理由もなくこればかり聴いてしまうCDのコーナー

CDはたくさんあるのですが、なぜか、いつもこればかり聴いてしまうCDを紹介します。

 


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自由意志と選択 (4)


http://www21.0038.net/~gaia-as1/era.cmt6.html
   自由意 志と選択
 
あなたの 地球での旅は、あなたの精神的遺産の一部でもあります。
というのは、人の死は意識を破壊してしまうわけではなく、時間の無数のサイクルの中で、あなたは引き続き学び、成長し、《いのち》の体験をするからです。

生きることの一部には、どう死ぬかということを含みます。

つまり、意図的に未知の恐怖をかいくぐり、意志と意図を使って、
あなたの意識を別の現実へ運び、あなたの肉体を丁重に後に残す――ということを、
あなたは 学ぶことができるのです。

死は、生の一部です。
それは決してランダムな行為ではなく、むしろタイムリーな合意です。

あなたは、あなたが思っている以上に、自分の生と死に対して、力を持っているのです。
あなたは、あなたの現実を、目的と意図で満ちている多次元の視点から、解釈することを学ぶべきです。
そうでなければ、あなたを無力にするシナリオに引きずり込まれることになるでしょう。

例えば、戦争、飢餓、病気、またはその他の、あなたが自分自身に限界を設けるために選ぶ魔法的な手段です。

誰もが直面する選択は、とどのつまりは、恐れの波動か、愛の波動かの選択です。
愛は燃料で、世界へのあなたの最高の贈り物は、あなたのバージョンの愛の波動です。

こ こでいう「精神的遺 産」とは、過去生や今生で私たちの《魂》または《意識》が獲得した、知識や知恵の総体を指します。
それは、永劫の未来にわたって、さらに積み上げられていく性質のものです。


このような「いのち」 の壮大なサイクル一環として、私たちは、「意図的に」、 「肉体を丁重に後に残す」ことを学ぶことができる。

つまり、その気になれば簡単に、いわば《あの世へ行く》ことができる――この世界にある自殺などの手段ではなく、といいます。

あなたは、あなたが 思っている以上に、自分の生と死に対して、力を持っている」わけです。

それを難しく感じるのは、私たちが現実を、もっぱら物質次元の意識で、つまり肉体意識でとらえるか らで、「目的と意図で満ちている多次元の視点から」と らえるようにすれば、あらゆることが簡単になってくるでしょう。

その前提として、「自 分自身に限界を設けるために選ぶ魔法的な手段」を次々に《創案》する習慣から決別する必要があります。
「そんなことやってないよ」と言いたいかもしれませんが、実際には多くの人がそれをやっている結果 として、例えば、国民医療費の膨大な積み上がりがあります。
つまり私たちは、今のところ、《ネガティブ創造のマジシャン》で、この世界のネガティブな現実のほ とんどが、こうした《マジシャン》の共同創造によるものといっても過言ではないでしょう。
したがって私たちは、「恐 れの波動」を選ばないように注意しながら、徹底して「愛 の波動」を選ぶようにするのが賢明です。



(以 上・引用)








《ネガティブ創造のマ ジシャン》と書いています。
運命を変えるのが意識である、という観点からは良く分かります。
今日テレビで伝染病の話しをしていました。
「日本人は私明けは大丈夫、と思っている・・・」
という話を専門家がしていました。

これは無用心であり、注意深くないわけですが、この観点からすれば、まんざら悪いことでもないかもしれません。

あるいは、ほとんどが運命で決まっているとするのなら、やはりこう思っていても良いのかもしれません。



全てを3次元的・物理的手法で解決しようと思ったら、「私も感染するかもしれない。最大限の注意をすべきだ」
と思うのが良いでしょう。

ただ、私は全てが決まっているとしても、最大限でなくとも、普通の注意はしていた方が良いと思います。
それは普通ですので、別に何かを恐れているわけでもありませんし、ハンドルをきつく握っているわけでもないように感じます。

これは、意図してできる、という点からも、正しいように感じます。
波動とあわせて考えるなら、普通以上のことをすれば、それは恐れにつながり、悪い波動を引き寄せることになると感じます。

PCのバックでアップで考えるなら、最大限に注意をするなら、際限はありません。
本当に必要なデータのバックアップは、本体のハードディスクの他に2つあれば、普通の範囲での必要十分でしょう。

みなさんはどう思うでしょうか?








