理由もなくこればかり聴いてしまうCDのコーナー

CDはたくさんあるのですが、なぜか、いつもこればかり聴いてしまうCDを紹介します。

 

 

1〜20   21〜40   41〜60   61〜80   81〜100   101〜120   121〜140   141〜160   161〜180 181〜200      
201〜220   221〜240   241〜260   261〜280   281〜300                        
クリスマスアルバムのコーナー                          

 





201: Summer Breeze:前田憲男&ヒズ・オーケストラ
   
  前田憲男さんの、イージーリスニング・アルバムです。

最近購入しました。
このアルバムには、私がどうしてもCDでほしい、と思っていた曲の内のひとつである、前田さん演奏の「いそしぎ」が入っています。

CD時代になって以来、20年余りの間探していましたが、とうとうみつけました。
インターネット・オークションです。
最低落札価格 2500て、出品されていましたが、2週間ほど売れていませんでいたので、メールを送り、「送料込みで、2000円にしてくださ い」とたずねました。

結果、目出度く、その金額で購入することができました(祝!)

いままでは、この曲は、20年以上前にテープに録音したものを、WEVEファイルに落とし、聴いていましたが、さすがにワウフラが多く、聞き苦しいもので した。
特に、私の耳には、ピアノのワウフラは、ほかより敏感に感じます。
ほかの人もそうかもしれませんが。
あのピーン、という音色だと、ワウフラは、大きく影響しますね。


14曲入りです。
検索しても、どこにも出てきませんでしたので書きませんが、20年前のピアノヒットである、「渚のアデレーヌ」、渡辺さんの「カリ フォルニア・シャワー」、「ミスター・サマータイム」などなどが入っています。

後半は、オルガンで、「サマー・サンバ」などが演奏されています。


確かに、願いは叶い易くなっているのかもしれませんね。
あるいは、インターネット・オークションのお陰かもしれませんが。




さて、自由とは、何か?ということを、以前より考えることがあります。
みなさんは、何だと思いますか?


はじめて意識したのは、ソニーから「リバティ一」という名のミニコンポが登場した時だったように思います。
その時は大学の2年生くらいだったように思いますが、「リバティ(liberty)って、自由だよな?”フリー: FREE ”と、どう違うんだろうか?」
と考えたのが、意識して”自由”を考えた最初だったように思います。

その当時、どういう結論を出したのかは、良く覚えていませんが、きっと、大したものではな かったと思います。

当時は夏目漱石の個人主義という考え方に傾倒していましたので、まずもって、 大河の流れ、ネットワークというようなものからは、遠く離れた結論(仮説)であっただろうと考えます。
西洋よりだったのです(笑)。
どうも、自由を考えるのなら、大きなネットワークを考えないことには、真実に近い答えは出てこないように感じます。



自由とは、一般的には、”自分の思い通りになんでもできること”だと思います。

あるいは、何の制約も受けないこと、とも言えると思います。
そうなりますと、自分ですら、その制限になり得るかと考えます。

そうしますと、この自分という制限すら排除しなければ、本当の自由とは言えないのかもしれま せん。
以前はお金さえあれば、100%ではないが、大抵の自由は手に入るだろう、とも結論付けていた時期もありましたが、それでも、”自分”という存在の制限 を受けていることになりますので、本当の自由ではないのかもしれません。

”自分”の制限とは、たとえば、自由でない考えによる判断・・・つまり・・こうしてはいけな いのではないだろうか?というようなものや、こうしかできないだろう、というような考えのことだと感じます。

もちろん、何でもやって良いということではないのだと考えますが。
しかし、本当にやってはいけないこと、というのは、何なのでしょうか?
人殺しなどはいけないと感じます。

ただ、変な話で、緊急時の・・・つまり、この人を殺さなければ、私が死んでしまう、という状 況での人殺しは合法のようです。
ただ、これは、人間が「地の理」で考え付いたものですので、”本当”という意味からは、きっとはずれているのでしょう。

本当にやってはいけないこと、というのは、何なのでしょうか?
今のところ、関英男さんの「ご法度の心」に基づくことが、それにあたるのだろうか、と、私的にはしてありますが、まだ良く分かりません。

みなさんは、分かるでしょうか?


もし可能なら、私はこれを、神と直に会って、聞いてみたいと思います。

こう考えて行きますと、それでは、一体、何が自由なのだろうか?と考えてしまいます。

やはり、上記のような発想からも、ハンドルを手放す、他力に委ねる、ことこそ、本当の自由、 ということなのかもしれません。
つまり、本当の自由とは、自由意志による自由ではなく、時空のシステム、ネットワークの言いなりになること、であるのかもしれませんね。
実際は、良く分かりませんが。






ところで、先ほど、考え事をしておりましたら、どうも自分は、本能を制御する、ということをやってきたかもしれない、という発想が登場しました。
私の意識では、昔から”欲”を制御する、ということをやっているな、という意識はありました。
どうも、それが、過度なので、何かがおかしいな、と考え、最近は、我欲はいけない、そうでない欲は、どんどんやるべきだ、そうとは言え、「宇宙の理」には 則そう。
「ご法度の心」に触れることもしないようにしよう、などと勝手にいろいろ考えてやっていました。

ただ、その中で、現在はほとんど癖、習慣に近くさえなっていたようなのですが、本能を制御しよう、本能こそは欲なのではないか?というような考えが潜在意 識のレベルで、蔓延っていたような気がしてきました。
もちろん仮設ですが。




しかし、もう少し深く考えていくと、その自分が”本能”と考えていたものは、本能ではなく、むしろ、時空からの”回答”に近いものだったのではないかとも 思えてきました。

つまり、何かが、ピン、と頭によぎると、”これは悪しき欲に違いない”と考えていたわけですが。
それらは、つまり、異性絡みであったり、金絡みであったりもすれば、右、ということであったり、左、ということであったり、あるいは、数字であったり、 もっと具体的な何かであったりもしたかもしれません。

簡単に言えば、一種の衝動です。

私はこの”衝動”を全て、本能として、扱い、迷惑メールとして、削除していた可能性があります。

どうも、これはいけないように感じます。




なぜ、このような間違い(仮説ではあるが)をしたかを考えてみると、たとえば、「女性を抱きたい」という衝動にかられたとします。
しかし、この衝動は、本能によるものなのか、欲によるものなのか、あるいは、何らかの回答によるものなのか、を分けることができなかったのだと感じます。

まず、時空から何らかの回答が来る、だなんて言う発想は以前はありませんでした。
ですので、このカテゴリーは存在しませんでした。

とすると、衝動は全て、本能か、欲かとしていたのではないでしょうか?


もし、この仮説が正しいのならば、どうも衝動にかられた時は、「これは、なんなのだろう?」ということを、もう少し、吟味してみる必要があるかもしれませ ん ね。

ただ、時空からの答えは、問いを発したときにしかこないようですので、問いを発せずに、衝動を得たら、それは、本能か、欲かと思った方が良いのかもしれま せんが。
みなさんは、衝動に対してどう対処しているでしょうか?



付け足しておくとすれば、衝動には、本能、欲、時空からの回答、以外にも、素直な気持ち、というのもあるのように思えます。

この素直な気持ちというのも、なかなかむつかしいものを持っているように思います。
大抵のことは、素直な気持ちに従って良いのだと感じますが、たとえば、「もう〜〜したくない」というような素直な気持ちが芽生えた時、これは”根気のな さ”からくるものなのか、それとも、自分の生命体レベルで、「もうやめたほうが良いよ」というメッセージなのか、の区別が、私にはつかないことがありま す。


もっぱら、病気で倒れる時というのは、このパターンなのではないかと感じますが、決められた運命なのかもしれませんし、問いの結果なのかもしれません。

みなさんには、そういうことはないでしょうか?


どうやら、”衝動”は、必ずしも、”本能”でも”、悪しき種類の欲”でもなく、何か大きなネットワークを通じてやってきた”答え”である時もある、と いうことを考えておいたほうが良い、ということは言えるのかもしれませんね。
本当は、良く分かりませんが。


前田憲男さんでした。

202:HACHIDAI NAKAMURA: 中村八大
   
  1958年の録音です。
ギター:永田暁雄さん、ドラム:五十嵐武要さん、などが加わっています。 

1.トゥ・ラブ・アゲイン
2.魅惑の夜
3.枯葉
4.ムーンライト・セレナーデ
5.ベサメ・ムーチョ
6.虹のかなた
7.誰かが私を愛している
8.ブラジル
9.インディアン・ラブ・コール
10.マンハッタン
11.デ・キエロ・ティヒステ
12.ストレンジャー・イン・パラダイス
13.ブルー・ムーン
14.デリカード


中村さんは、ジャズピアニストとしても、歌謡曲の作曲家としても有名です。
「黒い花びら」をはじめ、たくさんのヒット曲を書いていますが、「上を向いて歩こう」は、中村さんの最大の代表曲かもしれません。
この曲は、昭和36年(1961)7月の中村八大リサイタルで、初めて坂本九さんによって歌われたそうです。
この曲が、全米ナンバーワンになるのは、昭和38(1963)年です。
このアルバムが録音されてから、ちょうど10年後ということになりますね。

いろいろなことが書かれているこの曲ですが、坂本さんのカントリー&ウエスタン調の歌い方が、ヒットの原因ではないか?と書かれていたものがありました。
確かに、そういう歌い方をしていますね。
もちろん、ヒットの原因は、それだけではないとは思いますが。

 坂本九さんは、私が、幼少のころは、良くテレビに出ていました。
と、言うよりは、飛行機事故の直前まで、人気者であったということなのだと思います。

小学生の始めの頃だったか、幼稚園の頃だったか、山手線で目黒駅の近くを通ると、母親が、 「あれが、キューちゃんが買ったマンションだよ」と言っていたのを思い出します。



岡田多母さんの「愛しの地球(テラ)へ」(1996年:風雲舎)を読みましたが、なかなか深いと感じます。

自然の声を聞くことにより、疑問が起きた時など、解決方法を教えてもらえるそうなのですが、そんな中で、本当に自分が望んでいることなのか、声の主たちが 自分に思わせていることなのか分からなくなってきたそうです。
自分が操り人形のように感じ、不安であったこともあるそうです。
自分が決めたと思うことでも、もしかしたら、思わされている、決めさせられているのではないかと、訳が分からなくなったそうです。

何も決めずにやっていこうともしたそうですが、決めないと何もできないので、「どうぞ、ご自由に」と身を投げ出してみたということです。

62ページには、
「さあ、何でもどうぞ」と力を抜いて、何も気にせず、決めたことをやってみまし た。

とあります。

すると、拘束はされているけれど、実は無拘束なんだということが分かってきたそうです。

62ページには、下記のようにあります。

思わされているとしても、その思いを実現すつ方 法、つまり生き方については、私の自由選択にまかされているように感じてきたのです。
仮に私たちの自由意志が、本来のプログラムの範囲内だとすれば、たしかに自由意志は、百パーセントないと言い切れると思います。でもその実現方法の選択肢 は、百パーセントあります。創られた肉体をどのように使うか、どういう方法でやっていくのか、創り手の思いを受け取るか否か、その選択において、私たちは 自由です。



私の解釈では、岡田多母さんの考えは、やはり、大河の流れは、決まっているようだが、その決められた運命のポイントに行き着く方法については、自由意志が あるようだ、ということのように感じます。

63ページには、「自分の意思どおりに動かせるところは、この世を生きていく実際の行動に関 係している部分」、自分の意思で動かせないのは、「自然に生かされている部分」のようだ、ということが書いてあります。

以下、
生かされている部分が基本にあって、生きていくという部分に自分の自由な意思を 選択していけるように、私たちはつくられていると思うのです。


と続きます。

更に、

「思わされ、決め させられた」ことでも、生きていくという実際の行動のなかで、「思い、決めて、自由に選択していくこと」、それをスムーズに行うことが、自然の摂理に従っ て生きるということだと私は思います。ここに自らの自由意志が生かされます。

とあります。

先に書いた、私の解釈を、違う言い方をしているように読み取れます。


この岡田さんの考えが正しいかどうかは、良く分かりませんが、もしそうであるのなら、いくら か、”生きやすく”感じられてきます。

運命が決まっている、ということは、船井幸雄さん、森田健さんはじめ、何人かの方が、語って おり、私の、正しいように感じます。
ただ、どうしても、気になるのは、「何が決まっていて、何が決まっていないことなのだ?」ということです。
みなさんは、どこまで決まっていると解釈(仮説)しているのでしょうか?


岡田多母さんの言っていることは、大きな人生の流れの中で、ポイント、ポイントが決定されて おり、どういう方法を取っても、結果そこに行き着くようになってはいるが、その”どういう方法を取っても”の”方法”だけは、自由意志で決定していくこと ができるのです、ということだと思います。

つまり、決まっていることは、それぞのポイントでの結果であり、自由に選べるのは、そこに行 き着くための方法である、と言っている訳ですので、”決まっていること”と、”決まっていないこと”が、分かりやすく分けられています。


そうなのかもしれない、と感じています。
良くは分かりませんが。



タモリさんは、昔から良く、「”なるようにしかならない”んだから、じたばたしても、しょうがないじゃない」という言葉を言います。

深夜放送から辿って行けば、「笑っていいとも!!」を含めて、人生の半分以上を、ほとんど毎日接してきたようなものですので、さすがに耳につきます (笑)。

その言葉が、「何かありそうだが・・・」と思いつつ、良く分からない部分があったのですが、ひょっとすると、岡田多母さんの言っていることを
表現しているのかもしれません。


「私たちに、選択権があるのは、ポイントに行き着く方法のみ」、
そして、
「そのポイントは、生まれた時から決まっている。しかしながら、分かりようはない。」、
「ならば、じたばたしても、仕方がないではないか?」

もっと言えば、
「自由意志に任されていた、どのようにポイントに行き着くのかについては、もうきちんとやりました。満足感(すがすがしい気分)でいっぱいです」
ということなのかもしれません。


みなさんは、どう感じるでしょうか?





そう考えてみると、なかなか楽しい人生が歩めそうです。
こういうことです。
「大金持ちになるのが決まっているとして、どういう手段でなりたい?そうだな、・・・・・・・」

いかがでしょうか?

もちろん、なんでもい良いのですが。
「あの人と結婚することは、決まっている、として、どういうふうに、結婚までたどり着くのが、面白いだろうか?」
でも、良いのだと思います。

タモリさんが、楽しそうにしているのが、少し分かったような気がしてきました。


中村八大さんでした。


203:SWINGING PIANO NO. 1:八城一夫
 
八城一夫さんのアルバムです。

1985年の録音です。
バブルの頃ですね。

ギター:潮崎郁男、ベース:遠山晃司、ドラムス:石松元、のみなさんです。

ところで、八城さんの息子さんが、シンセサイザーかなにかを、この時期弾いていたように記憶していますが、プロになったのでしょうか?
よく分かりません。

曲目です。

1:スリー・リトル・ワーズ
2:その手はないよ
3:ラヴ・ミー・オア・リーヴ・ミー
4:インディアン・サマー
5:アイヴ・ゴット・ア・ワールド・スターティング
6ビギン・ザ・ビギン
7:アット・サンダウン
8:ソリチュード
9:ジェニーの肖像
10:サボイでストンプ
11:センチになって
12:踊り明かそう

私がCDで所有している八城さんのアルバムの中では、音の感じ、内容ともに、一番のお気に入りです。
もっとも、一番好きなのは、東芝から出ていたカクテルピアノものですが。

八城さんのクラブでの演奏は見たことがありませんが、コンサートでは見たことがあります。
確か、日本青年館だったように思います。
ただ、あまりに気持ちの良いピアノでしたので、途中から眠ってしまいました。
決してつまらないので、寝てしまったのではありませんので、ご了承ください。

当然、生前ですので、もう10年以上前のことのはずです。
5大ビッグバンド決戦のコンサートか何かだったような気がしますが、どんなコンサートだったか、定かではありません。
ひとつだけ妙に覚えているのは、そのコンサートで、昼から何も食べていなかったか何かで、始まる前に、ポテトチップとコーラを必死になって食べていたこと です。

3:「ラヴ・ミー・オア・リーヴ・ミー」、は、ご存知の通り、「バードランドの子守唄」の元曲ですね。
まったく同じコード進行の曲同士です。
ここでも、バードランドの1フレーズが出てきます。



ギターの潮崎郁男さんで思い出すことがあります。

確か中学生のときだったと思います。
当時、周りにジャズを演奏する友人が一人もいませんでしたので、スイングジャーナルだったか、ジャズライフだったかのメンバー募集を見て、同い年くらいの ギターを弾いている男性を見つけ、家に来てもらいました。
何時間かセッションをして、彼が、プロになりたい、というような話をしました。確か。

そのときに、何かの拍子で「確かギターの潮崎郁男さんが弟子を取っているはずだ」と私が言ったように記憶しています。
雑誌か何かで知ったのか、どうだったのか良く覚えていません。
本当かどうかも分かりませんが(笑)。

また、確かその時、その彼が、知り合いだったか、自分の父親だったかが、焼き鳥やさんか何かをやっていて、鈴木章治さんの知り合いなので、どうした こうした・・・、という話もしたように思います。

潮崎郁男さんは、当時鈴木章治&リズムエースのメンバーだったので、そういう話が出たのかもしれません。
以上、後半は、今急に思い出しました。



さて、岡田多母さんの「愛しの地球(テラ)へ」(1996年:風雲舎)を読みましたが、まだまだいろいろ面白いことが書かれています。

77ページには、「アル」の物語、というタイトルで、書かれています。

それによると、まだ何一つ始まりを迎えていなかったころ、「アル」という存在だけがあったそうです。
その「アル」がある瞬間、ある思いを抱きました。
そしてその思いは、「アル」自体の意思となります。
その瞬間アルの意思はひとつに結集され、そのすべてを想像(この漢字で正しい)します。

ひとつに結集された意思はアルのすべての想像を決定し、実行に移されたそうです。(インパルスの発生)。
ここから、すべての創造が始まったとしています。


その結集された意思は、創造の源となり、創造の担い手を生み出します。
そして、その担い手は、具現化を始めます。

具現化のため、すべての創造の「根本」が生み出され、これは、源の意思けってを現すための情報「光十波(コトハ)」を生み、コトハによって、創造の 具現化を始めました(生命の誕生)。

コトハは、結晶系を生み、結晶系は構造系を生み、それが構築されて具現化した、とあります。



・アルの結集された意思、源は、素示一光顕太祖(ソシイツコウラタイソ)、
・創造の担い手「元」は、七次元神界と呼ばれ、
・創造の「根本」は、六次元界、
・コトハの結晶は、五次元界、
・構造系は、四次元界、
・創造の具現化(形)は、三次元界、

と呼ばれるようになったそうです。



・元である七次元は、創造のプログラムを確認し、
・根元である六次元は、創造のポロ背スを確認し、
・コトハの結晶系である五次元は創造のメカニズムを確認し、完全な流れとして「ススメ ススミ ユク ミチ」を組み込み、
この流れで、創造は進んでいくことになったそうです。
調和と秩序の完成です。


追って、「宇宙の理と時空のコーナー」に書きますので、途中ははしょります。


それぞれの宇宙はその存在を認められ、あらゆる情報が存在として明確なものになったそうです。
明確になった存在の状態に呼び名が付けられ、最も明確な状態のものを代表として、想像のまとめを成立させたそうです。
各次元を神界と呼び、その代表としての情報の総合体は、下記のような名前が付いたということです。

アル:(私の考え:創造主の上なのか?それとも創造主なのか?)

源=素示一光顕太祖(ソシイツコウラタイソ)=アルの結集された意思:(私の考 え:創造主か?)

七次元
七地身一王之大御神(アメツチミヒトツオヲノオオミカミ)
母止津和太良世之大御神(モトツワタラセノオオミカミ)

六次元
底津岩根之大御神(ソコツイワネノオオミカミ)
根本ミロク之大御神

五次元
天照日之大御神(アマテラスヒノオオミカミ)
日之大御神(ヒノオオミカミ)
月之大御神(ツキノオオミカミ)

四次元
国常立大神(クニトコタチオオミカミ):七十六神の総本

三次元:
ヒト(人類)


その後、四次元神界と三次元神界でいろいろあり、大きく体制を立て直したそうです。

それが、以下のようなものです。


七次元
天地身二太神(アメツチミタイシン)
母止津流顕太神(モトツルラタイシン)

六次元
底一深根太神(ソコイツシンコンタイシン)
根本基母光和太神(コンポンモトモコウワタイシン)

五次元
天一素照光太神(アメハジメモトテラシコウタイシン):(日・月合体)

四次元
国常立大神(クニトコタチオオカミ):七十六神の総本



こうは書いていますが、岡田さんのやっていることは、神道でも、大本教でもない、ということです。
本によれば、よく、聞かれるそうです。

この章の詳細は、別途、「宇宙の理と時空のコーナー」に書きます。


一応、並べてみました。

以  前
現  在(1990年以降)

七次元
七地身一王之大御神(アメツチミヒトツオヲノオオミカミ)
母止津和太良世之大御神(モトツワタラセノオオミカミ)

六次元
底津岩根之大御神(ソコツイワネノオオミカミ)
根本ミロク之大御神

五次元
天照日之大御神(アマテラスヒノオオミカミ)
日之大御神(ヒノオオミカミ)
月之大御神(ツキノオオミカミ)

四次元
国常立大神(クニトコタチオオミカミ):七十六神の総本

三次元:
ヒト(人類)

七次元
天地身二太神(アメツチミタイシン)
母止津流顕太神(モトツルラタイシン)

六次元
底一深根太神(ソコイツシンコンタイシン)
根本基母光和太神(コンポンモトモコウワタイシン)

五次元
天一素照光太神(アメハジメモトテラシコウタイシン):(日・月合体)



四次元
国常立大神(クニトコタチオオカミ):七十六神の総本



不勉強で、恐縮ですが、 天照日之大御神(アマテラスヒノオオミカミ)が、皇族の初めである、天照大神のことなのかどうか、よく分かりません。
会えることがあれば、聞いてみたいと思いますが。


さて、最近いろいろ考えていますが、あるがままの自分の肯定、ということが、頭に残っています。

昔からいろいろな機会で聞く言葉ですし、森田健さんも、「ハンドルを手放せ」の中で、似たようなことを書いています。

正木和三さんなどが言うような「救われるために善行を行っても仕方のない」、ということにも、通じるように感じます。

岡田さんがこの本のどこかで書いているように、「世間のために、何かよいことをしようと思うことによって、貢献するということではなく、その人が、その人 ら しく生きるさえすれば、それが自動的に、貢献するようになっている・・・」という」ような意味の内容にもつながることなのだと感じます。



それらを踏まえて、いろいろとものを見ていますと、どうも、「全て素直に判断すればよい」ということが、思い浮かんできました。

それはつまり、自分の意識レベル以上のことを、ハンドルを握り締めてやったとしても、善行にもならないし、よい結果にもならない、ということであり、自分 という人間の志向の枠を超えたことを、強引にやったとしても、何の結果も得られない、ということであるように感じます。
仮説ですが。

たとえば今、テレビで、1枚200グラムくらいのステーキで、50000円もするものを放映しています。
食べにきたのは、若奥さんでした。旦那さんは、田園調布出身の190センチもある長身のお医者さんだそうで、自身も、フードコーディネーターをやっている のだそうです。

まず、これを見て、私は、50000円のステーキなんて、贅沢すぎて、食べたくない、と思いました。
これは、素直な意見だと感じました。

同時に、「関英男さんの本に、牛肉は、霊が残っているから、食べない方が良い、と書いてあったな。そうか、それじゃ、食べたくない」
と思いました。
しかし、これは素直ではありません。
50000円は別にして、「口に入れただけで、とろけてしまうステーキ」を食べたい、という考えを、「関英男さんの本に、牛肉は、霊が残っているから、食 べない方が良い、と書いてあったな。」という知識が、否定しているように感じました。

これなどは、無理してハンドルを切っているような感じがします。
ひょっとしたら、本当に牛肉は食べない方が良いのかもしれません。豚肉はもっと悪いも書かれていました。
しかし、それは、きっと、意識レベル、霊性が、相当上がった時に、自然に食べたくなくなって、初めて、何らかの意味があることのように感じるのです。

私の今の意識レベルで、素直に判断すれば、
「50000円なんて、人の1回の食事として、どんなにお金持ちでも、本当に贅沢だ。せいぜい1万円にして、残りの4万は毎回寄付でもすれば良い。」&「 このとろける牛肉は食べたい」
これが、最も素直な考えのようです。

それを無理して、今の私が、たとえば、イメージトレーニングのため、と称して、
「1食5万の食事がしたい。この牛肉を毎日食べたい」
とするのも、間違いですし、
逆に、思いっきり精神世界的な方向に行ってしまい、
「食事は、味噌汁と、ご飯だけあれば良い。肉など魂のあるものは絶対食べない。野菜は人に食べられたがっているから、野菜しか食べない」
などとと、するもの、レベル不相応なのだと思います。



次に、食事に来た時間帯(昼間)、風貌などから、「お金持ちのお嬢様か、きっと、だんなさんが経営者かなにかだな」
と思いました。

1,2秒後、「ひょっとしたら、最近良くいるやり手若手女性経営者かもしれない」とも思いました。

正解は、先に書いてある通りなのですが、どうも、始めの考えが、私の素直な考えのようです。
次に2つ目の考えが浮かんだのですが、これはきっと、嫉妬、あるいは、がっかりしないための防護策ではないかと推測します。

始めの答えは、状況を推測するに対して、なかなか的確であったようです。
しかし、すぐその後に出たもう一つの答えは、素直ではないのでしょう。

どう素直ではないのかと言えば、ひとつは単純に、「もし間違えていたら嫌だな」であり、「もう少し慎重に答えを出そう」という社会的経験的知識が入ってき ているからであり、「生まれつきのお嬢様なら、それはそれでそういう人生だから良いが、こんなに若い人が、自分で会社まで経営して、昼間から5万円のス テーキを食べに来ている、という人生を歩んでいる」ということへの潜在的嫉妬が、もうひとつの答えを出させたのかもしれません。


つまり、強引にそのままの自分を捻じ曲げるような、ハンドルを思いっきり切るような、小動物が、敵に対して、体を思いっきり大きく見せる行動をするような ことは、全て、「素直な」とは言えないことなのかもしれません。

但し、これも、意識レベルによるのかもしれません。
これらは、具体的な例としては、今の私(今の意識レベルやあるがままの私)にとってのことであり、ほかの意識レベルの人にとっては違うのかもしれません。
つまり、猫にとっては、別に、大きな敵に対して、体を大きく見せる行動をすることは、素直な行動であるのかもしれない、ということです。

あるいは、美食家にとっては、「50000円とは言わず、10万円でも食べたい」が、素直なのかもしれませんし、食べ盛りの人にとっては、5万円分、ハン バーガーが食べたい、と思うのが、素直なのかもしれません。

それこそ、関英男さんにとっては、「牛も、豚も、食べない」というのが、もっとも、素直な行動だったのでしょう。


どうも、もし、だれかを参考にしようと思うのならば、できれば、あまり意識レベルが違わず、しかも、どこか似ている人を参考にするのが、良いのかもしれま せんね。

自分は、なんにでもなれるのだとは、思いますが、それはきっと、むしろレベル的な方向のものであり、種類的な方向のものではないのかもしれません。

その意味では、船井幸雄さんの「好きで、得意なことをする」という言葉は、従来とは若干解釈が異なるかもしれませんが、理解できるものなのかもしれませ ん。



八城一夫さんでした。

手が小さくとも、体が小さくとも、良いピアニストになれることを、実証してくれた方です。




204Live at B-Flat SUKIYAKI: Yoshiko Fukuda
   
   世良譲さんの秘蔵っ子だったのでしょうか、福田良子さんのアルバムです。
世良さんのサイトには、以前、福田さんのページがあった ようです。

私の知っている限り、世良譲さんが参加した最後のアルバムです。2003年6月18日の録音です。
世良さんは、3曲に参加しています。
世良さんが他界したのは、2004年2月17日ですので、亡くなる8ヶ月前ということですね。

メンバーは、ローマ字表記しかありませんが、
ドラム:キムラ・ユキオ
ベース:ヨコヤ・マリョウイチ
テナー、クラリネット:ウコン・シゲル
ピアノ:ウンノ・タダタカ
のみなさんです。

右近茂さんは、谷口英治さんのライブで、テナーを吹いてていた人だと思いますが、ほかの方は私は知らない人です。

世良さんは、7,9,10の3曲に参加ですが、下記が曲目です。





曲目

1:You'd be so nice to come home to
2: My Funny Valentine
3: Straighten Up and Fly Right
4: As time goes by
5: Old Devil Moon
6: Lullaby of Birdland
7: Someone to watch over me
8: On Green Dolphin Street
9: SUKIYAKI
10: All Right, Okey, You Win


プレイは実に世良さんらしいものです。

今まで何も知らなかったのですが、9に「スキヤキ=上を向いて歩こう」、がありますが、これは、世良さんにとっては、忘れられない曲だったようです。
今、世良さんの命日を調べるため、検索をしたのですが、そのページに次のようなエピソードが掲載されていました。
私も始めて、見るものです。
キャッシュでしか、出てきませんので、だれのサイトだか定かではありませんが・・・・。


その人と、世良さんが札幌の世良さんの馴染みのおすし屋さんで食事をしていたときのことのようです。
世良さんは、そのときすでに10年以上も経っていた、坂本さんの乗った飛行機事故の話をされたようです。
坂本九さんが、例の飛行機に乗る日に、空港のカウンターでばったりと会ったそうです。
坂本さんは、本当はあの飛行機にはのらない予定だったようですが、どうしても、仕事の都合で、乗らなくてはならなくなったようでした。
詳しいことは省略されているようですが、とにかく、坂本さんは、その飛行機に乗り、事故にあわれました。

省略されている部分になにがあるのかは分かりませんが、世良さんは、
「俺はこの苦しい思いを、一生引きずっていかなきゃならないんだぜ・・・解かるかい」
もしも、世良さんが羽田空港に行っていなければ九チャンはあの便には乗らなかったかも知れない・・・と世良さんは自分自身を責めていたそうです。


この文章を書かれた方は、
『私は世良さんに「でも世良さん、世良さんが行っていなくても九チャンはあの便に乗っていたんじゃないですか・・・」と慰めるのが精一杯でした。』
と書いています。

最後に、
『世良さんは小さく首を横に振って、ウイスキーのグラスを一気に飲み干しました。しばらく沈黙の時間が過ぎて世良さんはハンカチを取り出し目を拭うと「ス マン・・・暗い話しをしてしまって、大将ドンドン美味いのを握って・・・この人酒が飲めないからグルメ男だから」』
と、締めくくられています。


きっと、この経緯で、おそらく最後のレコーディングであるこのアルバムで、スキヤキを演奏したのかもしれませんね。

私が最後に世良さんを見た、関内の「バーバーバー」でも、1ステージ終わったとき、私たちも支払いを済ませて、世良さんを追いかけるような感じで、外に出 たのですが、世良さんは、おすし屋さんへ向かっていったように記憶しています。

世良さんは、お鮨が好きだったのでしょうか?は、お鮨が好きだった つい先日、中村八大さん絡みで、坂本九さんのことを書いたばかりだった ので、なんとも、偶然とは思えない感じです。





ちなみに、私の母方の親戚は、みなどこか坂本九さん似です(笑)。
幼少の頃からそう思っていました。のでしょうか?

