理由もなくこればかり聴いてしまうCDのコーナー

CDはたくさんあるのですが、なぜか、いつもこればかり聴いてしまうCDを紹介します。

 

 

1〜20   21〜40   41〜60   61〜80   81〜100   101〜120   121〜140   141〜160   161〜170

171〜180
181〜200      
201〜220   221〜240   241〜260   261〜280   281〜300                        
クリスマスアルバムのコーナー                            

 

 

171:Ace Seven, Must Collection
   
  中村八大(p),沢田駿吾(g)、松本英彦(ts),平岡精二(vib),仲野彰、石川晶(ds),鈴木 勲(bs)というメンバーのアルバムです。
過去いくつかのアルバムのオムニバスです。

曲目です。

1.ブルース・フォー・トム
2.危険な関係のブルース
3.黒い傷あとのブルース
4.ビギン・ザ・ビギン
5.ゴールデン・ストライカー
6.シェリト・リンド
7.黒のマーチ
8.褐色のブルース
9.モーニン
10.殺られるのテーマ
11.ひとりぼっち
12.死刑台のエレベーター
13.死ぬほど愛して
14.マンハッタンの哀愁
15.グリスピーのブルース
16.夜霧の恋人たち
17.カミン・ホーム・ベイビー
18.ジャンゴ
19.シスター・セイディー
20.サイド・ワインダー
21.黄色いタンポポ
22.クール・ライダース
23.涙をこえて
24.チュニジアの夜



 演奏は、みなさん、芸達者ですので、落ち着いて聴けます。
このメンバーで、真剣に”芸術作品”を作ったら、さぞかし、世間が驚くようなものができたろう、と思いますが、はたして、このメンバーでは、そうはしな かったようです。
ここで、繰り広げられているのは、ジャズではありますが、イージーリスニングよりの演奏です。

どうして、でしょうか?
レコード会社の依頼がそうだった、と言えばその通りでしょうが、本当にそうなのでしょうか?

私には良く分かりませんが、一番考え易いことは、みなさん、ここを離れれば皆、バンドマスターですので、ここでは、喧嘩せず仲良くやることに勤めよ う、と思ったのかもしれません。

しかし、そうでもないかもしれません。
松本英彦さん、中村八大さんあたりは、すでに旧知の間柄ですし、当時からみて、若手、ベテランのバランスもうまくなっているようですので、”芸術作品”を やっても、喧嘩にはならないでしょう。

ただ、言えるのは、中村八大さんは、私の知っている限り、いわゆる”芸術的作品”を吹き込んだことはないようです。
松本英彦さんも、いわゆるジャズ界で言うところの”芸術的作品”は、数枚しか作っていないように思います。
何百枚というアルバムがあるにも、関わらず。

ビックフォーの活躍から読み取ると、腕は超プロ級でも、態度はエンターティナーという姿勢が、中村さんたちにはあるのかもしれません。
本当にジャズを突詰めて行った人というのは、同世代の人たちでも、何人もいます。

ひょっとしたら、何かを知っていたのかもしれません。
私には本当のところは分かりませんが。


いろいろな人が、報酬をもらわないで何かをやる方が、報酬をもらい何かをやるより、良い結果が出る、と言っています。
森田健さんのサイトにもそういう話が登場したことがありました。

下に引用していますが、天外さんの本にも出てきます。

そういう意味では、”芸術的”かどうかは別にして、仕事として、報酬をもらって演奏している限りは、基本的に、「イージーリスニング的なものしか、やらな いのだよ」、というスタンスが上記の方にはあっても、不思議ではないように思います。
本当のところは良く分かりません。
報酬のもらい方にも、よると感じます。
昔FMでやっていたジャズ番組では、松本英彦さんと同世代の方などは、私の知っている限り、レコード、CD化されていないような相当スリリングな演奏を やっていたように思います。

みなさんは、ここら辺をどう解釈するでしょうか?


さて、天外 伺朗さんの運 命の法則―「好運の女神」と付き合うための15章  (2004/11発行:飛鳥新社 ) には、他力本願の話が出てきます。
なんでも、自分の人生を振り返ってみて、そこには、「大河の流れ」と名付けた、根本的な大きな運命の流れがあるようだ、ということを書かれています。
そして、その大きな流れの上に、ある意味自分で作り出せる小さな流れがある..........ということも書かれています。
この小さな流れをコントロールする方法についても、ちゃんと書かれています。
一般的な企業戦士、少なくとも、私の年代以上の方には、きっと、とっつきやすいものなのではないかとも感じます。

しかしきっと「大河の流れ」は、とっつきにくかもしれません。
ある意味、森田健さんの言う、「オールを手放して、流れに逆らわない」という発想に似ていることが書かれています。
それをやると、「目的意識が薄れてくる、」、「グーダラになる」とも書かれています。

この感覚は良く分かります。
私は今、「オールを手放す」をやってみていますが、つい最近まで、どうも「ただグウダラになっただけ」のような感覚でした。

それでも、最近ちょっと違ってきています。
どうやら私の感覚では、ただ「オールを手放す」と言う言葉にフォーカスしても足りなかったようです。
何が足りないかと言うと、天外 伺朗さんも言うところの「宇宙に愛されている」という思い、「他力とは、時空に身を任せることではあるが、努力は当たり前のことで、してはいけないという ことではない」ということ、この2つの”こと”のようです、私には。

これによって何が生まれたかと言いますと、自信を持つ、の根拠ができたように感じます。
私は人の出来ないような能力を身に着けても、自信にはあまりつながらないと言う変わった(?)性格なのですが、「宇宙に愛されているから、自信を持ってい るんだよ」と思えるようになってから、少し、心が軽くなってきたように感じます。

これは相対的ではありません。
どういううことかと言いますと、全ての人間が「宇宙に愛されている」からです。
要は、「宇宙に愛されている」を自覚しているか、していないか、の違いだと思います。
違う言い方をすれば、3次元的に相対的に上であろうが下であろうが、「宇宙に愛されている」から、自信を持ってよい、ということだと感じています。
もっと言えば、全ての人間が自信を持ってよいということになると感じています。

みなさんは、どう思うでしょうか?


また、セスの本を読んでの私なりの解釈ですが、 「どうも人は寝ている間に幽体離脱をし、そこで、原因の世界にアクセスし、結果の世界を変更しているのかもしれない」という仮説が生まれています。
これが事実かどうかは、分かりませんが、3次元的ではありますが、どうも、良いことが続いているように感じているこのごろです。
みなさんは、どう考えるでしょうか?

これは、森田健さんの不思議研究所へセミナーに来る超能力者の孫さんのマスターの一人が、「あくせくせず、自然にまかせる。肉体はごろごろしていて も、寝ている間に幽体離脱をして、霊体が働いているから良い」というようなことを語っているのに、似ているのではないか?と勝手に思っています。
本当の所は良く分かりませんが。

以下は、天外 伺朗さんの本からの引用です。

 

天外 伺朗さん、運命の法則―「好運の女神」と付き合うための15章  (2004/11発行:飛鳥新社 ) 
引用:171ページ〜172ページ
宇宙と運命を信頼して身をゆだねる

『第12章と13章で「大河の流れ」について触れ、それが見えてくると、人生がスムーズになると書いた。
(中略)
「大河の流れ」が見えようと見えまいと、好運も不運も同じように訪れてくる。
それでは、「大河の流れ」が見えてくるのと見えないのとでは、いったい何が違うのだろうか。
一番大きなポイントは、流れに逆らって泳がなくなってくるということだ。
だから、他人からは、これといった努力もしていないのに上手に世の中を渡っているように見える。要するに、「大河の流れ」に逆らわない分、エネルギーのロ スが少なくなるのだ。
それと表裏一体になるるが、はるかに重要なのが「ジタバタしなくなる」ということだろう。
ある意味では、目的意識が薄れてくる、ともいえる。「なるようになれ」という感じだ。
流れを信頼し、身をまかせてしまうのだ。当然、歯を食いしばって努力する人生と無縁になる。グーダラになる、といってもいい。
だから、「運命を変えよう」とも思わなくなる。身の回りに起こること、出会う人のすべてに感謝ができるようにんっていくはずだ(私自身は、まだそこまでは 到達していない)。



172ページ〜174ページ

これはしかし、浄土宗や浄土真宗が説く「他力」に極めて近い。
「他力本願」というと、普通は批判的意味で使われる。当然やるべき努力を怠って、誰かがやってくれるか、偶然にうまくいくことをひたすら願っている、とい う意味だ。
本来の教義はもちろん、それとは違う。「すべての生きとしていけるものを救う」という阿弥陀仏の本願を信じ、それにゆだねなさい、という意味だ。つまらな いことにクヨクヨ悩んだり、いたずらに未来に不安を感じたり、思い通りにならない周囲の状況にイライラしたりするのをやめて、もっと大きな力のはからいに 身をゆだねなさいという教えだ。
宗教では、阿弥陀仏の存在を仮定したり、「南無阿弥陀仏」というマントラ(呪文)を規定するなどしており、教義を押し付ける嫌いはあるが、もっとも本質的 な部分だけを抜き出せば、私のいうところとさほど変わらないだろう。
「他力」の反対は「自力」ではない。禅宗は自力の教えだが、日本では曹洞宗を開いた道元は、「只管打座(しかんたざ)を説いている。いっさいのはからい を捨てて、ただひたすら座禅をしろ、という意味だ。「悟りを開きたい」とか「涅槃の境地に達したい」などという目的意識は修行の邪魔になるだけだ。全身身 を挙げて座り抜く以外に、仏法の体得はない、ということだ。
つまり、基本的には「他力」も「自力」も、自らのはからいを排して、大きな力に身をゆだねる、という意味では同じことを説いている。
「他力」と「自力」が同じ方向性を示しているのだとすれば、それに対立する概念は何であろうか。私はそれを「エゴ(自我)から出た目的意識」と名付けた。 今の社会は、あらゆる人間に対して、幼少のころから、そういう「目的意識」を強化するようなトレーニングを課している。その結果、人々が富や地位や栄誉を 追い求めることが社会を推進する原動力になっている。
第4章では、そのことが人々を「外発的報酬」を追求するように駆り立て、「内発的報酬」を感じにくくしていると述べた。つまり「エゴから出た目的意識」の 強い人は、「フロー」に入りにくいのだ。
じつは、その状態は単にフローに入れないだけではなく、「大河の流れ」も見えにくいし、もちろんそれに沿って楽に泳ぐこともできない。「エゴから出た目的 意識」が減り、心の内側からの声に耳が傾けられるようになれば、すべてがスムーズになってくる。

(以上)

エース7のアルバムでした。



172:ARCHIE SHEPP のバラード・アルバム
   
  私はアーチー・シェップが大好きです。

この人は、基本的にはテナーサックス奏者です。
歌も歌いますし、アルトなどを吹くこともあります。

フレーズの形式としては、ややフリーよりの音使いですが、少なくとも、バラードものでは、攻撃性はほとんど感じませんん、私には。

フリーと言っても、これらのアルバムでの音は、アウトな音使いというのは少ないように思います。

アウトと言いますのは、簡単に説明すれば・・・

普通、仮にC(ドミソ)というコード上で、アドリブをするならば、スケールの話は抜きにすれば、音的にはドレミファソラシの音で作られたフレーズを吹きま す。

アウトは、ドレミファソラシ以外の音で作られたフレーズと思っていただければ、80%は良いと思います。




そして、フレーズ的にフリーだけれども、アウトではない、というのはどういうことかと言えば・・・
まず、アドリブフレーズというものは、歌のメロディのように耳馴染みの良いフレーズではありません。
ジャズを聴かない人に、それはどういう意味かと説明すれば、たとえば、クラシックの「チゴイネルワイゼン」という曲がありますが、あの曲で出だしの僅かな 部分は、歌えるように耳馴染みが良いですが、それ以降は、そういうメロディではありません。
そういう感じです。

要するに、器楽演奏用のフレーズとも言えるかもしれません。

しかし、そういうメロデイであっても、理路整然としているものとそうでないものがあります。
そうでないものの中で、そうでない指数が高ければ、高いほど、フリーよりと言ってよいかと思います。
もちろん、次にはそのスケール、音使いというものが問題になってきますが。


要するに、私の感知しているシェップの音使いは、フレーズの理路整然指 数は相当ないが、スケール的には、アウト度が低い、というものです。

もちろん、この理路整然度指数は、小節、曲の単位での話で、小節よりもっと短い単位、瞬間の単位では、理路整然としている可能性があります。
持論ですが。 つまり何の脈略のない音を使っている訳ではないのだろう、ということです。
そうであると、3次元的肉体で感知して、「好き」、「嫌い」、「良い」、「悪い」が得られる根拠があるような気がします。
本当のところは、良く分かりません。

単音の振動の波動そのものに、意味があるのかもしれませんし、CDに波動を入れ込むことができるくらいですから、演奏者の持っている波動そのもの が、録音されていたり、演奏中に聴いている人に伝わったりしていて、「好き」、「嫌い」、「良い」、「悪い」が得られている可能性もかるのかもしれませ ん。


先日テレビで、美輪 明宏さんの歌声をオシロスコープで計測していましたが、相当珍しいパターンを持っているものであるということでした。
聴く人に安らぎを与える要素に長けていると言うことです。
今の科学でも、音の持つ内容についてある程度のことは分かるようですが、きっと、もっと多くの要素が音にはあるのだと感じています。



また、そのテレビでは、江原啓之さんも出演して、三輪さんの守護霊は、 天草四郎さんだということを言っていました。
私は、そういうことを信じてしまいます。

そこで思ったことがあります。
「天の理と時空のコーナー」で、船井幸雄さんなどは、ほとんど守護霊については触れていない、と書きました。
船井さんなどのような人には守護霊はいないのかもしれない?と言う仮説がふと浮かんだのです。

どういうことかと言いますと・・・

私は、守護霊が守護する人間の生命体は、守護霊よりも経験的に浅い生命体であると解釈しています。
池田邦吉さんの本に書かれているように、船井さんの生命体が創造主の分け御魂であるならば、それよりも経験の長い生命体というものは、存在するのだろう か?ということなのです。

ちなみに池田邦吉さんの生命体も本によれば、創造主の分け御魂を二つに分けた一つである、ということですので、守護霊というものは、いないのかもしれませ ん。
いないからどうだということはないのですが、そうだとすれば、船井さんの本に守護霊についての記述がないことが頷けます。
本当のところは、良く分かりません。

もし、船井さんのような人にも守護霊がいるのなら、一体どんな転生を歩んできた人なのか、と考えてしまいます。
みなさんは、どう思うでしょうか?



