理由もなくこればかり聴いてしまうCDのコーナー

CDはたくさんあるのですが、なぜか、いつもこればかり聴いてしまうCDを紹介します。

 

 

1〜20   21〜40   41〜60   61〜80   81〜100   101〜120   121〜140   141〜160   161〜180 181〜200      
201〜220   221〜240   241〜260   261〜280   281〜300                        
クリスマスアルバムのコーナー                          

 



244:猪俣猛 40周年記念ライブ    
  以前のパターンに戻り ました。
曲目です。

1: Stella by starlight
2:I've grown accustomed to her faece
3:Night in Tunisia
4: Lester Leaps in
5: Cheek to cheek

6: Alright, okey, you win
7:: Sophisticated Lady
8: Ole! 40
9: Drummer Man

これは、ひょっとしたら、すでに扱ったかもしれません。
「ジェットストリーム」や、ロバート・ワグナーの声で有名だった城達也さんが司会をやっています。

派閥とは言わないですが、ジャズ界にも、仲良しグループがあります。

ここでは、前田憲男さんを中心とした仲良しグループ総出演といった感じです。

猪俣さんの奥さんのテリー水島さんも、歌っています。



前田さんのグループというのは、イメージとして、常識人という感じの人が多いです。
実際はどうかは分かりませんが(笑)。
ギターの沢田俊吾さんも、このグループですが、もう引退したのか、ここには入っていません。
ここというのは、・・・
これは1991年の録音ですので、もう14年も前ですね。

沢田さんは「勝ち抜きエレキ合戦」の審査員もしていたので、ジャズファンでなくとも、知っている人がいるかもしれません。
このグループは、もともとウエストコースト系のモダンジャズが好きな人の集まりです。
西条幸之助さん、伏見哲夫さん、荒川康男さんなども、このグループです。


もう一つのグループが、世良譲さん、北村英治さんなどのグループですね。
鈴木章治さんの周りの人達・・・松崎龍生さんなどですが、これは、世良さんたちとも良く演奏するし、かといって、いつも一緒ではない、という感じです。

そして、ジョージ川口さん、松本英彦さんたちのグループもありました。
世良さんたちも、仲良しだったようですが、ジョージさんたちは、若者、新人ともバリバリにやれるモダンジャズで、世良さんたちはスイング〜セミモダン、 イージーリスニングでしたので、あまりレコーディングを一緒にしたりはしていませんね。
コンサートなどでは、一緒の時も多かったようですが。


前田さんのグループの人達は、生きている人が多いですね。
若いでしょうか?
そんなこともないように思います。

比較で一つ言えるのは、前田さんのグループの人達が一番、テレビでの露出が少ないですね。
森田健さんが、占いの解説で、「どうして、成功した人が早死になのか分った・・・」というようなことを不思議研究所のサイト書いていましたが、そうなのか もなぁ・・・と感じます。

戦後すぐに超大ブームになったビッグフォーのメンバーを中心とするジョージさんのグループは、ほとんどなくなっています。

「鈴懸の径」の鈴木章治さんも、いくらか早くなくなっています。

芸能人的売れ方をした割に世良さんなどは、長生きだったと言っても良いのかもしれませんね。








さて・・・
ブッシュさんが帰りました(笑)。
金閣寺に入ったようです。
ニュースで少し見ましたが、住職がぎりぎりで、苦言(?)を呈したように聞えましたが、みなさんはどう思ったでしょうか?
もう忘れてきましたが、
「平和が一番ですね」
のようなことを言ったようです。

あの金閣寺を見て、ブッシュさんは、何かインスピレーションを受けたでしょうか?

奥さんは、茶道のお茶を振舞われたようです。
お茶の世界に「高次元」を感じたでしょうか?





ブッシュさんのやっていることに対して、京都ではいろいろなデモがあったようですね。
ちょっと見ましたが。

私的にはデモはOKですが、戦争反対と言いながら、警官に怒鳴ったいするのは、どうなのだろう?と思ったりします。
やはりガンジーさんの無暴力でもが一番効果があるように思います。
怒鳴ると、波動も悪いですし、中道派から見ると、それだけで、間違ったことをしているように映りますね。






紀宮さんが、黒田清子さんになりましたね。
結婚式に出た石原さんが、
「フランスのだれかだかの言葉を引用して、
「仏陀やキリストを信じるのと、結婚は似ている。なぜなら一種の賭けをするようなものだから・・・」
というようなスピーチをしていました。



なるほど、とも思えますが、聞いた瞬間は、「えっ、直感で、生命体から答えが来ないのか?」と思ってしましました(笑)。
なんだか最近は3次元でうまく言っている人はみんな、そうなのだろう、とある種、常識のように感じていましたので、以外でした(笑)。
増して、作家なのだから・・・とも潜在意識で思っていたのでしょうか?


少なくとも、石原さんは、自分の直感の存在を意識はしていないのかも、しれませんね。








さて・・・・・・
いつだったか、日曜日にテレビを見ていましたら、モーツアルトの特集をやっていました。
要するに、癒しと音楽、というようなものですが。

そこで、
青島さんという音楽家が次のようなことを言っていました。
「私たち音楽家は、音楽が癒しのためだと言われるのは嫌です。芸術だと思っていますので。
ただし、それが癒しに使われのは嫌ではありません」

ああ、そういう考え方もあうのか・・・と思いました。
私は物心ついたときから、音楽は”癒し”だと思っていたようです。

癒しと言いましても、広い意味での癒しですが。
つまり、何も病気治療ということだけではない、ということです。

元気を出す為であったり、ロマンチックに浸るためであったり、いろいろな要素があります。
いずれにしても、「心」、「気持ち」に何らかの要素を与えるものであり、それが音楽の意味なんだろうな、と感じていました。
今思えば、音、メロディなどの持つ波動をにより、人の心に、良い影響を与える、ということなのだろうと思います。



この青島さんという人の言って言う意味は、おそらく、音楽をやる、ということは、何か他のもととは違う崇高な行為である、という意味なのだろう、と感じま す。

もちろん、自分のやっていることに、それなりの意味、自信を持つということは、3次元的には別に良いのだろうとは思います。

しかしながら、3次元的に言えば、別に町の食堂の定食をこしらえることと、交響曲を書いて、演奏することは、それを見聞きする人の収入が違うだけで、そん なに違ったものではない、と感じます。
やっている人が、定食を作るより音楽を作る方が好きで得意ということでやっているのなら、なんとも思いませんが。
芸術と言う言葉の中に、崇高、優等感がこもっているようで、その点だけが私には、「崇高なことをしているわりに、精神レベルの低い人だ」と感じさせてしま います。
もちろん、この人がどうなのかは、良く知り合ってみないとなんとも分かりませんが。




また高次元的に言えば、この人が音楽をたって有名になる、というのは、ある程度は運命で決まっていたことであるようですので、別に優越感を持つ必要もない でしょう。
また、曲を作るにしても、どうも、そのほとんどは、とうの昔に他の人が一度世に出したものをアーカシックレコードからひっぱて来ただけの可能性が高いで す。

もちろん引っ張ってくるには、おそらくは音楽が好き〜!!波動のようなものをたくさん発していなくてはならないと感じますので、その点は、「良かった良 かった」と感じます。



育ちの良い人を見ていると・・・
一つは皇族のように、余計なことから影響を受けず、本当に正しく育って、正しいありかたが分っている人と、
自分は他人とり優れた生き物だ、というようなプライドによって、その存在意義を確立しているような種類の人がいるような気がする時がありますが、はたして どうなのでしょうか?

もちろん、上の青島さんという人がどういう人なのかとは、関係ありませんが。


自信を持つということは、やはり必要なことでしょう。
しかしながら、上記のように排他的な自信の持ち方は、いけないのでしょう。

今の所、持つのなら、「私もあなたも、創造主の分身である」と言うことに対して、自信を持つのがいいように感じます。
もちろん、今後、この概念も、変わってくるかもしれませんが(笑)。
みなさんは、どう思うでしょうあか?








と、書いていて、思いつきましたが、私は、以前、少し無理して、モダンジャズのセッションというのにも、参加していました。
何が無理かと言えば、「あまり好きでない」ということなのですが。

そこで、セッションをしていると、演奏相手にもよりますが、どうも、ぜんぜん違うことを考えている、というような違和感のある時がありました。

音楽性の違いかな?
気が合わない、ということかな?
とか、いろいろ考えたようにも思いますが。


どうも、それはひょっとすると、この芸術と、癒し、の違いにあったのかもしれません。



私はアドリブソロを取るにしても、別にそれが、他の人よりも、音楽的に優れているとか、理論的に優れているとか、そういうことには、あまり興味がもてませ ん。

聴いて、その結果、それが聴いている人に、何らかの「喜び」に近いものを起せるように、というようなことが、私には興味がありました。

もちろん、中には、理論的に優れているフレーズを聞くことにより、心になんらかの良い波動が起こる、という人もいるでしょう。
それは、その時はそれで、良いとは思いますが。

私の独断で言いますと、しかしながら、それは、あまり良いことではないかもしれません。
それは、どうも、理論的に優れているものが良いのだ、という間違った概念を持っていうが故に起こる波動のように思います。

そういう人は、他人が良い評価をくだしたフランス料理でも食べていれば良いのですが。
フランス料理にしても、それを見て、自分の心で、「きれい」、「おいしい」と思ってよい波動が起こるなら、私は良いのだろう、と感じます。

なんと言いますか、理論とは、今のところ3次元的な理論であって、そこには高次元的要素がまったく含まれていない、ように感じます。
おそらくは、そこらへんにも、私がモダンジャズを好きになりきれない何かがあるのかもしれません。
もちろん好きなものにありますが。




とは言え、理論がいけない、ということではないと思います。
しかしながら理論というのは、事実を導くためにあるのであって、理論そのものに捕まってしまっては、きっといけないのでしょう。

理論そのものに捕まると、いつ生まれたか分らないアメリカ産孔子に対して、「生後20ヶ月以下のもに対しては・・・」などという理論に騙されてしまうかも しれません。



小松英星さんが、新しいQ&Aで、なんとか言う本を出している人が、サイトでこんなことを言っているが、アセンションを前提としない分析では、だたのがら くたのような資料集めにしかなっていない、というようなことを書いています。

アセンションがあるのかどうか、アセンションに対しての今の状況が、意図してそうなったのか、決まっていたそうなったのか、は別として、少なくとも、根底 にある”流れ”のようなものをしっかりとつかみませんと、確かに、過去の寄せ集め集になってしまう可能性はあります。


その流れが意図しても、しなくて、どこかにあるその大きな流れの中で事象を見ていきませんと、分析は間違えるでしょう。


瞬間、瞬間に生きる、ということと、この話はきっと別のものでしょう。


今ここで語っている理論とは、もっぱら音楽についてのことですが・・・
これを派生させますと、理論とは、こうするとこうなる、という意味においては、それもひとつの流れの分析結果である、ということも言えるでしょう。

しかし、理論(もっぱら音楽、あるいはもモダンジャズ)は、公式ではないです。
もちろん公式にもなり得るのですがそれは、もっぱら作曲などの場合でしょう。
つまり、第三者の介入のない状態です。
もちろん、意図して介入させる作曲方法もあるでしょう。
共作となれば、まさに意図した介入です。

ジャズでは、演奏中に、問われてしまいます(笑)。
「そっち行くの?俺は今、こういうコードにボイッシング(和音の混ぜ方)してるんだよ?」
とかですが。

そうなると、今度は理論は邪魔になる可能性が高いように感じます。
あるいはできるだけシンプルな理論の方が良い、ということなのかもしれません。

その意味で、公式ではないですね。
三角形の面積を出す時に、底辺が、
「ちょっと待った。俺は今、高さになろうとしてんだよ」
とか、
「俺は今、かけられたくないんだよ」
とは言わないでしょうから。


もっとも、どんな問いを出されるかということも、演奏に大きく関わってきますので、その意味では、気のあった(?)演奏者を選ぶ、というのも、また分るこ とです。

だれのどんな問いにも、反応できる必要はないのだろう、と感じます。

かと言って、まったく問われないで演奏する、というのも、またつまらないことなのでしょう。









森田健さんの「問い」という概念を聞いて以来、いろいろ考えますが・・・
大学時代、スナックでピアノを弾くアルバイトをしていましたが、あれも、問われているかもしれませんね。
次に何を弾こうか?と考えていると、カップルが入ってきて、「ああ、ラブソングを弾こう・・・」という具合になったり、「ああ、この年代の人なら、こうい う曲だな・・・」となったりします。

ただ、当時は、問いということなど意識していませんでしたので、それはただ、
「何を弾こうかな?」→「ああ、カップルが入ってきた」→「これを弾こう」
となっていただけですが。
それをして、「ああ、俺のセンスもなかなかだな」と思っていたりするわけですが、それは要するに自分の力ではなく、時空のネットワークのなせるものである ようですので、自分の能力に対して、「なかなかのもんだな」と思う必要はいのでしょう。
あるとすれば、
「ああ、俺も、時空に繫がっているな」
ということでよいのだと思います。


このような現象をして、霊能者の方の中には、
「それは、守護霊が、導いてくれた」
という人もいるかとは思いますが、もし、5次元のネットワークの中であるのならば、仮に最後の2つの流れ、つまり、「守護霊」→「当人」までは、そうであ るとしても、「守護霊」になんらかのインスピレーションを与えた「モノ」があるように感じますし、その人に、その守護霊がついたのも、なんらかの「モノ」 によるのだと感じます。

私は本当のことは分かりませんが、霊能者の方はどう思うのでしょうか?


霊能者でない人はどう思うでしょうか?






いろいろ思いついたことを、こだわりなく書いていきますが、
足立育郎さんの本だったか、深野一幸さんの本だったかを読んでいましたら、面白いことが書いてありました。
(足立さんだったかな?)
確か創造主と交信しているシーンだったと思います。
自動書記だったと思いますが、なんでも、創造主からの回答であると、最後に

が着くようです、その時は。

と、書いていて、メールを確認しましたら、「
オカルトではありません。霊能者でもありませ ん。普通の能力です。」というメールが来て いました(笑)。
金儲けの誘いのようです。


私は、小学生の頃は神経質でしたので(と思っていましたが)、とにかく理由なく、いろいろな図(?)を書かなくては気がすまないという時がありました。

良くなぜか書かないと気がすまなかった図は、


こんな図です。
とにかく、毎日のように、10年間くらい頭や紙に書いていたように思います。




この図も、何度も書きましたが、このブーム(?)は比較的短かったようです(笑)。
当時は、とにかく、真ん中に点がなくては気がすまない、左右対称でなくては気がすまない、というような理由の分からない気持ちで、これを書いていたように 思います。

但し、何の啓示もありませんでしたので、きっと、単なる神経質でしょう(笑)。
たまたま似ている図だったので、描いてみました。

 
みなさんには、そんな図はないでしょうか?

一体なんだったのでしょう?
いっそ、何かの啓示の方が、「やっぱり、神経質ではなかったんだ」と思えますので、よいくらいですが(謎)。

上のメールが問いへの回答だとすれば、きっと、神経質だったのでしょうね。





さて、先日、インターネット・オークションで時計を売りました。
購入者が、直接品物を受け取りたい、というので、持って行きました。
ついでにいろいろ話をしましたが、その人も、結婚するまで・・・というかCD時代になるまで、オーディオファンであったようです。

いろいろ話していて我ながら面白いことを言っているな、と思ったことがあったので書きますが、
レコードの音は心の中へ入って来るのに、CDの音は肉体のところで跳ね返ってしまう、という言葉を私が言いました。
「ああ、なるほどな」と我ながら思いました。

確かにそういう感じなのです。
おそらくはビットレートのせいだと思いますが、周波数も関係しているかもしれません。

そして、
「レコードの時は、スピーカーの前にどっしり座っていられたが、CDになってから、音が鳴っていても、何か、余計なことをしていなくてはいられなくなっ た」
ということも、私は言いました。
「ほう、そう言えばそうだ」
とも思いました。


購入者は私よりいくらか年が上のようにう見えましたので(同じくらいかもしれない)、2人して、もう音楽をどっしり聴く年齢でもないせいかもしれません が、やはり、日本人の音離れは、このCDに原因があるような気がしてなりません。

みなさんは、同じようなことを感じないでしょうか?






ところで、CDの音は、カセットテープに落とすと、聴けるのです、私には。
これを考えてみますが、
テープに落とすことによって、ビットレートのぎざぎざの角が取れる、ということはあるかもしれない、と感じます。

リズムマシーンというのが、あります。
ようするに、ドラムの代わりをする機械ですが、しかし、これはこのままだと、「変」なのです。
人間味のようなものがないのです。
それを補うために、クオンタイズ機能というものがあります。
要するに、微妙にリズムをずらす機能です。
もちろん全体としてのリズムをずらすのではなく、8ビート(4拍子)の3拍目で入るスネアドラムのタイミングなどを、機械で測定したり、音のソフトでおも いっきり拡大したりしないと分からない程度にですが。

そうすると、そのリズムは、聞いていて違和感がなくなります。

何か、これと同じようなことが、このCDをテープに落とす、ということに起きているような気がしてなりません。



どうでも良いですが、惣菜のてんぷらをおいしく食べる方法で・・・
電子レンジでチンするとべちゃ、としてしまいますので、てんぷらに若干水分を与えて、それをオーブンで焼くと、元のカリっとした感じが戻るようです。
別にこれとテープに落とす話は関係ありません(笑)。







先日のインターネットでの、「真実ニュース」の話ですが・・・
船井幸雄さんは、インターネットで、毎月、「船井幸雄オープンワールド」のインターネット版をやったら面白いの にな、と感じます。

あたかも、森田健さんが受講しているインターネットでの大学の講義のようですが。

今月は岡田多母さん、来月は、エハン・デラヴィさん・・・・・・といった具合に、1,2時間の講演どころか、1日1時間くらいで、週5回、それを1ヶ月や るのです。
もちろん、参加者から質疑応答もあり、場合によっては、宿題もあり・・・

面白そうだと感じますが。



これを同時通訳付きで行えば、英語圏はOKEYです。
他の言葉に通訳すれば、他の国へも問題ありません。



いかがでしょうか?




