしている今より、道徳の時間に習ったようなこ と、「やる気、根気、負けん気」、「真心、誠意」のようなことの方が正しいとは思います。

しかし、これすらも、人間に制約を与え、反省を促し、今の自分よりもっとっもっとよい状態があるのだから、それを目指 せ、と言っている点に関しては、アメリカ式資本主義と、何か同じような土俵に乗っている違う流派、という感がいなめません。

確かに、アメリカ式資本主義にのっとった考え方の中で、まずどうしてもここは何とかしなくてはならない、というような ことに関しては、私は多くの方が書かれたことにより、認識ができました。


それらは、
嫉妬はいけない、
与えることは良いことだ、
楽しんでできること以外はしてはいけない、
資本主義の、「たえず新しい市場を強引にでも作っていかなくては衰退してしまう」、という根本的欠点
などなどです。


また、高次元の基本的な事実、も、具体的に何が変わったということなしに、根本をなすものへ影響を与える事実として、多くの方が書かれたことを読み聞きす ることにより、勉強になりました。

それらは、
輪廻転生は間違いなくある
どこまで決まっているかは、人それぞれにとり言っていることは違うが、それでも、運命は決まっている、あるいは決まっている部分が多い、

ということです。




それらを加味して、どうも感じますのは、やはり対等、という概念の間違いが、どうしようもなく引きずり続けているのではないか?ということです。

先の道徳でもそうですが、私の勝手な感想を言わせてもらえば、
それは、日本的なよい価値観ではあるものの、私的に見た「宇宙の理」からは遠く離れた少なくとも西暦0年以降くらいから培われたものであり、その中には、 嫉妬のDNAがONになってしまった人間を治めるための何らかの「地の理」的な内容も入っているはずです。
それは何かと想像すれば、やはり対等の概念の都合の良いすり替えではないでしょうか?


例えば、「忠犬ハチ公」でも、「赤穂浪士の討ち入り」でも、なんでも良いのですが、これらは美しい話ではありますが、 私が今の私で考えてみると、間違っています。

ここらへんから、もう一般的な常識ははずして行きますが・・・

「ハチ」は犬ですので、霊が見えます、恐らく・・・。
なくなったご主人が、そんな不敏なハチに、死ぬまで駅に向かえに来させたりするようなことはしないでしょう。

「赤穂浪士」は、仕返しはいけません。
理由はどうあれ、人殺しは人殺しです。
世間を騒がせたことがいけないのではなく、その前からいけません。
「恨」んだり、「無念の気持ち」を持ったりしてはいけません。


それで、どうかと言いますと・・・・・・
仮に、いろいろな人が俗に言うアセンションというものに関して受けている神示が本当に言いたいのは、「ここの行為をこう治さないとひどい目にあうぞ」では なく、本当は一言で言えば「天人合一なんだよ」ということなのではないでしょうか?


少しだけ噛み砕けば・・・
「おまえも神だろう?何しらばっくれて、何もできない振りをして、所謂”人間”みたいなことばかりしているんだ。いい加減に目を覚ませ」
ということであり、

「神のくせして、人間という新しいジャンルを勝手に作って、神と人に上下があるような嘘をばらまき、その亜流として、 人にも上下があるような嘘の概念を浸透させているが、いい加減に、思い出して、元通りにしないと、それこそ、君たちがひどいうことになるぞ」

ということなのではないでしょうか?

みなさんは、どう思うでしょうか?


仮にこれらが正しいのなら・・・
「それじゃ、どうすれば良いの?」

と問われれば、森田健さんの受け売りではありますが、
「今の自分が完全である」
と言うことを認識する、から全てが始るのではないでしょうか。


詳細は、森田健さんの「自分ひとりでは変われないあなたへ」(2005年:講談社α文庫)を読んでいただきたい、と思いますが、もっとも分りやすく、そし て、多くのアセンションを語る人達が間違っていると思えてならないことが147ページにありますので、簡単に紹介します。

147ページには、自由への扉(体内離脱の世界)として次のようなことが書かれています。
図をそのまま書けませんので、私の解釈を踏まえて表にしますが、

従来の価 値観・3次元的、資本主義的価値観
本 来の価値観・本来の姿
なること
あること
嫉妬
肯定
努力
無努力
経験
直感
目標
自然
信念
自由
念力
蘇生

(以上)


何度もくり返し読みましたが、やはりうこの箇所が一番、 何か大事なことを表わしているように思います。


書いていて思いましたが、アセンションの神示を受けている人、あるいは、他の人が受けたものを解釈している人達の根本 的な間違いは、その啓示の内容から「次なる目標」を、探し出そうという姿勢で解釈していることではないのでしょうか?

それでは、アメリカがもう市場がなくなってしまったので、中東の国を攻めたり、アジアの大国に戦争をしかけようとした りしているのをあまり変わらないのかもしれません。

「全てを自然の状態に戻せよ」、「自然の状態に任せよ」と言っているのに、人が神であることを忘れて久しい私たちです ので、またそれを
「新たな戦略や目標を立てなくてはならない。人より上の存在である神は我々にそれを求めているに違いない」

としてしまっているのではないでしょうか?


147ページの図画は円になっており、外側が上で言う「従来の価値観」内側が「本来の価値観」、その中心に、


本当の私
外の世界
フォーカス35へ
他の魂との融合』


と書かれています。

私はこの中心、それは岡田多母さんの言う0(ゼロ)と同じものなのかもしれませんが、天人合一があるような気がしま す。
想像ですが。


今のアセンションを語る人達の多くが、水平器を睨みながら、あっちへこっちへ、ぎったんばっこん、し続けているように 感じてなりません。


みなさんは、どう思うでしょうか?









森田健さんの本に、道教の導師と山へハイキングへ行った時、頂上ませ上らずに、途中で止めてしまい、食事にした話が出ています。
確か、導師は、「頂上まで登る必要はありません」でしたか、「登ってはいけません」のようなことを言ったというようなことが書いてあったはずです。

意味は確か・・・要するに「頂上まで登る必要はない」ということだったと思います(笑)。
つまり、天人合一を言う道教では、途中までで良いのだと・・・

どういうことでしょうか?
本を読めば森田さんの書いたことは書いてあると思いますが、せっかく忘れているようですので、少し考えてみたいと思います。




奈良だったように思いましたが、古い大きなお寺で、境内などこかにある大きな4本の柱の内、1本だけわざと逆さまに設 置してあるところがあったかと思います。

中学校だったかの修学旅行で訪れたように思いますが、その時の説明は確か、「全て完成してしまうと、後は悪いことしか ないので・・・」というようなものだったように思います。

つい、数年前まで、この説明を信じていました。
一時期は、何でも中地半端に終わる自分を見て、「これが潜在意識に入っているのではないか?」などと思って見たりしたものでした。


この柱の本当の理由は分かりませんが、以外に、導師の言っていることと同じような意味がこもっているのかもしれません。

同じだとして、はて、一体どういう意味があるのでしょうか?