ところで池田さんは、大学の授業中、隣の教室の授業まで聞こえてきて、 一緒に覚えてしまった、というようなことが、どこかのサイトに書いてありましたが、生命体のことを考えますとなとんとも頷けます。

ただ、本来、そういう能力は生命体の力を正しく使えば、だれにでもあるのだろう、と思っています。
その力を出しやすいかどかの違いだけなのだろう、と考えます。



考える、覚える、ということに関しても、「天の理と時空のコーナー」に書いたことがありますが、最近またいろいろ考えています。

池田さんによれば、「魂のエネルギーには4つの波動がある」ということで、

@エーテル体の場(=生命の場)は原子や分子、細胞や器官を支配している。
Aメンタル体の場は精神、心を生み出しだしている。
Bコーザル体の場はエーテル体とメンタル体の場を生み出している。
Cセスによると、アストラル体が物質化したものが人間の肉体であるという。しかもアストラル体はどれだけ短時間でも肉体を離れないと言うから・・・

ということのようです。

ここで思うのが、考える、記憶するということは、どうやらメンタル体で行っているのではないか、ということです。
頭ではないのではないかと考えます。

例えば肉体的に人生が終了したとしても、その人生の記憶が生命体に残っているという事実から、やはり、頭にあるのなら理屈が通りません。

いろいろ読んだことから推測していくと、目で見たり、耳で聞いたり、したことも含めて、思考につながることは、頭ではなくメンタル体によって考えたり、判 断したりする、そして、その記憶は、おそらく時空、アーカシックレコードに貯まっていく、とするのが、私としては、納得がいきます。


今私なども、頭の中で私の声がしながら、それと同じようにキーボードを打っている訳ですが、みなさんも、頭の中で独り言を言っていると思います。
それというのも、どうも頭にそういう機能があるのではなく、メンタル体にあるのではないかと考えています。


果たして、どういうメカニズムによって、この声が聞こえているのかについては、良く分かりません。
池田邦吉さんは、天使から自分だけに歌声が聞こえてきていたことについて、横にいる他人には聞えないことから、骨伝道方式によって、特定の人間だけに聞え るようにしていたのではないかと、「あしたの世界 P3」で書かれています。

その天使の歌声の聞え方と、メンタル体の声の聞え方が同じなのかどうかは、私は天使の歌声を聴いたことがありませんので、分かりません。

ただ、昔から、「この声はどうやって出て、どうやって聞えてくるのだろうか?」と疑問に思ってはいました。

とにかく、どうやら、声の出所は、メンタル体のようだ、と言うことは、何となく分かったように感じています。
本当のところはどうだか、分かりませんが。
全て仮説です。


頭の中に画が浮かぶ、ということも、同様、メンタル体の機能のように感じています。


これと、「天目に画が浮かぶ」、ということは、どうやら、少し違うことのようですが。


こう考えて生きますと、暗記、という行為も、実は頭に入っている、ということではないように思います。
要するにアーカシックレコードあるいは、その手前にセミ・アーカシックレコードのような存在があり、暗記したもの、例えば九九のようなものも、そこに入っ て行き、それを取り出しているのではないかと感じています。


それでは、なぜ、簡単に取り出せるものと、そうでないもの、言ってみれば、覚えてものと、覚えてない、と感じるものがあるのかについて考えてみます。


肉体には頭、右脳と左脳があります。間脳というものあるようですが。
おそらく、何度も何度も特定の事柄を暗記という行為をすることにより、特定の事柄のみの通路のようなものが、時空と肉体にできるのはないでしょうか?

おそらく、私が生命体だけになっても、九九を言えると思います。(なってみないと分かりませんが)
そうであれば、頭に記憶があるのではないのは、明らかです。

以下全て仮説です。
一度でも見たり感じたりしたものは、メンタル体を通して、アーカシックレコードあるいはそれに順ずるものに入っていきます。
そして、メンタル体レベルでは、いつでも、この情報を取り出せます。
しかし、それを肉体が取り出す時は、時空→メンタル体→「何か:その1」→右脳→左脳→「何か:その2」、
という経路を辿るとします。


この内の何かが、関所のようなものになっていて、なかなか通してくれないと仮定します。
そして、そこを破れば、一般的な「記憶した」ということになるとします。



上の図が正しいと仮定して、関所はどれでしょう?
なんとなく左脳のような気がします。

理由はもっぱら政木和三さんのアルファーシータの理屈によるものですが。

だとすれば、記憶を良くするためには、

1:いかに左脳の関所を通るか
2:左脳をバイパスする=メンタル体から直接「何か:その2」へ通す

ということのような気がします。



政木和三さんのアルファーシータの理論は1に似ていると思います。
右脳から左脳へ抵抗なしに、データを送ることを可能にする理論が盛り込まれている機械だと思います。
また、それは、脳はシータ波にすることによって、可能になるようですので、シータ波の状態で記憶作業をすれば、右脳から左脳へスムーズにデータを送ること ができるようです。

ただ、私は今のところ、アルファーシータによって、大幅に暗記力がアップしたことを自覚していませんので、なんとも言えません。
ただ、瞑想中に、紫色のまん丸は、瞬時に出てきます。
これは、多くの方が、簡単に体験できるのではないかと想像します。


2はどうでしょうか?
可能なのかどうかも、分かりません。
また便宜上、「何か:その2」というものを仮説していますが、そういうものがあるのかどうかも、良く分かりません。

もしあるとすれば、それは、松果体でしょうか?
天目でしょうか?
どこかのチャクラでしょうか?

そして、これは、要するに、超能力の一種でしょうか?
そうかもしれません。
よくよく考えると、アーカシックレコードに通じる、ということ、そのもののような気がします。



かようにいろいろ考えてはいますが、今のところ、はっきりと言えることはありません。

ただ、右脳から左脳へスムーズに情報が伝達されることに抵抗となっているのは、「時間の概念」のような気がしています。






以上、アーチー・シェップでした。



173:Wavelet, 大井貴司
   
  もう若手とは言いませんが、第三世代のビブラフォン奏者の大井貴司さんのアルバムです。 

1990年の作品です。

曲目です。


1.ミスター・ブルー
2.サテライト・ベイ
3.ウィンキング・サン
4.センチメンタル・ジャーニー
5.キャラヴァン
6.朝日のようにさわやかに
7.ファンキー&トリッキー
8.ウォーター・バード


 このアルバムでのビブラフォン(バイブとも言いますが、ちょっとエッチ)は、録音のせいもありますが、とても透明感を感じます。

思うに、増田一郎さんあたりよりも、モダンだと言うこともありますが、フュージョンにおけるエレピなどの演奏を早くから耳にしている世代ですので、 ビブラフォンの音使いも違ったものになってきているのではないかと思います。

ビブラフォンは、音色的にも、使われ方的にも、エレピと似たようなところがあります。
コードをばっと出すのではなく、スプレーで放射したような淡い感じの色付けが可能な楽器です。

それでいて、ソロでは、クリスタルガラスの演奏を思わせるような、芯がありながら、きらきら光舞い上がるような音を出します。

ビブラフォンは、鍵盤の下に付いている”くるくる回る”装置によって、トレモロ効果を出しています。
ここら辺などは、差ながら、コーラス、フェイザー系のエフェクトをかけたエレピと似たような発想です。

トレモロとは、ギターのトレモロアームによるピッチ変更のことではなく、50年代、60年代初期のバラード曲のギターなどによくかかっていたエフェクトの ことです。
ポール・アンカの「あなたの肩に頬よせて」などのあのギターにかかっているのがトレモロというエフェクトです。
リバーブと並んで、最も古いエフェクトの内の一つではないでしょうか?

エレピとの大きな違いは、先端に○の付いた棒で叩いて音を出しますので、音の中心に芯があることと、同様、鍵盤楽器を指で弾く様なタイミングではな く、日本の棒で代わる代わる叩きだされた独特のタイミングがフレーズにあることだと思います。

ですので、シンセなどで、ビブラフォンの音を使うときなどでも、ピアノ風な弾き方をしないで、日本の棒をイメージしてたような弾き方をしますと、美裏フォ ンぽさが増します。

ライオネル・ハンプトンはドラムからビブラフォンに移った人ですが、ピアノも、日本指で弾いてしまいます。速弾きです。
「ハンプス・ブギウギ」などの曲で、それを聴くことができます。

私はビブラフォンは大好きです。


変な話ですが、私は中学生くらいまで、ラジオなどで音を聴くと、頭の中に勝手に、いろいろな水玉模様のようなものが舞っていました。
別に超能力とかそういうことではなく、きっとそれくらい感性が敏感だったのでしょう。
若い頃というのは、だれでも、敏感なものでしょう。

特にサックス、ピアノの演奏では、それが顕著だったように思います。
いろいろと書きましたが、ゴールドの水玉が音に合わせて、たくさん舞っていたのが、一番心に残っています。
こういう経験をしたことがある方は、他にもいるのではないでしょうか?
分かりませんが。

それが舞っていると、意も知れぬ心地よさを感じていたのを思い出します。
放心状態と言いますか、それともちょっと違うかもしれませんが。

私がCDを買い続けるのは、あの頃のあの気持ちよさを求めているのかもしれません。


瞑想によって、宇宙との完全な一体感を得た時というのは、ひょっとするとあのような感じなのかとも、想像しますが、私はいかんせん、まだそこまでは行って いませので、良く分かりません。

ビブラフォンの音は、あの時の水玉模様のイメージにとても似ていると思います。

あの感性は、どうも、生命体と言いますか、きっと宇宙と今より、もっと近い何かがあったからのような気がします。
やってみていますが、どうもこれは、取り戻せるのではないかと思っています。



さて、今、デヴィッド・R・ホーキンズ著、エハン・デラヴィ&愛知ソニア訳による「パワーか、フォースか 人間のレベルを測る科学」(2004年9月発 行:三五館社)を読んでいます。
昨年の船井オープンワールドで、船井幸雄さんが話していた本です。

まだ途中ですが、なかなか興味深いです。
詳細は読み終わった後に書きますが、独自の測定法による人間の意識レベルは、次のようになっているそうです。
ちなみに、測定の数値は十進法ではなく、対数で、300は、10の300乗の数値という意味だそうです。



人間の意識レ ベル

  • 恥:20
  • 罪悪:30
  • 無感動:50
  • 深い悲しみ:75
  • 恐怖:100
  • 欲望:125
  • 怒り:150
  • プライド:175
  • 勇気:200
  • 中立:250
  • 意欲:310
  • 受容:350
  • 理性:400
  • 愛:500
  • 喜び:540
  • 平和:600
  • 悟り:700〜1000




200より下を「フォース」、それより上を「パワー」と表現しています。
200を超えたレベルは、積極的なパワー表現となるそうです。

詳細は述べませんが、いくつもびっくりすることがあります。
まず、「恥」という意識が、かの低いレベルであるということが、私には驚きです。

「恥」と「照れ」が日本では良く混同されているように感じていますが、私はそれに違和感を 持っていました。
きっと、「恥ずかしい」という言葉が、上記の2つの言葉の意味を使う場合に、といわけ、分けもせず使われることが多いからだと思います。
それでも、何となく聞くほうも話す方も、体が勝手に使い分け・判断してくれるだろう、とも思えますが、一度口を出れば、それはやはり言霊というものがあり ますので、ちゃんと、正しい意味で使いませんといけないのでしょう。

そして、「罪悪」、これも驚きです。
あるいは最も私には勉強になるかもしれません。
自分の非を認める、という潔い態度が清いものである、と言うような感覚がありましたので、私はこの罪悪感を良く持っていたように思います。
これは、とても間違ったことであったようです。
上の並び方は、そのまま波動の良し悪しと同じようになっているのでしょうから、これから要注意です。


プライドも、罪悪に比べれ良いものの、基本的には低いレベルの意識のようです。
そう思います。
プライド=勝った負けたにこだわる事

というのが、私の考えです。



ただし、「プライド」ではなくて、その後、どこへ行くのだ?と考えてから、ずっと答えを模索 していたように思います。
今の私は「宇宙に愛されていることを感じること」そしてその次に「それに対しての感謝」、次に「愛」という流れなのだと思っています。

もちろん、この後もあるのだと思いますが、今のところ、まず、ここまでです。


上の図でも、「愛」というものが出てきます。
きっと正しいのだと思います。

しかし、それは、多くの方が語っています。
語られていながら、どこか正確に届いていない考え、という気がします。
この本はまだ、詳しく読んでいませんので、本自体については、特に言えませんが、私は、やはり、「愛」を語る前に、「宇宙に愛されていること」の認識、知 ること、から語り始めなければ、何十年も言われ続けながら、なかなか人の心に響かなかった歴史のくり返しになるのではないだろうか?と感じています。

もちろん、船井幸雄さんによれば、「正しいことが分かる人間が増えてきた」ということですの で、その限りではないかもしれません。

それでも、宇宙との一体感の認識なしには、きっとどこか足りないのだろうと思っています。
本当のところは、良く分かりません。


まず、「宇宙に愛されていることを感じる」、どうもこれに根本的な意味があるような気がしてしまいます。


ビブラフォンのアルバムでした。




174:FEELING: Milt Jackson
   
     
  ミルトジャクソンのストリングスものです。

とても、ムーディな演奏が聴けます。

曲目です。


1.Feelings
2.Come to Me
3.Trouble Is a Man
4.Moody Blue
5.Day It Rained
6.My Kind of Trouble Is You
7.If You Went Away
8.Tears
9.Blues for Death
10.You Don't Know What Love Is