私はどうかと言うと、別に坂本さんに似ていると言われたことはありませ ん(笑)。
田辺靖雄さん(梓みちよさんと一緒に「ポールとポーラ」を歌った人)に似ていると、箱根湯元の旅館の人に言われたことはありますが(照。


きっと、30代以前の人には、坂本さんも、田辺さんも、顔が浮かんでこないかもしれませんね。

ちなみに、こういう顔です。






坂本九さん

坂本九さん

田辺靖雄さん


坂本さんが亡くなったのは、1985年8月12日ということです。
生まれは1941年12月10日ということです。
44歳ですね・・・・・。

後3年すると、私も44歳です。

私が幼少の頃、九ちゃんがテレビで歌っていた新曲(?)で、「人様は、お金があれば、幸せが、叶えられると考えた・・・・・夢は消えうせた・・・」という ような歌詞の曲でした。
「太陽・・・・」という曲だったような気がしますので、「太陽の土と水を」という曲がそうなのかもしれません。
まったく分かりませんが。








ところで、最近、少し前から話題になっている五日市剛さんの「ツキを呼ぶ魔法の言葉」を読みました。
船井メディアから購入しました。
600円です。

旅先で偶然会ったイスラエル人のおばあさんの話を中心に、良く言われる、「ツイテイル」と何度も言うと、本当にツキがやってくることや、何か嫌なことが起 きたときには、「ありがとう=有難う」というと不運の連鎖を断ち切り、”災い転じて福となす”のように、良いことがどんどん起こる、と言うことや、良いこ とがあったら、「感謝します」というと良い、ということなどが書かれたいます。

”感謝”には、政木和三さんが言うような、(引用)『そうそう、この言葉はとても便利でね。たとえまだ起こっていない未来のことでも、「明日、晴れまし た!晴れさせていただき、感謝します。」とか、一週間後、○○○に合格させて頂き、とイメージしながら言い切ってしまうと、本当にそうなってしまうのよ。 何の不安も疑いも心配もなく、力まずに自然とそう思い込めればね。』というようなことが、実例を交えながら書かれています。

ちなみに、浅見帆帆子さんを参考にすれば、このイメージは、「合格なら、合格したイメージを抱くのではなく、合格して喜んでいるイメージを抱くこと」、の ようで すが。



もう一つ、イスラエル人のおばあさんの言葉として、「運命は生まれた時から決まっているのよ」という言葉の書かれています。
やはり、ここでも、大河の流れと、小さな流れの2通りがある、と書かれているようです。
本の中では、五日市さんの結婚の話を例に取って、語られています。

つまり、大河の流れ=運命、小さな流れ=ツキ、としているようです。

きっと運命とは、

1:誕生(それに関わる環境を含む:家柄、兄弟の数など)、
2:風体、外見
3:いくつかの大きな出来事(偶然を装って、決まっている運命を自然な流れに導く事柄を含む)、
4:結婚(それに関わる環境、子供の数などを含む)、
5:いくつかの使命的なこと(当人が認識するしないに、関わらず)、
6:最期、

などなのでしょう。

1〜4、まで、すべからく、偶然を装って、決まっている運命を自然な流れに導く事柄を含んでいるのだとは、感じますが。


そして、小さな流れは、いくつもあるのでしょう。

仮説ですが。



そうすると、運命できまっていたことを、ツキとして導いたことである、と誤解してしまうと、心のあり方にいくらかの間違いを招くのかもしれません。
もっとも、”資本主義的”な部分が多いですが。

それは、例えば山岡鉄舟さんが、明治政府設立後、官職に就いたことも、官軍へ交渉へ行き、成功させることも、運命で決まっていたことだとします。

それを仮に、官職へ就いたことを、「官軍へ交渉行く、という難しい役割をうまく果たしたから」である、と解釈したとします。
そうすると、多くの人は、命を省みず、敵地へ行くような難しいことを果たすと、将来、安定した職を得られる、と結び付けてしまうかもしれません。

そうであれば、その理論はきっと間違っているのでしょう。

山岡さんが、幼少時に母親を亡くし、悲しさ故、時空と通じる能力を得られたことや、剣の道で大成したこと、浪士組を率いて、江戸から京都へ行ったこと、な どは、上記の2つを含めて、きっと運命だったのではないかと考えられます。

どこか辻褄があっています。

小さな流れでは、 ないのではないかと、感じます。







きっと、ほとんど下位の問いとは、ほど遠いことなのだろうとは思いますが、最近改めて、「感謝」と、「ありがとう」をやってみています。

変に即効性があるようにも感じます。
野球を見ていて、何でもないショートゴロなのに、「感謝します!」と言ったとたん、ショートがファーストにワンバウンドを投げてセーフになったりしていま す。
大体、何も言わない時と比べて、3割+プラス程度は、不思議な結果になっているようです(嬉)。



本の中では、いくつも実例が出ていますが、嫌なことが 起きそうになったその寸前に、「ありがとう!!」と言うと、それがすごい良いことに繫がったり、 県で有数卓球選手と試合をした時、相手のレシーブのたびに、「相手のレシーブをうんまく返させていただき感謝します」と言ってやったら、三回連続で勝って しまったことなどが書かれています。

どうも、ものによっては寸前でも良いようです。

ただ、「何の不安も疑いも心配もなく、力まずに自然とそう思い込めればね。」ということですので、あまり実験、というような気持ちを持つといけないようで す。
「何の不安も疑いも心配もなく、力まずに自然とそう思い込めればね。」です。
野球を見ていても、意識が強過ぎて、力んで「感謝!」と言ってる時には、普通の結果になっているように感じます。

この「力まず」とは、どうも、「願望、欲(?)は明確に」、しかし、「多くを望まずに」、”ではなく”、「力まず」=「罪悪感を持たず」、「喜んで良い こととして」のようです。
実際は、良く分かっていませんが。

仮説ですが。







この本の他の本と少し違うところは、 「ありがとう」を、いわゆる「喜 んでいる気持ちで言わなくとも良く、不運の連鎖を断ち切ることを意識して使用しても、良い」としているところではないかと感じます。

今までのものは、どうも、「嫌なことがあっても、それを感謝の気持ちで受け止めなさい」と、あたかも、時空のシゴキを、シゴキとしてありがたくいただきな さい、という少し前の、大学の体育界的なものが感じられ、信じれば信じるほど、ひくつになってしまう自分を感じていました。

しかし、ここでは違います。
”ありがとう”、は”有難う”であり、「難が有る時に言う言葉なんだ」、というような説明をしています。
あからさまに、不運の連鎖を断ち切り、逆に良いことに変える、ということを考えながら使用しても良いのです。

これは、私にはとても嬉しい発言です。



また、どうも今のところの感じでは、頭(私的にはメンタル体)で言うのではなく、口に出して言った方が良いようです。

発音して、音の波動とした方が良いのかもしれませんし、”念波”と”音の波動”の2重効果があるのかもしれません。



ただ、どうして上記のようなことが起こるのかについてですが・・・・・・
ひょっとしたら、今まで多くの人が書いていた、「気持ちが・・・・・」とか、「ポジティブに・・・・・」ということではないのかもしれません。

政木和三さんは、「自分の生命体からそう言われただけなので、どうしてだかは分からない」と書いていますが、以外と、もっと下位の要素が含まれている可 能性があるかもしれません。
仮説ですが。




いくらか考えてみれば、

「感謝」が、森田健さんの本に登場する、愛をほしがっている4.5次元の存在たちに受け入れられ、その見返りとして、3次元的に良いことが起きているのか もしれません。
ただ、政木さんの生命体は、想像するにそういった存在ではないようですので、この仮説は、違うと感じます。


あるいは、爻占術ではありませんが、時空は形、色などと同じように、言葉を音でしか捉えておらず、それに反応しているのかもしれません。
それは、ある状況下において、「感謝」であるとか、「ありがとう」という言葉が出てくるかどうか、という部分だけを感知するセンサーのようなものがある のかもしれない、ということなのかもしれません。


または、高次元と通じる何か不思議な力を「感謝」、「ありがとう」、「ツキ」というような言葉は、本当に持っているのかもしれません。
私はこれであれば、とても嬉しいですが。 

みなさんは、どう思うでしょうか?



世良譲さんでした。


205: SMOKE RINGS:世良譲
   

   世良さんのアルバムで一番好きなものです。
LPでは、1,2と2枚で発売されていました。
その2枚から、録音の良いものを集めて1枚にしたようです。

メンバーです。

世良譲:ピアノ、原田政長:ベース、須永 ひろし:ドラムス、
光井章夫:トランペット、尾田悟:テナーサックス、
五十嵐明要:アルトサックス、
北村英治:クラリネット、テナーサックス、
河辺公一:トロンボーン、増田一郎:ヴィブラフォン


曲目です。
1:Under the Blanket of Blue
2:Smoke Rings
3:I can't believe that you're in love with me
4:That old feeling
5:It's only a paper moon
6:Prelude to a kiss
7:Mean to Me
8:Bill Bailey, won't you please come home
9:Everybody loves Somebody
10:Shine

11:Give me a simple life
12:Just one more chance
13:Rose Room
14:Just a Gigolo
15:Cheek to cheek
16:Willow weep for me
17:What can I say dear
18:On a slow boat to china
19:Stairway to the stars

LPには入っていた光井章夫さんがリードを取る「嘘は罪」が入っていないのが残念です。

LPでは、この曲はなぜか音が割れていて、ここに入らない理由も分かるんですが、とても乗りの良い演奏でしたので、残念です。
いつだったか、三井さんがラジオ出演した時には、このトラックが自己紹介として、流されていました。
その内、日の目を見る日も来るかもしれません。

河辺公一:トロンボーンさんの、演奏が聴けるのも、貴重なアルバムですね。
五十嵐明要:アルトサックスも、ジョニー・ホッジスばりの好演です。

録音は1〜11が、1974年8月、12〜19が、1976年7月です。  





さて、”ツイテイル”、の続きですが、私はいろいろ考えたところ、今の感じでは、全ての結果とは、ツキによるものなのではないか・・・と思えて来ました。
仮説ですが。

つまり結果とは、努力でも、実力でもないのです。



私は、これ以上できない、と自分では思うほど努力しても結果がでなかったことがあります。

主観的に、だれよりも結果を残して、貢献している、と見えても、何の結果も得られなかったこともあります。

また、主観的に、関係するだれよりも実力があるに違いない、と思っていた状況でも、何の結果がでなかったこともあります。

あるいは、関係するだれよりも道徳的に正しいこと、正義を行っても、何の結果も、評価もなかったこともあります。

そして、だれよりも、人のことを考えて、自分を捨てて、尽くしても、何の結果手に出来なかったこともあります。


上で主観的と言っているのは、客観的とは、いかに個人が客観視しようとも、しょせん、その人の主観から出る客観以上のものではない、と感じるからです。
言ってみれば、その人の意識レベルでの主観から得られたものが、事実であり、その事実こそが、その人にとっての客観である以上のものはない、と感じてしま うからですが。


もっとも、こう思いはじめたのは、最近ですが。

上記のような状況でも、当時は上司に対してすら、「評価は他人のものですから」とは言っていました。
当時の私の中での精一杯の、つっぱりだったように今は感じます。
本当は、正しい評価≒望んでいる評価、が欲しくて欲しくて、のたうち回るほど、どうしようもなかった、というのが、その頃の私の本当の気持ちであったよう に感じます。

それでも、決して、媚びたりしたことは一度もありませんでした。
しかしながら、相手がどんなやつでも、良識を重んじて、最大限の待遇で接してきたつもりではありますが。
これは、ゴマをすったり、こいたりするのとは、ぜんぜん違いますね。



ただ、当時は、怒ってはいたようです。
その意味からは、宇宙の理に100%則していたとは、言えないでしょう。

加えて、その仕事が、嫌いで嫌いでしかたがありませんでした。
この意味でも、宇宙の理に反していると言えるでしょう。

しかし、上記のような状況の時、自分の中では、「嫌いで辛いことを、一生懸命我慢してやることが、一番正しいこと」だ、と勘違いしていましたので、後悔は していません。

お陰で、船井幸雄さんをはじめ、多くの方の著作に接する機会を得ることが出来たわけですので、後悔だなんて言葉は、ほど遠いものです。






さて、話が少しはずれましたが、どうも結果とは、実力、努力とは、関係のないのものように感じます。
もっと言えば、道徳的、心情に訴える、というようなこととも、関係のないもののようです。
ツキの結果、あるいは、決められた運命の結果なのではないでしょうか。

もちろん、形としては、心情の結果とか、努力の結果、のように見える場合もあるのだろうとは思いますが。

その意味では、結果に対しては、努力、実力などのものは、ほとんど関係のないものであると思います。

それでは、なぜ、努力をするのか?と言えば、それは、当然だからなのでしょう。
英語が話せるようにないたい、と思ったら、英語の勉強をする、ピアノが弾きたいと思ったら、ピアノの練習意をする、・・・・ということなのだと感じます。

ですので、決められた運命である場合を除いては、結果を得るということは、ツキがある、ということであり、もし相手がいるものに於いて、結果が出る、とい うことならば、相対的にツキがよい高かった、ということなのだと感じます。






もし、この仮説が正しいということならば、王選手がたくさんホームランを打ったのも、相手の投手より優れていたからでもないし、他のバッターよりも優れて いたからでもないということになります。

カール・ルイスが世界記録を作ったのも、彼の練習の成果でもないし、努力の結果でもないはずです。

はじめから、そういう運命だったのか、他の人よりもツキがあったからということです。


そうであれば、大河の流れ=決められた運命、以外の、小さな流れ=ツキ、をいかに引き寄せるかが、結果を得るためには必要なことなのかもしれません。

それには、どうも、「感謝」、「有難う」、「ツイテイル」という言葉が、大きな役割をするように感じています。
仮説ですが。

ただ、大河の流れを、自分の好きなように変えたい、ということであれば、話は別になるように思います。

今のところ、知っている限りでは、森田健さんの六爻占術、「問いを発し、答えを得る」が、決められた運命を変えるために確実な方法のようです。
努力が必要なようですが。
その意味では、上記の方法で運命を変えられる、ということも、運命で決められていた可能性もあるのかもしれません。

そこらへんが、まだ分かりません。
運命を変える、ということが、六爻占術で分かっているのなら、その結果もちゃんと出ているとも思えますし、分かっていても、出てこないということも、ある のでしょうか?





但し、決められた運命の流れに身を委ねれば、当人が望む結果ではないにしても、ちゃんと良い結果になる、ということを、天外伺朗さんは書いています。



それを踏まえて考えてみると、王選手のように、高校野球でピッチャーとして優勝し、しかしプロに入りバッターに転向し、そして、世界のホームラン王にな る、という運命など、まさに、天外伺朗さんの言う通りのものだな、と感じざるを得ません。


このように、負けることも含めて、決められた運命であり、その後にあるかある、ということも当然あるでしょう。

王選手がバッターに転向した理由は、忘れてしまいましたが、アマチュアでピッチャーで鳴らして、プロに入り、結果が出ず、バッターになり、大成した人とい うのは、何人もいるようです。






マツケンサンバIIの振付師・真島茂樹さんなどを見てみますと・・・
彼は幼少の頃から人前で踊りを見せるのが好きで、高校生の時から東京へ出てきて、ダンスの道へ進み、日劇ダンシングチームで、男性トップダンサーとなった ようです。
その後、日劇が時代の流れで、閉鎖になり、しばらく表舞台からはずれ、ダンス教室などで教えていたようですが、しばらくして、ミュージカル出演の話が来 て、ミュージカル・スターとなり、今日では、あのように陽の当たる場所へ出てきています。
この例などを考えると、好きで、得意なことを続けていれば、ちゃんと、それなりの人生が用意されているのかもしれない、と感じます。




しかし、この場合、好きで得意なダンスという道を歩み続ける、ということが決められた運命で決められていたのだとすれば、結局、なるようにしかならないの だな、とも感じます。

ミュージシャンでも、ほとんどの人が好きで、得意だからやっている訳ですが、全員が全員、死ぬまで続けられる訳ではありません。
おそらく、それには決められた運命が大きく関わってくるように感じます。

すごく優秀なミュージシャンでも、家の関係で、現役を辞めてしまった人もいますし、ものすごく優秀で、売れていたにも関わらず、音楽的な悩みで、短命だっ た人もいます。

フランキー堺さんのように、優秀なミュージシャンであっても、役者の才能があり、その道へ移っていった、ということもあれば、ミュージシャンとしてはも う一つでも、芸能プロダクションの社長として、大活躍している人というのもいます。(ミューシャンでも、社長でもうまく言っている人もいます)。

鹿内孝さんなどは、なかなか良いスタンダード歌手ですが、一時期は、悪役のようなキャストで役者を中心にやっていたというような人もいます。
阿川泰子さんのように、役者では、あまりパッとしませんでしたが、歌手になって、花開いた、という人もいます。

上記のような例はまだ、関係する世界にいますので、人によっては、それなりに満足かもしれませんが、結局、足を洗って、サラリーマンをやったり、いろいろ な人生を歩む人もいます。


どうしても、自分の思い通りの人生を歩みたいと思うなら、決められた運命、ツキの部分、両方とも、好みに変更して行くしかないのでしょう。

ただ、その決められた運命が、どんな形でも”良い”ものであるというのなら、それはそれで、決められたままでも、良いように私は感じます。
ただ、その間、間は、やはり、明るい方が良いですね。
風水を含めて、多くの占いは、その間、間を明るくするものなのでしょう。
そう感じます。

そう考えれば、いちいち占いに頼るのも何ですので、五日市さん建ちの言う、「感謝」、「ありがとう」、「ツイテイル」という言葉が、大きな力を持っている のなら、そえを使いツキを身に付けるのは、よいことのように感じます。

みなさんは、どう思うでしょうか?




世良さんをはじめ、戦後のジャズミュージシャンは、戦時中、ぎりぎり徴兵されなかった人が60〜70%でしょうか?
ジョージ川口さんのように、実際飛行機に乗った、というような人が3割くらいでしょうか?

役者では、実際、徴兵された人というのは、多いようです。
池部良さんや、鶴田浩二さんはそのようです。

それはきっと、年齢的に流行音楽をやる、という年としては、10代後半くらいが適していたからなのでしょう。

想像もつきませんが、大変な時代だったようです。


船井幸雄さんによれば、これから来る変革は、大変かどうかは別として、戦後と同等、あるいはもっと大きなもののようですね。
もし、この時代を自分が本当に選んで生まれて来た、というのなら、私は何をしたかったのでしょうか?
あるいは、何を見たかったのでしょうか?

どうも、今の自分だけを見ていると、むしろ、世良さん達と同じ時代を生きた方が、”らしい”ようなくらいに感じるときもあります。
なぜ、時空の流れからすれば、わずかな差である30年後を選択したのでしょうか?


みなさんは、覚えていますか?
どうして、この時代選んだのか?という理由を?

あるいは、時空は、何を、期待しているのでしょうか?       



世良譲さんでした。

※先の、世良さん参加の最後のアルバムと思われるものは、インターネット・オークションで偶然見つけたものです。
存在すら知らないアルバムでした。
その意味では、坂本九さんの話とあわせて、ここに掲載したことなどは、どこか決められた運命の結果であるような気がしてなりません。



206:KING OF JAZZ:
   

  前田憲男さん、猪俣猛さん、荒川康男さん、がメインで、世良譲さん、秋満義孝さん、レイモンド・コンテさ ん、松崎龍生さん、等が演奏します。

ビッグバンドは、仲牟礼貞則さん、西条孝之助さん、高橋達也さん、五十嵐明要さん、大森彰さん、原田忠幸さん、白磯哮さん、村田浩さん、北里典彦さん、伏 見哲夫さん、竹田恒夫さん、原田靖さん、片岡輝彦さん、佐藤俊次さん、岩崎敏信さん、岡田澄雄さん、のメンバーで構成されています。

実にすばらしいDVDです。
秋満義孝さんの演奏シーンを見たのは、これが初めてかもしれません。
まなでは見たことがあるかもしれません。
テレビでもあるのかもしれませんが、記憶に残っていません。

世良さんと秋満さんの2台のピアノとビッグバンドで、「シカゴ」が演奏されるシーンは嬉しいものです。

曲目は、で以下の通りです。

1:昔はよかった:前田憲男トリオ&ビッグバンド
2:ライク・イト・イズ:世良譲&ビッグバンド
3:クマーナ:秋満義孝&ビッグバンド
4:シカゴ:世良、秋満&ビッグバンド
5:イト・エイント・ネセサリー・ソー:ビッグバンド
6:ムーン・グロー:レイモンド・コンテ、松崎龍生&前田トリオ
7:パティード:レイモンド・コンテ、松崎龍生&ビッグバンド
8:国境の南:レイモンド・コンテ、松崎龍生&ビッグバンド:(レイモンド・コンテさんの歌入り)

世良さんのちゃんとした演奏シーンをテレビ画面で見たのは、数年ぶりだったように思います。

このDVDを買った時は不思議でした。
たまにしか行かない東横線の駅の方へ散歩へ行きました。
そして、1度くらいしか入ったことのない貸しDVD屋さんへ、なぜか入りました。
私は最近ビデオを借りるということは、全くしていませんので、珍しいことです。
心情的、3次元的には、中古CDでも売っていないかな?と思いました。

中古CD売り場は簡単に見つかりました。
しかし、これと言っておもしろいものはありませんでした。

帰る前に、一通り見ておこうと思い、店内を見回りました。

音楽DVD売り場が見つかり、「へぇ、こんな売り場もちゃんと作ってるんだ」と思いました。
そして、ひょっとしたら、何かよいものがあるかもしれない、と思い、物色し始めました。
すると、どうやら日本のジャズかな・・・というDVDが見つかりました。
ジャケットを見ると、前田憲男さんのものらしい、ということが分かりました。
これはツイテイルな、と思い、手にとって、よく見てみると、何と、世良さんや、秋満さんの名前がクレジットされています・・・・・
「こんなDVDが発売されていたのか!!」
と、存在自体意びっくりしました。
世良さんや前田さんの名前で、DVDを検索したことは、1996年くらいからカウントすれば、100回は軽く超えているでしょう。

そして、購入しました。
内容は、とてもすばらしいものです。

その店には、もう2,3枚売っていたようです。
一体どういうルートで入ってきたのでしょう。
それとも、あれはチェーン店で、他の店舗にも置いてあるのでしょうか?

何はともあれ、とても貴重なDVDです。



録画は、1997年3月、6月で、場所は、浜離宮朝日ホールです。

ビッグバンドでは、テナーは西条孝之助さんもいるのですが、高橋達也さんがソロを取っています。

別アングルも収められており、私にとっては、この機能を使える初めてのDVDです。


ジョージ川口さん、松本英彦さん、原信夫さん、北村英治さんなどは、録画で残っており、DVDにしてありますが、世良さん達は、なかったものですから、と ても嬉しいです。

秋満さんはラテンピアノで、クマーナを弾いています。
スイングで有名な秋満さんですが、以前、「昔、秋満さんはラテンピアノのアルバムを出していた」という話を聞いたことがありました。
今回、このDVDによってラテンを弾く秋満さんの目めぐり会えました。

秋満さんは、クラシックもきちんとやったということを聞いた事がありますので、器用にいろいろなジャンルを弾きこなします。

世良さんも、ピアニストになったきっかけは、どこかのバンドで、急にピアニストが出れなくなった時、「そう言えば世良が弾けるはずだ」ということで、声が かかったということですので、きっとクラシックもやったのでしょう。
よく分かりませんが。


前田さんは、クラシックの経験は確かないようですが、プロになってからクラシックへのアプローチはあるようです。
レコーディングもしています。


私はクラシックはやっていません。
「エリーゼのため」にすら弾いたことがありません(笑)。








ところで、最近、考えているのですが・・・
「あきらめろ」とは、自力でやるのをあきらめろ、ということではないでしょうか?
しかし何もせず、というのではなく、当然のことはするのでしょう。
そして、結果は自分では出せない、ということを認識し、今までの過去においても、あたかも自力で結果を出してきた、というのは勘違いにしかすぎず、実 は全て他力であったということを、認識し、そして、日々を送る・・・・・。

生きていることすら、自力ではない、ということかもしれません。
私達は、心臓を自分で動かしているでしょうか?

なぜ、私達は、急な病気で死んだりせず、今日、ベッドから、起きてきたのでしょうか?




何かを運ぶときですら、・・・
落ち着いて丁寧に運べば、何の問題もなく運べますが、その結果も、落ち着いて運んだから、何もなかったのではないのではないでしょうか?
全て他 力によるものなのではないでしょうか?
いくら落ち着いて運んでも、地震が起きるときはおきます。
他人がぶつかるときはぶつかります。




やはり、他力なのでしょう。

他力とは、何かと言えば、自分以外の力ですが、基本的には創造主のことなのではないかと感じます。

もっと、細部まで見ていけば、高次元までを含んだ全宇宙となるのではないかと考えます。
そこにある全ての生命体(霊)的存在を言っているのだと思います。

そして、更に細部まで見ていけば、高次元の存在全ては基より、3次元の全て、地球上の人間を含んだ全てのもの、となるように思います。
森田健さん式に言えば、ネットワークとなるのだと感じます。






自力でできることとは、なんでしょうか?
私の仮説は以下の通りです。

1:自分で制御できる筋肉を動かすこと。
2:自分で制御できる知能を使うこと。
3:自分で制御できる念波を使うこと。



つまり、人間は、筋肉を動かし、モノを考え、念波を出す、ことしかできない生物なのだと思います。
それ以外の事象は、全て他力なのではないかと仮定します。





違う視点で見てみれば、人間は、筋肉を動かし(肉体労働、運動などをしろ、ということではない)、物を考え、想像(この字で良い)をする、ことが、時空か ら期待されていることなのかもしれません。

怪我をすると、うまくいく、と言うことがないでしょうか?
私はよくあります。
怪我や風邪で具合が悪い時など、物事や作業がとんとん拍子に運ぶことがあるのです。
野球などでも、怪我をした時のほうが、良いあたりの出るバッターというのは、いますね。

先日来の松井選手はそうです。
スランプのどん底でした。
そして、追い討ちをかけるごとく、怪我をしました。
そして、次の試合からDH(指名打者:守らなくても良い人)になったとたん、バッティングが好調に戻りました。

このような出来事を人が分析すると、力が抜けて、うまく言った、などと言います。
その力とは、もっぱら3次元的、物理的な世界のことを指しているようです が。


しかし、どうも実際は、怪我をしたこと、つまり、自力の実力と思っていたものが相当減ってしまったことを認識したために、自力でやることをあきらめる感情 が芽生え、その結果、以前のような他力による”結果”が戻ってきた、ということなのではないかと感じます。

言い換えれば、松井がスランプの時と言うのは、今までの結果が自力によるものだと思い、その自力の部分を増せば、より大きな結果がでると思い込んで、そう 行動したことによるものなのではないかと想像されます。

以前の松井も、行動して、考えて、想像すれば、良かっただけなのかも知れません。
それを、結果まで、自力で出そう、出せる、と勘違いしたのでしょう。






五感も他力ではないでしょうか?
おいしい、と感じるのは、おいしいものを食べるからですが、箸を持って、食べ物を口へ運ぶ動作は自力ですが、それがうまく口に入るのは他力です。
そして、「おいしい」と感じるその電気信号は制御することはできません。

ただ、嗅ごう、味わおう、ということは、つまり最初の導入部分の動きは、自力のような気もします。
これは、1の亜流としても、良いように感じます。

ただ人は、「おいしい」、「気持ち良い」、「トイレに行きたい」、「かゆい」、「いい匂いだ」、「美しい人だ」という気持ちは、抑えることはできます。
しかし、これは、本来してはいけないことなのではないかと思います。

なぜなら、それらは、他力によるものであり、時空からの信号であるからではないかと思います。





私は謙虚と言う言葉を言う人があまり好きではありあません。
私の経験上、多くの場合、「謙虚にしろ」という人は、こちらの自信、能力(他力ではあるが)に対して、嫉妬の念を持っている人だったからです。

しかし、謙虚が、まともに正当な意味であるなら、何かがあるな、とは感じていました。

今改めて考えると、どうやらそれは、今までここまで生き延び、いろいろなことが出来たのは自力ではなく、全てが他力によるものであったのだ、という意味 が、謙虚には含まれているのではないでしょうか?