245:ライブ・アット・ボディ&ソウル:山本剛
   
  これも、一度使用したかもしれませんが、話のとっかかりですので、構わず行きます。

老舗のジャズクラブ、ボデイ&ソウルが青山に引っ越した時か何かの記念ライブだと思いました。
私は一度、六本木にあった時に、覗いたことしかありません(笑)。


1996年の発売です。
精神世界の本といい、この年号は本当によくでてきます。

曲目です。

1.ドルフィン・ダンス~クレオパトラの夢
2.オン・ア・ミスティ・ナイト
3.ミスティ
4.朝日の如く爽やかに
5.ローラ
6.ラスト・タンゴ・イン・パリ
7.ボディ&ソウル・ブルース
8.P.S.ボディ&ソウル

「ボディ&ソウル」はやっていませね。

「ラスト・タンゴ・イン・パリ」は、ジャズ演奏には良くあったメロディだと思うのですが、あまり、取り上げられることの少ない曲です。
「シャレード」などのほうが、良く聴かれます。


この人はとても人気のあるピアニストです。
あまり大きなテンション音・・・つまり、コードから常識的(?)に聴いて、はずれた音を使わず、メロディアスなフレーズが売りですので、そこら辺が人気の 原因かもしれません。





さて・・・
今、高橋信次さんを読んでいますが、どうも、高橋さんが31,2歳の時に書いた本のようです。
基本にあるのは、従来から言われてきた精神世界的発想のようです。
但し、昭和48年発行の本ですので、ひょっとしたらこの頃としては、革新的なことが書かれていた可能性もあります。
昭和48年ですと、1973年ですね。

ある種の宗教に対して、
「そのような布教の仕方や、救いの方向性は間違っているよ」
ということが、全面に書かれているようです。
どうも、長く読めませんので、少しずつ読んでいますが、現在の所、瞑想の話、芸術と正道の話などが、興味深いな、と感じています。


ちなみに本は、「心の原点(1973年:三宝出版)」です。

瞑想の話では、「反省なく空になっても、悪いものにつかれてしまう可能性がある」というようなことが書かれています。
もちろん、現在私は、「どうなのだろう?」とは思っています。
少なくとも、不思議研究所の孫さん瞑想では、そのようなことは言われていません。

但し、現在の私でも、「極端に低い精神レベルの人が空になったなら、あまり良くないこともあるかもしれない」と思っています。

1973年当時の状況を考えるに、世相は今とは違ったものであるようですし、世間では、まだ公害問題などが表面化してきたばかりのころであり、学生運動の なごりもあり、しかしながら、大学進学率などは、きっと10〜2,30%で、ほとんどの学生が下宿、4畳半のアパートなどに住んでいた時代でしょう。

私はまだ、9歳ですので、小学校の1,2年生でしょうか?
受験戦争なども、まだ本格化しておらず、給食にはくじらの竜田揚げが出てきていましたし、ご飯が出だしたのは、5,6年生の時だったように思います。
当然、理科の実験では石綿付きの金網が使われていましたし、天然痘の予防接種も、義務でした。
ソニーがラジカセを出したか出さないかくらいの時代ですし、大晦日は、紅白かレコード大賞、24時間テレビはまだ、始っていません。
石油ショックが前後にあったかと思いますが、漫画「レインボーマン」の題材にされたことくらいしか覚えていません。


一見、今と比べれば、のどかな時代にも思えます。
その観点からすれば、今との比較で精神レベルが極端に低いということはありえないよおうにも感じます。
むしろ高かったのかもしれません。

しかしながら、アメリカ的資本主義が、本格的に精神までむしばんでくる、という観点から考えれば、確かに戦後すぐよりも、この時代の方が、重要な時代で あったことも確かでしょう。
ここで、方向性を違くしていれば、今のようなありさまとは、変わっているわけですので。


それを考えれば、何かが見えていた人が、その点を重要視して、必要以上・・・もちろんその人にしてみれば、必要なだけ・・・に道徳的、あるいは、そっちに 行ってはいけないよ、という方向性で物事を語っていた、ということは言えるかもしれません。


それ故、反省、ということに重きを置いた物言いをしていう、ということは考えられるかもしれません。
良く分かりませんが・・・。







芸術については、面白い例が2つ、頭に残っています。
ひとつは入り込む、というようなことですが。
「役者でも、小説家でも、そこで演じられている役、書かれているストーリー・心情は、役者、読んでいる人、書いている人に、影響がある。
小説家に自殺する人が多いのがそのせいかは分らないが、影響については、気をつけた方が良い」

というようなことです。




この時代で、”波動”という言葉も使われています。
確かに、いくらかそういうことはありますね。

私は北方謙三さんの、小説が好きで、当時出ていたもので、時代モノを除いて、ほとんど全て読んでいましたが、やはり、そういう影響はいろいろなところに あったように感じます。

その前は、任侠映画に凝っていたわけですから、へんてこな生活であったも、何となく納得がいくところではあります(笑)。

その前は、夏目漱石に傾倒して、またまた全部読んだりしていましたので、書く文体からなにまで、本当に似ていました(笑)。
その割には、今、頭に残っているシーンはと言えば、牛鍋を食べるシーンで「君、生のまま食べると、サナダムシがわくぜ」というシーンだったりしますので、 変な話です(笑)。
国産牛肉なら生でも大丈夫ですね。
あれは、三四郎だったでしょうか?


日本文学も、いろいろ読みましたが、不思議に心に残っているものは少ないです。
川端康成の「雪国」が妙に、心に残っていて絵入でどこかに出てきますが、池部良さんの映画の影響もあるかと思います。

むしろ、星新一さんのショートショートの方が心に残っているものが多いです(笑)。
短いからでしょうか?




役者にしても、なんにしても、波動の原則から考えれば、その役、内容は当然、その人に影響があることでしょう。
カネガネそうであろうな、とは思っていましたが、似たようなことを書いている人がいて、少し安心(?)しました。





また、画家さんの話も出てきます。
「高橋さんの本を読み、話を聞くまでは、絵をテクニックでばかり描こうとしていた。
奇跡のようなめぐり合わせで有名な先生の弟子になれたり、スポンサーがついたりと、恵まれた
画家生活でした。
しかし、それまでも、ある程度良い評価を得たりはしていたが、高橋さんの本を読み、心を成長させたことにより、テクニックだけではどうしても得られなかっ たものが絵に反映でき、美術院賞を受賞することができました・・・」
というようなものです。

これは、
「高橋さんの本を読んだから、奇跡的に絵がうまくなった」
ということではないように感じます。

この人はこの人として、まず、自分が好きで得意なものを・・・つまりこの人の快に対してストレートに生きてきた、そして、望むと望まないとに関わらず、そ の中で、いろいろなことを学んできた。
その結果として、高橋さんの本を読み、理解できる部分、あるいは、この人に必要な部分がその中に見つかり、そして、精神レベルがまた一段階上がり、その結 果、「人」が評価してくれるような絵がかけた、ということなのだろう、と感じます。

どうでしょうか?

今書いていて、頭の右の方に、しびれるような感覚がありましたが、これは時々あります。
なんでしょうか?(謎)。



しかし、私には不思議なのですが、絵を書いていて、それまでに「心」という発想には行かなかったのでしょうか?
当人からの手紙という形で、詳細までは書かれていませんので、分かりませんが・・・。

音楽、少なくとも、ジャズやポップスでは、多くの人が、そういう発想に自動的に行っているようですが。
つまりテクニック重視ではなく、そこにある心の情景、というようなものが、作品に出てくる・・・ということですが。
クラシックの演奏者については、良く分かりませんが。






この話も、もちろん、すべてが決まっている、と言う観点からすれば、この人がこの賞をとることが決まっており、その3次元的きっかけとして、高橋さんの本 があった、ということになるのだと思いますが。

そうすると・・・
すべてが決まっている、という観点からみると、卓越した存在である「人」というのは、人の決まっている運命をあたかも、そうでないように演出するための役 を演じるために、生まれてきた、という要素もあるのかもしれません。
もちろん、単なる想像ですが。

その意味では、一種の”使命”に似たものがあるのかもしれませんが。
但し、この私の発想法では、”使命”の意味も、やや違ったものになってきてしまうかもしれませが。


みなさんは、どう思うでしょうか?







さて・・・・・・
同じ本の233ページには、「心の錆」というタイトルが出てきます。
引用してみます。
『「アラハンの境地に到達されている人々も、自在力を失ってしまうことがあるのだろうか。それとも、生存中は、その境地は変わらないものだろうか」
という質問が、私達のグループのなかから出てきた。
非常に良い質問である。
例をあげて追求してみよう。
鉄というものは、非常に酸化しやすいものだ。自然に放置しておくと、酸素O2と、鉄Feの表面が化合して、Fe2O3という酸化第二鉄、つまり赤錆に変 わってしまうだろう。
この酸化第二鉄は、すでにFeという鉄の性質を失って、もとの鉄にはもどらないものだ。
錆びたままの物に、表面塗装をしても、やがて、鉄の表面の錆が浮き出てきて、塗装の皮膜を破り、また赤錆が表面に出てくるだろう。
私達の心と行いも、同じことがいえるだろう。
霊感を得たいと思って、いかに正法に帰依しても、今までの心のなかに錆びついている不調和な想念や行為を反省し、暗い想念、つまり心の錆を落とさなけれ ば、恐ろしい結果になってしまうということだ。
それは、表面だけを正法という塗装でおおっただけで、中身に問題があるからだ。
(中略)
このような修行者とか修験者とか、その他似たような修行をさせられた者達は、霊媒的なことができたとしても、肉体的に不調和な現象が現れたり、その子供が 不調な現象に襲われたりして、心の安らぎが得られなくなってしまうのである。
これに反して、正法を悟っている者達は、家族も円満に調和され、常に中道の八正道を心の物差しとしているため、感情のもつれがないのであう。
それも、自分の思っていることと行っていることに対して、自らが、正しいという心の基準を知って生活しているからだといえる。
鉄の表面にパーカライジングという科学処理をほどこすと、塗装した後も錆が出ににくなる。これと同じように、正法にそった生活をすることは、私たちの心を 常 に神の光でおおい包むことになる。・・・・・・』




もちろん、この前後があるのですが、
読んでいて、ふと感じるのは、蘇生、という概念がないな・・・ということです。
もっとも、今から33年前に書かれた書物に対して、そのようなこと言っても無理があるかと思いますが。



心を鉄にたとえ、
「ほっておけば錆びるし、錆びたら磨かなくてはならない。
錆びないためには、正法に沿った生活をするべきであり、それは、表面処理をした鉄が錆ないように、心を神の光が守ってくれるからである。」
ということを言っているように思います。



もちろん、心をそぎ落としてしまうことはできませんので、例え話ではあるのだろうと思います。

しかしながら、錆た部分はそぎ落とす、そして、正法にそうことにより神の光に守ってもらう、としています。

私が違和感を持つのは、錆びた部分は蘇生する、蘇生ができる人間になる、の方が、より良いような気がする点です。
どうも、西洋医学と、東洋医学の違いを感じます。

私は、森田健さんの調査した孫さんの言動を考えるに付け、そぎ落とすのは西洋医学的、蘇生させるのは東洋医的、というような印象があります。

要するに、もし時空と完璧に通じることができたなら、そぎ落とすのではなく、蘇生することができるようになる、ということなのですが。



八正道については、勉強不足ですので、良く知りません。
言葉は何度か見たことはあります。
例えば、池田邦さんの本で、九州かどこかのグループが、「人の道とは八正道であり、あなたの言っていることは間違っている」として、関英男さんの加速学園 に議論をしにきたことがある、とか、そういう話でですが。

良くは知りませんが、前後を読むと、どうも関英男さんの言っている、常の心、と、ご法度の心に近いものであるのかな?とは思いますが。



仮の仮説・・・要するに仮説ですが(笑)、
高橋さん式のものと、孫さん式のものとを比較してみると、何か面白いパズルが解けてきそうな気がします。


森田健さんの本で書いていることなどを参考にしてみれば、

高橋さんの言っていることは、4次元のエネルギー、
孫さんの言っていることは、5次元のエネルギー、

高橋さんは、そぎ落とす、
孫さんは蘇生させる、
 

高橋さんは、正道にそい、神の光に守ってもらう、
孫さんは、自然にまかせているだけ、
森田さんは、快に従い、時空のネットワークにつながる、


というような比較ができるでしょうか。






ただ従来から言われていることには高橋さんの方が近いのは確かです。


また、ひょっとすると高橋さんと分け御魂であったかもしれない政木和三さんと高橋さんを見てみれば・・・
霊能力(超能力)は高橋さんの方が上のように感じますが、自由度では政木さんの方が上のようです。
なにせ、発明家ですので(笑)。
また、高橋さんがテレビ局に抗議の電話をするシーンは思い浮かべにくいです。




高橋さんは若い時から苦労が多く、若くしてなくなったようですが、政木さんは、比較的普通に生き、長生きしました。
もっとも、昔の話とは言え、中学を出て、一度就職をして、学校に入り直してから大学へ行った政木さんではありますが。

同じなのは、二人とも理系で、複数の学科の勉強をして、不思議なことを言い、

「3億6000年前に、木星の内側を回っていた地球と同じような星にすばらしい文明があった。
しかし、核融合実験の失敗で、水が連鎖反応を起し、大爆発し、その星はなくなってしまった。
前もって察知した学者たちが無数の円盤をつくり、人々をのせ、地球へ送った。その頃、地球に人は住めず、肉体はほろび、生命体だけのこった。
生命体だけでは修行ができないので、獣、草木に宿った。
何億年もの間に、その85%は動物的な人間性になった。自分さえよければよい、と思い、精神的な話には関心を持たず、ただ生きていればよいという人間に なってしまった・・・」

というような話をしていたらしい、ということです。
(政木さん談)



もちろん、苦労した人がすべてそうだとは言いませんが、
苦労すると、高橋さん的発想に行きやすく、
苦労が少なく、あるいは苦労を感じず、それでいて、ある程度多次元的精神レベルが高いと自由になっていく、ということも言えるのかもしれません。


高橋さんは病気治療を良くしたようです。
そういう人は、そのせいで、短命であるということは良く聞きます。
しかし、高橋さんに比べれば少ないでしょうが、政木さんも多くの人の病気を治したようですが、長生きです。
最も、2度、高次元により寿命を延ばしてもらったようでが。



高橋さんは、社長さん・・・経営者だったようですが、
政木さんは、そうではありません。発明家です。



一般的な経営者は、普通以上に人を大切にするようです。
お客さんもいますし、雇用者もパートナーもいます。

ここら辺にも、蘇生とそぎ落とす、の差の原因があるのかもしれません。
あるいは、正道にそわないと神の光が得られないと思うのか、自然に任せておけば良いのか、の差の原因かもしれません。


孫さんも、森田健さんも、人当たりは良いし、友人も多いようですが、ドライなところもあります。

政木さんと高橋さんを比べると、講演を途中で止めてしまう政木さんの方がきっとドライでしょう。
団体を作った高橋さんと、そういうことはしなかった政木さんを比べても、政木さんの方がドライとも言えるかもしれません。


こうなると、ドライが自由で蘇生、苦労を苦労と思わないであり、ウエットが何かに沿う派であり、そぎ落とす派であり、苦労した人とも言えるかもしれませ ん。




もっとも、ここに登場した人はみな、極悪人ではありませんので、それこそ、立体的に見ませんととんでもない間違いをする可能性もあります。
そこら辺は、読まれる方で考慮して読んでください。

簡単に言えば、政木さんだって、毎日奥さんと散歩していたようですし、森田さんだって、社員を雇用しています。
高橋さんだって、一度倒れた時には、幽体離脱状態で、「今建築中の物件の書類の場所を人に言うのを忘れていた」とか、思ったようですので、何でも完璧だっ た、という訳ではありません。
その時、「だれそれとは、通信できるから、あの世から教えればいいか」
とも思ったようですので、高橋さんも、なかなか面白いところがあります。

何かありますね、ここら辺に。


みなさんは、どう思うでしょうか?













さて、正道ですが・・・・・・
自然に任せる、と正道に沿うが同じ次元にあるものだとするのなら、本当は自然に任せておけばよいのだか、人の中には、正しく自然に任せることができずに、 どこかへはずれていってしまう人がいるので、正道でロックをかける、ということをしている、とも考えられます。


もちろん仮説ですが、そうするとどうなるかと言えば、著しく間違った方向へいくこともないが、その代わり「正道」の中にあり、そこから出ることはできな い、ということは起きるかもしれませんね。



正しく自然に任せることができない、とはどういうことでしょうか?