彼は、ビブラフォン史上最高の奏者というように評価されています。

ビブラフォンがジャズに初めて使われのは、ライオネル・ハンプトンからだったように聞いています。
私がその場にいた訳ではないので、実際のところはよくわかりませんが。

「ポップヴォイス」には、ハンプトンの次のような記述があります。


 「ポップヴォイス:ジョー・スミス著・三井徹訳:新潮文庫」
(24ページより引用)
『あるとき、ルイが部屋の隅にヴィブラフォンが置いてあるのを見て、「そこの隅にあるものはなんだい」って訊いたことがあって。
「ヴァィヴ・ハープって言ってるよ」って答えたら、「弾けるのかい」と言うんで、「もちろん」と言って、ルイのレコードのある曲をやったら、ルイはびっく りして。ヴァイヴでジャズが演奏されたのはそれが初めてだったんです。誰もそれまでやってなかったから。』

と、言うことのようです。

森田健さん式に言えば、正に偶然を装って、そこに置いてあったのでしょうか、あるいは、偶然を装って、ルイ・アームストロングが遊びにきたのかもし れません。
もともとハンプトンはドラマーですが、結局その後、ベニー・グッドマンと知り合い、ベニー・グッドマンコンボに参加して、その後、栄光の道を歩むことにな ります。

ちなみに、アルトサックスのマルタさんは、確かハンプトンの何回目かの来日の時に、ライオネル・ハンプトン・ビッグバンドのバンマスを勤めていて、 その後日本で活躍するようになったように覚えています。


森田健さんがらみで、書きますと、不思議研究所のサイトに、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」に関係した話が出てきていました。

それによると、・・・
地獄に陀多(かんだた)という極悪人がいます。彼は、生前ただひとつだけした善行をしました。それはクモを助けたということです。
その善行に報いてあげようと、お釈迦様が「蜘蛛の糸」を垂らして、地獄の底から陀多(かんだた)に這い上がってくるチャンスを与えます。
彼は糸を手繰って登ってきます。
しかし、後ろを振り返ると、多くの同じところにいた人たちも、その糸を手繰って登ってきています。
それでは、糸が切れてしまいますので、彼は「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸はおのれのものだぞ。降りろ、降りろ」と言ったのだそうです。
すると、糸が切れてしまう・・・・というお話です。


私は、この本は読んだことがあるような、ないような、あっても小学生くらいの時だったろうな、ということで、詳細なでは覚えていません。
ただ、今こうやって書いていて、改めて気が付いたのは、陀多(かんだた)は、”下の相手を蹴落とそうとした”のではないようですね。
「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸はおのれのものだぞ。降りろ、降りろ」と言っただけのようです。

何か絵本のようなものでも、見たことがあるのか、アニメだったのか、蹴落とそうとした図柄が目に浮かんできてしまっていましたが、違うようです。

陀多(かんだた)は、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸はおのれのものだぞ。降りろ、降りろ」にどのような意味を込めていたのでしょうか?

現実的に発想すると、私でも、ほとんど同じ言葉を言うと思います。
意味合いとしては、
「そんなに一辺に登ってきたら、糸が切れてしまうから、順番に登って来い。糸は自分が登っても、まずこのままたれ続けているはずだ。お釈迦様は、糸を引き 上げてしまうようなまねなどするはずがない。糸が切れたら元も子もないだろう?」
という感じでしょうか?
ちょっとかっこ良すぎるでしょうか?(笑)

もちろん悪意に解釈すれば、「助かるのは俺だけだ。糸が切れるから降りろ。この糸だって、いつまでこのまま垂れ下がっているか分かったものではない」
とも取れる言葉です。

現実的?に言ってお釈迦様はテレパシーが使えるように思うので、陀多(かんだた)の本心は分かっていたことでしょう。
もっと言えば、未来予知もできるはずですので、彼がどのような行動を取るのかは、すべてお見通しだったように思います。

それでも、糸を垂らしたのは、どういうことだったのでしょうか?
少なくとも、今この場で救ってやろうと思ったのではないのは確かだと思います。
何かを教えるためでしょうか?
私にはそれくらいしか、思い浮かびません。

それは森田健さんが、同じ書き込みで曹洞宗の道元の言葉を引用して書いているように、
「仏の家に自分を投げ入れ、この家を糸だと思い、無心に上だけ見て登っていけば良い」
ということなのかもしれません。


少なくとも、多くの方が解釈しているような、他の人を追い払おうとしたから、凝らしめを与えた、ということではないようです。

この森田さんの引用した道元の言葉は好きです。
勝手に解釈すれば、政木和三さんがゴルフで言っている、「汝のゴルフは汝の足元1メートル四方である」と言う言葉と似たような意味を持っていると感じま す。
「一度大きな目標を決めたら、そのとき限りですっぱり忘れ、後は一歩一歩、要するに1メートル四方だけを見て、進んで行けばよいのだ」ということのようで す。
これは、「無限小の力で、無限大の時間をかければ、奇跡のようなことが起こる」という政木さんも言葉にも通じることのように感じます。


要するに、私のようにせっかちな人間はどうも100点ではないようです。
別に元々100点ではないとは思いますが。
私の家族は全員せっかちです。
私は中では気が長い方だと思いますが、家族は自分がせっかちなくせに、私のことをせっかちだと言います(笑)。
せっかちな人間でうまく行った人間はいない、と書こうと思いましたが、どうも船井幸雄さんは、風呂も食事も極端に短時間で済ますようですので、この言葉は 使えません。

また、社会人に出て初めてついた職が営業だったせいか、先を見越すことに、”現在”同様の大切さのようなものを持っていますので、どうしてもやや先のこと を考えてしまいます。
加えて、幼少時代から、”昔を思い出す”という変な癖(笑)がありますので、以前のことも考えてしまいます。同じ間違いをしないように、成功パターンを覚 えているように、ということでしょうか。


しかし、この成功パターン、あるいは失敗パターンでもよいのですが、これは、時代と、自分のあらゆる意味での成長度によって、まったく違ったものになって くるようです。


前回書きました、「人間の意識レベル」ですが、本によれば、それぞれの意識では、それより上の意識レベルで行っている「正しいこと」がまったく理解できな いようです。
考えるにもっぱら、200以下のレベルで、それが顕著なのだと思いますが。これも本の中に書いてあるかもしれませんが。



人間の意識レ ベル

  • 恥:20
  • 罪悪:30
  • 無感動:50
  • 深い悲しみ:75
  • 恐怖:100
  • 欲望:125
  • 怒り:150
  • プライド:175
  • 勇気:200
  • 中立:250
  • 意欲:310
  • 受容:350
  • 理性:400
  • 愛:500
  • 喜び:540
  • 平和:600
  • 悟り:700〜1000


この理解については、どうも好みというようなことでは、片付けられないように感じます。
何とかの社長さんは、まずマザーテレサを理解できないことでしょう。
「なんで、そんな人をそこまでして助けるの?」、と。

これはやや極端な例ではありますが。


ただ、この何とか社長とマザーテレサの話も、簡単にどちらが偉い、というような話では片付けられないことのようです。

先ず間違いなく、測定レベルでは、マザーテレサの方が上だと思います。
しかし、それを単純に「人の心の痛みが分かる」とか、「精神修養ができている」ということで説明するのは、あまりにも、説明が雑なように感じます。

そのような説明をしている限り、そう簡単に「地の理」からの脱却は出来ないように感じます。

例えばマザーテレサが何を考えて生きていたのか?
良く分かりませんが、根本は、地球を良くしよう、とかそういうことではなかったように感じます。
(伝記を読んだことはありませんが。)
だったら、政治家になったり、大企業の社長になって、大金を手に入れて、そのお金で出来ることの方が、きっと多くの人を助けることに繫がったかも知れませ ん。

ガンジーにしても、防弾チョッキを着て、長生きした方が、ずっと長く活動出来たのでしょうから、もっと多くのことを成し遂げられたかもしれません。

もちろんこれ等の人たちの行動は運命によって決まっていたのだと思いますが。
(ひょっとしたら、船井さんのように原因の世界を下ろしてこれるだけの方だったかもしれませんが)


もちろんこの方たちは、経済的に成功した幸せな人生を歩んだということではありませんので、人生成功物語と照らし合わせても、仕方のないところもありま す。

しかし、どうも考えるに、森田健さんの言っている、「下位の問い」ということが、意識レベルについても、大きく関係しているような気がしています。

「私はだれ?」、「どこから来て、どこへ行くのか?」、「時空はどうなっているのか?」
とは、森田健さんの問う下位の問いですが、どうも私なりには、下位の問いとは、

「この世の森羅万象は,それぞれ本当はどうなっているのだろう?」

というようなことなのではないか?と思うようになってきました。
仮説ですが。

そういうことを問い続けていると、何かあるのかもしれません。


そして、とにもかくにも、「宇宙に愛されていることを信じる」ということも、本当の自分を知るためには必要なことであるように感じています。
ここで言う愛とは、半端な愛ではないようです。

少なくとも、全地球の人口がぶら下がっても、切れない糸であるのは確かのようです。
訊いてきた訳ではありませんが。


ミルト・ジャクソンでした。





175: Tenderly, Gerge Benson
   
  ジョージ・ベンソンです。

この頃のベンソンは、フュージョンと言いますか、アダルトコンテンポラリー調のアルバムを中心に出していましたが、久しぶりに出したジャズアルバムがこれ だったように、記憶しています。

曲目です。

1.恋を知らないあなた:vocal
2.星影のステラ
3.スターダスト:vocal
4.アット・ザ・マンボ・イン
5.ヒア・ゼア・アンド・エヴリホエア:vocal
6.ザット・イズ・オール・アイ・アスク:vocal
7.テンダリー
8.アイ・クッド・ライト・ア・ブック

キーボードにマッコイ・タイナー 、ベースにロン・カーター、ドラムにハワード・ライリー、アル・フォスターなどが参加しています。

彼はとても特殊な芸歴を持っていると言ってよいと思います。
レコーディング・デビューは何か歌モノのアルバムだったようですが、本格的にプロとしてデビューしたのは、ご存知の通り、ジャズギタリストです。
しかし、その後、アルバム「ブリージン」の大ヒットによって、フュージョン路線、歌モノ路線でも活躍し、ジャズギターマスターであながら、トップ・ポップ シンガーとしても確立しています。

おそらく、このようなマイナーなジャズと、ビルボードチャート常連のポップシンガーの二股を生きたアーティストはいないはずです。
しかも、歌モノです。
ハービーハンコックなども、ロック調のシングルヒットを出していますが、時々ですし、自分で歌っているわけではありません。
とても、変わった、ある意味幸せなミュージシャン人生を送っている人です。
下位の問いがあったのかもしれません。



さて、本日、インターネットオークションで、ソニー製の17インチモニターを売りました。
買った人は近くに住んでいるということで、車で取りに来てくれました。
梱包の面倒がなくなり助かりましたし、買った方も配送料金を払わずに済んで、良いことだらけです。

買った人は元ソニーの社員で、NEWSコンピューターの設計をやっていたということでした。
NEWSということですから、私より、いくらか年上のはずですが、そんなに老けた人ではありませんでした。
元上司と一緒に会社を興してがんばっているそうです。
グラフィックをするということで、液晶ではなく、CRTモニターが必要だったということです。

今ソニーはいくつかの商品の設計を外注に出しているはずですが、そのモニターは確かソニーで設計したモニターの後期のもので、なかなか良い画質のも の です。
買った人はそれを知っていました。
私も以前ソニー関係の仕事をしていましたが、その人はその会社も知っていました。
いろいろ話をしている内に、先の「NEWSを設計していた」ということを聞き出したのですが、先日、天外 伺朗さん運 命の法則―「好運の女神」と付き合うための15章  (2004/11発行:飛鳥新社 ) を読み、NEWSコンピューター部門での話が書いてあり ましたので、天外さんがNEWSの仕事をしていたのを知っていましたので、なんとも不思議で嬉しい出来事でした。

思わず、会った記憶も無いのに、「○○さんとか」とか言ってしまいました(笑)。
「ええ」と言っていました(笑)

名詞でも調べてみれば、会ったことがあるかどうか分かるかもしれませんが、1年ほど前に、ほとんど捨ててしまいました。


やはり、人は集合無意識かなにかで、人はつながっているようですね。

まだまだ使えるモニターを捨てることなく、使ってくれる人がいて、その人が、モニターのことを良く知っていて、尚且つ天外さんの下でコンピューター の設計をしていた、と思うと、なんとも言えません。



NEWSというのは、要するに業務用のワークステーションのことで、今で言えば、ネットにつながった高性能PCということでいいと思います。
(違っていたら教えてください)
システム仕様書には、いろいろ図が書いてありましたが、今思うと、要するにLANにプリンターから何からつながっている、という今では常識になっているこ とが書いてあったように思います。
それでも、当時としては何かすごいことでした。

もちろんと当時の話(20年近く前)ですので、今のPCと比べればずっと性能は下です。

その後クオーターLという民生機も出していました。
トラックボールの付いたかっこの良いノート型のものもありました。

しばらくソニーはコンピューターから離れますが、戻ってきたのは、例のVAIOですね。


知っている人には当たり前の話ですが、当時はNECの98とマックがPCとしては一般的だったように思います。
私のいた会社は出たばかりのMOなどを扱っていましたが、当時は専用のインターフェースボードなどを一緒に売らなくては使えませんでしたので、そういう PC関連機器には、大抵インターフェースボードが別売りでラインアップされていました。
(あれは単なるSCSIボードではなかったのだろうか?とも思いますが、どうでしょうか?)