きっと、正しく、謙虚、と言う言葉を使っている人は、そういう思いで言っているのかもしれません。
仮に、顕在意識まで上ってこず、潜在意識レベルで、他力を理解していたとしても。



逆に、他力を、潜在意識レベルでも知らない人が謙虚をという言葉を使うのなら、それは、「俺より、ワタシより、自信を持つな。堂々とするな。上に行くな (下にいろ)」という意 味で使っているのではないかと感じます。

みなさんは、どう思うでしょうか?



ちなみに、船井さんも謙虚という言葉を本の中で使っていたようですが、おそらく、他力を知っての、使用ではないかと考えます。
そして、船井さんのような人には、謙虚の使い方を間違えるような、つまり、今まで私が出会ってきたような人達は寄ってこないのでしょう。

どうも、これからは私にも寄ってこないような気がします。
寄ってきたら、「ありがとう!!」と言いますので(笑)。





ちなみに、どうも、この他力の話と、「ありがとう」、「感謝」、「ツイテイル」の話は、別の話なのかもしれません。

この2つの話をあわせてしまいますと、神様の下について、お願いすると、お願い事を叶えてくれる、という話になってしまうのだと感じます。
創造主、神々が我々と対等だとしたら、その話はどこか変です。



「感謝」、「ありがとう」、「ツイテイル」の話は、創造主への「感謝」、「ありがとう」、とは別のことの可能性があるように感じる、ということです。

例えば、本当に呪文であったり、単に、時空が、その言葉を発した人間が、「喜んでいる」、「ワクワクしている」、かどうかだけを、判断しているものであっ たりする のかもしれません。
あるいは、時空的には、これらの言葉が、「自力ではできません。あきらめました。他力で行います」という意味になっているのかもしれません。
仮説ですが。




今思いましたが・・・・・・「自力ではできません。あきらめました。他力で行いま す」の可能性は高いと感じています。

これら言葉は、時空へ対しての、お礼ではないのかもしれません。
本当に、上のような意味なのかもしれません。

感謝の語源はなんでしょうか?
感じる、謝る、ですね・・・。
感は、感情でしょうか?
謝るは、誤る、とも通じます。
感情が間違っていた、ということなのかもしれません。
間違いを感じた、かもしれません。
自力でやってきた、という感情は間違いだった。他力です。という意味なのかもしれません。



「ハワイに住むことができました。感謝します(自力ではできません。あきらめまし た。他力で行います)!!」
は、
「ハワイに住むことができました。他力で行いました!!!」
ということなのかもしれません。
あるいは、
「私は他力で、ハワイに住まわしてもらいました。感謝します(自力ではできません。 あきらめました。他力で行います)」
かもしれません。


「他力でお願いします」ではないのだと思います。
対等なのですから。
そして、我々は創造主の分身なのですから。
良識は重んじても、他人行儀はいけないような気がしてきました・・・。


キリスト教の感謝祭は、Thanks Giveing Dayですね。
与えてくれてありがとう祭り・・・

キリストは良いのですが、キリスト教はどうかな?と思っています。
「全ては言葉からはじまった。。。」のように正しいところもあるようですが。
しかし、この、与えてくれて、ありがとうは、ある程度正しいように感じます。

自力ではないよ・・・と。


果たして、感謝の語源は何でしょうか?
みなさんは、どう思いますか?




自力を3つ上げましたが・・・

1:自分で制御できる筋肉を動かすこと。
2:自分で制御できる知能を使うこと。
3:自分で制御できる念波を使うこと。

これについて、もう少し考えて見たいと思います。


3ついての私の考えの詳細ですが、

1:自分で制御できる筋肉を動かすこと、は、手足を動かしたりすることです。
岡田さんの本にあるように、心臓のように筋肉はあっても、自分では動かすことの出来ないものは、含まれません。それもきっと、他力といってよいのでしょ う

具体的には、歩く、持つ。
スイッチを押す。
話す。
読む。
などだと思います。

何かをどこかへ運べたとしても、それは自力ではありません。他力です。
地面があって、空気があって、何も事故もなく、物を運べたのは、自力ではなく、他力でという意味です。


2:自分で制御できる知能を使うこと、は、考えることです。
「これと、これをあわせたら、〜ができるかもしれない」、 と考えるというようなことですが、考えた通りにできたとしても、その結果は他力によるもので しょう。
自力による結果などない、と思います。

3:自分で制御できる念波を使うこと、ですが、問いを発したり、何かの願望を持つこ とだと感じます。
念波は、どうやら創造主まで、光速の何倍も速いすごい速さで届くようですが、それも他力でしょう。人間には願望を持つことしかできません。

念波がどこかへ届き、その答えが返ってきたとしても、それは、自力ではないでしょう。他力だと感じます。



とりあえず、長いので、ここで終わります。




207:Keep on Swinging  テディ・ウイルソン&北村英治
   
  とても、珍しいCDだと思います。
先日、中古CD店で偶然見つけました。

GML:Gold Mastafon Laboというところから出ています。
24金の純金蒸着CDです。
CD面上のビットに欠けがなく、録音に忠実な音がする、ということだそうです。

次に紹介する、レイモンド・コンテさんのCDも、同レーベルから出ています。

北村さんの方には書いてありませんが、コンテさんの方には、定価6000円と書いてあれいます。

北村さんのには、マイナーレーベルによくあるJASRACシールが張ってあります。

メンバーは、テデイ・ウイルソン:ピアノ、北村英治:クラリネット、テナーサックス、原田政長:ドラム、五十嵐武要:ドラム、増田一郎:ビブラフォンのみ なさんです。

録音は、1973年11月、日比谷・エスパース・ジローです。
昔一度、東宝レコードというところから、発売されてことがあるそうです。




盤面は、写真の通り、ゴールドです。
綺麗に、カメラが写りこんでいます。


どうして、このCDと巡り合えたかと考えれば、お金が貯まるように、ゴールドのものをたくさん、身の回りに置いたことがありますが、その結果が、このCD の登場かもしれませんね。

共鳴したのでしょう(笑)。



曲目です。

1:Rose Room
2:I can't get started
3:Sophisticated Lady
4:Take the A Train
5:Love
6:When you're Smiling
7:UDA, Sweet as Apple Cider

8:Gershwin Medlay
a: The Man I Love
b: Someone To Watch Over Me
c: Somebody Loves Me

9:I Can't Give You Anything But Love
10:China Boy
11:Honeysuckle Rose
12:Emaline
13:It's a Sin to Tell a Lie




 

いきなり、北村英治さんのMCで始まります。
やはり若いです。
世良さんと一緒に料理番組をやっている頃でしょうか?

音質は、録音が、ややオフマイク目ですので、他との比較がむつかしいですが、確かに、言われれば、しっとり感のようなものを感じます。
気のせいかもしれません。
なにせ24金ですので、そうかなぁ、と思わされてしまいます。


録音は、73年ですので、デジタルではないはずです。
当時の最先端の録音方法はなんだったでしょうか?

ダイレクト・カッティングはあったでしょうか?
これは、レコードを作る時は、音からスタンパーというか、大元のレコードを作り、それを複製するような形でプラスチックの塊をレコードにしていくのです が、そのスタンパーに直接マイクからミゾを彫ってしまおう、というものです。

欠点は、長時間のレコードが作れないのと、間違えようが、どうであろうが、そのままレコードになってしまう、というところのはずです。

これすらないとすれば、単に、それぞれの機材を最高品質のもので、そろえる、ということになるかと思います。


マイク、スピーカー、アンプなどは、どうも、1960年代で、最高水準に達して、あとは、如何に安い値段で、音の良いものを作るのか、となっているようで すので、アナログ録音なら、この時期も、最高水準の音が取れているはずだと感じます。

それは、楽器も同様だと思います。



さて、レコードのスタンパーは、レコードプレーヤーで言えばリニアトラッキング方式のもののように、アームが右から左に向かって進むタイプのプレー ヤーのような形をしたもので、作るようです。

ですので、リニアトラッキング方式のプレーヤーの方が、より正確な音が出るなどと言われていたことがありますが、本当かどうか分かりません。
私がはじめてミニコンポを購入してみたとき、レコードプレーや0−はリニアトラッキングでした。

なんとも、安い作りで、ヘッドフォンで聴くと、「ガタ、ガタ」とアームの振動音が入っていました。

それに懲りて、その後はシステムコンポを購入していくことになります。
これも、偶然を装った運命なんだと感じます。

ちなみに、それは、大学2年くらいの時の話で、10万円くらいしました が、バイト先の先輩が、確か5万円だったかで、買い取ってくれました。
私にとっては、1万円くらいの価値しかないものとなってしまいましたので、5万円でも、即金で買い取ってくれたことは、とても嬉しいことでした。

その先輩も転売したようですが、いくらで売ったかはよく知りません(笑)。
儲けてもらって、よいのだと感じます。
その時の私には転売できる能力、知恵はありませんでしたので。

今であれば、きっと、インターネットのオークションに出品でしょうね。
買って、1ヶ月くらいだったような気がしますので、購入金額の80%くらいでも、売れるのではないでしょうか。 

良い時代です。


9:I Can't Give You Anything But Love、12:Emalineでは、北村さんは、テナーを吹きます。
前出の「スモークリグス」でも、北村さんは、4曲で、テナーを吹いています。
2、7,16,17です。

当然、私のアルトサックスより、1万倍うまいですが(笑)。





さて、自力を3つ上げましたが(仮説)・・・

1:自分で制御できる筋肉を動かすこと。
2:自分で制御できる知能を使うこと。
3:自分で制御できる念波を使うこと。

これについて、更に考えてみます。

1:自分で制御できる筋肉を動かすこと、ですが、セックスを考えてみ たいと思います。
私は男性ですので、男性、しかも、自分しか分かりませんが、女性の裸を見たり、想像したりして、性器がスタンバイOK(笑)になるのは、他力でしょう。

そしてセックスをするに際して、自分を所定の位置へ運んでいく、というのは、ある程度自力だと感じます。
しかし、そこに女性がいて、その女性が同意していて、しかも周囲になにの邪魔もない、ということは、全て他力ではないでしょうか?

第一、重力があるから、ああいう行為ができるのだと思います。
重力もまた、他力だと思います。
果たして、本当の無重力下で、セックス、妊娠、出産、ということは、可能なのでしょうか?


また、男性は射精します。
これは、微妙ですが、やはり他力ではないでしょうか?
出るときは出てしまいます。

そして、その精子の内、好運にも、卵子と巡り合うことのできた精子は、やはり他力によって、巡り合えたのだと思います。




2:自分で制御できる知能を使うこと、ですが、 ツキにしろ、大河の流れにしろ、本質的には、能力、努力とは、関係なく結果が来るわけですので、事実などは始めからなく、その人の知識、地のぷが事実を作 り出しているのかもしれません。

具体的には、「〜と○を混ぜると、こういう味になる」ですとか、、「〜と○を混ぜると、こういうものができる」などのようなことなのですが、創めに、ツ キ、決まった運命によって結果がある訳ですので、この人の知能、知識が、自分の意識としては、はじめに上記のように仮定して、何かを始めたとしたのなら、 それが、3次元世界では、あたかも、結果を導いた過程であるかのように見えますが、実は、、「〜と○を混ぜると、こういう味になる」ですとか、、「〜と○ を混ぜると、こういうものができる」と、出てきた結果には、もともと相関関係はなく、結果は予め決まっていたものであり、過程としての仮定と結果の相関関 係は、ツキ、大河の流れによって、この時はじめてできたものである、ということなのかもしれません。

少し説明が下手ですので、違う説明をしてみますが、1+2=3ですが、ある人のツキ、あるいは大河の流れが5という回答を導くものであった場合、この人の 精一杯の計算式が、1+2であった場合、=5で、正解となる結果が生まれる、ということです。
そして、それ以降、1+2=5として、後世まで採用されるるものになるのかもしれません。

ただ、あまりへんてこだと、3次元上の辻褄があわなくなりますので、そこらへんはうまく時空が調整しているのかもしれません。
たとえば、今IT産業に関わる若者が大成功して、大金持ちになっていますが、彼らは、ツキまたは大河の流れによって、予め、あのような立場になる運命が決 まっていたのかもしれません。
それにいたる仮定として、彼らは彼らなりに頭を使ったのでしょうが、実際は、どう頭を使おうが、似たような結果になる運命であったのかもしれません。
それがたまたまITという今、良い流れに乗っている産業に集まっているのは、そうであれば、つじつまがあうので、時空が何らかのコントロールをしたのかも しれない、という仮説も考えられるのではないかと思っています。


それは、1960年代にイギリスのマージービートの連中が成功したのも同じように、実は何のジャンルでも良かったのかもしれません。
しかし、時代の流れとして、アメリカで忘れられたR&B,ロックンロールを、イギリスの若者が焼直すことになった、という流れであれば、いかにも辻褄があ いますので、そこに何らかの調整があったのかもしれません。

このような例はいくらでも、出てくると思います。



3:自分で制御できる念波を使うこと、全てのできごとは、ツキと大河 の流れによる、とするのなら、念波を出す、ということも、また、決まっているものですし。回答が念波で帰ってくるとするのなら(仮説)、それも、また決 まったものであるのかもしれません。


もし、本当に、人間にもたらせられる結果が、大河の流れと、ツキだけによるものだけであり、上記のような仮説も正しいのなら、やはり人間にできることは、 ツキを呼び込むことと、六爻占術などで、大河の流れを変えること、の2通りしかないように感じます。


結果は、努力にも、能力にも、誠実さにも、道徳的行動にも、関係ないように思います。
ただ、努力もせず、能力もなく、誠実さのなく、道徳性もない人が、ツキを呼び込めるかどうかですが、道徳性は、必要かもしれませんが、他はないくらいの人 のほうがむしろ、ツキを呼び込みやすいように感じます。


努力も、能力も、誠実さも、道徳的行動もないと、いつも朗らかで、人と競争せず、自分の好きなことをくったくなく、好きなように行動、想像できる人になれ るのではないかと感じます。






もちろん、一歩間違うと、ひどい人となりますが、私はこういう女性を知っています(笑)。
ウチの妹です。




実に幸せな人生を歩んでいるように兄としては、見えてしまいます(笑)。

私の知っている限りで、最初に妹に言い寄って来た男はラ・サールだか、灘校だか出身の長身の東大生でした。

また、妹は大学時代付き合っていた男性を低学歴だから、と振りました。
とても良いやつでした。
しかし、そいつは、そのせいで、早稲大学を受験し直し、見事、合格しました(祝)。

今の旦那は、横浜国大で、某有名生命保険会社で、身長は180センチあります。
住んでいる家は、いつも社宅ですが、大抵、やたら馬鹿でかい家です。

また妹は、客観的に言って超3流短大卒ですが、2社で正社員として働き、どちらも1部上場のだれでも知っている会社で、妹が在籍していた時代は、その会社 は、とても良い業績であった時代のようです。

もちろん・・・・
足には幼少時代、私と遊んでいてガラスで切ってしまったときの傷後があります。
頭には、今はもう直しましたが、一部丸くはげている箇所が生まれつきありました。
胸は小さいです。
背も小さいです。
勉強はぜんぜんできませんでした。
それでも、まったく、何も気にしていないように、見えます。




私が、妹の存在を、研究題材に上げるのは、何も今回が初めてではありません。
以前からいくどとなく、題材に上げ(笑)、試しにまねをしてみたこともありました。
うまく行きませんでしたが。


今回、「結果は、努力にも、能力にも、誠実さにも、道徳的行動にも、関係ないように思います」を書いたとたん、再び、妹という題材が登場しました。

おそらく、いい線行っているのではないかと思います。
以前は、まねをしたとしても、「何が結果を変えているのか?」あるいは、「何が未来を変えているのか?」が分からなかったのでしょう。
どうも今回は、ツキを招く、という点に、妹の秘密があるように思えます。


みなさんの周りに、こういう人はいないでしょうか?


テディ・ウイルソンさんと北村英治さんでした。











208:Raymond Conde, Sing&Play For Good!
   

   
     戦後のジャズ界で大活躍した、レイモンド・コンテさんのアルバムで す。

曲目です。

1:Poor Butterfly
2:I Cross My Finger
3:It's a Sin to Tell a Lie
4:Who's Sorry Now
5:Two Sleepy People
6:How about You?
7:Once in a While

8:On a Slow Boat to China
9:Sweet and Lovely
10: Love Letters
11:Count Every Star
12:It's Only a Paper Moo n
13:Sleepy My Love

メンバーです。

ピアノ:塚原コタロウ、ギター:潮崎郁男、ベース:アサミ ヨシノリ、ドラム:中村ヨシオ、ボーカル:ナカジマ エミ、ビブラフォン:増田一郎、以上のみ なさんです。

コンテさんは、クラリネットとボーカルを取ります。
録音は、1987年10月です。
ボーカルのナカジマさんは、どことなく、阿川泰子さんに似た表情写真に写っています。
もちろん、当時の写真ですが。
私はこの人は知りませんが、今でも、現役でやっているのでしょうか?




このアルバムも、24Kです。
やはり、金をたくさん置いたので、共鳴したのでしょう。

先に紹介したDVDでのコンテさんは、年齢相応なのですが、この頃は、まだまだ現役ばりばりと言っても問題ないような、すばらしい演奏をしています。
良いアルバムだと思います。




今日は、面白い日でした。
夜の7時頃、セールスの電話がありました。
どうも電話が、高飛車なのです。
マンションのセールスのようです。
これは、何か詐欺系のセールスかと思い、適当にあしらいました。
20代半ば〜後半で、かなり自信をもっているようです。

しばらく、取り留めのないやり取りの後、私は、「何も、買わないよ」
と言いました。

相手は、
「何か売ろうとしていると思われているんですか?違いますよ。」
と言います。

結局のところ、マンションを売ろうとしていたことは判明するのですが。


あまり高飛車で、つまらない話ばかりするので、
「目的を言えよ」
と私は言いました。

なぜか、目的を言おうとしません。
マンションを売るのが目的であって、しかしながら、それは絶対言えない、と思っているようです。
そう会社で言われているのか、当人がそう思ったのかは分かりません。
営業としては、あからさまに、売る、という姿勢を見せると、相手が引きますので、それはそれで正しいのですが、

聞いている限り、マニュアル的でもないようです。
しかしながら、あまりにも、不自然な話です。

すると、今度は、
「話を聞いてもらえないのなら、そちらに今からお伺いしますから。承諾してもらいましたね。そちらに行ってから、そんな話は聞いていない、なんて言われて も困りますからね」
と言って来ました。
ますます怪しいです。
こういう台詞が出てきて怪しいと思わない40過ぎの男性は絶対いない、と断言できます。
また、絶対、こいつからは、何も買いません。

私は、「俺は承諾ななんかしてないからな」
と言いました。

すると今度は、
「あなたは、あなたの知り合いから電話がかかってきても、そういう対応をするんですか?」
と言って来ます。
更に怪しくなってきました。
「お前は知り合いじゃないだろう!?知り合いと、身も知らない奴で、しつこい売り込みの電話をかけてくるやつを一緒にするんじゃない!!」
と声を荒げました。
相手を逆に怒らす意図も含んでいます。
私は、鏡を見ながら電話をしています。
笑い顔です。

もし、まっとうな会社のセールスだったら、逆切れはしないだろうな、と思いました。
怪しい会社のやつなら、切れる、と思いました。

相手は切れました(笑)。
「今から、そっちへいきますよ。」
と言います。
私は、
「俺は承諾していないからな。」
と言いました。
来るなら、来てもらってぜんぜん構いません。
今の私には失うものは、命くらいしかありませんので(笑)。

「10分くらいあれば、そっちに着きますからね。もし、いなかったら・・・」
私は、
「何かバックにでも付いているって言うのかい」
と言いました。


それはそれで、好都合だと思ったからです。
そういうことなら、こっちは、もっと言うことがあります。
私は営業が長いため、若い営業マンから電話があると、手加減してしてしまいます。
自分が若い頃、飛込みとかやって、大変だったのを覚えていますし、営業出身で自営業を始めた人の所へ飛び込んだときには、「俺も営業だったからね。大変だ よね。」
と言われ、注文をもらったことがあったからです。
とても、嬉しかったです。
大学を出たばかりでした。
品川駅から、会社へ「受注しました」と電話を入れた時のことを、今でも、よく覚えています。

ただ、何発くらいなら殴られても、もつかな?と最近鍛えの足りない腹筋を気にしました(笑)。
こちらからは手を出しません。
それが、こういう時の王道です。



相手は口ごもりました。

すると今後は、
「話をちゃんと聞いてくれて、その上で、必要のない電話だというのなら、こっちは、謝って、電話を切りますよ」
とか、言っています。
やや路線が変わってきたような気がします。

こっちも、どうでも良くなってきたので、
「話せよ」
と言いました。
相手は、
「いいですか。。。」
とか言って話し始めますが、私は、「ハイ」とか、「どうぞ」とか、相づちを打ちません。


相手は、「聞いてますか?」
と言います。
私は、
「聞いてるよ。」
と言います。
どうも、怪しすぎて、下手に相槌をしたら、また、「承諾しましたね」だなんて、言いかねません。

相手は、「返事くらいしてくださいよ」
と言います。
「聞いてるよ」と私。
「あなたは、あなたの知り合いから電話があっても、そうするんですか?」
と言います。
「お前は知り合いじゃない。第一、またさっきみたいに、承諾しましたね?なんてやられちゃ、困るからな」
と言いました。
どうも、納得したようです。
どうも、こういう場面は久しぶりでしたが、すぐ北方謙三さんの世界に入り込んでしまうようです。


結局、??本当に、私は相手の求めているような人(笑)ではなっかったようで、
「それでは、今回、探しているような方とは違うようですので、またの機会にお願いします」
とか、言って終わらせようとします。

どうやら、一部上場企業に勤めているサラリーマンを捕まえて、何としてでも、アポイントをとり、その後売りつけよう、というのが、電話の目的であったよう です。
いろいろ聞き出しましたが、ローンを組んで月の支払いは6,7万でも、一部上場企業で、株価の安定した会社のサラリーマン、もしくわ、大きな会社の関連企 業のサラリーマン以外は、銀行がお金を貸してくれないようです。
きっと、私の前の会社のリストが流出しているのでしょう(笑)。
詳細ははしょります。


私は、好奇心満満になってきましたので、いろいろ質問攻めにしました。
この時点では、なぜか、私のほうが立場が上になっていました。

私「この仕事、ずっとやっていくの?」
相手は、「とりあえず、そのつもりです」

私「今、マンション売れてるの?ウチにも、よく営業が来るよ。横浜とか、あっちこっちに高層マンションができてるでしょう」
相手「売れてますよ。都内なんて、完売で、開いている部屋が0です」
とか言います。
私もなめられたものだな、と思いました。
伊達に、ビジネスサテライトを見てはいません。

私「マンションがこんなにいっぱい建てられているのは、土地の法律が変わった以外に、何か理由があるの?」
相手「金利も安くなっていますし、・・・・・」
いろいろ言っていましたが、感動的な回答(嘘でもいい)がなかったので、忘れました(笑)。

相手「自分の家とか、持ちたいと思いませんか?」
私は、持ちたいことは持ちたいが、それを言うと、またうるさいと思ったので、
「実家があるからね。それに、時代はいろいろ変わって来ているよ」
と言いました。
相手は「いろいろ変わるって、そんなのどうなるか分からないじゃないですか?」
とか、少し、強気が戻ってきました。

私は「船井幸雄さんとか読んだことある?」
と言いました。
相手は、少し間を取ってから、
「知って・・・います」
と言いました。
嘘だと感じました。
ひょっとしたら、だれか先輩社員が、電話をモニターしているのかもしれません。

私は、「政治家はみんな、時代がどうなるか知ってるんだよ。ただ、政治家を選ぶのはこっちだから、一般人が知っていること以上は言わないんだよ」
と言いました
本心は、政治家は、あまり知らない、と思っていますが。
ただ、知っている人はいるし、言えないこともある、とは思っています。

相手は「何か団体にでも、入っているんですか?」
と言いますので、どういう意味かな?と思いましたが、めんどうなので、
「名前だけは、いろいろね。まあ、いいや、そこらへんの話は」
と言いました。
変な政治団体にでも、入っていると、思われたのかもしれません。


私「あのさ、俺はしないけど、もし、俺が、あなたの会社の名前と部署、電話番号を聞いて、あたなの上司に、○○はこんな、失礼で、しつこいセールスをして きた、とクレームを言ったら、あなたの上司はどういうことを言う人なの?クレームは俺が受けるから、どんどん積極的に営業していけ、とか、言ってくれる 人?」
と聞きました。
一応、分かっていながら、会社の名前とかは、聞かなかったのだよ、若者よ、・・・という気持ちもこもっています(笑)。
ただ、あまりに 怪しかったので、聞いても、 どうせ嘘を言うだろうと思い、当初は聞かなかったのですが。

返ってきた答えは、
「会いたいというお客様には、お会いするだけです」
とか、なにか、変な回答をしてきます。

あまりに変だったので、もう一度、同じ質問をしましたが、
また、同じ答えをしました。


想像するに、
「ウチの上司は、そんないいやつじゃないですよ」
とか、言いたいのに、近くに、上司がいるのか、
それとも、やはりだれかが、電話をモニターしていて、そいつの指図するに任して、マニュアル通りに回答しているのか、どちらかでしょう。
「会いたいというお客様には、お会いするだけです」
という台詞は、この電話中、何回も出てきた台詞でしたので。

私は、そいつのためでもあるし、ひょっとしたら、モニターしているバ○のためでもあるので、
「あなたは、目的を言おうとしなかったでしょう。それが一番あやしい。いきない電話をしてきて、それで、目的も言わないで、アポイントを取ろうとする。
それでは、普通の人間が聞けば、詐欺としか、思えない。
営業なので、売る、ということをいきなり前面にだそうとしないのは、良いとしても。
今まで、怒鳴られたりしたことはなかったか?」

相手は「初めてです」
とか言いました。

「そんなわけ、あるかい」
と心の中で叫びました。

マニュアルにでも書いてあるのでしょう。



とかなんとか、言うわけで、1時間近く(以上?)電話をしましたが、最後は、相手のほうが、もう電話を切りたくて仕方がないようでしたので、切ってあげま した。



どうも、それほど、めちゃくちゃな会社ではないようです。
すると、どうなのでしょうか?
この若者に常識がなく、上記のような、明らかに怪しいと思わせるようなことを言う営業をしている、ということでしょうか?
私はお世辞で、「あなたなら、たくさん売れるでしょう」といいました。
半分はお世辞で、半分は彼の変な自信への評価ですが。

もし、彼の会社がまともな会社で、彼は自分のやっていることを、正しいと感じているのなら、これは、最近の若者全般が変ということでしょういか?
それとも、彼だけ特別変だということでしょうか?




その後、私は食料品を買いに出かけました。
帰りに東神奈川の駅に差し掛かったときに、私の目には明らかに裏の世界の人と、20代の若者が、駅の職員を交えて、言い争っています。
私は裏の世界の人は何となく分かります。
変な特技です。
最近の方は、最近の映画の見すぎで、いかにも、と言う感じでないと分からない人も多いようですが、私には分かるようです。
本物はそれほど、一般人と違わない格好をしています。


その人は、やれ「殺す」だとか、いろいろ言いながら、大声を出しています。
絶対、手は出さないでしょう。よく知っていますので。


若者は若者で、何も言いませんが、カッと目を見開いて、一歩も引かない、という感じです。

ここでも、私には分からないのですが、この若者は、まず、相手が堅気ではないことを理解しているのでしょうか?
どうもしていないようです。
なぜなら、今の映画に出てくるような格好を相手はしていないからです。

それとも、裏の世界の人だと知っていて、一歩も引かない、という勇気ばりなりの若者なのでしょうか?

知らないとすれば、当然、「相手はよく知っているので、絶対、手を出さない」、だなんてことも、分かっていないでしょう。
回りは人がいっぱいです。

どうも、柄の悪いおじさんにからまれている、としか、感じていないように見えます。







何が言いたいかと言いますと、本当に、今の若者はこんなに無知なのか?
それとも、偶然、無知な人と今日、2回も会ってしまっただけなのか?

ということなのです。

確かに、40を過ぎた今の私から見ているので、そう見える、ということもあるかと思いますが、どうも、何か違うような気がします。
私が20代の時には、あんな営業をしませんでしたし、堅気と堅気でない人も、もう少し見分けがついたように思います。

みなさんは、どう思うでしょうか?

