みなさんはどう思うでしょうか?

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クリスマスアルバムのコーナー    2005年船 井幸雄オープンワールドの感想
                       

 

 





258:MOZART PIANO SONATAS: WALTER KLIEN
   
  モーツアルトのピアノソナタ集です。

他のCDでモーツアルトのピアノソナタが良かったので購入しましたが、今のところ、それほど聴いていません。

これから聴くことになるかもしれません。
「きらきら星変奏曲」が入っているかと思ったのですが、入っていませんでした(笑)。

やはり演奏者によるものなのか、録音によるものなのか、今のところ、あまり聴かない理由は分かりません。

そのうち、聴くようになるのではないかと思います。

 
さて・・・・・・
大滝詠一さんが、http://www.fussa45.net/zubizuba/zubizuba_20060113.html  で、面白いことを書いています。
要するに、大滝詠一さんが、高校生の時に、当時60歳近かったエノケンさん、ルイ・アームストロングなどが、ずっと昔のもののように感じられたので、現在 60歳近い自分のことも、今の高校生たちは、似たように感じているのだろう、ということですね。

少ししょげているようにうも読めます。
で すから今の若い人が、ワレワレに感じる思いもそのようなものだろうと、思っておくのに越したことはないと、思ったりもしたのでした。
(引用)
のような書き方をしていますので。


しかし・・・残念ながら、そうでもありません。
1935 年から1965年の30年間は、戦争があり、占領があり、単なる数値で計れない社会・世相の変化がありました。1975年から2005年の30年間にはそ のような激変はありませんでしたので同じ感覚では捉えられませんが、・・・
(引用)
なんてことを書いていますが、だからこそ古くないのであり、そうでなくとも、音楽は佐野元春氏ではありませんが、1970年くらいで基本的な進歩が止まっ ています。メロディのパターンという意味でですが。

大滝詠一さんがブレークした1980年代の音楽は、中には古めかしいものもありますが、多くのものは、そんなことはありません。
録音さえしっかりしていれば、今でも十分通用します。
意味としては、商品としても、また作品としても、ということですが。

例えば・・・
1980年代でも、オールディズといえば、プレスリー、ニール・セダカ、ポール・アンカ、コニー・フランシスでしたが、それは今でも変わりません(笑)。
むつかしいリズムといえば、当時でも16ビートでしたが、今でもそうでしょう。
32ビートという言葉はほとんど聞きません(笑)。

ラップは、私の耳には1980年代に佐野元春氏のやった「ビジターズ」が今でも日本人で最高のものであり、山下達郎氏、吉田美奈子氏を超えるファンキーな ものは、たまに出てくる例外的な秀曲を除いてありません。

そして、日本産ポップスは、現在でも大滝詠一氏をだれも超えられていません。
それは、おそらく大滝詠一氏自身によってでも、ですが(笑)。

これは、すごいことでもあり、ずるいことでもありますね(笑)。
もちろん、ずるいと言っても、それは当人の意志というより、もともと決まっていた運命によるところのようですので、だれも責められませんが。

あの時点で、上で述べたようなものは、一番上まで乗り上げてしまったようですね。
いかに壮大なアーカシックレコードの中でも、もう品切れのようです(笑)。

ですので、大滝詠一氏のことを現在の高校生はどうか知りませんが20歳前後の人達は、大滝詠一氏が感じたエノケンさん、サッチモのようには感じていないこ とでしょう。

だって、今だに若者はビートルズ、ビートルズと言っています。
もう40年も前の作品に対してです。
大滝詠一さんが高校生の時というのは、私が生まれたころですが、その時から40年前と言えば、1920年代です。

1920年代と言えば・・・
調べていますが、ビルボートの本では、1950年代より前は出ていません。

私が中学生の時に買った、大滝詠一さんも「パート・ ディレクション」を書いている「ROCK &ROCK 歴史にみる名盤カタログ800」にも1950年代以前は出ていません・・・。



で、ネットで調べましたが、

「Rhapsody In Blue」(1924)
作曲=George Gershwin

「Oh,Lady Be Good!」(1924)
作詩=Ira Gershwin/ 作曲=George Gershwin

「The Man I Love」(1924)
作詩=Ira Gershwin/ 作曲=George Gershwin
「Somebody Loves Me」(1924)
作詩=Ballard MacDonald&B.G.De Sylva/ 作曲=George Gershwin

「Manhattan」(1925)
作詩=Lorenz Hart/ 作曲=Richard Rodgers

「Someone To Watch Over Me」(1926)
作詩=Ira Gershwin/ 作曲=George Gershwin
「’S Wonderful」(1927)
作詩=Ira Gershwin/ 作曲=George Gershwin