それでも、やはりソニー関係の会社のせいだったのか、IBMのAT/PC互換機用か、MAC用のものしか揃えてなかったような気もします。
98用もあったかもしれません。
98用については、良く覚えていないようです(笑)。


確か、まだNEWSがあったころ、生まれて初めて「マウス」というものを見て、感動したのを覚えています。
きっとPCはマッキントッシュだったのでしょう。
何かの展示会でそれを見ました。
当時PCと言えば、訳の分からない「コマンド」という文字列を入力しなくてはならず、ただでさえ、暗記物が苦手だった私は若いにも関わらず、全く興味を示 しませんでしたが、「マウス」を見た瞬間、「自分でもできるかもしれない!!」と思ったのを覚えています。
しかし、実際PCを使い始めたのは、それから7,8年くらい経った時でしたが。



今でこそ、PCで動画編集など簡単に出来ますが、当時のPCと動画との関係は、今のようなものではありませんでした。
アミガというコンピューターが動画編集に登場していましたが、それは、ビデオ機器をPC上でコントロールするだけ、というもので、今のように、動画事態を ハードディスクに取り込んで編集するだなんて、とんでもないことでした。
それでも、いつかはできるのだろうと、みんな思っていたように感じています。
アミガはアミガ独自のOSだったでしょうか?それとも、IBMかマイクロソフトだったのでしょうか?良く覚えていません。
当時のPCの知識はそんなものでした(笑)
今でも、別にソフトを組んだりできるわけではありませんが。



当時でも、コンピューター通信といって、文字だけで、全く知らない人たちとやりとりするというメディはありました。
谷山浩子さんなどは、やっていたようです。
先日テレビ出演していたマウスコンピューターの社長(30代前半)もやっていたようです。

私のもっていたワープロにも、RS-232Cの端子が付いていて、モデムをつなげばできたようです。
しかし、なんだこれは?とは思いましたが、やりはしませんでした。

今、ライブドアががんばっていますね。
昨日テレビで女性コメンターが面白いことを言っていました。

「PCを使う時は、前かがみ30度でやるが、テレビを見るときは後ろに60度よりかかっている。なので、一緒になることはない」
というのです。
私はなるほどな、と思いました。
確かに、テレビを見ているときというのは、与えられるだけの状態であり、こちらからは何も出来ないから、初めてゆったりできるのだと思ったのです。
もし、インターネットと連動した機械が出来、そういう番組ができたら、これはゆったりしていられません。

もう、ボタンをいつでも押せる体制を作っておかなければ鳴りません。
頭も明瞭にしていなければ、いつどんな質問がくるかもしれません。

そう思うと、ゆったりはできないかもしれませんね。

これは人生でも同じかも知れません。

3次元で肉体を、持っている限り、何らかの行動ができます。意見も言えます。
そしてそうすることによって、自分で人生を根本から変えていくことができるように感じます。
だからそうしてしまいますし、いつでも前かがみ30度の姿勢で構えていなくてはなりません。
きっと、これがどこかいけないのかもしれません。

もし、全てを時空に委ねるようと思うのであれば、きっとゆったりとソファーによっかかり、くつろいでいなければいけないのかもしれません。



何か、変な雑誌か、生命保険のおまけの小冊子にあるようなエッセイを思わせる終わり方になってしまいました(笑)。


ジョージ・ベンソンでした。

 

176:モーニン:アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズ    
  有名な「モーニン」 を24ビットでリマタリングしたものです。



曲目です。

1:ウォーム・アップ・アンド・ダイアログ・ビトウィーン・リー・アンド・ルディ
2.モーニン
3.アー・ユー・リアル
4.アロング・ケイム・ベティ
5.ドラム・サンダー組曲
6.ブルース・マーチ
7.カム・レイン・オア・カム・シャイン
8:モーニン(Alternate Take)


モーニンが2つ収録されています。




さて、CDは44.1KHz、16bitでサンプリングされているのです が、24ビットでリマスタリングするとはどういうことでしょうか?
普通に考えれば、アナログマスターからデジタルマスターへ落とす時に、24ビットでマスタリングするということだと思います。

そして、それをCDのスタンパー(原盤)に焼く時には、その音は、16ビットに直されるはずです。
となると、簡単に考えれば、直接、アナログマスターから16ビットにデジタル化しても同じように感じますが、きっと、わざわざ時間を費やして、遠回りする のですから、音質的な上昇があるのでしょう。

推測すれば・・・・・
アナログマスターから16ビットに 落とす場合と、アナログ→24ビット →16ビットの順で落とす場合では、前者の方がきっと元データからのロスが多いのでしょう。
アナログ的に考えれば、手順が多ければ多いほど、ロスが多くなるのですが、ここでは違うようですね。


16ビットと24ビットはどう違うかということを簡単に考えて見ますと、要するにサンプリング=情報収集量が違うということだと思います。
簡単に説明すれば・・・・

仮にアナログが「あいうえお」の50音で出来ているとします。
16ビットは16文字、24ビットは24文字で、元のアナログをデジタルに置き換えると考えれば、良いのだと思います。

あるいは、「ちゃんこ鍋」があります。
ある相撲部屋では、30種類の素材が入っているとします。
つまり、鶏肉、白菜、ニンジン、シイタケ、春菊、鱈、つみれ・・・・・・という具合で30種類です。

これを24ビットでは、24種類の素材で作る、16ビットでは16種類の素材で作る、と考えればいいのかも、しれません。


ただし、16ビットとは2の16乗で、24ビットとは2の24乗個の情報収集量がありますので、規模と細かさが上の説明とは異なります。



これを踏まえて、事実と照らし合わせますと、
アナログマスターから16ビットに 落とす場合より、アナログ→24ビット →16ビットの方が音が良いということですので、
アナログマスターから16ビットの 工程より、アナログ→24ビットの 工程の方がロスが少ないということか、
アナログマスターから16ビットの 工程より、24ビット→16ビットの 工程の方がロスが少ないということか、
アナログマスターから16ビットの 工程より、アナログ→24ビット24ビット→16ビットの両工程が共 にロスが少ないということ、だと思います。

いろいろな組み合わせでものが考えられるかと思いますが、アナログの音≒現実の音、をデジタル化するには16ビットではあまりに少なすぎたということ か・・・
あるいは、アナログから直接デジタル化するには、16ビットの持つ癖のようなものが、どこかでそぐわず、一度24ビットデジタル化されたものから16ビッ トへ変換したほうが、どこかで相性が良いということでしょうか?

「ちゃんこ鍋」で考えると少し分かりやすそうです。

30種類の素材でできている「ちゃんこ鍋」を想像します。
1:鶏肉、2:ぶた肉、3:牛肉、4:ウインナー、5:つくね、6:白菜、7:ニンジン、8:シイタケ、9:春菊、10:しめじ、11:エンリギ、12: 舞茸、13:キャベツ、14:キクラゲ、15:にら、16:鱈、17:つみれ、18:海老、19:蟹、20:たこ、21:いか、22:帆立貝、23:蛤、 24:ツブ貝、25:豆腐、26:おふ、27:ナルト巻き、28:しらたき、29:銀杏、30:こうや(こうり)豆腐

とします。

これをいきなり、(1)16個の素材で作り変えて、できるだけ似た味の「ちゃんこ鍋」にするのと、
(2)一度24個の素材で作り直し、できるだけ30個に近い味にしてから、24個で作られたものとできるだけ同じ味にするように16個の素材で作った場合 とでは、
後者(2)の方が以外に30個で作った「ちゃんこ鍋」の味に近いのかもしれません。

具体的には(1)では:
太字が選択された素材)
1:鶏肉、2:ぶた肉、3:牛肉、4:ウインナー、5:つくね6:白菜、7:ニンジン、8:シイタケ9:春菊、10:しめじ、11:エンリギ、12: 舞茸、13:キャベツ、14:キクラゲ、15:にら、 16:鱈、17:つみれ18:海老、19:蟹、20:たこ21:いか、22:帆立貝、23:蛤、 24:ツブ貝、25:豆腐、26:おふ、27:ナルト巻き28:しらたき29:銀杏、30:こうや(こうり)豆腐

の「ちゃんこ鍋」になるかもしれません。


それに対して、(2)では、
1:鶏肉2:ぶた肉3:牛肉4: ウインナー5:つくね6:白菜、7:ニンジン、8:シイタケ9:春菊10: しめじ、11:エンリギ、12: 舞茸、13:キャベツ、14:キクラゲ、15:にら16:鱈、17:つみれ18:海老、19:蟹、20:たこ21:いか22:帆立貝23:蛤、 24:ツブ貝、25:豆腐、26:おふ、27:ナルト巻き28:しらたき29:銀杏30:こうや(こうり)豆腐

の24個が選ばれ、

その後、

1:鶏肉2:ぶた肉3:牛肉4: ウインナー5:つくね6:白菜、7:ニンジン、8:シイタケ9:春菊、10:しめじ、11:エンリギ、12: 舞茸13:キャベツ、14:キクラゲ、15:にら16:鱈、17:つみれ18:海老、19:蟹、20:たこ、21:いか、22:帆立貝、23:蛤、 24:ツブ貝、25:豆腐、26:おふ、27:ナルト巻き、28:しらたき、29:銀杏、30:こうや(こうり)豆腐

16個の素材が選ばれるかもしれません。


確かに、少しずつ減らしていった方が、オリジナルと同じ味を作ろうとするなら、効果があるかもしれませんね。

実際は良く分かりませんが。


最近の方はアナログレコードと言うものは、あまり聴く機会はないかもし れませんが、CDと比べるとどうかと言いますと、
CDの方が、「のっぺり」した感じがします。
引っかかりどころがないと言いますか、つかまるところがない、という感じがします。

ダシを入れ忘れた味噌汁、という感じにも似ています。

あるいは、焦げ目の付いていない焼き魚、またはステーキ・・・

こんな感じです。

逆にCDはノイズがありません。
針にホコリが溜まりません。
引っくり返さないで、長時間聴けます。
収納が楽です・・・・・

こんな感じですね。
   

ラーメン屋さんのラーメンと、インスタントラーメンの関係にも似ているかもしれませんが、その関係と違うのは、ス ペース的などの問題でCDとレコードはなかなか両方、手元に置き、聴くというのがしにくい、ということでしょうか。

それに対してラーメンは、家ではインスタント、外では手作り、と両方食べられます。
ですので、私としては、特に問題はありません。







デヴィッド・R・ホーキンズ著、エハン・デラヴィ&愛知ソニア訳による「パワーか、フォースか 人間のレベルを測る科学」(2004年9月発行:三五館 社)
を読み続けています。
いろいろ発見がありますが、「アトラクターパターン」という言葉が出てきますが、どうも私としてはこれは「波動」と置き換えて良い言葉のように感じていま す。

この本の面白いところは、翻訳本である、というところのように思います。

デヴィッド・R・ホーキンズ著ということで、基本的には西洋人が書いた本で、やはりどこかアメリカ的な発想のようなものを感じるときがあります。
しかし、翻訳されていますので、そのどこかにとても翻訳者の特性のようなものが出ているように感じます。

翻訳のエハン・デラヴィさんの言葉が最後にありますが、森田健さんの「運命を変える未来からの情報」(講談社)を引き合いに出すなどしており、翻訳の中に も、「投影」、「問い」」などという言葉もしばしば見受けられたりします。
これが森田健さんの著作の影響なのかどうかは確かではありませんが、森田さんの著作を読んでいなければ、違う言葉に置き換えられていた可能性もあり、そう なると、両者の本をあわせて読んでいる読者にとっては、違った印象を与える内容になっている可能性はあると思います。

ちなみに440ページには、(引用)
森田健さんの「運命を変える未来からの情報」(講談社)のように、その未来こそ が今であり、ホーキンズ博士が説明するまさにABCだと考えられます。博 士がいうように結果であるA→B→Cにフォーカスをおいても無駄なのです。それがわかると、ABCを自然と観察できている自分にも気づきました。
とあります。






本の中では、原因と結果という時間の流れ、意識の流れの特徴として、思考パターン、知覚、感情というものは、優位のアトラクターエネルギーが同調化したも のである、というようなことが書かれています。
要するに、その人の持つ波動の種類によって、この世の物質化されている事象というものは、見え方がぜんぜん違っている、ということを言っているようです。

アトラクターパターン(波動?)が持つ情報処理方法により、ひとつの情報に対しての価値観、持つ意味などが全く違ってくるとも書かれています。
つまり事実は主観である、ということです。

しかし、それでは、普通に言われる「事実」がなくなってしまいます。
そして、多くの人は不安になってしまいます。
それ故、現代の人は絶対的で確実なものとして提供される科学というものを信仰している人が多いとしているように読み取れます。

科学は感情や先入観によって歪められる主観を乗り越えようとしているが、その科学自体が先入観だらけである、としています。
科学のパラメーターはひとつの見方に過ぎず制限されている、そして別の感覚的なゆがみを引き起こしていると書かれています。
科学はひとつのデータを、前後関係や全体の状況から引き剥がして考えようとするが、それこそ主観的なゆがみであるとしています。




船井幸雄さんは、現在、我欲だけでやっていけるのは、政治や行政、新聞やテレビの世界、そして学者だけになってきた、と言っています。

テレビ、ラジオ、新聞の世界で最近いろいろ起きているようですので、学者の世界でも、何か象徴的なことが起きるのかもしれません。
乗っ取りはないでしょうから、何かすごいことでも発見されるのでしょうか?




「パワーか、フォースか 人間のレベルを測る科学」(2004年9月発行:三五館社)には次のようなことが書かれています。
(326ページから引用)
意識のレベルに関する話の中で、プライドの欠点のひとつが「否認」であると述べ ました。どの人間の心もその「正当さ」を守るために否認に従ってしまいま す。この普遍的なものと、変化に対する抵抗が、一生涯を通して平均五ポイントしか発達できない理由となっています。
「私は知っている」という幻想を捨てることで、大きな意識の飛躍が常に起きます。 意欲的に変化することのみが、たったひとつ、残された道であることが人生 には多いのです。最終的にこれ以上行動を起せないという「底打ち」に人が達すると、空しい信念を打ち破ることができます。

『「私は知っている」という幻想を捨てることで、大きな意識の飛躍が常に起きます。』
という言葉はなかなかすごい言葉だなと思いながら読みました。

原文はどうなっているのか知りませんが、言っている内容もさることながら、翻訳者のするどさのようなものを感じてしまいます。
エハン・デラヴィ&愛知ソニアの両人は夫婦ということです。
ソニアさんは日本人でしょうか?良く分かりませんが、イギリス、イタリアへ留学し帰国後、結婚としますので、そうかもしれません。
またエハンさんは、スコットランド生まれの冒険家で、74年来日、禅、弓道、鍼灸を習得とあります。




16ビット変換も24ビット変換も、変換後の事実が変化することから、それ自体がエネルギーを持つ波動のような意味合いにも取れるのかもしれません。

『森田健さんの「運命を変える未来からの情報」(講談社)のように、その未来こそが今であり、ホーキンズ博士が説明するまさにABCだと考えられます。博 士がいうように結果であるA→B→Cにフォーカスをおいても無駄なのです。それがわかると、ABCを自然と観察できている自分にも気づきました。』
というエハンさんですが、そういう境地になると、どういうビットレートで変換しても、音は同じように聴こえているのでしょうか?
みなさんは、どう思うでしょうか?