目的を持たない、ハンドルを手放す、といったようなことが最後と言いますか、基本にはあるのでしょう。

頂上まで行くのも、途中で止めるのも、同じということでしょうか?
どっちにしても、はじめから、決まっている、ということであれば、その意味において同じです。
どちらが優れているとか、立派ということはないですので、自分の3次元的五感にとって、快適な方を選択したかのような振る舞いをすえばよい訳です。

最近、ちょっとだけ、決まっている運命のあり方が理解できて来ましたが、望むと望まないとに限らず、3次元的当然を やっていさえすれば、決められた方向に引きずり込まれるようです。


ただ、当然、ですが、3次元的には、その人その人により多少異なりますね。
おなかが空いた、として・・・
どうしてもはずせない事情があれば、がまんするでしょうが、そうでなければ何か食べます。
つまり「どうしてもはずせない」の基準が違う、ということですが。
しかし、この基準ですら、決められたものである可能性が高いですね。


しかしながら、そうなってくると、ハンドルを手放そうがどうであろうが、決められた運命通りになっていくはずですね。
それでも、決まっていることを知ることにより、余計なハンドルを切らなくなりますので、「波動的」には、良いかとは思いますが。

ハンドルを手放すことは、ただ単に波動的に・・・ということではないようですので、ひょとしたら、そこに運命変更、改 善の何かを含んでいる可能性もあるかもしれません。

その意味で、頂上まで行かない、ということは、自分で決めた目標を達成しない、ということに意味があるのでしょうか。
すると、お寺の柱は、設計図通りにはあえて作らない、ということに意味があるのかもしれません。

要するに、「目的」の否定を言っているのでしょう。


掲示板にも書きましたが、大滝詠一さんが、「目的を持たない」というようなことについて書いています。

http://www.fussa45.net/20060101.html  にそれはあります。

最後の部分にそれはあります。

引用しますと・・・
以前に“新春放談”でも「自分から動くのではなく、向こうから やって来る(たまたま、そうなる)」というのが私の人生だと何度も話して来ました。マキノ雅弘さんも“頼まれる”ことの多かった人のようですが、私も自分 から働きかけるということの異常に少ない人間です。(中略)
自分の側には目的(原因)がなく、結果が“往来”しているだけなんですね。』

(以上)
というような感じです。

自分から動くのではなく、向こうからやって来る(たまたま、そ うなる)」というのが私の人生だと何度も話して来ました。」
と書いていますが、ひょっとすると、だれでも、こうなのかもしれません。

他の人がそうでないように感じるのは、「自分から仕掛ける」、「自分から動く」からではないでしょうか?
あるいは、「自分がそうした」と思い込みたいからかもしれません。
自分の努力と実力で成し遂げた、と思いたいということですが。

「周りの人の協力もありましたので・・・」
はどうも、間違いのようです。
これは、自分+周りですが、どうも実際は、周り100%が正解のようです。


逆に「向こうからやってくる」という感覚になるには、どういった感じでしょうか?

「自分からは仕掛けない」、「自分からは動かない」、ということが標準の状態であれば、きっとそうでしょうし、単体の事象でも、それについては、「自分か らは一切動いていない」ということであれば、間違いなくそう感じるでしょう。

細野春臣さんは、どうでしょう?
良く分かりませんが、大滝詠一さんよりは、自分から動いているようにはたからは見えます。
YMOの結成などは、読む限りでは細野さんが動いて、高橋さん、坂本さんを誘ったようです。

両人とも、大きなストレス(?)のない生き方をしているようですので、「私は結果」ということに関しては、あまりどっちが良いということはないのかもしれ ませんね。

但し、「問う人」と「問われる人」がいる、ということはあるのかもしれません。
はっぴいえんどで言えば、大滝詠一さんが、「問われる人」で、細野さんが「問う人」でしょうか?
(大滝詠一さんがフルネームなのは、”詠”の字がなかなか出てこないので辞書登録してあり、”おおたき”、と打つと”大滝詠一”と出てくるからです)

これは、陰陽とも関係しているのかもしれません。

ビートルズはどうでしょう?
ポールは「問う」でしょう。
ジョンも「問う」でしょう。
リンゴとジョージは問われる方かもしれません。

従来はこのようなことを考える時には、積極的か受身(受動)的か、と良く言われていましたが、どうもそうではなく、「問う側」か「問われる側」か、なのか もしれません。

あなたの周りのグループはどうなっているでしょうか?




もっと大きく解釈してみると・・・
森田健さんの新聞広告が、「問い」であり、それにより多くの人が集まってきた、と解釈するのなら、大滝詠一さんは、ラジオ番組などで、すでに大滝詠一とい う人物がどういう人間であるのかが世間に知られていますの、そいれ自体が世間に対して「こういう人間がいますよ」という「問い」になっており、その結果と して、向こうからいろいろなことがやってくる、とも考えられるように思います。



あるいは、と言いますか、これが一番可能性が高そうですが、「目的を持たないと、向こうから勝手に、面白いことがやってくる」
のかもしれません。

そうは言っても、まったく何もしていないということではないでしょうから、「自分の好奇心のあることに、のめり込んで行き、そして目的など持たずにいる と、面白いことが勝手にやってくる」ということなのでしょうか。









私事ですが・・・・・・
私は、基本的にのめりこむ体質です。
それを心配した親が中学生くらいの時から、「のめりこみすぎてはいけない」としつこく言っていましたので、逆にできるだけものごとにのめりこまないように と意図していました。
それでも、どうしてもはずせないものには、自然とのめり込んで行ってしまっていますが。

また、私は幼少の頃から極度の感動屋さんです。
ちょっとよいものがあると、すぐに感動して、のめりこみます(笑)。
それを心配した親が、「何にでも感動するので、めったなものは見せられない」というようなことを言っていました(笑)。

もっぱらそれらは音楽的なことで、小学校高学年〜中学生くらいの時のことを親はそう言っているのだと思います。
ポールモーリアにのめりこみ、サウンド・イン・Sを見れば、世良譲さんにのめりこみ、ギターもピアノも毎日はなさず、親のやってほしい学校の勉強は、ほと んどしない、という感じででした。
エレキギターは親にしまいこまれてしまいましたので、当時あまり弾くことができませんでしたが、ピアノは妹が習っていたこともありますし、大きいのでさす がに隠すことができずに、弾くことができました。

ここら辺は決まっていた運命を感じさせますが(笑)、私の運命が気に入ったものではない理由を、「のめりこむからだ」、「感動しすぎるからだ」が、原因な のかもしれない、と思いそうしないように意識して生きてきたところがあるのも、また事実です。
そうとは言え、どうしても感動するものには、感動しますし、どうしてものめり込むものにはのめり込んでいましたが。

これからは、そこら辺は変に意識せずに行こうとは思いますが。




ポップスもロックもたくさんききましたが、ジャズやオールディズを多く聴いたのは、できるだけ音楽を親に邪魔されずに好きなようにやりたい、という無意識 の意志があったせいかもしれません。

