理由もなくこればかり聴いてしまうCDのコーナー

CDはたくさんあるのですが、なぜか、いつもこればかり聴いてしまうCDを紹介します。

 

 

1〜20   21〜40   41〜60   61〜80   81〜100   101〜120   121〜140   141〜160   161〜170

171〜180
181〜200      
201〜220   221〜240   241〜260   261〜280   281〜300                        
クリスマスアルバムのコーナー                            

 

 

161:Gershwin, Fascinating Rhythm,
Yehudi Menuhin, Stephane Grappelli
   
  クラシックのヴァイオリニストYehudi Menuhinと、ジャズのヴァイオリニストStephane Grappelliのデュオによる、ジョージ・ガーシュイン作品集です。

1973年から1988年までに吹き込まれた共演作品からのオムニバスのようです。

1988年に初めてCD発売され、私のものは2003年に再発売

ステファン・グランペリは、私の知っている限り、唯一のジャズヴァイオリン奏者です。
Yehudi Menuhinは良く知りませんが、有名なクラシックヴァイオリン奏者のようです。米アマゾンで検索しましたら、160作もヒットしました。
シタール奏者のRavi Shankarとの競演盤もありました。


ヴァイオリンのデュオですので、それぞれの美しい音質がはっきりと聴こえます。

両人共に、アドリブソロを取ります。
Yehudi Menuhinは、良く知らないので、はっきりとは言い切れませんが、譜面にしてあるフレーズではないと感じます。


また、彼はピアノも弾いています。
クラシックの演奏者というのは、指揮者を含め、大抵みんなピアノは弾けると考えて良いと思います。
(違ったらごめんなさい)
ただ、レコーディングにピアノで参加するところを見ると、きっと得意なのでしょう。

但し、クレジットを見る限り、どの曲でピアノを弾いているのか、良く分かりません。
ですので、演奏については、何とも感想が述べられません。


 曲目です。

1: Fascinating Rhythm
9: The man I love
2: Soon
10: I got rhythm
3: Summertime
11: He loves and she loves
4: Nice work if you can get it
12: They can't take that away from me
5: Embraceable you
13: They all laughed
6:Liza (All the clouds'll roll by)
14: Funny face
7: A foggy day
15: Love is here to stay
8: 'S Wonderful
16: Oh, lady be good

ガーシュイン大全集です。
しかし、ガーシュインは、本当に名曲が多く、いつまで経っても、知らない曲が出てきます。
ここでも、「He loves and she loves」等、いくつかの初めて対面する曲が入っています。


作品自体は、上品でありながら、軽やかさもあり、くつろいで聴くことが出来ます。
とても、良い作品だと思います。

自家製の”パンプキンパイ”をお客さんに振舞う田舎の喫茶店の映像が浮かんできます。
そんな作品です。
アップルパイではなく、なぜか、パンプキンパイなのですが。

どうやら、バイオリンのソロの音がパンプキンを連想させているようです。
ちょっと素朴な感じなのです。



さて、Yehudi Menuhinでも、だれも、クラシック奏者は大抵ピアノは弾ける、という話をしましたが、大抵、相当うまく弾けます。
もちろん、クラシックピアノということになりますが、彼のように、それ用の練習を積めばジャズなんかでも、それなりに弾ける人もいると思います。

但し、思います、としているのは、私の知っている限り、クラシックピアノを弾く半分くらいの人が、どうもアドリブをする、という奏法がなかなかうま く飲み込めないような体験があるからです。
クラシックとジャズの奏法が違うのは当然ですが、譜面に慣れていると、アドリブというものを体得するには、構造的にどこかむつかしいものもあるのでしょう か?

私は譜面がクラシックの人ほど読めませんし、ピアノを始めた時からアドリブでしたので、ここら辺が、よく分かりません。

逆を考えると、「あなたは、アドリブで譜面なしで曲を弾いているけれど、譜面があると弾けないのと同じ」と言われれば、そうなか?とも感じますが、少し違 うとも感じてしまいます。
きっとそれは、譜面を読める、ということへの憧れ、あるいは劣等感があり、対等に感じられないのが原因なのかもしれません。



本当のところは良く分かりませんが。
違う理由があるのかもしれません。
あるいは、本当に対等なのかもしれません。


ただ、同じ価値だとしても、対等と言う言い方が正しいかどうかは、疑問があります。
全く違うものとして、存在価値を認められて存在している、という言い方のほうがしっくりきます。
「それを対等と言うのではないか?」という意見もあるかもしれませんが、対等とは、「同じ存在の中で、同じ力量あるいは価値を持つことに対して言う言葉」 という感じがします。
みなさんは、どう考えるでしょうか?

料理に例えますと、ボルシチと寄せ鍋は、非常に似たような材料を使う料理ですが、どちらが上ということなく、全く違う料理として、存在を認められていると 感じます。



そして、対等とは、例えば、寄せ鍋に入っている、鶏肉と鱈のことを言うように感じます。

但し今考えていてふと思いましたが、この「対等」、「違う存在」は、カメラを思いっきりアップにした時の観察結果のようです。
料理と例えましたが、正確には実は料理ではなく、メニューとか、惣菜、おかず、などとした結果がこれのようです。
料理と考えれば、ボルシチと寄せ鍋は対等のように感じます。


同じように、音楽も、「アドリブ」と「譜面による演奏」が、違った存在、とするのは、「音楽」という引いたカテゴリーの話ではなく、「演奏形式」というよ うなことを考えたときの発想のようです。



そうしますと、なぜ、私は、そうまで、カメラをアップにして、「アドリブ」と「譜面演奏」を見たのでしょうか?
おそらく、違いを大きく感じているからではないでしょうか?

何に違いを大きく感じているかと言えば、「表現」というものだと思います。
譜面を見ての演奏は、他人と違った自分の表現をしようとする時、まず、譜面を変えてはいけませんので、そういう自己表現はできなくなります。
そうしますと、音の強弱ですとか、間、感情の入れ方、音質、などで表現することになります。
それに対してアドリブは、強弱ですとか、間、感情の入れ方、音質など以外に、自分で作ったメロディで自己表現する、ということになりますので、自己表現度 は大きくなりますし、多くの人にその違いが分かりやすくなります。



おそらくこの考えは比較的一般論に近いと感じますし、きっと私が初めてアドリブということに惹かれたときの理由もそういうことだったのだろうと感じ ます。
もちろんサブ的には、楽譜を読む勉強が嫌だったとか、いろいろあるとは思いますが。

ここまで考えますと、いろいろなことが浮かんできます。

実は最近、譜面になったものを、いかに譜面通りであって、自己表現をするか、あるいは違いを感じるか、ということに興味が出始めています。
アドリブは違いが分かりやすい、としましたが、この考えと言うのは、実は、「違いが分かるほど、耳が肥えていない」ということが生んだ気持ち、感情、好み であるとも感じています。

おそらく、私でも、年を重ねることによって、ちょっとは耳が進歩して、同じ譜面を弾いている演奏に対しても、「違いが分かる」ようになってきたということ なのかもしれません。
仮説ですが。

この場合の耳が肥えるという意味あいは、「音質」へではなく、「演奏内容」へ、ということです。



もしこの仮説が正しいのであれば、クラシックを小さい頃から学んでいる人というのは、幼い頃から、私などに言わせれば「僅かな違いが分かるように」という ような種類の音楽的教育を受けていたという訳ですね。

なかなかヘヴィなことだと感じます。

しかし、だからこそ、小さい頃からの勉強がクラシックには必要なのかもしれません。
ひょっとすると、この私などが言っている「僅かな違い」というものも、小さな子供の耳には、「僅か」ではなく、「ちゃんとした違い」として認識できている のかもしれません。
あるいは、ちょっと鍛えてあげれば、すぐに、「ちゃんとした違い」として、認識できる能力が付いいてしまうのかもしれません。

外国語の習得などに関しても、小さいころからやっているほうが、発音などについては、絶対的に良いようですので、これはきっと言えているのいでしょう。



しかし、この例だけではなく、小さい頃にやると、多くの効果が出る、ということはたくさんあるのですが、一体全体なにがそれほどの違いを起こすので しょうか?
一般的には、子供は頭が柔らかいから、などという言い方がされます。
右脳をうまく使っているから、という言い方をする時もあります。
先入観がない、ということもあるでしょうし、素直である、という言い方もできるでしょう。



違う発想をしてみます。

効率の良い学習法というのはいろいろ言われていますが、例えば、政木和三さんの学習効率をアップさせるという機械アルファーシーターの原理が以下の通りで す。
右脳に入った情報が左脳に移る時と、いつでもその情報を取り出せる「暗記」した状態になる。
右脳から左脳にスムーズに情報を移すためには、その間にある抵抗であるストレスを少なくすると良い。
そのためには、脳波をアルファー波、シータ波にすれば良い。
よって、左右の耳から適切な周波数の音を流すことによって、その状態を作り出す。

というものです。



関英男さんの「必ずうまくいく最強の心理学」には、学習50加速法の中のひとつの方法として、ヨーガを応用して、筋肉をリラックスさせ、心を静め、 脳波をアルファー波にすることにより、効率良く学習する方法が掲載されています。

これらを見ていますと、アルファー波、シータ波が良いようですが、としますと、子供の脳はと言うものは、基本的に常時あるファー波やシータ波の状態にある のかもしれません。



「必ずうまくいく最強の心理学」(20004年発売:初発行はきっと80年代か、90年代初め)の95ページには、次のようなことが書いてありま す。

『これから受ける試験がどのような種類のものであれ、それがあなたにとって大切であればあるほど、その日が近づくにしたがって、あせりや不安感がつのるも の だ。心のかたすみに試験にことがひっかかり、食欲はなくなり寝つきも悪くなる。何をしても楽しめず、うわのそらになってくる。「あのとき遊ばなければ」 「もっと勉強しておけばよかった」と後悔し、最後の仕上げをしなければという気持ちだけが先行し、机に向かっても何も手につかないのである。
これでは、コンディションを崩すし、自信も喪失する。戦わずして勝負は見えている。試験に落ちる人というのは、だいたいここでつまずくといってもいい。
だが、これはナンセンスである。悩んだり、後悔したからといって状況が好転するわけではない。
そこでちょっと視点を変えて考えてみよう。この試験直前のあせりの状態は、勉強、試験に最適であるアルファ脳波状態とは正反対なのである。』
 
(以上)
として、以下、アルファ波を出す方法が述べられているのですが。



この短い文章では関さんは、「あせり」、「不安」と言うものを、ストレス要因の一例としてあげているようです。

確かに子供には「あせり」、「不安」というものは少ないかもしれません。
失敗した後のことを現世的なさまざまなことに結びつけたりしませんし、通常小さい子供は、信頼している大人になら少しくらい怒られても、ニコニコしていま すし、それを見た大人は、普通必要以上には言いません。



これが、大人になると、そうは行きません。
「失敗したら」を考え出すと、きっと頭が中途半端に良い人ほど、さまざまな妄想をして、いっそう不安を増大させたり、怒られてニコニコなんてしたものな ら、「何を笑っているか」とやられてしまいます。

特に、「地の理」である競争原理社会においては、おそらく人として必要以上に「あせり」、「不安」を持っているものでしょう。
「地の理」の弊害はこれだけではなく、私はもっと大きいところにあると感じていますので、その理由において、「地の理」の排除は必要だと考えています。
ただ、ここでは、それは取り上げず、「あせり」、「不安」ということに焦点を絞ります。

これらをして政木さんもストレスと言っているのだと思います。
そして、それは、勉強ということに対して有害であると。



私はこれら「あせり」「不安」を持たない方法として、それらを誘発するもの、つまり社会、世間、人というものとできるだけ、関わらなければ良いのではない か?と思い、実際、そうしていた時期もあります。

しかし、それでも消えたりしません。
それは、社会、世間、人というものがそもそも、「あせり」「不安」の原因ではなかった、ということなのかもしれません。

それでは、何でしょう?



我欲はどうでしょうか?
今の”感じ”では、これはありえるように思います。
仮説ですが。
政木さんがよく言う、「欲を捨て.....」を考えても、それが脳波をアルファ波、シータ波にすることから妨げているようですので。
私が社会、世間、人を遠ざけたのも、基本的には、「我欲」を何とか遠ざけるためであったかもしれません。
しかし、そのやりかたはどこか焦点をはずしていたのかもしれません。

つまり、いくら社会、世間、人を遠ざけても、それだけでは、我欲を少なくすることはできない、ということなです。
我欲の少ない「社会」、「世間」、「人」と付き合うようにする、ということは、我欲を減らし、ストレスを減らすことに繫がるでしょうか?
これも言えるかもしれません。
私がハワイの田舎が好きだったりするのは、無意識に、そう思っているからなのかもしれません。



ただ、いずれにしろ、日本に住み、社会生活を行っている以上は、そうそう「社会」や「人」を選べるわけでもありません。
とすれば、やはり自分の考え方をできるだけ、我欲の少ない状態にキープしておく、というのができうる最善の方法ということなのかもしれません。

そして、その上で、我欲の強い人、地の理で平気で動ける人などからの影響を受けず、ひっぱられないようにしつつ、きちんと社会生活を歩んでいく、というこ とができることが、望まれることなのでしょう。

それがもし可能なら、人は子供の時のように、生命体の力を十分に発揮できるような存在となれるのかもしれません。
いつでも、語学でも、音楽でも、学びたいときに学べばよいようになるのかもしれませんね。





どうもそうしますと、世間ではストレスは「乗り越えたり」、「打ち勝ったりする」ものということになっていますが、そうではないのかもしれません。
それは、どこか「我欲」を「我欲」で押し返しているようなイメージがあります。



であれば、「ストレス」は、きっと「スルー」するものなのかもしれません。
バイパスとでも言いましょうか。ワープするとでも言いましょうか。

日本語で言うと何でしょう?