すべての事実は主観なのかもしれませんね。







追記:
但し、音の場合は、ビットレートだけではなく、周波数も関係してきます。
CDは44.1KHz、16bitでのサンプリングですと、理論上では、22KHzまでの高域周波数の再生が可能になります。
つまりサンプリング周波数の1/2まで再生可能という理屈です。

これを踏まえて、アナログとCDの音の差の話をすれば、「 ダシを入れ忘れた味噌汁、という感じにも似ています。あるいは、焦げ目の付いていない焼き魚、またはステーキ・・・」というのは、周波数にも起因する可能 性があります。

これを擬似的に補うためには、グラフィックイコライザーで高域・低域を上げる、ということがあります。
すると一見聴覚上、音の密度が詰まったような感じがし、音が良くなったように感じられます。


しかし、実際は、密度が高まったわけではなく、そう”感じる”というだけです。


これは、違う例で言えば、ダシの入っていない味噌汁に塩を足すのと似ています。
一見、味が濃くなったように感じますが、実際は塩辛くなっただけで、本当はダシを入れなくてはいけません。


あるいは、画素の低い静止画画像をコントラストなどを高めて、一見栄え良くするということにも似ています。
これは、決して画素が増えたということではなく、視覚上、画質が良くなった、という錯覚に近いことが起きたということに過ぎません。


このビットレートと周波数の関係は、波動における波長と周波数の関係に似ているのかもしれません。
実際のところは、良く分かりませんが。

人生においていろいろなことが起きますが、それも同じことが起きても、その人の持つ波動によって、見え方、感じ方が異なるようですので、どうも2次元的な 作用をこれらのものに感じます。

人生において、高音・低音、コントラストとは何かと考えますと、それは、ひょっとしたらお金かもしれない、とも考えていますが、良く分かりません。



また事実は主観である、ということに関しては、少なくとも、通常の人 間の肉体器官で感知できる大きさのもの以下の事象については、100%そうなのかもしれないという感じがします。
仮説ですが。

みなさんは、どう思うでしょうか?

ひょっとしたら、目に見えるものも、全てが主観かもしれませんが、どうしても、「今私が履いているパンツは、私のものである」ということについては、”客 観的”事実のように思えて仕方がありませんので、目に見えるもの以外、という仮説に至っています。

但しこれも、「そう思うからそうである」という哲学的発想に従うと、どうも怪しいところはありますが。

みなさんはどう思うでしょうか?


 

177:The Jazztet: ベニー・ゴルソン
   
  アート・ブレイキー&ジャズメッセンジャーズで有名なベニー・ゴルソンです。
「ウィスパー・ノット」、「アイ・リメンバー・クリフォード」などの作曲家としても同じくらい有名です。
フレーズは、ファンキージャズでありながら、どこかモード、フリーなどにも通じるエッセンスが含まれているように感じます。
私はこの人が好きです。


曲目です。
 
1.Serenata
2.It Ain't Necessarily So
3.Avalon
4.I Remember Clifford
5.Blues March
6.It's All Right With Me
7.Park Avenue Petite
8.Mox Nix
9.Easy Living
10.Killer Joe



メンバーは、以下の通りです。
テナー:ベニー・ゴルソン
トランペット:アート・ファーまー
トロンボーン:カーティス・フラー
ピアノ:マッコイ・タイナー
など。




ところで、最近、10年近く使用した21インチ横長ブラン管テレビをオークショ ンに売り、15インチ液晶テレビを購入しました。
旧テレビは廃棄するとお金がかかるのと、まだまだ稼動品でしたので、落札価格1000円にして出品しました。

ただ、私の以前の趣味で金色にスプレーで塗りたくってありましたので、本当にだれか入札してくれるかどうか良く分かりませんでいた。
それでもありがたいことに、使ってくれる、という人が現れて良かったです。

きっと今でも、元気に活躍していてくれると思います。






旧テレビ:自分で塗ったもの


液晶テレビを購入していろいろ思ったことがあります。

まず、購入するために、電気屋さんへ行きました。
当初14インチのものが相当安く出ていましたし、PCディスプレーのメーカーが、TVチューナー内蔵の液晶ディスプレイを17インチくらいで安く出してい ましたので、どちらかにしようと思っていました。

しかし、いろいろ探ってみますと、液晶テレビは基本的に薄いので、スピーカーから良い音が出にくい、ということが分かってきました。
従来のブラウン管ですと、テレビ自体の容積がありますので、それがスピーカーのエンクロージャーとなり、音質に良い影響を及ぼすのです。

しかし液晶テレビは薄いですし、それ自体が売りですので、ある程度良い スピーカーを付けても、エンクロージャー(外枠・入れ物)の容積が取れませんので、なかなか良い音になりにくいのです。
右の写真はよくあるタイプの液晶テレビですが、これでもまだスピーカーに費やされている容積が大きい部類です。



よくある液晶テレビ



右はTVチューナー付きの液晶ディスプレイですが、スピーカーに費やさ れている容積は、ほんの僅かです。
場合によっては,ポケットに入るサイズのラジオとスピーカーに費やされている容積がほとんど変わらないかもしれません(ステレオの片側のみ)。

私はテレビの画質は少しくらいなら悪くとも我慢できる人間ですが、音が悪いのには、長時間のがまんはむつかしいです。

この右のものなどは、17インチですし、いざという時に、PCモニター にもなるので、一番良いのですが(値段も安い)、音が悪いとなりますと、きっと15分のニュース番組を見るのがやっとだと思います。



17インチTVチューナー内蔵液晶モ ニター

また、テレビの画質は若干落ちるようです、この種類のものは。
なんでも液晶の画素数がPC用になっているので、ビデオ信号を再生すると、アップコンバート することになるので、どうしても荒くなるそうです。
それに対して、テレビの方は、もともと、画素数がビデオ信号(日本ならNTSC)になっているので、画質が良いそうです。
画素が低い方が、きれいに映るということですね。画素があっていると言うべきでしょうか。
ですので、上のPCディスプレイは、BSデジタル放送などはきれいに映るというような事をお店の人は言っていました。

ここらへんは、ブラウン管とやや違うところですね。ブラウン管は走査線の数や、走査線のピッチ幅で画質を考えますので、液晶の画質の概念を理解するには、 画像処理などをやっていないとなかなか始めは取っ付き難いのかもしれません。



そこで、私が選んだのは、シャープのアクオスになりました。
このモデルは知っていましたが、どうしてあんな変なかっこをしているんだろう?と思っていました。

しかしその形の理由は、スピーカーの配置にあったのでした。

右のがそれです。
かっこの良さでは、一般的なものの方が上かもしれませんし、私自身、当初はそうでした。
それでも、見てもらえば分かるかもしれませんが、スピーカーが大きいですし、低音を増強する”バスレフダクト”が付いています。
真ん中の二つの穴がそれです。
スピーカーのエンクロージャ の容積はそれほど大きくありませんが、このテレビから出てくる音なら、少なくとも、今までのブラウン管テレビなみには楽しむ ことができます。



購入したもの


かっこがわるいんだけれど、そのかっこうの理由が分かると抵抗がなくなるということはあります。

「本物の力」(船井幸雄・若山敏弘著:徳間書店(1998年7月出版)で、若山さんは、太極拳の話の中で、そのような話を書いています。
テレビで密教の修行者があっと言う間に重病人を治してしまうのを見て、台湾へ治療(ヒーリング)技術を身に付ける為に渡った時に見た太極拳のことについて です。

とにかくはじめて見た時にかっこうが悪いと思ったそうでう。
しかしよくよく観察してみると、そのかっこう悪さは中腰の状態で、腰を前に突き出すという独特の動作にあることが分かったそうです。
そしてそれは、仙骨という部分を鍛えている、ということが分かってきたそうです。
仙骨というのは、体の中心にあり、手足と密接に結びついいて、仙骨を回すと、並が伝わったように、手足に伝わり、連動した動作となるそうです。

太極拳の達人が仙骨をわずかに回転させれば、その手足がものすごい力を発揮して、一撃必殺となるとも書かれています。

更に、中腰の状態で腰を前に突き出すことには、もうひとつ意味があり、大腿四頭筋を鍛えることにもなるらしいのです。
そして、それは、ドーパミン、エンドルフィン、副腎皮質ホルモンを脳から分泌させることになり、肉体的ストレス、精神的なストレスからも開放されるという ことです。

そして、こうしたことが理解でき、太極拳を習い始めたそうです。

ちなみに、
ドーパミン:気が出てくるホルモン。脳内に分泌されると、気持ちがわくわくしてきて、やる気が出る。
エンドルフィン:モルヒネの数倍もの鎮痛作用のある脳内分泌物質。イタミが消滅し、心地よい快感が得られる。
副腎皮質ホルモン:すべの炎症を治す物質。

とあります。


世の中には、「意味など分からなくても良いから、とにかくやってみろ」のほうが、効果があるものというのもあります。
小学生の九九の暗記などがそうでしょうか。
こういうものは、きっと、「まだ説明しても意味が分からないから、ともかく・・・」というところがあるのでしょうか。



また、「意味は良く分からないけれども、やってみようか」、「やってみた方が良いか」というものもあります。
これは、ある程度以上、自分で決定できる年齢になってからのことでしょうか。
私で言うと、政木和三さんの本に、「7秒息を吸い、7秒息を止め、7秒で吐く」を小さい頃から何時間もやっていたことにより、脳波がシータ波になるように なった、と書いてあったので、「なんだか良く分からないけどやってみよう」と思い始めたことなどが、これにあたるかもしれません。
確かに、これをやると何か違います。
後日、七田さんの本にも似たようなことが書いてあったのを見ました。

政木さんは、なんでも、幼少時に、偉いお坊さんがこれをやることにより、病気を直したのを聞き、やってみたそうです。

他にも、不思議研究所のホームページにある孫さん絡みのことなども、やり続けています。



そして、上記のように、意味が分かって初めてやってみる、納得できる、というのもありますね。
私で言えばなんでしょうか?
小さい頃虫歯になって初めて、奥歯の奥まできちんと磨くようになったことでしょうか?
他にもたくさんあるとは思いますが。





さて、この液晶テレビを買って考えたことがあります。
6畳くらいの部屋に住んでいる人のポータブル・オーディオなのですが。

大抵20代前半なら、6畳くらいの部屋に住んでいるケースが多いのではないかと思います。
それでも、テレビ、オーディオ、DVD,などは欲しいものだと思います。

今まではテレビなら、どんなに小さくとも14インチくのブラウン管、オーディオはミニ・コンポかラジカセ、そしてDVDプレーヤー、これだけ必要になりま す。
結構、場所を取る事になります。
一人住まいなら、これに冷蔵庫とか、電子レンジとか、洗濯機なども必要なのです。

もっともPC1台でオーディオ・ビデオの全て済ますことも出来ますが。
ただ、PCですと、OSを立ち上げる必要がありますし、私だけかもしれませんが、デジタルノイズのせいかどうだか良く分かりませんが、PCだと落ち着いて 音楽を聴けませんし、映像も見れません。



そこで、15インチくらいの液晶テレビをアンプ+DVD・CDプレーヤーにしてどうかと考えます。
実際DVDつきの液晶テレビというのは発売されています。
当然、CDも聞けるはずだと思いますが。良く知りませんが。
聴けないかもしれません。なぜなら、CDを聴いている時、画面がどうなっているのか、良く分かりませんので。

私の考えるのは、液晶テレビに多少大きくなっても良いので高音質スピーカーを付けて、DVDプレーヤーを付けて、尚且つラインイン端子、ラインアウト単位 をいくつか付けて、完全にアンプとしての役割を持たせるのです。
ラジオチューナーなども付けておいても良いかと思いますし、オプションでラインインから取り入れても、良いのではないかと考えます。

当然オプションとしては、小型でデザインの揃った、カセットレコーダー、MDレコーダー、CDレコーダー(戦略としてこれができるメーカーはあるのでしょ うか?)などを用意します。
汎用のオーディオ機器も繋ぐことは可能にしますが、やはりデザインが揃っていたものが発売されていると良いように思います。

そして、テレビについたDVDでCDを聴くときには、ウィンドウズ・メディアプレーヤーのように、イメージ動画のようなものが流れるようにします。
これは数種類をROMに焼いておいても良いですし、メモリースティックやSDメモリのようなもので、入れたり出したり追加したりしても、良いのではないか と思います。




また、CDの音声を流しながら、テレビ画面を見たりもできなくてはいけません。
場合によっては、オプションで外付けCDかDVDを付けて、DVDの画像を見ながら、CDの音、ラジオの音などを流せなくてはなりません。
当然、画像を出さなくとも、オーディオだけでも機能しないとなりません。


こうなると、「やはりいっそう、PCにしてしまったらどうだろうか?」と思うかもしれませんが、PCとオーディオ・テレビは別にするべきだと感じます。
機能上、この”テレビ”にPC機能を取り入れても構いませんが(何かソフトが入ればすでにそうなりますが)、PCとして使用するPCは、これではなく、別 にあるべきだと感じます。

やはり、一緒だと気が落ち着きません。


私の購入したアクオスのような形で、さらに音質を良くしますと、これは可能なように思います。
今でもラジカセと比べても、低音の出が少しないくらいで、音質的にも聴けます。
もちろん、システム・オーディオ並みの音質は期待できません。
それでもきっと、大半の人は満足するでしょうし、スーパーウーファーなどのオプション類を増やしていけば、ある程度は幅広い層にも適応できると思います。
値段は、少なくとも、テレビ(音質改善型:DVD・CD内蔵)+外付けMDで、10万円を切らなくてはいけないと思います。



製品化の問題点は、どこのメーカーでも、映像機器部門とオーディオ機器部門が、全くの縦割りになっていて、連携がむつかしいということだと感じます。
大きなメ−カーほど、よりその縦割り度は高いと思います。
きっと作るなら、台湾や中国、韓国のメーカーか、主に輸出を中心にしている日本のメーカーかもしれません。

ただ、シャープのような、あまり”オーディオ”に力を入れていないメーカーや、オンキョウのようにあまり映像に力をいれていないメーカーなら、やってくれ るかもしれないと考えています。
オンキョウなんて、即そのままオーディオ事業部で作れてしまうのではないでしょうか?
OEMかとは思いますが、オンキョウ製品の液晶テレビもあります。

シャープも例の1ビットオーディオをうまく利用して、上のような製品を作ってくれないでしょうか?