誰もが直面する選択は、とどのつまりは、恐れの波動か、愛の波動かの選択です。
ですが・・・


これは少し面白い解釈だと思います。
「愛」か「憎しみ」か?
「恐れ」か「安心」か?

というのは、良く見かけますし、普通だろうな、と感じます。

それを「愛」か「恐れ」か、としてます。


解釈すれば、「安心」も「愛」であり、「憎しみ」も「恐れ」であるとなるのかもしれません。

プラス

マイナス


恐れ
好いている  
安心  
安らいでいる  
緊張している(研ぎ澄まされている)
活き活きしている

憎しみ  
不安  
ストレスを感じている  
緊張している(力が入りすぎている)
落ち込んでいる


思いつくままに、仮のプラスとマイナスを考えてみました。

「愛」を与えられる状態、という発想をすると、この対象は実にうまくなっていると感じます。
とすると、「愛を与えられない状態」というのは、「恐れている」状態でしょうか?

そうかもしれません。
それでは、「恐れている」とはどういうことかと考えますと、「信用していない」、「信頼していない」ということではないでしょうか?

相手がどんなに強い相手でも、「信頼、信用」していれば、「恐れ」はないですね。

人は良く、相手が弱っていると比較的簡単に優しくしたりできます。
それは、ひょっとしたら、「怖くない」からなのかもしれません。
もっとも、「弱い相手」に、さらにつけこむなど、もっての他ですが。

「怖い相手」にもし優しくできたなら、それは、かなり本当に優しいのかもしれません。
ただ、怖さにひれ伏していると勘違いされると困りますが。

ここまで極端でなくとも、「弱っていない相手」に優しく出来る、ということも本当に優しいということに近いかもしれません。
もっとも、何をして、「優しい」なのかが、議論の的になる可能性もありますが。



それでは、恐れは何から来るのでしょうか?
肉体的・精神的苦しみ、あるいは何かを守ること、からでしょうか。

これらへのストレスを与えない状況は「怖ない」ですね。
「信頼できる人」となると、これに「嘘を付かない」が入るのでしょうか。

こう考えると、これらは「愛のない」状況、人とも言えるかもしれませんね。

そうすると、「愛」と「恐れ」の対称は、分るような気がします。






しかし、別な考え方もあると思います。

もし、無関心ならば、恐れはないと思います。
つまり関係ない、とかそういうことですが。
ヒトラーが総理大臣だったら怖いです。
歴史の中の人としてみても怖いですが、彼はもういません。
日本の総理大臣でもありません。
ですので、ほとんどの日本人は今、ヒトラーに恐れを感じていません。

歴史の中・・・で恐れを抱くとは、おそらく、彼のような人がまた現れたら、というようなことなのだと感じます。

そう考えると「恐れ」とは、「感心のあること」であり、それは、「愛」と密接なのだろうと感じます。
「愛されたい」ので、「恐れ」がある、とも言えるでしょうか。

それでは、「恐れ」をなくするためには、「無関心になれば良い」のかもしれません。
しかし、そうではないようです。
私はこれをやっていた時がありました。
今はやってはいませんが。

どうも、「愛」とは、要求してはいけないものなのかもしれません。
態度としては、与えるだけのもの、ということです。
そうすると少なくとも「恐れ」はなくなあるかもしれません。
しかしながら、くれるなら、拒否するものでもないようですが。


それでも、「与えるだけ」でも、少し違うような気がします。
「愛」とは、「同期」するものかもしれませんが、「同期」できないものもあります。
もし「愛」が、全ての人に等しく与えられるものということなら、違いますね。







あるいは、実は対象物はまったく関係ないのかもしれません。
対称物に関係なく、自分の中に「安心」のある状態、これが「愛」という状態であり、「安心」がない状態をただ、「恐れ」と呼ぶのかもしれません。

理由は分かりませんが、近いような気がします。

「安心」は何から得られるのでしょうか?