「無視する」、ではないようです。
「通り抜ける」でしょうか?違うようです。
「現状から、ストレスをスルーして、目的地につく」、という文章にするならば、なんでしょうか?
「瞬間移動して」でしょうか?少し良くなったようです。

「現状から目的地に直結する」というのは、かなり良い表現のようです。
この文章は『「原因の世界」と「結果の世界」の間にあるフィルターを透明にする』というものと、どこか似たようなものを感じます。





そう考えると、ストレスの正体は、「フィルターの色」であり、「我欲」であり、「地の理」そのものであるかのようにも、思えてきました。
これは、少しうがっているかもしれませんが、あながち大きく違っているということもないように感じます。
みなさんはどう思うでしょうか?




私事ですが、遠隔波動診断や、気功師さんに「優しいから、心が痛む」というようなことを言われた私は、「優しさ故の我欲」というものがあるのかもしれませ ん。
全ての人間に対して、「あるがままのその人を認める」、ということが、できていないのかもしれませんし、「優しいと人から言われる自分」を認めていないの かもしれません。



それは、船井幸雄さんのある文章を読むといつも、心がハングアップしてしまうことからも何となく分かります。
いろいろなところに書かれていますが、「幸運と成功の法則」(2004年発刊)の25ページではこうなっています。

『人間には「類友の法則」があって、似たもの同士は集まってくる傾向があります。だからつきのある人のまわりには、同じようにつきのある人が大勢いるもの です。したがってその人ばかりでなく、周囲に目を向けることも大切です。
一つの問題は、あなたにもしつきがなかったとすると、あなたの周囲には似たような人が集まってくることです。そういう人たちとの接触は極力避けなければな りません。つまりつきのない人は、類友の法則を自分でいったん破る必要があるのです。
つきのある人がツキのない人を快く歓迎するかという疑問が生じるかもしれませんが、それはまず大丈夫です。つきのある人はかならず肯定志向のできる人です。つねにプラス発想をします。だから人相がよく なるのです。そういう人は、たとえつきのない人にも他の人と同様に広い心で接してくれるはずです。』

(以上)

「つきのない人とつきあわないようする」というのは、何となく良く分かります。
ただ、ボランティア活動などは、どう定義すればよいのだろうかなどと思ってしまいます。
彼ら(被ボランティア側)も、長いスパンでみれば、どうだか分かりませんが、短いスパンでは、「つきのある人」とは言えないのが普通だと感じます。

こういう種類の葛藤があり、私の場合は今までの人生では、これがうまくできません。

みなさんはどうでしょうか?どう思いますか?


人柄に問題がある人とは、えらい人とでも簡単に離れることができたりします。
ですので、派閥関係のきつい会社などでは、いつもうまくいきません(笑)。
しかし、それに対して、「心はとげとげしていないけれど、うまくいっていない人」などには、必要以上に優しくしてしまったりしています。
運がうつるものであるなら、きっと良いこととは言えないでしょう。

どこかで無理をしているのかもしれませんし、かっこう付けているだけかもしれません。
実際のところは良く分かりません。



きっとこれを「宇宙の理」の範囲内で、うまく出来るようになったなら、何かが変わるような気がします。
運命変更とまでは、いくかどうかは分かりませんが。
仮説です。

みなさんは、うまくできているでしょうか?



以上、ヴァイオリンのアルバムでした。 
とても、良いアルバムです。



 

162:International AIRPORT, FREDERIC DARD & HIS ORCHESTRA
   
  Jalが作成したCDです。
ロンドン、アムステルダム、パリ、ローマ、成田などの国際空港の案内アナウンスとイージーリスニングミュージックがジェットストリーム調で収められていま す。

曲目です。
 
1:80日間世界一周

7:悲しみは星影と共に
2:マスカレード

8:シェルブールの雨傘
3:ア・ソング・フォー・ユー

9:哀しみのソレアード
4:追憶

10:エーゲ海の真珠
5:ブルー・ハワイ

11:エーデルワイス
6:愛のテーマ

12:ミスターロンリー

と、書いてスクロールしたら、ちゃんと曲目の分かる写真が貼られていました。
すっかり忘れていました。
  演奏しているFREDERIC DARD & HIS ORCHESTRAというバンドは、私は聞いたことがありません。
聴くではなく、聞くと書きましたので、「名前を聞いたことがない」ということなのです(笑)。
この手の作品で、しかも、こうなりますと、演奏の方は、期待できないことが多いです。
どこか、やっつけでアレンジして、録音されてようなものがあったりします。
しかし、このアルバムは、ちょっと違いました。
なかなか演奏も良いようです。 
大抵、この手の作品(2度目)は、スタジオで臨時編成のバンドで演奏され、いいかげんな名前しかも、あるかどうかも分からない外国人の名前を付けたバンド だったりするのですが、演奏もなかなか良く、ひょっとしたら、どこかの国では有名なオーケストラなのかもしれません。


     

購入する時も、実際、空港のアナウンスが聞ければいいや、と思っていましたので、演奏は期待していませんでした。
逆に、良くても、悪くても、まったく関係ない、と心底思えていましたので、万一演奏が良かったら、得した感じがするだろうな、と思っていました。

しかし、何にしろ予想に反して、良い演奏です。
1985年の発売ですので、バブル真っ只中か、前半といった頃ですね。
きっと、お金があったので、こういうアルバムになったのではないかと感じます。

ちなみに、
企画:全日空
製作・発売元:ジェットストリーム
販売元:クラウンレコード
となっています。

「愛のテーマ」は、ラテン調で演奏されています。
もともと16ビートですが、16ビートの曲というのは、どこかリズムがラテンに似ているところもありますので、ぴったりはまっています。
この曲なども、アレンジ、演奏、録音とも相当しっかりしています。


さて、空港と言うと、思い出すのは、私はここ何回かハワイへ行くと、変な病気というか怪我というか、そういうのに続けてあっています。
旅自体は至って快適なのですが。

まず、3回前は、行く1日前に、バッテングセンターで腰を痛め、旅の前半(一ヶ月くらい)は、腰がどうしようもない状態でした。

2回前は、これも変なのですが、飛行機に乗っている間ですが、ジーンズを穿いていたのですが(はく、はこの字が正しいようです)、右ポケットに鍵が入って おり、どうもそこが腿と接触していて、そこからなぜか、皮膚が炎症を起してしまいました。
こんなことは、日本にいる間は一回もありませんのに。

1回前は、飛行機に乗っている間に、左耳の後ろの首の所にものすごくおおきなできものが出来てしまいました。
その予兆は、少し前にもあったようなのですが、それほどひどいものではありませんでした。
結局、帰国後、本当にものすごく大きくなってしまいましたの、病院で切りました。
もっとも、私はどうでもいいや状態でしたので、ほっておいたのですが、正月に会った妹に「行け」と言われ、しぶしぶ行ったのですが。
病院でも、「これは珍しい」、ということで、写真まで取られてしました。
入院はしませんでしたが、毎日来てください、と言われ、結局2週間くらいほぼ毎日通いました(土日は緊急窓口)。

しかし、こういうのは不思議なもので、耳の後ろですので、私には鏡で見ても、ほとんど見えません。
そうなりますと、気にならないものなのですね。
見えると、本当はどうでもいいこともまで、気になりますし。

どうもスーパーボール(古い!)くらいは楽にあったようです。


さて、どうして、こうなるかということを考えますと、一般的な回答としては,「緊張が解けたので、」ということだと思います。
船井幸雄さんもよく、「年末に病気になる小売業者はいない」というようなことを言っています。小売だったか何の業種だったか、よく覚えていませんが、要す るに、気が入っていれば風邪等の病気などしないものだ、ということなのなのだと思います。

きっと、そうなのだと思います。

他にどういう可能性があるかと考えて見ますと、運の法則的に見れば、その怪我のお陰で、旅行中に、他の災いが起こらず無事にいってこれた、ということもあ るかもしれません。
良くは分かりませんが。

何か想念で、「怪我」のようなものを思っているのでしょうか?
つまり、楽しいことがあれば、違うこともある、というような?自分ではないつもりですが。

「セスは語る 魂が永遠であるということ」(ナチュラルスピリット社:1999年発行)を今読んでいますが、そこでセスは「例えば善に対して悪というよう な対立となる概念は人間が作り出している。理論的に理解するために、分かりやすいようにそうしているのだろうが、それはいけないことです。
悪の存在を信じていれば、それを知覚することになる。善を信ぜよ、悪 の存在を信じることなしに、ということです。」
というようなことを言っています。

とにかく長い本なので、対立の概念につていのところの一部分だけ引用してみます。
(「セスは語る 魂が永遠であるということ」(ナチュラルスピリット社:1999年発行)306ページより引用)
『知性はこうも言います。「もし善が存在するのであれば、そこには悪も存在するはずである」と。なぜなら知性は、物事を見た目よく分類したうえで説明をつ けたいと思うからです。上昇があるのなら、そこには下降もなくてはならないというような、知性にとっての「釣り合い」が求められるのです。しかし内なる自 己は知性よりはるかに壮大な見地から、悪とは単なる無知にすぎず、「上」と「下」という言葉は、本来そのような方向性が意味をなさない空間に小手先だけで 付与された名称であることを知っているのです。』
(以上)

このような感じです。
顕在意識上、確かに、いくらかはそういうところはあるかもしれないと感じます。
潜在意識までいくと、どうも偏差値教育下で教育された身ということもあり、相当有るのかもしれません。
何せ潜在意識ですので、良く分かりませんが。



308ページではこう書いてあります。
(引用)
『世界を変える試みは「みずからの現実は自分の確信や信念の本質に忠実に創造されている」さらに「ありとあらゆる存在はすべて神聖である」そして「ありと あらうる存在のすべてに悪は存在しない」というあなたがたの根本概念の上に成し遂げられるのです。もし、これらの概念が、個人レベルと集合レベルの両方に おいて受け入れられたあかつきには、あなたがたの体の感覚器官のもたらす情報にも、もはや矛盾を発見することはできなくなるでしょう。世界とありとあらゆ るすべての存在は、善として知覚されるようになるのです。』

船井幸雄さんは「これから10年大予測」(2004年発行)の181ページで下記のようなことを言っています。
(引用)

『私は、この幽界というものは人間のDNAの嫉妬のスイッチがオンになったために、われわれの想念によってできたものだと考えています。
人間存在の本質である魂は、常に「原因の世界」であるフォーカス35にありますが、いまは3次元にいる人間のエゴが強いために、「結果の世界」と切り離さ れてしまっているのです。一般に死んであの世に行くといいますが、実は、われわれの魂の源はもともと「原因の世界」にいますから死ぬというのは、そこへ 帰っていくということなのです
この「原因の世界」の出来事を「結果の世界」であるこの世に投影するのを妨げてい る部分をなくするか、変えることができれば、そのまま現実世界の運命をよいほうに変えることができるはずです。
(以上)

これとセスの言葉をあわせて考えると、なるほど、無意識にせよ、対立するものの存在というものを、自ら作り出しているのかもしれない、とも思いま す。

確かに上下というものは、嫉妬というものの存在と 密接なようにも感じますので、この上下概念も、大昔のパラダイスだった地球をそうでないものへ変 えてしまったことの大きな要素かもしれませんね。


ただ、私がハワイへ行くと変わった怪我などをする、ということが、これと関係があるのかどかは、よく分かりませんが。
きっと、気が抜けるからでしょう。


ただ、もうひとつの可能性というか、関連する可能性として、気が抜けるので、何かマイナスの気を受けやすくなっているからではないか?ということも考えら れます。

先日立ち読みした、中村天風さんの本に、そういうマイナスの気を受けやすい人がどうすると良い、ということが書いてありました。

それには、「そういうマイナスの気が来たら、心で受けず、腹で受ける。その時、腹の筋肉に力を入れて、肛門を閉めて、肩の力を抜いて、肩が落ちるよ うにする。決して肩は上がらないようにする」、ということが書いてありました。

いかがでしょうか?