もちろん、これを作ると、ミニコンポなどは売れなくなります。
どこかのメーカーでやってくれるのを楽しみにしています。


178:Dizzy Gillespie & United Nation Orchestra
   
   デイジー・ガレスピーのライブです。


私はあまりトランペットは好きな方ではないのですが、昔の知り合いの女性が、ラテン好きで、このガレスピーが大好きでした。

きっと、それで購入してみようと思ったのだと思います。

特筆する内容としては、フローラ・プリムがゲストで加わっていることでしょうか。
大学生の頃、よく彼女のアルバムを聴いていました。

 なぜ、トランペットがそれほど好きではないかと考えれば、どこかでも書いたような気がしますが、破裂音系の音ですので、色っぽさというか艶っぽさのよう なものがないからだと想像します。

唯一艶っぽさを感じるのは、日野皓正さんでしょうか?
彼のトランペットには、破裂音ではなく、くねった感じがあります。

みなさんは、どう聴くでしょうか?



さて、ぜんぜん話は変わりますが、ライブドアという会社は面白いと感じます。 

マクロに見れば、うまく行っている企業であるのは間違いない、と感じます。

船井幸雄さんは、「現在が欲だけでやっていけるのは、マスコミと、研究者、行政くらいだ」と言っていますが、それを言葉通りに受け取ってしまえば、今うま く行っている企業というのは、すべからく、「天の理」に則していると考えてよいのかもしれません。
その意味では、ライブドアさんもきっと、何か正しい理に基づいているのかもしれません。

ただ、それでも納得できないこともいくつかあります。
現在うまく行っている企業が、本当に「天の理」、「宇宙の理」に則しているかと言えば、きっとそうではないのだと感じています。

当人が善人であれ、なんであれ、小泉さんやブッシュ氏は、どうやら資本主義を破壊するために出てきたそうですので、この理屈を拡大解釈してみれば、うまく 行っている企業のいくつかにも、同じ役目を負っている会社もあるのかもしれません。

ライブドアはこの点に関して、どうだか分かりませんが、少なくとも、各企業に外国からの乗っ取りに対しての、警戒心と対応準備の機会を与えたことは確かだ と感じます。

増田俊夫さんは、「企業は人と、金と、信頼」として、「ライブドアのM&Aは、始めから成功するはずはない」、と書いています。

船井さんの発言はまだ見たことがありませんが、一連の流れは、どこが「天の理」で、どこが「地の理」なのか、是非聞いてみたいところです。

増田さんの「外資を見くびっていると大変だよ」と言う言葉が、何か今後を占っているように感じます。

増田さんは、よく「資本の気持ちになると、分かる」というようなことを書かれていますが、もう何か分かっているのでしょうか?

外資にしてみれば、いっそ、ライブドアを乗っ取った方が利益があるということなのでしょうか?
私にはよく分かりませんが。

もしそこまで考えて資金を出していたとすれば、すごいものだと感じます。
あるいは、両人とも、そこまで覚悟でやっているということなのかもしれません。




ニッポン放送も面白いですね。
ライブドアに乗っ取られたら、番組を降りる、という人がたくさんいるようですね。
あの「みゆき」まで。

いろいろな絡みがあるので、そう言わなくてはならない部分もあるのだろうと感じますが、基本的には、”やってみなくては分からない”はずですので、やって みる前から、人のことを、”できるはずはない”という姿勢には、私はあまり歓心できないところがあります。



特にラジオ・文化に関わっている人などの多くは、若い頃、”大人”から、そういうことと、同じようなことを言われて続けてきた人が多いにも関わらず、”大 人”になると、結構簡単に言い放つものだと思いながら、ニュースを聞いたりしています。
みなさんはどう感じているでしょうか?

別に、大人になってからと、”子供”の時との整合性を図る必要はないとは思いますが、一度、堀江氏にラジオ局の経営をやらしてみたら面白いな、と感じてい ます。



経営者ですので、別に当人にラジオ局経営そのものの才能がなくとも良いのだろうと考えます。
いかに、それぞれの部門での仕事をうまくこなしていける人材を配置できるかが、経営者のはずですので、必ずしも、うまくできないとは限らないだろうな、と 感じています。
逆に、経営者=その人の色による番組作りになる、と考えているラジオ局側の方が、よっぽど今まで、経営者の独断的志向性で経営されていたのだろうな、と感 じさせられたりもします。

それが当たっているのなら、なるほど船井さんの言う通り、マスコミというのは、我欲だけでやってきたのだな、とも感じたりもします。

当たっていないとしても、経営者=直接指揮を執る、というような思考になってしまう関係者というのは、どこか井の中の蛙的なものがあるのだろうか?と感じ ています。





良く、売れっ子の芸能人が、「私は人の何倍も働いているのだから、お金を儲けて当たり前です」というようなことを言っていますが、先日の「朝まで生テレ ビ」で、面白いことを言っている人がいました。

その人曰く、
「みさなんは、ただでテレビを見ていると思っているかもしれませんが、テレビ番組は企業のコマーシャル料で運営されているわけですので、そのコマーシャル 料というのもは、みさんなが購入する品物の値段に上乗せされているということを忘れてはいけません」
というようなことを、言っていました。



確かにその通りだと思います。

そうしますと、芸能人で”忙しく”、たくさんお金を貰っている人というのは、根本的にはスポンサー企業から出ているお金を貰っている、と言うことになりま すので、貰えば貰うほど、私たちの購入する商品に上乗せされている費用に貢献していると言えるのだとも思います。

その意味では、「そんなに稼がないでいいから、企業に広告費を使わせないで」、という言い方も成り立つかもしれません。

ただ、何にしても企業は広告費用は使うのでしょうし、売れっ子(料金が高い人)を使った方 が、売り上げが上がり、それによって、商品の値段が安くなる、という連携があるのでしょうから、どこから以上がどうだと言うのは、いくつのグラフに線を引 いて、重なった座標を出してみないことには、確かなことは言えないのでしょう。

また、芸歴、実績によっても芸能人の方の出演料金というのは、違ってく るようですので、なかなか複雑なグラフが出来上がるのでしょう。
2次元のグラフでは無理なのかもしれませんね。
正確には。


ただ、私も1年間だけなら、朝も昼も無く働らけば、何億もの収入を得られるという条件なら、やってみたいとは思います。
そういう機会がなかなかないところが、あの人たちのすごいところだと思いますので、「私は人の何倍も働いているのだから、お金を儲けて当たり前です」とい うような台詞はあまり聞きたくないところです。
普通は、朝も昼も無く働いても、サラリーマンの給料に残業代が増えるくらいですので、まあ、何億などにはなりません。

そういう時は「どうぞ、いつでも月給2,30万円のサラリーマンをおやりください。だれも止めません」と言う言葉を進呈したくなります。
もちろん、忙しいので、我を忘れての発言であろう、ということは分かりますので、ほどほどに、というところでしょうか。

一番良いのは、適度に働いて、たくさんお金を貰うことなのでしょう。

それが無理なら、適度に働いて、自然に必要なものはどこかから提供される、という社会が良い システムなのかもしれません。




しかし、よくよく考えてみれば、地球というか、宇宙というものは、もともとそうなっているような気もします。
必要なものとは、食料、住居などのことであり、エスキモーの人など見ていると、ちゃんと自然にどこかから提供されているようですが、どうなのでしょうか?

もちろんテレビくらいあった方がいいですし、他にもちょっとしたもの、私など、楽器の一つでもあった方が良いです。
楽器なら弦とかリードなどの消耗品も必要ですし、テレビならテレビというハードはもとより、放送局というソフトも必要です。
故障したら修理も必要ですし、メンテナンスも必要です。

普通ここまでの話になると、「だから、資本主義が必要で、・・・」となるのだと思いますが、ちゃんと最低限必要なものが自然に提供されるような状況なら、 それぞれの役割は、「その仕事が好きで仕方のない人がやる」ということで、ほとんど無給に近い形でも、成り立っていくように感じるのですが、どうでしょう か?




「しかし、そうはいかない」
という考えには、人のエゴや嫉妬などを肯定した上での、話になるのだろうと感じます。

要するに、これらがなくなりさえすれば、なんの無理もない世の中というものが出来上がるような気がしますが、みなさんは、どう考えるでしょうか?

小説家なんて、必要なものが自然に提供されるということならば、きっとほとんど無給で、一生小説を書き続けるような気さえします。
ミュージシャンもそうだと思いますが。

もちろん一つだけしかやってはいけない、ということはありません。

料理も作りたくて仕方が無く、科学の研究もいたくて仕方がない、というのなら、それもありなのだと思います。
ちなにみ研究に必要なものや、料理に必要なものも、自然に提供されます。
それらは、それらを作りたくてし方のない人が作ります。

お手伝いさん、という仕事はどうなるのだ?という人もいるかもしれませんが、全員夕方には仕事が終わりますので、自分でやればよいのです。
何かの都合で自分で出来ない状態の人はどうする、という人もいるかもしれませんが、そういう人を手伝ってあげたい人というのは、絶対います。
全員かもしれません。
なにせ、エゴや嫉妬を肯定しない世の中ですので、根本的に、人間の考え方が違います・・・・・・・・・・・・・・




と書いてきましたが、いつまでたっても、いつもの自分の文章になりません。

自分の分析として、やはり今読んでいる、「ハピネス講座」(2003年12月23日:たま出版発行:山崎梅代・Angel☆美都子)が影響しているのでは ないかと感じます。
良い本です。
しかし、やはりどこか、「母の愛」、「女性性」を感じます。

きっと、こういう精神状態もたまには良いのでしょう。

振り返って上を読み返すと、彼女の文章使いの影響がいくつか見られます。
例えば、”進呈したくなります”、など。
私の通常の文章から考えると、良い悪いは別にして、やはり女性的なものを感じます。

そういう影響というのは、短に言い回しだけではなく、書いている内容にも影響するように、今感じています。
文章事態の持っていう波動というか、流れのようなものが、ある決まった答えに導かれていくような感覚があります。
みなさんはどう思うでしょうか?




堀江さんは、あまり怒ると良くない波動がでますし、「株価」が下がることを心配しすぎると、それも良くない波動がでますし、「ご法度の心」にも通じますの で、きっとちゃらで済んだらOKという気持ちでいるのが良いような気がします。


人ごとですので、正しいことが言えているかもしれません。
自分のことで、こう考えられたら、きっと良いのでしょう。
宇宙に愛されていることを、感じればいいのかもしれません。
繫がっている宇宙には、無限大の力があるようです。

みなさんは、どう思うでしょうか?



 

 

178:Krupa and Rich: ジーン・クルーパー &バディ・リッチ
   
  ジーン・クルーパーの比較的まともな録音の聴けるアルバムです。

7曲収録です。

ただし、クルーパーは3曲だけ参加です。
リッチも3曲ですが、CDボーナストラックとして2曲増えていますので、5曲ということになります。

もう少し詳しく説明すしますと、先ずオリジナルは5曲入りです。
2曲目が、ドラム2人です。
3と5がドラムはクルーパー、1と4がドラムが、リッチです。
そして、6、7のボーナストラックは、リッチがドラムです。

英語のライナーが私には分かりにくく書かれています。

要するに、
ジーン・クルーパー2、3、5。
バディ・リッチ:1,2,4、6,7
2は2人の共演、
と書けば、すぐに分かります。



ライナーにはどう書かれているかと言いますと、

Tracks 1-5
Gene Krupe and Buddy Rich
On Tracks 1 and 4 : Krupa out
On Tracks 3 and 5 Rich out

Tracks 6 and 7
Buddy Rich

というような具合です。

これは、足し算引き算の感覚のアメリカと日本の違いでしょうか?
ひょっとしたら、こういう書き方の方がアメリカ人は理解しやすいのかもしれません。

上の書き方は、基本が2人の共演、となっているように感じます。
しかし共演は1曲のみです。
常識的な発想からしますと、パッと見て、競演曲の方が多いだろう、となり、その大元の考えに従って、その他の少ない部分を理解していくという思考形態をと るのだと思いますが、その共演曲が1曲であるという事実が、全体の把握をむつかしくしているように感じます。

これも何かに似ているように感じます。

何だか良く分かりませんが。
ただ、詐欺のテクニックにも似ていると感じます。
まず、嘘の概念で釣り、無防備にさせて、それから攻撃をはじめる、というような。



メンバーです。

デイジー・ガレスピー、ロイ・アルドリッチ、イリノイ・ジャケー、オスカー・ピーターソン、ハーブ・エリス、レイ・ブラウン、ボーナストラックに は、サド・ジョー ンズ、ジョー・ニューマン、ベン・エブスター、フランク・ウエス、フレディ・グリーン、などが参加しています。
すごいメンバーですね。
1955年の録音です。