もし、運命が決まったものであるのなら、それは「創造主」を信用して、ハンドルを手放す、ということでしょうか?
運命を自分の意志、意図で変えられるなら、それはもた、「創造主」を信じるということでしょうか?


ただ、後者の場合、「あなたはの願望は絶対に創造主の意志に反していないものですか?」という問いが付いてくるように感じます。
船井幸雄さんは、想念が現実にないりやすいので、「もし私の重いが想像主の意志に反していないのな叶えてください」というようにしている、と言っていまし た。

確かに、
運命を自分の意志、意図で変えられる、作れるなら、これは必要なことだと感じます。
これなくして、意図説を語ることは許されないのではないでしょうか?


みなさんはどう思うでしょうか?



誰もが直面する選択は、とどのつまりは、恐れの波動か、愛の波動かの選択です。
は、人がすでに完全愛を知っている、追行できる状態にある、という前提でなくてはならないものだと思います。

しかし、潜在意識レベルならともなく顕在意識のレベルでそれができる人は、ほとんどいないと思います。

教師が暴力を振るう時はいつでも、「愛の鞭」と言います。
戦争をする時は、いつでも「正義のため」と言います。
企業が嘘を付く時の根本の理由は、「家族を養うため」です。


善意に解釈すれば、「愛」の方向にとりあえず向かっていれば、少しくらいゆがんでいても、そいれは必ず、「愛」の場所に行き着く、ということなのかもしれ ません。


今のところ、私に言えるのは、「意図するなら、それが想像主の意志に反していないかどうか?反していないなら叶うように、と必ず加えるべき」ということく らいでしょうか?

なかなか、まどろっこしいですね(笑)。


みなさんんは、どう思うでしょうか?



もちろん、それでも、「どこかに、自分で運命を変える、作る方法がある」と思っていますが。


    



さて・・・・・・
また岡田多母さんから返事をいただきました。


多母の広場です。

私:
69 のものです。
自分の気持ちが分ったように思います。
ご回答ありがとうございました。
しっかりと受け止めました。


岡田多母さんのコメント:
よかったです。とても嬉しいです!
あなたが、あなたのOnly oneの生を深く、広く愛して楽しんでくださることをお祈りいたします。全ての存在があなたを祝福してるのですから・・・。
「大切なあなた」をあなたが大切に生きて下さい。


ということです。
またお礼を書き込むと、永遠に終わらなくなりますので、ここにお礼申し上げます。
ありがとうございました。

あなたが、あなたのOnly oneの生を深く、広く愛して楽しんでくださることをお祈りいたします。全ての存在があなたを祝福してるのですから・・・。
「大切なあなた」をあなたが大切に生きて下さい。

は、私だけでなく、全ての人がそうであると思います。

少し良い子過ぎるでしょうか(凄照)?


 











さて、今日テレビを見ていましたら、「嫉妬は愛の裏返しだ」と言っている人がいました。

別に特別な言葉ではなく、良く聞く言葉でもあります。

裏返しとは、相反するものでしょうか?
そうではないと感じます。
対称となる壁のこっちと向こう側があるなら、同じ側であり、そこでの直線状の上と下ではないでしょうか?


こんな感じです。

こっち  向こう
ーーーーーーーーーー
ーーー嫉妬ーーーーー愛

つまり、「それ」が進歩すると「あるもの」になるの、「それ」が嫉妬で、「あるもの」が愛だという理屈のように思えます。

しかし、嫉妬と愛はそういう関係でしょうか?
私は違うように感じます。

やはり、嫉妬がこっちなら、愛は向こう側のような気がします。
こっち  向こう
嫉妬ーーーーーーーーーー
ーーーーーーーー愛



ですので、嫉妬は愛の裏返しではないと思います。
進化論に似ているかもしれませんね。
嫉妬はいくら待っても、愛には進化しないのかもしれません。

みなさんはどう思うでしょうか?