ネットワークにつながっていない、ということでしょうか?
もちろん、これもあるでしょう。

ハンドルを握り締めている、ということでもあるはずです。
もっとも、ハンドルを手放しても、次にはネットワークに繫がることが必要なようですが。
但し無用にネットワークにつながつことを目指すのではなく、何かに対しての問いがあり、その結果ネットワークにつながる、という状態がベストのようです が。

また外応のことを考えれば、ネットワークからの情報は、状態として、その人に訪れるだけではなく、答えとして、他の何かの形、有様を借りて、訪れることも あるようですので、それも、きちんと読みとれなくてはならないようですが・・・。
不思議研究所のバッタの飛ぶ軌道を見て、株価の流れの回答を得た例を考えると、どうも、「株」とは、どんなものか?についての一般的な知識もなくてはなら ないようですので、必要なものの中には、3次元的な知識というもののあるのではにかと考えます。

つまり、正しく自然に任せる、とは、当然あるべき3次元の知識を持ち、不必要な欲を持たず、時空を信頼しているような状態で、あとは成るようにまかせ る・・・というようなことかもしれません。

もちろん、たまには、「良いこと」以外も起きることはあるのでしょう。



正道は、ひょっとすると、マニュアルかもしれません。
ネットワークにつながれない人が、いかに、道を大きくはずれないように生きていけるのか、ということに対してのものですが。


マニュアルはマニュアルでOKなところもあります。
弊害もありますが。



安くてデザインの良いカジュアル服を作って売っている会社が今の流行にあわせてマニュアルを全面的に導入したことがあったそうです。
しかし、やめたそうです。
社員が自分でものを考えるのを止めてしまったそうです。

裏覚えですので会社の名前は出せませんが、傘立てを店の前に出す、というマニュアルの例で語っていたかと思います。
確か・・・雨が止んだら、何分後かに傘立てを引っ込めるか、あるいは振り出したら出すか、のようなことだったかと思いましたが。
それで、親子ズレかなにかが雨に濡れた傘を持って店に来たのだけれど、傘たてはマニュアル通りに実行され、出ていなかった、とかそういうようなことだった かと思います。
要するに何が言いたいかと言えば、ちょっと考えればベストの方法がマニュアルと違うということが分るはずなのに、マニュアルにそう書いてあると、それを法 律のごとく解釈して、その通りでないといけない、怒こられる、それ以外してはいけない、それだけやれば良い・・・・・・などなどの発想により、幾万通りも ある事実に対して正しく対応できなくなってしまってくる、しかしながら、その正しいこと自体はマニュアルなどがなければ、むつかしいことでもなんでもない ことであるのに・・・ということです。

バ○な人は、「それじゃマニュアルを直そう」とか言い出すはずですが、廃止したこの会社はさすが・・・普通ですが・・・だと思います。

会社の兵隊社員の行うことをすべてマニュアル化して、それで問題ない、というんもはアメリカから来た発想です。
なんで兵隊社員だなんて言葉を使うかと言えば、そう思ってやっているとしか思えないからですが。

これは、日本のプロ野球がノーアウトでランナーが出たら、バントをする、ということとは違います。
あれは、ファーストが飛び出てきたら、3塁側にバントするとか、そういうことはバッターに任されています。
その意味で、「この商品を売っていこう」という全体の戦略のようなものです。


この意味で、アメリカ人にはむしろ、正道がマニュアルだとすれば、本当に必要なのかもしれません。

要するに、もとが雑なので、それを強引に是正しようとしたら、軸の逆側のメモリに触れるしかない、つまりは、絶対値はまったく変わっていない、というよう なことなのだと感じます。

つまり、マニュアルは「雑」でしかない、ということだと思います。
良い面がある、とは、つまり、今までの雑で0点だったことも、新たな雑でなら60点取れる可能性がある、ことなのだと感じます。




弊害はこの中にもある通り、「
それを法律のごとく解釈して、その通り でないといけない、起こられる、それ以外してはいけない、それだけやれば良い・・・・・・などなどの発想により、幾万通りもある事実に対して正しく対応で きなくなってしまってくる」ということだと思いますし、個人の能力ということを考えれば、ぐっと成長を妨げるものだと思います。

野茂やイチロウが人とは極端に違ったフォームをしていることを見れみれば分るかと思います。

この意味で、森田健さんの下位の問いと上位の問いのことを考えれば、マニュアルとは上位の問いの回答集のようなものかもしれません。
そしてこの場合の下位の問いとは何かと言えば、きっと自分で考える、ということなのでしょうか。

但し、大きく見れば、どちらも基本的には上位であるとは思いますが。
但しマニュアルには問いの入る隙間は一切ありません。
ないから、ずぶぬれの傘を持って入ってきたお客さんがいるのに、傘立てを引っ込めて、店は濡らす、お客さんには傘を持たす、だなんてことを平気でできるの かもしれません。




そう考えていきますと、正道がマニュアルであるとすれば、正道に限らず、人の道を説くさまざまなものは、ひょっとすると、人間の持つ可能性を60点、 60%程度までしかはっきできなくしてしまうものかのかもしれませんね。
もっとも、60%も・・・という発想もあるのかもしれませんが。

60は仮の数字です。
この話の仮の話です。
その内、創造主と通信できるようなことになったら、確認してみます。



経営者の人が、このような60%でも、確実に60%得られる方法、に流れていくというのは、分るような気がします。
確実に見込める売り上げというのが、必要でしょうし、確実に働いてくれる社員を確実に採用する、ということも必要でしょうから。
もっとも、高橋さんが、そうなのかどうかは、分かりません。
一般的な話です。



仮に、ここで私の書いていることが正しいとするのなら、高橋さんと政木さんという同じような潜在能力を持った2人が違う人生を歩んで、ドライとウエットと いう違う方向性を取ったことの根本にあるものは、「問い」なのかもしれませんね。

苦労して、「どうしたら、確実で安泰な平和が得られるだろう」、という上位の「問い」と、楽しくて、自由で、「どうして月が落ちてこないのだろう?」と子 供のことから思い続けてきた下位の問いの数々との違い、ということなのですが。

「どうしたら、確実で安泰な平和が得られるだろう」は、高橋信次さんが、実際そう思ったかどうかは分かりません。
「どうして月が落ちてこないのだろう?」は、政木和三さんの本に、子供の時、そんなことば かり考えていた、という話が出てきます。


超能力や高次元と通じる能力は、この2人が同じ類魂だとすれば、いつか出てきたことでしょう。
政木さんの本を読む限り、前世はすごい人ばかりです(笑)。

しかし、仮に、運命は決まっていたとしても、森田健さんの言うように「問い」によって変えられるのだとすれば、そして、私の考えるよう問いをお二方がして いたのだとすれば、正に、この2人の人生は、「問い」によって違ったものになったのかもしれません。
もちろん、その問いを持たせた、それまでの人生は決まったものであったのかもしれませんが。









先日、不思議研究所のサイトに「無」といことについての話がありました。

炒った豆から芽を出す超能力者(それだけではないが)の孫さんの推奨する瞑想法が、火の玉を回転させるイメージを持ちながらやるものですので、「無」には ならずに、「意識」の中でガンガンやる、ものである、という話です。

私はかねがね書いているとおり、イメージの「絵」を出すのが下手です。
いろいろな雑念がうごめきます。
特にその時、絶対に出て欲しくない、と意識したものが出てくることが多いです。
これとの葛藤が一番つらいです。

そうなりますと、とにかく無視するか、「無」あるいは「空」になるようにするか、それとも、「完全にあきらめるか」を選択することになります。

不思議なもので「空」をイメージすると、雑念は消えることが多いです。
しかし、これは、いけないことなのか、いいことなのか、分かりません。

もちろん、さすがに1年以上やっていますので、火の玉を回すことはできるようになって来ましたが。




但し、足の裏、手のひら、天門(天窓)、天目にエネルギーを受ける瞑想では、雑念が出ることが多いです。

今日などは、この「無」の話で、頭が多少混乱していましたので、雑念が多く、早々に切り上げましたが、それでも、気が済まず、とうとう「あきらめの心境」 になり、もう一度トライしたところ、比較的すっきりできました。



どうも、今の私には、「あきらめること」が一番効くようです。
ハンドルを握っている証拠かもしれません。

「あきらめる」は止めるではなく・・・なんと言うのでしょうか、本質に委ねる、というので しょうか、要するに、ハンドルを手放すのですが。
但しどうもこれは、時空と繫がった瞬間でなくては、そうはなれないのかもしれません。
いつ繫がるかと言えば、きっと今日の私のように、「いくらやってもだめ」なので、「深入りせず」、「早めに止め」、「これもOKさ」と思った時なのかもし れません。

みなさんは、どう思うでしょうか?








さて、「悟る」ということですが、私は、幼い頃から落ち着きのない人間であると言われ続けていましたので、親は「お寺に修行に出す」とか「武道をやらせ る」とかいろいろ考えていたようです。

そのせいもあるかもしれませんし、私の身内には気の短い人が多かったですので、人間「悟る」ことが必要だといつのまにか思うようになっていました。

「悟る」が良いかどうかは別として、私はそんなことを長いこと考えていましたので、「悟り」のふりならできるようになりました。
どういうことかと言えば、「何があったも驚かない」、「動じない」、「脅しにも屈しない」・・・などなどです。
しかし、自分でも分っていますが、これなどぜんぜん「悟り」でもなんでもありません。

それは要するに、興味を持たず、感動せず、孤独を愛し、何かにされるがままになっている、という状態です。
(もっと言えば、痛がらず、苦しまず、要求もせず、考えもせず、・・・・・・)

これは、どういう状態かと言えば、「悟り」でもなく、「あきらめ」ではなく、単なる「世捨て人状態」、あるいは、「ひねている状態」なのかもしれません。

その証拠に、そうしていた時の私などは、穏やかな顔つきではなく、怖い顔つきだったようです。

要するに、「あきらめていない」のに、「止めざるを得ない」で、「心の中で愚痴を言う」というような状態なのでしょうか?

何か、「あきらめて」、「感謝」という言葉の太極にあるような感じです。


こう考えると、森田健さんの言う、「自分のすべてを認める」ということは、非常に精神衛生上も良いように感じます。


高橋信次さんの本には、「欠点を直す」、「反省する」ということが、しつこく書かれています。
これは、残念ですが、船井幸雄さんの言う「欠点にはふれずに、長所を伸ばす」という発想とも相反するものでありますし、私という人間には、ひどく悪影響の あるもののようですので、受け入れることはできません。

これが、神に近い生命体を持っていた高橋さんであっても、30代前半という人間としては若い年齢であった故の間違いなのか、それとも、そうではなく、私が それを享受するには人間性が達していないのか、それとも他に理由があるのか、理由などないのか・・・は定かではありませんが。

みなさんは、どう思うでしょうか?









さて、本当の「悟り」ですが・・・
もっとも私自身そんな心境になったことはありませんので、なんとも・・・ですが、
例えば、政木和三さんは、悟っていたでしょうか?

おそらくは私が悟りなどというものを知らないからかもしれませんが、「悟って」いたとしたら、何かを発明しようとしても、「人間がそんな余計なものを作ら なくても良いのだ」というようなことになったり、「どうして、月は地てこないのか?」と思っても、「それは神だけが知っていれば良いことだ」というような ことになってしまうように感じます。

その意味では、政木さんどころか、他の星にあるという高文明の住民たちも、光速の宇宙船などを作ったりしているようですので、きっと「悟り」などはしてい ないのでしょう。


そう考えると、やはり、「どうして月は落ちてこないうのだろう?」ということに対して疑問を持ち、それを探ってみよう、知ってみよう、知りたい、というよ うな心境の方が、悟りよりも、どこか正しいように感じます。

これは船井幸雄さんの「宇宙の理」にも、「勉強好きで・・・」という項目があります。


ここでの勉強とはつまり学問、あるいは、学校でよい成績をとるためのべ教ではなく、「自分の快」に対してストレートに学ぶ、という意味での勉強なのだと解 釈しています。



ここらへんは、「悟り」について、良く分かっておりませんので、これ以上の言及は、あまり意味がないように感じますので、そこそこにしますが、悟りにし ろ、何にしろ、あるべき心境というのは「身の丈にあった」ということではないようには感じます。
あるがまま、なにがまま、は、「身の丈にあった」ではなく、ハンドルを手放して・・・ということなのでしょう。
なにせ、人間は創造主の分身です。



また、池田国吉さんが良く、一部の新興宗教の教祖などを指して言っているのだとは思いますが、「”我は神なり”は、とんでもない」、というようなことを書 きますが、言っている意味は分りますが、
神と人が一致するような概念、神は自分の中にいる、神と繫がっている、という概念が、何となくですが、これから必要になってくるように感じます。


つまりは、人一人を考えるにしても、3次元だけではなく、もはや高次元ぐるみで考える必要がある時期が近づいているということなのかもしれない、というこ となのですが。


みなさんはどう思うでしょうか?









さて・・・
なにかないか?と思い、足立郁朗さんの「波動の法則(1995年12月:PHP研究所)を開いてみましたが、

110ページに
『「波動」は周波数、波形、振幅で常に一番近い状態で干渉し合うか、同調するか、もしくは増幅をするか、いろいろな性質があるわけです。』(以上・引用)
ということが書かれています。

原子核の集合体(EXA PIECO)の話のところで、これは、

魂≒
EXA PIECO、ということであり、≒生命体、ということだと思います。


「波動」は周波 数、波形、振幅で常に一番近い状態で干渉し合うか、同調するか、もしくは増幅をするか、いろいろな性質があるわけです。
ですが・・・

よく一般で言われる、波動とは、周波数と波長である、と比べると、周波数は一緒ですね。
波長は振幅と同じに考えて良いのでしょうか?

波形は、やはり関係あるのだろうか?と思います。

昔、シンセサイザーがアナログしかない頃、富田勲さんという世界的なシンセ奏者が有名でしたが、彼は演奏している傍から、フリーハンドで波形を描き、その 方法で音を作っていました。

少なくとも、音に関してのはどうについて言えば、波形は関係あるように感じます。
つまり、〜 だけではなく、「 であったり、_| いったような波形の波動もあるのだろうな、ということですが。




常に一番近い状態 で干渉し合うか、同調するか、もしくは増幅をするか
ですが、
干渉は同じ波動を当てて、波をなくしてしまうことですね。
私は、悲しい時に悲しい曲を聴くと直る、にその極意があうように思います。

同調は、ラジオ、テレビのチューングであり、同じものを引き寄せる、ですね。


ここまでは、船井幸雄さんの本に良く出てきます。
増幅、というのが最後に出てきますが、これは、船井さんの本にはあまり出てきませんね。


増幅の極意はなんでしょうか?
海の波が岸に近づくにつれて大きくなるのは、海の深さと関係があるようですので、きっと違う理屈なのでしょう。

スピーカーの場合、後ろに固い壁があると、音が跳ね返るわけですが、特に低音に影響があるようです。
一般的には、後ろに壁があった方が、低音が増える傾向がありますが、場合によっては跳ね返った音とスピーカーから出ている音が干渉(打ち消しあう)しあっ て、低音が聞えなくなる、ということもあります。

跳ね返って増えるというのは、増幅しているのでしょうか?
それとも、単に、量が2倍になっている、ということなのでしょうか?
この2つはきっと違うものでしょうね。

同じような周波数同士で起きることを、上の3つでは言っているのでしょうから、壁で跳ねて、打ち消しあうことがあるのなら、増えるは、増幅でいいのかもし れませんね。
どうでしょうか?


AMラジオのループアンテナというのがありますが、あの原理は、増幅を利用して受信する電波の量を増やす、ということだったと思いましたが、どうだったか 良く分かりません(笑)。



ループといえば、ハウリング、というのがありますね。
良くマイクで拡声している時に、スピーカーかた「キーン」という高い音や、「ボーン」という低い音がスピーカーから出てくることですが。
原理は、マイクからは言った音が、スピーカーから出て、その音が大きいので、またマイクで拾ってしまい、それがまたスピーカーから出て・・・がくり返し起 こる、というものです。

それが単に音が大きくなるのではなく、「キーン」などになるのは、ループが起こっている間に、特定の周波数成分のみが、大きくなっていくからのようです。

どの周波数がそうなるのかは、部屋の広さなどの環境によって違うようです。



ループすると、特定の周波数が増幅される、というのは、人間の精神レベルのループや人生のループにもあるでしょうか?
何となく、あるかもしれない、と感じます。

浅見帆帆子さんの、「一回りすると同じような人が出てくる」、もそうですが、特定の事項、という意味でもありえるように感じます。






いつだったか、テレビを見ていましたら、テロ関係のニュースをやっていました。
その中でアメリカ人の男性にインタビューするシーンがあったのですが、その人は、
「戦争反対をしているところをテロリストがみたら、自分たちの勝ちだと思ってしまう」
と言っていました。

しばらくこういう発想を忘れていましたが、「ああ、これでは殺し合いは一生終わらない」
と感じました。
もちろん、これがアメリカ人全員の意見ではないでしょうが。

こういうことを言う人は、ガンジーが無暴力で勝ったあの行動の意味もまったく分らないでしょう。
私は別に精神レベルが高いとも思いませんが、仕返しごっこを繰り返していたら、戦争が終わらないことくらいなら分ります。



ハウリングで特定の周波数が増幅されるのは、確か部屋の広さなどが関係していたようなことを読んだように思います。
おそらくは、壁の材質、置いてあるものの材質などにもよって変わってくるでしょう。
要するに、どの周波数の音が一番はねやすいか、ということなのでしょうか?


そうすると、人生のループにも似ているかもしれませんね。

経験的には、マイクとスピーカーが近いと「キーン」といいます。
きっと、スピーカーにもよりますが、近いと、低音よりも、高音の方が、拾いやすいのでしょう。
特にボーカル、スピーチ用のマイクは楽器収録用のマイクとは違い、周波数もボーカル帯域中心で、全周波数から言えば、いくらか高域よりのように感じます。
また、金属製のマイクなら、何となくですが、スピーカーの近くという環境は、高域の信号をマイク内で振動させやすいようにも感じます。

机の上などに、スイッチをONにしたまま、マイクを置きっぱなしでいると、「ボーン」と言い出します。
「キーン」の時もあるかと思いますが。
あれは、低い周波数の音が増幅されているのでしょうが、無音に近い状態だと、マイクの振動版というより、マイク本体が振動するような種類の低い音が、拾わ れ、徐々に増幅しているのではないでしょうか?

金属で、固く、筒状ですので、よっぽどの超音波でない限り、高域では、本体は振動しないでしょうが、低域なら低周波でなくとも、比較的に自然にある低音 で、振動することは、考えられるように思います。


部屋がコンクリートと鉄骨であれば、相当音は跳ねます。
跳ねると、スピーカーの特性にもよりますが、基本的に低音が跳ねる率が高いように感じます。
要するに音がもこもこするわけです。
これは、スピーカーと離れれば離れるほど、大きく跳ねます。
理想的なのは、1っ箇所で大きな音を出すのではなく、いくつもいろいろなところにスピーカーを設置して、小さな音で鳴らすことです。


布製品などの柔らかいものがたくさん入っていれば、音の跳ねる率は下がります。
オーディオでは、スピーカーの後ろにカーテンをひいたり、メーカーのスピーカーチェックには、無響質という場所を使ったりします。

最近カラオケなど行っていませんが(以前は毎日行っていた)、女性ボーカルはハウルと、「キーン」で、男性は「ボーン」かもしれません。
その内確認してみます。




想像するに、人間社会も、付き合いの広さによって、跳ね返ってくる周波数も違うでしょうし、その何かが行われている環境、状況でも、広さは違うでしょうか ら、跳ね返って来る周波数も違うのでしょう。

波動の法則と考えあわせると、ハウリング的なもののもつ効用というのも、捨てがたいものかもしれません。
1〜10までの数字が混ざった何かも、状況によって、ハウリングが起き、3だけが以上に増幅される、ということが起きる可能性もあるのかもしれませんね。

先の戦争のインタビューはハウリングの悪い例かもしれません。
それでは、きっと、逆の例もあるかもしれません。
それを「百匹目の猿現象」と言うのかどうかは、分かりません。
ちょっと違うようでもあり、同じ要素もあるようにも感じます。


山本剛さんでした。




246:サイド・バイ・サイド2: 八城一夫
   
  これも、一度出したでしょうか?