ここら辺も、決まっていた運命を感じさせるものがありますね。
結局、嫌いだったら、聴けないし、演奏できないはずですので。

はたまた逆かもしれません。
そういう音楽が好きだったので、親の暗黙の了解を得て、それなりにやれたのかもしれません(笑)。

ただ、エレキギターは中学生の時に、もっと弾きたかったな、とは思いますが。
女の子にももてましたし(笑)。









「自分の好奇心のあることに、のめり込んで行き、そして目的など持たずにいると、面白いことが勝手にやってくる」です が、いろいろ書いていて考えると、確かに、そういうような流れはあったようにも感じます。


目的を達成することに没頭すると、目的達成が快なのか、その事象・・・音楽なら音楽・・・が快なのか、分らなくなってきてしまう、ということはあります ね。

山へハイキングへ行く、を考えても、ハイキングの主旨(あえて目的と分けますが)は、自然を五感で満喫する、ということだろうと思います。
もちろん人によっては、五感以上で満喫してもい良いのですが。

しかし、頂上へ
どうしても登らなければ、となりますと、主旨も違うものになってきます。
頂上へ登ることが主旨なら、モノも有り様が変わってくるでしょう。


しかし、道教の導師が言うのなら、そんなことではやっぱりないでしょう。

「目的を持たずに、快に素直にのめりこんでいなさい。そうすれば、時空のネットワークが勝手につながり、勝手に最適な状態を作ってくれます。」
というようなことを語っているのでしょうか?


みなさんは、どう思うでしょうか?












さて・・・・・・
運命が決まっているとするのなら、今私たちは、「運命が決まっているということを知ってしまった」、という決められた運命を生きて言るわけですね。

どこかパラドックス的でもあり、面白いと感じます。

時空は一体何を考えているのでしょうか?
単なる好奇心でしょうか。

みなさんは、どう思うでしょうか?






さて・・・・・・
昨日、「うるるん滞在記」で石坂浩二さんが、なんとか豚とかいうとてもおいしい豚を飼育している国へ行ってステイした巻きがやっていました。
スペインだったかと思いましたが。

そこで石坂さんが、トン汁を作ったのですが、ステイ先人には不評でした(笑)。
これは、なんとなく納得が行きます。

どうも、ステイ先の人が作ったものを見ていると、肉にしっかり味が付いていないとだめなようです。
トン汁はおいしいですが、何となく生まれて初めて食べた幼少時代を覚えていますが、肉に味が付いていませんね。
今は特に感じないですが。

その味の付いていない肉と味噌汁を一緒に、あるいはごぼうなどと一緒に食べるとおいしいし、ご飯にあう・・・というのがトン汁だと思います。
肉だけを味わう、という形式の料理に慣れている人にはあれは、おいしくないし、味が薄いと思われても仕方がないですね。

その後作ったアサリだか、蛤の味噌汁は好評だったようですので、貝類に味が付いていないのは当然と思っているのか、それとも、味噌自体が貝類と一緒に料理 するとスペインの人にも受ける味にもいなるのか、どちらかでしょうから、味噌がだめ、ということではないのでしょう。
但し、生姜味か何かを加えたそうです。

私的には、日本風の「豚のしょうが焼き」なら受けたのではないかと思います。






さて、瞑想ですが、
うたた寝から起きた後の状態が非常に具合が悪く、瞑想しても雑念のオンパレードえある、ということは以前書きましたが、チタンネックレスを常時しているせ いか、それは、かなり減りました。

それに加えてもう一つですが、どうも、瞑想を深夜に 行うと、雑念が多いようです。
いろいろな人の本に、夜はそういう種類の高次元的なものが多いので、瞑想の邪魔をする、と書かれていますね。
それが本当かどうかは分かりませんが、意識して12時くらいまでには行うようにし始めましたところ、雑念が減ったように感じます。

どうも森田健さんによると、孫さん瞑想は本当は夜 11時くらいが良いようですが、私はその時間ニュースが見たかったり眠かったりして、なかなかうまくいきません(笑)。

一時期は夕食前にやったりしていましたが、それもど うも・・・ですので、今は少なくとも、深夜の1時前には終わるように、と心がけています。
怠惰な毎日ですが、瞑想は続けているところを見ますと、好奇心はあるようですね(笑)。
但し私は、基本的には毎日、訓練のようなものをやる、ということには強いようです。
もちろん量にもよりますが。

バーベルも、5年間くらい毎日持ち上げていました し、ピアノも10年間以上毎日弾いていましたし・・・
但し、好奇心がうせるとその限りではないようです。
ということは、私はピアノを弾く、ということに好奇心を失った、ということかもしれませんね。
今は1年に、2,3度しか弾きません(笑)。





・・・ものすごく個人的な話ですが、
株を始めようと思っています(笑)。
コインを振って、易で見たところ、「積極的で吉。現状打開の必要あり。現状打開をする上で悪い習慣を断ち切る良い機会
」というような答えがでました。
障害物を断固として除去する時」というような解釈もあります。
火雷噬コウ、というものですね。121・221です。

六爻占術ほど、詳しくは出てきません。


それでも今までは株で振ると、少し待て、とか、いずれにしても、今は止めておいた方が良い、というのばかりでしたので、どちらか言えばプラス、というのは これが初めてです。

さて、どうなるでしょう?
もっとも、資金は少なめですので、大きくは儲かりませんが。
但し、やると、現状打開はできるようです(笑)。

また報告します。









さて・・・・・・
本日、久しぶりに例の江原さんの「オーラの泉」という番組を見ました。
今日は、オダギリジョーという役者さんがゲストにきており、いろいろと霊視をしたりしていました。

前世の話、現在の状態の話など出ていましたが・・・
ひっかかりましたのは、彼の現在の状態についての話でした。

なんでも、彼には、ドクロであるとか、大きな顔のポスター、赤い色の照明など、そういった悪い波動を出すものを集める癖があるようですが、それは、彼につ いている悪いもの・・・所謂悪霊ということなのだと思いますが、それが彼にそういうことをさせている、ということでした。
実際その存在は荏原さんや三輪さんには見えているようで、形などを描写していましたし、また、三輪さん曰く、「私についているマリア観世音菩薩などを見 て、怖がっている」とも言っていましたし、江原さんが、「さっきから、ピシピシ音がするでしょう。これはそれが嫌がって出している音です」と言うと、その 場でまたピシ、とい音がしたりしていました。

当人が今やって炒るような悪い習慣、好みを直せば、その存在は出て行く、というようなことでした。
江原さんは、一度、彼の背中に回り、その存在を追い出す何かをしたりもしていました。



それで、
やはり思いましたのは、・・・・
私は基本的に江原さなんあり三輪さんなりが見えていることは信用しています。
そしてそれらの存在は、4次元ないし、5次元の存在であるようです。