JALでした。





163:L'AMOUR EST BLEU EL BIMBO,
LE GRAND ORCHESTRE DE PAUL MAURIAT
   
  ポールモーリアのベスト盤です。

曲目です。

1:恋はみずいろ
9:涙のトッカータ
2:オリーブの首飾り
10:フィーリング
3:エーゲ海の真珠
11:愛のカフェ・テラス
4:薔薇色のメヌエット
12:アイ・ライク・ショパン
5:天使のセレナード
13:シング
6:恋のシャリオ
14:愛するハーモニー
7:スリラー
15:マミー・ブルー
8: 渚の別れ
16: 明日に架ける橋



ポールモーリアはいくつも持っているのですが、4:「薔薇色のメヌエット」、がどうしても聴きたく購入しました。
他にも、いくつか、ポールモーリアでは、聴きたいトラックがあるのですが、うまい具合に、ほしい曲だけ入っているものにはめぐり逢えません。


 と、言いますか、きっと、うまい具合に、人気のある曲というか、貴重なトラックは、重ならないように作っているのでしょう。
8: 「渚の別れ」、も、どうしてもほしかったトラックのひとつです。
他には、「ピアノスター」、「ポールモーリアのR&B」、「追憶」、ディスコアレンジの「恋はみずいろ」、「シバの女王」、「エーゲ海の真珠」な どです。
ディスコアレンジの「シバの女王」、「エーゲ海の真珠」は、ひょっとしたら、どこかにあるかもしれません。
というくらいですから、本当に聴きたいのかどうか、定かではありませんね。


今でもポールモーリアは人気がありますが、30〜20年くらい前はポップス・アーティスト並に人気がありました。
シングルレコードなどもリリースしており、「薔薇色のメヌエット」は、物心付いてから、はじめてのリアルタイムのシングルヒットではなかったかと思いま す。

とにかく、ストリングスが、引き立つ曲で、なんとも言えない上品な感じ と、昔どこかで聴いたことがあるような、親しみを覚える曲で、とても好きでした。
チェンバロが効いたバロックを思わせる曲調は、とても品の良さを感じさせます。

作曲はポール・モーリア自身だそうです。
演奏、編曲もすべて自分ということですので、あり様としては、クラシックなどと同じような感じですね。

今思うと、モーツアルトの「アイネクライネ・ナハトムジーク」あたりを彷彿させる曲調だな、と思います。
LPレコードのライーナーノーツにも、「モーツアルトのメヌエットを思わせる・・・・・・・と書いてあったように記憶しています。


ただ、当時小学生くらいだった私には、そのような知識はありませんでしたが。
ちなみに、原タイトルは「メヌエット」です。




それからしばらくして、中学生になり、ビートルズの「エリナー・リグビー」を聴いて好きになり、「ああ、ストリングスっていいな」と思ったものでした。

その後、いろいろなオーディオでレコードやCDを聴いていますが、今思いますと、大学生位の時、自宅の4畳半くらいの部屋で、友人から借りていたパイオニ アの小型スピーカーで聴いていたストリングスが一番好きな音であったような気がします。
感じとしては、車の中でカーステレオで聴いている感じに似ています。

そう言えば、パイオニアは昔、「福音電機」と言ったようですね。中古のオークションを見ていると、良く出てきます。

カーステレオの音場は、好きです。あの環境ですと、音に包み込まれているような感じがします。





音の再生方式というのは、いろいろあります。
昔は4chステレオというのがありましたし、今ではサラウンドというのが流行っています。

中学生のころ、私が欲しかった独自の再生方式というのは、なかなか変わっています。
要するにミックスダウン前の元のテープのようなものがメディアで、再生には、16個とか、24個とかのスピーカーを使うというものです。



まず目の前に、24個のスピーカーが横に並んでいるのを思い浮かべてみてください。


スピーカー達↓

1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24

 



聴く位置

 


このような感じです。


例えば、ポールモーリアを聴くならば、自分で、ストリングスは1と23、ドラムは12から16、ベースは11、ピアノは17,18・・・・・・・というよ うに割り振れ、ボリュームもスピーカー毎に決められる、というものです。

もちろん、スピーカーの配置を円のように丸く囲もうが、どう置こうが聴く人の自由です。



たとえば「We are the World」のようなものをこの方式で録音して、発売すると、右後ろからブルース・スプリングスティーン、右真横からマイケル、左前方に、ディラ ン、・・・・・・のように聴くことができるというものです。
もちろん、今ある「We are the World」は、1トラック1人というように録音されてはいませんので、録音から作り直さねばなりませんが。


これは楽しめます。ピアノコンチェルトなどを聴くときは楽しいです。きっと。
ピアノの音だけ大きくしたり、バイオリンの第一バイオリンの人だけ聴いてみたり・・・・・。




キャンディーズ・・・・古いので、モーニング娘くらいにしておきますが、すると、特定の好きな娘の声だけにして聴いたりもできます。

欠点は、スピーカーの配線が大変なことになるというものですが、それ用の絨毯を開発すれば良いと思います。
少し高さのある絨毯を作れば、その下に配線できます。


それと、録音の際に、ある程度きちんと演奏者を隔離することが必要で す。
でないと音が混じってしまいますので。

デジタルMTRなどをプレーヤーとして使えば、今ならできますね。
そういうソフトを作って売るとどうなのでしょうか?

私は買っても良いですが。
みなさんはどうでしょうか?

今の民生用16トラック MTR
昔の業務用16トラック MTR



イメージ図


                   


MTR



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講演会やライブのビデオなども、ちょっと変わったものを作ると面白いかもしれませんね。
DVDでは、編集済みの映像と、プラスして、アングルの変わった映像を入れることが出来ます。

一つは通常のもので、もう一つは舞台からの演者の視線で取ったものを入れたりすると面白いかもしれません。
ビートルズなら、「ポールの視線」というアングルがあったりして、「あ、今ポールがこっちのほうを見ている。こんな感じなのか」となったりします。



こういう案もあります。
DVDなどでチャプターを選べますが、自分でストーリーを選べるようにする、というものです。
例えば、当初男女の恋愛話でスタートします。
途中でチャプターの選択になります。そこには例えば、「彼女の留学」、「幸せな結婚」、「彼氏の浮気」などという項目があり、選べるのです。
これは比較的簡単ですので、きっと近いうちに誰かがやることでしょう。

更に飛躍するのなら、まったく同じストーリーで、途中のチャプター選択になり、その後現れる彼女の女優の選択ができる、というのも、面白かもしれません。
まったく同じストーリーでなければなりません。
5通りくらい選べると面白いですね。

みなさんは、どう思うでしょうか?





私はリレー小説と言うのを、以前のウエブサイトでやりました。
谷山浩子さんがやっていたのをまねしたのですが。
要するに掲示板があり、任意で、書きたい人が小説を書き足していく、というものです。
私のはあまり栄えませんでしたが、これなどは、なんともいえないライブ感があり、私は好きです。


今私がリレー小説をやったら、一般の人が読んだなら、さながらオカルトじみたものになってしまうでしょうか?
アルファシータを使って、東大に入学した、なんてストーリーがでてきてしまうかもしれませんね。
(当時は北方健三さんに凝っていたので、”アルファロメオがどうした”なんてことを書いていましたが:笑)






「セスは語る 魂が永遠であるということ」(ナチュラルスピリット社:1999年発行)を今読んでいますが、翻訳もののせいでしょうか、なかなか読み慣れ ません。
翻訳している人は、こういう話に詳しい人のようですので、訳的ということではないようですが。

そこには、まだ理解不足ですが、このようなことが書いてあります。
「たとえば、今あなたが友人から誘いの電話があって、”行く”と返事したとします。
しかし、その間にあなたの頭の中で、やめようか、ということを少しでも 考えたとしたら、それはそれで、そういう選択肢を選んだ場合のストーリーが、同時に動き出しています」
というような感じです。

要するに、思ったことは、選んだこととは別で、あたかもそれを選んだのと同じような現実が、裏では進んでいる、ということなのだと今のところは解釈してい ます。

やや自分の解釈(文章的にも、内容的にも)に自身がまだもてないのですが、それはそれで途中経過として書いてしまいます。
もし私の解釈が正しいとしても、今のところ、それでどうなるのだろうか?というところまでは分かっていません。
少し深く解釈すれば、それほど思いというものは、大きな意味を持っているということなのでしょうか?
今のところ、良く分かりませんが。





裏側のストーリーということを思うと、星新一さんのショートものにも、どうにも心から離れないものがあります。
「門」というものです。
ある門のある家があり、そこにはたえず、何の関係もない、いろいろな人が出入りしているのですが、行くたびに、主人、奥さん、お手伝いさんなどが入れ替 わっ ています。
だれと入れ替わるかと言えば、たえず入れ替わっている、縁もゆかりもない人なのですが。
そして、その人たちが、主人、奥さんなどの役になると、実に、その役になってしまいます。
主人公は、一度目は主人で、二度目に来た時には、主人にお金を借りに来る少し出来の悪い親戚か何かになります。

立場が人を作るとも言われるときがありますが、まったくその通りのようなストーリーです。

実際問題そういうところもあるかと思いますが、どうも実際はそれだけでもないようですね。
主従どっちであろうとも、どう見ても、その立場が似合っていない人もいます。

似合っていなくても、うまくやっている人もいれば、似合っていても、そうでないこともあるのかもしれません。
前者は見たことがありますが、後者は良く分かりません。



もし仮に立場が人を作るとしたら、それはなんでしょうか?
責任感でしょうか?
それとも、うれしさや、満足感でしょうか?

あるいは、そういう運命に流れているから、ということでしょうか?





良く、ナポレオンなどの知将が、現場の人間を選ぶ際に、ポーカーなどの賭け事をやらせて、運の良い人間を決める、という話を聞きますが、あれも、一理があ る、とは思いますが、実際は、運が来ている人をナポレオンなどが選んでいたのか、選ばれた人に運が流れていたから選ばれたのか、なんとも、微妙なところで す。
同じことだと言えばそうとも思えますが。




今テレビで鯨のベーコンが、振舞われてれています。
2センチ×10センチくらいです。
石川亜佐美さん(好み)は、初めて食べるそうです。
「おいしい」と言っています。

私が幼少の頃は、もっと新鮮なもので、5センチ×12センチくらいあるものを、10枚20枚と昼食のおかずで食べていました(笑)。
幸せを、30年も過ぎてからでないと分からないところを見ると、私はもう少し修行が必要なようですね。

それとも、これこそが幸せということでしょうか?
そうかもしれません。


ポール・モーリアでした。


164:MOZART CLARINET CONCERTO CLARINET QUINTET
   
  曲目です。
1:モーツアルトのクラリネット協奏曲イ長調K. 622
2:クラリネット五重奏曲イ長調 K. 581

です。
1は、クラリネット:ポールメイエ
ディヴィッド・ジンマン指揮、イギリス室内管弦楽団で、1992年の録音。
2は、クラリネット:アルフレート・プリンツの在籍するウィーン室内合奏団の演奏で、1979年の録音です。

いずれも、録音の日付が2日に渡って書いてありますので、何か他のアルバムに収録済みのものだと思います。
もちろん、1000円のシリーズですので、大抵そういうものですが。

私は、こういう音楽は以前はぜんぜん聴きませんでしたが、ちょっと聴いてみようと思い、聴いたところ、ファンになってしまいました。
もともとクラリネットが好きであることも理由かとは思いますが、モーツアルトのクラリネットものは、なかなか良いです。

 私はジャズのクラリネットはピアノ、サックス、ビッグバンドと同じくらい聴きますが、ジャズで使われているクラリネットのエッセンスの80%は、 このモーツアルトにあると言っても、少しだけしか言い過ぎではないようです。

クラリネットの魅力はやはりあの木管が奏でる柔らかい音色だと思います。
バラードを奏でれば素朴な感じをかもだし、スイングものでは、ほのぼのとしか雰囲気を奏でます。
ただ、スリリングさのようなものは、やや苦手な楽器ですが、それは無理する必要はないのだと思います。
金管楽器では、逆に、ほのぼの、素朴さというものはなかなか出し難いですね。

ピアノなどでも、素の音では、素朴さのようなものはなかなか難しいように感じます。
どこか品の良さが強すぎます。
ですので、ラグタイムというか、ホンキートンク・ピアノでは、チューニングが狂ったややコーラス効果のような音色を感じさせるピアノがしっくり来るので しょう。


もちろん,こういう感覚は「一般的」な感覚であり、主体は聴く方の耳と感性ですが。



これは、食べ物と同じですね。
よく、とんかつにソースか醤油か、唐揚げにマヨネーズを付けるか付けないか、などとテレビなどでやっていますか、当人がおいしいと思えばそれでいいはず です。

もちろんモノによっては作法というものもあり、いろいろ言う人もいますが、船井幸雄さんなどは、「できるだけこだわらない方が良い」、とよく書かれていま す。
まあ、そうなのでしょう、と思います。

作法にこだわるというのは、どういうことかなと考えますが、私は最近はほとんど作法にこだわらなくなってきましたが、こだわっている時は、どういう感覚 だったかと言いますと、なんとも言えない優等感のようなものに包まれます。
私だけかもしれませんが。
あるいは、私のような庶民だけかもしれませんが。

思い起こすと、何も知らない青二才が、初めて知ったことを自慢げにやっているのに似ていたのかもしれませんね。
幼児なら可愛いですが、ある程度年齢(20歳以上)がいった大人やっていると、いやみのあるインテリという感じがします。
そういう人に限って、本物を知らなかったりします。

作法と、「こんにちは、さようなら」というようなこととは、また別のもののように感じています。
ですので、「決まり」が全て悪いとは言いませんが。

常識と良識も違いますね。
どう思うでしょうか?