曲目です。
.She’s funny that way
2.If I had you
3.So tired
4.Again
5.C’est magnifique
6.My silent love
7.When I grow too old to dream
8.Lover man
9.Joy spring
10.Day dream

1〜6がベーゼンドルファー、7〜10がスタンウエインを弾いています。

ベーゼンは、青山タワーホール、スタンウエインは、イイノホールだそうです。

青山円形劇場だったかは、谷山浩子さんのコンサートで言ったことがあるような記憶がありますが、タワーホールは知りません。
イイノホールは昔何度か行ったように思います。
雑誌ピアがあったころは、良くライブハウス、コンサート情報を調べていましたがそこで、イイノホールの名前は良く見ていた記憶があります。


メンバーは八城さんのほかに、ベース:原田正長、ギター:潮崎郁男、ドラム:五十嵐武要、のみなさんです。



録音は1975年のようです。
「運命’76」が出るより前ですので、私は意識して洋楽をまだ聴いていないころです。
12歳の時ということですが・・・いや、聴いていたかもしれません。
少しあやふやです。





さて・・・・・・
「問う」ということですが・・・

何度も書いている鶴田浩二さん主演の「男たちの旅路」ですが、面白い巻きがありました。

柴俊夫(俊男?)が演じるもと銀行マンが鶴田さんが主任を勤める警備会社に入ってきます。
彼は、配属時に、「配属場所は自分に選ばせて欲しい」と言いました。
なぜなら、彼は目の銀行で、会社の命令通りに仕事をし、貸し渋りか何かをして、中小企業をつぶす、という本来自分の望まないことをしなくてはならず、そう はしたものの、それでその会社が嫌になり辞めてきたからです。

初めての配属先が、雨がどしゃぶりでも、依頼先の方針で、警備員が傘もささずに入り口に立っていなくてならないことになっていたので、一度はその通りに やったものの、「意味がない」として、鶴田に移動を申し入れました。
この申し入れは受け入れられました。
しかし、すると、他の社員から文句が出ました。

「あいつだけ、ずるい」
ということです。

しかし鶴田は、
「申し出た者と、そうしなかったものでは違う。君たちは、彼が認められたから、それなら自分もそうしたい、と言って来ている。
それと、はじめから申し出た人間とは違う」
と言い、取り合いませんでした。

どう思うでしょうか?

なんとも頑固な役どころです。

普通これは通らないでしょう。
「みんな平等に」
ということになるのだと思います。
あるいは暗黙の了解で、「規則通りにしなくてはいけない。規則と違うことを申し入れるのは、非常識なことだ」
という知識が頭に入っているために、言えないかもしれません。


私は、単純ですので(笑)、一時、「男たちの旅路」の鶴田浩二のやり方をひとつの指標としていましたので、同じようなことをしていました。

しかし、まずもって、これを上司的立場でやったとき、批判しかきませんでした(笑)。

要するに私としては、命令はしないから自分から言って来い、言ってきたら、その勇気と積極性に免じて、できることは叶えてやる、という感じですが。

私としては命令されるのが好きな人というのがまったく理解できません。
私は命令されるとやる気がしなくなります。
しかし、世の中には命令されるのが好きな人というのもいるようですね。
責任を取るのが嫌なのでしょうか?

みなさんは、どう思うでしょうか?


もちろん、逆のこともあり、私は良く「勝手なことをするな」といろいろなところで言われていたような気がします。
しかし、勝手なことを辞めてから、どうも自分が死んでしまったように思います(笑)。




それで何かと言えば、言い出した場合、認められようが、却下されようが、何らかの反応は返ってきますね。
しかし、何も言い出さないと、そのまま、つまり、規定通り、ということですね。

3次元でも、このように発すると、何かが変わるのは確かなようですね。
あまり高次元的ではありませんが、ちょっと頭に浮かんできましたので、書いてみました。





先日、「朝まで生テレビ」で、少子化問題についてやっていました。
どうも、結局、小子化問題は、アメリカ式資本主義をやればやるほど、どうしようもなく、以前の社会民主主義をやれば、簡単に元に戻るようです。

なんでも、結婚している世帯の生んでいる子供の数というのは、1970年くらいから、どんなに減っていないそうです。
結局、結婚しない、あるいは晩婚である率が高くなっているので、全体の子供の数が減っているようです。

理由はいろいろ出ていました。
男女雇用機会平等により、女性の間で収入格差が広がったこと、
女性が会社での昇進を考えるようになったこと、
年功序列がなくなり、年を取れば、多くの人の給料が増える、ということがなくなり、安定したお金持ちとしか、結婚したがらなくない、しかしながら、そうい う人の数が少ないこと、
経費節減により、男女に関わらず、新卒、転職に関わらず、契約社員、パートが増えていること、
子供のお金がかかること、
フランスでは、出産費用が無料だったり、子供は国の宝であるので、出産・育児休暇などに社会的理解があること、
などなどです。


それはそうですね。
女性も男性も、お金がたくさん欲しくて、働かなくてはならず、競争しなくてはならず、年を取っても給料は増えず、若くとも正社員になれず・・・では、子供 は増えません(当然)。

よく一月10万円でくらせる村、の特集をやっていますね。
私はああいう生活に憧れます。

はじめてハワイのカイルアという場所にいた時は1週間で都会シックにかかりましたが(笑)、生まれてこの方、それまでずっと都会暮らしでしたので、仕方が ありませんでしたが、いまなら問題ありません。

CDでもなんでも、そういうものはインターネットで手に入ります。

どなたか、10万円で暮らせる良いところを知らないでしょうか?
インターネットが使える場所が条件ですが。



どうも最近分って来たのは、私は贅沢ではないようです(笑)。
ただCDとオーディオ(本当はテレビも)だけ入手できれば、良いようです。
やっと最近気づきました。
なんで、気づかなかったのでしょう?

食事も、ご飯と味噌汁と、野菜の煮たもの、というような食事でも、問題ないようです。
ここ1,2年で分りました。

洋服も、気に入ったものを買えば、ほとんどそれ以上買わないで良いようです。
ここ1,2年で気づきました。

後は100円ショップにあるようなもので、何不自由ない人間であるようです(笑)。

しかし、そんなことに気づくのに40年かかったようです。
何がそれに気づかせてくれたのでしょう?
何か問いを発したでしょうか?







さて・・・・・・
天野聖子さんの「自問自答(東京経済:平成12年発行)」を読み始めています。
船井幸雄オープン・ワールドで買いました。
いくつか本を買いましたが、最後の1冊(別に大きな理由はない)を、若山敏弘さんの「邪気よさらば」にしようかな、と迷っていたところ、ふと中をめくって 見たこの本を買いました。
もっとも、「邪気よさらば」は、森田健さんの「自分ひとりでは変われないあなたへ」と一緒に買うことになりましたが(笑)。


この本は、「大いなる自己」・・・どうやら本質と同意語のようですが、この存在へ問いを発し、回答を得る方法について書かれた本です。
その方法は瞑想に似た形を取ります。
また、一般的には、数ヶ月〜数年程度の練習を要するようです。
回答は、言葉の形、または形(イメージ)で得られるようです。
まだ、最後まで読んでいませんので詳しいことは書け ませんが。

高橋信次さんの本には、「声が聞えるというようなこ とは、いけない存在にふりまわされている・・・」というようなことが書いてありますが、船井幸雄さんの奥さんの話でも、池田邦吉さんの話でも、声によっ て、何らかの神事が得られる例というのはあるようです。
但し、それだけを望んで瞑想したりすると、ちょっと良いことではないようにも感じます。
私は霊能力者ではないですので、ここらへんについては、「いろいろなことを言っている人がいる」ということだけの報告にしたいと思います。

重度の精神病は、間違った存在に着かれてしまっている・・・とかかれている本もありますので、生兵法は危険かもしれません。
但し、自分の本質のことは、「信じる」ことが必要なようです。

言葉で書くとむつかしいですが、要するに、変なことを言ってくる存在は、本質でも、神でも何でもないということですね。
極端に変なことを言ってくる存在、というのは常識人であれば、聞き分けることは可能だと思うのですが、「きわどい」内容もあるようです。
森田健さんの本などを読んでいると、他の本では、「神」の言葉として取り上げられても、おかしくないような内容でも、森田さんはきちんと聞き分けているよ うです。
じゃあ、どうすれば良いのか?と言われても、私には分かりませんが、言えるのは、その存在が「自分の信じる自由を語っているか?」ということが、どうも キーのような気がします。

ですので、私はアセンションは、未だに、引っかかってしまいます・・・。
良く分かりませんが。



余談ですが、空耳というのはありますね。
詳しくは書きませんが(笑)。





いくつか面白いことが書いてあり ます。
「人間の構造図」というのがあります。
←のような図なのですが。
真ん中が「霊」と名付けられ、大いなる自己「神なる存在」としています。
その外が「魂」、
次が「心」
一番外が「肉体」です。

真ん中・・・大いなる自己を「神なる存在」としていうのは、政木和三さんの、「自分の内なる神」と同じような解釈なのだろう、と感じます。
内へ内へと進むこの流れは、人間の内側が大きな宇宙が広がっている、という概念を感じ、共感を感じています。
但し、瞑想そのものは、外へ・・・宇宙へ・・・というイメージで行うようではあります。


この図は、ひょっとしたら、そうなのかな?と実に思わせます。
外側に膨らんでいる図は良くありますが、内側に進んでいく図よいうのはあまりありません。
もちろん、理由はそれだけではありませんが。

この図と、池田邦吉さんの本にある「創造主の姿」などを考慮してみますと、私には下の図のようなイメージがわきます。



↓↑


真ん中が創造主です。
一番大きな丸をそう思っても良いですし、周りの小さな丸を含めて創造主と思ってもよいのでしょうか。

小さな丸から線が伸びて三角形と繫がっていますが、それが人間です。

三角形を上から・・・つまり平面で見たのが、下の大きな丸です。
要するに、上の「人間の構造図」です。

三角形と色が違いますが、はじめ作った時には、このようにしようと意識しませんでしたので、あっていません(笑)。

一つの小さな丸からは複数の・・・多分多数の線が伸びているのではないかと思います。
小さな丸を類霊でしたか、根霊でしたか、そういうもののようなイメージで見ています。
ひょっとすると、三角形の一番上、つまり「大いなる自己」そのものが、小さな丸に相当するのかもしれません。

そこらへんの詳しい所は、まだ分かりませんが。



要するに、この「大いなる自己」は、政木和三さんの「内なる神」、森田健さんの本質、シャーリー・マックレーンの「ハイヤーセルフ」(この本でもそうであ る、としている)、と言ったような存在と同じものなのではないかと考えます。


この本で語られる「自問自答」は、問う、ということに関しては森田健さんと同じなのですが、回答の得られ方が違います。
大いなる自己からの言葉による回答という形を取るようです。
森田健さんのものは、3次元での事象、などから得られるようです。

但し、どちらも、相当ネットワークと繫がっている状態が必要なようです。
天野さんの本には瞑想方法、練習方法が詳しく書いてあります。
そのせいで、こちらの方がむつかしいように感じる面もありますが、実際は、どちらも同じくらいむつかしいのかもしれません。
むつかしい、と言うよりは、その状態を作ってしまえば良いのではあるが、そこまでいくのに、人によってっは時間がかかることがある、ということなのでしょ う。


但し、天野さんの場合は、回答の出所が「大いなる自己」であることから、高次元直通を感じますが、森田健さんのものは、3次元から回答が来ることもありま すので、「ネットワーク」というイメージが強いですね。

もちろん、大元を追えば、高次元を含めた大きなネットワークということになるのかもしれませんので、そうであれば、基本は似ているのかもしれません。

自由度で言えば、瞑想の形を取らない森田健さんの方が高いかもしれません。

しかし、「普通の人」にとっては、教科書として作られている、天野さんの方法の方が、分りやすいのかもしれません。
注意事項から、良くある質問まで、なかなか丁寧に書かれているように感じます。



この「自問自答」以外にも、いろいろ興味深いことが書かれています。

66ページには次のようなことが書いてあります。
(引用)
「人生は悟りだ」と言って、悟ろう悟ろうとしても成し得るものはありません。悟 ることに囚われて生き方は、執着を残す結果になります。悟りを得たいと思うよりも、大いなる自己に問いながら今の自分を省みて改善し、魂の使命を遂行して いけば、悟りは自然と付いてくるものです。人間は、あらゆうもの、ことがらに執着しすぎています。いかにして、その呪縛から開放されて魂を自由自在に働か せるようにできるかは、大いなる自己に問い、教えてもらうしかありません。
大いなる自己は魂の師であり、魂は心と身体の師です。身・心・魂を一体にするため には、すべてを知っている大いなる自己(霊)にゆだねることが一番よいのです。
人生は常に大いなる自己に導いてもらいながら、魂を磨くことをくり返し行っていか ないと、邪道を歩むことになりかねません。

これは、宗教、学問を超えて真理を学ぶことが大切だと思う。協議や論理に囚われないことが大事だ。
そのことについて私の大いなる自己はこう言っている・・・という内容です。

執着がいけない、はそのようですね。
悟ろうとするのは、善行をしようと思うのと同じことのように感じます。
大いなる自己にゆだねる、というのがハンドルを手放すということと同じかは分かりませんが、それほど違うことでもないようにも感じます。
他力本願を感じる言葉です。
高橋信次さんの本にも、他力本願という言葉は出てくるのですが、但し、どうも、他力を他人の力、あるいは神頼みのように捉えているようです。
自分の意志でやらなくては・・・として、否定しています。

何も勉強しないで、仏教の全てが頭の中に入っていたらしい高橋さんですが(違っていたらすみません)、他力本願については、少し違うような気がします。
どうなのでしょうか?


不思議研究所に書きこまれた浄土真宗の方によれば、どうも他力とは阿弥陀如来のことであり、人は自分でその決められた運命を変更することは非常に困難であ る。
全てを阿弥陀仏の導きに委ねることのみにより、本願は達成できる、というようなことだったかと思います。


この他力本願をどう思うかはとにかく、いろいろ見ていくと、自我と我欲をいかに捉え、本当の自由とはどういうものなのか?を探ることに大きな意味がありそ うだということは、真実を探るには必要なことのように思います。

みなさんはどう思うでしょうか?









さて・・・・・・
森田健さんが、生まれかわりの村などで、調査をしていますが・・・
私は、政木和三さんの、だんだん出来上がって来る仏像のようなものが、登場してくるのではないかと、わくわくしています。

なんでも、突然登場したその仏像は、初めは荒削りの状態で、日が経つとだんだんと唇などの細部が削られて来て、登場してから何日かかけて完成品になってい く、というものです。
どうも、削っているのは高次元にいる神のような存在のようなのですが。

一番不思議だったのは、急にアトランティス語で話し始めた人の話でしたが、これは高橋信次さんの本を読みますと、仲間の何人かは、過去世での記憶を思い出 して、アトランティス語で話しているようです。

ただ、その方たちは、超能力を開発した人たちのようですが、政木さんの場合は、政木さんが前世で使っていた賢者の石を取り出したら、講演にきていた人が 急に立ち上がりアトランティス語で話し始めたということですので、不思議です。
その人も前世ではアトランティスで、そういうことに関わっていた人のようですが。


 

247:イベリアン・ワルツ:渡辺貞夫&チャーリー・マリアーノ    
  渡辺貞夫さんです。                                     

共演は、秋吉敏子さんの当時の夫であるチャーリー・マリアーノさんです。
録音は67,68年ということです。

メンバーは、
ピアノ:菊地雅章、ドラム富樫雅彦、ベース:原田政長のみなさんです。

曲目は、 

1.イベリアン・ワルツ
2.アイ・ソート・アバウト・ユー
3.竜安寺の石庭
4.ゴッド・ハズ・マーシー

です。

なかなかモダンというか、フリーに近いような音を使っています。
1曲目はインド音階だそうですが、読むまでそうとは気が付きませんでした(笑)。



 秋吉さんの旦那さんとしては、この人も有名な方ですが、この後の、ルー・タバキンさんも有名です ね。
あの有名な敏子&タバキン・ビッグバンドの活躍は有名です。
ポピュラー音楽界としては、80年代〜90年代くらいまで、秋吉敏子が唯一、日本人として世界的に名を知られる存在だったかもしれません。
もちろん、他にも、加古さんがヨーロッパでキース・ジャレットなみに著名だとか、いろいろあったようですが。

秋吉さんは、戦後すぐに活躍し出したようですが、日本に慰安演奏に来た、オスカー・ピーターソンに 認められて、アメリカに渡ったようです。
だれとの離婚かは良く分かりませんが、一人身になりニューヨークで、子供を育てながら、ピアノで生計を立てるのは、大変だったようです。
そんなことをテレビで言っていました。


私が初めて秋吉さんを見たのは、中学生くらいの時にテレビででした。
何かで来日して、テレビ出演し、ピアののソロ演奏をしていました。
「すごい、左手と右手が別々に動いている!!」(そりゃそうだ)、と思ったのを覚えています(笑)。

クラシックとは言わず、当たり前のことではありますが、私には驚きでした。
左手で、難しいリフを弾きながら、右手でアドリブ・ソロを弾く・・・本当に当時はすごいと思いました。
いつか、ああいう演奏をしてやろう、と思ったものですが、未だにできていません(笑)。
どうりで、プロになっていない訳です



あの年代、ミュージシャンとして日本人がニューヨークにいる、というのは、大変なことだったでしょうね。
私はハワイですら、1ヶ月でホームシックになりました(笑)。

しかし、きっと好きなことだから続いたのではないでしょうか?
私は嫌いなことは絶対、長く続けられないと思います。
嫌いなことを長く続けると、いずれ、止めますが、そうすると、好きなことも長く続かない人間になってしまいがちなような気がします。

どうもイチロウ、マツイがアメリカに来て、活躍したのは嬉しかったようです。
それは、そうですよね。

ピアノ:菊地雅章、ドラム富樫雅 彦、ベース:原田政長、のメンバーはすごいですね。

菊地さんは、後にマイルスのバンドに入りますが、マイルスは彼をなかなか放さなかったようです。

富樫さんは、事故で足を怪我してしまい、再起不能と言われながら、上半身だけでパーカッションを叩き続け、今なお一線で活躍中です。

原田さんは、スイングのベテラン勢との演奏も多いですが、このように相当モダンな演奏もそつなくこなします。


そう言えば、私は渡辺さんの生演奏を見たことがありません。
見る機会は何度かありましたが。
もう70を超えているでしょうか?
良く分かりませんが。



これをレコーディングした頃が32,3歳ではないかと思います。
62年くらいの録音のものに、27歳くらいだった、と書いてあったような気がします。

本当にすごい人です。

渡辺さんは一時、ジョージ川口さんのビッグ・フォーにビッグ・フォー+1として加わっていたことが あります。
お金はたくさん入ってきたそうですが、どうも、そういうのに馴染めず、辞めてしまったそうです。
50年代後半のことではないでしょうか?
 ビッグ・フォーが一番人気のあった頃は54,5年前後だったか、それより少し前くらいだと思いましたが、何でも、お札で貰った出演料がポケットに入りき れなかった、というようなことだったようですので、すごいことです。


後年の渡辺さんは、アフリカン・リズムに惹かれていきます。
もちろんバップも、フュージョンもばりばり演奏していましたが。

何かアフリカのリズムに魅力的なものを感じたのでしょう。
一応、渡辺さんは、まだ生きていますので(笑)。







さて・・・・・・

天野聖子さんの「自問自答(東京経済:平成12年発行)」ですが、私にとって興味深い話が出ていま した。
あえて、裏覚えで書いていきますが、「グランディング」ということが書いてあります。
瞑想なそする時に、幽体が体から抜けてしまうことがあるが、きちんとそれを地球に繋いでいないと、出ている間に、良くないものが肉体に入ってきてしまうこ とがあります・・・
というような話です。
その地球につないでおくことを「グランディング」と言っているようです。