三輪さんがいつだったか「この世と同じよ」と言っていましたが、確かに、5次元までは、この世と一緒のようですね。
違うのは、4,5次元の存在、そして波動という目に見えないものがある、ということだけで、これらが見えていたとしたら、ほとんど3次元と一緒に近いで しょう。



あなたの趣味が変わったのは、○○君と遊ぶようになったからだから、もう遊んではいけません。
成績が落ちたのはエレキギターを0弾くようになったからで、もう弾いてはいけません。

が、
あなたの趣味が変わったのは、悪い存在がついたからで、追い出すために、心を入れ替えなくてはいけません。
あなたの成績が落ちたのは、あのポスターを貼ったせいだから、はずさなくてはいけません。

となっただけのように思います。
要は、目に見えているかどうか、ということの違いでしょう。



運命を考える時、○○君の運命も当然あります。
これは多くの人が容易に分ることでしょうが、それは○○君が3次元の目の見える存在だからですね。

私は森田さんの言った5次元まで運命のネットワークの中にある、という意見に賛成しているのですが、やはり、ここでも、悪い存在、あるいは、この役者さん を守っているという小さな女の子の霊、まで含めて、運命のネットワークの中にあるように感じます。

5次元までを語る人の話を聞いていると、根本的な原因は当人にあり、それを起している要因は、良きにつけ悪きにつけ、5次元、4次元の存在である、として いるケースが多いです。

そして、どう考えても今生の当人にも責任がないと思われるようなケースになると、今度はカルマを出してきます。



どうなのでしょうか?
私はやはり5次元よりもっと上の次元で、3,4,5次元の存在たちの運命を全て決め、我々は本当はそれに従って動かされているだけなのではないかと感じま す。


つまり、この役者が前世のせいか、幼少時代のせいかが原因で悪いものを招くようになり、それでいながら、役者としては成功していて、そして、今回テレビに 出てきて、霊能者に、そのことを教えてもらう、悪い存在をはらってもらった・・・

悪い存在は、とにかく、なにかの事情で、悪い存在になり、そして、とにかくこの役者に取り付いた、そしてテレビで霊能者に追い払われた、

役者を守っている身内らしい小さな女の子は、とにかくこの役者の身内であり、先になくなり、今彼を守っていて、そして、今回テレビで、彼を守っている、と いうことを彼に知られるようになった・・・

彼の守護霊は、前世お侍さんのようですが、その存在も、何らかの事情で今、守護霊をやる立場になり、そして、この役者の守護霊の役目をしている・・・

江原さんは江原さんで、小さい時から人のオーラが見え、その後、国学院大学へ入り、神社などで修行し、その後開業し、いろいろ苦労があったが、今は霊能者 としてがんばっている・・・

三輪さんは、よく知らないですが、10代のころは相当苦労したようですが、とにかく芸能人として、歌手に役者に活動している、そして、霊能力があり、守護 霊に偉い人がついていて、その他立派な高次元の存在たちが守っていてくれる状態にある・・・




どうでしょう?
この役者さんは、悪い存在がついていてようですが・・・
役者として成功しています。
財運もよいのでしょう。
顔も二枚目です。
頭も良さそうです。
とりあえずは、健康なようです。
幼少時代は少し苦労があったようです。
今だって、今なりに悩みはあるでしょう。

悪い存在が影響を与えているのは、今のところ精神面・・・趣味だけのようです。




とりとめがなくなってしまいましたが、何が言いたいかと言いますと、
やはり3,4,5次元と含めて、運命ネットワークの中に入っている、
ということですね。

4,5次元はいままであまり語られる事がなかったし、また一般的な人には見えない世界ですので、もっとも根本的な理由の一つとしいぇ語られることが多かっ たように感じますが、実はそれすらも、運命という大きな川の流れ に操られているだけのものである、ということなのではないでしょうか。


私は、3,4,5次元どころか、前世というものですら、一色単に運命ネットワークの中に入っているのではないかと想像しています。
そう考えると分りやすいのです。

江原さんの言うように、確かに前世、この役者さんは、キリスト教の関係者で、貧しい人を救うようなことをやっていたり、違う前世では江戸時代、外国へ行 き、また日本へ戻ってきたり、というようなことを経験してきた魂であり、それらのことが今生でも影響している、ということはあるでしょう。
あるのなら、それは、まさしく、前世も含めて、大きな時空という存在の元での運命 ネットワークの中にあるように感じてなりません。




だからどうだと、言われても、どうでもないのですが・・・
もし、前世を変えられる方法があるとするのなら、それによって、今生を変える、という方法も存在するのかもしれませんね。

というよりも、今生の運命を六爻占術などで変更したのなら、ひょっとしたら過去どころか前世のどこかも変更されている可能性もあるかもしれませんね。

もしかしたら、六爻占術による変更ケース、あるいは、高い能力のある超能力者による運命変更のケース、または、その他の何かによる運命変更が多く行われる ようになったら、過去が目に見える形で変化していくのかもしれませんね。
もちろん、未来もですが。

過去とはすなわち歴史のことですが。
その意味では、これから何年か後に、考えも付かなかったような歴史の新事実というものが出てくるのかもしれません。
森田健さんの周りでは、当然、六爻占術による変更が他の人より多く行われているかと思いますが、ある日突然、ありえないような親戚が現れたりすることが あったりするかもしれませんね。
単なる想像ですが。

あまり過去の話をしても、つまりませんが、ちょっと考え付きましたので、してみました。

みなさんは、どう思うでしょうか?








253:北村英治・札幌コンサート
   
  北村英治さんのい札幌でのライブです。
珍しく、ピアノには八城一夫さんが加わっています。

ベースは原田正長さん、ドラム五十武要さん、バイブは増田一郎さんです。


1.ジャスト・ワン・オブ・ゾーズ・スウィング
2.サヴォイでストンプ
3.ティス・オータム
4.バット・ノット・フォー・ミー
5.スウィート・スー・ジャスト・ユー
6.ジャスト・スクイーズ・ミー
7.ジョーズ・アヴェニュー
8.オー・レディ・ビー・グッド 


いつもと違い八城さんのせいでしょうか、モダンな演 奏をしています。



このように、メンバーが変わると、あるいは八城さんのように、いつものメンバーと違う種類の音を出すメンバーが加わると、各人のフレーズが変わってくるの が、ジャズの面白いとこですね。

要するに、各パートが、編曲者と演奏者をかねているのがジャズですね。
そして、それは、演奏の瞬間まで相手に分らない、と・・・。
3次元的にはですが。




さて・・・・・・
なんでも、政府が、小子化を止めるために、出産費用を国で負担することを考えているようですね。
どうなんでしょうか?
少しは効果があるとは思いますが、きっとあまり効果はないでしょう。
生んでも良い、という状態にある人というのは、育てる状況の方が整っていることの方が大切なのではないでしょうか?