そう言えば、池田邦吉さんだか、江原啓介之さんだれかの本に「こんにちは、さようなら」の話が載っていました。
どの本のどの部分だか定かではないので、裏覚えで書いてしまいますが、
「こんにちは」は、「今日は、御機嫌よう」、「今日は、ご機嫌いかがですか?」
ということで、
「さようなら」は、「左様ならば良いことです」、「左様ならば、良い一日をお過ごしください」のような意味だったと思います。
裏覚えなので、かなり怪しいです。
50%以上はあっていると思いますが。

また、見つかりましたら、記載します。

常識で何となく言っている言葉でも、かように、、元の意味が分かると興味深いものですね。

そう言えば、先日の船井幸雄.COMに、こんなことが書いてありました。


(http://www.funaiyukio.com/webbana/index.htmlより、引用)

船井:僕は「氣」をやっているのですが、氣から見て大きく男性と女性の違うところがあるんです。男性 というのは女性からしか氣をもらえないんだけど、女性は自然から氣をもらえるんです。男性は女性に触って、はじめて氣をもらうことができる・・男は女の人 に触りたがるんだけど、あれは痴漢じゃなくて体質からいって仕方のないことなんだよ。だから年を取ってから奥さんがなくなると男っていうのはすぐに死んで しまうんです。だから、女の人の方が本質的に強いね。

そうなのか、と思いました。
きっと、本当なのだと思います。

まず、男性は、自然から氣をもらえないものなのですね。
初めて知りました。
もちろん、気功などで、送ってもらう場合とは違うのでしょうが。

そして、男性が女性に触りたがるのは、性的な意味合いだけではなく、こういう意味もあったのだな、と感激しております。
見方を変えれば、「それこそが性的意味だ」とも言えなくはないのかもしれませんが、やはり性的意味とは、少し違うように感じます。
触っただけでは子どもはできませんので。

自分の経験で行くと、確かに、女性と触れ合っていることが多い時期というのは、運が良いことが多いようにも感じます。

また、この説から、女性のほうが寿命が長い、ということが理論的に納得できます。
英雄が、色を好むのも、納得させられます。
私など、スケベと言われるのが嫌なので、必要以上のことはしませんし、そうでなくとも、「あいつはなんと言う精力絶倫さなのだ」と思ったりすることがあり ますが、そう考えると、連鎖反応的で、女性から氣をもらうから、元気になって、また、違う女性から氣をもらいたくなるのでしょうね。

ここらへんは不思議で、食べ物などは、おなかが空くと食べたくなりますが、氣に関しては、そうではなく、氣が充満していたほうが、より氣をもらいたくなる ようですね。


世の中には知らないことが、まざまだたくさんあるようです。



知らないことと言いましても、こういうものにも、森田健さんが良く言う「上位」と「下位」があるのかもしれません。
分かりませんが。

さながら作法などは、「上位」のものでしょうか。
船井さんが言っていることの方が、作法よりは「下位」と言えるのかもしれません。
根源的にという意味からですが
女性と男性の関係はこんな風になっていたのか・・・・と。
もちろん、これしきのことが「下位」であるかどうかは分かりません。
船井さんも言っていますが、氣の見える人には、当然のことのようですので。


いずれにしても、もし仮に、知らないこと、にも、上位と下位があるなら、こちらも、「上位」の知らないことというのは、知らなくとも良いことになる のかもしれませんね。
分かりませんが。

確かに、作法の内には、そういうことが関係あるような立場にならない限り知らなくともよいこともあります。



森田さんの言う「上位」、「下位」とは、根源的であるかどうかということのようです。
半分より少し多目くらいに分かります。

「どうすれば、英語がうまくなるのか?」というのは「上位の問い」でしょう。
ただ、森田さんの言う「私は誰か?」、「どこから来て、どこへ流れていくのか?」、「時空の全てを知りたい」というもの以外に、例としてでも良いから、何 か一つでも、これは間違いなく「下位の問い」である、というものを挙げられるか、と言えばなぞです。

みなさんは、挙げられるでしょうか?

「なぜ、男性は女性に触りたがるのか?」というのは、「上位の問い」でしょうか?
良く分かりません。
みなさんは、どう思うでしょうか?



これらはどうでしょうか?私は興味はありますが、「上位」だか、「下位」だか、分かりません。

「なんで男性は女性からしか、氣をもらえないのだろう?」というのは、どちらでしょうか?

「なんで守護霊はいるのだろうか?」というのは、どちらでしょうか?

「なんで、普通の人には霊が見えないのだろう?」というのはどちらでしょうか?

「どうして、裏の世界があるのだろう?」というのはどちらでしょうか?

「どうして、多くのものに陰と陽があるのだろう?」というのは、どちらでしょうか?

「なんで、前世の記憶が蘇らないようにするのだろうか?」というのは、どちらでしょうか?

「時空は何を考えているのだろうか?」というのは、どちらでしょうか?

「時空は、何をしてほしいのだろう?」というのは、どうでしょうか?



みなさんは、「これは、間違いなく下位の問いだ!!」というのを、興味あるなしに関わらず、言うことが出来るでしょうか?
わたしはどうも、今のところ、森田さんの言う3つ以外に、自分では、「これだ」と断言できるものを、言うことはむつかしいようです。

きっと、断言できるようになった時には、「下位の問い」を持っているのでしょう。

ただし、森田さんの言う3つ以外には「ない」という可能性も、あるかもしれませんが。
みなさんは、どう思うでしょうか?



165:PANORAMA・wolfgang amadeus mozart
   
  モーツアルトです。

曲目です。

cd 1

cd 2
1-3: Clarinet Concerto, K622

1-3: Concerto for Flute and Harp, K299
4-5: Piano Sonata in A major "Alla Turca", K331

4: Rondo in A minor,K511
7-10: Eine kleine Nachtmusik, K525

5-8: String Quarter "Hunt", k458
11-13: Serenata notturna,K239
9-11: Horn Concerto no. 4, K495

詳細まで、書くのが大変なので、書きません。
いろいろな人が演奏しています。
音質、内容ともに、とても好きです。

1曲目は、前期CDの1曲目と同じ、 1:モーツアルトのクラリネット協奏曲イ長調K. 622、です。
この曲は大好きです。

G線上のアリア、カノン、などと同様、私の好きなクラシックの1つです。
モーツアルトは、良いですよ。今のところ、ピアノソナタ、器楽との協奏曲などが好きです。

交響曲も、ピアノ協奏曲は、はじめ不慣れでした。部屋には、手前にメインのスピーカー、部屋の奥の方にサブのスピーカーがあるのですが、これらはサブで聴 くと、良さが分かります。
どういうことかと考えますと、現象面としては、メインの手前のスピーカーで聴くと、音圧のようなものが強すぎて、聴いていて少し苦しかったですが、サブに しますと、その音圧の強さがちょうど良くなり、非常に良い状態です。

きっと、この音圧のようなものに、モーツアルトの協奏曲、ピアノコンチェルトあたりの秘密があるように思えます。
録音の感じもあるかもしれません。
ただ今のところは、作品そのものに、何か秘密があるように感じています。


仮説ではありますが、やはり周波数的なものの可能性が高いのではないかと考えます。
聴いていて苦しい、とは、周波数的なパワーが強すぎるのかもしれません。
音も波動の一種ととらえるなら、それはよほど強い波動なのかもしれません。

この仮説が正しければ、それを意識してでも、無意識でも、作曲したモーツアルトは、やはりすごいと感じます。

もちろん、基本的に「良い波動」なのだと感じます。
江原啓之さんによれば、部屋の浄化には、空気を入れ替える、香りをさせる、そして、音楽を流す、とありますので、江原さんの言うことが正しければ、モーツ アルトのピアノ協奏曲、交響曲は、かなり部屋の浄化に良い可能性があるように感じます。




2003年くらい、私が仕事でそうとうまいっていた時期、部屋に植物を置いていても、すぐに枯れてしまっていました。
あれは、ほとんど部屋にいなかった時期ですので、換気の面もありますが、きっと、私からあまり良くない波動が出ていた可能性があるように感じます。
あの時でも、モーツアルトでも流してあげていれば、もう少し良い環境で育ててあげられたかもしれません。
今は植物は、比較的元気です。
もちろん、枯れてしまうものもありますが。
もう少し可愛がってあげようと思いますが。


そう言えば、森田健さんの「不思議のエネルギーの世界」(1996年発行:竢o出版)か、「不思議のエネルギー2」(2001年発行:竢o出版)には、植 物と話すことについて書いてあったような気がします。
しばらく読んでいませんので、不確かですが。
また分かったら、掲載します。


植物が、人間と意思疎通できる、と言いますか、意思がある、という話は多くの本に掲載されていますね。
政木さんの本にも出てきます。


植物だけではなく、石なども、人にいろいろ教えてくれることもあるようですね。

船井幸雄さんの本には、宮古島の大きな石の話が良く出てきます。
なんでも、その石とは、昔(前世)からの知り合いのようです。

政木和三さんの本にも登場します。
なんでも、「天の理と時空のコーナー」でも「アーカシイク・レコード」の話で書いた、ウィリアム・カウツ博士とメキシコのチャールス・ヌウ氏がエジプトを 訪れた時に、エジプトの神官から、「この石は昔からエジプトに伝わるものです。あなた方は、近いうちに日本へ行くことになっています。日本へ行けば、この 石を受け取るべき人に必ず会うことになっています。」と告げられ、預かってきて、政木さんへ渡したそうです。




ちょっとその後を引用してみます。
「未来への発想法」(1996年発行:東洋経済社)149ページより
『岡山の林原生物研究所で、そのニ氏から「これはあなたのものです」とその石を渡された瞬間、私の掌はものすごく熱くなった。このことを、前世で松平の殿 様であった人に話したところ、「その石はキューリの輪切りの形をしていますね。それはアトランティスの『賢者の石』です。エドガー・ケイシーの本に書いて あ りますよ」と言われたことがあった石である。』
(以上)



その石を講演中に取り出したら、会場にいたある婦人が急にアトランティス語で話し始め、「この石はあなたが一万ニ〇〇〇年前にアトランティスの神官をして いたとき、持っておられたものです。私はそのとき、神官のハーモニーをやっていましたので、この石のことはよく覚えています」と言われた、というエピソー ドも書いてあります。



”前世で松平の殿様であった人”とは、おそらく船井幸雄さんではないでしょうか?エドガー・ケイシーの話が出てくること等による推測ですが。
船井さんのように、何度も転生していると、前世で有名な人だったことが多くて、大変なようです。政木さんも同様ですが。

船井さんが、黒田如水であったかもしれない、という話は、良く言われるそうです。
私は「あしたの世界p2」でしか、読んだことはありませんが。


とても不勉強ではありますが、私はこの黒田如水さんという方を知りませんでした。
インターネットなどで調べますと、相当有名な戦国時代の武将だったようです。
一体私は、大学入試で何を勉強していたのでしょうか?
これで、大学に入れたということは、いかに偏った勉強をしていたかということなのですが(笑)。
しかし、政木さんも歴史や語学は落第点で、理数系だけ満点だったと言っていますので、良いのでしょう。


しかし、理数系で、大阪大学で勉強できたということですので、その点だけで言えば、良い時代だったようです。

政木さんも、「未来への発想法」(1996年発行:東洋経済社)で、言っていますし、最近は船井幸雄さんも書いていることに、戦後の画一的教育制度は、ア メリカが日本人が有能にならないように意図して押し付けた教育制度である、というものがあります。
要するに、全部の学科を平均的にできることを良しとして、一つのことに長けている天才型の人間が極力できないように工夫された教育形式で、飛級などもでき ないようにしています。

これが、本当かどうかは、アメリカ自身が、この教育制度を昔からやっていないことを考えれば、分かると思います。

しかしそれでも、ちゃんと何人かの天才的な人もでていますので、日本人はなかなかすごいものです。
正しく直せば、もっと天才が育つように感じます。

こういう世界の話の本を出している方というのは、私から見れば、大抵高学歴です。

どうもやはり、偏差値教育の影響でしょうか、自分に問題があるのでしょうか、運命のせいでしょうか、変な上下感が少し残っています。
セスの言う、『「上」と「下」という言葉は、本来そのような方向性が意味をなさない空間に小手先だけで 付与された名称・・・・・・・・・』を、潜在意識まで、到達させる必要がありますね。

30代半ば頃までは、そういう高学歴の人を見ると対抗意識が燃えてきて、その力をばねでやってきたようなところがありましたが、今ではそれはなくなりまし た。
どうもそれは間違っているようですし、限界もあるようです。
その後しばらくは、それに変わる何かを探していたのですが、探せば探すほど混沌としてきます。
これなどは、正に「上位の問い」ですね。
みなさんは、いかがでしょうか?




船井さんは、「好きで得意なことをやろう」と言います。 
生きるコツといて、「天の理」、「宇宙の理」を語ってくれます。
森田さんは、あえて生き方論的にとらえさせてもらうならば、「好きかどうかは、やってみなくてはわからない。自分を限定しないようにしよう」というような ことを言っています。
「なることよりも、状態を作る」というようなことも言っています。




どちらも、間違っていないのでしょう。
それでも、どうも私の中へインストールしても、1→2→3→・・・・・・という流れの中で、私の中で2の部分が、抜けているように感じてなりません。
みなさんはいかがですか?
実際は、もっと細かく、1→2→3→4→5→・・・・・の3と4くらいかもしれませんが。
ですので、インストーラーをクリックしても、「・・・エラーが発生しました」となるか、インストールが済んでも「必要なランタイムがみつかりません」など となってしまう時もあり ます。

もちろん、ちゃんとインストールできるものもあるのですが。 




そのような意味でも、「天の理と時空のコーナー」で書いた、「従来の精神世界で言われてきたことは、下位の問いを持つための準備」という発想は、あながち 間違っていないのではないか、とも感じてしまいます。
ランタイムを先にインストールして、・・・・・・ということなのかもしれません。
実際は良く分かりませんが。

ただ、森田さん式に言えば、ランタイムをインストールすることを目指すと、「それが最終目標になってしまう」可能性もあるようですので、なんともむつかし いところです。




政木さんはゴルフの達人での有名なのですが、「汝のゴルフは汝の足元1メートル四方のみ」と、政木さんの生命体から啓示があったことを、良く書かれていま す。
目標を定めたら、後は遥か前方は見ず、目の前のことを、ひとつひとつやっていくのが、良いということです。
また、「無限小の力で、無限大の時間をかけることにより、奇跡のようなことができる」とも言っています。

とりあえずは、自分を限定せず、とにかく、足元1メートル四方を大切にして、前進していくのが良いようです。
みなさんは、どう思うでしょうか?