私は寝起きが以上に悪いです(笑)。
朝起きる時はまだ良いのですが、食事の後や、気の抜けた時などに、うとうととしてしまうと、もう最悪です。
もう、その日は、体調が本調子にもどることはないと言っても過言ではありません。

体は急激に重くなる、頭は酔っ払っているのとは違うのですが、集中力もなにもない、というか、強引にやれば集中できるのですが、もう歯を食いしばって、 120%くらいの力を入れても、普通の50%くらいの力しか出せないような状態になります。

私は超能力者ではないので、あえて、しろうとっぽうことを言いますが・・・
江原啓之さんによると、「死にたい」と考えたりする人は、幽体が抜けやすくなってしまっているということです。

確かに私は、昔、家庭で不和があった時代や、3,4年前、どうしようもなく物事がうまく行かなかった時に、自殺しようとは思いませんでしたが、「こんなこ となら、最後に、納得できる命の捨て方をくれ」というような感じで思っていたことがあります。

つまり、だれかを助けて、その代わりに死ぬ、とか、組織のために、命を投げ出す、とか、そういったことです。
今はそんなことは夢にも思いません(笑)。

当時は、いくら説得しても、いくら説明しても、いくら努力しても、結果も遅く、評価もなく、だれの理解もなく、そんな風に思っていたのでしょう。
それで、そんなことを思ったのだと思います。
多分に任侠映画の悪い影響があったようにも感じます。

任侠映画は、最後は、いくら正義を貫いても、義理と人情の板ばさみや、悪役の台頭などがあり、命を投げ出して、悪と一緒に死んでいくしかない、という状況 を売り物にします。

私は当初これは間違っている、と思っていました。
また、そういう日本のウエットなところが大嫌いでした。
しかし、いくらがんばっても、何の結果もでないのは、根本が間違っているからだろう。
ひょっとしたら、日本風なウエットなものを好きにならなければいけないのかもしれない、と思い、そういうものへ、流れていったようにも思います。
もっとも、任侠映画については、見出しましたら、鶴田浩二さんを初め、東映の1枚看板の役者さんたちがあまりに、格好良い演技をするものですので、違う意 味で惹かれていったのも、事実ですが(笑)。

今はまた、「いくらなんでも、あれは間違っている」
という考えに至っています。

そんなわけでしたので、ひょっとしたら、幽体が抜けやすくなっているのではないか?と仮説を立てて、地球に結び付けられているイメージを持ってみるように しました。

とりあえず、1日目の今日は、転寝から目覚めても、昨日までのような、「嫌な気分」はありません。
意識して、以上に眠りが浅いことによるものかもしれませんが(笑)。

さて、これからどうなるでしょうか?




今、地球に結び付けられていることをイメージする、と書きましたが、私は未だに、映像を出していめーjいする、ということは、ひどく苦手です。

しかし、地球に結ばれていることをイメージできています。

どういうことでしょうか?

どうも、「映像」ということに重きを置きすぎているのではないか?と仮説しています。

地球に結ばれていると言ったって、一体どんない色でどんな太さの紐なんだ?
というようなことを考えたりはしません。
目で見えるものではないですので。

それに対して、目で見えるものは、それを知っていますので、私の場合、なんとしてでも、正確な画像を出そうとします。
それが間違いなのではないか?と感じ出しました。

こういうイメージとは、どうも私言い聞かせるには、映像を出すではなく、この場合なら、「地球に結びつけられている雰囲気を感じる」という言い方の方が良 いようです。

そうすると勝手に映像も付いてきますが。
ただ、そこで、また映像を意識しますと、雑念に変わっていきます。
ですので、いっそ、「映像のイメージはいらないのだ」と思う方が良いようです、私には。





森田健さんの中国調査で、目の見えない占い師の方について、語られていますが、あの人達はきっと、心にイメージを持つ、と言っても、まず間違いなく、我々 のそれとは、根本的に異なるでしょう。

ひょっとしたら、見る、というより、感じているのでしょうか?
みなさんは、どう思うでしょうか?


盲目の音楽家はたくさんいますが、不思議に著名な人にはピアノを弾く人が多いです。
レイ・チャールズ、スティービー・ワンダー、ジョージ・シアリング・・・
それくらいしか出てきませんが(笑)。

長谷川きよしさんでしたっけ?ギターを弾きながらきれいな声で歌う歌手の方は?



鍵盤間の相対距離というのは分るのだと感じます。
目の見える方でも、鍵盤を見ないで弾ける方は多いです。
矢野顕子さんなどは、ピアノが大好きで、子供の頃、「、もし大人になって目が見えなくなっても、ピアノが弾けるように」と鍵盤をみないで弾く練習をしてい たということです。

しかし、目の見えない方の鍵盤の決定方法というのは、これらとはどこか違うのかもしれません。

むしろ、あの楽器・・・
電磁波のようなものを手で操って音程を作る、何とか、という楽器などの方が感覚的には似ているのかもしれないですね。

実際は良く分かりませんが。










なんでも、ネットに よると、動物保護活動に関係しているポール・マッカートニーが、英BBCテレビのインタ ビュー番組で、
中国で虐殺 される犬や猫の秘密ビデオを見たことから、同国で公演を決して行わないと言明したということです。

このビデオは動物保護団体「動物を倫理的に扱う人々」(PETA)のドイツ支部が作成したもので、 さまざまな虐待シーンが収録されている模様です。


ポールは「これは野蛮だ。中世の暗黒時代から抜け出 たようだ。彼らは楽しんでいるようで、病気だ」
「わたしは演奏 するためにそこに行くことを夢にも思わない。
これはアパルトヘイト(人種隔離 政策)を支持していた(南アフリカ共和国という)国に行かないのと同じだ。」
と語った、そうです。

ポールの妻のへザーさんと、娘でデザイナーのステラさんはともにPETAで積極的に活動している、 ということのようです。





で・・・
ふ〜ん、と思いました。
私は動物は大好きです。
ポールも大好きです。

しかしながら、この件に関しては、「ポールは何を言っているんだろう?」と思ってしまいます。
まず、簡単なところから言えば、アパルトヘイトと話を同じにしていますが、国、政府がやっていることと、ある国の何%かの人がやっていることを同じ土俵に 上げて語るだんなてスジ違いではないかと思います。

また、
イギリスにだってアメリカにだって、「変」なこと、 「異常」なことはあるでしょう。
日本にだって、幼児ヌードで金儲けしている人もいれば(非人道)、イルカの肉を売っている地域(文化)だってありま す。
当然、間違っているものは間違っていて、止めるべきですが、それをしていちいち、「あの国へはコンサートに行かない」だなんて、精神レベルが低いとしか思 えません。

まして、あの嘘をついてまで、他国を侵略して、その国の人や自国の兵隊の命まで粗末にしているアメリカでコンサートをやってるポールがそんなことを言うの は、大間違いのように感じます。

どこの国にだってポールのファンはいます。
別に行きたくなければ、いかなければ良いですが、もっとまともな理由を言うか、理由などない、と言って欲しいものです。

もし、行かない理由が「自分は動物愛護の運動をしているから」なのなら、よっぽど行って、その活動の意味でコンサートをやってくれば良い、と思います。

もっともこの報道が本当で、そのビデオが本当ならの話ですが。











副島隆彦さんのサイトに、面白い話がありました。

長い話の一部ですが、次のような感じです。(引用)

私は、当時18歳だった父親に 「一般国民はアメリカと戦争をするとは誰も思っていなかった のではないか」 と尋ねたことがあります。そのとき、父 は少し顔を変え、少し間をおいて 「実はそうなんだ。周りの誰も日本がアメリカとまで戦争をするとは思っていなかった。したがって始まった時びっくりし た。」と語ってくれました。』。

やっぱりそうだったか、と思いま した。

日本史では、第二次世界大戦が始 るまでの政治的なことしか教えませんので、あたかも、そうなって当然のような流れになっていますが、一般の生活レベルでは、当時の小説など読んでいても、 どうも、突然そうなったとしか思えないように、平和な生活が書かれていることが多いです。

不思議だな、と思っていました が、どうもやはり、「突然」だったようですね。


副島さんの話には、何人かの売国奴がいて、日本をアメリカに売ったようなことが書かれています。
どうも、これはアメリカの常套手段のようですね。

その人たちは例の軍事裁判で無罪 になっているようです。

竹中さんなど、親アメリカの政治 家(?)がいますが、だれかが、同じ役割を担わされている可能性はありますね。
だれかは知りませんが。




増田俊男さんによれば、今回の憲 法改正での軍隊についての事柄は、アメリカが北朝鮮を攻めない、と明言したことによるところが大きいようです。
増田さんの言い方では、アメリカがこうだから、日本はこうしなくてはならなくなった、という感じではありますが、そうではなく、こうすることが日本のだれ かとアメリカのだれかで初めから決められていて、その大義名分として、アメリカが北朝鮮を攻撃しない、と言ったのかもしれませんね。


それこそ、台湾をめぐってのアメ リカ・中国戦争ではなく、北朝鮮と日本が戦争を始めて、その応援に、アメリカが駆けつける、という図式すらありえるのかもしれません。

しかし、日本は戦争はしません。
私は理由もなくそう感じます。
みなさんは、どう思うでしょうか?




おそらく意図的だろうとは思いま すが、民主党の議員のスキャンダルばかり出ていましたが、例の建築士からみで、やっと自民党の議員がスキャンダルに登場してきました。

小松英星さんは、小泉さんはやば くならない内にとんずらするつもりうのようあが、そうはいかないだろう、というようなことを書いていますが、いよいよそうなってきたのでしょうか?

これら全てが決まった運命なのだ としたら、本当に時空のシナリオは一流品ですね・・・。

小泉さんの祖母は侠客だったよう ですが、日本を売るような真似は、してほしくないです。

最後はおじいちゃんを見習って侠 客らしく、日本人の真髄を見せて欲しい、と思っていますが。
どうなるのでしょうか?

ちなみに命を無駄にしろ、と言っ ているのではありません。
やっぱり 日本の総理だ、と思わせて欲しい、という願望です。

みなさんはどう思うでしょうか?


なんで、こんなことに興味がある のか、不思議です。

一体高次元とどんな関係があるの でしょうか?
考えるに、時空の書いたシナリオのすごさ、に興味があるのかもしれません。
実際はどうかは分かりませんが。

みなさんは興味あるでしょうか?








佐久間象山の話を書こうかと思い ましたが、平賀源内と勘違いしていましたので、書くのをやめました(笑)。

天野聖子さんの「自問自答(東京 経済:平成12年発行)」ですが、興味深いことが書いてありました。
どうも、天野さんは、森田健さん式の「ハンドルを手放せ」と、従来型の「信念」なfどを大切にするものの中間的(?)な所を語っているように感じます。


さて、同書240ページあたりには、次のようなことが書かれています。
(要約)
本当の自由を心に与えないのは、自分の魂と霊(大いなる自己)を信じていないか らだ。すべて大いなる自己にまかせられるようになり、心を開いて魂に問えば、心はすべき正しい方向に目を向けられるようになる。
こうすれば、不安や恐怖は消える。なぜなら、魂に目を向ける念は信念となり、霊 (大いなる自己)から送られてくる正念と融合して、正通念力から神通力となるからだ。

ここまでくれば、ものごとに囚われていた執着はすべて融合し新しい 力が沸いて来る。大自然の法則にしたがって向上しようとする念は、執着にならずに、魂に融和していく。
心が魂(大いなる自己)にゆだねられることのできる信念が、執着から離れられるこ とができる唯一の道だ。

日頃から雑念の多い人は要注意。あらゆることに心を配り、心を四方 八方に用いて、疲労させすぎています。これにより、不平不満の生念が自分を縛り、汚心による想念で空間をも汚している。雑念とは、気にかかること、謝った 教え、嫌な体験など、潜在意識に溜まったよくないものだ。
(中略)
雑念が多い人は我心が強く、疑念を伴って信念を遠ざける。信念が弱く疑念が強いの は、智慧(ちえ)が薄く、念の用い方を知らないからだ。疑念は邪念を伴い、怨念を誘導する。常に心に疑念を蓄え信念の妨げをするので、心は平成にならず、 我心に囚われ、心身ともに強健になれない。雑念は雑草のごとく抜いても耐えることはない。雑草の根を広げないために抜く方法を考え、心にその趣旨をまかな いことだ。・・・・・・』

(以上)

ですが、

本当の自由を心に与えないのは、自分の魂と霊(大いなる自己)を信じていないからだ。すべて大いな る自己にまかせられるようになり、心を開いて魂に問えば、心はすべき正しい方向に目を向けられるようになる。
は、森田健さんの「ハンドルを手放す」を違う言い方をしたもののようにも、受けとれます。

次に、
こうすれば、不安や恐怖は消える。なぜなら、魂に目を向ける念は信念となり、霊(大いなる自 己)から送られてくる正念と融合して、正通念力から神通力となるからだ。

こうきます。
不安や恐怖は消える。」は、そうだな、と感じます。
ただ、きっと、なくならなくとも、良いのだろう、と感じます。
森田さん式に言えば、「それを怖がる自分もまた受け入れ、肯定する」のが、良いのでしょう。
それが、「欠点のない」、「完全な私」ということなのだと思います。


男性より女性の方が、より高次元的要素(?)が強いというのは、ここらへんがあるかもしれません。
つまり、男は、「怖がってはいけない」と育てられることが多いです。
つまり、「怖がる自分」を肯定できないわけですね・・・。

もちろん、女性にも嫉妬というのがある人もいますが、嫉妬は男性にもある人がいますので、おあいこです。



なぜなら、魂に目を向ける念は信念となり、霊(大いなる自己)から送られてくる正念と融合し て、正通念力から神通力となるからだ。

は、どうなのでしょうか?
「ハンドルを手放す」は、つまり自分で舵を切るのを止めることであり、それは高次元、本質(大いなる自己)、(高次元の)ネットワークなどを信頼して、繫 がることによって初めてできるものであるのだと思いますが、
魂に目を向ける念は信念となり、・・・」以下が、つまり、高次元、本質(大いなる自己)、(高次元の)ネットワークなどを信頼する、ということを言っている のか、それとも、強い信念力で、意図し舵を切る、ということを言っているのか、良く分かりません。



ここまでくれば、ものごとに囚われていた執着はすべて融合し新しい力が沸いて来る。大自然の 法則にしたがって向上しようとする念は、執着にならずに、魂に融和していく。
心が魂(大いなる自己)にゆだねられることのできる信念が、執着から離れられるこ とができる唯一の道だ。

と続きます。

ものごとに囚われていた執着はすべて融合し新しい力が沸いて来る。・・・・・・
が、「欠点も含め、今の自分を肯定し、自分が完全だ、と思え、努力、信念、目標などに囚われることがなくなり、心の扉が開き、自由になっていく・・・そし て本当の自分と出会うことができるようになる」、ということを言っているのだとすれば、森田健さんと同じ、ということになります。

しかし、どうでしょうか?
心が魂(大いなる自己)にゆだねられることのできる信念が、執着から離れられることができる 唯一の道だ。
は、一見森田さんと同じなのですが、”信念”を持つように言っています。
これだと、胃潰瘍の人が薬を飲む時間をきちんと守ることに躍起になって、また胃を壊してしまった・・・とか、休養に行った海外旅行で、パックツアーの日程 が込み入っていて、逆に疲れてしまった、というのと同じになったりはしまいでしょうか?

もちろん、”信念”という言葉が出てくるからといって、重箱の隅をつつくように、「だから間違っている」だなんてことは言いませんが、”信念”という言葉 はあまり使わずに、
心が魂(大いなる自己)にゆだね られることのできるような、根本からの自己肯定が、執着から離れられ ることができる唯一の道だ。
のような表現の方が正しいのかもしれないと感じます。

根本からの自己肯定とは、つまり・・・
うまく行かない自分がいたとして、そのうまく行かないこと自体を肯定しよう、と言うのではなく、うまくできないその自分を肯定することにより、本当の自分 を知り、本当の自分の心の言葉を聞き取る、
そして世間の基準ではなく、自分の本質とつながることにより、物事を判断しよう、というようなことなのですが.
どうも、森田健さんの「自分ひとりでは変われないあなたへ」で書かれているようなことと、同じになってしまいますが。

もっとも、天野さん自身は、どう思っているのかは分かりません。


みなさんは、どう思うでしょうか?