私は別に女性差別をするつもりはありませんが、少子化を止めるには、女性が家庭に戻り、男性の給料が年を取るに従って、ある程度自動的に増える状態を作れ ば良いだけだと思います。

どこでも言っていますが・・・
要するに、
大半は、年を取れば給料が下がる状況ですし、
女性も出世競争に巻きこまれていますし、
大半の女性が結婚したいと望む、大金持ちで、しかも、一生その状況が続くであろう、と想像できる男性というのは、ほんの数%しかいませんし、
子供が増えないのは当然ですね。

今の日本はアメリカ的になっていっているわけですが、アメリカでは少子化というのは、あまり言われていないのでしょうか?
だとすれば、日本人とアメリカ人は根本から違うのですね、きっと。





このまま二極化が進むとどうなるのでしょうか?

もっとお金持ちになりたいお金持ちが、ものを売る対象が、自分と同じお金持ちだけになってきますので、きっと、何か変なことになるのでしょう。

今すでにそういう傾向はありますが、お年寄りが、生活費の安い外国へ逃げています。
当然、今度は若い人もそうしますね。
少なくとも、地方へ向かうと言うことは起きるかもしれませんね。

そうすると、きっと、外国から労働者にお願いしてきてもらうことにうなるのかもしれません。
そうすると、都会は、お金持ちと外国人という変わった町になっているかもしれません。

人の能力によって、培われたメイド・イン・ジャパン・ブランドですので、どうなるのでしょうか?

海外拠点にいると、技術を盗まれる、として、日本に戻ってきた日本企業は、今度は、日本にいながら技術を盗まれるということになるのかもしれません。

そうしたら、もう競争力はなくなるのかもしれませんね。

しかし、それも、3次元的には、アメリカ化を望む政治家を択んだ私たちの責任でしょうから、どうしようもないでしょう。

そうではありますが、どうも、そうはならないようです。
どんなことが起きるのか楽しみです。














さて・・・・・・
なわ・ふみひとさんという方が、「2012 年の黙示録」というサイトをやっています。
このサイトにある「魔 法の杖」というのは、面白くコインを振るのが面倒な時などは良く利用しますが、ダイアリーの コーナーというのがあります。

そこでは、アセンションについてなど、書かれているのですが、最近は、例の大本教の出口なおさんのお筆先の内容について、書いています。

船井幸雄さんによれば、出口なおさんは、なかなか素晴らしい人、ということです。
私は、詳しく知りませんので、この人については、特に言うことはありませんが、
ダイアリーの コーナーを読んでいて、ちょっとっっかかりましたので、書いてみたいと思います。



http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/tsubuyaki08.html# 落第組は地獄に永住では、
なわ・ひふみさんは、出口なおさんのお筆先集である 「大本神論・天の巻き」(平凡社)の中から、『「次元アップできなかった人間(魂)はどうなるのか」ということに関して参考になると思われる部分を抜粋し てご紹介します・・・』(以上引用)ということで、いくつも、ご自身の解釈と共に書いています。


その中で、ひとつ、「ん・・・・・・」と思ったもの があります。

引用しますと、

改心と 申 すのは、何事によらず人間心を捨てしもうて、知恵や学をたよりにいたさず、神の申すことを一つも疑わずに、生まれ児のようになりて、神の教えを守ることで あるぞよ。霊魂(みたま)を研(みが)くと申すのは、天から授けてもろうた大本の霊魂の命令に従うて、肉体の心を捨てしもう て、本心に立ち返りて、神の申すことを何一つ背かんようにいたすのであるぞよ。学や知恵や仏を力にいたすうちは、誠の霊魂は研(みが)けて おらんぞよ。(大正5年旧11月8日)

  「改心」の内容の説明です。知恵や学をたよりにせず、生まれたままの赤ちゃんのような心で、神の教えを守りなさい、と述べられています。「肉体の心」とい うのは、「欲望」全般をさしているものと思われます。
  「仏」というのは、たぶん霊能力のことを指しているはずです。最近は「レイキ」や「霊魂の体外離脱」などの手法を開発し、売り物にする人も出てきています が、普通の人はそのような超能力の習得を心がける必要はないのです。それよりも、現世的欲望から心を自由にすることが、もっとも大切な「改心」だと述べら れています。

(以上)
黒字がなわさんの解釈ですが、私が青文字を解釈するなら、こんな具合です。



「私の解釈」:
改心というのは、経験や過去を頼りにするのではなく、自分の中にいる内なる神を信 じて、赤ちゃんのように、生まれた時のように、振舞うことである。
魂を磨くというのは、天から授かった魂の声(好奇心)に従って、五感による判断を 捨て、人間の本来あるべき価値観・姿・・・すなわち、「”なること”ではなく”あること”」、「”嫉妬”ではなく”肯定”」、「”努力”ではなく”無努 力”」、「”経験”ではなく”直感”」、「”目標”ではなく”自然”」、「”信念”ではなく”自由”」、「4次元的能力がそうであるような”念力”ではな く、5次元的念力がそうであるような”蘇生”」というものにそうべきである。

経験、過去、”外側に広がりのあるイメージのある高次元”(高次元は内側に広がる ものである)に頼っているうには、本当の自分を分ることはできない。


どうでしょうか?
多くの部分が森田健さんの受け売りですが、今の私はこうだと感じます。


天から授 けてもろうた大本の霊魂の命令
を、私は、好奇心と解釈しました。
その人の魂(本質)の声、あるいは決められた運命というのは、好奇心にストレートに繁栄されていると、解釈しています。
しかしながら、多くの人は、好奇心と欲を同じものと解釈してしまい、また、好奇心は、唐突のない内容であることも多く、また好奇心に従うのは、社会的な常 識に反するような場合もあるので、それが自分の本質の声であることを、分らなくなってしまっているのではないか、と考えています。

その意味では、「法律に反してはいないが、人から”どうしてそんなことしちゃたの?”」と言われるようなことこそ、本質の声を聞いた証である可能性が高い もしれません。
もちろん、そこまで、極端でない場合もあるでしょうが。



肉体の心
を五感としましたが、これは、なわさんの「欲望」とさほど変わらない部分もあるかもしれませんが、良く分かりません。
私は、我欲でない欲はOKだと感じています。
また五感としたのは、「時間の概念」、「聞える音の周波数の概念」、「見えるものの概念」などといった、肉体がある故に分らない本当のこと、にも気づくべ きである、ということも、
肉体の心を捨てしも う て、本心に立ち返りて」ということは語っているのではないかと感じているからです。
「肉体がある故に分らない本当のこと」は、もちろん、輪廻転生、肉体と幽体、波動、など といったものも、入ると感じます。






本心に立 ち返りて、神の申すことを何一つ背かんようにいたすのであるぞよ
は、「
本心」を本来の価値観・本来の姿、としました。
先日書いた、下記の森田健さんの本からの内容です。

すると、この場合の「」とは、本質、内なる神、ハイヤーセルフ、大いなる自己、などのことです。


従来の価 値観・3次元的、資本主義的価値観
本 来の価値観・本来の姿
なること
あること
嫉妬
肯定
努力
無努力
経験
直感
目標
自然
信念
自由
念力
蘇生






を、なわさんは、「レ イキ」や「霊魂の体外離脱」などの霊能力のことを指しているはず、としていますが、
私は、政木和三さんの言う
「神は神社、仏閣などにはいない。神は願ったりしても、何も叶えてくれたりはしない。神は自分の中にいる。万一、神に願いたい時には、自分の中の神に願う ことである」、
あるいは、森田健さんの本に出てくる、体内離脱よる5次元以上の場所への到着の話、
などから、普通の人の一般概念である、外側にあると考えている高次元、というように解釈しました。




みなさんは、どう思うでしょうか?