私の思い過ごしであることを、希望しますが。




一つ思うのは、隣駅の高層マンションのショッピングアーケードにに共鳴しようと思い通った結果が、今回の電話かもしれません。
みごとに、マンションに共鳴しました(笑)。




209:I Love You: 世良譲
 
  世良さんのアルバムです。
このアルバムを購入したのは、ずいぶん前です。
ウチにあるCDの中では古参の部類です。

ロブスター企画から出ており、プロデューサーは、往年の名アルト奏者の海老原啓一郎さんです。

メンバーは、ドラム:ジミー竹内、ベース:中島教秀、のみなさんです。

みなさん、という表現は、こうして使うと、どうやら、全ての敬称をつけて呼ぶべき人達という、尊敬語の一種なのかもしれませんね。

曲目です。
1:I love you
2:Stardust
3:The days of wine and roses
4:Charade
5:I've got you under my skin
6:Doxy

7:My funny valentine
8:Stella by starlight
9:Day by day
10:All the way
11:Quiet nights of quiet star
12:You and the night and the music

ジャケット内側の世良さんの写真は、ジャージを着て、ピアノに向かって、譜面に何か書き込んでいる姿となっています。




ドラムのジミーさんは、私の一番好きなドラマーです。
まったくの私感ですが、リンゴ・スターのドラムに似ています。

リンゴの名演で有名な「ストロベリーフィールズ・フォーエバー」のドラムは、ジミーさんが、リンゴに教えたのではないか(ジミーさんの方が相当先輩で す)、と妄想するよ うなドラムです。
但し、ジミーさんは、正確で、うまいです(笑)。


私はこのアルバムは、当初好きではありませんでした。
高音が抑えられているのです。
想像では、プロデューサーの海老原さんによるところが、大きいのではないかと思います。
やはり年をとりますと、どうしても、高音は聞えなくなってるそうですので。

今は、好きなアルバムに変わっています。
ステレオ装置が購入当時と変わったせいか、聴きなれたせいか、私の耳が変わったせいか・・・よく分かりませんが。








岡田多母さんの「愛しの地球(テラ)へ」(1996年:風雲舎)には、今まで書いたこと以外にも、たくさん興味深いことが書かれています。

1年が365日とされていますが、本来は360日であるべきであり、そのためには軌道周期のスピードを速める必要があるが、岡田さんのもとに、地球がス ピードを速め た、という知らせが来ている、という話です。


同書54ページには、
1年を360日で回っていれば、この宇宙の全ては球体であるはずだ。細胞も、原子 核も球だし、電子はその周りを真円で回っている。
地球本来の軌道周期は真円だったはずなのに、今は周期がずれて、楕円周期となって いる。全てが共通・相似に作られている宇宙で「1年365日の楕円周期」は、不釣合いだ。 なぜこういうことがこるのか?

と書いています。
(引用と書いていない場合は、要約です。)

メビウスの輪と、ダブルメビウスの輪を元に、「こうすれば、正しくなる」という説明が書かれていますが、私には読んだだけでは、よく分かりません。
理系なのですね、岡田さんも。
明治薬科大学卒業だと思いました。

どうも、私の読む人は、船井幸雄さんでも、政木和三さんでも、森田健さんでも、関秀雄さんでも、、天外伺朗さん(追記)でも、池田邦吉さんでも、みんな理 系です。
いまや文系で辿っていくと、浅見帆帆子さんしか、いないのかもしれません(笑)。
しかし、彼女もインテリアデザインの仕事か何かをしているので、空間には詳しいでしょう。

しかたがないので、文系の代表でも目指しましょう(笑)。 


さて、私にも分かりやすい所だけ、書いてみれば、
ブルメビウスの輪を切ったりしている内に、
「あ、これが正しい」「これが継承ということの正しい流れだ」と直感で思ったそう です。
メビウスの輪を細胞分裂という視点で見れば、もとの形とはまったく異形の大きさの 細胞がつくられ、分裂を重ねればその違いが増幅される。
一方、ダブルメビウスの輪は完全、正常分裂、ということです。

また、遺伝子の継承という視点で言えば、メビウスでは、親とまったく違う子が生ま れるのに、ダブルメビウスでは同等同質の子が生まれる、としています。

こうも書いています。

たとえば人は幸せを求めます。
もしメビウスの場合のように、右端から幸せを求めスタートしても、一回転すれば、 始点の幸せとは合致しない。ところが、ダブルメビウスでは、願望は一致する。
これを地球の周期にあてはめると、ダブルメビウスの流れでは、ズレを生じることな く、同一の軌道周期を回るにちがいない。
8の字の形から安定調和の円周期サイクルとなり、真円となり、360日に符号する のではないか?

そして、ダブルメビウスを2分割したことから、完全な流れを感じ、アイル(岡田さ んの空を飛べる初めての世)の時代のテラや宇宙の状態を再び思い出した。この完全な流れをいま、このときに具現化することができれば、テラのつぎの進みで ある完全な世を具現kぁすることができるのではないかと思った。


ということです。


岡田さんは、人々に完全なこの流れを伝えていこう、と思ったそうで す。
そして、こうした流れを、二つの回転を持つダブルメビウスとして作り直し、地球の 自転の回転と公転の回転を二つの回転を早めることで、1年を360日に し、楕円周期を円周期に変えることはできないか、と考えたそうです。
そうすれば、時間とサイクル(空間)の流れの数が符号し、再びもとの真円の宇宙に 戻れる、ということです。
時間、空間が一致し、一体となって正確な形ができあがり、宇宙は調和し、次に進む ことができる、ということです。
そのためには、今の地球のスピン自体を加速していく必要があるそうです。
公転や時点の回転周期が遅くなると、どうしても外側の力に負けて遠心力が大きく なって、365日という日数がもっと増えてしまいますから、回転を早めて 360日に近けていくしかない
ということです。

そして、こう書いています。(引用59ページ)
『そんなある日、「地球がその回転を加速しました」という情報を私は山や岩たちか らキャッチしました。
鳥達の飛び方が変化し、低空飛行をするようになったのです。
これは地球の自転が速まり、求心性が強まったことを指しています。
私自身が地球が地球周期軌道のズレに気づきはじめたのは、一九八〇年ごろです。そ して地球は一九九〇年ごろからその軌道周期修正を始める準備をし、一九九六年にはその決意をしました。
地球は自ら、自身の軌道を修正しはじめたのです。』

(以上)

一応、私と同じ文系の方のために、・・・

求心性とは、Goo辞書によると、どう も、【向心力】と同じよ うで、
質点が円運動をするとき、質点に働く力。円の中心に向かう。等速円運動ではその大 きさは円の半径が r、質量が m、速さが vなら mv2/r で与えられる。求心力。

だそうです。

きっと、遠心力は外側へ引っ張られる力で、求心力は内側に引っ張られる力、なのでしょう。
そして、スピードが上がると、円の半径と重さが一緒なら、そのスピードが上がった割合の2乗で、内側への力が上がるようですね(驚)。

それは、鳥も、下を飛びますね。(驚)
走り高飛びの記録なんかは、どうなるのでしょうか?(謎)
ホームランも減るでしょう。(推)






地磁気との兼ね合いはあるのでしょうか?
地表に引っ付く力が上がる、ということですが。

しかし、何人が、鳥が低く飛んでいる、と思ったことでしょうか?

ただ、確かに、1年365日、というのは、不自然ですね。
時空らしくない・・・。

なにが、狂わしてしまったのでしょうか?
いろいろ読み漁っているので、不確かですが・・・
この本の中にあったかもしれませんし、他の本だったかもしれませんが、
確か、人間のエゴが、そうさせた、と書いてあったものがあったようにも、思います。
まったく違う話かもしれません。
またはっきりしましたら、掲載します。






政木和三さんは、人間のストレスが、地磁気を弱めてしまった、というようなことを書いていたのは、確かだと思います。
船井幸雄さんだったかもしれませんが。

逆に、地磁気が弱まると、地球が真円軌道から、楕円軌道になってしまう、ということもあるでしょうか?
私には、よく分かりませんが。 

もしあるなら、人間の嫉妬のDNAがONになって以来、少しずつストレスにより、地磁気が弱まり、それによって、地球が楕円運動し出し、カルマを含めた、 い ろいろなことが、おかしな流れをし出し、そして、3次元的にも、高次元からの影響という意味でも、今がある、ということも言えるのかもしれません。






最近、エドガー・ケーシーさん関係の本を3冊購入しましたが、ジナ・サーミナラさんの書いたモノ(翻訳もの)については、カルマの部分について、どうも納 得がいきません。

まるで、人への罰、あるいはそれを超えた懲罰のように、カルマが書かれているように読み取れてしまいます。
確かに、カルマとは、もともとそういう要素のあるものとして、知られてはいますが。

これが、輪廻転生を信じてこなかったアメリカ人向けに書かれたものだからそうなのか、それとも、書いた著者自身が、アメリカ人だったからそうなのかもしれ ませんが、読めば読むほど、前世での悪行の罰として、時空が、人に仕打ちをするかのように読み取れてしまいます。

ですので、読んでいますと、気分が悪くなってきてしまいますので、今は、飛ばし読みをしている状態です。
先日書いた幼少の時に見た、恐山の地獄の絵を見ているような気持ちに近いものを感じてしまいます。

ひょっとしたら、この彼女の書いた2冊だけが、どこか特別なのかもしれませんので、機会があれば、また別のケーシーさん絡みの本も読んでみたいと思いま す。
なにせ、ケーシー絡みの本はたくさん出ていますので、どれを読めば良いのか、迷ってしまいます。
船井幸雄さんが、どれか、推薦してくれれば、良いのに、と感じています。
みなさんは、ケーシーさんの本は読まれたでしょうか?









さて、岡田さんですが、この文章の後に、どうも森田健さんの言う、「自分が時空であり、時空が自分である」、ということに関係しそうなことが書かれていま す。

(引用:60ページ)

自然とこんな対話をするなかで、私はいつも不思議に思うことがあります。それは 私がこの地球のことを思う、その気持ちや疑問というのは、いったいどこから沸いてくるのだろうかということです。なぜ思うのかということです。たとえば何 かを見て、「あれ、おかしいな」と思う。この思いはどこから沸いてくるのでしょうか。
 そして私がダブルメビウスを思いついたときも、宇宙は実際そうなっていました。 だからこそ「ダブルメビウスだ」と、私が気がついたのではないでしょうか。そうすると「私が思う」のは「宇宙が思う」のと、同じことなのかもしれません。 これもまた同時性、共時性というのでしょうか。共振共鳴なのでしょうか。いずれにしても、「思わされる」のではないかと、「思ってしまう」のです。
(以上)

「思ってしまうのです」、で終わりますが、私の書き癖ではありません(笑)。本当に岡田さんがそう書いています。
共振共鳴でしょうか(謎)。
「私が思う」のは「宇宙が思う」のと、同じことなのかもしれません。と いうセンテンスは、まさに、時空と一体になっている、というようなイメージを感じます。
こうなれれば、外応から、完璧に回答を得られるのかもしれませんね。

世良譲さんでした。



210: 祭りの幻想:白木秀雄クインテット
   

   白木秀雄クインテットのアルバムです。
メンバーは、ドラム:白木秀雄、サックス、フルート:松本英彦、トランペット:小俣尚也、ピアノ:世良譲、ベース:栗田八郎、琴:白根きぬ子、のみなさん です。

曲目です。

1.祭りの幻想
2.ファイヴ・スポット・アフター・ダーク
3.ジャスト・ワン・オア・エイト
4.チェロキー
5.ブルー・ロメオ
6.エチュードNo.1
7.ユー・ドント・ノウ・ホワット・ラヴ・イズ

録音は1961年(昭和36年)、6,7月です。

アマゾンのレビューには、「白木は日本のジャズがほとんど国際的に認められていなかった時代に唯一世界的なレベ ルの実力を誇ったドラマーだ。」とありますが、ジョージ川口さんも、聴く限り、世界的レベルだったように感じます。
もっと言いますと、ジミー竹内さんたちもそう聴こえます。
当時の日本人は、きっと自信をまだ取り戻していなかったのでしょう。

松本英彦さんだって、すでに世界的レベルだと聴こえます。
クルセーダーズの出演するライブハウスに飛び込みで出演して、彼らから名前を聞かれたのは、この数年後のはずです。


野球でもそうですが、野茂が大リーグに行く前は、どの評論家ですら、「日本人が通用するはずがない」とか、「レ ベルは天地ほども違う」というような感じで言っていましたが、結局そんなことはありませんでした。

江夏でも、平松でも、村田でも、足立でも、山田でも、だれが行っても、きっと通用したはずです。
王が行っていれば、やぱっぱりヤンキーズの4番だったかも知れません。

こういってはなんですが、私はアメリカに戦争で負けたことも経験していませんし、空腹の時に進駐軍からチョコレートをもらったこともありません。
ですので、アメリカに対して、何の劣等感もないと思います(本当は少しあるかもしれないが)。
ですので、きっと、日米を比べる時、ベテランの評論家の先生方よりも、正しい評価が出来る可能性がある、と感じています。

その意味では、白木さんは、よっぽどうまいドラマーであったと、言えるかもしれませんね。


白木さんは、1933年東京・神田生まれで、1965年のベルリン・ジャズフェスティバル出演後、心身状態がすぐれず、1972年、39歳で、音楽的悩み から、なくなってしまったそうです。

どんな時代だったでしょうか?

想像すれば、モダンジャズ一本でやっていくには不遇の時代だったかもしれません。
渡辺さんが、ボサノバ路線の頃でしょうか。

グループサウンズからフォークへ移行の頃でしょうか?

ジャズ界では、アバンギャルドな路線、渡辺さんのような路線、クラブを中心に活躍するベテランの人達の路線・・・
マイルスやコルトレーンのような世界を追求するには、金銭的には大変な時代だったことでしょう。
しかも、白木さんはすでにスターであり、この年代のジャズスターの人達は、1960年代くらいまでは、映画スターの次くらいに大金を貰っていたようですの で、その生活レベルを落とさないようにしようと思えば、新しい音楽の追求、ということばかりをするのは、むつかしかったのではないかと感じます。
仮に、その追求先が、渡辺さんのように、ボサノバであったり、クロスオーバーというような若い人、一般人、コマーシャルに乗るようなものであったなら、ど うなっていたか、分かりません。

ただきっと、単に、ジャズが演奏できれば、それで楽しくてしかたがないんだ、という人ではなかったのかもしれません。

私は、白木さんについては、詳しいことは知りませんので、すべて、想像、仮説ですが。

人間ですので、異性問題もあったかもしれませんし、本当のとろこは知りません。




さてアルバムですが、私は当然、世良さんを中心に聴きます(笑)。
私の感じるところでは、相当モダンな音を出そうとしているのが、感じられます。
セロニアス・モンクあたりの感じをだそうとしているのかな?と感じるフレーズもあります。

ピアノの録音が少し悪い(小さい)ようですので、はっきり分からない部分もあるのですが、メンバーに世良さんを選んだのは、必ずしも、音楽性ではないよう にも感じます。
むしろ人柄だったのかもしれません。
レギュラークインテットですと、チームですので、気の合うメンバーから一番良い音がでてくることでしょう。

やはり世良さんの音楽性としては、スイング〜セミモダンというように感じます。
エロール・ガーナー、アート・テイタムのスタイルが、もっとも世良さんらしいところのように感じます。



「祭りの幻想」は、1958年当時の白木クインテットのピアニストだった八城一夫さんの作品で、マイルスあたりのモード手法を取り入れた曲 です。
琴を交えての編曲、演奏で、とても、実験的、斬新なものです。


このバンドの後期には、日野皓正さんや、村岡健さんなども在籍していたそうです。
今では、この2人も、大ベテランというイメージですね。







近頃、外応について、いろいろ考えを巡らしていますが、どうも私自身を考えてみると、いくらかでも、何かを問うていたことは、昔からあるようです。
しかし、自分に都合の良い答え、つまり、「やりたい」→「やった方が良い」などの答えが得られると、これは、ひょっとしたら、ただ自分に都合のよいように 解釈しているだけなのではないか?と考えることが多かったように感じます。

私は幼少の頃から周りの人間を見ていて、「ひどいことをする人は、何でもかんでも自分に都合の良いように解釈して、自分がいつ何時でも正しいと考えている ようだ。ああいう種類人間にならないようにするためには、何でもかんでも自分の都合のよいように解釈したり、いつでも自分が正しいと思ったりしないように しなくてはならない。」と、極端な解釈をしたようです。
何となく、その決意(笑)の瞬間も覚えています。





また、それだけならまだしも、「まず、自分に都合の悪いことを選ぶようにし、いつでも、自分が間違っている可能性がる、と思うようにしなくてはならない」 とも決意したようです。
小学生の考えることはどうも、この程度のようです、私の場合は・・・。

これが原因で、時空からの情報を正しく受け取れず、いくつかの機会を逃していたとするのなら、おしい限りです。
しかし、これも含めて、運命だった可能性もありますので、今となっては、必要、必然、 ベストと考えるのが良いようです。
但し、これからは、改めようと思っていますが。

また、先日、森田健さんが不思議研究所のサイトで、イヤなヤツと付き合うヤツは、自分に責任を持っていない、貧相だ、幸せでない、と発言していましたが、私はこれは、正しいのではないかと考えています。





私はウチの母親から、私が幼少のころより、「全ての人間と仲良くしなさい」、「私の弟は、小さい頃から、いつでも、たくさんの友達が遊びに来ていた」とい うことを、くり返し、ことあるごとに、言われ続けていました。
ですので、どんな相性の悪いやつとでも、どんな近寄りたくないやつとでも、がまんして、楽しく付き合わなくてはならない、という脅迫概念のようなものに、 駆り立てられ続けており、また、「嫌なやつ」、「近寄りたくないやつ」という感情を抱くことすら、”いけないことをしている”という罪悪感と劣等感を抱か せる原因になっていました。

しかし、どう考えても、これは間違っています。
もし、最終的に、”解脱”でもすれば、全ての人と、足しのしく付き合えるような人間になれるかもしれません。
しかし、そうでもない限り、人は、自分の好きな人、相性の良い人、一緒にいたい人とだけ付き合っていけばよいのだと思います。
もちろん、相手がよっぽどの人間でない限りは、挨拶くらいしても、よいのだと感じますが。


私は、このことと、先の「自分に都合の良いことを考えてはいけない」の2つの考え、潜在意識が作用して、人間関係において、いらぬ苦労をしていたように感 じます。


また、頭(メンタル体)に、思ったような映像が出にくい、ということも、このことが大きな原因なのではないか?と感じています。
要するに、その映像を理解できない人間、あるいは全く違う正反対の映像を思い浮かべる人間とも、強引に仲良くしようという意識が働き、架空の私の意見を妨 げる存在が、私の映像を否定し、私はそれに、合わせようとしているのでしょう。
仮説ですが。





これからは、「イヤなヤツ」とは、挨拶以上のことは、しないようにしたいと考えています。
これが、また、正しく外応を得ることにも繫がるような気もしています。

なぜなら、「好きで得意な人」としか付き合いませんので、どう考えても、運が良いとしか思えませんので。

みなさんは、どう思うでしょうか?






ただ、どんな事情であれ、今までそうしてきましたので、その結果、得られたものもあります。
それは、何かと言えば、要するに、自分の範疇でない人と強引に仲良くしなくてはなりませんので、そうしますと、当然、視野が広がざるを得ないのです

私は音楽は好きですが、実際ハードロックなどは好きではありません。
しかし、上記のような脅迫概念がありましたので、ハードロックも、相当聴きました。
また、本当であればわざわざ聴こうとも思わないような音楽を聴き、「以外に良いな」と感じ、好きになってしまったものもあります。

実はこのような種類のことが、私の周りにはたくさんあります。
ですので、今私の中に蓄えられたものの中には、嫌いでしかたがないけれども、全ての人と付き合わなくてはならないので、仕方がないので身に付けた知識とい うものがたくさんあります。
もちろん、本当に好きなものもが多いですが。





私が人の嫉妬を執拗に忌み嫌うのも、上記の脅迫概念が理由の可能性もあるかと考えます。
要するに、人に嫌われてはいけないわけですので、嫉妬されるのはご法度なわけです。

そうしますと、まず能力を人前では発揮しないようになっていたように感じます。
嫉妬を起させないために、抑制しているのです。

女性と懇意にしないようにも、していました。
これも、女性、男性、両方からの嫉妬を避けるためだったようです。
(そんなに、色男では有りませんが。それでも嫉妬する人は嫉妬します)

こうしていきますと、結果としては、イヤなヤツとつきあわない、ということが、60点得られる人生だとすれば、イヤなヤツとつきあう、という人生は、20 点くらいとなってしまいますね、きっと。








ビジネスなら、イヤなヤツとでも付き合わなくてはならないではないか?という人がいるかもしれません。
はたしてそうでしょうか?

確かに、ファーストコンタクトは、イヤなヤツともしなくてはならないとは思います。
しかし、どんなに努力しても、イヤなヤツとは、長続きするはずがありません。

ですので、挨拶だけすればよいのだと思います。
つまり普段と同じです。

今思えば、イヤなバイヤーのいるメイカーには、あまりいかなくなりましたし、何となく昔から知っているようなバイヤーのいるメイカーには、自然と頻繁に通 い、自然と注文をたくさんもらっていたように感じます。

留学を世話できた看護婦さんは、始めてあった瞬間から、一緒にいて安心できるような雰囲気があったようにも感じます。






会社の中でもそうです。
イヤな上司とは、がまんして強引に一緒にいても、やはり「我慢波動」でも出ていたのでしょうか、うまくいくはずがありません。
なんかいいヤツだ、と思っていた上司かたは、1年に1度しか会わなくても、向こうから声をかけてきてくれたりします。

下の人間の場合でも、同じです。

ですので、もう、イヤなヤツ、モノとは、付き合わないようにしようと考えます。
これは、どうも一つの真実であり、同時に人生の落とし穴でもあるような気がしましす。



しかしながら、ちゃんと船井幸雄さんの「ツキのあるものと付き合う」ということにも、符号しているように感じます。
「好きで得意なことをする」にも、通じていると感じます。
「納得できないことはしない」にも、共鳴します。

そして、これこそが「自然体」であり、「あるがまま」であり、ないものを求めないと言う意味からすれば、「ないがまま」でもあるように思います。
それらは、きっと、正しく外応を得ることにも、通じていると考えます。



ただ、気をつけるべきは、「イヤなヤツ」だから、憎む、恨む、などという感情を持つのは間違っているのだとは感じます。

イヤなヤツは、付き合わない、だけで、よいのだと思います。


みなさんは、どう思うでしょうか?


211THE ORIGINAL BIG FOUR
   

   ビッグフォーの1959年、4月7日、9日の録音のアルバムです。
曲目をコピーペイストするため、アマゾンで検索しましたが、はじめ、見つかりませんでした。
名前が、ビッグフォーではなく、ビッグフォアになっていたからでした(笑)。

曲目です。

1.バードランドの子守唄
2.スターダスト
3.サヴォイでストンプ
4.ブルースの誕生
5.イエスタデイズ
6.ジャンピン・アット・ザ・ウッドサイド
7.ジャスト・ワン・オブ・ゾーズ・シングス
8.キャリオカ
9.フラミンゴ
10.ブルース・イン・ザ・クローゼット
11.“A”列車で行こう

一応メンバーです。
ドラム:ジョージ川口、テナー:松本英彦、ピアノ:中村八大、ベース:小野満、のみなさんです。

みなさん、うまいです。まだ、30代前半でしょう。
中村さんは、何かで読んだことがありますが、アメリカへ旅行へ行って、ハーレムで黒人のメンバーを見つけ、ブルーノートのオーディションを受けたことがあ るそうです。
そうしたら、当然と言えば当然なのですが、合格したそうです。
しかし、観光ビザだったので、ブルーノートからのデビューは、果たせなかったようです(笑)。

やっぱり、うまかったのですね。

その時のスタッフは、その後、その観光ビザの日本人が作曲した「上を向いて歩こう」が、全米ナンバーワンになろうとは、想像もしなかったことでしょう。

このCDを買ったのは、確か仙台にいるところだったかと思います。
半年だけ仙台にいました。

その時はインターネットも、まだ、一般的にはダイアルアップでしたし、東京育ちで、隣に駅にいけば、最新の情報を簡単に入手できる生活しか知りませ んでしたので、ほとんど最新の情報が入らない状態でした。
車も持っていませんでしたし(笑)。

その間に、松本英彦さんが、なくなってしまったようでした。
テレビだか何かで知ったのだと思いましたが。
仙台駅まで出て買ったのか、あるいは、 東京に戻ってから買ったのかもしれません。
あのときも、記憶がなくなるくらいいろいろありましたので、良く覚えていませんが。

1999年くらいの話です・・・。

と考えますと、少なくとも、テレビよりは、早い情報をもって、最新の情報と私は呼んでいるようですね。
テレビは遅れているのですね。

きっと、テレビで取り上げるようになった時には、すでに、”遅れた情報”となっているのかもしれませんね。




当時はまだ、松本英彦さんのアルバムなどは、そう多くCD化されておらず、またCD化されていても店先に並んでおらず、なかなか入手がむつかったで す。
今でも、その傾向はありますが。


ジョージ川口さんも、最近なくなりましたが、2002年くらいに横浜のジャズフェスティバルに出演した時のテレビ放送を録画してありましたので、 DVDに焼いて楽しんでいます。

シャープス&フラッツ、中野ブラザーズと「ドラムブギ」を演奏しています。
司会には、笈田俊夫さんも出てきます。

そう言えば、先日、少し前に、原信夫さんが出演したテレビ番組をDVDにしましたが、原さんは、もう80歳近いのですね!(驚)。
それで、テナーを吹きながらバンマスをしているのは、本当にすごいです。




さて、本当に最近思っているのは、実力をつける暇があったら、ツキをつけろ、と・・・

実力なんかいくらあっても、ツキがなかったら、なんの結果もでない、のが事実のようです。
仮説ですが。

ツキがあれば、実力なんかなくとも、ちゃんと、結果がでる・・・。


それでは、受験に受かったり、スポーツで優勝したり、仕事でうまくいったりするのは、努力したからではないのか?と思われる方もいると思いますが、・・・
それは、好きなこと、好奇心のあることをやっていて、それ自体がツキをつけることだり、結果として、好きなことをやって身に付けた能力の範疇で、ツキが物 質化しただけのことのよう に私には感じます。


”能力の範疇”、とは、つまり、3次元的にそういうことが起こっても、辻褄があう範囲、という私の仮説です。
”実力通り”、ということとは、異なります。

よく聞く、実験中に、間違った操作をしてしまい、結果として、そこからすごい発見が得られた、というようなことは、正にこれだと感じます。
発見した人は、研究者のわけですので、能力いかんに関わらず、ツキを身に着けていれば、こういうことが起きても、3次元的に辻褄があいます。


もし、人為的になせる範疇があるのならば、この、3次元的に辻褄の合う範疇にいるようにする、ということは、しておきたいものですね。



実際、好きで、好奇心のあることをやっていること自体、ツキをつけることでもある、とは、船井幸雄さんが、よく書かれていることですが、3年前の私なら、 夢にも思わなかったことです。




そこで私にとって、興味深いのは、どうしたら、ツキを身に付けられるか、ということと、 なぜ、努力や実力ではなく、ツキを”優先”されるのだろうか?
ということです。

ツキを身に付ける方法については、対象となるのは、大河の流れではなく、小さな流れのほうです。

ちなみに、大河の流れを変更する方法については、今のところ、六爻占術、問い、原因の世界へアクセスする(悟り、あるいはそれに近い境地の精神状態になれ ること)、の3つのようです。

六爻占術については、不思議研究所のサイトに詳しいです(当たり前)。
問いについても、不思議研究所のサイトに詳しいです(それはそうだ)。




原因の世界へアクセスする、については、私の知っている人の中では、最近の人のなかでは、政木和三さんと船井幸雄さんが、できているようです。
キリストや仏陀については、よく分かりませんが。
できていたのでしょう、きっと。
その意味では、船井さんや政木さんは、ものすごいのかもしれません。





少し麻痺しているので、なんですが、政木和三さんがやる、物質の瞬間移動、急に習ったことのないピアノを弾き出す、3次元的には知りもしないドイツ語を話 す人や、アトランティスの言葉で話す人と会話をする、仏像が空間から物質化する、真珠がみかんの中から物質化する、なんていうことは、それこそ、紀元前に 生まれていたら、1大宗教の教祖として、今日語り継がれていても、不思議でもなんでもないことです。
しかし、そうでありながら、面白いのは、修行しないで脳波をアルファー波、シータ波にする機械を作ったりしてしまうところなのですが。

政木さんは、サイ科学会の会員であったようですが、関英男さんとのからみについては、賢者の石を出したら、客席の人が急にアトランティス語で話し始めた時 のエピソードの時や、ピアノを披露したときに、「サイ科学会会長も列席しておられた」とい書かれていたかと思います。
この2つの話は同じ時であったか、別々のときであったかもしれません。
また、どちらかは記憶違いで、関英男さんはいなかったのかもしれません。
いずれにしても「サイ科学会会長」としか、書かれていなかったはずです。






少し横道へ入りましたが、ツキをつける方法と、なぜ、努力、実力よりも、ツキが優先されるのか、については、表裏一体になっているように感じます。
つまり、創造主が望んでいることは、まさにツキをつける方法の中にあるのではないか?ということです。

船井幸雄さんは、ツキをつける方法として、

・好きで得意なことをやる
・こだわらない
・嫌なこと、納得のいかないことはしない

などを良く上げます。



政木和三さんは、願望実現方法として、

・欲望を捨て、すでに実現しました、感謝いたします、と願う。
・達成できないような願望をたてて、後は忘れる。
・一度目標を定めたら、それは忘れて、足元1メートル四方のみを見る。


五日市剛さんの「ツキを呼ぶ魔法の言葉」では、

・良いことがあったら、「感謝します」、悪いことがあったら「ありがとう」という。
・願望が叶ったことをイメージし、「○○させていただきました。感謝します」と言う。
・毎日、「ツイテイル」と言う。



浅見帆帆子さんは、

・かなったときのこと、喜んでいる状態をイメージする
・かなった後、更に、何をしようかということを考える。
・これぐらいでいい、ということでは、結局本当にほしかったものではないので、かなっても嬉しくない。これぐらいでいいとは考えず、本当にほしいものを思 う。

と書いています。











ちなみに、アマゾンの素人レビューで、浅見さんの離婚を取り上げて、批判的なことを書いているものが多く有りますが、批判はどうでもよいとして、きっと、 運命の大河の流れと、小さな流れの違いを物語っているのではないでしょうか。
浅見さん式の願望実現豊富は、やはり小さな流れを変更するものであり、決して、生まれる前から決まっていた大河の流れを変えるものではない、と言うことの ように感じます。

あるいは、小さな流れは大河の流れを超えられない、とも言えるのかもしれません。
たとえ小さな流れを導いても、それが大河の流れに反していれば、大河の流れに引っ張られてしまう、ということなのかもしれません。
これは、なにも悪いことばかりではなく、3次元的優劣で例を挙げれば、ミュージシャンでうまく行っていたのに、社長にならざるを得なかった人、ともいうも いるようです。


いずれにしても、私としては、すてきな独身女性が、また一人増えたということで、よい事にには違いないのですが・・・。


また一応、浅見さんを擁護するためでもないのですが(なくもないのですが)、レビューのなかで、「すべてをベ必要、ベストと考える、と言っておきながら、 離婚したことにより、周りの人に迷惑をかけている。プラス思考も考えた方がよい・・・」というようなものも、見つかりましたが、この人は間違いなく、「必 要、ベスト」の意味が分かっていません。

起きていまったことについては、どんな結果を招くことであろうとも、それはその人の人生にとって「必要、ベスト」のできごとである、と考えるということで あるのです。

ですので、周りの人に迷惑をかけた、ということすら、その人にとっては何かを学ぶため、あるいはこれからの人生において、「必要、ベスト」なことであり、 仮に、元旦那の親戚かなにかに、迷惑がかかったとしても、それは、その人側から見れば、「こういうことがおこったが、それは、自分にとって、必要、ベス ト」な事柄であるのだ、ということなのだと思います。

この言葉は、何も、全てが3次元的即物的利益からみて、その場でプラス、ということを言っているわけではない、ということだと思います。

きっと、浅見さんにしても、足りない部分があり、その勉強のためもあったのかもしれまんし、大河の流れと反していたんぽが理由なのかもしれません。
どちらにしても、創造主のあらかじめ決められたプログラムの中において、その人にとってベストになるように、大河の流れは流れている、ということなのだと 思いますが。

いずれにしても、そのレビューの「必要、ベスト」の解釈は間違っています。
この考えが、どうであるかは別としてですが。

私は、どう思っているかですが・・・勉強というのは、最近やや意味あいが違うのではないかと感じています。
もちろん、学ぶ、ということではあるのですが。
実力と結果が異なる、という事実から、きっと実力をつけるための勉強ではないのだと感じています。
きっと、大河の流れに従うための、3次元的に矛盾を呼ばないための勉強なのではないでしょうか?