さて・・・・・・
液晶モニターがスイッチをOFFにして、朝になると、立ち上がるまでに1時間もかかるようにかってしまいました。
きっと故障とも言うのでしょう(笑)。
それではと、17インチの液晶モニターに買い替えました。
でっかいです。

それで気づきましたが、ここ数ヶ月で撮った私の写真は本当に黄色いですね(笑)。
温暖色の証明にしたのと、モニターが理由だと思います。

今度のモニターは、S-RGBに対応していますので、きっと、きちんとした色になるでしょう。








それで・・・・・・
次ですが、



「日 頃から雑念の多い人は要注意。あらゆることに心を配り、心を四方八方に用いて、疲労させすぎています。これにより、不平不満の生念が自分を縛り、汚心によ る想念で空間をも汚している。雑念とは、気にかかること、謝った教え、嫌な体験など、潜在意識に溜まったよくないものだ。
(中略)
雑念が多い人は我心が強く、疑念を伴って信念を遠ざける。信念が弱く疑念が強いの は、智慧(ちえ)が薄く、念の用い方を知らないからだ。疑念は邪念を伴い、怨念を誘導する。常に心に疑念を蓄え信念の妨げをするので、心は平成にならず、 我心に囚われ、心身ともに強健になれない。雑念は雑草のごとく抜いても耐えることはない。雑草の根を広げないために抜く方法を考え、心にその趣旨をまかな いことだ。・・・・・・」


私は雑念が多いです。
そして、ここに書かれている通り、「
あらゆることに心を配り、心を四方八方に用いて、疲労させすぎ」ています(笑)。
なぜそうなったかと言えば、3次元的に思い当たるのは家庭環境ですが、それと性格でしょうか?
家庭環境はともかくとして、小さい頃から人に飯を作ってやったり、なんてことが好きあったようですので、高次元的に見ても、性格なのでしょう(笑)。

もちろん、それが欠点になってもいましたので、直そうともしました。
私にとって、それは、「無視」、「無関心」、「無頓着」、ということになるのですが、要するに高橋信次さんの言う、中道がないのですね(困)。
ですので、今はやめましたが・・・。
ともかくは、森田健さん式に言えば、欠点も含めて、まず自分が認める、ということですね。
そうすれば、自ずと自由の扉は開かれて、必要なら自然に中道にもなるのでしょう。

そして、そうなれば、きっと雑念も消えていくのかもしれません。


その意味では、船井幸雄さんの言う、「欠点には触らない」は正しいように感じます。
但し、それだけですと、私のように欠点がいくつもある人間は、「触らないだらけ」になってしまいますので、「認めてあげる」という行為がないと、「ただ時 間だけが過ぎていく」状態になってしまいます(笑)。

もちろん、長所を進展させることもやりますし、もっと正確に言えば、自分の界に対して、自然に、そして拒否せず、躊躇せず、どんどん進んでいく、というこ ともしますが。



気を配りすぎることが、「
不平不満の生念が自分を縛り、汚心によ る想念で空間をも汚している。」に通じている、というのは、一 般的には分りにくいのではないでしょうか?
私には何となく分ります。
好きでやっている気配りは良いのですが(性格)、概念として染み付いている気配り(環境)は、どこかに濃いの意図した、我欲のある善行の要素が大きいで す。

それは、高校生くらいの子が、「なんで挨拶しないんだ」と後輩に言っているのと似ているようにも思います。
要するに、「自分は善行働いているのに、何で、お前はそうしなくていいんだ?」というような欲求不満があるのでしょう。

要するに、無理はいけないのです。
その人の本質、あるいは森田さんのいう快、好奇心に対してストレートに、行動し、それが、気配りなら、なんでもないことですし・・・
きっと、嫌いなものは嫌いで良いし、好きなものは好きで良いのでしょう。
できないものは、できなくて良く、できるものは、できて良いのです。

但し、私は、「怒鳴る」、「暴力を振るう」、この2つだけは、何がどうであろうが、いけないように思います。
国家議員でも、「怒鳴った人」はみんな失脚しています。
不思議です。





雑念が多い人は我心が強く、疑念を伴って信念を遠ざける。信念が弱く疑念が強いの は、智慧(ちえ)が薄く、念の用い方を知らないからだ。
疑念は邪念を伴い、怨念を誘導する。常に心に疑念を蓄え信念の妨げをするので、心は平成にならず、 我心に囚われ、心身ともに強健になれない。
雑念は雑草のごとく抜いても耐えることはない。
雑草の根を広げないために抜く方法を考え、心にその趣旨をまかな いことだ。
・・・・・・


ですが、
我心、とはなんでしょうか?エゴのことでしょうか?


雑 念が多い 我心(エゴ)が強い 疑念を持つ 信念を遠ざける

↓↑(?)








気配りしすぎ


邪念を伴う・怨念を誘導する







疑念を蓄え信念の妨げをするの で、心は平成にならず、 我心に囚われ、心身ともに強健になれない。



不平不満の生念が自分を縛り、汚心によ る想念で空間をも汚している。

雑念とは、気にかかること、謝った教え、嫌な体験など、潜在意識に溜まったよくないもの。








きっと、こんな感じなのでしょう。
実に理論だてられています。
それが良いことかどうかは、何とも分かりませんが。
ある事象について「分らない人」には、理論立てられている、ということは理解しやすい面もありますね。
私はこの「雑念」と「気配り」の関係が分らない人でしたので、助かります。

その意味では、「分らない人」というのは、直感がその事象に対して、働かない人のことを言うのかもしれませんね。
私は変に直感が働く時もあれば、このように、まったく迷っているものもあります。

あるいは、そうではなく、ごく初期の段階で、間違った理詰めをしてしまい、それ故、抜けられなくなっていること、とも言えるかもしれません。
だから、理論立てられているものが有効である、と。
間違った理論の迷路に入ってしまうと、なかなか直感が働かないのかもしれませんね。
みなさんは、どう思うでしょうか?



ついでに、今思いついたので、書きますが、先達て、
「男は怖がってはいけない、と教育されるので、女性の方が、自分の欠点を受け入れやすく、自由への扉を開きやすい」ということを書きましたが、もしこれが 事実だとすると、今のように、女性が社会に進出して、会社の出世競争のような場面に出てこざるを得ないようになってくると、上記の理論は、なくなってしま うかもしれませんね。

それは、あまり好ましいことではないかもしれません。
みなさんはどう思うでしょうか?




さて・・・・・・
「我心」が強いと「疑念」を持つ、そして
「邪念を伴う・怨念を誘導す る」、
疑念を蓄え信念の妨げをするの で、心は平成にならず、 我心に囚われ、心身ともに強健になれない」
ですが、

我心(”がしん”と打つと変換できないので、”われ”、”こころ”と打つのがめんどくさい)が、エゴであるとすれば・・・
確かに強いエゴは、疑念に繫がるでしょう。
私はそこまでなったことはないですが・・・

いや、恋人がいる時等に、嫉妬心が強くなったことが昔は良くありましたので、こういうことを言っているのかもしれません。
あるいは、ワンマン社長などが、部下を信用しなくなる、というようなことも、そうでしょう。
例の金融会社などのようにですが。

ただ、雑念の多い私は、私の多次元的主観から見て、そこまでエゴは強いとは思えませんので(?)、果たして、これが当てはまるのかは分かりません。

気配りが先か、雑念が先かも、どこかキーになるように感じます。
私はなぜか、「気配り」が先、のように感じます。

つまり、「気配り」が雑念の元である、ということですが。
一見、「気配り」はエゴと太極にあるような気がします。
しかし、その実、「気配り」こそ、「エゴ」に直結するものであった、とすれば、「エゴ」が強すぎるのではなく、「気配り」が強すぎることにより、「疑念」 が沸く、ということも有り得るでしょうか?

あるかもしれません。
但しそれが、「ギブ&テイク」の世界での話しですが。

「いくら与えても、何も帰ってこない」
あるいは、
「ギブ&ギブ」でも、相手が「ギブ&テイク」の世界の住人なら、
「あいつは、なにかたくらんでいるのかもしれない」
という逆の疑念が相手から出てくるかもしれません。
とか、書いていて思いましたが、これこそ、正に、「THE 疑念」ですね(笑)。

何か、私が未熟なのか、この手の理詰めは、仮に理論上、完璧に説明した、としても、結局、どこか一人よがりの部分が残るような気がしてしまいます。

ここで言えば、「雑念」→「我心」→「疑念」→「邪心」という理屈が、どこか余計なように感じます。
仮に天野さんの言っていることが正しいとするのなら、私は、むしろ、
「気配りしすぎの人は、少し減らしなさい。そうすれば、雑念も減る。そしてそれが多いなる自己に繫がる為には大切なことです」
で、良いのではないかと思います。

私としては、少なくとも、「気配りが過ぎると、雑念が多くなる」は、正しいような気がします。
それだけ、読んだ価値はあります(笑)。

みなさんはどう思うでしょうか?





昨夜、テレビで映画を見ていましたら、食事の前にお祈りをするシーンがやっていました。
私もハワイではルーテルの人達と一緒の時はしていまいた。
その時は、「良いことだな」と思っていました。

しかし、今思うと、日本人はしているのです。
「いただきます」と「ごちそうさま」ですね。
この言葉には、無限の意味がこもっているのでしょう。
茶室の小さな位置口から入り、無限の広がりを経験するように・・・ということに似ているのでしょうか?
良く知りませんが。

本当に日本人はすばらしいですね。
しのごの言わずに、「いただきます」、「ごちそうさま」ですね。

昔「なごり雪」で有名なイルカさんという歌手が、「”お魚は食べられるために生まれてきたのだから、きちんと残さずに食べなくてはかわいそうよ”という言 葉は、間違っている。食べられるために生まれてきたのではない・・・」というような歌詞の歌を歌っていて、感動したことがあります。
しかし、どうなのでしょうか?
もちろん、食べられるためだけに生まれてきたのではない、ことは確かです。
しかし、食べられるためにも生まれてきたのではないでしょうか?

非常に誤解のある言葉であるとは思います。
またイルカさんの言う言葉の方が、より道徳的であることも理解できます。

しかし、やはり「食べられるために生まれてきた」という役目もあるように思えてしまいます。
しかし、これをして、人間界で、弱肉強食が正しい、というような解釈につなげられては困ります。

どこにも書かれている通り、この世には食物連鎖があります。
より小さな生き物が、それより大きな生き物の餌になっていく。
しかしながら、必要以上には食べず、必要なだけしか殺生はしない。
そうして、全ての種が耐えることなく生きていくことが出来る・・・、というものです。

私は、この点について言えば、しのごの言わずに、「おさかなはおいしく食べ」、「素直に感謝すれば良い」と感じます。

そして、

「この世には食物連鎖というものがある。
しかし、これは弱肉強食ではない。
まして、人間同士で食物連鎖などということは本来はない。
このことをごっちゃにして考えてはいけないよ。」

と、教えるのが正しいように感じます。

みなさんは、どう思うでしょうか?


しかし、イルカさんと言えば、もうデビュー30年以上なのでしょうが、私が小学生の高学年の時でしたら、ミナミハルオさんどろこか、灰田勝彦さんくらいま で、行かないと同じにはなりませんね(笑)。
何かすごいことのように感じます。
今の小学5,6年生にとってのイルカが、私の灰田さんである、ということが・・・。

灰田さんは、昭和12年(1937年)デビューのようです。
今調べました。
ハワイ・ホノルル生まれの日系二世なのだそうです。
知りませんでした。
私が「鈴懸の径」を好きなのも、この曲をハワイで演奏したのも、何かの縁だと嬉しいのですが(嬉)。














さて、私がうまくイメージができないことですが、いくつか理由を考えて書いていますが、こんなこともあります。

私が幼稚園くらいの時、両親が喧嘩をしました(笑)。
理由は知りません。
良くしていました。

その飛び火がこちらにきまして、父親が、私に「謝れ!!」と執拗に言います。
私は何がどうなっているのか、まったく分かりません。
謝ったでしょうか。
それとも、昔は強情でしたので、謝らなかったかもしれません。

何せ・・・
同じ頃、父親の仕事の慰安旅行で伊豆のホテルに行った時など、母親のはからいで、つまらない宴会に出ずに、部屋でテレビを見ていましたら、父親が怒り出 し、また何か要求してきたのだと思いました。
その時は頭にきて、「一人でこのまま帰る」、と言い、浴衣のまま、ホテルを出て行こうとしました。
本気です(笑:どうやって帰るのだ?)
ホテルの女中さんから、大勢が来て止めました。
父親は確か、「行けるモンなら行ってみろ!!」とかなんとか言ったでしょうか(笑)。


それは良いとして、その時の「謝れ」がどうもトラウマになっているようにも感じます。
父親は当時(30歳くらい)、自分は悪いことをしても、絶対謝らない人でした(笑:もう昔の話だからいいが)
そのくせ、人には執拗に「謝れ」を要求する。
私はその時、「俺は絶対、自分の悪いところは認めて、謝る人間になってやる」と思ったような気がします。

なにせ、その後、パンツ1枚で外にだされ、町内、商店街をそのままさまよったくらいですので、いまの私が思っているより、心の底には残っているのかもしれ ません。
どうでもいいですが。
(今では父親は以前より、ずっと穏やかになっています)

それでどうかと言うと、確か、私の口癖は「ごめん」になっていたように感じます。
小学校の体育の時間など、ボールがあっちへ行くたび「ごめん」、そっちへ行くたび「ごめん」と言っていた記憶があります。

で、これがどう頭の映像と結び付くかと言えば、「間違った絵を出したんじゃないか?」と思うと、自動的に、「間違っている」方向でやまをはる、と言います か、そういう姿勢に出る癖になっているようです。
つまり、だれかから「違うんじゃない?」と問われると、いやおうなしに、「違う」の札を出すようにプログラムされている、ということです。

仮説ではありますが、ひょっとしたら、これが答えかもしれませんので、ちょっと、気にして修正してみたいと思います。
瞑想後、急に、上記のようなことを思い出し、仮説が出ましたので、書いてみました。

トラウマを修正する方法として、その時の記憶を変更する、つまり、違うストーリーにして、記憶し直す、というような方法があるようです。
ちょっとやってみましょう。
父親が幼い私に、
「おまえには、罪はない。何も間違いをしていない。謝る必要はない。ありのままの自分でいなさい。」
と言った、とすれば、良いわけです。

「謝る」というより、「間違っていない」が近いでしょうか。
「頭にイメージが出ない」というよりも、「出ているのが分らない、「納得できない」という表現の方が正しいのかもしれません。

もっとも、この方法も、いつのどこの場面がトラウマの元なのか分らなければ、使いようがありませんね。

みなさんは、どう思うでしょうか?



「謝る」というより、「間違って いない」が近いでしょうか、ですが、決められた運命の脚本家がいるなら、実にうまい脚本です。
私は昔からケアレスミスの多い人でした。
受験、試験などでも、人がやらないような間違いを良くしたものです。

その度ごとに、自分を責めていましたので、そこでも、「間違いをした、という前提で、良くチェックしよう」などと、学生時代の間、ずっといやっていまし た。

一体どれが、トラウマの元か分かりませんが、とにかく、
「間違っていない」
「そんな間違いしていない」
というのを、心がけてみようと思っています。
 

あるいは、私は馬鹿ですので、わざと負ける、ということをします。
つまり相手が自分より力が下の時に、勝ち負けが五分五分になるようにわざとそうしたりする訳ですが・・・。
いまはしませんが、これも癖になっているかもしれません。
そんなことは、相手が子供の時でもない限りはしなくて良いのです。

いまは比較的普通の人(?)ですが、中学生以前までは、変に何でもできてしまった人(単なるませていただけ)でしたので、幼い精神レベル故、こんな癖を付 けてしまったのかもしれません。
修正してみます。
 


さて、どうなるでしょうか?


しかしながら、頭にイメージが出ない、ということが、私が不思議なこと、高次元に興味を持った一つの理由でもあります。
そう考えると、これからどうなるか分かりませんが、まんざら、その経験も捨てたものではないかもしれませんね。










そうこうしている内に、もう一つ思い当たるところが見つかりました。
それは、嫌いなものを好きになる練習です。

これも強引にやっていたように思います。
これも、ひょっとしたら、イメージの妨げになっているかもしれません。
つまり、心地よい映像を出すにしても、それでは、嫌いなものを好きになる練習にはならないからです。
森田健さんの「嫌いな人には嫌いと言います」が正しいのなら、きっとこれは害のあることでしょう。

確かに私には「嫌いなものがあっては、本当はいけない」
というような脅迫に近い強い概念があります。
ですので、好きなものを素直に好き、として、実行できてないところがあるような気がします。
 

そして、もうひうとつ・・・
強引というものがありますが、・・・

私は強引が大嫌いです。
どうしてそうなったかの3次元的理由はいろいろありますが、運命で決まっていたのでしょう。
それ故、自分の頭まで、強引に動かしてはいけない、とどこかで思い込んでいる節があります。

考えてみますが・・・


基本的には、強引というのは、悪いイメージがあります。
また、そこに、暴力、監禁、脅し、などがある場合にはいけないに違いありません。

しかし、たとえば、1+1=2ですが、5という人がいたら、それはそれで良いですが、どうしても、その数字が必要な時には強引に2だ、と押し通しても良い のでしょう。

強引に部屋の中に入ってこようとする押し売りがいたら、これも、強引に押し返して良いのでしょう。



強引がいけない時というのは、どういう時でしょうか?

今上で書いた、押し売りが強引に入ってこようとした・・・これはいけない強引だと思います。
つまり、人の家に、許可なく、しかも、入ってきてはいけない、と言っているのに入って来ようとする・・・
これがいけない、ということです。

この強引は強引とは本当の意味では言わないのでしょう。
当然、なのでしょう。

つまり、当然は強引にやっても良いのだろうと感じます。
もっと言えば、それは単なる「やる」でしかないのでしょう。
そして、悪い行為ではないのです。

自分の家に入ろうとして、あかの他人が、「この家に入ることは許可しない」と言ったとしても、入ります。
強引にでも入ります。
しかし、これも本当の意味での強引ではないのです。

ということは、つまり、その人 に、そうしても良いという権利がある場合、当然の範囲内でも行為はしても良い、のです。
当たり前ですね。



神経には、運動神経と自律神経があります。
運動神経は手足などを自分の意志で動かす神経、つまり、自分で制御でき、して良い神経、
自律神経は心臓などの内蔵を動かしたり、爪、髪が伸びたり、その他血を作ったりなど(これは不確か:良く調べていません)、自分では制御できない神経のこ とだそうです。

頭に映像を出す神経は、おそらく、運動神経なのでしょう。
そうでなくとも、少なくとも、自分に制御の権利のあるものなのだと思います。
私は、これすらどうも、私の思い通りにするのは強引であり、悪いことだと思っていた可能性があります。

しかし、どうやら違うようです。
これも、一つの運動神経的なものと考えて良いようです。
つまり、頭の映像を自分の好きなように制御することは、強引でもなんでもなく、、またエゴでもなんでもなく、権利があり、許可を得ていて、当然であり、良 いことのようです。


ですので、頭に強引に自分の思った通りの映像を出す、ということは、強引でもなんでもなく、おそらくは高次元的にも何人に対しても、迷惑も、権利の侵害も ない行為であるのでしょう。

そして頭に強引で映像を出す、ということは、要するに一所懸命にやっている、ということ以外のないものでもなく、正しい行為なのですね。



但し、自分のものと言っても、それが壊れてしまうような使い方をしたら、これはいけません。
しかし、そうではなく当然の範囲内であるなら、何も咎められることはない訳です。



・・・と、ほとんど自分にカウンセリングをしたような感じになりましたが(笑)。

さて、今後、どうなるでしょうか?




許可されていることを、許可されている範囲ないでやることは、強引とは言わない、ということですね。
体も、僧都主創造主からの借り物かもしれませんが、きょkされ許可されている範囲内で自由にすることは、良い、ということですね。







昨日、興味深いことがありました。
海外のあるオークションサイトで、私がすごく気にいった時計を見つけました。
アーネスト・ボレルというメーカーのもので、すでに発売終了したものです。
結局$41で落札できました。
送料が$18ですので、ざっと8,000円前後といったところでしょうか?