ところで、岡田多母さんは、よく掲載されている写真を見ていると、眼の感じが、小林麻美さんのようで、とても上品な感じがして好きです。
こんなことを考えているのは、私だけでしょうか?
別に女優や歌手の話ではないのですが(笑)。




いずれにしても、大抵の場合、「やってみなくては分からない」というのは事実です。
過去の経験や占いなどにより、明らかに分かっているものがあるのなら、それはそれで、使い道のある知識なのでしょうが、未来が変われが、過去も変わるよう です。

そうでなくては、船井さんでも誰でも、2012年どうこうしようなどと思わないはずです。

モーツアルトでした。
好きです。







166:NO COUNT/Eiji Kitamura
   
  北村英治さんの、1983年サンフランシスコ録音のアルバムです。
曲目です。

1:ワン・オクロック・ジャンプ

6:ジャンピング・アット・ザ・ウッドサイド
2:ステラ・バイ・スターライト

7:イン・ア・メロートーン
3:ハニーサックル・ローズ

8:ザ・マン・アイ・ラブ
4:トプシー

9:Cジャム・ブルース
5:ノー・カウント



メンバーは、ピアノ:ナッロピアース
アルト:マーシャル・ロイヤル
ギター:カル・コリンズ
ドラム:ジェイク・ハナ
ベース:モンティ・バドウィッグ
などです。
日本側からは、北村さん一人です。

はでなプレーはしていませんが、あいかわらず味のあるクラリネットを吹いています。
私はこのアルバムが出た当時は、まだ、音楽においての、日本人コンプレックスがありましたので、北村さんのように、外国の一流どころと対等に演奏する人を 見ると、嬉しくなっていたものでした。

もっとも、1990年頃よく顔を会わせていた私の知り合いの元デキシーランドジャズミュージシャンなどは、北村さんや鈴木章二さんのことをあまり良く言わ ず、「日本人クラリネット奏者なら、デキシーランドの○○は、もっとすごい」というようなことを、よく言っていました。
○○さんとしたのは、隠すためではなく、本当に名前を忘れてしまったのです。

1990年頃は、中古でも北村さんのアルバムなどは、時折見かけたものですが、今では、あまり見ず、あっても、なかなか高価です。ネット・オークションな どでも、新品同様あるいは、それ以上で取引されていたりするようです。

要するに、マーケット全体で見ると、売れないので、出さないのでしょう、新品では。
しかし、「どうしても、ほしい」というファンがいるのでしょう。
私などは、よっぽどでない限り、定価より高かった場合などは、購入しません。
定価でも、よっぽど内容が濃くないと、躊躇してしまします。
実際は、聴いてみないことには、どれくらい濃いかは、分からないのですが。

北村さんではなく、同じクラリネットの鈴木章二さんの話になりますが、私は高校生くらいの時、「虹の彼方へ」を一生懸命練習していました。ピアノですが。
なぜかと言いますと、何を思ったか、「この曲を鈴木章二さんといつか競演するんだ」と思っていたのです。
何を大それたことを、と今は思いますが、それはそれなりで、許してやろうと思っていますが。
なぜ、「虹の彼方へ」だったかということを、今考えてみますと、おそらく、チェット・アトキンスとレス・ポールの競演アルバムのせいだと思います。
このアルバムは私が中学生くらいのとき、リリースされたのですが、そこに、その「虹の彼方へ」が入っていました。
とても、リラックスした良い演奏だったと覚えています。

私は昔から、そういうスター同士の競演ものが大好きです。
仮面ライダーで、1号と2号が一緒に出てくる特別編や、ウルトラマンにウルトラの兄弟がたくさん出てくる巻きなどは、うきうきして見ていました。
ですので、当時、夏休みになると東映、東宝などでは、「夏休みこども祭り」というのを上演いましたが、そこでの仮面ライダーの特別映画などで、たくさんの 怪人たちが出てきたり、ゴジラにいろいろな怪獣が出てきたりすると、とてもうれしかったものでした。
ゴジラなどは続けてみていましたが、確か、「ゴジラ対ヘドラ」から、見なくなったように記憶しています。

どうも、要するに、「みんながスター」という感じの出し物が好きだったようです。
ですので、ビッグバンドなどで、一人ずつソロを取るたびに、前に出てきたり、スポットライトがあたったりなどすると、同様うれしかったのですが、同じよう な原理が働いているように自分では感じています。


ところで、みんながスターという考え方は、アメリカ的資本主義下では、だれかが負ける役にな らなくてはなりませんので、きっとむつかしいことなのでしょう。
しかし、一方では、今のアメリカ的な社会では、それぞれが、それぞれの独自の能力で生きていけば良い、ということもあるようですので、一見それは可能なよ うに感じられます。



それでも、その考え方はどこか誤解があるようにも感じます。
どこでしょうか?
良く分かりませんが。
想像するに、「それぞれが、それぞれの独自の能力で生きていけば良い」、ということにこまかしがあるのかもしれません。
とにかく、時間が経てば、差がものすごく開いていくのがアメリカ的資本主義だそうです。
今の日本はバブル崩壊以降、何を勘違いしたのかアメリカ的なものを相当取り入れていますので、ちゃんと、アメリカ的な側面も出ているようですね。
それでも、どうも日本人はやはりアメリカ人とは、少し違う人種なようですので、きっとこのままはいかないことでしょう。



さて、シャーリー・マックレーンさんの翻訳もののニューエイジ関係の本を読んでいて、違和感と言うか、「へぇ〜」と感じるのは、輪廻転生を本当に珍しい概 念として、描かれているようなシーンです。

輪廻転生を理解している人もいるようですが、やっぱり国単位でマクロに見るなら、輪廻転生という概念は認知されていないようですね。
もっとも、だんだん変わってきてはいるようですが。



多くのものに陰と陽があるらしいのですが、船井さんの本などによれば、やはり東洋と西洋は陰陽関係にあるそうです。
どの本に書いてあったか定かではないので裏覚えですが、800年くらいを境にして、西洋・東洋の繁栄が代わり代わりやってきているそうです。

マクロに見て、唯物的な西洋と、そうでない東洋、ということななのでしょうか?
それでも、昔のキリスト教では輪廻転生を教えていたようですので、単に唯物うんぬんでは語れないのかもしれませんね。



西洋東洋と言えば、船井幸雄さんの本におもしろいことがかいてありましたが、国旗に○、月、 星がかいてある国によって、炭水化物の取り方が異なっているそうです。
これも裏覚えで表現は異なるかと思いますが、「粉にして焼く」、「そのまま炊く」、それとあと一つあったように思いますが、今は思い出せません。
「そのまま炊く」は日本、韓国、中国のような国です。それとパンのような食べ方、そしてもうひとつ、ということです。

腸の長さの関係により人種にあった食べ物があるということも、船井さんの本には書かれていますが、これと、上記の炭水化物の食べ方も関係があるのかもしれ ません。
医学的にも、栄養学的にも分かりませんが。

ただ肉を食べ過ぎると便秘になります。
パンも好きですが、ご飯とお新香と、味噌汁があれば、それほど困らないということも実感としてはあります。

昔北村英治さんは、ジャズを演奏するために全てをアメリカ的にしようと して、食生活までも変えていたということを読んだことがありますが、一理あるとは思います。
私も一時期真似してみたりしました(笑)。
ジャズがアメリカ文化から出てきたものであり、食べ物が性格などに影響を及ぼすとするのなら、アメリカ的に演奏してアメリカ的にうまくなろうとするのな ら、少しはいいのかもしれませんね。

ただ、もともと日本人な訳ですので、長い眼で見れば、どこかに無理があるでしょう。
日本人として演奏するほうがずっと、自然なように思いますし、貴重なように思えます。

前世がアメリカ人だったので・・・・・ということで、アメリカに惹かれている可能性のある日本人がいたとしても、今世日本人なら、体は日本人になっていま すので、うまい具合のバランスが必要でしょう。
みなさんはどう考えるでしょうか?

音楽はどうかと言いますと、良く分かりません。
日本人の体で日本以外の音楽ばかい聴いていても、別に無理なところはないのかもしれません。
あるのかもしれませんし。

ただ、食べ物ほど、無理はないのではないかと想像します。
 

楽器は本来は、きっとあるのでしょう。
その国の人にとって弾きやすい形、大きさになっているはずですので。 

ただ、ある程度以上のレベルの方にとっては関係ないようですね。
日本人の体系が変わってきたことにも関係があるのかもしれません。

それでも、日本古来の楽器などをアメリカ西海岸のようなところへ持っていくと、湿気が少なすぎて割れてしまいやすいので、気をつけたほうが良い、という話 も聞いたことがあります。

日本、ドイツ、イタリアの人の特色は似ている、というようなことも時々読みます。
スペインというのはどうなのでしょうか?
私は良く知らないのですが。

木村好夫さんの弾くギターが演歌に非常にあっているということを考えますと、どこか共通項があるのかもしれないなどと思ったりもします。
ギターと聞くとスペインとなる私が単細胞なのかもしれませんが。

北村英治さんでした。

 
167:SONG FOLIO, VOL. V "DIANE" 北村英治
   
  北村英治さんが、続きます。
曲目です。
 
1:Coquette

6: It had to be you
2: I Cried for you

7: That's all
3: Moonlight becomes you

8: I've heard that song before
4: I can't believe that you're in love with me

9: The very thought of you
5: Diane

10: I'll always be in love with you

メンバーは、ピアノ:秋満義孝、ベース:池沢行生、ドラム:須永啓嗣、ビブラフォーン:増田一朗、トランペット:光井章夫のみなさんです。

ところで、”みなさん”という言葉の語源と言うか、意味は、上記のように、最後にまとめて、”さん”をつけるためにある言葉なのでしょうか?
良く分かりませんが。

録音は1978年です。

日本スイング史上でベストのコンボを組むなら、おそらくほとんどこのメンバーになるのではな いかというようなメンバーです。

この中では6:「 It had to be you」が好きな曲です。
考えるにメグ・ライアンとビリー・クリスタルの「恋人たちの予感」のせいだと思います。
その映画を見る前は、まったく気にならない曲でしたので。

私はこの映画は好きです。基本的にハッピーエンドで終わる映画は好きです。
ビリー・クリスタルはサタディナイト・ライブというテレビ番組出身のコメディアンですが、彼がその番組に出ている当時、アメリカに駐在していた人が以前会 社の先輩にいて、よく彼のことを言っていたのを思い出します。
当時は「へえ、そうなのか」くらいにしか感じませんでしたが。




北村さんの世代の方は戦後の進駐軍キャンプからプロとしての活動を始めた方が多いのですが、当時の話などを読むと、なかなか興味深いです。
みなさん、必死に外国曲を手に入れたり、とても情熱を感じます。
確か北村さんの話には、「ずた袋にクラリネットを入れて持ち歩いていた」というものがあったように思います。




北村さんたちが録音した音源というものは、戦後からですので約60年分あるわけですが、きっとすごい量なのだと思います。
今までは、レコード会社も利益が得られるものを優先的にリリースしてきたのはしかたがないとしても、現在ではインターネットのダウンロード販売ができます ので、是非そういう音源を販売してほしいものです。

北村さんで言えば、例のテディ・ウイルソンとの競演盤などはある程度売れますので古くともCD化されるわけですが、その他のもの、たとえばシャープス&フ ラッツとの「ベニー・グッドマン作戦」、鈴木章二さんとの「クラリネットバトル」などのような良いけれども、やはり売り上げ的には・・・・・ということで CDで常時出ていないものがたくさんあります。
レコード会社次第なのでしょうが、是非実現してほしいものです。

「でも、入力したりするのが大変だし・・・・・」
と言うかもしれません。
いっそ、レコード会社が、「音楽ファンのみなさん、こういうサイトを作りますので、無料でインプット手伝ってくれませんか?」
と言うなら、きっと私は協力しますが(笑)。
無料が言いにくいというなら、「3曲無料でダウンロード」でも構いませんが。

マイナーな音楽が好きな方々、いかがでしょうか?






話は何の関連もなく変わりますが、今日副島隆彦さんのサイトの、今 日のぼやきの2月13日付けのものを読んでいましたら、これがなかなかでした。
音楽を相当知っている方のようです。
加えて、なんともアカデミックな分析をしています。
きっと今までの執筆活動から得た技術なのでしょう。
その文章だけから言えば、私の感想は右脳的分析ではなく、左脳的分析だな、と感じます。
私はどちらかと言うと右脳的分析のほうが好きなタイプなのですが、こういう分析方法も参考になります。



副島隆彦さんの書いてるタイトルは、「宇多田ヒカルがアメリカで成功しないわけ」と いうタイトルですが、これは、アメリカで成功する=全米トップ10に入るを願望としてとらえるなら、なかなかハードなものかもしれません。




思考の物質化ということに関して、先日「セスは語る」(1999年発行ナチュラルスピリット社)を読んでいましたら、次のような文章がありました。

「セスは語る」(1999年発行ナチュラルスピリット社):192ページより引用

『夜の無意識状態にあるあなたがたは、みずからの現実をより広い汎にわたって自覚してい ますし、昼間のあなたがたが否定したり見て見ぬふりをしている能力を自由に使っているのです。
(10時26分)きわめて単純なレベルにおいては例えば、睡眠状態にあるあなたの意識は頻繁に肉体を離れ、あなたの知るところとなっている他の現実レベル に在る人々と意思の疎通を図ります。しかし、それよりもはるかに創造的なやり方で自分の物理的形態を然るべき状態で維持し、なおかつそれに新たな活力を与 えているのです。あなたは日毎の体験を整理し、「未来」とみなすところへ投影します。そして、無数の確率的偶然の出来事のなかから物質化させるものを選り 抜き、それを物質界にもたらすための観念的あるいは霊的プロセスを始動させるのです。』

(以上)



これは、前後を読んだ私の解釈ではこのような感じです。

人は何かの選択をする時、選択したもののみ、動き出していると思っているようだが、実は、選択しなかったものも、別の次元で現実のように動き出している。 (=確率的偶然?)
このようにいくつものストーリーが存在している訳だが、そのストーリーの中から、自分が選択した現実だと思っていることを自分の思考で分析して、未来にな にが起きるのかを自分で寝ている間に置いてきている。
未来になにが起きるのかを自分の思考で分析してとは、つまり、「こうなる可能性が高い」、「こうなる」、「こうなってほしい」、「こうなるに違いない」と いう自分の気持ちそのものである。

という意味ではないかと想像します。

現在の所、今ひとつ「確率的偶然」が、はっきりと私には読み取れていません。
読んでいく内に、解釈が変わるかもしれません。


もっと、自分なりに噛み砕くと、
起きている時に、「今日まで〜したので、その結果としてこうなる」と自分で考えたことを、寝ている間に原因の世界の未来の部分に置いてきている。
そしてそれが結果の世界で起きる未来ということになる。

という感じではないでしょうか?