私となわさんの解釈の決定的に異なるところは・・・
結論、中核を、
なわさんは、「現世的欲望から心を自由にする」→「道徳的に生きる」なのだと想像しますが、
私は、内なる神の声に正直に生きる、好奇心に素直に従って生きる、
としているところだと感じます。

また、なわさんは、「生まれたままのように神の教えを守りなさい」、としていますが、
私は、「
自分の中にいる内なる神を信 じて、赤ちゃんのように、生まれた時のように、振舞うことである。」としているところも、大きな違いだと思います。

私は、神と人間は対等だと感じています。

なわさんは、多くの人がそうであるように、神は、人の上の存在であり、教える存在であり、命令する存在である、としているように感じますが、
私は、人は神であり、少なくとも、魂は神と対等に繫がっている、と解釈しています。



みなさんはどう思うでしょうか?











さて・・・・・・
なわ・ふみひとさんの「2012 年の黙示録」の続きです。




「光の子」になれないのはどんな人か
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/tsubuyaki08.html# 「光の子」と「獣」
というタイトルではじまる内容についてです。

そこには次のようにあります。
引用します。

各予言の内容から判断しますと、「光の子」となって新しい次元に行けるのは人類の1割〜3割程度かも知れません。預言によっては1%ぐらいだと言っている ものもあります。特に、次のような人は「光の子」になれない可能性が高いと思われます。

 @ 「人生は一回限りだから、好きなことをやって、楽しんで死ななきゃ損」という考え方
   で生きている人。
 A 霊界や異次元などの神秘な世界の存在を認めず、科学ですべてが解決・解釈でき
   ると考えている人。(そういう人は死後の世界を信じることができないので、死ぬこと
   を非常に恐れる)
 B お金や権力、名誉などに対する執着心が強い人。
 C 何事に対しても感謝の気持ちが少なく、いつも不平不満を口にし、他人や世の中の
   悪口ばかり言っている人。
 D 自分の健康状態を異常に気にし、すぐに病院や薬を頼りにする人。


(以上)
なわさん自身は、私がサイトを見る限り、たくさん本など読んでおり、知識も豊富で、分析もきちんとしている方のように思われます。

その前提で、感じたことを書いてみたいと思います。

各予言の内容から判断しますと、「光の子」となって新しい次元に行けるのは人類の1割〜3割程度かも知れません。預言 によっては1%ぐらいだと言っている ものもあります。特に、次のような人は「光の子」になれない可能性が高いと思われます。
ですが・・・・・・

これは、人類が今のままだとした場合のケースで、なわさんが、いろいろなデータから考えた考察でしょう。

私は何かあるとは感じますが、合格できない人達が、消えてなくなる、というアセンション論には、今のところ賛成していません。
私の信じる神は、そういうことをしないからです。

それならまだ、船井幸雄さんの言う、合格できない魂は、他の星へ行き、初めからやり直す、ならば、あり得るかもしれない、と思います。
但し、私は、何かが起きてはいるが、創造主が魂を選別する、というようなことはあり得ないように感じています。
ですので、当然、私の解釈から言えば、今起きている何かによって、この星からどういう形であれ、いなくなってしまう人というのはいあにのではないかと思っ ています。

そうではあれ、何らかの規定により、何らかのことが人に対して起きる可能性はあるようにも感じます。

今のところ、この何らかの規定とは・・・・・・
なんでしょうか?
神と対等になる、でしょうか・・・



何らかのこととは、なんでしょうか?
この星から消えてなくなるではないとすれば、それは以外に、孫さんのような組成能力が持てるとか、あるいは物を食べる必要がなくなるとか、そういったこと かもしれません。
想像ですが。

1割〜3割、あるいは1%、と書いていますね。
これは、まったく分かりません。

ただ、下の森田健さんの言っていることが前提とするなら、1%もありえるかもしれませんね。


従来の価 値観・3次元的、資本主義的価値観
本 来の価値観・本来の姿
なること
あること
嫉妬
肯定
努力
無努力
経験
直感
目標
自然
信念
自由
念力
蘇生

なわさんですら、現状、これには100%賛成しては いないのではないかと想像します。

この表は、別の言い方で言えば、豆の蘇生の孫さんのような人間になる、ということと近いように感じます。
孫さんと同じような超能力者・・・時空との距離が近い人というのは、ひょっとしたら日本にもいるかもしれません。
あるいは、世界中探せば、ひょっろしたら、結構人数はいるかもしれません。

しかし、いても見つからないでしょう。
普通、病気が治せて、未来予知ができ、神の言葉が聞えると、教祖とか、あるいはそれに近い存在になってしまいます。
ただ、それでも、ここまでの能力で、教祖のようになっていない人というのは、日本にも何人かいるようです。

但し、孫さんは、ものの瞬間移動から、豆の蘇生(炒った豆から芽を出す)までできてしまうようです。
そして、これを、「神に択ばれた」とは解釈せず、「自然に任せているだけ」だと言っているようです。
つまり、どうも、時空との距離がそれだけ短いということは、それが自然であり、当人としては、だからどうした、ということはないようですので、至って普通 に暮らしていることでしょう。


むしろ私は、多くのアセンション関係の本などで書かれている人のあり方の方が、「できる」人というのは多いのではないかと思います。
ある意味、修道士、修行僧、宗教に敬虔な人というのは、良く言われているアセンションの望む人物像に近いのではないでしょうか?

むしろ、自分の好奇心に素直に生きている人の方が、よっぽど少ないように感じます。

一応勘違いがないように書いておきますと・・・
好奇心は上の表の構成要素の一部にしか過ぎませんが・・・好奇心と、欲、好き、は別物のようです。

私も、今ひとつはっきりしませんが、
救われるために人助けをするのは「欲」のようです。
世話が好きな人、という表現は成り立ちます。
あなたに興味があるから、もっとあなたのことを知りたい、は好奇心に一番近いようです。


ですので、「アセンションがあるから、良い人になろう」、というのは、きっと欲丸出しなのだろう、と想像します。

みなさんは、どう思うでしょうか?