さて、村上和雄さんの「生命の暗号」(サンマーク文庫)を読んでいます。

「ハピネス講座」(2003年12月23日:たま出版発行:山崎梅代・Angel☆美都子)は、読み終わりました。
「セス」もまだ読んでいます。
とにかく私には「セス」は難解で、場所によっては、2ページ以上読み続けられません。
普通の本の5倍くらい時間がかかります。
翻訳本のせいかどうか、よく分かりません。
今、5分の4くらいまで来ましたが。

村上和雄さんの「生命の暗号」(サンマーク文庫)は、1997年発行の本で例の船井幸雄さんの「サムシンググレート」という言葉の発起本ですが、やはり面 白いです。

つまみつまみ読んでいますが、人間の細胞、内蔵は人間が意識しないでも、それ自体別の生き物のように勝手に生きていると考えて良いところがあるが、ちゃん とそれで人間という大きな枠組みで役割を果たしている、というようなことが書いてあります。

そして、人間の心が病むと、ちゃんと「病んでいる信号」を送ってくれる、というようなことも書いています。

他にもいろいろ書いてありますが、この本を読むと、人間の能力、志向、というものは、DNAがONかOFFかによるものであろう、ということが良く理解で きます。
やはり船井さんの本で紹介されている内容は、当人の書いたものをきちんと読んだほうが良いようですね。

これを読んでいると、透視能力も予知能力さえも、DNAのON,OFFがどこかで関係しているのかもしれない、と考えてしまいます。



「ハピネス講座」(2003年12月23日:たま出版発行:山崎梅代・Angel☆美都子)は、これはこれで、興味深い本でした。
特に最後の数ページには良く分かりませんが、すごい波動(?)を感じます。
池田邦吉さんの本を読んで以来、古神道の神々に非常に興味がありますが、池田さんは関英男さんの加速学園で古神道関係の講義をしていたということもあり、 受講していた山崎梅代さんの本にも、古神道関係の内容も登場しています。

良い本である、という前提に立ってあえて言いたいことがあります。

基本的には一般向けでありながら、やはり女性向けに書かれているのかな?という感覚があります。
結婚して、物質よりも精神的な方向へ相当偏ってしまった体験をした時に、「外国製(イタリヤ製?)の高級家具を二束三文で売り払ってしまった」というよう な記述があったりしますが、私にはあまりピンときませんでした。

もちろん、「何か高いものを安く売ってしまったんだな」ということは理解できましたが、まずその家具に対しての価値観が良く分かりませんでした。
いくらくらいかも、検討つきません。
きっと2,30万円くらいなのかな?とも感じますが、ジャガーを乗り回していた山崎さんですので、300万円の家具なのかもしれません。
しかし、きっと女性ならば、前後の文脈で、その家具の価値や値段みたいなものが理解できるのかもしれません。

それとも、私が無知なのかもしれませんが。

みなさんは、どう感じるでしょうか?



山崎さんの言いたい、極端に精神論に偏ってはいけない、創造主は、精神的にも、物質的にも、バランスよく豊かになり、喜んで生きている人間の姿を望んでい る、という趣旨は良く理解できました。
私など、良く、精神論に偏りすぎたりしてしています。

未来の体を合わせないセックスの話などは、まさにいつか見たシュワルツネガーの映画を思わせる内容で、スピルバーグの円盤しかり、実際のことを知っている 人が、いろいろな形で、少しずつ、それらを世間に出してきてるのだな、という思いを強くしています。
(今日はなぜか、感想文のような文体です)。                         

詳細は、「ハピネス講座」(2003年12月23日:たま出版発行:山崎梅代・Angel☆美都子)をお読み下さい。

アトランティスの話などもでてきます。
私はこういうことを、直感に従って信じてしまうのですが、これだけアトランティス絡みのかたが、今の日本に転生していることからも、やはり何か日本が大き な意味を持っているのだろうと感じます。




伊勢神宮、月読神社へ参拝時に神示があったことなども書かれています。
ご自身に超能力があることを、ストレートに書いてしまうあたりは、変に隠して、言いたいことをうまく表現できなくなってしまうよりは好感が持てます。






一番隠さずに書いていたのは、後期の政木和三さんだとは思いますが。
なんでも、以前は人前などにはめったに出ない性格であったのに、後半は、それまでの経験などをできるだけ世間に残すために、そういう生命体が宿ってきたそ うです。
政木さんは、出雲大社さんと縁が深いそうですが、「驚異の超科学が実証された」(廣済堂)には、次のような話が書かれています。
(引用93ページ)


私の初孫は、私が七一歳のときにできました。遅い孫です。その孫がようやくしゃ べりだしたときの言葉は、なんとーー「私はスサノオノ、ミコトである」でした。
 それから数日後に、出雲大社から電話をいただきました。−−「奥の扉を開いて久 しぶりに大国主命(おおくにぬしのみこと)様の像を拝みました。政木先生のお顔そっくりです。大国主様のお父上様は、スサノオノ、ミコトです」と、孫の いった言葉と思い合わせて、びっくりしました。
昭和六ニ年(一九八七年)二月に空中から発生した大黒像の顔が、私の顔とよく似て いたのですが、その大黒様が、出雲大社にある大国主命の像と同じだということなのです。
 私の孫は、前世では私の父であるのです。三歳の頃から、空を指差して「UFOが いる」とよくいっていました。また「何々の神が来た」ともいっておりました。

(以上)

そう言えば、「ハピネス講座」(2003年12月23日:たま出版発行:山崎梅代・Angel☆美都子)にも、今回の転換期に対して、「大国主命が音頭を とってくださっています。」とあります。




山崎梅代さんは、池田邦吉さんの幼少時代に頭上に表れていた天使の一人であるAIKAさんにそっくりで、あまりに似ているので、AIKAさんから「お姉さ まと呼んでもいいですか?」(変なビデオを想像しないように)、と言われたそうです。

AIKAさんの歌声は、池田さんによれば、幼少時代に歌ってくれていた歌声そのものだそうです。
http://www.music-net-jp.com/aika/  にAIKAさんのCDの紹介がありますが、近いうちに聴いてみたいと思います。

http://www.music-net-jp.com/aika/music.html  では、試聴ができます。
「五木の子守唄」では、歌が始まると同時に、涙が出て来そうになります。
「島原の子守唄」でも、涙が出そうになります。

この人はなんだかすごいです。
カレンよりも、バーブラよりもすごいかもしれません。




ところで、不思議研究所から「幸運を呼び込む遮光器土偶」を購入しました。
私だけの現象かもしれませんが、気のせいか、とっても良いです。
とにかく、「”触りたくなってしまう”遮光器土偶」です。
無性に触りたくなるのです。

どうして、不思議研究所ですらあまり話題に出ない「遮光器土偶」を購入したかと言いますと、ある日、急に頭の映像に出てきたのです。
私は頭に映像を出すと、雑念が乗ってしまうことが多いのですが、それ以来この「遮光器土偶」の映像だけは、いつでもちゃんと出てきてくれます。

直感を鍛えるために、できるだけ直感を使うということをやっていますので、直感的に「買う」となりました。

とてもかわいいですので、みなさんもよろしければ、いかがでしょうか?


不思議研究所と言えば、現在、伊勢神宮の話が出ています。
六爻占術ととても近い理論で、いろいろなことが行われているそうです。

横浜の日の出町駅近くには、伊勢山皇大神宮という神社があります。
ここは、江戸末期から明治初年の頃、開港により横浜の町が異国文化で満ちあふれていたので、県知事井関盛良氏が、日本古来からの伝統文化を忘れる事のない よう、日本の総氏神である伊勢神宮のご分霊・天照皇大神様をこの地におまつりすることを決めて出来た神社、
ということです。

2ヶ月ほど前に、不思議研究所で伊勢神宮の話題が出始めた頃に行ってきました。
大きな神社ではありませんが、なんとも雰囲気がある神社さんです。
ここでも、伊勢神宮と同じようなことをいろいろやっているのでしょうか?

伊勢神宮では、20年おきに、遷宮というお宮を立て替えかえることを行っているそうですが、私は、宮大工さんの技術を後世に残していくためのものだと思っ ていました。
しかしそこには、 六爻占術と似たような深い意味がある可能性が高いそうです。
詳しくは、不思議研究所のサイトでご覧ください。
私は 六爻占術は、詳しくありません。


ちなみに、池田国吉さんの「あしたの世界P3」(明窓出版)には、次のようにあります。
(引用:16ページ)
『建築家はいつも未来の夢を追い続ける。ではいつも夢うつつの状態かと言われればさにあらず。現実のテクノロジーは過去から営々と積み重ねられて来た人類 の叡智の上にある。その意味で建築家は過去より現在に至る技術とデザインを学んでいる。未来を見すえつつ、過去・現在の時間の中にしっかりと生きているの である。
 エジプトの大ピラミッドは何のために、どのように建てられたのかと想いを馳せる時、その想いはおおよそ一万四千年前の地球文明へと遡る。天照大神を祀る 伊勢神宮を前にしては天空より真っすぐに降り注ぐ光の円筒を視る。同時に20年ごとに新しく造りなおす技術の伝承に尊敬の念を抱く。建築設計の任を返上し 文字を書いている今も、過去・現在・未来を見る生き方は少しも変わっていない。『あしたの世界』を書くときも夢ばかり追いかけているのではない。』


天空より真っすぐに降り注ぐ光の円筒とは、何でしょうか?
妹の家の近くですので、近いうちに行ってみたいな、と思っています。







179: GOOD OLD ROCK & ROLL
   
  ハワイのカイルアという所にいた時に購入したテープをCD−Rに落としたものです。
ダイエーで買いました。
2年くらい行っていませんが、どうなったのでしょうか?


カイルアのダイエー(2年以上前の写真)

曲はいっぱい入っています。
ですので、大変なので曲目は書きません。 

Grass Rootsの「Soon or Later」(米 アマゾンで視聴できます)や、The Cloversの「ラブ・ポーション・ナンバー9」、などが入っています。

私は日本にいる時は、1日に1,2度くらい少しだれだれかと話せば、 特に寂しさを感じない 人間なのですが、ここにいた時は、無性に寂しくないました。
「自分でもそういうことがあるんだ」
としばらく思っていましたが、最近考えるに、どうやら、テレビでもなんでも良いので、”脚本に書かれていない”日本語をある程度以上の時間聞いていれば、 そうはならないようです。

もう少し正しく言えば、カイルアで寂しくなったのは、どうやら、母国語である日本語の脚本になっていない会話をほとんど聞くことがない時間が長かったこと に理由があるようです。
仮説ですが。

日本語そのものは、実際テレビで日本語放送があったので、聞いていました。
しかし、それはドラマでした。
ですので、それでは効果がなかったようです。

人と会話をしていたかどうか、と言えば、していました。
しかし英語でした。

そんな中で、良く聴いていたのが、このテープでした。
ですので、CD−Rというものがこの世に出て、入手できた後、すぐにCD−R化しました。
今でも時々聴いています。


上記の仮説は実際、本当に仮説です。

サラーリーマンとして留学カウンセラーをして、その後、フリーの留学コーディネーターとして数年留学業務に従事しましたが、留学をお世話人がホームシック にかかる、という話は、自分の場合はほとんど聞いたことがありません。
Q&Aなどには、「留学後、しばらくすると多くの方がホームシックになる」というようなことは書かれていたりします。

もし、自分のあの状態が、このホームシックにあたるのならば、そうなのかとも思います。
しかし、留学業務をしていた時には、留学生からほとんどまったくそういう話は聞いたことがありませんでした。

主に、ハワイ、オーストラリアへ留学のお世話をしていたのですが、場所柄のせいかもしれません。
日本人に関わる方向へ行けば、ホームシック自体を防ぐことは簡単のような気がします。

私の場合、
「日本人とばかり関わると、英語の上達はなかなかしませんよ」
と言う立場でしたので、多少無理してでも、日本人と関わらなかったのが、私の場合の原因なのかもしれません。
当時の私の場合の無理というのは、多少ではない場合が多かったのですが。

しかしこれも仮説で良く分かりません。
昔から日本が好きだっただけなのかもしれません。

しかし、どうもハワイには何かあるような気がします。
増田俊夫さんも、先の 山崎梅代さんも、ハワイに関わっているようです。

沖縄の宮古島にも何かあるようですね。
例の船井幸雄さんにいろいろ教えてくれる大きな石も宮古島にあります。
アトランティス大陸につながっていたというような話も聞いたことがあります。

アトランティスが沈んだ後、生き残った人の一部はメキシコへ移住したという話も読んだことがあります。
そう言えば先日テレビで言っていましたが、”チワワ”という犬はメキシコのチワワ州チワワ市かなにかで誕生した犬なので、”チワワ”だそうです。
チワワ市というのは裏覚えで怪しいですが、チワワ州というのは正確なはずです。

また、チワワを飼っている人は花粉症にかからない、というようなこともやっていましたが、結論として、癒されるので、ストレスが減るからだとしていまし た。
それは在り得るかもしれないと、思います。
花粉症は昔はほとんど聞きませんでした。
日本では、杉の植えすぎかなにかが原因のように言われていますが、海外でも、花粉症は増えているというようなことを聞いたことがあります。

そう考えると、花粉症は全世界的な現象ですので、単なる杉の植えすぎではないように感じます。

簡単に考えられるのは、ストレスの増加、電磁波、それと食物の変化、でしょうか?