ないでしょうか?というよりは、この文章を読んで「運命変更」に関する自分の仮説という感じですね。
どうも、この本を読んでいると、人は寝ている間は、全員幽体離脱をしているようです。
池田邦吉さんのこの本からの解釈も、「寝ている間、幽体離脱をしている」というもののようです。

もしこの仮説があっているのなら、寝る前に、「よし、今日は寝たら〜いう未来を原因の世界に置いてこよう」と思いながら寝て、なんとか、それを実現(?) させてくれば、未来は変わるかもしれません。

今のところ、全くの仮説です。

とりあえず、先日からやってみています(笑)。

天外 伺朗さんの『運命の法則―「好運 の女神」と付き合うための15章』 ( 2004/11発行:飛鳥新社 )も並行して読んでい ますが、そこに出てくる寝る暇がないほど忙しいような状況の時、ものごとがうまく進む、信じられないような偶然の連続がある、というのは、もしこの仮説が 正しいのならば、なんとなく納得いきます。

みなさんは、どう解釈するでしょうか?



 

168:THE SWING SESSION, 増田一郎
   
   ビブラフォンの増田一郎さんのアルバムです。

曲目です。
1:Jive4 at Five

5: Blues in C Sharp Minor
2: Doggin Around

6: Kepi' Out Of Mischief Now
3: Seems Like Old Times

7: Manhattan Serenade
4: One O'clock Jump

8: Lester Leaps In

メンバーです。
バイブ:増田一郎、 ピアノ:テデイ・ウイルソン、クラリネット:北村英治、テナー:宮沢賢治、ベース:遠山晃司、ベース:原田イサム、のみなさんです。

スィングアルバムに日本屈指のモダンテナーの宮沢さんが参加しているのが、とても意外な感じがします。
実際フレーズもモダンなフレーズを吹いていますが、いつものスイングものと違うアクセントになっていて、とても良い感じです。

ピアノはなんとあのテデイ・ウイルソンです。
ドラム:ジーン・クルーパー、バイブ:ライオネル・ハンプトンらとベニーグッドマンの黄金カルテットを飾ったメンバーの一人です。

演奏は、宮沢さんの影響でしょうか、テデイの影響でしょうか、前記のアルバムと比べますと、 北村さんなども、とても気の入った演奏をしているように聴こえます。
もちろん、前記のものでも、気は入れているのでしょが、どちらかと言うと、ほのぼの系統の作品になっていますが、こちらは、ある意味「ジャズアルバム」的 な作りになっているように感じます。

北村さんのアルバムの中では好きなものです。




さて、ぜんぜん内容は変わりますが、先日、美輪明宏さんがテレビに出ていて、面白いことを言っていました。
なんでも、欲を完全に捨ててしまったら、仏様のようになってしまって、まるで死んだようになってしまった、ということで、欲もいくらかは持っていないと生 きている内は、どうもいけないようです、ということでした。

なるほど確かにそうなのだろうな、とは感じます。

政木和三さんの言っている「欲」も、どうも読んでいくと、なにも全ての欲を捨てろ、ということではないように感じてきました。
ただ、今ひとつ、判然としないところもありますが。
仮説としては、「他人より〜だ」というような、相対的な欲がいけないということなのだろうか?とと仮定していますが、良く分かりません。



「希望」、「願望」を捨てろ、ということではないように思っています。
ただ、他力に任せて・・・・、決められた運命の流れに乗って・・・ということを考えますと、「希望」、「願望」まで、持たないべきなのか?とも感じてはい るのですが。
何分、最近私自身、欲を捨てることにのみ、集中するあまり、少し魂の抜け殻状態に近くなってきているように感じますので、きっと、どこか 「欲」に関する概念が間違っているように感じます。


森田健さんが、ホームページで器量の大きさを取り上げていましたが、ひょっとすると私はこの器量の大きさと、欲、あるいは良識というものを、なにか勘違い しているのかもしれません。

うまく説明できませんが。
たとえば、器量が狭くても、暴力的でなければ、べつにかまわないと思うのですが、どう思うでしょうか?
たとえば、アメリカは私は好きではありませんが、軍事力で他国をぎゅうじろうとするようなことをしないのならば、別にあのままでも構いません。
もっと東洋を知れ、ということも、絶対条件として求めたりもしません。



どうも良く分からないことだらけではありますが、自分の何らかの価値観と同じような人とだけ、つきあっていくということだけ考えていけば、ひょっとした ら、それでよいのかもしれません。
価値観が変わったらまた、その変わった価値観と同じような人たちとだけつきあっていく・・・。
私は器量を大きくしようとするあまり、自分の価値観と違う人といかにうまくやっていくか、ということばかりにチャレンジしていたのでが、どうもいけなかっ たことなのかもしれません。
実際は良くわかりませんが。



ただ、今までそうしなかったかと言えば決してそうでもありません。
しかし、そうすると、必ず、どこからか横槍が入ってきていました。
結局その横槍を跳ね返すことが出来なかった自分がいけないのかもしれませんが。

そして、その後はまた、「やはり、全ての人と懇意にしなくてはいけないのか?」
という迷路に入っていきます。

一体どっちがあるべき姿なのか、私にはよく分かりません。
横槍を入れてくる人間は、自分がのけものにされている、という疎外感からの行為なのか、それとも、自分が両親などからそういう教育を受けていたから故のト ラウマ(?)的行為なのか、それとも、本当に正しいのか、実際良く分かりません。

少なくとも、周囲の人間と「うまくやっていく」ことは必要だろうなとは思いますが、それは懇意にという意味とは違いますが。
懇意にするのは、気の会う人たちとだけ、というのは、当たり前のことのようにも感じますが?
みなさんは、どう思うでしょうか?

すくなくとも、今の私には、全ての人間と懇意にするなどということは、できません。
つまらない人間はつまりませんし、かと言って、つまらない人間をいじめたり、必要以上に悲惨したりするつもりもありませんが。

ただ私は横槍を跳ね返すことが出来なかったとはいえ、家出もしましたし、会社や団体などもいくつも入っては辞めてきました。
暴力や言葉による攻撃で、相手をたたきのめし、自分はそこに残るということも物理的にはできなくもなかったとは思いますが、それはしませんでした。


なぜでしょう?それは簡単で、そういうことをする人間と、その意味において価値観が異なる(つまらない)ということなのに、それを自分がしたら、本末転倒 ですね。
私は基本的に、真実を求めるための議論以外はしたくないので、しないことに決めています。

船井幸雄さんも、話をしていてつまらない人とは、仕事上でもあまり口をひらかないようですので、きっと、それはそれで良いのでしょう。

ただ、最近、それはあまりに損をすることがありますので、何年ぶりかに、相手の過失による物 質的損失などを伴う時だけは、口による防衛だけはしたほうが良いのかな?とも思ってきてはいますが(笑)。
ただ、それをやると、勝っても、後味が悪いのです。私には。
みなさんはどうでしょうか?
後味が悪いだなんていうのは、アマちゃんでしょうか?


しかしなにはともあれどうも、この地球と宇宙だけは、抜け出すことはできないようです。
そうであれば、私は絶対に運命を変えたいと思います。
みなさんはどう思うでしょうか?

さて、そういう意味(どういう意味?)では、ジャズの世界では、大体い つも演奏するメンバーというのは同じです。
例えばビブラフォンでは、増田さん、松崎さん。有近さん、と3人名人がいましたが、北村さんとやるのはいつも増田一郎さんです。

トランペットの光井章夫さんなどは、「嫌なやつが来ると楽屋の入り口に塩をもった」などと言っているのをラジオで聞いた事もあります。

ただし、メンバーに関して言えば、ある程度以上のレベルで演奏できる絶対人数が日本国内では、少ないですので、どうしても同じようなメンバーになってしま う、ということもあるかと感じます。

演奏曲(ジャンル)という意味ではどうでしょうか?
ジャズの世界では、全世界共通で、多くの方はジャズだけ、あるいはジャズとフュージョンの2ジャンルを演奏する、というパターンが多いです。

日本だけで言えば、戦後すぐ後にプロになった人のほとんどは4ビートジャズ一本やりです。
例外なのは、渡辺貞夫さんくらいでしょうか?
もっとも、第一世代の人たちよりは少し後の方ですが。


ほとんど戦後第一世代の松本英彦さんなどはフュージョン調のアルバムも複数出していますが、 基本は4ビートです。
ジョージ川口さんも、フュージョンアルバムを出したことはありますが、私の知っている限り、1枚だけです。基本は4ビートです。

その少し後の世代では、日野皓正さんが、4ビート、フュージョンを演奏していますね。
これをして、器量が狭い、広いを言うのはどうかと感じますが、私の知っている限り、複数のジャンルに股をかけている人は、アンドレ・プレビン、クィン シー・ジョーンズ、坂本龍一さん、吉田美奈子さん、などなどでしょうか?
要するにあんまりいないように感じます。

ですので、やはり、器量が広い、狭い、ということは、実はあまり成功や人生ということには関係のないことなのかもしれません。
もし、アーティストが器量がやたらと広いとなりますと、テクニック的に相当かけ離れている人とも仕事上で演奏しなければならなくなりますし、求めている音 楽性・ジャンルがぜんぜん異なる人とも、常時演奏を共にしなくてはならなくなります。

仕事上でも、趣味上でも、例えば北村英治さんなどは、そういった人と演奏する、ということはしないのではないかと感じます。
つまり、一緒に演奏していても、つまらないからなのです。

一緒に演奏していて、楽しく、そしてその結果、聴衆から支持されていれば、「売れているアーティスト」ということになるのでしょう。

具体的に言えば、秋満義孝さんはスイングピアノで日本一だと思いますが、渡辺貞夫さんとは、競演することはないと思います。
しかし、そうとは言え、普段おしゃべりをしないか?と言えば、音楽という器量が通じる範囲以外では、今度は、違う部分の器量が関わってくると感じますの で、何かで話が合うのならば、きっとするのだろうと思います。

もちろん、中には、演奏技術も、音楽性も関係なく、いろんな人と演奏を共にする、という器量の広い方もいるかもしれません。
それが、食べていくため、というような仕事上のこと以外でも、そうなのであれば、間違いなく音楽的器量の広い人となるのだと思います。

しかしどうも、私の知っている限りそういう人はいないようです。

なるほど、と自分で書いていて思います。
そうとなれば、会社のような自分の器量の範疇以外の人がいつ回りに現れるか分からない状態というのは、ひょっとしたら、こちらの方が、ずっとイレギュラー な状態なのかもしれません。

「出て行け」とも簡単に言えませんし、そう簡単に言われては困ってもしまいますね。
人生の勉強の場だと言われれば、そうかもしれない、と感じますが、勉強と言うよりは、拷問に近いようにも感じます。
なぜなら、食べたくもない食べ物を強引に口に押し込まれるようなイメージがあるからです。
みなさんは、どう思うでしょうか?

どうも、こう考えて行きますと、「自分の器量の幅を広げることなく、自分と気の会う人とだ け、つきあっていく人生」という状況を作り出す、ということは、悪いことでもなく、とても、正しいことのように感じてきました。

こうなりますと、もし、自分の範疇外の人とつきあわなくてはならないとしても、「そういうところが嫌なんだけど」と、躊躇することなく言うことが、良いこ となのかもしれません。


船井幸雄さんは、新入社員が入って来ても、「この人は嫌だな」と思うと、数ヶ月でその人が辞めていてしまう、という想念力があるようで、「最近はそういこ となので、できるだけ、嫌だなとは思わないようにしています」と書かれています。

これは、考えると、船井さんの精神レベルが更に上がったので、そういう人をも許容できるようになった、ということなのかもしれません。
これは、器量を広くということではなく、船井さんは、何十年も前から認められた人であったわけですので、それくらいに何かのレベルが高い人であっても、器 外の人を追い出そうともするし、それによって、自分の進歩が止まるということとは、結びつかないということを現しているのかもしれません。

実際問題、自分に管理権がない場合に、器の範疇害の人が来たとき、どうすればよいのかについては、私には言えませんが、少なくとも、本当は無理してまで、 許容する必要はないのかもしれませんね。



ただ、短気、暴力、無視は、器量とは関係なくいけないようです。
きっとそういうことなのです。器の広さは、基本的には、関係ないのです。
もっとも、無視については、本当に最近気付いたことなのですが。

それと、嫉妬はさせる方にも責任があると思っていましたが、最近、「嫉妬はする方が一方的に悪いようだ」と感じてきました。
みなさんは、どう思うでしょうか?