たとえば、山岡鉄舟さんが、幼少時に母をなくし、高次元とつながる能力を身に付けたことを考えてみると・・・
それは、後に山岡さんが、江戸城無血開城に尽力する、という大河の流れが決まっていたので、それと矛盾しない人物像を作るために、それなりの精神力を持っ た人間に山岡さんをするため、あるいは、そういう人間にして、「そういう人なら、それくらいのことができても不思議ではない」とみんなに思わせるために、 山岡さんは高次元と繫がることができるようになったのではないか、と仮説しています。

もちろん仮説ですので、良く分からないのですが、しかし、私としては、そうであると、辻褄があいます。

実力と結果が比例しない、という運命の流れがある割には、経営者のなる人は、経営者の家系に生まれたり、音楽家になる人は、なぜか、小さい頃から、音楽的 な環境にいたりします。

比例しないのなら、反比例しているかと言えばそうでもない。
それは、違う意味があるとしか思えません。

それは、3次元的辻褄あわせではないか?
というのが、私の仮説です。

もっと聞くこえの良い言い方をすれば、大河の流れを成熟させるための準備、とでもいうのかもしれません。
必ずしも、「必要、必然、ベスト」は、魂の勉強のため、ではないのではないかと思えてしまいます。
ましてや、しごき、などでは絶対にない、と感じます。
それでも、サムシンググレートの意思が働いているのは、確かだと感じますが。
みなさんは、どう思うでしょうか?





さて、またそれてしまいましたが・・・・・・・・・


上記のようなツキを呼ぶコツを見てみますと・・・何が分かるでしょうか?(笑)
あまりよく分かりません。
しかたがないので、強引に考えて見ます。



楽しめることを見つけたら、瞬間瞬間を楽しんでいないさい、と想像主は言っているのでしょうか?
そうすれば、大河の流れに反しないことは、実現するよ、ということでしょうか?

それは、つまりどういうことでしょうか?
森田健さんの言ような、時間を楽しむために3次元に私達はいる、ということでしょうか?





今ふとイメージされてきたのは、自分で作るオムニバスCD-Rです。

「安らげる感じのCDを作ろう」
と思います。
全体のコンセプト、今回なら「安らげるCD」と考える時には、それを聞いてベッドに横たわっている自分を感じていたりします。
(イメージとは、感じる、ということで良いのかもしれませんね)。

コンセプトが決まったら、後は、大まかに、この曲とこの曲は絶対に入れて、後はは1曲ずつ聴きながら、あるいは頭でイメージして、仮聴きをしながら、先頭 から1曲づつ決めていきます。
先頭から決めるのは、曲順というのも大切だからです。


しかし、時間の概念のない高次元であったら、曲順など関係ありませんね。

当然のこととして、楽しめない曲など1曲も入れません。
そうでありながら、全ての曲が、要するに上位何曲かのものであるかと言えば違います。
この流れなら、どうしも、ここでこの曲が来なくては次のお気に入りのこの曲が映えないのだ・・・という並び方も、またあるのです。

おかずにも似ているかもしれません(エッチなほうではない。関係あるとも言えるが)。

肉がいくら好きであるとは言え、普通の人は全てが肉であったら、つまらないはずです。
ステーキがメインで、トン汁に、チャーシューのいっぱい入ったチャーハンで、肉の佃煮が付いて、デザートにトンソク(普通出ないが)が出てきたら、どうで しょうか?

やはり、流れというものがり、その流れを作り出す、おかずが揃っているので、瞬間瞬間を楽しめるのだと感じます。

ステーキがメインで、ワカメの味噌汁で、白いご飯で、サラダがオシタシがあって、デザートは、抹茶のアイスクリームとコーヒーだったりすると、良いので す、私は・・・。


そう考えるとやはり、瞬間を楽しむこと、時間の流れを楽しみ続けること、が創造主が望んでいることなのでしょうか?
そうして、そうすれば、ツキを得られる・・・。




ちなみに、関英男さんの影響で、豚肉、牛肉を絶って、1ヶ月以上経ちましたが、まだ大きな変化はないようです。
ひょっとしたら、すでに起きているのかもしれませんが・・・

鶏肉と、魚ばっかり食べています。

ちなみに、ケイシーの本に書かれていたリンゴ断食をしようと思いましたが、できませんでした。
なぜか、しようと思う日に限って、おなかが空いているのです。
結局、買いためたリンゴはデザートとなりました(笑)。




それとも、未来のことをイメージする、ということから、創造主は「原因の世界を変えるのだ」ということを、暗示しているのでしょうか?
どうなのでしょうか?

しかしどうも、瞬間楽しみ続ける、ということには、何か意味があるような気がします。

みなさんは、どう思うでしょうか?

ビッグ・フォアでした。


212:ジョージ川口&New Big4+1
   
  2000年5月9日の録音です。

メンバーは、ドラム:ジョージ川口、ピアノ:市川秀男、ベース:水橋孝、テナー:中村誠一、トランペット:岡野等のみなさんです。

曲目です。

1.ラヴァー
2.ビッグ・アップル・ジャンプ
3.悲しみはさようなら
4.ミスティ
5.キャラバン
6.ソング・フォー・マイ・ファザー
7.テイク・ファイヴ
8.煙が目にしみる
9.ウォーターメロン・マン
10.ドラム・ブギー
11.チェロキー
12.ラヴァー

市川秀男さんは、以前は速弾きで有名な技巧派でしたが、このアルバムでは、比較的スタンダードな感じになっています。

中村誠一さんは、山下洋輔トリオでフリージャズをやっていた人ですが、4ビートものでは、いつも、スタンダードな演奏をする人、という印象があります。

岡野等さんは、「野獣死すべし」のテーマ以来、好きなトランペッターです。



このCDは、先代から横浜へ引っ越してきて、すぐに横浜駅の地下で見つけましたが、録音が2000年5月ですので、引っ越してきてすぐに発売された もののようです。
あの頃、新作で店先に並んだのですね。
今知りました。

一度、買おう、と思いましたが、当時、何かと入用で、先延ばしにしていましたら、売り切れて、どこにのない状況がしばらく続きました。
諦めていたのですが、どこかで見つけて買いました。
どこで、買ったかは覚えていません。


内容としては、非常にまとまりのある作品、という印象です。
冒険は、ほとんどありません。

このメンバーでしたら、いつ何時でも、この程度の演奏はできてしまうことでしょう。
名人芸ですね。

ジョージさんは、「ウオーターメロンマン」が好きなようです。
「ドラムブギー」は別格としても、他のアルバムでも、この曲は演奏されています。


私もこの曲は好きです。
聴くのが好き、と言うよりも、演奏するのが好きです。
仙台にいる時、私のいた保育所に出入りしている写真やさんが、地元のラジオ局でDJをやったり、演奏活動などをしており、その人のバンドと一緒によく、ク ラブや、展示場の催事などで演奏しましたが、当時所有していたヤマハの電子ピアノで、オルガンの音を選択し、ピッチベンダーを派手に使用して、この曲を演 奏すると、大変受けが良かったです。
野外で演奏していると、特に気持ちが良かったのを覚えています。

その演奏のどれかが、彼がDJを勤める地元のラジオで流された、と流された後聴きましたが(笑)。
知っていれば、聴いたのに、と、思いますが。

なんでも、放送された中で「イッツ・オンリー・ア・ペイパー・ムーン」でのピアノが良かった、とお褒めの言葉をいただきました。
ただ、ピアノをやっているほかのだれかが、「左手があまり使われていない」と痛い指摘をしたそうです(痛)。

実際、私の左手は、それほど褒められたものではないところに持ってきて、当時、クラリネットを始めて、3ヶ月くらい経っていたのですが、左手の親指 が相当疲労しており、ダンボールか何かを持った表紙に、スジがずれてしまったようで、ほとんど動かないような状態でした。
ギターなどは、まったく弾くことができなかったのを覚えています。

彼はそれを知っていましたので、かばってくれたそうです。
感謝です。


ベースの人は、ミュージシャンを目指して、池袋あたりに若い頃は住んでいたそうですが、今では、地元に戻り働き、暇を見て、このような演奏をしている、と いうことでした。
演奏のたびに、車で、私のアパートに車でピアノを積みに着てくれました。

アルトサックスの人は、地元のビッグバンドに参加している人でした。
演歌の歌手などが来ると、バック演奏をしたりしているそうです。

写真やさんは、ギターです。

写真やさんの弟が、ドラムだったと思います。

ドラムはいたり、いなかったりしました。

女性ボーカルの女性もいたりいなかったりしました。
東京まで、定期的にゴスペルを習いに出てきている、と当時言っていました。
貸したままになっているヨーコ・サイクスさんのCDと楽譜はそのまま置いてきてしまいました。


その後音信普通です。
みなさん、元気だと嬉しいです。




さて、この一ヶ月くらい、深夜ですが、任侠映画の特集がやっています。
3週間前は、鶴田浩二、高倉健主演の「顔役」でした。
録画しました。DVDFにも焼きました(笑)。


先週は途中から見たのでタイトルは分かりませんが、高倉健の唐獅子牡丹シリーズでした。
高倉健さんと、池部良さんの2人が出てきます。

任侠映画のストーリーは、基本的に、義理と人情と言いますか、ある方面からスジとある方面からのスジが複雑にからみあって、どうにもできなくなって しまい、最後には、一番いけない暴力というものを主人公が使って、”悪”と演出される存在をやっつけて、自分もまた、不遇の道へ行かざるを得なくなるとい うものです。

日本の一番悪い部分を過大表現しているとも言えます。


私はビデオ化されている鶴田浩二さんの出ている任侠映画は、99%見ました。
1%は知らない内に、映画化されているかもしれないもののために、残してある1%です。

私の20代、30代は任侠映画の教えが、基本であったとも言えると思います。

簡単に言えば、どんない筋が通らなかろうが、とにかくがまんするんだ、ということなのですが。
私は基本的には、「間違っていると思ったものには間違っていると言う」、「悪いものは悪い、と言う」という人間ですので、団体生活が向いていない人間で す

それでも、生きていく手段として、サラリーマンをやらねばどうしようもないですので、任侠映画の教えはある意味、うってつけとも言えます。
もともと、はみ出し者を統制するためにあった任侠道ですので、私のような人間が、サラリーマン生活を送ろうとすれば、まさに、似たような境遇ですよね。


しかし、ある時をもって、見るのを止めてしまいました。
いつだったか、定かではありませんが、おそらく、私の職歴としては、過去にないような大きな会社に入社したときではなかったかと思います。

その前は、通っていた教会の牧師と共に、仙台に行き、その牧師の金銭にまつわることなどで、とうとう我慢ができなくなってしまい、大喧嘩の挙句、東 京へ帰ってきました(仕事はちゃんと終わらせてきたが)。
その前は、留学斡旋の自営業です(仙台にいる時も、続けていたが)。

その牧師さんは、全共闘世代で、東京教育大学の空手部主将でしたので、学生達が押し入って来ないように、警備をするバイトをしていたと、当時を語っ ていました。
基本的には、うまのあった人ではありました。

どうも、私は、私を中途半端に知っているがため、どんなに悪行と自分には思えるものが行われていても、がまんし、いくらすじの通らない言いつけが あっても、がまんして・・・ということをするわけですが、結局最後にはいつも、大喧嘩の挙句、その団体を出て行く、ということのくり返しの人生でしたの で、「これは、任侠映画の見すぎがいけないのではないか?」と思い、私のような転職の多い人間が、まっとうな大きな企業に入社できたのを期に見るのをやめ たように 記憶しています。

その割には、今度は、北方謙三さんの小説にはまっていましたので、どこまで、任侠映画祓いの効果があったのかは、確かではありませんが。
ただ、北方さんの世界は、ほとんど一匹狼の世界ですが。
団体活動で語られる小説は、学生運動関係のものばかりと言っても過言ではありません。



そして、その会社では、どんなに間違った指示があろうが、めちゃくいちゃないいつけがあろうが、制度があろうが、じっとがまんして、口をとざしていまし た。

要するに、今まで、辞めざるを得なかったのは、少なくとも、自分の目から見て、”間違っている”と思えることに対して、黙っていられなかったのが、 原因であり、団体生活を送るからには、相当悪戯名ことでも、見て見ぬ振りをしなくては、ならない、と判断したようです(他人行儀ですが、私のことです)。



どんなことがあっても、言い訳せず、何を言われても、雇われの身として以上の説明せず、「そんなバカげた指示があるか!!!」と思うことでも、言う通りに する、という生活を、がまんにがまんを重ねて送りました。

ある意味、任侠映画払いが効いたとも言えますし、ある意味、任侠映画そのままじゃないか、とも言えます。

その結果は今度は喧嘩ではなく、病気で、会社を辞めることになりましたが、今やっている、深夜の任侠映画特集で、およそ、4、5年ぶりくらいに、任 侠映画に接しました。



そして、思ったのは、「間違えている」でした。
どうも、少しは進歩しているようです(笑)。



先週の唐獅子牡丹シリーズは・・・

時代は、大正でしょうか、あるいは昭和初めでしょうか。

まず、対立するやくざ組織があります。
一つは昔からある昔かたぎの組織で、今で言う港湾関係の仕事を仕切っています。
もう一つは、信仰やくざ、愚連隊組織で、関東大震災以降出てきたらしく、港湾関係の利権を握りたいらしく、筋の通らないことをして、強引に船荷を降ろした りしています。
2者間では、揉め事が絶えません。

老舗の割烹料理屋があります。
そこの板長は、池部良さんで、ずっと昔はやくざでしたが、今は堅気になっています。
だれも、彼の過去は知りません。
そこの料理店には目の悪いおかみさんがいます。
先代の奥さんです。
2人の息子がいます。
独りは、ずっと昔に出て行ってしまいました。
もう独りは、インテリ風ですが、相場で儲けようとして、いつも失敗しています。


ある時、高倉健がその町に現れました。
昔かたぎのやくざの方へ挨拶に行きます。
やくざを辞めて、堅気になるつもりです。

彼は実は、ずっと昔に出て行った、割烹料理店の息子です。

高倉健は、おかみさんに、身元がばれないように、池部良さんのいる料理店に板前として、働き出します。
池部良さんは、当然、高倉健のことを昔から知っています。

もう独りの息子は、振興やくざの組長から金を借りて相場に手を出しています。
しかし、いくらやっても失敗ばかりです。
ある時、料理店の権利書を持ってくれば、1000円貸してやる、と言われ、持って行きます。
しかしそれは嘘で、「今までの貸したままになっている金の分だ」と、権利書を奪われてしまいます。


息子はそれを、おかみさんと板長:池部良、に報告します。

板長は、昔から店と親交のある昔かたぎのやくざの親分に、どうしたらいいか、と相談に行きます。
組長は、「やくざの話は、やくざがつける」と、談判に行きます。

結果、舟2隻と交換に、権利書を取り戻しますが、帰りがけに、その組に襲われ、殺されてしまいます。
とどめを射したのは、その組へわらじを脱いでいる高崎のやくざでした。

彼は、昔高倉健に、博打のいかさまを、見破られて、右手に大怪我を追っています。
このシーンの少し前に、その彼が、高倉健の元を訪れ、「あれ以来、もう一度勝負するのが、夢だったので勝負しろ」、と言いよるシーンがあります。
しかし、すでに堅気の高倉健は、断ります。
それでも、勝負ができないのなら、右手を切り落とす、と言います。
そこへ、恋人の藤純子さんが現れ、「切るなら私の手を切ってください」、と言うと、彼は、引き上げます。根はいいヤツなのです。

そんなやつでも、一宿一飯の世話になった組から命令されれば、何の因縁もない相手でも、殺さなくてはなりません。
これは、当然のことであり、それに対して、高倉健でも、池部良でも、恨みつらみを言うことは全くありません。
人を殺すことが間違っていようが、ルールだからです。



組長が殺されたシーンに戻ります。
虫の息で駆けつけた板長に、組長は、血にまみれた権利書を渡すことはできました。

板長は、権利書をおかみさんに戻し、「こんなことをされたからには、やることはこれしかありません」と、独り殴りこみに行くことを、お かみさんに伝えます。

そして、出かけます。

事件の少し前、板長の機転で、恋人:藤純子さん、と デートに行っていた高倉健も戻ってきます。
昔のやくざ友達で、店に雇われたばかりのやつ:長門裕之さん、から事情を聞いた彼は、長門さんに藤さんを託して、池部さんと2人してその組へ殴りこみに行 きます。


そこには、当然、例のやくざもいます。
「やっとさしで勝負が出来るな」と言いますが、高倉健は、「お前の相手はしない」と彼を追い払います。
先ほどの件で借りを作ったので、切りたくないのです。
もともと、わらじを脱いでいるだけですので、その組の人間ではありませんし、借りもあります・・・。


※写真:左から、池部良、高倉健、藤純子(寺島 しのぶのお母さん)

乱闘の末、池部良さんは、やられてしまいますが、高倉健さんは、みごと、相手の組長をやっつけます。

最後は、お縄を受けた高倉健に、藤純子が、駆け寄るシーンで終わります。





普通の人なら、どこが間違っているのか、一目瞭然だと思いますが、見慣れた人だと、ひょっとしたら分かりません(笑)。


まず、仲裁した組長さんが殺されてしまいますが、だからと言って、池部さんが、自分で仇を取りに行ってはいけません。
警察に頼まなくてはいけません(当たり前)。


高倉健も一緒に、仇を取りに言ってはいけません。
「ここは、警察に任せましょう」と言うのが常識です。



暴力の連鎖を切らなくてはいけません。
これでは、アメリカとテロのやっていることと、同じことです。
もっとも、テロに関しては、アメリカがどうのこうの・・・という話もありますが。



池部さんも、やくざに相談に行ったら、その人がどんなに良い人でも、「やくざのことは、やくざが・・・」となり、最悪、こういうことになるのは、予 想できますので、そういうことをしては、いけません。


わらじを脱いだ高崎のやくざも、いくら一宿一飯の恩義と言えども、見も知らぬ、罪もない人を殺(あや)めるようなことをしてはいけません(当然)。
あらくれものを仕切るため、厳しい、強引なルールが必要とだ、と言うかもしれませんが、いくらルールでも、「宇宙の理」に反しているルールには従ってはい けません。


当たりまえですね。
ですので、きっと、会社でも、上司がなんと言おうが、会社のルールがどうであろうが、「宇宙の理」に反したことには従ってはいけないのです。
元々そういうルールがあること自体、間違っているのでしょうが。

どうしても、聞け、と言うのなら、辞めるしかないのでしょう。


もちろん、「宇宙の理」に反したことをしても、南無阿弥陀仏、と唱えれば、天国へは行けるようです。
そうでなくとも、「世の中の図」を知っていれば間違いなく行けるようです。


それでも、どうやら、「宇宙の理」に反することはしては、いけないようです。
別に天国へ行くためではないようです。
運を良くるためでも、ないようです。


魂:精神のレベルを上げることと・・・
ツキをよくすることと・・・
天国へ行けることは・・・
全く別物のようです。

おそらく、いままでは、この3つを一緒にしていたので、どこか、おかしかった のではないでしょうか?

もっとも、微妙に重なる部分もあるかとは、思いますが。
世の中の図を知らずに、精神レベルが低いと、地獄もどき:とらわれ領域へ行く可能性があるようです。
精神レベルがものすごく高いと、アーカシックレコードなどに通じて、運、ツキを良くすることもできるようです。

「そんなバカげた指示があるか!!!」と思うような指示は聞かない様にしなくてはいけません。
そうでなければ、JR西日本や、三菱自動車に文句を言う資格はありません。

2年前の私は、その意味では、その資格を失っていたのかもしれません。
今はあると思います。

なぜなら、間違っていると思う指示にはもう絶対従いませんので。

正しいと思う、想像されることには、従いますが。



みなさんは、どう思うでしょうか?
間違っている思う指示に従っていないでしょうか?

もっとも、今度は、逆のケースもあり、指示する側のレベルが著しく高い場合は、その意味が分からないこともあるようです。
慎重に判断しても、3次元的には能力は超えられないように思いますので、無駄ですので、直感力を使うしかないのでしょう・・・。




おかみさんは、息子が、権利書を持ち出したい、と言った時に、「お仏壇の引き出しにあります。おじいさんとおばあさんの写真を見て、そ れでも、必要だと思うのなら自由にしなさい」と言います。
息子は、それを聞くと、写真など見ずに、権利書を取り出して、持ち出します。

池部良さんは、「もう少しきびしくしませんと、いけませんよ、おかみさん・・・」と言います。

しかし、きびしくしようが、どうであろうが、きっと息子が権利書を持ち出すのは決まっていたのかもしれません。
これをして、必要、必然、ベスト、というのかもしれません。

息子にとっても、おかみさんにとっても、池部良さんにとっても、何か必要なことだったのでしょう。



どうしようもない大河の流れ、というのは、間違いなくあるように思います。
それは、自分の意思とは関係なく、良きも悪きも、決められた方向へ、運ばれていくような、というものですが。




あるいは、当事者以外の問いの結果だったりもするかもしれません。

当事者の問いの結果かもしれませんし。
この場合ならば、

高倉健なら、「俺のような人間が、堅気の生活をするのなんて申し訳がない。どうすれば良いのだろう?」
という問いだったかもしれません。

池部良なら、
「もう一度、死ぬ前に、やくざの頃のように暴れてみたいな。」
という問いだったかもしれません。

おかみさんなら、
「いつまでも、こんな店を続けて行ってもしかたがないのかもしれない。どうすればよいのかしら?」
という問いだったかもしれません。

昔かたぎの組長さんなら、
「なんとか、あの信仰やくざをおっぱらいたい。どうしたら良いのだろう?」
という問いだったかもしれません。

信仰やくざなら、
「あの生意気な組長に一泡吹かしてしてやりたい」
という問いだったかもしれません。

町の警察なら、
「なんとか、やくざを追っ払いたいが・・・」
という問いだったかもしれません。

藤純子なら、
「今のあの人は幸せそうだけど、どこか本当のあの人とは違うようでかわいそうだ。どうしたら良いのかしら?」
といゆ問いだったかもしれません。


それとも、全ての複合かもしれません。
仮説ですが。



魂:精神のレベルを上げることと・・・
ツキをよくすることと・・・
天国へ行けることは・・・
全く別物のようだ。

ですが・・・
これは、何かとても意味のあることのように感じています。


次回にまた考えて見たいと思います。

ビッグフォアでした。

 

213:ジョージ川口プレイズ・ハービー・ハンコック
   
    ジョージさんの海外ミュージシャンとの共演ものです。
日本では、ジョージさんと言うと、ジョージ大塚さんもいますので、ややこしいときもあります。
 
トランペット:テレンス・ブランチャード、アルト、テナー、バリトン:ドナルド・ハリソン、ピアノ:市川秀男(1,2,4,5)、ピアノ:Cyrus Chestnut(シラス・チェストナット?知りません)、ベース:水橋孝、のみなさんです。

曲目です。

1.カンタロープ・アイランド
2.ドルフィン・ダンス
3.ウォーター・メロン・マン
4.スピーク・ライク・ア・チャイルド
5.ジ・アイ・オブ・ザ・ハリケーン
6.ファンキーH.H.
7.処女航海

ハービーハンコックの曲を演奏したものです。
1987年、東京での録音です。





ジョージ川口さんも、松本英彦さんも、市川秀男さんをピアノによく起用します。
私の感触では、市川さんのピアノタッチは 中村八大さんに似ていると感じます。
芯のある鋭いタッチの音がします。
フレーズは似ているかどうかは、分かりませんが、何かそこら辺に、市川さんが起用される理由があるのかもしれません。

顔もどことなく似ています。
やせている感じで、ほお骨が強調されているような顔つきをしています。



このCDが録音された当時は、ジャズ界では、ウイントン・マルサリスやリッチ・ーコールが人気があったように覚えています。

まだまだバブルの時代で、ドラマも、トレンディドラマというようなものが流行っていたように思います。
消費税は、まだなかったはずです。
確か社会人になって、比較的間もない頃、消費税導入前の月あたりに、駆け込み需要があり、売り上げが大きく上がった時があったのを覚えています。


女性のお化粧は、石原真理子(当時)さんに代表されるような、眉が太い独特なものであったように思います。
派手な時代ではありましたが、女性がおへそを出すようなファッションをして街を歩いているようなことは、ほとんどなかったように思います。
ボディコンというのはありましたが(笑)



田村正和さんと近藤正臣さんが、大人気でした。
田村さんは、ほとんど、連続で、2,3年ドラマに出続けていたくらいの印象があります。


近藤正臣さんで、覚えているのは、当時、「さんまのまんま」にゲストで出演し、年齢を聞かれ、「45さいや」(関西弁だった)と答えていたことです。
当時20歳を少し過ぎたくらいの私は、「へえ、40を過ぎても、かっこいいな」と思ったのを覚えています。

先だって、京本正樹さんがテレビに出ていて、46歳だた言っていました。
あのときの近藤さんと同い年くらいですね(感慨深い)。

京本さんのテレビ初出演は、鶴田浩二さん主演の「男達の旅路」の「車輪の一歩」というタイトルの時だったようです。
私はこれは、リアルでは見れず、友人から ビデオを借りて見ました。

ドラマの冒頭に、ジュデ・オングさんの当時の大ヒット曲「魅せられて」が流れます。

鶴田さんの他には、清水健太郎さん、柴俊夫さん(確か・・・)、岸本加代子さん、 斉藤とも子さん、斉藤洋介さんなどが出演していました。
ちなみに、鶴田さんの勤務する警備会社の上司は池部良さんです。

当時鶴田さんは、50過ぎくらいで、一番かっこいい時代ではないかと思います。

何年かシリーズでやっていましたが、水谷豊さんや、桃井かおりさんなども、出演していました。

みなさん20代だったと思います。


今では鶴田さんなどはなくなってしまい、桃井さんたちが大物女優と呼ばれる時代になっていますので、私が40を過ぎたことも納得できます。




さて・・・・・・

1:魂:精神のレベルを上げることと・・・
2:ツキをよくすることと・・・
3:天国へ行けることは・・・
全く別物のようだ(仮説)。

ですが・・・
これは、何かとても意味のあることのように感じています。

(上からコピーペイストしたのですが、語呂が良いのでこのまま行きます)


今までどういう訳か、宗教、精神世界ではこれを一緒にしていたので、どこかぎくしゃくしていたのではないか?という仮説を持っています。

どうも私が知りえたところでは、各項目は以下のような具合ではないかと思います。


1:魂:精神のレベル
いろいろな言い方はあるが、船井幸雄さんの言う「宇宙の理」や、関英男さんの言う「洗心」などが、比較的簡単にその内容を言い現しているのではないかと思 います。









「宇宙の理」

次のようにまとめています。(私の要約ですので、主観が入っているかもしれません)