しかし、それでも、この理屈は多くの人が正しいと思っているように思います。
ここになにかあるでしょうか?

「嫉妬が愛の裏返しである」、という概念の出所はおそらく、恋愛関係での嫉妬は、愛していない人には向けられることはない、からだと思います。

しかし、逆に「愛」があるところには、必ず「嫉妬」があるでしょうか?
そうとは言えないと思います。

「動物を愛する人」は、「動物に嫉妬を抱くか?」と言えばそうではないように感じます。
もちろん、そういう人もいるかもしれませんが。

そうすると、嫉妬の出所というのは、どうも、「愛」ではないように思います。

どこかと言われると俄かに分かりませんが、少なくとも、「愛」とは関係のないところなのでしょう。
嫉妬のDNAがONになっている・・・・・・そうとしか思えません。


それでも考えてみれば、嫉妬は競争のあるところに生まれます。
しかし、嫉妬なしに、競い合ったり、あるいは、嫉妬なしに相手を賞賛するということはありますし、人はできます。
ですので、嫉妬を生むものは競争だ、という単純なことではないでしょう。

思うに、嫉妬とは、自分への社会的な評価度に応じて、自分への愛の度数を増やしたり減らしたりする、という状態のある人に生まれるのではないでしょうか?
過去の自分を振り返って見るとそんな感じもします。

みなさんはどう思う出しょうか?



社会の自分への評価がどうであれ、自分は自分を愛している、あるいは、社会のだれかへの評価がどうであれ、自分はだれかその人を愛している、ということが できる人には、嫉妬はないか、少ないのかもしれません。


良い大学へ入ったから、良い会社に入ったから、良い結果が出せたから・・・だから自分をこれだけ愛する、
大学に落ちたから、就職に失敗したから、良い結果が出なかったから、・・・自分を愛せない、


彼氏が高学歴だから好き、彼女がもモデルだから好き、息子が一流大学に入ったから好き・・・をやったり、やられると、知らぬうちに、自分自身も、社会から の評価の度合いによって、それを愛する度合いを変える、ということをやってしまう癖がついてしまうかもしれませんね。

もちろん、この状態になることが、運命だったかもしれませんし、この状態から抜け出せることも、決まっている運命なのかもしれませんが。

しかし、もし、この仮説が正しいのなら、今これを読んだ人で、嫉妬体質がある人は、ひょっとしたら、これで、嫉妬体質から抜け出せるのかのしれません。
もちろん、それもまた、決まった運命なのかもしれません。
しかし、問えば、どこに答えが転がっているかもしれないのの、また事実化もしれません。
これをして、森田健さんは、問うことによって運命は変更できるかもしれない、と言っているのかもしれません。

もちろん、この仮説が間違っていたら、何も起きないかしれませんが(笑)。




結局、私の仮説としては、社会的な評価に関係なく、愛すべきものを愛すことから始めていけば、嫉妬体質が減り、それはひょっとしたら、何でも愛せる状態へ も繫がっていくのかもしれない、ということになるでしょう。


テレビなどでは、嫉妬丸出しの人の意見が、実は面白かったりしますので、良く放映されていますね。
きっと、あれなどは、本当はあまり見ないほうが良いものなのかもしれません。

見すぎますと、今日テレビで発言していた弁護士のように、「嫉妬は人間にはあって当たり前」のような概念を持ってしまうのかもしれません。
もっとも、弁護士という職業をやっていれば、そのほとんどの案件には、嫉妬という要素が含まれているのでしょうから、仕方のないところもあるでしょう。