朝起きてメールをチェックしますと、そのオークションのメンバーからメールが来ています。
フランス人のようですが、ちゃんと英語で来ていました。

内容は、
「こんにちは。
あなたは、この時計のウイナーですね。私の父はなくなったのですが、この時計と同じものを持っていました。
ですので、この時計が欲しいです。
いくらで売ってくれますか?」
というような感じです。

で、私は返事を出しました。

「私はこの時計のウイナーです。
あなたがこの時計を欲しいのは分りました。
あなたは、父親がこれと同じ時計を持っていたと言いましたね。
しかし、私はそれを忘れます。
なぜなら、それは、お金には換えられないことだからです。
私はこの時計っがものすごく好きです。
ですので、$200では、いかがですか?
それなら、私は同じくらい気に入った時計が買えます。
ほかに何か、アイディアがあれば、教えてください。」

というような感じです。


私の考えですが・・・

まず、「なくなったおとうさんが、これと同じ時計を持っていた」
というのが、嫌です。

それを条件に出されたら・・・もし私の友人なら、無料で譲ります。
それほど高いものではないですし、金額を付けろ、というのに、無理があります。
その人の思い出に金額を付けるようなものですね。

仮に、友人ではないにしろ、それが事実だと100%証明されて、同じ申し出をされたらなら、やはり無料が原価で譲ります。
理由は同じです。

あるいは、この人がオークションで競り合っている人であり、一試合した人ならば、また話は別です。
しかし、1度別の人がビッドしましたが、すんなり落札できました。


疑うのはいけませんが、こういう可能性もあります。
競り合うと当然高くなります。

それなら競り合わず、低い値段で人に落札させて、「なくなった父が持っていたものと同じです・・・」というメールを後で出せば、60%の人は売ってくれる のではないでしょうか?
しかも、落札価格とそれほど違わない値段で。


いずれにしろ、オークションで落札したものを、「どうしても欲しいから売ってくれ」というのの理由に本当であれ、嘘であれ、「なくなった父」を出してくる のは、嫌です。

メールをくれるなら、「どうしても欲しいので売ってくれ」
というような書き方でなければ、嫌です。
私にその人の父親との思い出に 値段を付けさせよう、とする気持ちが嫌いです。


また疑えば切がないですが、なくなったお父さんの持っていた時計は、どこへ行ったのでしょうか?
どうせ書くなら、最低でも、そこまで初めのメールで書いてくれないと不足です。

$200と書いたのは、本当に欲しいのなら、出す、と思ったからです。
そして、本当に$200なら、このオークションで状態の良いオメガの中古くらいなら手に入ります。
もし、彼が「$200でも良い」
と返事をよこしたら、郵送料を無料にしてやろうとは思っています。
そこまで欲しいのなら、本当かもしれません。
そうならば、後味が悪いです。

きっと、明日の朝には返事が来ているでしょう。

来ていなくとも構いません。
どちらかと言えば、売りたくありません。
そのオークションのために6日待ち、夜中まで張り付いていた訳ですので。

返事が来たら、また掲載します。









さて・・・・・・
いろいろ考えますが、極端に信じるか、極端に疑い深くあるか、のどちらのようですね(笑)。
きっと、頭のイメージを疑ってかかる、という根本に間違いがあるのでしょう。
また、確認してもいけないのでしょう。

どうも、要するに、「イメージが出ない」のではなく、「イメージを確認している最中の映像を見ている」になっているように思います。
テストなら、マークシートの塗り忘れがないかどうか確認する時に、普通は、塗ってあることを確認しますが、2回目3回目には、塗ってないところにヤマを 張って確認したりします、私は。
どうも、そういうことかのかもしれません。
これはきっと、3次元的には、受験の影響が大きいですね。
高次元的には、決まっていた、ということなのでしょうが。




最近、一般市民の2極化が激しくなってきていますので、いわゆる、大金持ちの成功ストーリーが良くテレビでやっています。
一つには、小泉政権などによるアメリカ化の影響があるでしょうが、どうももう一つは、高次元的なものがあるように感じます。

それが小松英星さん式の「宇宙から高いエネルギーが来ている」ことによるのか、他の何かによるのかは、分かりません。
ただ、いずれにしても、時流が変わっていることに大きく関係していることは確かなように思います。
簡単に言えば、「何かによって、運命が変えやすくなっている」、「何かによって、願望が叶いやすくなっている」、
あるいは、「願望が叶ったり、運命が変わったりしたとしか思えないようなことが、多く起きる運命の流れに地球がある」、ということなのかもしれません。



今日見ていたものなどは、「ありえない様な偶然で、強引に決められた運命に引きずりこんでいく。」とでも言うような、ものすごい加速(?)のようなものを 感じました。

旦那さんの転勤でシドニーに移住して、その後旦那さんは、ヘッドハンティングされ、ゴールドコーストに家族で引っ越します。
その頃から、旦那さんは、ほとんど休みなく働き、子供も10代半ばで友達と遊びに行き、奥さんは精神不安定になります。

だれも、構ってくれないし、旦那さんともうまく行っていないように感じ、別れるかもしれない、などと考えるようになったからです。

酒におぼれ、ある夜、酔ったまま寝てしまうと、1階で物音が。
泥棒かと思い、恐る恐る近づいてみると、娘が帰ってきて、奥さんが飲み散らかしビールの瓶などを片付けています。
それを見た奥さんは、「このままではいけない」と心を入れ替え、38歳くらいの時ですが、10何年ぶりに働きに出ます。
宝石店で働きます。
その後、自分の店を持ちたいと、親や旦那から4000万円ほど借金をし、ゴールドコーストに店を出します。
設計段階で、他の多くの店を見て歩き、いよいよ着工となる、直前にん、考えが変わり、設計の方針を変えます。
「ゴールドコーストへオパールなどの宝石を買いに来る日本人は、高級な宝石が欲しいのではなく、お土産を買う。そうすると敷居の高い店ではだめだ」
と思い、カジュアルな店にします。
商品も、数千円程度の安いものを置きます。
それが当たり、地域でナンバー1の売り上げの店になります・・・。
ここまでしかみませんでしたので、これ以上は知りません。

少し見たところでは、今では原石の発掘から行っているようです。
現在は50過ぎの方のようです。



もう一つは、イギリスの話で、日本人帽子出デザイナーの苦労話です。
はじめは、大きな会社に勤めたようですが、独立します。
それでも。日本人差別などもあり、なかなかうまくいきません。
しかたなく、大手の下請けをすることになりますが、そこでも、イギリス人の意地悪があります。
もうだめだ、と思いつつも続けていると、ある日ジャネット・ジャクソンの衣装担当の人から、「あなたのデザインした帽子を当人も気に入っているのでニュー ヨークでの次のポスターに使います」という電話が入ります。

それにより、彼女の名声は上がり、人気帽子デザイナーとなっていきます・・・
まだ、2,30代の女性のようです。




これらを見ていると、先に書いた「
ありえない様な偶然で、強引に決 められた運命に引きずりこんでいく。」というような、ものすごい流れ、加速を感じてしまいます。

みなさんは、どうでしょうか?


これが願望が達成されたのか、決まっていた運命なの か、良く分からないところはありますが・・・
もし、決められた運命ではない、として考えるのならば、

前者は、酒におぼれて・・・の時点で、「完全に諦めた」可能性はあるようにも思います。

また、店の設計を直前で変えた時には、知らぬうちに、問いを発した可能性もあるかと思います。
こちらは、願望実現と言うよりは、運命変更に近いですが。



後者は、きっと「諦めた」のでしょう。
ひどい意地悪と、もうどうしようもない経済状態だったようですので。

もちろん、ただ諦めただけでは、願望実現としてはどうしようもないですので、「こうなって欲しい」というイメージはもっていたのだろうとは思いますが。



もし、願望ではなく、決められた運命、ということで考えれば・・・
どちらも、酒びたり、あるいは、もうどうしようもない窮地、という状況で、「ハンドルを手放した状態」になった、ということは言えるかもしれません。

いずれにしろ、つまり願望実現にしろ、決まっていた運命にしろ、急激にかある直前に、完全に全てを何かに委ねてしまう出来事がある、という例は良く聞きま す。


私の知っている人では・・・
その人はもともと新劇の役者志願だった人ですが、お金がなく、最後に奥さんと競馬に行き、それでも当たらなく、最後の最後で、これでだめなら、もう仕方が ない、と思っていたその時に、大当たりがでて、やり直しができた、という人がいます。
その人は、以前勤めていた会社の部長でしたが(笑)。

どうもなにか、時空はそういうストーリーが好きなのか、それとも、ハンドルを手放したか、完全に諦めたか・・・きっと、そこには何かがあるのでしょう。




さて・・・・・・
最近、いろいろ思いますが(それはそうだ。普通いろいろ思うものだ)、私は41歳で独身です。
いろいろありましたが、とにかく、”今”は独身です。
それで良かったな、と急に思い出しました(start to thinkの方)。

恐らく、結婚していたとしたら、それは、私のモノの考え方からすると、その前に会社で出世していた場合でしょう。
私の家は共働きでしたが、幼心に「親が仲が悪いのは、きっと、そのせいだ」と思っていました。
ですので、「共働きなんかしなくとも、余裕を持って食べていけるようになるまでは、結婚はしない」と固く思っていたものでした。

しかし、私は、変にひねくれていて、そして変に素直ですので、正しいと思ったことは一直線に信じてしまいます。
ですので、もし、これまでに、結婚しているような状況があったなら、私はきっと、子供にも、嘘を教え、部下(出世すればするほど増える)にも嘘を教え、 きっと、女性の言うことは今でも理解できませんので、奥さんとは喧嘩も絶えず、場合によっては子供にも、暴力を振るってしまうような父親になっていたかも しれません。
(暴力はしないかおしれませんが、怒鳴りはしたでしょう・・・)

もちろん、それがあるがままで、それが学びだと言えば、そうかもしれませんが、私は、そうい状態は嫌ですので、今、本当に、現状のような状態で良かった な、と思っています。


別に無理して道徳的なことを言っている訳ではありません。

みなさんは、どう思うでしょうか?




フランスから返事はまだ、来ません。
明日来ていなかったら、もうどうでも、売るのはよそうと決めています(笑)。





248:CARNAVAL: 渡辺貞夫、その他
   
  これは、なぜか日本盤は出ていないようです。
なぜか、と言っても、きっと契約の関係か何かなのだと思いますが。

メンバーがすごく、
アルト:渡辺貞夫 
ピアノ:ハンク・ジョーンズ
ベース:ロン・カーター
ドラム:トニー・ウイリアムス
です。
1978年の田園コロシアムでのライブです。

リマスターは、2002年、バークレーのファンタジースタジオ、とあります。
サンフランシスコのバークレイでしょうか?
確か、同じような地名がいくつかあったように思いますが。

1978年という年は・・・
バブルの前ですね。
確か田園コロシアムは、もうコンサートでは使えないようになっているように思いましたが。
うるさい、だか何かだかで、貸し出しを止めたのだと思いました。
私の感違いの可能性もありますが(笑)。





昨日の続きですが・・・
「ありえない様な偶然で、強引に決められた運命に引 きずりこんでいく。」という話です。

思うに、ある地点、地点の運命が決められていて、その間の決められていないところは、決まっておらず、その決まっていないところで、決められた運命の場所 とあまりに違うところにいる時、
「ありえない様な偶然で、強引に 決められた運命に引きずりこんでいく。」というような感じになっていくのではないでしょうか?

勘の良い人、つまり、自分の中の神なり、高次元なりと繫がっている人というのは、あまりこの決められていない運命の場所でも、次に来る決められている運命 の場所と然程遠くないようなところに位置しているような人生を歩んでいるかもしれませんね。

ひょっとしたら、一般的に言う「苦労」(災難ではない)、ということの実体が、こういうことなのかもしれない、とも感じたりします。
それほど単純ではないものもあるとは思いますが。





さて・・・・・・
今日テレビを見ていましたら、例のボビーが出てきて、故郷のナイジェリアの子供たちと、むかで競争と言うか、10人11脚というか、横に10人くらい子供 たちが並んで、紐で結わかれて、一緒に走り競争をする競技のコーチをする、というシーンをやっていました。

ちょっと横にはずれますが・・・
何でもボビーは、脳波測定をすると、普段でもアルファー波になっているという非常に珍しい人であるらしいですが。

そこで、ナイジェリアの紹介をしていましたが、小学校の紹介で、
「ナイジェリアは厳しく、成績が悪いと落第し、進級できないことがあります・・・」
とやっていました。

これを聞いた時、非常にヘンダな、と感じました。
私は逆で、「落第させてくれる」ことは、優しいことだと思いました。
どこが優しいかと言えば、きっと社会が、ということのように感じますが。

日本は、めったに落第して、進級できない、ということはありません。
それは、決して全員が、授業を理解しているから、ということではなく、「留年する」ことが、その後の人生にとって、非常に大きな悪い影響を及ぼす可能性が 高いので、学校側の配慮で、させないようにしているからだと思います。
もちろん、学校側の面子もあるのでしょうが。

本来なら、本当に分るまできちんと教えて、進級させるべきであり、そうでない場合には、ゆっくりと時間をかけてあげれば良いはずですね。

今の日本の状態というのは、その意味でどこか、おかしいようにも感じます。


この番組を見ながら思い出しましたのが、先日の株式会社での、ミスの件です。
なんでも、聞き及んだところによれば、売る株の数と値段を逆に入力した時に、コンピューターはきちんとエラーメッセージを出したようです。
しかし、その担当者らしき人は、「エラーメッセージはいつも出るので、時に気にしなかった」そうです。
正に、「ピーターと狼」状態だった訳ですね。

私はM・S銀行に口座がありますが、インターネット・バンキングを使用しています。
振込みなどをすると、普通であれば「エラーメッセージ」と同じ、別枠が出てきます。
そこには、良く読みますと、「このメッセージは全ての方に出ます」というようなことが書かれています(笑)。
始めれ、この別枠を見たときは、「あっ、振込先でも間違えたのか!?」と思い、いくらかうろたえました(驚)。
ちゃんと、悟っていないことが、分りますね(笑)。

しかし、今では、もうこのメッセージのことは理解しました。

しかしながら、やはり、こういう別枠注意メッセージは、「全ての人」に出してはいけないように思いますね。
ちゃんと、意味がある時、意味のある人、ケースに対してのみ、出した方が良いように思います。
注意深いからなのでしょうが、そうでないと、上の2つのケースのように、本末転倒、一体何の意味があってやっているの?状態になってしまうように感じま す。

こういうことは、いろいろなところにありますね。
マニュアルなどもそうです。
取り扱い説明書のことではありません。

もともと、自分の考えだけではまともにできない”初歩”の状態の時の為に、6,70点を取れるように作られたものであったはずなのが、いつのまにか、それ が100点として、扱われたりしているケースがあります。

その結果、もともと70点以上のことだった項目が、間違いだなんてされたりすることもあります。


本末転倒は何が原因で起きるのでしょうか?

おそらくは、初めてそれを作った人、世代が、その事実を正しく伝えずに、時が経ち、世代がある程度以上入れ替わってしまった時に、そういうことが起きるの でしょう。
高次元的には、時間の推移などはないようですが、3次元だと、時間の推移には、このようなことも起きるわけですね。

みなさんは、どう思うでしょうか?






さて、100円ショップで、チタンとゲルマニュームとマイナスイオンのバンドを買って来ました。
はじめは、こんな安いもの、効くのあろうか?と思っていたのですが、どうも効くようです。

ことの始まりは、インターネットでオーディオ用のインシュレーターというスピーカーの下に敷いたりするものを探していたら、ある業者さんが、安くて良いも のを売っているのを見つけたところからです。
そこは、建築会社のようですが、社長の趣味で中国から石類をたくさん輸入しているようです。
推測形で書いているのは、「輸入」にかかっているのではなく、「趣味」で、の方なのですが(笑)。

当然のように、チタンなども販売しており、マイナスイオンの出る石でシャワーの中に入れられるもの、とチタンヘマタイトと翡翠のネックレスが安かったの注 文しました。
来週届くかと思いますが。

こういうのは、みなさんもあるかと思いますが、不思議なもので、一つ買うと、それに興味が出てきます。
それで、用事があったので、100円ショップに行ったついでに、100円の健康グッズを買ってみました。


はじめは、チタンの腕に巻くバンドだけ買いました。
していることも忘れていたのですが、例のごとく転寝して、起きると、調子が良いのです。
こんなことは、7,8年ぶりでした。
どうも、思い当たるのはチタンのバンドしかありません。
電磁波を中和する効果があるようです。

そう言えば確かに、7,8年前と言えば、部屋にPCが来たころです。

それで、次の朝になり、していたバンドを一度はずして、また付けようとした時に、バンドの止めるところが壊れてしまいました。
これは不良品ではなく、小さいサイズを買ってきましたので、あまりに装着し難いので、ちょっとゆるくしてやろうかと思い、力を入れたら壊れてしまっただけ です。

そんな訳で、今日、3つ買ってきました。

さて、効果はどうでしょうか?