という訳で、いつも、仲の良い仲間と演奏をしている北村英治さんでした。
これで、良いようです。



169:JUST FRIENDS 松崎龍生
   
  鈴木章二&リズムエースのビブラフォン奏者として有名な松崎龍生さんのアルバムです。
メンバーです。
バイブ:松崎龍生、バリトンサックス:原田忠幸、ピアノ:江口啓介、ベース:和田弘志、ドラムス:梅田英伸、クラリネット:谷口英治、のみなさんです。

バリトンサックス:原田忠幸さんの参加しているところが、変わっていると思います。

谷口さんは、ライブも見たことがありますが、クラリネット若手(?)ナンバー1と言って良いのでしょう。

江草さんは、私が大学生くらいの時からレコードなどで名前を見るようになってきた今やベテランですね。
数少ないスイングピアニストといって良いと思います。
レコードでは、確か、ジミー竹内さんの何周年記念かのものに参加していた記憶がありますが、違うかもしれません。



 
曲目です→

私は「オン・ア・スローボート・トウ・チャイナ」という曲が昔から好きです。
私が学生の頃、プチ・ジャズブームがあり、たくさんの女性ボーカリストがデビューしたのですが、その内の一人がこの曲を日本語で歌っていました。

夏のジャズフェスティバルかなにかの宣伝で、そのトラックが使われており、耳にこびり付いていますが、その演奏がとくに好きでした。
「夏の夜(よ)は、オン・ア・スローボート・トウ・チャイナ♪・・・」
というような歌詞でした。

真梨邑ケイさんも、それより少し前、北村英治カルテットと一緒に吹き込んでいました。
そちらも好きです。



   

今日、久しぶりでハワイの新聞のサイトを見ていましたら、波動の江本勝さんが、ホノルルで水の結晶 の講演をするようですね。 
講演料金は、$25〜30のようです。
何かとても、うれしいです。

あのような仕事が出来たら嬉しいなと感じたりもしています。


チャイナと言えば、今、森田健さんの不思議研究所で行われるセミナーのために、孫さんという超能力者の方が来日していますね。
私も孫さんが念写した画が額縁に入っている財運ストッパーというのを所有しています。

この財運ストッパーというのは、財運が部屋から逃げていくのを止めるものです。
今のところ、金銭的には、3枚買った宝くじで、3000円を当てたくらいで、特に変化はありませんが、家族との仲が良くなってように感じています。
まずは、嬉しい限りです。




チャイナつながりですが、海外と言うと、私は中国人の方に良い思いでがたくさんあります。
シドニーに看護婦さんたち7人くらいと行った時、シドニーのチャイニーズマーケットのようなところで、皮製のナップサック(?古い言い方?)を2,3千円 くらいで買いました。
当時は英語は今よりもっとつたなかったのですが、それでも、「あなたは香港人だろう?」と言われて何かとても、嬉しいような、日本人だよ、というような微 妙な体験をしました。
レストランでも、中国系の人が働いており、私はワインのテイスティングなどという不慣れなことをしなくてはならなかったのですが、きっとあまりに形になっ ていなかったのでしょう、笑っていたのを覚えています(照)。





サンフランシスコでは、ハワイから来ていた友人が帰ってしまい、一人でその後何日か過ごしたのですが、チャイナタウン近辺で歩くのが嫌になったか、迷った かなにかして、バスに乗りました。
そうしたら、バスに乗っている人の、ほとんどが中国系の方であったということがありました。
それでも、だれも、こっちを不思議そうに見たりもしていませんでした。
当時の私は、今でもそうですが、いわゆる一般的な日本人観光客のような身なりをせず、比較的現地の人に近いような身なりをしているせいかもしれませんし、 相手の方々がもともと、だれが乗っていても興味がなかったのかもしれません。
それでも、なぜか、とても落ち着いた気持ちがしたことを覚えています。
やはり西洋人ばかりより、東洋人と一緒のほうが、落ち着くみたいです。私は。
こういうことは、日本にいるだけでは、なかなか体験できませんね。

これと同じ旅行では、楽器店に入ったら、そこの店員さんがまた中国人でした。
「他に大きな楽器屋さんは近くにありますか?」
と聞いたら、親切に教えてくれました。
当時は無性に海外の治安について神経質になっていましたので、
「そこは安全な場所?」
と聞いたら、
「明るい内なら大丈夫」
と教えてくれたのを覚えています。

なぜ、当時治安に神経質だったかと言えば、留学カウンセリングの仕事をしていましたので、留学する人たちに、
「決して危ない所へ言ってはいけませんよ」
と言っていたからだと思います。
今思いますと、むしろ楽器屋さんより、泊まっているホテル近辺のほうが夜は危ないような場所だったようにも感じます。





思い出したので、もうひとつ書きますと、サンフランシスコへ行ってホテルに入った直後、道を隔ててすぐ前にあったコンビニエンスストアのようなところへ入 りました。
レジでお客の一人がごねていて、レジに3,4人並んでいたので、私も並んでいました。
そのごねているお客さんは、どうやら返品しろとか何か少し理不尽なことを言っているようでした。
それに対応しているのが50歳くらいの東洋系の人でしたが、耳を澄まして良く聴いていると、日本語なのです。

べらんめぇ口調で要するに
「うるさいわねぇ、だめだっていったらだめよ!さっさと帰ってよ!こっちは忙しいんだから。まったくうるさいったらありゃしない!!」
というようなことを相手の英語のクレームに対して言い続けているのです(笑)。
もちろんクレームの相手は日本語など分かっていないようです。

並んでいる人も、店にいるほかの人も、みな日本人ではないようです。
そして、その店は普通は日本人があまり来ないような場所にあります。

ホテルはハワイの友人がハワイから予約したホテルで、どうも日本の旅行会社のリストには入っていないようなホテルですし、マーケットストリートというとこ ろのかなりはずれで、マクドナルドには防犯用にドアの前に鉄格子まで付いているような地域です。
ちなみにこのマクドナルドに入るには、先方に鍵を開けてもらわないと入れません。

どうやら、その日本語の話せる店の人も、まさか日本人が並んでいるとは思わなかったのでしょう。
私も、自分がレジの番になった時、
「いやぁ、聞いてましたよ」
と言ったものか、どうしたものか、判断つかず、結局、一言も話さずに、お金だけ支払って出てきました(笑)。

あの50歳くらいの方は、日本から結婚して現地に来た人だったのでしょうか?
それとも、2世か3世なのでしょうか?

いずれにしても、私のぎこちない態度を見ていたはずですので、こちらが日本人だということはきっと分かったことでしょう。
ただ、サンフランシスコは、別に東洋人がいたとしても、別に普通の場所であり、観光客!!というかっこうをしていなければ、現地の人だか、どうだか分から ないような所ではあるようです。

ちなみに、ハワイから来ていた友人が帰った後は、そのお店の隣にある一泊$30くらいの安い宿に越してきて、夜は通り沿いにあるチャイニーズ料理のテイク アウトで済ましていましたが、そこのお店のチャイニーズの人も親切でした。

きっと、東洋人同士が仲良くするような、そんな風習のようなものがあるような地域だったのかもしれません。
夜は夜で、でっかい黒人の人同士がたむろして、喧嘩したりしているような場所でしたが。




ちなみに、その宿は7,8年前で一泊$30くらいで、朝はドーナツとコーヒーが食べ放題、部屋もものすごく綺麗なわけではないが、10畳以上は軽くあり、 ベッドも二つあるような所でした。
シャワーもありましたし、テレビもありました。
とても、私には快適でした。

ただ3月くらいで、まだ寒く、それでもセントラルヒーティングを決まった時間にしか付けてくれず、無性に寒かったのを覚えています。
しかたなく、洗面所にお湯を貯めて、湿気と、お湯の温度で寒さを凌いでいました(寒)。


しかし、不思議にハワイではチャイニーズの人との関わりがありません。
これからあるのかもしれませんが。

最近は、ハワイのチャイナタウンは安全な場所になってきたそうなのですが、少し前までは、やや危ない場所でした。
やれ、拳銃を持っての強盗事件だとか、そんな話を良く聞いていたものでした。(まあ、今の日本と似たようなものだという意見もありますが)。
一度だけ、日系人の絵描きの女性が個展兼パーティーをやるということで、知り合いの日系人のあばさんに誘われて行ったことがありました。

楽しかったですが、いろいろ聞かされていたので、少し緊張したのを覚えています(笑)。



さて、今私は横浜に住んでいます。
生まれ故郷である東京には4,5年住んでいないのですが、ここでは、普通に東洋人のカップルなどがいても、耳をすますと中国語で話していることが、頻繁に あります。
もちろんチャイナタウンが近いところですので、別に不思議ではないのですが、やはりこれは、チャイナタウンが近い性でしょうか?
それとも、今は東京でも、こうなのでしょうか?
ここ数年あまり東京方面に行きませんので、良く分かりませんが。



横浜は、北方健三さんの小説にも良く出てきます。
読んでいると、家の前あたりでカーチェイスをやっています(笑)。
家の裏ではピストルも撃っています(驚)。

戦後あたりの、日の出町あたりの話も、北方さんの思い出としてエッセーに書かれていたりします。
北方さんの父親は船長さんでしたので、子どもの頃、横浜へは父親が日本へ帰ってくると出迎えのため、九州からよく来ていたようです。
今は川崎あたりに住んでいるようですね。



また、戦後のジャズの話にも、横浜はよく出てきます。
私の住んでいるところから歩いて30分くらいのところに大きな公園がありますが、そこなどは、戦後アメリカ人の居留地区だったらしいですので、当時はジャ ズを演奏するお店などもいくつかあったのではないでしょうか?

そう言えば近くの地名は浦島町と言います。
浦島太郎に関係するようなものもあるようです。
政木和三さんの「脳波がシータ波になると1年が300分の1秒になる」という話を考えると、何かとても関係のあるようなことに感じてしまいます。

何でも、試験管に蓋をして、蓋にセンサーを取り付け、シータ波になった状態で実験をしたところ、まるで、空間移動のように瞬時に蓋を開けて、中のものを取 り出し、また蓋をするということができたそうです。

空間移動でないのは、センサーがちゃんと、その何万だか、何百万分の1秒だかの時間を測定していたので分かったようです。
もちろん空間移動は空間移動であるのだと思いますが、この実験は要するに、脳波をシータ波にすると、瞬時に何かが出来る、という実験のようです。



と言う事で、松崎龍生さんでした。


170:GINMAKU, 尾田悟クインテット
   
  テナーサックスのベテラン、尾田悟さんのアルバムです。

メンバーは、ピアノ:ハンクジョーンズなどです。

曲目です。
1:シェルブールの雨傘
7:日曜はダメよ
2:ヴェニスの夏の日
8:九月の雨
3:八十日間世界一周
10:シャレード
4:トウルー・ラブ
11:夜霧のしのび逢い
5:いそしぎ
12:イッツ・オンリー・ア・ペイパー・ムーン
6:君に泣く
13:ス・ワンダフル

14:モア

このアルバムには、クラリネット、テナーで、Ken Peplowskiという人が参加しえいますが、とても、良いクラリネットを吹いています。

尾田さんは、レスター・ヤング系のテナーなのだと思いますが、良い意味で、とても日本的なサックスを吹いていると感じます。

メロディアスなテナーということでは、私が感じるには、世界有数ではないでしょうか?