私は、以前は、半端ではない鼻炎でしたが、30年以上続いた鼻炎はカイルアにいた時に直ってしまいました。
それ以後、正常で、花粉症は以前から今までまったくありません。

ストレスは一般的に言えば、間違いなく増えているでしょう。


電磁波も増えているでしょう。
PCなど新しい電気製品がどんどん家庭に入ってきています。

食べ物ですが、私はこれの影響は大きいと感じています。

特に、水と塩ですが。

船井幸雄さんによれば、科学的に作られた塩というのは、体に悪いそうです。
多く取れば、血圧も上がります。
これは、第二次世界大戦後に、アメリカの政策によって日本にもたらせられた可能性が高いようです。

血圧が上がるくらいですからきっと、他にもいろいろと悪いこともあるのでしょう。
特に生まれたときからこの塩を取っていれば、いろいろな影響があるかもしれません。

ちゃんと海の水から作られた塩であれば、基本的にいくら多くとっても、血圧など上がらないそうです。
またミネラルもたくさん入っているので、栄養的にも良いそうです。

私はこの話を聞いてからは、家では天然の塩以外は、取っていません。


次に水ですが、これも船井幸雄さんによれば、塩素で消毒された水は、半端でなく体に悪いようです。
塩素の入った水を浴びるのは、飲むよりもっと悪いようです。
体に入ってくる量が飲むよりも増えるそうです。
ですので、塩素入りのお風呂には10分以上は絶対はいらないほうが良いようです。
船井さんのカラスの行水は、このことをどこかで直感的に分かっていたからかもしれませんね。



村上和雄さんの「生命の暗号」(サンマーク文庫)や、例の0リングテスト、デヴィッド・R・ホーキンズ著、エハン・デラヴィ&愛知ソニア訳による「パワー か、フォースか 人間のレベルを測る科学」(2004年9月発 行:三五館社)ので測定法などでもそうですが、体はいろいろ教えてくれるようです。


私は以前はこのような”体はいろいろ教えてくれる”というのは、もっと3次元的な意味かと 思っていましたが、どうもそれだけではなく、もっと高次元的な意味合いがあるようですね。

体のほうがもっと時空の中枢部分に、つながっているのでしょうか。

違う見方をすれば、体の方がもっと生命体(政木和三さん式)と通じているのかもしれません。

あるいは、体の細胞のひとつひとつが、それぞれ”問い”を発しているのかもしれません。
すべての”もの”に意思と意識がある、という前提に立てば、当然細胞にも意思と意識があることになります。
まして、人に体に入っている細胞ですし、村上和雄さんの「生命の暗号」(サンマーク文庫)によれば、普段の働き自体、それぞれが独立して動いているわけで すから、”問い”を発していても、不思議ではないのかもしれません。
実際は良く分かりませんが。


森田健さんの本には、体の中へ中へ入って行くと、フォーカス28以上のところへたどり着くようですし、天外 伺朗さんは、瞑想する時に「自分が小さく小さくなっていくように・・・」というようなことが書いてあったように思います。確かではないですが。

体にはなにかすごいことがあるように思えてなりません。

その意味では、人というものは、ネットワークの最終的な端末ではないのかもしれません。


地球も生き物だそうです。
3次元宇宙もそうなのかもしれません。
陸地には陸地の意思と意識があるのかもしれません。
国にもあるのかもしれません。

増田俊夫さんの”資本の意思になる”ではないですが、そういうものにも意思と意識があるのでしょう。


人間にとっての細胞は、地球にとっての人間であろうか?
と、ちょっとだけ思いましたが、どうも違うような気がします。

なにせ人に忠告してくるくらいですので。
地球が人間に忠告するようなことはあるかもしれませんが、人間が地球に忠告することはありません。

そう考えると、人の細胞や内蔵は、人間よりもっと上位の存在なのではないかとすら思えてしまいます。
(少し言いすぎかもしれませんが)

守護霊というものに近いのではないかとすら感じます。




ネットワーク的にどういう関係になっているかと考えれば、勝手にファイルをダウンロードしてくれるウイルス対策ソフトのような所が細胞にはあるのかもしれ ません。
良く分かりませんが。

ですので、
「この食べ物は良いものか、悪いものか?」
と聞くと、ウイルスソフトのように、
「良い」とか「悪い」とか、「感染してます」とか「してません」とか、教えてくるのかもしれません。

そして体は、悪いものを基本的には自動的に削除もいてくれるようです。
このこの点でもウイルスソフトに似ていますが、どうも人は勝手に、新しいウイルスを作ったり、「インストールしてはいけません」と言ってくれるのもでもイ ンストールしたり、場合によっては、ウイルスソフトの機能を切ったりしていうこともあるのかもしれません。





ただ、面白いのは、ネットワーク的には、そういった動きも情報として、これも勝手に、どこかへ公開してくるか、提供してくれているようです。
もっとも、”科学的な塩は良くない”というような情報は、見えないネットワークを通じて、認識されてきたのか、表の目に見える世界によってなされたのか、 良く分からないところもありますが。
とりあえずは、目に見えるところで、なされたように感じるのが一般的な感覚でしょうが。

これは細胞がなせる技というよりは、宇宙ネットワークの特性のようなものなのでしょう。





「100匹目の猿現象」というのは、きっとこのネットワークと関係があるのでしょう。

その意味では、超能力のある方は、隠さず、公言していくと良いのかもしれません。
100メートル走などの記録と似ているのかもしれません。
今まで人間では絶対無理だ、と言われていた記録が、一度破られると、つぎつぎに、同じように、それまでの現界記録を上回る競技者がでてきます。

これは、もともと人間にはすごい能力があるのだが、間違えたまわりの情報によってDNAのスイッチがOFFになっており、それが違う情報が入ってくると ONになったり、あるいはOFFからいくらかONよりに傾いたりする、ということなのかもしれません。
この記録だけで見れば、DNAスイッチは、ON,OFFではなく、もっとメーターのように中間値があるようなもののように感じます。
しかし、専門家がON,OFFと言うのですから、むしろ、多くんぽDNAのON,OFFによる組み合わせによってできる中間値なのかもしれません。




おそらく、まだ全てのDNAのスイッチがONになったことのある人間というのはいないのでしょう。
釈迦でも、キリストでも。
まだ、釈迦が100メートルを7秒で走った記録がある、という文献には出会っていません。


ただ、テレポーテーションできたら走る必要はないのだろう、とは思いますが。
そうなってくると、前記の「まだ・・・」以下の発言は取り消さざるを得なくなってきますが。

こう考えると、そういう物理的記録というか能力というのはある程度より上からは、物理的 ではなく、今書いたような今で言うところの超能力のような在り様になってくるのかもしれませんね。


ということで、カイルアで買ったテープでした。


 

 

180:MASK:サウンドトラック
   
   映画「マスク」のサウンドトラックです。
私はこの映画が、大好きです。

もう7,8年前の映画です。
ビデオテープは所有していますが、DVDは持っていません。
ビデオは、カイルアにいる時に買ったものです。
それをDVD−Rに落としてあります。
このDVDは未だ高価で、5000円近くしていると思います。
私はなぜか、ソフト1枚に5000円を出す気にはなれません。
きっと現在5000円あれば、もっと価値のあることができると思っているのでしょう。
5000円以上出して購入したソフトは、ジョージハリスンの追悼コンサートのみだと思います。
オークションでCDを6000円近くで落札したことはありますが、それは3枚一組の価格でした。


外国のビデオにはクローズド・キャプションというものが入っています。
これは要するに字幕なのですが、少なくともアメリカのテレビにはこのクローズド・キャプションを再生する機能がほとんどのものに入っていますので、DVD のようにビデオでも、英語字幕の入れ切りが簡単にできます。


おそらく他民族国家なので、英語字幕が必要な人も多いのが一つの理由でしょう。
また、国自体はいろいろ問題がありますが、お年寄りやハンディのある人への配慮が日本よりは進んでいる面がありますので、それもひとつの理由かと思いま す。

DVDに落としたものが、クローズド・キャプションに対応しているかどうかは、現状確認のしようがありません。
どういう風に信号が記録されているのかによるのだと思いますが、クドーズド・キャプション・デコーダーはビデオ機器側ではなく、テレビ側に入っているとい うことですので、おそらくビデオ信号そのものに乗っているのではないでしょうか?
そうであるのならば、このDVD−Rをアメリカ製のテレビで再生すると英語字幕が出てくるのかもしれません。

音楽は、なかなかしっかり作られており、それなりに楽しく聴くことができます。


基本的にギャグ映画ですが、子供向けなのか、分かりやすい英語のギャグもいくつもでてきま す。
たとえば、主演のジムキャリーが留置所につながれていた時に、見張り番が眠っているので、愛犬(いろいろあってそこにいる)に向かって「Keys(キー ズ)」と命令すると、愛犬が机の上にっあった「Cheese(チーズ)」を持ってくる、というような日本人がやりそうなギャグが出てきます。

チャーリーズ・エンジェルのキャメロン・ディアスの初出演映画でもあります。
キャメロンはモデル時代に日本に長期滞在をしたことがあるそうです。
どこか身のこなし、話し方などに、日本的なものを感じます。
こんなことを思うのは、私だけでしょうか。
きっとこういう日本に縁のある人というのは、前世で日本人だったりしているのかもしれませんね。


ところでカイルアつながりですが、私がカイルアに行った時、長期滞在する場所を決めずに行き ました。
ホテルを2泊だけ取り、その間に、新聞のアドなどで住む場所を探そうと考えていたのです。

現地にいた私が留学の世話をした人に日曜の新聞を購入しておいてもらい、さっそく探し出しました。
日曜の新聞には分厚く2,3センチくらいの別冊が付いています。
そのほとんどが、アド関連で、アパート、シェアード・ルーム、個人売買、などの内容になっています。

しかし、意に反して、なかなか見つかりませんでした。
当時の私はこのような時に、「もうだめだな。」と思う習慣がありました。
その時も、1泊延泊して、1日2,30件電話してもみつかりませんでしたので、「だめだな」となりました。

この「だめだな」は、実は本当にあきらめたわけではなく、なぜか昔から「だめだな」と思うと、なんとかなることがあり、その経験からの最後の手段だったの です。

もちろん、積極的(?)な人からは、この「だめだな」は良くないことである、と良く言われていました。
当然、日曜の新聞を買っておいてくれた人からも言われました。
しかし、なんとその後しばらくして、ぴったりの部屋が見つかりました。

その部屋がハワイのコーナーにあるカイルア・ガーデンでした。
テニスコートもあるし、ジャグジーもあるし、バス停は近いし、カイルアビーチもある・・・・・・、少し予算オーバーであったことを除けば、最高の場所でし た。


今これを分析すれば、「だめだな」は、ハンドルを手放していることに近かったのかもしれません。
ただし、やはり「だめだ」という言葉の持つ言霊、波動はあまり良いものではないようですので、最近は、森田健さん式の「ハンドルを手放なそう」と言うこと にしています。

プラス、政木和三さんの「無限小の力で無限大の時間をかける」という言葉も使います。

いままでの感じですと、私の場合は、「あきらめた」という言葉は、どうも何も生まないようで す。
「だめだな」は、何かを生みますが、副作用もあるようです。
「ハンドルを手放す」は、今のところ、副作用はないようです。


きっとうまく行かない時というのは、見えない流れに反して漕いでいるのでしょう。
「だめだな」も「ハンドルを手放す」も、見えない流れに逆らうのは止めよう、という意味では、きっと同じなのでしょう。

ただ、「だめだな」は、うまく流れには乗れるようですが、経験では、どうも副作用もあるように感じます。
気のせいかもしれいませんが。

「ハンドルを手放そう」
これが良いようです。
これから実践データを増やして行こうと思っています。


また、望まないことを起さないように、「〜ないように」というのは、いけないようです。
これも森田健さんの「不思議エネルギーの世界3(1996年発行:不思議研究所)の願望実現の実験に出てきます。
この実験はもっぱら一定パターンを願望を実現する実験だと思います。

つまり本にあるように、特定のトランプのマークが出るように、その念をトランプにこめる、というようなことです。
私が船井幸雄、と考えながら本を探していると、船井さん以外にも、船井さん周りの方の本で良いものが手元に来るのも、そういうことなのかもしれません。

本によると、、どうやら、正方向の願望しか、通じないようです。
つまり、試験前などに、「風邪をひきたくない」と思っているのなら、「風邪をひかない」と念じるのではなく、「健康、健康」と念じるのが良いようです。

いつだったか紅白歌合戦でアナウンサーが、「美空ひばりさん」の名前を「都はるみ」と間違えて言ってしまったことがありましたが、あれなどもきっと、「都 はるみ、と間違ってはいけない、と強く念じたため、「都はるみ」という言葉が実現したのではないでしょうか。
素直に、「美空ひばり、美空ひばり」とやればよかったのではないかと感じます。

また、「100%絶対できる、と思うと失敗することがある。99%うまくいく、と思うと良 い」ということも書いてあります。
99%未満でも、いけないようです。
100%だと、エネルギーが不安定になるようです。
詳細は、ご自身で本を読んでみてください。
今これを読まれている方の願望実現と、必ずしも同じことを言っているとは限りらないかもしれません。
同じかもしれません。

ただ現在森田健さん自体は、こういう方法論的なことには興味がないようです。
1996年の本であることを、ご理解のうえ、読まれる方は読んでみてください。






さて、本日やっと船井幸雄さんの新著「世の中、大激変中 いま一番知ってほしい大切なこと」(徳間書店:2005年4月発行)が届きました。
どうも今年が相当大事な年になるようです。
池田国吉さんもローマ法王が亡くなった年というのが大きなキーである、というようなことをずいぶん前から書いています。

増田俊夫さんによれば、今年は日本は好景気だそうです。
今現在、比較的景気が良いようですが、日本の景気と関連した何かがあるのでしょうか?

先日テレビで、ソニーピクチャーズが、赤字だったのを、黒字に立て直した話をやっていました。
そこでは、「日本式のまかせる家族的経営はアメリカ人には通用しなかった。アメリカ的な経営をすることによって、黒字に立て直した」と結論付けていまし た。
私は違うのではないか?と思いながら見ていました。
この建て直しは、イギリス人の現社長がやったようですが、どうも番組を見ていてしっくりいきませんでした。
何がどうかは、全部が出されている訳ではないので、分かりませんが。

少なくとも、そのやり方をこれからの時代で、まして日本でやったとしたら、果たしてどうだろ うか?とは感じています。
時代は完全に動いているようです。
3年前は大昔です。
それが分からないで、過去、と言っても6,7年前のようですが、それがまだ適応できる、と解説しているのは、少し時代の流れのスピードに追いつくていけて いないのではないか?と感じています。
実際はどうだか、分かりませんが。

むしろ、従来の日本的な経営方法に近いものの方が、これからはうまく行くことが多いように感じていますが。

みなさんは、どう思うでしょうか?



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