1:単純:
物事が明快・シンプルで誰にでも良く分かる。人類が抱えている余計なストレスを感じることがなくなり、全ての人が納得して生きていけるようになる。

2:調和:
周囲のものや、自然と調和して生きていく。環境汚染、人と争うことがなくなる。差別がなくなり、思いやりの気持ちの大切さがわかるようになる。

3:共生(協調):
競争・対立する価値観がなくなり、平和に暮らせる。人を出し抜く、追い落とす、良心に反することをしてまで、競争に勝とうとしなくなる。

4:開けっ放し:
秘密がなくなり、情報独占による利権・利益を守る必要なくなる。
知識共有により、技術が飛躍的に発展する。

5:自由:
「地球の理」では、際限のないエゴを抑えるため、束縛が必要。「宇宙の理」では束縛必要なし。
本当に自由な世界では、人のさまざまな能力が発揮される。

6:公平:
特権階級の搾取なし。誰もが豊かな生活をする。本当に能力のある人、がんばった人が評価される。不要なストレスなく、病気がなくなる。

7:融合:
バラバラだったものが、融合し、本来の目的のため機能する。縦割り行政、セクショナリズムなどなくなる。学問とビジネスの壁もなくなる。全体的に捉えるよ うになる。

8:アナログ:
有機的・連続的に捉え、全体として判断する。
欠点よりもそれを上回る長所があれば、結果だけでなく過程も評価する。
多数決のような横暴はなくなり、少数派を大切にする。
本当は例外、少数派こそ大切である。

9:効率的:
「ムダ・ムラ・ムリ」がなくなり、必要のないものが、はっきりする。対立もなくスムーズに物事が運ぶ。
IT化が「ムダ・ムラ・ムリ」を解消し、中間コスト削減で物価が安くなる、としています。
※違うページでは、デフレは、中国などの経済参入で止まらない、として、資本主義には大打撃を与えるが、資本主義の限界を示す現象のひとつである、と説明 しています。

10:長所進展:
いいところを伸ばし、生成発展する。苦手・嫌いなことはする必要はほとんどなし。
得意・好きなことの追求で、発展していく。
長所を伸ばすことにより、短所を気にする必要なくなる。









洗   心
宇宙想像の神がすすめる霊性を高める方法
@いつももつべき 正しい心。
強く(Be strong)
明るく(be cheerful)
正しく(be righteous)
我(が)を折り(Be humble)
宜しからぬ欲を捨て(Abandon avarice)
皆なかよく、相和して(Maintain harmonious friendship)
感謝の生活をなせ(Live in gratefulness)


A心のなかからなくすべき感情。
憎しみ(hatred)
不満(Discontent)
嫉(ねた)み(Jealousy)
疑い(Doudt)
猜(そね)み(Joundice)
迷い(Bewilderment)
羨(うらや)み(Envy)
心配心(Anxieety)
呪い(Curse)
咎めの心(Reproach)
怒り(Anger)
いらいらする心(Irritation)
不平(Dissatisfaction)
せかせかする心(Restlessness)

要するに、@いつももつべき正しい心と、A心のなかからなくすべき感情についての事柄です。









2:ツキをよくすること
これは、願望達成と似ている部分もあります。

一応分けて記述します。

また、運命変更ということも、一般的には、これらと同様に思われることが多いようですが、どうも、その中身はかなり異なるようです。
しかしながら、一番最後に、記載しておきます。


ツキを良くする


五日市剛さん
・良いことがあったら「感謝します」と言う。
・「悪いことがあったら「ありがとう」と言う。
・「ツイテル」と癖のように言い続ける。


船井幸雄さん
・好きで得意なことをする。
・この世で起こるすべてのことを「必要、必然、ベスト」と捉える。
・独り勝ちしないで、共栄・共存をする。
・与え好きになる。
・ツイテいる人と付き合う(松下幸之助さん)
・人の悪口や批判をしない
など。





願望達成

政木和三さん
・完全に欲を捨て、完全に諦めて、「もう〜になりました。ありがとうございます」と過去完了形で思う。
・とても叶えられないような目標を決め、完全に忘れ、自分の足元1メートル四方のみを考えて生きる。
・無限小の力で、無限大の時間をかければ、奇跡のようなことが起こる。


五日市剛さん
・願望が叶ったことをイメージし、「○○させていただきました。感謝します」と言う。


浅見帆帆子さん
・かなったときのこと、喜んでいる状態をイメージする
・かなった後、更に、何をしようかということを考える。
・これぐらいでいい、ということでは、結局本当にほしかったものではないので、かなっても嬉しくない。これぐらいでいいとは考えず、本当にほしいものを思 う。




運命変更

船井幸雄さん
・原因の世界へ入り、そこを変更し、結果の世界である3次元へ反映させる。
それには、表の世界かたと、裏の世界からの2通りの方法がある。

森田健さん
・六爻占術で変更する。
・時空へ問いをし、回答を得ることにより、変更する。










3:天国へ行けること


船井幸雄さんや森田健さんの言っていること、書いていることから判断すると、以下のように考えられます。

森田健さんが作成した「いのちの世界」や,船井幸雄さんの「世の中の構 造」の図のようなことを知っていれば、どんな人(善人でも悪人でも)フォーカス27以上(地獄ではないところ)へ行けるようだ。


これらを知らなくても、間違えた宗教感で教えられた「あの世」についての知識などに固執していなければ、やはり天国へいけるようだ。




細かく言えば、他にも書いても良い内容はあるのですが、要するに、地獄という概念は人間が3次元で作り上げたものであり、それによって作られたフォーカス 23〜26というような場所はあの世にはあるが、あの世の構造を正しく知っている、あるいは、人間が作り上げたような間違えたあの世の構造が頭に入ってい なければ、だれでも、自動的に天国という存在に近いところへ行けるようです。

これは、モンロー研究所で森田さんをはじめ多くの幽体離脱をした人の経験や、森田健さんの「生まれ変わりの村」の取材、その他もろもろの事象によって、ど うやら正しいと考えて良さそうです。

そして、これは、3次元での善行、悪行には、まったく関係ないようです。
但し、3次元にいる間の時勢で足りない部分は、また生まれ変わった時には、勉強し直さないといけないようですが。


また、3次元で、優しいことをしてくれた人、ひどいことをしてきた人、などは、どうやら、あの世では親しい間柄の友人関係である場合が多いようです。
その友人がどうやら、相互に、善役、悪役を買ってくれているのが、この3次元の有様のようです。










以上のように書いて見ますと、やはりいくらかは、3つの間に関係はあるようですが、基本的には別物なのでしょう。
船井幸雄さんは、あまりものごとを細分化して考えるのはいけないことだ、と言っていますので、何ですが、こう考えた方が、事実が分かりやすいように感じま す。









精神レベルを上げるという方向から見てみれば・・・

精神レベルを上げれば、その副産物として、運も上がるようです。

また、願望実現をしようとするに際しても、精神レベルが高ければ、精神的安定、高次元との通信のしやすさなどによって、ずいぶんやり易いことでしょう。






ツキを上げる、願望達成という方向から見てみれば・・・

悪しき願望を持って持っている人よりも、比較的善なる願望を持っている人の方が、精神的なレベルの高さゆえ、高次元へ通信が用意であることが多い。
ただ、善なるというよりは、「自由な願望」と表現した方が、より正しいのかもしれない。


足元を見て少しずつ・・・・ということなどを考えてみても、広い意味で精神的安定度の高い人の方が、より願望を実現しやすいであろう。

心配、不安を抱かず、叶ったときのことを想像してみる、ということは、やはり性格、育ちなどの点から考えて、より何かに対して、信用する心を持っている度 合いが高い方が有利である。
その意味では、一般的に見て、がついがつしていない、ゆとりのある人間の方が願望実現にも、有利なのであろう。







天国へ・・・で考えてみれば、

3次元的に、あらくれものを簡単に取り締まる方法としては、「悪いことをすると地獄へ行く」というような教育をするのが、一番手っ取り早い方法であり、人 間は、長年そういうことをしてきたようだ。

エゴのDNAがONになってから、資本主義経済の現代に至る現在、唯物論を提唱しているキリスト教の教えが万遍しており、多くのケースで輪廻転生などの正 しい世の中の構造の知識が忘れ去られている。

キリスト教的唯物論の考えでは、しかしながら、モノが全てであるので、願望達成法などは、変な疑い、良心の呵責なしにすんなりできてしまう面もあったので はないだろうか。
この意味でマーフィー、ナポレオンヒル、カーネギーなどの願望達成は、上記に帰した願望達成方法のある面を、そのまま使用しているものでもあるようなの で、キリスト教文明下の人々も、願望を達成できたことであろう。

しかし、高次元を含めて地球を取り巻く状況が変化したことにより、船井幸雄さんなどによれば、どうも、エゴの強い願望は叶わないように変化しているようで ある。

この意味で、より1の精神レベル上げるという立場に近い人の願望が、叶いやすくなっており、キリスト教文明下の人々が今までと同じように、マーフィー、ナ ポレオンヒル、カーネギーなどのHow toを実践しても、叶わないことが多くなっているであろう。

願望を達成するたには、従来の彼らよりは、より精神レベルの高い状態が必要とされる世の中になっており、それを知りえた人々は、自然に精神レベルを上げる ことに、興味を持ち、実践し出すようになっているであろう。

そうすると、宗教的のみならず、広くいろいろな知識の中で、輪廻転生の事実、正しい世の中の構造、などの知識も得られるようになってくると考えられる。

そうなってくると、キリスト教文明下の人々でも、天国へ近い場所へ自然と行くことができる人が増加し、また、地獄に近いフォーカス23〜26などの場所 も、次第に消滅してくるようだ。

ただし、この過程には、モンロー研究所をはじめ、いろいろなあの世の構造についての正しい情報を出している機関、人々などの行動も大きく影響しているよう だ。









以上のように、3つは、影響しあい、関係しあう部分のあるようです。
見方によっては、それは1つの流れとして捉えても良い、という考え方もできるかもしれません。

ただ、この3つがまったく同じものである、としていることが、何かをこんがらがしているように感じますので、ここでは、分けて考えてみました。


以上、ジョージ川口さんでした。


214:FOUR WINGS:松本英彦
   
  1979年の作品です。
メンバーは、ピアノ:菅野邦彦、ドラム:ジョージ大塚、ベース:鈴木勲というみなさんです。

1.スピーク・ロウ
2.ミスティ
3.バット・ノット・フォー・ミー
4.ユー・ドゥ・サムシング・トゥ・ユー
5.ローラ
6.フォー・ウイングス

1曲目はピアノトリオの演奏です。
本当に菅野さんは、外国人のような演奏をします。

誰が演奏しているか知っていながら聴いても、外国人のように聴こえます。

以前でしたら、この表現は使わなかったと思います。
きっと、「名前を知っていても、本物が演奏しているように聴こえます」、あるいは「世界に通用するような演奏です」と書いたでしょう。

明らかに、西洋人と日本人の演奏は異なります。
以前は、これは、西洋人の方がうまいからだ、と思っていました。
しかし、今はそうは思いません。

どうも、日本人には、日本人の感性があるようです。

 もちろん、その日本人的感性の中で、うまい、そうでない、というのはあるかと思いますが。

その意味で、菅野さんのピアノは、日本人的な感性とは異なったものを感じます。
それは優劣には直接は繫がらず、好き、嫌い、ということなのだと思います。

それは、へんな話ですが、イチロウが分かりやすく、証明してくれたように感じます。
イチロウの打法は日本人的感性打法です。

しかし、数字に表れる唯物的解釈としても、きちんと大リーグで数字を残しています。

音楽は数字にはでませんが、同じようなことが言えるかと思います。


ただ、菅野さんは優秀なピアニストで、外国人アーティストなどにも、評価されている人です。


このアルバムは現在、生産終了(ディスコン)のようですが、松本さんのアルバムの中では、「スリーピー」と並ぶくらい好きなものです。

これが「スリーピー」です。
1976年の録音です。

私の耳には、ピアニストの違いが作品の色合いを変えているかな、と感じます。
もちろん、他のメンバーも、影響しているのでしょうが。
「スリーピー」は市川秀男さんがピアノです。


スリリングさが前面に出ています。
またモードにより作曲されたオリジナルなども入っていますので、その色合いも出ています。

それに対して、「フォー・ウイングス」は、どこか淡い感じを感じさせます。
季節で言えば秋、色で言えばパステルカラーでしょうか。

その色合いは、もちろん松本さんのサックスにも出ています。

録音の具合にもよるかもしれません。
「フォー・ウイングス」は、やはりどこか淡いです。
こちらの方が上品です。

「スリーピー」は、どこか芯があります。
こちらの方は、なんとなくインディーズという言葉を感じさせます。スリーブランドマイス・レーベルのせいかもしれません。
   
「フォー・ウイングス」は、一般的に、女性にも推薦できる作品とも言えます。

「スリーピー」は、ディープなジャズファンに受けるかもしれません。


どちらも良い作品です。






さて・・・・・・
大学時代、近所のおすし屋さんが経営するスナックでピアニストのバイトをしていたことがあります。

チップなどをもらって、金銭的にも大変良かったですし、喜んで聴いてくれる人がいる、ということが、嬉しかったのを覚えています。

そこでも、雇われママとトラブルがあり辞めてしまいましたが。
今考えると、どうもあれは、水商売独特の”やらせ”だったように感じます。
どう考えても、いちゃもんにしか感じられないようなことを言われ、どう考えても、筋道の通らない理論だったように覚えていますが、あれは、要するに儲かっ ていないのか、私がわずらわしくてしょうがなかったのかのどちらかの理由で、追い出したかったのだと思います。

素直に、金銭的な問題でも、他の問題でも、「辞めてくれないか?」と相談してくれれば、いくらでも話を聞くくらいの器量はありましたので、なんとも 嫌な辞め方でしたが。
きっと、あのママの波動レベルとしては、「下手に下手に出て、ごねられたら困るので、最初から力ずくでやってやろう」とでも、思っていたのでしょうか?
私には、未だに、よく理解できません。
ただ、生意気なガキだったっことは事実ですが(笑)。


どうも、それ以来、「人として汚い面を見せるくらいなら、素直に気持ちを言ってくれ」という気持ちが強くなっているように感じます。
しのごの言うな、とも言い換えられるかと思いますが。
変な正当化をするくらいなら、「君にはいてほしくない」、とか、はっきり言ってほしいと感じてしまいます。
どうも、そこらへんを考えすぎて、勝手にこっちから辞めたような仕事もあったように感じます。
私の思い違いもあったことでしょう。

自分だけいい格好するために、変な理論をこねくり回すようなことをしないでくれ、とでも言いましょうか・・・。
少なくとも、こねくり回すなら、こっちが感心するくらいのすごい理屈を言ってみてくれ、と思う時すらあります。




さて、そのお寿司屋さんは、なぜか、私に、「三輪明宏が、昔から大好きだ・・・」という話を唐突にしたのを覚えています。
なぜ覚えているかと言うと、話に前後の脈略がまったくなかったからです。
なんで、三輪さんの話なんかし出すのだろう、とその時不思議に思ったものです。
だたこの時の私の三輪さんのイメージは、今のような”女性”になってしまった三輪さんではなく、七三に分けた髪を油で撫で付けたような宝塚のスターを思わ せるようなイメージでしたが。

その三輪さんが、江原さんとテレビで、前世がどうのこうの、守護霊がどうのこうのという番組をやっています。
三輪さんはどうも、簡単な除霊のようなことまでできるようです。
江原さんによれば、はじめて三輪さんの家へ言ったとき、飾ってあった、天草四郎さんの絵の目が動いて合図を送ってきたということです。
三輪さんの前世は、天草四郎さんだそうですが・・・。


テレビでこの手の話をする番組の中では、三輪さんの話が一番肩が凝りませんので、面白いと思って見ています。

ただ、見ていて、いくらか、「そうかな?」と思う話が出てきます。

三輪さんが、テレビで、「嫌なことをするから、お給料をもらえているんですよ」と言っていましたが、素直に言わしてもらうと、私は間違っていると感 じます。
これは、実に今まで腐るほど聞いて来た話だと感じました。
その結果が私ですので、絶対にこの説明は違うと感じます。
もっとも、本当は違うことが言いたいのに、うまい説明が見つからなかったのかもしれませんので、無下には批判派しませんが。
少なくとも当人は好きな仕事をやっているようには見えます。
もちろんその中に、嫌なこと、つらいこともあるでしょうが。

その意味では船井幸雄さんの説明が正しいだろう、と感じます。
好きで得意ことをやり、その中で学んでいく・・・・・・
私はこちらが正しいと感じますし、三輪さんも、本当はこれが言いたかったのかもしれません。
みなさんは、どう思うでしょうか?




また、病気は、病原菌、霊的、心(だと思いましたが)の原因のものがある、と言っていましたが、これも、違うように感じます。
私は全て心が原因であり、もっと言えば運命だと感じます。

船井さんの言う、年末に病気になる流通業関係者はいない、がこれを良く現している、と思います。
私も、よく年末の冬休みには1年ぶりとかに風邪を引くことがありました。
歯が重ならないほどかちかち言うのに、どうしても、いかなくてはならない事情があり、蓑虫のようになり会社へ行くと、午後にはなんとか仕事ができるように なっていたこともありました。


もちろん、これらは簡単な病気の話ですので、すべてを物語ってはいませんが、どうもいろいろ話を聞いたり読んだりしていると、全ての病気は心の状態によっ て起きているように感じます。

ただ、その心の状態は自分が作ったのか?と言えば、どうも最近そうではない、と感じてきています。
森田健さんの言うように、全ての現象を形作っているものは外側にあるように感じています。

これを変えるには、前のCDで語った運命を変更する方法を使うか、ツキを良くする方法を使う、ということなのだと思います。

この話と、どちらが先かは分かりませんが、霊的レベル、精神的レベルを上げる、ということも、病気を治す、あるいはならない、ということには関係が あると感じます。

精神レベルを上げるためのプログラムが生まれたときから用意されているようにも感じます。
あるいは、大河の流れで決まっているプログラムなのかもしれません。




私は、10歳くらいから35歳まで、薬なしでは鼻でわずかにでも息ができないほどの鼻炎でしたが、ハワイにいる間に治ってしまいました。

これの意味するところを推測してみれば・・・

これによって学業に支障が出て、そこそこの学歴を歩むことになり、高学歴の人とは異なったプログラムを歩むように、なっていたのか・・・・・・
(授業などまともに聞いていられませんでしたので:鼻炎でなくとも、聞いていたかどうかは怪しいが:言い訳)

ハワイの自然と気さくな人に触れ続けたことにより、直った、ということにより、何か決まったプログラムを進むようになっているのか・・・・・・
あるいは、それにより私の心の病気がいくらか治った、ということなのか・・・・・・

いずれにしても、高次元的理由なしに、病原菌だけが原因で病気になることは、考えられないと感じます。
みなさんは、どう思うでしょうか?



今思いましたが、森田健さんは、「運命はデジタルに変化する」と言っています。
これは、徐々にではなく、ある時から瞬時に変わる、ということですが、私の鼻炎が発病した時も、治った時も、実にデジタルであったように感じます。
みなさんは、デジタル経験はあるでしょうか?





先日、父母双方の実家のお墓参りに言ってきました。
父方は、浄土真宗大谷派、母方が曹洞宗です。

細木数子さんは、父方のお墓参りが大切だ、と言うのですが、どうも私は、どちらの世話にもなりましたので、どちらか一方をひいきする、ということが したくありません。
いくなら両方行きますし、行かないなら、両方行きません。





曹洞宗の方では、お堂で鐘を叩くと、お寺の方が出てきて、花と線香を購入することができます。
浄土真宗の方は、こんにちは!!と叫ぶと、出てきてくれます。

曹洞宗の方では、今年は珍しく住職が出てきました(驚)。
線香を一組2本いただき、「心付けなのでいくらでも良いです」というので、持っていた小銭600円ほど(小銭30枚くらい)を全て差し出しましたら、正座 したまま頭を畳につけて深々とお礼を言われてしまいました(再驚)。

こんなことは、生まれて初めてでしたので、とても驚きました。
会われるみなさんにしているのかもしれません。
すべて100円に見えたという訳ではないとは思いますが・・・。

政木和三さんの本に、
『真言宗の総本山で日本全国から真言宗の高僧を招いて会があった時、質疑応答で70歳を過ぎた高僧が「私は大学を出てすぐに仏門に入り、今年で50年ほど になりますが、どうしても分からないことがあるのです」と質問を受けた時、無意識に口からスラスラと答えが出てきた。自分でしゃべりながら「なんてうまい ことをいっているんだろう」と感心した。答えが終わると、その方は頭を畳につけて「ありがとうございました。よくわかりました」といわれた。修行をしよう とか、知識を得たいという気持ちを捨てて、すべてを自然に任せたとき、神が私の口を使って答えてくれたのであろう。つまり「当たり前のこと」に道理があ り、真理がある・・・』
という話が出てきますが、すぐにこの話の頭を下げた高僧の話が頭を過(よ)ぎりました。

それでどうかと言いますと、私は600円ほどを線香代として差し出した普通の人ですが、住職の行動に驚いてこの話が頭をよぎった、という話でした。


さて日蓮をはじめ、さまざまな転生をし、GALの高橋信次さんとも分御魂(でいいのかな?)であった、という政木さんですが、著作をときどき読み返 しますと、いろいろ書いてあります(それはそうだろう)。

「この世に不可能はない」(サンマーク出版:1997年)には、

『神仏を信じ、合掌しながら「ありがとうございます」と感謝すると、心が鎮まり、脳波が下がり(シータ波、アルファー波になるということでしょ う)、生命体のエネルギーが高まっていく。合唱と感謝の両方にその効果がある。合唱すると、あわせた掌を通じてエネルギーが体内を循環する。
神仏を信じ、感謝するということは、神仏に救いを求めるということではない。神仏は私達自身の中にある。』
(要約)

と書いてあります。

合掌には、そのような効果もあったのだな、と思ってしまいます。

そう言えば、西洋東洋、宗教などを問わず、合掌の形というのは、良く見かけますね。

やはり、神仏は救いを求める対象ではないようです。
問う、という対等の関係でなくては、いけないということでしょう。
「神仏は自分の中にある」、と言っているのは、その対等を表わす政木さん流の説明方法なのかもしれません。
聞いて見ないと分かりませんが。


松本英彦さんでした。



215: PPULION 松本英彦
   
  松本英彦さんのフュージョンものです。
1992年の発売です。

曲目です。

1.タブー
2.スピーク・ロウ
3.ダンシング・ガールズ・ドリーム(マイ・スリーピー・ベイビー)
4.ギッシャ
5.ラヴ・ミー・テンダー
6.ベサメ・ムーチョ
7.メロウ・ムーン
8.サンバ・デ・オルフェ
9.エンジェル・ウィングス
10.イッツ・オール・ライト・ウィズ・ミー
11.シティ・イン・ザ・モーニング
12.パピロン
13.デュークズ・デイズ


アレンジと共同プロデュースは、デビッド・マシューです。
ランディ・ブレッカー等、当時の一流スタジオ、ミュージシャンが参加しています。
ギターで、デビッド・スピノザ、ドラム・スティーブ・ガットなどが参加しています。

1曲目のタブーはドリフの加藤茶で有名なあの「タブー」です。
ヘビーな16ビートアレンジがされています。
 
4、8、10でキャロライン・レオンハートという女性がボーカルを取っています。

 インターネット・オークションで購入しましたが、レンタル落ちのようで、ジャケットにシールが貼ってあります。
ちゃんと聴けますので、気にしません。
沖縄からでした。

前出のアルバム同様、「スピーク・ロウ」が入っています。
好きなのでしょう。


サックスは、フュージョンものはたくさん聴きましたが、ブロー度では、ナンバー1の演奏だと感じます。

 松本さんの演奏では、是非CDで購入したいと思っていて、まだ購入で きていないものがあるます。
何かのボックスセットLPで発売されていた、「ハーレム・ノクターン」のフュージョン・アレンジの演奏です。

FMで流れたのを録音して、カセットテープでよく聴いていましたが、ここ20年以上は聴いていません。

いつかCD化される日もくるでしょう。

また、ビッグフォーのライブでの「ハーレム・ノクターン」もCDで欲しいです。
そのLPには、中村八大さんの「It's alright with me」なども入っており、CD化を望んでいます。


   

「マンガで読む船井幸雄のツキを呼ぶコツ」(フナイ幸雄、赤池キョウコ:グラフ社:2004年発行)を読んでいます。

いろいろ書いてありますが、絵で見るというのも、また違う形で頭に入っているようで、面白いです。
赤池さんとの対話形式で書かれていますが、読者である自分とメイン著者以外に、もう一人いる、というのは、面白いものです。

「そうだよな、やぱり、むつかしいことだよな」と共感する時もありますし、。「えっ、そんなことまで知ってるの、さすが・・・」、「えっ、マンガ家でひと り立ちして、私より良い暮らしをしている人でも、こんなことが理解できないんだ」と思ったり、いろいろ経験できます。



私がここ4,5年迷っていることの一つに「自慢」があります。
これは、「謙虚」、「嫉妬」の2つの迷いにも、つながることなのですが。

この本では、「自慢」をすると、ツキが落ちる、としています。
将棋の棋士の話などを交えて紹介されています。
そうだろうな、と感じます。

私が何をどう迷っているかと言えば・・・・・・


相手にある理由があり、普通のできごとが、その人の「嫉妬」あるいは、その他の何らかの理由により、その人から見たら、「自慢」に聞こえてしまう、という ケースがなのですが・・・



例の私が病気で辞めた会社ですが、まず面接がありました。
社長や常務などとの役員面接の時です。
私は私としては当然のことなのですが、「何ができますか?」
というようなことを聞くので、
「営業の経験がありますので、営業ができます。、企画もできますし、経験もあります。お伺いする限り、こちらでやっているPCのメンテナンスの仕事もでき ます・・・・・」
と事実を言いました。

すると、役員の一人が、
「もっと謙虚にならなくてはいけない」
と言いました(驚)。

私は、「はぁ」
と生返事をしておきましたが、要するに納得はしていませんよ、ということです。

「この人は能力や取り得をアピールする面接で謙虚にしろ、と言っている。変な人だ」
と感じました。

「少なくとも、やらせてみてから言ってほしいものだ」
とも思いました。

この話と関係があるかどうかは、分かりませんが、この取締役が納めている部署は、その後、赤字になっていきましたが。
無関係かもしれません。



そして配属が決まり、2つ年上の上司というのに会いました。
「やはり何ができる?」
というので、
「英語ができます。営業もできます。ここで扱っている機械のことなら技術者並に知っています。PCならメンテナンス程度ならできます。営業が長いので、折 衝ごともできます。書類作成などもできます(あたりまえ)・・・・」
などと、話しました。

「趣味はピアノ演奏をはじめとする楽器演奏で、ギター、サックス、クラリネットなども演奏します。・・・・」
などと、仕事以外の紹介もしました。

そうするとこの上司は、
「自慢ばっかりしている」
と思ったようです(超驚)

そして後は嫉妬の嵐で、とても嫌な思いをしました。

「どうもこの会社は、何か変だ。理由は分からないが、私のような人間はここでは特殊なのかもしれない」
と思い出しました。(どうでも良い注意書き:start to thinkです。rememberではありません)。

私のそれまでの経験では、現在のサラリーマンは「英語は当然、PC当たり前、自分で企画を立てるのも当たり前、・・・・・・」
というものでしたので、その当たり前が、何かとてつもなくすごいことであり、自慢になってしまうことであり、言うと謙虚にしなくてはいけないと言われる、 ものすごい所へ来てしまった、と思いました。


私は私のことしか分かりませんが、みなさんはどう思うでしょうか?

別に私は森田健さんのように、フランスに留学したわけでもありませんし、IT関係のプロでもありません。
船井幸雄さんのように京都大学を出ているわけでもありません。
浅見帆帆子さんのようにイギリス留学をした訳でもなく、若くして本を出しているわけでもありません。
池田邦吉さんのように東京工業大学を出たわけでもありません。

「40前後のサラリーマンとして、英語は当然、PC当たり前、自分で企画を立てるのも当たり前、・・・・・・」こんなことは、いまや当然のはずなの ですが・・・、

「ピアノが弾ける・・・・」
ピアノはどうか知りませんが、人間何か一つくらい、特技があって当たり前ではないのでしょうか?
自己紹介で特技を言わなくて、一体何を言え、というのでしょうか?


そいつはどうもテニスがうまいようでしたが、なぜか自慢話はいつも「アルバイトの女性と出来ちゃった結婚をした」というものでした。
本気で自慢していたのか、笑わせようとしていたのか、私には未だに分かりませんが・・・(謎)

私など、テニスをやると、打った球はみんな斜め上に飛んで行きます(笑)。
少年の頃、野球をやりすぎたのでしょうか?
それでも、別に、テニスができる、ということを自慢には聞えませんが。
特技でしょう。
もっといろいろ話して欲しいくらいです。
できちゃった結婚の話よりはまだ、興味深いです。


「言い方が悪い?」という人もいるでしょうか。
私はいたって普通に言ったつもりですが。



「あなたのできることを言ってみなさい」、「特技を言ってみなさい」と言われて、「これこれ、こうです」言ったところ、「お前は自慢している」、「謙虚 じゃない」、だなんていう話は、どう考えても、いかがなものかな?と思います。

今では昔のことなので、別に怒ってはいませんが、間違っているな、とは思っています。


第三者的に考えると、面接した取締役が評価に「謙虚さがない」とでも書いて、それをそいつが鵜呑みにした、という可能性もあるかと思います。

他人の言っていることを始めから鵜呑みにするのは、問題があります。
自分の目で検証しつつ判断する、あるいは、今自分が持っている考えは仮説なのだ、ということを十分意識する、といったことは、できるべきだと考えます。
これは逆の真理であり、人が悪く言っているものでも、はじめに仮説を持つのは良いが、まず自分の目で判断してから決定する、というのが良いと感じます。
もちろん、第三者にまどわされない直感、あるいは他の何かによる判断で100%とい、いう確信があれば、別なのでしょうが。





私が特別な経験をしているのでしょうか?
それとも、理解力が足りないのでしょうか?