同じようなことで、勝っても褒めてあげる、負けても褒めてあげる、という姿勢はどこか良いように感じます。
石川亜佐美さんは、親に「勝っても負けても良い」というように育てられたようです。
これは、先を予想することなく、がんばれますし、勝ち負けによって自分の価値を上げたり下げたりしないようになるので、とてもよいように感じます。

もちろん、負けることによる消失感からも、いろいろ学べますが、これと、負けることはいけないんだ、という教育とは異なると感じます。




今日、美空ひばりさんの特集がテレビで放送されていまいた。

先だって三輪明宏さんの歌声をテレビで聞いた時も、すごかったですが、美空さんも、やはりすごかったです。
もちろん、彼女の歌声を聴いたのは今回が初めてということではありませんが。


岡林信康さんが、出てきました。
フォークの神様ですね。
吉田拓郎以前は、岡林がフォークの神様です。
最近何度か加川良さんも深夜テレビで見かけましたが、あいかわらずすごい歌唱をしていました。
山本コータローさんの本によれば、まだ岡林さんが神様と呼ばれていた頃、拓郎と加川良の両氏を見て、「どっちらすごいのだろう?」と思った、ということで すので、どちらもすごかったのでしょう。

それは、良いとして・・・

岡林さんですが、フォークの神様と呼ばれることを嫌い、表舞台から退いたようです。
自給自足の生活を続けていったそうです。

とにかく演歌が嫌いだったと言っていました。
「女ががまんして、男に尽くしていく・・・そんなことがあって良いものか?」と演歌を聴いて思っていたそうです。

ある時、美空ひばりさんのレコードを聴いてみたら、「何か懐かしい・・・あれも知っている、これも知っている・・・」ということで、演歌も良いものだ、と 感じたそうです。

そして、自給自足ーーーつまり農業のようなことをして、自分で食べるものは自分で作る、ということですがーーーをする中で、春夏秋冬に触れ、寒い冬などに 作業をすることから、演歌で歌われる「あきらめ」の概念が分って来た、と言っていました。


その後、自分でも演歌が作れると思い、面白半分で吹き込んだ自作自演の曲が、知らぬ間に美空ひばりさんに渡り、その歌を美空さんが録音したい、と言い出 し、レコーディングになったそうです。



ここで、「あきらめ」と言う言葉が、岡林さんから出てきたことが、耳に残りました。

岡林さんは、実家が確かカソリックの教会か何かだったように覚えています。
小さい頃から毎週日曜日には協会へ通う、という生活だったそうです。
ある時、それを止めた時には、罰が当たり、何かあるのではないか?と思っていたようです。
要するに、途中までは、根っからのキリスト教徒だった、ということです。


詳しくは語られませんでしたが、春夏秋冬という決まった運命の中で、冬の農作業に「あきらめ」の概念を感じ取った、ということが、どこかすごいと感じると 同時に、昔の日本人には、この「あきらめ」がちゃんとあったのだろうな、という推測も出てきました。

果たして、私が農作業をやって「あきらめ」の気持ちが沸いてくるかどうかは分かりません。
少なくとも、20代の時であれば、逃げ出しこそすれ、「あきらめ」の概念は沸いてこなかったかもしれません。
逃げ出すとはつまり、「あきらめないこと」でもありますが。


決まった運命の流れの中で、「あきらめ」を感じ、それで捨て鉢になるのではなく、なるように任せたのでしょうか?
そうかもしれません。

「あきらめ」の概念と、向き合えない、つまりあきらめない、ということですが、それは逆に、執念、無念、というような気持ちへ結びつくのかもしれません。

日本にはそういう所もあります。


その意味では、春夏秋冬がはっきりした国で、しかも農業国であったことが、エハンさんの言うところの、抜群に精神レベルの高い国民性を作ったということは あるのかもしれません。

「あきらめ」か、「がまん」ではなく、違った概念を生み出す・・・
森田健さんの「ハンドルを手放す」ということかもしれません。
政木和三さんの、「欲望を捨てる」ということかもしれませんし、「遠くを見ず、足元1メートル四方のみを見る」、「無限小の力で無限大の時間をかける」と いうことかもしれません。