@ 「人生は一回限りだから、好きなことをやって、楽しんで死ななきゃ損」という考え方
   で生きている人。
 A 霊界や異次元などの神秘な世界の存在を認めず、科学ですべてが解決・解釈でき
   ると考えている人。(そういう人は死後の世界を信じることができないので、死ぬこと
   を非常に恐れる)
 B お金や権力、名誉などに対する執着心が強い人。
 C 何事に対しても感謝の気持ちが少なく、いつも不平不満を口にし、他人や世の中の
   悪口ばかり言っている人。
 D 自分の健康状態を異常に気にし、すぐに病院や薬を頼りにする人。


ですが・・・・・・



@ 「人生は一回限りだから、好きなことをやって、楽しんで死ななきゃ損」という考え方
   で生きている人。

は、非常に誤解を招きやすい表現だと感じます。
おそらく、正しく言いたいことは、欲100%に生きる、というのはだめだよ、ということなのでしょう。
世間一般では、好奇心、欲、好き、はごっちゃになっていると感じます。

但し、私などは変わっていますので、昔、輪廻転生など知らなかった頃、あるいは確信していなかった頃は、「人生は一度だけなんだから、悔いのないように、 100%自分が納得できるように生きよう」と考えており、非常に生真面目であったように思います。

ですので、いずれにしても、人生は一度きりではない、ということを知ることは大切なのだろうと感じます。





A 霊界や異次元などの神秘な世界の存在を認めず、科学ですべてが解決・解釈でき
   ると考えている人。(そういう人は死後の世界を信じることができないので、死ぬこと
   を非常に恐れる)

ですが、その通りだと思いますが、科学信仰者のどう しても感じる矛盾は、科学はいつも進歩していて、昨日の常識が、今日の非常識の世界のはずなのに、どうして、「現在の科学で証明できないことは信じられな い」と言うのだろう、ということです。
要するに成長途中のものです。

「どうして、昨年まで着れた服が今年は着れないんだ?」
と、成長盛りの子供に言う親はいないはずですが。





B お金や権力、名誉などに対する執着心が強い人。

ですが、これは欲ですね。
救われるために善行を働くのも、これと同じ欲だと思います。
但し、この意識した善行そのものは、あまり人に被害をもたらしませんが。

それでも、本質的には同じなのでしょう。
この意味でも、多くのアセンションを解説する人の言っている事は、今ひとつ納得いかないところがあります。

みなさんは、どう思うでしょうか?




C 何事に対しても感謝の気持ちが少なく、いつも不平不満を口にし、他人や世の中の
   悪口ばかり言っている人。


は、そうなのでしょう。
波動の法則から考えても、まさしくそうですね。

但し、正しい批判、というのは言わなくてはいけないようです。
そのバランスが私には、うまくできませんが。

少なくとも、怒鳴る、怒る、暴力を振るう、はいけないようです。




D 自分の健康状態を異常に気にし、すぐに病院や薬を頼りにする人。

ですが、私は基本的に病院へは行かない人ですので、 良く分かりません。
但し、10年に1度くらい大病をしますので、その時に、集中的にお世話になっていますが(笑)。


風邪薬というのは、ほとんど飲んだことがありません。
飲むのは時々ひどい頭痛がありますので、バファリンを飲むくらいです。

しかしながら、鼻炎がひどかった12歳くらいから35歳くらいまでは、スプレー状の鼻炎薬がひと時も欠かせなかったですが。
今は治ってしまいました(笑)。
それ以来、一度も使ったことはありません。

ただ、思いますのは、具合が悪かったら、無理せず、病院へ行くのが良いように感じます。

上で言っているのは、書いてある通り、「異常に気にして・・・」という場合のことでしょう。
私のように、普段、おとなしくしていると治ってしまうので、病院へ行く癖が無く、気づいた時には手遅れで、10年に1度大病するよりは、良いように感じま す。
もっとも、それすら決まった運命かもしれませんが。












さて、続いて肉食の話ですが・・・・・・
まず引用です。

それから、これ は私個人の見解ではありますが、「E習慣的に肉食をしている人」も波動が大変粗くなっていますので、新しい次元の世界に行くことはむずかし いと思っています。多分、体内に蓄積された牛や豚など高等動物の波動は、終末ぎりぎりの次元アップのときには体を内側から焼くような熱となって、大変な苦 しみの原因となるはずです。
  牛や豚も人間と同じように意識を持っていて、自分たちが殺される前にそのことを察知しているといわれます。ですから、殺されるときの恐怖の念が体内に蓄積 されているのです。その肉を習慣的に食べる人には同じ恐怖心の波動が身に付き、蓄積されていくことになります。
                          ――『2012年の黙示録』118ページ〜


  この内容にコメントしておきますと、「E習慣的に肉食をしている人は、新しい次元の世界に行くことはむ ずかしい」と控えめに述べておりますが、本音を申しますと、これは断言してもよいと思っています。「肉食」こそが、「外国の教え(栄養 学)」の最も間違っている部分なのです。日本人の今日の病気の原因の大半は肉食、つまり動物性食品に起因していると言っても過言ではないでしょう。
  しかも、「肉食」が肉体の健康だけでなく、精神や霊魂までも汚して(曇らせて)いるのは間違いないと思っています。出口ナオに艮の金神の神示が降ろされた のは明治から大正にかけてのことですから、その当時はまだ一般の日本人はそれほど肉食をしていたわけではないと思いますが、それでも明治26年に降ろされ た最初のころの神示に「日本は神国の世であるから、肉食(にくじき)などはならぬ国を、あまり汚して、神はこの世におれんようになりたぞよ。世界の人民 よ、改心いたされよ」と述べられているのです。
  このあとの神示にも「改心」という言葉がよく出てきますが、「肉食をやめること」も大事な「改心」の一つだということではないでしょうか。外国(西洋)に 教えられた「肉料理」に対する執着からも自由になれない魂が、これから始まる終末の大混乱の中で冷静に生きることはできないと思います。多分、肉体に対す る執着心(死ぬことの恐怖心)から、慌てふためくことになるはずです。
  肉食を続けていると、潜在意識には必ず動物の本能とも言える「攻撃心」と「恐怖心」が蓄積されていきます。その心は、終末の大混乱の中では「まず自分が助 かりたい」という「我善し」の波動を強化して、見苦しい行動へと駆り立てられることになると思っています。残念ながら、「そんなことあるはずがない」と高 をくくっている人が大勢を占めているのが、今日の哀れな日本の姿です。
  いま『大本神諭』や『日月神示』を読み返してみますと、今日の日本の汚れの原因が、外国の教え――肉体を物質の寄せ集めと考え、病人を増やすことによって 成り立つ現代医学や、病人づくりに効果を発揮している栄養学――にあることがよく理解できます。
  なお、肉食に関する情報は「フツーの人が書いた黙 示録」の「肉食編」 に集めていますので、関心のある方はぜひご覧になってくださ い。


(以上引用:なわさんのサイトより)