私はそんなに彼らと違うでしょうか?
お金は彼らの方がずっと貰っていました。
地位、というのも、彼らの方がずっと上です。
それでも、私の言うことが自慢に聞えたのでしょうか?


自慢というのは、何でしょうか?
相対的なものなのでしょうか?


いずれにしても、「自慢」はいけない、というのは良く分かります。
ただ、自慢の概念が少し判らなくなっていますが。

今、例を出そうとして、「俺、1億円拾っちゃたよ・・」と誰かが言ったら・・・いうのを思いつきましたが、確かに、これも相対的で、デビ婦人から見 たら、「あら、そう。良かったわね」と言われるだけなようにも思います。


そう考えると、自慢は相対的なものである、という仮説が正しいと判断して、彼らにとっては、私の言葉が「自慢」であった、となるのかもしれません。

しかし、会社の中、少なくとも上場しているまともな会社、30代から50代くらいの人々、という狭い範囲の中で、そんなに極端に相対的を深く考えな くてはいけないような状況は、どこかに間違いがあるのではないかと、感じます。

私でしょうか?彼らでしょうか?

私がいる場所を間違えたのでしょうか?

それとも、私が、幅広い人々とつきあい過ぎたのでしょうか?(いや、そんなことはないだろう:いわんやおや)。
自分のことは、よく分かりません。



さて、船井幸雄さんによると、時流の変化により、願いが 叶いやすくなっている、ということです。

森田健さんによれば、運命はデジタルに変わるようですので、希望は持っていたほうが良いようです。

明日いきなり、お日様が降り注いでいるかもしれません。


松本英彦さんでした。



216:ピアノ・ファンタジー、 中村八大
   
  中村さんの、ピアノムードミュージックです。
ストリングスをバックに、ピアノが奏でられます。

曲目です。
1.シバの女王
2.シャレード
3.想い出のサンフランシスコ
4.シェルブールの雨傘
5.エーゲ海の真珠
6.イパネマの娘
7.涙のトッカータ
8.男と女
9.レット・イット・ビー
10.グリーンスリーブス
11.恋人よ我に帰れ
12.ミスティ
13.ダニー・ボーイ
14.モア
15.酒とバラの日々
16.フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン
17.A列車で行こう
18.オール・オブ・ミー
19.夜も昼も
20.サテン・ドール


1975年が、初発売だったようです。

「想い出のサンフランシスコ」、「ミスティ」、「酒とバラの日々」、「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」、「サテン・ドール」などは、アルバム「ミス ティ」でも聴かれる曲です。

似たようなアプローチがあったり、異なった取り組みがあったりして、楽しめます。


また、ポールモーリアのナンバーである、「シバの女王」、「エーゲ海の真珠」、「.涙のトッカータ」なども聴かれます。

後半は小編成のブラスセクションを伴ってのジャズ演奏になっています。



中村さんのアルバムをたくさん聴きましたが、中村さんの作品はおしなべて安定していて良いのですが、アルバム「ミスティ」は別格に良いです。

なんでだろうかと、考えたりします。

録音のせいだろうか?
私が初めて聴いた年齢が良かったのだろうか?

どれも正解でしょうが、一番の要因は、企画そのものが良かったのではないかと思います。



あのアルバムは、何度も書いていますが、中村八大さん、秋満義孝さん、世良譲さん、前田憲男さん、八城一夫さん、館野泉さんという6名のピアノ奏者で、ス タンダード・ピアノのアルバムを同時に発売する、という企画でした。
その後、女性ピアニスト、別の男性ピアニスト、と2つのシリーズも出ていたと思います。
1977年くらいの話です。


この6名の内、館野泉さんはクラシックのピアニストですので、異なるジャンルの人です。
ですので、これから語ることは、その他の5名ということになります。






競争はいけないことであることは、私は絶対の確信を持っていますが、若い頃から一緒にやってきたメンバーとコラボレーションする、ということにより、若い 頃の感性溢れる気持ちが蘇り、そして、良い作品となった・・・ということはあるかもしれません。

すでに、みんなそれなりに地位も、名声も財産も、そして人生の地図もできあがっている状態の方々でしたので、競争する、という必要性などなかったはずで す。

あれが、もし競争となれば、それなりの作品にはなったでしょうが、もう少し、堅苦しい作品になっていた可能性はあるかと思います。





みなさん、それぞれ特徴を生かした演奏となっていました。



秋満さんは、「パリのめぐり合い」というタイトルだったはずです。
アドリブ・ソロなどはほとんどないながら、曲を生かした好きな演奏でした。
「エマニエル婦人」、「モア」、「ひまわり」などが収録されていました。



八城さんは、「追憶」ではなかったでしょうか?
初めて聴いたときは、ベースの音のレベルが通常より大きく入っていましたので、違和感がありましたが、慣れてくると、なかなか良いものに聴こえてきまし た。
特に「シャレード」のジャズアレンジでの演奏は良かったです。
「夏の日の恋」、なども収録されていました。



世良さんは、「センチメンタル・ジャーニー」というタイトルでした。
30年代、40年代、50年代くらいの古いアメリカン・ヒット・ソングが、多く入ったものでした。
「ブルー・カナリア」とか、「オン・ザ・サニー・サイド・オブ・ストリート」とか、そう言った曲です。
他には「ムーンナイト・セレナーデ」、「オー・マイ・パパ」、「トウヤング」、などが収録されていました。

選曲的には、さほど好きなものではありませんでしたが、実に世良さんらしいピアノのアルバムでした。
CDで聴いてみたいです。



前田さんは、他とは少し毛色が異なり、電子ピアノなどを使用していました。
タイトルはなんだったでしょうか?「マスカレード」だったでしょうか?「ミスター・サマータイム」でしたでしょうか
「マスカレード」だったはずです。

曲も「スーパースター」など、当時で言う最近のヒット曲なども入っていました。
ベースもエレキベースが、何曲か使用されていたかもしれません。
ピアノの両手でのオクターブ奏法が印象的な作品でした。
「レイン・ドロップ・キープ・ホーリング・オン・マイ・ヘッド」なども入っていました。

 

館野さんは、なぜ、このメンバーに入ったのかはよく分かりません。
次のシリーズに入っていた、三保敬太郎さん((「11PM」のテーマソングの作曲で有名)や、トッポジージョーの声で有名な・・・・名前が出てきません が、あの人とかでも、面白かったろうな、と思った りします。

あるいは、八木正生さん、小川俊彦さんあたりで行くのが、一番真っ当なのかもしれませんが。

当時は、今田勝さん、山本剛さん、佐藤允彦さんあたりだと、まだ、比較的”若手”のピアニスト(ん〜・・・)というイメージがあったので、このメンバーに は入ってこなかったでしょう。


タイトルは「枯葉」だったはずです。
縦揺れではなく、横揺れのクラシカルな乗りの演奏だったのを覚えています。
他には、シャンソンのスタンダードなどが入っていたように覚えていますが、はっきりしません。






もう30年近く前ですので、世良さんあたりは、きっと40代後半だったのかもしれません。
今の私とあまり変わりませんですね・・・・・信じられません。
私は、びっくりするのに、「信じられない」というフレーズは、めったに使用しませんが、本当に「信じられません」ね・・・。






と、書きましたが、調べてみたところ・・・・・・
「魅惑のピアノ・ムード・コレクション」として東芝EMIより12枚組で発売されているようです。
しかし、なんと(驚)、演奏者をばらばらに配置して、オムニバス調にしてしまっています。

これでは、せっかくの「アルバム」感が、なくなってしまいます。

どうして、こんなようにしてしまったのでしょうか?

2万円前後で販売されているようですが、残念ながら、現状購入する気は少ないです。
買ってから、並べ直してCD−Rに焼いても良いですが。


どうも、今の東芝EMIの人と、私の音楽的な考え方はずいぶん違うようです。
まるでビートルズの全曲を、「ABC順」に並べ変えられてしまったボックスセットのような感じです。

中古で1万円で売っていたら買うかもしれません。

ちゃんと、アルバム別に発売されるまで、また待ちましょう(笑)。
ひとつくらいなら、楽しみは、とっておいても良いでしょう。








確かに、クラシックは横揺れですね・・・・・・。
ジャズやロックは縦揺れ。

確か波動でも、そこら辺の事が、いくらか重要であったように思いましたが。
今度調べてみます。






さて・・・・・・
船井幸雄さんのホームページ:船井幸雄.COMで、小松 英星さんの『ガイ ア アセンション シリーズ』 というサイトを紹介していました。
もちろん。、早速訪問してみました。

俗に言うアセンション系のサイト、ということになるのだと思います。
船井さん本人を含めて、船井幸雄さんの周りの方でも、多くの方が次元上昇=アセンション、については語っていますが、”アセッション”という言葉を使って いる方はあまり見かけません。

やはり、訪れたはじめの感想としては・・・・・・ちょっと、どうしようかな・・・と感じてしまいます(恐る恐る・・・)

しかし、このような感触というのは、何もこれが初めてではなく、たとえば政木和三さんの本を始めて読んだときなども、同じような感触がありました。
なにせ、空間から突然、仏像が出てきたりするのです。
船井幸雄さんの少し前の本で、政木和三さんと初めて会った時のことが書かれているものでも、政木さんから本をもらい読んでみたところ、確か・・・

「なんともすごいことが書いてあります。でも信じることにしました。政木さんは嘘をつくような人ではないように思います・・・」
と書かれていたと思います。
しかし、きちんと読んでいきますと、ぜんぜん怖くなくなってきます。
もっとも、怖いくせに、読んでみる、という所に直感のような何かがあるのかもしれませんが・・・。




その小松さんのサイトですが、恐る恐るではありますが、Q&Aをとりあえず全て目を通してみました。

基本的には、船井幸雄さんの周りの方が書かれているようなことが書かれています。
ただ、それはそれで、小松さん自身のアプローチがあるようで、特色が出ています。

まだ、ぜんぜん研究中ですが、どうも小松さんは、政木和三さんなどが言う未来に対するイメージを、”意図する”と言っているように読めます。

今日はじめて読んだだけですので、不確かですが、興味はありますので、もう少し接触してみたいと思います。














(以下は至って個人的な話ですので、読まずに飛ばされても結構です。自分のためだけに書いています。いつもそうかもしれませんが・・・)



読んでいて、ふと、また判ったのですが、どうも私は、・・・・・・「四谷怪談」のお岩さん、という存在をどうも確かな理由もなく怖がっているようなのです (笑えない)。

ちょっといきさつを書いてみます。




私は幼少のころから、なぜか霊とか、神とかそういうものに興味がありました。

近くの神社の縁日などに母親とつれだって行くと、屋台のレコードやさん(そういうのが当時はあった)に言って、なぜか、怪談のソノシートなどを手にして、 欲しいと、言っていたようです。
不思議なことに、そのシーンをまるでそばで見ていたように覚えています(変)。


そこまでは良いのですが・・・
私の父親は空手部の主将でしたので、基本的に体育会気質の人です。
それ自体は個人の特色で良いのですが、当時パンやさんをやっており、相当ハードに働いていたようです。
もちろん、共働きですので、母親も同じなのですが。

小学生の高学年の時にはマンションまで買いましたので、きっとがんばったのでしょう。
それはそれで、感謝です。

ただ、働きすぎだったのでしょう、私が幼少からつい最近まで、ノイローゼ的なところがありました。
今は70歳近いですので、精神レベルも上がり(笑)、波動も高くなってきたようですが(喜)。

ですので、昔は相当理不尽なこともされましたし、夫婦喧嘩なども絶えず、暴力なども相当働いていました。

なにせ、7,8歳の子供です。
当時父親が30歳だったとしたら、スポーツ選手としても、ぜんぜんばりばりです。
今ではそのせいか、暴力に過剰反応気味ではあるものの、顕在意識レベルでは怖がったりしませんが、当時は、とても怖かったです。

今でも、不必要に体を鍛えたりする所を見ると、ひょっとしたら潜在意識レベルでは、暴力を怖がっているのかもしれません。
ただ、顕在意識レベルでは、「暴力だけには屈しない」と思って体を鍛えているようですが。
もっとも、それだけではなく、今はさすがに40を過ぎると、ほっておくといろんな所に脂肪が付いてしまうので、ということもあります(本当はこちらがメイ ン)。

また、当たり前ですが、こちらから親に手を出したことはありません。



お袋も、「一度、 殴らせたいだけ、殴らせてみたことがある」と言うほど、相当きついところがありますので、二人して”学んでいたのだな”、と今では思え ますが、そんな理解は、その子供には無理、無理、無理ですね。

(同情をかっている訳ではありません。ちゃんと成人できましたので。)


そして小学校低学年だった私は、何を考えたのか、次のように思考していました。    



「どういう人が、人に対して理不尽なことをしたり、暴力を振るったりす るのだろう?」

「親父は、幼い頃に父親を亡くしたらしい。ということは、悲しい思いを すると被害妄想的になり、人に対して、理不尽なことをする人間になってしまうのだろう」

「お岩さんは、確か、恋人に、裏切られ、それでその仕返しをしたのだよ な。そうすると、やはり、悲しい思いをしているので、被害妄想的になって人に理不尽なことをしたりするのだろうか?」

「四谷怪談を映画などで演じたりする役者さんは、お岩さんのお墓参りに 言って、ちゃんとお参りしないと、撮影所で悪いことがおきたりする、って書いてあったな。そうすると、やはり気をつけなくてはいけないのかもしれな い・・・・・・」

と、考えました。
この発想をした時のこともちゃんと覚えています。
当時、せまいアパートに住んでおり、布団の中で、上記のような発想をしたように記憶しています。
確か7,8歳の時ではないでしょうか。


それ以来、どうも私は、お岩さんという存在を怖がってしまっているようです。
四谷怪談の話ですら、相当脚色があるに違いないはずでのに、子供と言うのは素直なものです。
ましてや、今思い返すと、四谷怪談という物語を読んだことすらないのです。
読んだのは、何かに書いてあった簡単なダイジェストのようなものだけだったように思います。


ですので、たとえば顔がはれてしまったときなど、人は「お岩みたいになっちゃたよ」とか、言ったりしますが、私は怖くてとても言えませんでした。
それどころか、呼び捨てにすらできません。

たぶん、
「何か、ひどいことをされるかもしれない・・・」
と思ったのだと思います。
ひどい誤解ですね。

逆に発想すれば、それくらい、幼少時、私は父親に恐怖心を持っていたのでしょう。




更に、家からほど近いお寺には、お岩さんのお墓、がありました。
それがまた、私に変なリアルティをもたらしていたようです。



また、さらに拍車をかけるように、大学生くらいの時に、「笑っていいとも」を見ていたら、だれか女優さんが出てきて、「お岩さんが祀ってある○○にお参り に言っている」
というようなこと言っているのを見て、
「わっ、やっぱり何かあるんだ」
とも思ってしまいました。
○○はなんだか良く覚えていません。
隠す意図はありません。


決定的なのは、母親から、私がお産婆さんから、取り上げられた時に、「四谷怪談の○○(荻原?萩原?)さんみたいに、品の良い顔立ちだね」
と言ってた、という話を聞かされていたというものもあります。
○○は良く覚えていませんが、萩原(オギワラ)だか、荻原(ハギワラ)だかだったように思います。
その物語の中で、どういう役割なのかも知りません。



ちなみに、私は、金が目当てで、恋人に理不尽なことをしたりは、夢にもしませんが。
またこれ以上婚期が遅れては困りますので言っておけば(笑)、今のところ、前世でそういうことをした覚えもありません(断固)。

(余談:以前は、「この品が良い」、と言われるのが、嫌で仕方がなかったのですが、今は、あまり言われなくなりましたので「もっと言って」状態です)




そんなこんなですが、基本的には普段はぜんぜん表面に出てきません。
今回のように、”怖いかな”という世界に踏み込んでいこうとする時に、ふと思い出したりします。



加えて今では、
「悲しいことや理不尽なことがあったりすると、人によってその影響は違うが、多くの人は、それによって学び、優しい人間になったりしている。
いくらかの人は、逆に、被害妄想的になってしまったり、暴力的になってしまったりしているが」
とも、思っています。

それは、船井幸雄さん自身の話などを読んでも、そうなんだな、と思ったりしています。


また、

「四谷怪談の映画を演じると、悪いことが起きる、というが、それはお岩さんという霊が、演じている人に何かをしているのではなく、どうも、人がひどい目に あったりする映画を演じたち、作ったりすることにより、マイナスの波動が出て、それが、数々の悪いことを撮影所に起しているように感じる。」


「主演女優さんなどが、お岩さんのお墓に、撮影前におまいりに行く、というのは、どうも、政木和三さんの言う
「神仏は願いなど聞かない。祈ったりするというのは、それにより、脳波がシータ波、アルファー波になり、生命体の力が使えるようになるということだ」
ということから考えると、そのシータ波状態で、人が困るような映画を演じてすみません、と言う事により、自分の中にある神仏(自分の本質のことらしい)に 気持ちが通じ、悪い波動を中 和してくれているのだろう。」


「どうも、いろいろな本を読んだりしても、霊は、そういうことをしないようだ。」

「それに、お岩さんという存在は、すでに転生しているだろう。」

「それも、これも、面白おかしく霊や世の中の構造のことを書いた人がまねいた間違った概念なんだな。
今の昔も、マスコミは、儲かれば何でもするようだ。」

などと、思ったりしています。




森田健さんの「不思議のエネルギーの世界2」「(竢o版社:2001年第2版)の156ページには、次のような話があります。
(引用)
『次に、太地喜和子だが、コメントのなかでビデオ撮影のことを言っていた。これは「ちょっとだけ霊が見える人のために」というビデオを撮影する当日、怖い 霊がいるとしたら何だろうという話で盛り上がっていたら、とりあえず四谷怪談のお岩さんかなと言った人がいた。そして、新木さんが、お岩さんを呼んでみま しょう、とやってみたところ、太地さんが出てきたのだ』

太地さんと、お岩さんが関係あるのかどうかは分かりませんが、どうもお岩さんという存在が、被害妄想的に人に何かをする、ということは、ないようです(安 心)。
霊能者の方も、森田さんも、関係者も無事なようです。


しかし、怖い思いをするたび、思い出すのだけは、何とかしたいものだと思います(トラウマ)。



しかし、決まっている運命の大河の流れから考えれば、どうも、霊とか、神とか、人の一生とか、学びとか、そういうことうを考えさせられる運命にあったのか も、しれませんが。
実際は、よく分かりません。






ただ、あまり素人が霊のことなんかばかり考えているのは良くないようです。
とは言え、高次元のこことを考えていると、どうしても、時には考えざるを得ませんが。









先の、小松 英星さんのサイトには、何かよくないものに憑依されたときなど(私の解釈)は、こう言うと良い、ということが書かれています。
ただ、まだ、このサイトの初心者ですので、確かではありません。
Q&Aに書かれていますが、よくご自身で読まれてから、やってみようという方は、やってみると良いかもしれません。
やってみろ、とは私は言いません。




私は、私のアセンションの目標に寄与しない全てのカルマを、

どんな事どんな人との関係であっても、いま解き放ちます。

これに関係した全ての存在は、

直ちに私の領域から立ち去ってください。

これからは、私の目標をサポートする存在だけを、

私の領域に受け入れます。

(小松 英星さんの『ガイア アセンション シリーズ』より引用)



あるいは、




私は、アセンションをサポートしない存在たちと完全に縁を切り、彼らを、私の領域 から永久に立ち去らせることを意図します。

(小松 英星さんの『ガイア アセンション シリーズ』より引用)








また、若山敏弘さん、船井幸雄さんによる「本物の力」(徳間書店:1998年発行)には、浮遊霊が憑依した時の祓う方法として以下のようなことが、書かれ ています。

(148ページより引用)
浮遊霊が憑依したとき、だれでもわかる豊富があります。それは、疲れてボーッと しているとき、なんだか輪っかのようなものを、頭にはめられたように感じれば、そのとき憑依されたと思って間違いありません。
正者に表した浮遊霊は、引き続きその人の体の一部に不快症状や痛みを出すというか たちで、語りかけ続けます。

その浮遊霊を祓う方法は、まず第一にその存在を認めてあげることです。密教や道教 などのなかに、専門的な方法がいくつもいありますが、いずれもまず最初に行うことは、その霊の存在を認めてあげることです。

次に、その霊に「ここにいるのは、よくない」ということを教えてあげなくてはなり ません。
そのための言葉や呪句については、これもいろいろとあります。しかし、要は、「私 のなかに入ってはいけない」ということにつきます。
そこで、私のなかに入ってはいけないということを、浮遊霊に対して、叫び、説得し 続けることです。ときには、「ただちに出ていきなさい」と命令してもいいでしょう。

あるいは、「出て行って、自分で修行をして、救われなさい」というようにいっても かまいません。
そいのように、よく言って聞かせて、浮遊霊に退散してもらいます。
浮遊霊の退散をどのようにして知るかといえば、それは不快症状の改善によってで す。
それまで、わけもなく痛かったりしたところが、スッキリとすれば、それは浮遊霊が 退散した証拠です。

(以上:何箇所か私の判断で改行しています)



記憶に残っていたので、引用してみました。


中村八大さんでした。


217: 愛の誓いティル:中村八大    
  中村八大さんの、ストリングスものです。

曲目です。

1.デサフィナード
2.ノー・アザー・ラヴ
3.ユー・アー・ザ・サンシャイン・オブ・マイ・ライフ
4.アイ・ラヴ・パリ
5.ア・ソング・フォー・ユー
6.ラスト・ダンスは私に
7.アンド・アイ・ラヴ・ユー・ソー
8.ストレンジャー
9.マイ・ラヴ
10.哀しみのシンフォニー
11.ヒア・ゼア・アンド・エヴリホエア
12.愛の誓い


ライナーは、行田よしおさんと、中村さんの対談形式になっています。
レコーディングデータはありませんが、ライナーに、江利チエミさんがなくなられた翌日、雪の降る日にインタビューをした、とありますので、1982年の作 品のようです。

CDの発売は1992年です。
中村さんがなくなられた年ですが、ライナーにそのことが書かれていますので、その後発売されたようです。

中村さんが、ブルーノートのオーディションをニューヨークで受けた話は、このライナーに書かれています。
またビートルズの作曲に対しての、賞賛の言葉も書かれています。



 「愛の誓い」は、不思議に耳に残っている曲です。
初めて聴いたのは、ロジャー・ウイリアムスのピアノですが、その録音の古っぽさ、シンプルな単音を使っての演奏が、当時は派手なピアノが好きでしたので、 好きではなかったのですが、不思議に耳に残っています。

ロジャー・ウイリアムは、派手な演奏もする人ですが、どちらかと言えば、シンプルな演奏が多いように感じます。


さきほど(6日夜)、地震があり、転寝(うたたね)から起きることができました。
不思議研究所のサイトを開き、森田健さんの「ひとりごと」を見ていましたが、思いのほか早く終わりましたので、テレビのチャンネルを回しました。
すると坂本九さんの特集がやっていました。

ちょうど、アメリカのテレビショウに出演し、「上を向いて歩こう」、「君住む街で」を歌うところでした。
ちゃんと、録画しました(喜)。

共鳴でしょうか。


さて、CDが売れていないそうです(唐突)。
なんでも、毎年前年比マイナス15%の売り上げになっているそうです。

普通に理由を考えれば、

デジタルダビング機器の発達。
楽曲自体に魅力がなくなった。
最大購入層である若い人口が、年々減っている。

などでしょうか?





私的に考えれば、以下のようなことも、思いつきます。
すべて仮説です。


1:ジャズなどの比較的高年齢層の聴く音楽は、インターネット・オークションなどで、中古品を購入しやすくなった。
(私は、この1年間で新品、中古を含めてCDを20枚程度購入していますが、CD屋さんで購入したのは、中古店で2,3枚のはずです。後はインターネット です)。

2:CD店、インターネットで視聴ができることにより、つまらない作品、自分の求めていない作品を購入するようなことがなくなった。
(これは、確かです)

3:CD自体、厳密に言えば音が悪く、それが、中級・高級オーディオ機器でじっくり音楽を楽しむ、という趣味をつまらないものにしている。

(20年前から思っています。
また演歌の大ヒットなどがでないのも、これと関係あるかもしれません。
人間は、年を取れば、取るほど、ひょっとしたら、本当の音に近い音の出る音楽にしか反応できなくなっているのかもしれません。
そうなるとCDを中心としたオーディオ装置や、デジタル録音、デジタル楽器を使っての作成が、CDが売れなくなっている大きな原因の可能性があります。
この逆をやれば、売れる、ということでしょうか?
ちなみに、老人ホームの人を招いて、私のへたくそなクラリネットで演奏された「テネシーワルツ」と「上を向いて歩こう」を聴いたおばあちゃんは、涙を流し ていたそうです。決して、この年代の人は音楽が嫌いな訳でもありませんし、音楽にそういうパワーがなくなってしまったわけでもないのでしょう。)



4:時流が変わり、著作権で儲けようということ自体が、時流に合わず、結果が出なくなっている。
(船井さんの「宇宙の理」によれば、そうなります)。

5:音楽産業に関わっている人(製作・企画、作曲・作詞、演奏、著作権関係)自体の平均的な波動、意識レベルが一般世間よりも低くなっている可能性があ る。
(一流大学卒しかレコード会社が採用しなくなってから、もう30年くらいになるのではないでしょうか?それだけでは説明になりませんが。)

6:製作における録音機器、楽器にも、デジタル機器が多く使われており、それがまた、深い意識レベルで、人が音楽に浸る条件を崩している。
(どんなによくなっても、デジタル機器は、耳の奥までは響かないはずです)



7:究極の仮説は、CDが売れていない、というのが、嘘である、というのもあります。
故意に嘘をついているか、あるいは、流通ルートなどの多様化により、正しい集計ができなくなっている、という理由が考えられます。

もし故意に嘘をついているとしたら、それは、デジタルダビングを恐れて、「売れないのはデジタルダビングのせいだ」とするために、年々売り上げが下がって いる、と嘘を付いているという”空想”もあるでしょう。










私の場合、いわゆる新録音の新譜、というのは、生まれてからほとんど購入することがなく、90%以上がビートルズなどに代表される後追いですので、新譜に ついては、よくわからないところがあります。
リアルタイムで追っかけていた、というのは、佐野元春さんくらいしかいません。









さて、私ならどうするかと言えばですが・・・・・・

1:次のデジタルオーディオのフォーマットを作るときは、理論値ではなく、何種類かの音を1,2年のスパンで人に聴かせて、一番くり返し聴きたがる音のす るものにするのが良いと思います。
是非、今日から開始してほしいものです。



2:アメリカの後追いを止めるのがいいように思います。
戦後60年、日本の音楽界はそれをやって成功してきましたが、時流の変化を考えれば、それはもう時代遅れのように思います。
日本古来の文化からヒントを得て、伝統と今を合わせたような音楽作りが良いように感じます。



3:売り上げを考えるならば、若い人は年々減っているわけですので、もっと上の年齢層に訴えるようなことを考えたほうが良いと思います。
もう、やってはいるのでしょうが、私の考えでは、天使の歌声のする人によるポップス、というのを考えてみると良いように感じます。
直感ですが。

4:芸能界的には、従来は、若者の新しい奇抜な文化=新しい時代の流れ、で正しかったようですが、時流を考えると、そうではないのかもしれません。

波動的に、極端に悪い波動を持った人と、良い波動を持った人に分かれてきているようですので、若い人の奇抜な・・・=新しい流れ、ではなく、=極端に低い 波動による文化、である可能性が高いのかもしれません。

そうであるとすれば、何を採用するか?が大事になってきますが、そういうことを判断する担当者は、単に新しいものを見つけ出すの能力がある人ということで はなく、高い意識レベル、波動レベルを持った人であることが必要になってくるかもしれません。

レコード会社でも、芸能プロアクションでも新規採用は、偏差値の高い大学からではなく、波動の高い人を選ぶ方法を模索しなくてはならないかもしれません。



5:1の亜流ですが、演奏も、リズムはできるだけ打ち込みを排し、人間によるリズムがきっと良いのでしょう。
シンセサイザーもいけないのでしょう。
ピアノはピアノ、ストリングスはオーケストラ・・・・・・、自然の音に近い方が良いのかもしれません。


6:著作権に関する考え方を根本から変えた方が良いのでしょう。
どうすればよいのかは良く分かりません。
最終的には完全放棄、完全自由なのでしょうが、過渡期には、そうないかないでしょう。








資本主義的な方法論としては・・・
どうやら、富裕層とそうでない層の2分化が なされているようです。
そう考えると、富裕層をターゲットにした方が良いですので、いっそ、訪問販売をしてみると良いかもしれません。
デパートのように、あるいは画商のように、富裕層の家にCDをい持って出かけていくのです。

インターネットでもいいのではなか?とも思うでしょうが、富裕層、しかも女性、年配者などは、あまり使用しないでしょう。
そう考えると、高級住宅街、高層高級マンションなどにCD店の出張所などを作っても良いのかもしれません。
繁華街の大型CD店には、富裕層はあまり行かないように感じます。


出張所には在庫をおく必要はないと思います。
それこそ、ネットワークにつながったPCがあれば良いのではないでしょうか?
高級なラウンジ風にします。
空港のゲスト用の待合所のような感じでよいのではないでしょうか?