ちなみに、翡翠ネックレスを注文したのは、http://www.mukai.gr.jp/  です。
マイナスイオンの出る石は、100gで315円とお徳です。

まだ、届いていませんので、ネックレスも、マイナスイオンも試していません。
試してよかったら、また記載します。

ありそうにない会社があるものだ、と思いましたので、掲載しました。


249:SWEET DEAL:渡辺貞夫
 
  アマゾンで検索しましたら、曲目が出ていませんでし たので、掲載しません(笑)。
2000年前後くらい(もっと前か?)に出たアルバムです。
渡辺さんのフュージョンというとブラジルテイストのイメージがあるのですが、これは、都会派フュージョンです。

なんとなく聴きやすく、しばしば聴いてしまいます。

私には左の写真がすごく緑色に見えますが、みなさんのモニターではどうでしょうか?
モニターの設定をSーRGBにしています。
これは、DTPなどをする時の、「この色を共通にするよ」という基準ですが、どうもグリーンによっているように思います。

部屋の明かりは温暖色ですので、大抵黄色く写ります。
シルバーはゴールドになってしまいます。
本当にそうだと嬉しいのですが(笑)。

今はデジカメの設定を代えましたので次の写真はちゃんとしているかと思います。

私は初めて機械もので、共通の規格???ということに気が付いたのは、いつかも書きましたがラジカセです。
中学生だったか小学生だったかの時です・・・きっと中学生ですね。
家にはじめて本格的なステレオが来ました。
もちろん昔のものですので、カセットデッキも付いています。
以前からラジカセでエアチェックしたテープをみました。
すると、変な音なのです。
なんとも、もやもやしていて、輪郭が出ない、と言いましょうか。
カセットには、アジマスというのがあります。
デッキごとにテープとヘッドの当たる角度が微妙に違く、同じ角度でないと、特に高音が出なくなります。

しかし、それとは違うようでした。
その後いろいろ試してみましたが、カセットは、メーカー・グループによって互換性があるようでした。
今は知りませんが。
ソニーのラジカセなどは、ティアックなどのオーディオ・デッキで再生すると、ちゃんときれいな音がしました。
しかし、パイオニアなどのデッキではだめです。

パイオニアのデッキでとったものは、ソニーのラジカセでもきちんと再生できますが、ソニーのオーディオ・デッキでとっ たものは、ナショナルのラジカセなどでは、変な音です。
もちろん、パイオニアのデッキでも変な音になります。

ここらへんは、比較的簡単に耳で分る思います。

もうひとつあります。
これも以前書きましたが、ラジカセ・・・デッキでもそうですが、あれはモーターで回転していますが、時が経つと、モーターのスピードが速くなったり遅く なったりします。
ですので、今日録音したものでも、10年後同じラジカセで聴いても、スピードが速くなっていたり、遅くなっていたりします。

私は、当時、「まさか、そんなことになっているとは」知らず、故障かと思いました。
それで、数台のテープでそれを確認しました。
ある時などは、電気やさんに協力してもらい、お店にならんでいる全てのラジカセで再生して、曲の長さが微妙に変わったり、音のスピード、キーなどが変わる のを確認しました(笑)。

で、結局、「この程度の正確さなんだな」と納得しましたが。


良くミュージシャンは、キーによって、色合いが違う、というようなことを言います。
良くでもないですね、たまにですが。

つまり、きらきら星で、
「ドドソソララソ・・・」(C)
と、
「ファファドドレレド・・・」(F)
では、同じメロディですが、感じる何かが違う、ということですね。

そのせいで分ったのか、単に、いつもと違う、と思っただけなのかは、分かりませんが、あの頃は、音に関して、そんなこ とばかりやっていました。


で、アナログ・テープを正しく聴くには、スピード調整機能と、アジマスの角度意整機能があり、互換性の正しいデッキ同士でないと、どうしようもないようで す。
同じメーカーか、提携メーカーの機械を使うことが、まず初めですね。
昔から、いろいろあるようです、メーカー間では。





さて、政木和三さんの本には、前世というものがあることを分らせるために、良く前世での実際の縁についての話が出てい ます。

森田健さんの埋まれ変わりの村調査によると、少なくとも、ひとつ前の前世での人間関係は、今生に持ち越すことはないよ うです。
確かに、偶然なのかどうか分かりませんが、政木和三さんの本に出てくる昔縁のあった人との話は、あまり一つ前の前世についてのものはありません。
あるのは、大抵、3だか4だかくらい前だと思われる話ばかりです。

しいて、ひょっとしたら、一つ前の前世かな、と思うのは、アントニオ猪木さんとのもので・・・
政木さんは熊沢蕃山だったそうですが(私には確認できません)、熊沢さんの墓の写真を知人に送ってもらい、届いた日にアントニオ猪木さんが政木さんを訪 ねたのですが、「これは私の故郷の古河市です。母も祖父もこの町の出身です」と言ったそうです。

もっとも、これでは、猪木さん自身の生命体との縁か、その関係者なのかは分かりませんが。
根霊という発想からすると、そこら辺はどうでも良いのかもしれませんが。

政木さんは、畑時能であったこともあるようですが、その時、恋愛をしたが結婚できなかった娘さんが、今の奥さんだった そうです。
なんでも、奥さんの紋章と、畑時能の紋章は同じだそうです。

などなど、こういった話がたくさんでてきます。

但し、ほとんどは、最低でも、2前世以上前の縁のようです。
2前世以上前だと、縁を持てるのかもしれませんね。
よく分かりませんが。


少しだけ詳細に書くと・・・
1万年以上前の話から、4千年、3千年・・・などです。
大抵、前世の人も、今生で、再び出合った人も、それなりに有名な人ですが、そうでない人もいます。
本によって出てくる例は異なりますが、「驚異の超科学が実証された」(廣済堂ブックス)は、BOOK OFFで良く見かけます。


みなさんは、どう思うでしょうか。











さて・・・・・・
今、蜂蜜をパンにつけながら、ワインと一緒に食べていますが、蜂蜜というのは、不思議ですね・・・
絶対、手につけていない、と思っているのに、必ず、ちょっとだけ付いている(笑)・・・
これは、一体どいういうことでしょうか?(どうでも良いが)

どうでも良いついでですが・・・
野菜炒めは、最後にといた玉子を一緒に炒めるとおいしいですね。

但し玉子1個は確か2000`カロリーかなかだったと思います。
これは結構すごいカロリー量のはずです(笑)。

しかし、5次元では、食べる必要がないようですので、健康に害がない範囲では、好きなものを食べた方が良いですね。
船井幸雄さんも、スーパーでから揚げと焼きそばを買って、ビールを飲むのが好きらしいですので。
あまりこだわらず、好きなものを食べて、人にも、好きなものを食べさせてあげたら良いのでしょう。

もちろん、不必要に大きな害がなければ、ですが。


きっとだから居酒屋というのは、良いのですね・・・
みなが好きなものを食べれば良い。
私は生魚がだめですので、すし屋に連れて行かれると、ほとほと閉口してしまいます(笑)。

 






さて・・・・・・

岡田多母さんの「あなたへ・・・そして イヤサカへ 存在からの伝言」(知玄舎:2003年6月9日発行)に、面白いことが書いてあります。
いろいろあるのですが、第二章「ユクミチ」の「調和とは」(38ページ)にある「喜と不喜」について書かれているところを取り上げてみます。
(とかなんとか・・・)


要約して引用してみます。
(39ページから)
「自然界での生の基準は「喜と不喜」。
喜はせいの否定を意味し、不喜は生の否定を意味す る。自然界では絶対に喜へ生を向かわせる。つまり快適な方向へ生を進ませる。植物は地中では栄養、水のある方向へ根を進ませ、地上では光の方向へ枝葉を伸 ばす。
なぜなら、生に向かって進んでいるから。強引だろうがそうする。
彼らは絶対に喜に進むので、それぞれ何があってもお互いに喜に進む。
誰もが絶対的に喜びに進むので「誰彼のおかげで喜べない!」はない。それぞれが、独自に生に進むのだから、絶対的生が成り立つ。
自然界では外から何か特別な変化を起さない限り、生は絶対的に成立する。外側から喜(快)をくずさない限り、生は成立する。
だれもが生きている。これを「生かされる」と呼ぶ。絶対的に生かされる価値、すなわち秩序ー生の肯定ーこの秩序の中で独自に向かって生きて進むーこれが生 きるー生の基準。
それぞれが、個々で生かされ生きるーこれが調和ー生の表現。

自然界の価値は生かされて生きる。秩序によって生かされる調和。この価値を生きてこそ自然なので、センチメンタルモー ドは有り得ないのが自然界。
センチメンタルモードは不自然。生に対して最も否定的な不喜ということ。
自然界は単純シンプル。
「センチメンタルだから喜べない」、「喜べないからセンチメンタル」でもない。
自然界は「原因と結果」が分離していない。因果がひとつになっているので秩序。
<因 直即(チョクソク) 果>「どうして(因)こう(果)なるのかしら・・・?」などない。・・・」

(以上)

この後も面白いのですが、ほとんど上記ですら、引用になってしまいましたので、ここら辺にしておきます。

外側から喜(快)をくずさない限り、生は成立する」の”喜(快)”は、本の中のままです。


喜(快)”へ進むのですね。
それは、生の肯定であり、生の基準である、と言っているようです。

快を感じるものへは、全力投球をするべきなようですね。
他の章には、要するに「快を感じることをとことんやりなさい。途中で止めては絶対いけません」というようなことが書いてあります。
そうそうなのだと思います。

その意味では、音楽を途中で止めた私はいけなかったのかもしれません。

但し、過去との辻褄をあわせない、と言う森田健さんの言を借りれば、ある瞬間、「違う」と感じたことは、過去との辻褄 なしに新たな考えに変更すべきなようですし、これは、私も、森田さんの言を見る前から、そうするようにしています。

そうでないと、新しいステップへ進めない、ということが、ある時から分ったからです。
みなさんは、どう思うでしょうか?





「自然界の価値は生かされて生きる。秩序によって生かされる調和。この価値を生きてこそ自然なので、センチメンタルモー ドは有り得ないのが自然界。
センチメンタルモードは不自然。生に対して最も否定的な不喜ということ。
自然界は単純シンプル。
「センチメンタルだから喜べない」、「喜べないからセンチメンタル」でもない。
自然界は「原因と結果」が分離していない。因果がひとつになっているので秩序。
<因 直即(チョクソク) 果>「どうして(因)こう(果)なるのかしら・・・?」などない。・・・」



というように、センチメンタルについても言及しています。
横道にそれますが。”refer” という単語が大学受験の勉強で出てきた時、意味に「言及する」となっていて、「言及」の意味が分かりませんでした(笑)。

日本語の意味を知って、それでも、分らなかった初めての言葉だったように思います。


それで・・・・・・

センチメンタルモードは不自然。生に対して最も否定的な不喜ということ。

ということですので、よっぽどいけないことらしいですね(凄)。

感傷的、ということのはずです。
知性があるから、センチメンタルがある、というようなことが、この本だったか、何か他の人のい本だったかに書いてあったように思います。
昔の恋人を思い出す・・・
これは、楽しかった思い出、という意味では、3次元的にはそれほど悪くないことなのでしょう。
昔の楽しかった思い出を思い出すのがよい、ということを書いている精神医学の本などもあります。

もっとも、落ち込んだ時の一つの対処方法としてですが。

しかし、
昔の恋人をいつまでも忘れられない・・・
これはいけないのでしょうね。

センチメンタル、ノスタルジック、ロマンチック・・・などなどありますが、
北方謙三さんのジープでアメリカ横断をしたノンフィクションに、
「ホテルの部屋で一人になり、窓から夜景を見ていたら、○○が部屋までやってきた。人が折角センチメンタルな気分に浸っているのに・・・」
といいうような文章が出てきます。

このようなケースはセンチメンタルでしょうか?
どうも私は、センチ・・・というよりは、ロマンチックの方が近いように感じますが、ただロマンチックを恋愛ごとへの表現とするのなら、これもまた最適では ありませんね。


いずれにしろ、基本的には、「生きる」ためには必要のない、というより、不必要なことということなのでしょう。
喜と不喜しかない・・・
快と不快しかない・・・

とても正しいように感じます。




音楽を考えてみますが・・・
センチメンタル、というのは、間違いなく一つのジャンルとして存在します。
マイナーコードのスローな曲というのはそうですし、ブルースの内の半分はセンチメンタルを表現しているように感じます。
そして、それらの音楽には、相当数のファンがいます。
私も、センチなマイナーな曲、ブルースなどを好んで聴いていた時期があります。
今も、CDからはサムテイラーの「むせびなくテナー」が鳴っています(笑)。



空想ですが・・・
古いクラシックには(?)、センチメンタルという要素が少ないように感じます。
比較的最近のクラシック・・・つまり19世紀とか20世紀とかですが、ここら辺には私のようなポップスファンが聴いても、センチメンタルに感じるような曲 調のものが存在しているように思います。


これから発想するのは、センチメンタルという要素は、最近になればなるほど強くなっているものかも知れない、というこ となのですが。
それは、おそらく、3次元的には資本主義というものと大きく関係しているのかもしれませんね。

それはどういうことかと言えば、ひょっとしたら、「得られる、得られない」ということと関係しているのかもしれませ ん。

とは言え、モーツアルトの話などを読みますと、嫉妬、エゴ、などは昔から音楽界にもあったようですので、上の空想がど れくらいあたっているのかは分りません(笑)。


波動を考えれば、まずセンチメンタルという感情は良くはないでしょうね。

植物にはセンチメンタルはないようですが、動物はどうでしょうか?
本来はなかったでしょう。
今だってないかもしれませんが。
時々テレビに出てくる動物の霊の言葉を日本語にして語ってくれる人の話などを聞くと、確かに喜んだこと、は語っていますが、「隣のポチの首輪が羨ましくっ てしょうがなかった・・・」というような話は今のところ聞いたことがありません。
しかし、最近は動物でも、胃潰瘍を初め、人間にしかなかったような病気になったりします。
知性もそうでしょうが、それだけではなく、現代の生活、というのが及ぼすなにかがセンチメンタルの原因になっているのだとしたら、ひょっとしたらその内セ ンチメンタルな動物くらいでてくる可能性もあるのかもしれません。

但し、外国人の同じような人が霊視(?)したもので、「勝てなくて半分引退した馬と、老犬が励まして合っている」、と いうことを言っているのは聞くいたことはあります。
これが本当なら、ひょっとしたら最近の動物の動向(?)かもしれませんね。

今はマスコミも発達して、負けがこめば馬も、昔よりはずっと憂き目を見ることになるのでしょう。
それを直接しているのが飼い主などであったとしても。
その意味では、上の仮説は当たっているのかもしれません。

良く分かりませんが。

みなさんはどう思うでしょうか?



さて・・・・・・

注文した翡翠ネックレスと、マイナスイオンの出る石がhttp://www.mukai.gr.jp/  から届きました。
とりあえず、今日1日、ネックレスを付けて、イオンの石は、シャワーと、お湯に入れて湯船に浸かりました。

シャワーに入れるときに、はじ め、根本から外して入れた所、詰まってしまいました(笑)。
で、結局、シャワーのお湯の出る穴の開いているところをネジで外し、そこに、5,6つぶ入れました。

で、どうかと言いますよ、まだ気 のせいかもしれませんが、久しぶりに、お湯に使って、気がほぐれる、という事態が起きているな、という感じはしました。

ネックレスはどうでしょうか?
今日は、半年ぶりくらいに、昼に、ものを口にしましたが、よいことか悪いことか分かりませんが、ネックレスのせいかもしれません。

チタンの玉が、90個くらい付い ています。それで、2,000円以下です。
磁石で留まるネックレスですが、黒い玉もちゃんと磁石にくっつきますので、本当にチタンでしょう。
ちまたで売っているものは、4,5個付いていて2、3,000円またはそれ以上しますね。
翡翠も付いていますが、これは、狙っていたものではありませんので、私にとってはおまけです。

また、追って報告します。




先の続きですが、

ロマンチックは喜、快なのでしょう、きっと。
センチメンタルは不快・・・。

いつかも書きましたが、ロマンチックとセンチメンタルは、真逆のものですが、どこか似ている部分もあるように感じま す。
子供の頃は、違いがわからなかったくらいですので・・・。

想像するに・・・
どちらもロマンスがらみの感情であることが多いように思います。
どちらもどこか、性に関連する要素を含んでいることが多いとは言えないでしょうか?

もちろん、センチなら、がっかりしたさまざまなこと、ロマンスなら、風景などのようなものもありますので、全てではな いでしょうが。


多くの人は、金銭、願望などで、満たされない時に、性によってその満たされない部分を補おうというような気持ちが働くのかもしれません。
そして、往々にして、プラスの性であるロマンスより、マイナスの性であるセンチメンタルな方が扱いやすいので選択してしまう・・・
そういうことなのかもしれません。

しかし、それは、たとえ失恋であっても、きっとどこかに「快」に近い要素があるのかもしれませんね。
同じ不快でも、恋愛の不快は、まだ少しだけ快の方へメーターが触れているのかもしれません。
しかし、それも、自然界ではありえないことのようです。
それはきっと、少しメーターが触れている、というようなことが有り得ないということなのではないでしょうか?
快は快、不快は不快、きっとそういうことなのではないでしょうか。

そこらへんは、もっと正直で良いのでしょうね。


みなさんは、どう思うでしょうか?


ついでに思ったので書きますが・・・

私は、「意地悪」というがすごく嫌いです。
ですので、ある時から、「意地悪」を「意地悪ではない」と思うことにして、それにより、頭に来たり、起こったりしないようにしようと思いました。
そうでないと、四六時中、怒っていなくてはなりませんでしたので(笑)。
しかしどうもそれはいけないようです。

むしろ、「意地悪」を「意地悪」として認識して、その上で、怒らない、怒らない、ということでなくてはいけないようで すね・・・
良くは分からないのですが。

もっとも、性格のところまで行きますと、直す必要もないし、直りもしないようですが。








政木和三さんの「驚異の超科学が実証された」(1993年:廣済堂ブックス)に、以下のようなことが書かれています。
(引用)
「完全に信じ切って、一万分の一の疑いをも捨て、”息子はよい子になった”と信じなさい。治そうという気持ちが、わずかでもあったら無効ですよ。完全に目前の欲望を捨て 去り、息子は普通の子供になりました。ありがとうございました、と思いなさい」

(以上引用)

これは、実は母親に問題があり、ぐれてしまった息子さんに関しての話です。
なんでも、母親が政木さんの本に興味を持っていたのですが、息子が暴れ出し、祖母が代わりに政木さんへ電話をしてきた時に、政木さんが言った言葉です。

それは、それで良いのですが・・・

上記の政木さんの言葉で、ひとつまた疑問が解けたのは、「欲を捨てて・・・」の欲とは、この場合なら「治そうという気持ち・・・」であり、つまり、自分で 〜しよう、という気持ちということのようです。

これは、森田健さんの、「なることではなく、あること・・・」に近いように感じます。

「金持ちになる」のなら、「金持ちになりたい」という欲ではなく、「金持ちに自分の力でなんとかなってやろう」という「ポジティブな行動欲」のことを言っ ているように聞えます。


ただ、もう少し正確に言えば・・・
これも森田さんですが、「息子は完全です。どこも悪くありません」ということなのでしょう。


私は、決まっている運命と、その決まっている所をつなぐ、決まっていない部分の組み合わせが人生なのではないかと思っています。
そして、その決まっていない部分は、波動をはじめいろいろなころで、場合によっては簡単に変えられる、作れるものではないかと感じています。

今日、つまらないことですが、面白いことがありました。
バートバカラックという人の2枚組みのベスト盤のCDがあるのですが・・・
インターネット・オークションでずっと前から2,600円くらいで出ていました。
ぜんぜん売れる気配はありません。
「そろそろ、値下げ交渉のメールでもしてみようかな・・・・」
と思っていたところ、その日に、1,500円で別の人が出品しました。
「ほぉ〜」
と思いました。
もしこのまま、1,500円なら買おうかな、と思いました。
これが昨日のことです。

そして今日、冬ものの服を買いに出かけて、ブックオフに立ち寄ると、なんとそのCDが1,000円で売っていました(驚)。
当然、買いましたが・・・これは、何かで引き寄せているように思えてなりません。

孫さん瞑想のせいか、財運ストッパーか、太極八卦鏡のせいか、はたまた、問いのせいか、波動のせいか・・・
もういろいろあった、何が本当の理由なのか、それとも、初めからきまっていたのか、良く分かりませんが(笑)。
唯一つ、快でないものは、やめよう。快に素直に従おう、と思ってから、ますますこういうことは多くなってきているように感じます。

みなさんは、どう思うでしょうか?




 

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