成功物語に関係付けるつもりはないですが、その心境で、たどり着いたのが、美空ひばりさんであった、というのは、興味深いことですね。
岡林さんは、美空さんのコンサートにも、ゲスト出演していたようです。





もう一つ、美空さんが、最後のシングルレコード発売の際、レコード会社の決めたシングルではなく、是非「川の流れのように」をシングルにして欲しい、とお 願いをした話も興味深かったです。

どこが興味深かったかと言うと、美空さんは、担当の人に、なぜ、この曲が良いのかをとうとうと説明したそうです。
その説明は、
「雨が降ると、木に降り注ぎ、葉を伝わって、それが根本に染みとおっていく、そしてそれが、小さな流れを作り、やがて大河になっていく・・・」
というものだったようです。
テレにでは、「小さい頃から積み上げてきた歌手としての人生と重ね合わせて・・・」と言っていましたが、もちろんそれもあるのかもしれませんが、私は違う ことを感じました。

何かありさまが、「輪廻転生のようだなぁ、美空さんも分っていたのかなぁ・・・」と思いました。

地上に根霊から分かれて、あるいは想像主から分かれて(別れてではない)、降り注ぎ、また大きな流れの元に帰っていく・・・そして、また雨になって降り注 ぐ・・・という流れが、どこかとても輪廻転生のように感じられました。


美空さんが顕在意識で分ってか、分らないでかに関わらず、この曲をシングルに選んだ理由がそういうところにあったなら、何かとても同期したようでうれしく 思います。
実際は本人に聞いて見ないと分かりませんが。



みなさんは、どう思うでしょうか?





子 供た ちのために(1)


   子供た ちのために http://www21.0038.net/~gaia-as1/era.cmt6.html

 
あなた は、子供たちをやさしく世話して、守ってあげる必要があります。
子供たちは、あなたが彼らと共有している真実と、あなたがモデルになっている現実を基にして、それぞれの個性に応じて適応するでしょう。彼らは、あなたが やっているモデルに、順応するかもしれないし、反抗することもあるでしょう。

私たちのアドバイスとしては、子供たちに対して常に真実を語ること、起こっていることを簡単な言葉で説明すること、そして、それをどう解釈するかは彼ら自 身の選択に任せることです。

あなたがここに居るのは彼らのためだといことを、自信を持って教え込みましょう。
子供たちに、真実、愛、責任、そしてルールを与えてあげましょう。

彼らには、ものの区分けとガイドラインが必要なのです。
時には、多少のテレパシーを使えば、あなたの意図を理解させるのに、驚異的な結果をもたらすことがあるでしょう。

そして、あなたが彼らを信頼しており、彼らもあなたを信頼することができることを、知ってもらうようにしましょう。
すべての親たちは、未来の世界の市民をつくっています――あなたは、子供たちのために、どんな世界を準備してあげていますか?

ここでは、私たちが迷 いながら手探りでやっていることが多い、子供たちとの望ましい関係について、 的確にまとめてあります。
ほとんど自明のことのようですが、これを文字通りに実行できれば、すばらしい結果が期待できるで しょう。
なお、子供たちに「多 少のテレパシーを使」うやり方としては、あなたの思いを、あなたのハイアーセルフから、相手のハイアーセルフに伝えるという感じで やります。
1
回で伝わらなくても、さまざまタイミングで、辛抱強くやってみることです。

 
(以上:引用)


子育ての話、と言いましょうか、高次元的に見た子育て、という感じでしょうか。

子育てにテレパシーの話が出てくるのが、私は好きです。
私は子供とか動物とかは、テレパシーが通じやすいんじゃないか、と思い、しばしばすれ違ったりすると、テレパシーを送ってみたりしています(笑)。
もちろん、できているのかどうか知りませんが。


私の思い込みでは、3歳くらいまでの子供は、振り返ったり、泣き止んだりすることが多いですね。
偶然かもしれませんが。
犬は振り返りますね。たまたまかもしれませんが。

隣の犬が寝ているので、「ワンチャン・ワンチャン・・・」とやったら、飛び起きたのにはびっししました(驚)。
通じたのでしょうか?