尾田さんのハンクジョーンズとの共演作はいくつか出ているようですが、できれば、全部聴いてみたいと思います。



さて、ぜんぜん脈略はありませんが、「セスは語る 魂が永遠であるということ」(ナチュラルスピリット社:1999年発行)は、文章が少しややこしいので すが、なかなか面白い本です。
ややこしいのは、きっと翻訳本のせいだと感じています。
今までも、 「セスは語る 魂が永遠であるということ」(ナチュラルスピリット社:1999年発行)は引用してきましたが、まずセスがどういう存在であるかについて、 一度も書いていませんでしたね。

船井幸雄さんと池田邦吉さんの共著、「あしたの世界」(2004年3月発行:明窓出版社)の52ページで、池田邦吉さんが説明をしています。
なんでも、 「セスは語る」は関英男さんの加速学園のテキストにもなっていたようです。
私の持っているものには発行日が1999年になっていますので、そう表記しますが、実際は1972年が初版ということです。

それによれば、セスは肉体を持たず、エネルギー的存在ということです。
そして20万年以上に渡り輪廻転生し、男女はもとより、ローマ法王まで経験したそうです。
そして今では、肉体を持つ必要がなくなったということです。
地球上での経験が長いゆえか、地球人にとても愛着心があるそうです。
普段は、光輝く世界の中で、中世の面影が残る田園風景を作り出し、そこの農家風の一軒家で生活しているそうです。
そんな彼(?)が、アメリカ人の詩人ジェーン・ロバーツさんの体を借りて話したことを、夫のロバート・F・バッツさんが、書きとめたものが、 「セスは語る 魂が永遠であるということ」です。
ちなみに、セスは自由勝手に話している、というより、言ったことをそのまま書けば本になるように話したようです。
小説の作家なども、良くテープレコーダーに口述で録音して、それをアシスタントに書き起こさせたり、自分で起したりしていますね。


最近、読み進んだところまでで、興味深いのは、3次元で感じている時間は、瞬間の連続のように感じているだろうが、本当はそうではない、ということだそう です。
そして一人の人間が時間の連続として、輪廻転生しているように感じているだろうがそうではなく、実は、全ての転生は同時進行しているのだ、と言っているよ うです。

つまり、たとえば、政木和三さんは、政木和三、熊沢蕃山、畑時能、日蓮聖人、アトランティスの神官・・・・と輪廻転生していたそうなのですが、実はセスの いるところから見れば、政木和三さんの本質である生命体は、政木和三、熊沢蕃山、畑時能、日蓮聖人、アトランティスの神官という人生を同時に、それぞれの 3次元で言う時代で生きていた、ということのようです。
そして、どうも寝ている間などには、そのそれぞれの多元的自己とも情報の交換などをしているということらしいです。

そして、そうなりますと、次に引用する文章を読むと分かると思いますが、当然、カルマなどは、まったくないことになってきます。
なにせ、同時進行ですので、過去のうんぬんということは、あり得ないのです。




「セスは語る 魂が永遠であるということ」(ナチュラルスピリット社:1999年発行)には、次のように書かれています。
(引用:132ページより)

『わたしは「環境」という見地からも輪廻転生を論じてきましたが、それは多くの思想学派が輪廻の存在の影響を過剰なまでに強調しているからです。そういた 学派による学説では、現世の「環境」を、断固として妥協を許さない輪廻の原理に律された「過去世」で決定された結果であると説明しています。もしあなたが たが、みずからの手ではコントロールし得ない事柄によってなすがままにされていると感じているのなら、「環境」を変えようにも、世の中に影響を及ぼそうに も、現在の物質的現実を何かしら動かすには自分自身があまりに無力であるかのように感じてしまうでしょう。
しかし、輪廻の原理への奴隷を強いられる際に掲げられる理由にしても、長い目で見れば大したことではありません。なぜなら時間や文化の流れとともに、道理 や常識も変化するからです。あなたがたはキリスト教でいう原罪によって、または幼児期の出来事によって、あるいは過去世での体験によって、すでに判決を下 されている身では決してないのです。例えばあなたの人生は、あなたがそうあってほしいと願うほど充実した実り多きものではないかもしれませんし、これくら いあればと望みながら到底それには及んでいないかもしれません。しかし、あなたがたの精神は、キリスト教でいう原罪や、フロイトの言う幼児期神経症[幼 児期に受けた抑圧や精神的外傷(トラウマ)が原因で起きる精神障害]、あるいは過去世の影響による暗黒の帷(とばり)に覆われているわけでは断じてありま せん。過去世の影響について、ここでもう少し明確に説明してみましょう。過去世の影響の現れ方は、他の体験による影響の現れ方となんら変わるところがあり ません。時間は閉じたものではなく開いたものであり、例えば過去のひとつの転生は、今世での自己や未来世での自己と隔たった状態で過去に埋もれているわ けではないのです。』


3次元的には物質的証拠がないので、仮説ということになりますが、みなさんは、どう思うでしょうか?




どうも私は、この時間というものが、以前より気になって仕方がありません。

「セスは語る 魂が永遠であるということ」(ナチュラルスピリット社:1999年発行)の126ページにはこうあります。
(引用)
『物質的環境に設定された場面場面は、時には素敵な主事品に囲まれた、あなたがたの生における既知の物質的側面ですが、それらはすべてカムフラージュで す。よってわたしは、敢えてあなたがたの物質的現実を「カムフラージュ(偽装)」と呼びます。しかし、そうしたカムフラージュも、宇宙の生命から成るもの には違いありません。山や岩石や土も息づくカムフラージュであり、あなたがたがそれであると知覚することのできない、細微な意識によって編み重ねられた超 自然的な網目状組織なのです。そのなかの原子や分子にも、あなたがたの体の原子や分子がそうであるように、それぞれ意識があります』
(以上)

また、このようにも書かれています。
(引用:127ページ)
『例えば、、あなたは自分以外の役者たちの持ち場や、時計が示す時刻をきちんと把握することができます。しかし、その時刻自体がカムフラージュであること や、他の役者たちが意識によって創られていることや、あなたに見ることのできないでいる現実(リアリティ)が、いまこれほど明白である物質的実在物を越え たところに存在していることを、体の感官は教えてくれません。
しかし内なる知覚力を使うことで、芝居や、そこでのあなたの役柄とは別に存在する現実を知覚することができます。それをするには当然ながら、少なくともほ んの束の間、絶えず起き続けている日常的活動から意識の焦点を外さねばりません。−−−いわば体の感覚器官のスイッチを切るのです。そして、これまであな たが気づかずにいた事柄に意識を向けるのです。』
(以上)




どうも読んでいますと、肉体の持つ知覚器官は、時空の本当の事象を感じることができないようにできていて、それゆえ、肉体の器官で理解できるものになるよ うに変換、翻訳されており、それが普通の人間が五感で感じて、見ているもののようです。

そして、時間が瞬間の連続のように感じるのは、つまり、過去と現在と未来がある、と感じるのは、肉体の器官がそう感じるようにできているからのようです。
そうすると、どうも時間というものは、その概念はなく、すべての瞬間は天外さん的に言えば、「たたみこまれている」ということなのでしょうか。


本当の実体(あなたの役柄とは別に存在する現実)を感じるためには、内なる知覚能力を使えばできるようです。
そのためには、日常活動から意識の焦点をはずし、体の感覚器官のスイッチを切る必要があると言っています。


時間が波動である、ということは、良く書かれていますが、この本でも似たようなことは書かれています。
そして、セスが言うには、時間は3次元で待ち合わせの約束をするためにあるものである、ということです。
編集点をテープから探すタイムコードのようなものかもしれません。






本によると、3次元でも時間と言うものは、超光速で運動するものの上では遅くなり、地球のように大きな質量を持った物体のそばでも、遅くなるそうです。


政木和三さんは脳波がシータ波になると、1年が300分の1秒、つまり1秒が300年分の長さになると言っています。
ということは、時間の進む速度が速くなる、ということですね。
そして、シータ波の状態で、試験管のふたを取り、中のものを取り出し、再びふたをするまで、50万分の1秒で、できることを実験によって分かったというこ とですので、シータ波状態では、時間だけ速くなってしまう、ということではなく、どうやら、1年に相当する時間内では、3次元で1年間でできるようなこと が同じようにできる、ということのようです。

3次元に置き換えると、ものすごく速く何かができる、ということになりますね。
また政木さんは、無限小の力で無限大の時間かけることにより、奇跡のようなことができる、と言っています。
これは、3次元で一般に言われている、良しとされることとは、全く逆ですね。
マクドナルドでも、吉野家でも、なんでも、最大限の工夫と力を発揮して、できるだけ早く達成することを良しとしています(笑)。

そうしますと、ひょっとすると、無限小の力を使おうとすると、時間の進み具合が遅くなり、なかなかできないようなことも、かなり速くでしまう、ということ があるのかもしれませんね。

無限小の力で何かをしようとする人間から出ている波動のようなものは、たたみ込まれている時間というものを、どのような感じかは分かりませんが、操 作できるものなのかもしれません。

また太極拳のスローな動きは、スローなほど氣が乗りやすいからだそうですので、無限小の力・無限大の時間というのは、その意味でも何かあるのかもしれませ ん。





超高速と無限小の力・無限大の時間には何か、同一性のようなものがあるでしょうか?

ただ私は超高速上では時間が遅くなる、ということがどういうことなのか、良く分かっていません。
何を基準にしているのでしょうか?
たとえば、超高速上で時計では1時間経っているにも関わらず、同時に地球と交信して確認すると、50分しか立っていない、ということでは、時計の進む速度 が遅くなったということですので、それがいかほどの意味があるのか良く分かりません。

そうではなく、地上では10分で沸点達するものが、超高速上では5分で沸点になるとか、妊娠から出産okまでが、地上では10月(とつき)10日(とう か)かかるものが、超高速上では、もっと短くなるとか、そういうことでしょうか?
それとも、その逆でしょうか?
おそらく時間軸での点から点への移動が遅くなるという意味なのだと思いますので、同じ時間でより多くのことができる、つまり、沸点が速くなる、というこ となのだと思いますが。
きっと相対性理論を知っている人なら簡単に分かることなのだと思います。
また勉強してみます。




良く分かりませんので、むつかしいことは考えずに進めてしまえば、超高速と、無限小の力・無限大の時間は、何らかの拘束から解き放たれるのに必要な要素を 持っているということなのかもしれません。

無限小の力・無限大の時間は、マクドナルドの例でも分かるとおり、3次元的能力の絶対的排除という意味合いがあるのかもしれません。

超高速上を考えると、超高速上で、ハンバーガーを作り、それを普通のスピードの人に提供するのであれば、とても効率的になりますね。
私の解釈があっていればですが。
調理場にどうにかして、超高速で動く何かを設置して、その上で調理をすればよいということなのかもしれません。
理論的には。

とにかく、「超高速」も、「シータ波」も、3次元での一定の時間において、通常よりも、多くのタスクをできてしまう、ということのようです。 

いずれにしろ、セスの話とあわせて考えれば無限小の力・無限大の時間も、超高速も、カムフラージュされて感じているだけの時間の概念から解き放たれ る秘密 を持っているのかもしれません。



超高速になりたいとして、なかなかなれない原因は、普通に発想して、重力だと思います。
重力は、肉体を持たない存在には当然ないのだと思います。

これとシータ波を考え合わせると、どうも、生命体の力ということに行き着いてしまうように考えます。

そして肉体のない状態は、肉体の感知器官の影響から解き放たれますので、カムフラージュによってできた時間などの、事柄からも開放され、時空の正し い感知というものができるのだと考えます。

肉体の器官からの感覚から開放されると考えますと、シータ波状態になること、つまり瞑想など以外には、麻薬などトリップする物質を使用することが考えられ ます。
天外さんは、良く本の中で、70年代ヒッピーの話をあげ、「彼らは精神を解き放つ方法として、麻薬を使っていた。しかしそれは、肉体に弊害があるもので あったことが、間違いであったが、彼らのやろうとしていたことは、全体的に見て、基本的には東洋の哲学・宗教の発想ととても近いものがある」というような ことを書いています。

また、森田さんの本などにも出てくる、水の中に浸って、全ての肉体的な感知器官を遮断する経験のできるフローテーションタンクなども、きっと、似たような 状態を作り出すものなのかもしれません。



そう考えると、正しい時空を感じるのがむつかしいのは、やはり、肉体の器官の感知というものが、原因である可能性が高いかもしれません。

そうすると、瞑想は瞑想で続けるとして、アルファーシータの使用も続けるとして、それ以外にも、なんらかの方法で、肉体の器官による感知から逃れる方法と いうものを探して、とにかく、すぐにその状態になれることが、正しい時空を感じることには必要なように思います。
そしてそれは、原因の世界を結果の世界へおろすことに、とても関係のあることのように感じます。

人と接しないということも、それに通じるかもしれません。テレビを見ないということも、そうかもしれません。

そうしますと、やはり私が常々感じている「時間の概念が変」という感覚はまんざら間違ってもないのかもしれません。



セスはこんなことを書いています。
私の裏覚えですが・・・
例えば、机があるとします。そして、その机の後ろにも、少しけ、実在感のない机があります。そして、そのまた後ろにも、更に少しだけ実在感のない机があり ます。それがいくつも連なっています。同じようなことが横にも、前にもあります。
そして、今私たちが机と認識しているものは、単にその実在していると思っているその机に、意識の焦点をあわしているだけなのです・・・・

あるいは・・・
今自分が自分だと思っている肉体も細かく振動しています。そして厳密には、瞬間瞬間に消えたり着いたりしています・・・

波動と非常に関係のあることだと感じます。



まず時間が波動だとはよく言われます。
つまり、何年何月何日何時何分何秒というタイムコードのようなもの自体が波動であり、そこへ焦点をあわしているので、時間というものが存在していている、 あるいは存在しているように感じる、ということです。

肉体も、原子、分子がそれぞれ意識と意思を持っている存在であり、振動していう波動を発している存在あるとは、よく言われています。
セスも同じようなことを語っていますが。

良い波動、氣などは、通常の肉体器官によっても、少し勘の良い人なら感じることができます。

しかし、肉体が点滅している状態となりますと、肉体の器官では感知することは出来ません。
それと同じように時間が波動であり、まさに「たたみこまれている」状態であることは、通常肉体の器官では感知できません。


私は、この感覚が少し分かります。
音楽を聴くとき、目を瞑ると、別の聴こえ方ができます。

一般的な説明をすれば、「集中できるから」ということになる現象だと思います。
違う説明をすれば、視覚からの影響から逃れて、聴覚だけ使っているから、となるかもしれません。

これを当てはめれば、肉体器官の感覚から逃れると、生命体の知覚を得られる、ということになるのだと思いますので、似ている現象と言って良いのでしょう。

瞑想、薬、フローテーションタンク以外に、この状態を作れるものはなんでしょうか?

そもそもフローテーションタンクが、そういう状態を目指して作られたものであるとすれば、他にはなかなかないかもしれませんね。

五感とは、視覚 嗅覚・触覚 ・ 聴覚・味覚のようです。
これを、瞬時に目を瞑るがごとく、消したり、着けたりできるのであれば、ひょっとしたら、生命体の力を使ったり、原因の世界へアクセスして、原因の世界を 変える、ということができるのかもしれません。

仮説ですので、本当のところは、良く分かりませんが。

 

 

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