そうすると、何かのついでに富裕層が訪れます。
その人達に、積極的に売り込みます。
顧客の趣味をサンプリングしてマニュアル的に販売する方法もあるでしょうが、それでは、そういう層には売れないと思います。
ちゃんとあらゆる音楽的知識を有していて、音楽以外にも、そういう層が好みそうなあらゆる知識を有している担当者が、マンツーマンで付いて、CDを推薦し てあげます。
2,30枚くらいなら一辺に買ってくれるかもしれません。

市場が活性化してくれば、オーディオ機器まで、一緒に推薦して売ってあげても良いかもしれません。



もちろん、顧客の誕生日などには、無料で一番好ましいCDなどをプレゼントする必要があります。
定期購読紙を作って送ってあげても良いのですが、大抵この業種のその手のものは、つまりませんので、読まないで捨てると思います。

ですので、するのならば、よっぽど考えるか、定期購読紙ではなく、定期無料コンサートなどの方が良いかもしれません。
金持ちなので、無料でなくとも良いだろう、と思うかもしれませんが、船井幸雄さん流に発想すれば、無料の方が良いでしょう。
また、金持ちだからこそ、無料の方が嬉しい、というのもあるかもしれません。

そして、その後、その無料コンサート絡みのCDを持って、また訪問販売してくればよいのではないでしょうか?
コンサート会場でも売っても良いかもしれませんが、一人で何十枚も買わないでしょう。


もちろん、そういうことをやっていると、CDの枚数が増えてしまいます。
また飽きても来るでしょう。
そうしたら、それを格安で引き取ってあげれば良いかも知れません。
または、孫などへの誕生日ギフト券と交換してあげても良いでしょう。

そして、引き取ったCDは中古として、今度は富裕層ではに方へ販売してあげればよいでしょう。


私は買いますよ。良い波動が入っているかもしれませんし(笑)。





という訳で、今日は、CDの話でした。

 

218:センチメンタル、山下洋輔    
    山下洋輔さんのピアノソロです。
1985念の録音です。

LPで発売されていましたが、下記の※のものは、LPとは別テイクです。 


1.虹の彼方へ
2.マイ・ワン・アンド・オンリー・ラヴ※
3.ユーモレスク※
4.枯葉
5.トロイメライ
6.スターダスト
7.サマータイム
8.二人でお茶を
9.ボレロ
10.シークレット・ラヴ※
11.ピアノ協奏曲第二番第三楽章※
12.P.S.アイ・ラヴ・ユー
13.グッド・バイ


もちろん演奏は山下さんですので、フリージャズのエッセンスにあふれています。

一時期、この演奏に影響されて、真似をしていた時期もあります。

その演奏が妙に、性にあっていたような気もします。
今でも真似ならできます(笑)。

山下さんは、やろうと思えば、ちゃんとスタンダードな演奏も出来るようです。
武田和命さんのアルバムではリリカルなピアノを弾いています。

山下さんのアルバムは実はこれしか聴いたことがありません。
後は、時々テレビで見る程度です。
しかし著作は中学生の時から良く読んでいました。
少なくとも単行本になったものは、全て読んでいると思います。

中津川のフォークジャンボリーの当時は、山下達郎さんのシュガーベイブと同じ事務所にいたようです。
面白い時代ですね。
原体験のある人にとっては、当たり前なのでしょうが。

古い本には、歴代メンバーの他に、淺川マキさんや、唐 十郎さん、タモリさん、などなどが登場してきます。


いずれかの本で、針治療のシーンで、針を刺して 抜くと、細い糸のようなものが出てきて、それをプツンと切る・・・・と場面がありますが、何かこの シーンが、理解しにくいが、現実にあるんだな、ということの最初であったようにも感じます。



つまらないことですが、山下さんの本から学んだ知識と言うのは結構あります。
たとえば・・・
今では違うようですが、オーストリアのウィーンだかどこかでは、1970年代くらいまで、東洋人留学生は学費がただだった、とか、西洋では(当時)丸いパ ンは、半分に切って、バターを塗ってから、マーマレードを塗って食べる、とか、などなどです。

このマーマレード話は、役立ったことがあります。
大学4年の時、ある広告代理店に内定が決まりました。そこへは行きませんでしたが。
ホテルで、だれだったか偉い経営者を招いて朝食会をやるというので、行きました。

そこには、山下さんの本にあるように、丸いパンとバターとマーマレードが出てきました。
当時、海外旅行など大金持ちしか行きませんでしたし、パンのまともな食べ方など知る由もなかったのですが、山下さんの本の通りに食べました。

一緒にいたその会社の社員も含めてだれも食べ方を知らなかったのですが、私がそうやって食べると、そのだれか知らない偉い経営者が、目配せで、” OK”合図を送ってくれました(喜)。

山下さんの本では、確か・・・どうやって食べて良いのか分からないので、隣に座っている外国人のまねをして食べた・・・として、上記のような食べ方 が掲載されていたように思います。
今では、どうだか知りません。
そういうのは、変化していくものです。


山下さんは、1960年後半から、積極的に海外演奏活動をしていましたので、そこら辺の面白い話がたくさん出てきます。

確か・・・キューバ事変かなにかの時は、アメリカ兵の慰安演奏をしていたら、急にサイレンが鳴って・・・・というような話もありました。

東西関係が緊張していた時代の、東側でのことなども、興味深い話です。
確か、知り合いのミュージシャンの友人の話か何かで、東へ亡命するのに、相当前から体を鍛えて、そして、体全体にグリースを厚く塗り、海を泳いで国境を越 えた人の話などがあります。



ただやっぱり一般的な(?)人ではないようで、海外に親戚で大学教授や、画家(知り合いだったかもしれない)などがいたりします。
いくらか上層階級の人なのかもしれません。
もちろんそのせいで、こちらとしては、面白い話が読める訳なのですが。




山下さんは麻布高校を出て、武蔵野音大に行ったはずです。
「卒業生のほとんどが東大へ行くだなんていうとんでもない学校で・・・」
という話が何度も出てきます。

30代か、40代の時には、葉山に住んでいたようですが、今はどうなのでしょう。

一度、結婚後に働きすぎて、大病をしたようです。
働きすぎはよくありませんね。
少しは働いた方が良いには、決まっていますが・・・。




さて・・・・・・
このアルバムのタイトルは、「センチメンタル」ですが、私は、大学生だったか、いつだったか定かではありませんが、かなり年代を経るまでセンチメンタルと ロマンチックを混同していたように思います。

どのように捉えていたかと言えば、何か心にぐっと来るものとして、両方とも同じようなものだと感じていたようです。

ぜんぜん違うものですよね、この2つは。



センチメンタルは、どちからと言えば、マイナス方向でしょうか。
ロマンチックは、どちらかと言えば、プラス方向でしょうか。


ちょっと専門的になりますが、
センチメンタルは、マイナー9、というコードの響きがあります。 マイナー系ですね。
ロマンチックはやはり、メジャー7の響きがします。メジャー系ですね。


と、言いますか、どういうわけか、ある時期まで私の中には、ロマンチックという概念が希薄いだったようです。
その代わり、センチメンタルがたくさんありました。

幼少時代の私の変な癖は、布団に入り、思いっきりセンチメンタルなことを考えて泣く・・・というものでした(笑)。
あれは、何だったのでしょう?
前世の記憶でしょうか?(さあ・・・)


どのようなきっかけで、センチメンタルとロマンチックが分かったのかは良く覚えていません。
何か音楽絡みだったようにも思いますが。

良くあまり音楽に興味がない人が、クラシックとジャズを一色短(こういう漢字か?違うな・・・)に言うことがあります。
あるいは、演歌と民謡もそうでしょうか?(私は幼少時、違いが分からなかった)。

きっと、そのような感じです、以前の私は。



あるいは感情の中に、楽しい、悲しい、かわいそう・・・などはあったにも関わらず、ロマンチックという感覚がなかったのかもしれません。

家庭環境かもしれません。
父親とは、恋愛の話などしたことはありません。
母親と妹とはありますが、”愛情”という感覚はほとんど感じませんでした。
とても、物質的(笑)なことばかり言います。
「女性の恋愛論とは、かくも、物質的なものか」
と思ったものです。


ですので、私はロマンチックは苦手です。
博愛は分かるかもしれませんが、きっとロマンチックはその半分くらいしか分かっていないのではないでしょうか?

夜景は好きです。
しかし、一緒にいる女性に黙られてしまうと、非常に困ります(困惑)。


そこまでロマンチック(?)でなくとも、たとえば、仕事などで担当が変わる時など、いつも会っていた担当の女性が悲しい顔をしただけでも、困ってしまいま す。
悲しいのなら慰められるのですが。


そう考えると、ロマンチックというのは、非常に自分が関わっていることなのだな、と感じます。

第三者ではいられないという意味です。



怒るのも、悲しいのも、嬉しいのも・・・そういった感情は、相手はあるものの、ひとりで完結しようと思えばできるもののように感じます。

しかし、ロマンチックというのは、どうも、ひとりで完結を許してくれないものであるのかもしれません。


「あなた、何むつかしいこと言ってんのよ・・」・と分かっている人に言われそうですね。

この分からな度は、私には、「洗心」並です(笑)。



むしろ幼少の頃の方がロマンチックだったかもしれません。

幼少の頃、祖母が家に来た時、私が「何かして欲しいことある?」とかなんとか聞いた時に、「お嫁さんが見たい」と答えた時がありました。
私は、仲良しの女性を、家まで迎えに行き連れて帰ってきて、「この子かこの子が、お嫁さんになる」というようなことを言って紹介したことがありました。
迎えに言った時も、妙にあわてたそぶりで、「おばあちゃんが、お嫁さんを見たいって言っているんだ。だから早く早く」とでも言ったように思います。
女性のほうが早熟でしょうから、一体どうその言葉を聞いたことでしょうか?(笑)


かように感情というのは不思議なものですね。




どうも、小松英星さんによりますと、私がかねがね言っていた、「時間が異常に短く感じる」というのは、正しいようです。
ただ、だからどうだということはないようなのですが。

それよりも、インターネットに繋げっぱなしの状態であったり、テレビが付けっぱなしであったりすると、そこから、悪い波動が入ってくる、というよう なことが書かれているのが、どうも困ります。

きっと事実なのかもしれません。
確かに、ADSLにしてから、何か変わったようにも感じます(それは、インターネットをやりすぎなだけでしょう)。
ただ、関英男さんの肉の話でもそうですが、あまり情報を得すぎても、なんとも処理しきれないで困ってしまう部分があります。


情報収集能力の次には、情報処理能力もまた必要になってくるようです。
当たり前ですね。


小松英星さんは、東大の経済学部を出て、カリフォルニア大学バークレー校の大学院で勉強していたようですね。
一応文系と言って良いのでしょうか?
いや、東大の経済なら、私達から見れば、ほとんど理系に近いのかもしれません。
文系探しはまだ続きそうです。
ちなみに、別に理系にコンプレックスはありませんが。


バークレーには確かROSSというドラッグストアというか日本で言うところのディカウントショップがあったように記憶しています。
アメリカ全土にあるようですが。
当然ハワイにもあります。




サンフランシスコのマーケットストリートのROSSで、皮製の小さなナップサックを妹の2人の子供(女性)に買っていきました。
一つは真っ赤で、もう一つは赤に少し青が入ったものです。
どちらも赤を主体としていて、それでいて、違うものであるので、良いだろう、と思いました。
ところが、いざ持っていくと、妹の2人の子供(女性)は、真っ赤なナップサックを取り合って喧嘩を始めてしまいました。

当時2人は、確か5歳と3歳くらいではなかったでしょうか?
もう少し下だったかもしれません。
遺伝子というのは、すごものだと感じました。
どうも女性として生まれたからには、喧嘩をしても、赤いのを選ぶようにDNAがONになっているのかもしれません。


果たして私は?と考えると、別に黒を好んだ覚えはありません。青もそうです。

ただ、怪獣は好きでした。

みなさんは、DNAを感じる時はあるでしょうか?
もっとも、DNAも去ることながら、共鳴もまた、大きいようなことがどこかに書いてありましたが。

なんと言っても、他人である夫婦の顔が似てしまうのですから。


山下洋輔さんでした。

 

219: THE Sound of Modern Jazz
宮間利之&ニューハード
   
   宮間利之&ニューハードです。


1.ブルース・マーチ
2.クリフォードの思い出
3.ウィスパー・ノット
4.死刑台のエレベーター
5.マイルス・トーン
6.モーニン
7.ラウンド・ミッドナイト
8.ブルー・モンク
9.危険な関係のブルース
10.ワーク・ソング
11.ジャイヴ・サンバ
12.チュニジアの夜
13.マンテカ
14.ブルー・バード
15.バグス・グルーヴ
16.ミッドナイト・サン

ディスク: 2
1.蜜の味
2.褐色のブルース
3.黄金の腕
4.地下室のメロディ
5.彼女を殺せ
6.テイク・ファイヴ
7.十番街の殺人
8.ハロー・ドーリー
9.イパネマの娘
10.アンチェインド・マイ・ハート
11.ラヴ
12.朝日のあたる家
13.ゴールドフィンガー
14.ハード・デイズ・ナイト
15.クール
16.黒いオルフェ
17.ジョージア・オン・マイ・マインド



ビッグバンドのサイトなどを見ますと、どうやら、70年代くらいに発売されたアルバムのオムニバスのようです。

ニューハードも何度か見たような気がします。
少なくとも、日比谷と日本青年館での2度は確かなように思います。

当時(80年代)は、リードトランペットでハイノートの得意な方が在籍していたように思います。
スマイリー小原さんほどではないですが、指揮者の宮間さんの独特な指揮ぶりも特徴なバンドです。


このアルバムでは、ジャズ作品も入っていますが、なぜか、「蜜の味」が耳に残っています。

ハープアルバートのアレンジに似ているせいかもしれませんし、CDの先頭のせいかもしれません。
しかし、どうして、CDの先頭に来たのか、どうして、アルバートのアレンジに似ているのか、を考えますと、理由はないとしか言えません(笑)。


私の感覚では、東京ユニオンが登場してくるまでの数年間は、ニューハードの時代であったように感じます。
もっとも斬新な作品を出し、海外演奏活動なども、もっとも派手にやっていたようでした。

どこかのサイトで見ましたが、今は、依頼があれば、小学校などへも演奏へ出かけ、ビッグバンドの普及活動を行っている、ということです。
あの演奏を小学生の時に聴かされれば、ファンも数もぐっと増えるかもしれませんね。
私などは、小学校ブラスバンド・コンクールの優勝バンドの演奏を聴いただけで、しびれてしまったくらいです(古い言い方。失神はしていません:笑)


失神と言えば、確か「オックス」の真木ひでとさんが、ステージ上で、演奏中に失神したというのが有名な話ですが、いつだったかテレビに出ていて、 「あれは、何かのコードに引っかかって転んだだけだ」、というようなことを言っていました。
正直な人ですね(笑)。
ファンの間では、知られていることなのかもしれませんが。


ニューハードの前は、おそらく#&♭が、人気があったのでしょう。良く分かりませんが。
今はどうかと言えば、テレビなどにたまにビッグバンドが出ていても、大抵#&♭ですね。

昔は紅白歌合戦では、片方は#&♭でしたが、もう片方は、ブルーコーツでしたでしょうか?スイングビーバーズでしたでしょうか?
ひねくれ者でしたので(笑)、紅白を途中から見なくなってしまいましたので、良く覚えていません。

浅草のロックフェスティバルを見ていました。


いつもシーナ&ロケッツが、かっこいいな、と思ってみていました。
ただ、私はロック系の人ではなかったようです。

日本のロック、というもののLPもCDもほとんど聴いたことがありません。
はっぴーえんどは聴きましたが、ちょっと系統が違いますね。
彼等は「日本語のロック」でしたね。


はっぴーえんどと言えば・・・
以前大滝詠一さんのサイトには、中津川フォークジャンボリーのライブレコードのはっぴーえんどの演奏中に、当時素人の佐野史郎さんが見に来ており、彼がか けた掛け声が収録されている部分がアップされていたように思いました。
今見たらないので、他の人のサイトかもしれませんが。






さて・・・・・・
プライドと、誇りは、別物ではないのか?とずっと感じています。
以前もどこかに書いたかもしれません

プライド=pride, はgoo辞書によれば、
自尊心, 誇り, 自慢(のたね), 得意; 満足; 高慢, うぬぼれ; 〔雅〕 (単数形で) 全盛, 盛り, 得意の姿; (ライオン・クジャクの)群.
となっています。


普通 日本語で、「家族の誇りにかけて・・・」
とは言いますが、
「家族の自尊心にかけて・・・」
とは、言いませんよね?

「家族のうぬぼれにかけて・・・」
は、絶対言いません。

「家族の高慢にかけて・・・」
とも言いませんね・・・。



どうも、もし未開の日本に、アメリカ人が急にやってきて、
「プライドは日本語で何と言う?」
と聞かれたら、
「自尊心、高慢、うぬぼれ」
と答えるのが正しいのかもしれません。

”誇り”は、プライドではないのではないように思います。

truth; realityと言うような、「真実」という意味にされている言葉がありますが、こちらの方が、”誇り”に近いのかもしれません。





良く言われていることに、
日本人は無実の罪をかぶせられると、自殺して、無実を証明しようとするが、アメリカ人は、徹底的に、無実を証明しようとする・・・

というのがあります。

波動の低かったアメリカ人にしてみれば、きっと「死ぬのは、罪を永遠に隠すため」という解釈なのでしょう。


しかし、それはそれ、日本人はアメリカ人よりも高い精神レベルと、波動を持っているようです。
日本人は命をもって、無実を証明します、とします。
命への考えが違うのでしょう。
あるいは、3次元そのものである”肉体”と、高次元の産物である”心”をきちんと分けているのかもしれません。




どうも、直感では、アメリカには「真実」がないのではないでしょうか?

さきのアメリカの戦争でも、アメリカ政府が本当だとしていることと、真実は異なっているいるようです。
フセインが核兵器を持っていたかどうか、ということなどは、ニュースにもなっていますので、結局何も見つからなかったということで、世界中をあきれさせま したが、これ以外にも、例のテロ自体が、アメリカの自作自演ではないか? アポロが月面着陸したのですら、嘘ではないか?あの捕まったフセインは偽者であ る、と言うようなことを言っている人は、何人もいます。



アメリカ人はおそらく精神レベルの進化ということを考えてみれば、「ばれなければ、それは真実である」という考えをまだ持っている最中の人種なのか もしれません。

あるいは、「やってしまえば、真実であれ、嘘であれ、同じである」
と思っている人種なのかもしれません。

それならば、まだ、
「あれは嘘でした。しかし〜〜こういう理由があり、しかたなく、事実をしばらく隠蔽しました」
としたほうが、よっぽど良いのではないかと思えますが、ちゃんとした説明ができないのでしょう。

それは、自国の経済と、その業種に関わる人々のため(票集めの含む)に、日本人に対して、病原菌入りの牛肉を、嘘をついてまで食べさせようとしたこ とからも、容易に伺えます。

発展途上なのでしょう。
彼らの意識レベルでは、自分の国、業者、家族のためなら、他の国の人を死に至らしめる病気にさせようとも、それは許される、という、途中のレベルである、 というだけなのでしょう。

ちゃんと自分自身以外の人のことも考えているだけ、0点よりは上なのだと想像されます。
ただ、こちらはたまりませんが・・・。


その点だけを考えれば、日本があれだけ意地悪く難癖をつけてきたオーストラリアは、ちゃんと、日本の言うことを守ってきて、そして今では、たくさん の牛肉を日本へ輸入していますので、相当意識レベルの高い国なのかもしれません。
偶然かもしれませんが、確かに私の知っているオーストラリア人は、良い人ばかりです。
看護関係者が多い、というのもありますが。



また、イギリス式の検査方法によって、アメリカの牛肉が危険であることが分かったのも、何か非常に意味のあることのように感じてしまいます。


私はイギリス人の知り合いは2人しかいませんでしたので、イギリス人はコメントできません。
ただ、独りは女性で、”巨乳”でした(エッチ)。
後ろから見ていても、胸が見えるというすごい人でいした(   (| |)    分かるかな?)


 

語弊があるかもしれませんが、王政のあった国というのは、高次元的に見ても、違う何かがあるのかもしれません。
直感ですので、説明はできませんが・・・。




さて、別にアメリカの悪口が言いたいわけではありませんので、これはこの辺で良いのですが・・・

意識レベル、波動レベルの違う国同士での翻訳と言うのは、100%は不可能なのでしょう。

アメリカ人が良く「日本人は分からない」と言います。

日本人は、「アメリカ人は〜だ」とはいいますが、あまり「分からない」という言葉で表現はしません。
上位互換があるのかもしれかせん。
(人権の上下ではないです)


みなさんはどう思うでしょうか?



しかしながら私などは、音楽を通じて、アメリカからは、恩恵を受けていますので、悪い感情ばかりは持っていません。
きっと、意識レベル、波動の高い人も大勢いるのでしょう。

また英語は、オーストラリアでも、イギリスでも使っていますね。



ジャズは、アメリカ産の音楽です。

ただし、ジョージ川口さん、世良譲さんなどがやっていた音楽は、それではないと私は思っています。
若いミュージシャン仲間がほとんどそういう音楽を毛嫌いする、ということから、この考えに確信を持っています。

最近はどうだか分かりませんが。



宮間利之&ニューハードでした。
これも日本のジャズです。




220:原信夫&シャープス・アンドフラッツ:べスト・プログラム    
  一度、掲載したものです。
その時は写真は1枚だけでしたので、今回は3枚とも取りました。

バックは、家電製品の裏ですが、大きさが足りないので、画像処理しています。
上と下で辻褄がありませんね。

左下に、処理の忘れた部分があります。

 


曲目です。

ブルーレディに紅バラを:ベスト・プログラム3

1: My melancholy baby
2: It's been a long long  time
3: When you're Smiling
4: Smoke gets in your eyes
5: Red rosees for a blue lady
6: Again
7: Fly me to the moon
8: Memories of you
9: My blue heaven
10: Love letters
11: Softly as in a morning sunrise
12: When you wish upon a star
13: Secret love
14: I'll never smile again
15: Dream
16: The party's over



アップル・ハニー:ベスト・プログラム2

1:One o'clock jump
2: Strings of pearls
3: Little brown jug
4: Apple honey
5: Greasy sack blues
6: Don't be that way
7: Singing wind
8: Charmain
9: Back beat bogie
10: Opus one
11: I'm getting sentimental over you
12: Intermission rif
13: Sophisticated lady〜In my solitude
14: Flying home

ブルー・フレーム:ベスト・プログラム1

1: Blue flame
2: Tuning up
3: That's a planty
4: St. Louis blues
5: In a sentimental mood
6: Ya gotta try
7: Love letters
8: My funny valentine
9: Blues march
11: Koto
12: Take the "A" train
13: Blue flame


いくら探しても、ネット上には曲目がありませんでした。
しかたがなく、自分で打ちました。
始めは、カタカナで打っていたのですが、あまりに良が多いので、英語に直しました。
それも、始めは単語の頭を大文字にしていましたが、あまりに多いので、先頭以外は小文字にしました(笑)。




いずれも良い演奏です。
今さらではないですが、このバンドは今や世界一のビッグバンドでしょう。

原さんは高齢ですが、是非とも90歳くらいまで、がんばってほしいと思っています。
良く分かりませんが、高橋達也さんは、正式メンバーなのでしょうか?
そうならば、原さんのサポート役も担っているのかもしれませんね。






今、江原さんがテレビで、視聴者からの「時計などの数字で、ぞろ目を見かけることが多いのですが、何かあるでしょうか?」という質問に、「霊的なことでは ありますが、それは直観力がさえている、と考えてください」と言うような回答をしています。

私は「9」を良く見ます。相当頻繁に・・・。
特に「49」を良く見ます。
生まれが4月9日なのと、ジョンレノンが「9」をラッキーナンバーとしていたことから、私も「9」をラッキーな番号だと思うようにしていますので、その念 が呼んでいるのだと解釈していますが。
果たしてどうでしょうか?





さて・・・・・・
「プライド」の続きすが、おそらく明治時代以前は、この言葉は日本語にはなかったのだと想像します。


前に書きましたが、プライド=pride, はgoo辞書によれば、
自尊心, 誇り, 自慢(のたね), 得意; 満足; 高慢, うぬぼれ; 〔雅〕 (単数形で) 全盛, 盛り, 得意の姿; (ライオン・クジャクの)群.
となっています。


今野球を見ていますが、4番の小久保がヒットを打ちました。
解説者は、「4番のプライドが打たせたのでしょうね」と言い、アナウンサーは、「なるほど」と言っています。

もし、明治時代以前でしたら、何と言ったのでしょうか?

「4番の誇りが打たせたのでしょうね」
でしょうか?


「4番の自尊心が打たせたのでしょうね」
でしょうか?



「4番のうぬぼれが打たせたのでしょうね」
でしょうか?



何となく、どれも、普段私達が使っている「プライド」という言葉とは、意味が違うように感じます。
しいて言えば、「誇り」が近いかな?とは感じますが。


おそらく、意地・・・・・・
「4番の意地が打たせたのでしょうね」
が、普段、この場面で私達が使っている「プライド」に近いのではないでしょうか?




しかし、「意地」と「誇り」とは、ずいぶん違うものであるように感じます。



プライドという言葉がないのなら、こういうのではないでしょうか?
「4番であることに誇りを持っていることからの意地でもって、打たせたのでしょうね」




もし、そうであるのならば、今日本語で使われる「プライド」は、「誇りから来る意地」という意味で使われているのかもしれません。

しかし、小久保は、本当にそうしたでしょうか?
4番であることの誇りからくる意地で、打ったのでしょうか?
ちょっと違うように感じます。
事実を表していないように思います。


「4番であることに誇りを持っていることに賭けて、打ったのでしょうね」
「4番であることに誇りを持っていることの真実に賭けて、打ったのでしょうね」
「4番であることに誇りを持っているので、それに恥じないように、という気持ちで打ったのでしょうね」
「4番であることに誇りを持っているので、それを汚さないないように、という気持ちで打ったのでしょうね」


事実を現しているのなら、
それに恥じないように・・・
それを汚さないないように・・・
というのが、もっと近いかもしれません。

そうしますと、普段「プライド」という言葉を、「誇りからくる意地」という意味で使っているのに、起きている事実は、「誇りに恥じないように」、「誇りを 汚さないように」という意味の事象となっているのかもしれません。



大体、「誇りからくる意地」なんてものは、本当にあるのでしょうか?

誇り高き人が、「意地」になったりするでしょうか?
「意地になる」とは、波動の低いイメージがあります。

もし、プライドという言葉が、日本に入って来なかったら、人は「誇りから来る意地」だなんてものは、心に抱かなかったのかもしれません。
言葉には言霊があるようです。
「プライド」という言葉にもあるでしょう。

その言霊は、ひょっとしたら、あまり高い波動ではないのかもしれません。
ですので、「誇りから来る意地」だなんていう意味になってしまうのかもしれません。
仮説ですが。



私は日本人なのでよく分かりませんが・・・・・・

"Man  of Pride"という言葉は、”誇り高き男”と訳されるかもしれませんが、
空腹時に、自分より身分の低い人から・・・例えば、小さな子供から「はい」と言って食べ物を差し出されたら、前者は、やせ我慢をしそうですが、後者は、 「ありがとう」と言って、受けw取りそうなイメージがあります。

どうも、プライドは誇り高きない、ように感じます。


おそらく、明治以前の日本には、「プライド」はなかったのでしょう。
あったのは、「誇り」ではなかったのでしょうか?



「病原菌は入っているかもしれないが、アメリカのプライドにかけても、牛肉の輸出を再開してみせる」は、よく合った使い方のように感じます。

「日本の誇りにかけて、病原菌入りの牛肉の輸入を再開を阻止する」も、よく合った使い方のように聞えます。





「病原菌は入っているかもしれないが、アメリカの誇りにかけて、牛肉の輸出を再開してみせる」は、やはりおかしいです。
誇り高き人や国が、人様の国へ病原菌入りのものを輸出したりするでしょうか?


「日本のプライドにかけて、病原菌入りの牛肉の輸入を再開を阻止する」は、それほど違和感ありませんが、
元もとの文章が、
「日本国の誇りにかけて、病原菌入りの牛肉を国民に食べさせたりはしない」であれば、
「日本国のプライドにかけて、病原菌入りの牛肉を国民に食べさせたりはしない」だと、文法的にはあっていますが、どこか違和感を感じるかもしれません。
これだと、どこかに「意地」を感じます。



格闘技で「プライド」というのがあります。
これは「誇り」では、おかしいように思います。

「プライド」は、それを守るためなら、暴力を使っても良い印象があります。
「誇り」には、それを守るために、決して暴力を使わないような印象があります。


プライド」は、少なくとも、「誇り」より、幼い感じがしますが、みなさんはどうでしょうか?



こうして考えていくと、「プライド」という言葉は、資本主義的時代と共に、来るべきして来た言葉とも言えるかもしれません。


「プライド」は、上下があるような印象があります。
「誇り」は、あるかどうかすら問題にしていない印象があります。




おそらく、次の日本の姿は「プライド」を拭い去り、「誇り」を取り戻した姿かもしれません。


これは、きっと日本だけではありませんね。

雅子さんでも、巨人でも、清原選手でも、シャボン玉石鹸でも、・・・・・・次に蘇る姿は、「プライド」ではなく、「誇り」であるのかもしれません。
どうでしょう、良く分かりませんが。


何に「誇り」を持つのでしょう?
「創造主の分身」であること、というのは、かっこ良過ぎるでしょうか(照)?




シャープス&フラッツは、世界に誇れる ビッグバンドです。
「世界にプライドする・・・」とは言えませんね。

そうすると、第三者からでも、使える言葉、ということでもあるようです。

be proud of とか、英語なら言うのでしょうが。



ちなみに、英語で、原信夫とシャープス&フラッツを紹介するときは、原信夫&シャープス&フラッツというおきて破りの文法を使うのでしょうか(笑)?

原信夫とシャープス&フラッツでした。



1〜20   21〜40   41〜60   61〜80   81〜100   101〜120   121〜140   141〜160   161〜180 181〜200      
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クリスマスアルバムのコーナー                            

 

 

 

 

 

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