カラスが電線に止まっていたので、試しに、「あっちへ行け」とやったら、下を通ったらフンをされました
(笑)。
私の、すぐ横に落ちました。
その日は太極八卦鏡を持ち歩いていたのですが、そのせいで、避けられたのでしょうか(謎)?

どうも、嫌って「あっちへ行け」では、だめなようですね。
「いい子だから、向こうへ飛んでいってくれよ」くらいが良いのかもしれません。
通じているのかどうかは知りませんが。

みなさんは、試してみたことがあるでしょうか?





子供たちに「多 少のテレパシーを使」うやり方としては、あなたの思いを、あなたのハイアーセルフから、相手のハイアーセルフに伝えるという感じで やります。
とあります。

江原啓之さんの本には、「好きな異性と付き合いたいなら、相手の守護霊に、聞いて見ると良い」、というようなことが書いてありました。
どうも、私は守護霊というよりは、こちらのハイヤーセルフの方が、理解しやすいように感じます。

子供も大人も原理はきっとにたようなものなのではないかと想像します。

良く確認していませんが、守護霊もハイヤーセルフも含めて、自分と同じ根霊なのかもしれませんが、ハイヤーセルフ(本質)の方が、ネットワークが広がりそ うな気がします。


今更ですが、テレパシーは、3次元を通って・・・つまり電波のように、この世を通ってこの世の人に伝わるのではなく、このように高次元を通して、高次元に 伝わる、という形式が正しいようですね。

いろいろ読むと、他の超能力でも、そういうものが多くあるようですが。








さて・・・
岡田多母さんの先だって私が質問をしたサイトに、とてもむつか しい質問がされています。
見てもらえれば分りますが、私の知っている知識でその質問を置き換えると、
「この世で起きることは波動の法則によっていると船井さん、岡田さんは書いているようですが、小さな子供が事件にあったりするのも、その子の悪い波動のせ いというのは、納得がいきません。どうなんでしょうか?」

というようなことです。

一般的なカルマの解釈が、どうかな?と思う点などありますが、細かいことは、ここでは考えないことにします。


何も、このようなことでなくとも、「私は、こんな目にあうほど、ひどい波動を本当に出したのだろうか?」
と思うことはあるのではないかと思います。

これを読まれて、みなさんは、何を感じるでしょう か?






私は、基本的には運命は、絶対に何らかの方法で変えられる、と思っています。
それと同時に、決まった運命もまたある、と思っています。
そして、波動によって左右される3次元もまたあると思っています。
前世のカルマは今のところ良く分かりません。
いくらかはあるかもしれません。
しかし、なんとなく今一般的に言われているようなカルマが事実なのか、分かりません。





運命は、決まっている事項は決まっているのだと感じますが、それはどうも3次元だけの話ではないように感じます。
少なくとも5次元までが、決まった何らかの運命を共有しているようにも感じます。

とてもドライに聞えるかもしれませんが、確かに人は肉体と魂の生き物で、その本質(ハイヤーセルフのことではない)は魂のようですので、3次元の死は、消 えてしまうことではなく、また3次元の自分(私)を含めた人が、悲しむかどうかは別として、高次元的には「悲しいこと」ではないようです。

そして、4次元なり5次元でも・・・3次元とはありさまは異なるようですし、意志もあるようですが・・・それでも、どこかで決まった運命がありながら、 ひょっとしたら、そこでも、なんらかによってその運命を変更できる方法があり、変更している魂もあれば、そうでない魂もあるように感じます。