肉食については、いろいろ言われていますね。
なわさんは、肉食を相当悪いものとして書かれているように感じます

関英男さんの本にも、肉食はいけない、ということは書かれています。
但し、関さんは、
「感謝して食べれば問題ない」
としていたはずです。

これが、本当なのか、それとも、食肉関係の団体に気を使ったものなのか、それとも、一切食べるな、ということに無理がある、ということを踏まえたものなの かは、良く分かりません。

いずれにしても、食事の前には、「いただきます」ですね。
終われば「ごちそうさま」です。
どうもあれは、作ってくれた人だけではなく、そういう意味もあるのかもしれません。


但し、 なわさんのサイトの別のページに出ていた、「動物は人間より体温が高いので、その油を人間が食べたら、溶かすのは大変・・・」という内容は良く分 かりますし、だれでも、納得できるのではないかと思います。

確かに、すき焼きで、これでもか、というほど煮ても、初めにアブラを引くために入れた脂身が入っていたりすると溶けません。




ケーシーさんの本によれば、基本的に鶏肉以外はだめなようです。
但し、”カリカリに焼いたベーコン”、”レバー”などは、問題ないようです。
要するに、脂身がいけないようですね。

ケーシーと言えば、今日、みのもんたさんが、リンゴダイエットをやった、というようなことを話していました。
病院の医師から薦められたそうですが、ケーシーのとは少し異なり、皮ごとのリンゴを朝一つ、昼2つ、夜は何を食べても良い・・・
でやったそうです。

相当やせたそうです。
これなら多くの方が、できそうですね。



肉食が攻撃性を招く、ということは、一時期、良く目にした説です。
最近聞きませんのは、何か意図があるのかもしれません。



例の40過ぎのアーチェリーのオリンピック選手の先生が、面白いことを言っていました。
なんでも、体重の話で、太り過ぎると、せかせかし過ぎ、太り過ぎるとおっとりしすぎるので、競技選手としての自分に丁度良い体重というのがあるそうです。
そういうこともありそうだ、と思いました。



沖縄では、良く豚肉を食べるのは有名ですね。
しかし沖縄の人はどちらかと言えば、おっとりしています。
やはり、もし肉食にいくらか問題あるとしても、単にいけない、ということではなく、何かあるように感じます。
なにせ、沖縄は、アトランティスの一部である可能性が高い場所だそうですので(謎)。







さて・・・・・・
しゃぼんだま石鹸を使い始めました。

良いようです。
頭もそれで洗っています。
ごわごわしません。
非常にさらさらです。
冬で湿気がないせいもありかと思いますが。

船井幸雄さんの本などに書かれていますが・・・
しゃぼんだま石鹸は、私が幼少のころは、花王石鹸、牛乳石鹸などと同じくらい有名でした。
会社も儲かっていたようです。

しかし、なんでも、国鉄用の電車を洗う石鹸などは当時から、一般用とは違い、今のような有機石鹸であったようです。
科学石鹸(?)・・・要するに一般用ですが、それで洗うと、すぐに錆びてしまっていたようです。
それで、社長さんが、有機石鹸を使うようにしたら、家の近くの側溝には、昔のように糸みみずが生息し出したそうです。
そして、環境に良くないものが体に良いはずはないとして、有機石鹸の製造に入ったようですが。
しかし、当初もうからず、会社も傾き、前後しますが、社長さんも体を壊してしまったようです。

体を悪くした3次元的理由には、「体に悪いものを売る」と言うことに対しての、自責の念もあったようです。

なんでも、社員も数えるほどしかいなくなってしまったようですが、いよいよ最近、EM石鹸が軌道に乗ってきたそうです。
確かに、まだお店には並んでいませんね。
私は通販で九州の業者から買いました。
実家と妹にも、持って行ってやりました。

九州は確か、しゃぼんだま石鹸の地元のはずです。
やはり地物とは多少有利なのでしょうか?

私の家の近くにはビクターの工場がありますが、個々駆動沿いのさびれたところにひとつある電気やさんには、ビクターの大きな文字が見えます(笑)。

何せ、4,5駅行けば大きな量販店がいくらでもありますので、大変ですね。





トレハロースも買いました。
これは・・・ロースと言っても肉の話ではなく、政木和三さんもいたあの林原研究所と言いますか、林原が開発した有名な甘味料です。
化粧品などにもなっていますので、女性の方の方が良く知っているかもしれません。

どうも、砂糖もいけないようです。
但し、私は甘いものが好きですので、蜂蜜などいろいろ試しましたが、基本的に甘味料はトレハロースにしようと思っています。
ただ、購入はしたのですが、刑事ドラマのような、”白い麻薬が入ったビニール袋”状態で送られてきましたので、本物かどうか、良く分かりません(笑)。
本物でしょうが。
一度、林原に送って、検査してもらおうかと思っていますが、してくれるでしょうか?


ちなみに、林原はコマーシャルもやっていて、宇宙人が出てくる印象的なものです。
政木さんを多少意識しているのでしょうか(笑)?






さて、昨年の船井幸雄オープンワールドで岡田多母さんが言っていた次の変化の時ですが、確か1月26日のはずです。
この日前後に、主に心に変化がある可能性があるかもしれません。
その前は7月だったはずです。
岡田多母さんは、アセンションと言う言葉は使っていませんが、何かある派(?)です。
本など読みますと、ついていけない人は、やはり創造主に消されてしまうような内容がありましたので、半分以上はアセンション論と同じなのかもしれません。

その点は、今ひとつ納得していませんが、神と対等の岡田多母さんの聞いている啓示ですので、気には留めています。
何か大きな解釈の変化があることを待っていますが。

それと、このように、他の方とは異なり、具体的に日にちが出てくるところあたりが、逃げていないものを感じて好きです。
もちろん逃げてよいと思いますが。

そして、また聞きではなく、日本では少ない直接啓示を受けて、それをリアルタイムで発信している人ですので、興味深いです。
もちろん、また聞きの解釈・・・でも良いとは思いますが。


多くの方は給料日の次の日ですね(笑)。
何かとても分かりやすいことが起きるケースがありそうで興味深いです。

何でも一つの特徴としては、以前の友人などと別れるなどのことがあったりするようです。

政治・経済などで目に見える変化があれば分かりやすいのですが、しかし、ニュースに上がってくるまでには、変化後、しばらく時間がかかるでしょう。
北朝鮮の偉い人が中国へ行っていますが、何か発表でもあるでしょうか?
あったとしてそれが自発的な変化か?それとも決まった運命なのか?興味深いです。

給料日に関係のある変化なら・・・
10年ぶりに奥さんに、プレゼントを買った、だなんていうのが私には甘くて好きですが・・・
甘いならトレハロースくらい、体に良いのが良いですね(笑)


どうしても今日は、軟派な文章になってしまっています(笑)。
変化でしょうか?(なわけないでしょう)。


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クリスマスアルバムのコーナー    2005年船 井幸雄オープンワールドの感想
                       

 

 

 

 

 

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