人でなしと言われるかもしれませんが・・・
これと同じような質問を私がされたなら・・・、一度森田健さんの「生まれ変わりの村」の取材を読まれてることを薦めます。

死は間違いなく3次元では悲しいことではあるが、その魂は、場合によっては、すぐにでもまた別の人間として、生まれ変わってきている・・・
あるいは、あなたとあなたの家族も、以前は別の生を生き、そして、死んだ時には、悲しんだ人もいた、しかし、今はそれがまた、それぞれ生まれ変わり、今は 一緒の家族や仲間になっている・・・
そういう事実を読むことにより、3次元の出来事への「感情的なわだかまり」が、いくらか軽減され、冷静に高次元の事実を見ることができるようになるように 感じます。


もし、森田健さんの取材が突拍子もないことに感じるのなら、もっと分りやすい飯田史彦さんの話などでも、良いのかもしれません。
(まさか、ここを読んでいるとは、思えませんが)
詳細はまったく異なりますが、少なくとも、人は、何度も生まれ変わりをしており、自分ですら、今生とはまったく別の前世を行く通りも、歩んできている、と いうことに関しては、同じです。


そして、一般的には飯田さんなどの書かれていることのほうが、輪廻転生がある、という事実を受け入れやすく書かれているように感じます。


だから、3次元でのそういった出来事が、ひどいことではないのかと言えば、そうではありませんが、見え方が変わってくるのもまた事実です。
また、輪廻転生を知ったことにより、命の重みが少なくなるような人は、飯田さんの本とて、最後まで読めるはずはない、と感じます。

みなさんはどう思うでしょうか?




その質問の最後に、「・・・母親はどう思えばいいのだろうか?船井さん多母さんの言葉を素直に受け入れて、感謝できるはずはない・・・」と書かれています が・・・
これに対して、名前を出された当人である岡田多母さんが、何かを言うのは、酷なように感じます。

私はまったくの第三者ですので、上に書いたようなことを言えるのだと思います。

まさか、岡田多母さん当人が、「まず飯田さんの本を読みなさい」というスタンスで応じられるはずはありません。
かと言って、岡田多母さんが言っていること全てを、この短いコメントで説明するというのも、現実的ではないように思います。
とは言え、岡田多母さんが、「これとこえとこれと・・・・を読んでから、、もう一度質に来なさい」と言うとは思えません。

副島隆彦さんは、「副島隆彦の本を5冊以上読んでいる人でないと、書いてはいけない」という掲示板を作ったりしていますが。

みなさんはどう思うでしょうか?




この質問の下にあるような、私をして”まるで森田健さんが書いたような質問”に対してであれば、岡田多母さんも、何か言うことはできると思います。
実際回答いていますし。
基本になっている事柄がはっきりしているように感じます。
たとえそれが、岡田多母さんの言っていることへの、反論であったとしても。



また、彼の質問には、被害者への「感情」が入っていません。
上の方の質問は、高次元への疑問でありながら、その文章を構成しているのは、「感情」であるように感じます。
きっと優しい方なのだろうと思いますが、「感情」へは、慰め、しかありえないかもしれません。
そうであるなら、コメントは説明、議論にはなりえないように感じます。




これは、高次元の話をする場合だけでなく、普通の3次元のことでもそうだろうと感じます。

自衛隊が軍隊になるようですが、
人道面(?)からこれに反対をしようとした時、
「先の戦争に行って死んだ人がかわいそうで、私は、その人達のためにも、軍隊を許可しません」
と、言われたら、もうそれは、なぐさめるしかありませんが、

「戦争に行けば、結局、勝っても負けても、多くの人がなくなります。現にバカにされようが、なめられようが、戦後60年、日本人が戦争で1人も死んでいな いのは、軍隊がなかったから、戦争を放棄していたからではないのですか?」

と、言われれば、まだ議論の余地はあるように感じます。



専門家はいろいろこねくり回した理由を言うでしょうが、仮に、本当の理由が「アメリカの言うと通りにしないと、経済面でも打撃を受けるし、米中戦争の際に は、中国と一緒に、日本も焼き野原にされてしまうんだ」であったとしても、先の感情による意見にはこれは絶対に言えませんが、後者になら”言う”ことがで きると思います。


みなさんは、どう思うでしょうか?




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