「Ol’Man River」(1927)
作詩=Oscar Hammerstein 2nd/ 作曲=Jerome Kern

「Softly,As In A Morning Sunrise」(1928)
作詩=Oscar Hammerstein 2nd/ 作曲=Sigmund Romberg
「Lover, Come Back To Me」(1928)
作詩=Oscar Hammerstein 2nd/ 作曲=Sigmund Romberg

「Stardust」(曲1927・詩1929)
作詩=Mitchell Parish/ 作曲=Hoagy Carmichael

「An American In Paris」(1929)
作曲=George Gershwin
(http://www02.so- net.ne.jp/~jamtoast/index.html を参考にしました。)

こんな感じですね。
サッチモ、エリントンあたりの人が活躍していたようです・・・アメリカの話ですが。

確かにジャズの世界では、これらの曲は1960年代でも今でもスタンダードとしては、愛されていますが、若者が騒いでいる、ということはなかったでしょ う。
良く分かりませんが。


日本はと言えば、
1920年:あわて床屋

1921年:船頭小唄、青い眼の人形
1922年:聞け万国の労働者
1923年:どこかで春が
1924年:あの町この町、ストトン節
1925年:出船の港
1926年:酋長の娘
1927年:ちゃっきり節
1928年:君恋し
1929年:東京行進曲



(http://www001.upp.so- net.ne.jp/fukushi/year/song.html を参考にしました。)

のような感じです。
1960年代にどのように受け取られていたかは、まったく分かりません(笑)。


とにかく言えることは、・・・
時間が短くなっていることが関係あるのかないかのか・・・音楽に関して言えば、1960年代以降くらいから、年代が経てば経つほど、実年数ほどの年代差と いうものは、音楽的にも、リスナー的にも感じられず、
それは、音楽以外のこと、もっぱら社会一般のことと比較すれば、実年数より実感年数の方がはるかに短くなっている、ということははっきりしていると感じま す。

ですので、大滝詠一さんがこれからヒット曲を出す、という可能性もありえることでしょう。
どうせなら思いっきり10代になりきった曲を書いてみたらきっと面白いでしょうね。

みなさんは、どう思うでしょうか?







さて・・・・・・
二元性、相対性からの脱却です が・・・
私は、実は以前から、この二元性をいうものを必要以上に意識する傾向があります。
頭にうまく映像がえない、というのも、考えてみるとこの二元性への必要以上の意識、というものがあるからかもしれません。

陰陽は合一すべきなのかもしれませんが、実は、陰も陽も、本当はそれだけで完全なのかもしれませんね。
あるいは、陰も陽も、3次元ではそれ単体では「完全」と思えにくいように出来ているので、合一するとうまくいく、のかもしれません。
その意味でも、本当は単体で完全である、という可能性はあるかとも思えますが、これは本当の単なる想像です。


完全と思えない、とは、正義は悪がないと、正義たらしめない、ということですし、悪は正義がないと悪たらしめないのかもしれません。
よって、それぞれがそれぞれを求めるので、存在する、ということも言えるかもしれませんね。

これは、陰陽バランスを自然に全体が取ろう、という動きをしているからそうなのかもしれません。
それは、バランス感覚でもありますし、ひょっとしたら、単体での陰陽では、完全であることが理解できないが故の行いなのかもしれませんね。


私で言えば・・・私はどうも強引にバランスを取る動きをする時があるようです。
しかも、バランスを重んじるが故に、あえて適任者が存在していないと、損な役割・・・陰なのでしょうか?・・・を取ることすらあったようです。
目的は、ですので、陰陽バランスを取るためですが。

これは、どこか間違っていて、それでいて、正しいような不思議な感じがします。

私は真面目な団体にいると、わざと破天荒な役割を演じているようです。
不真面目な団体にいると、わざと、生真面目を演じているようです。
それでは、私の実態は何かと言えば、どうも自分でも分かりません。
私が原因論で言えば、それで良いのかもしれませんし、そういうこととは違うもののようにも思います。
わざと、演じたのも、運命と言えばそうですが、意識上は、わざと〜する、というようなことはしなくとも良いのだろうと感じています。

みなさんはどう思うでしょうか?



ただ、役割によって人格が変わる、というのはありますね。
親になったり、役職になったり、下になったり、上になったり・・・基本的には二元性、相対性のなせるところではありますが。


やはりそう考えていきますと、二元性、相対性から脱却した方が良いようだ、という前提に立てば、状況が陰陽どちらかに寄っていようが、どうであろうが、自 分をそのまま出すのが良いのでしょう。
無理に役割を演じる必要はない・・・と。

自分が、あるいは相手が、親になったり、役職になったり、下になったり、上になったり・・・して も、ほとんど変わらない人というのは、いますね。
たとえば大竹しのぶさんなどは、相手が、男の友人でも、女の友人でも、旦那でも、社長でも、役人でも、子供でも・・・なんとなく、ほとんど人格を変えない ようなイメージがあります。
浅田美代子さんもそうですね。

男でそういう人はいるでしょうか?
さんまさんは、比較的そうですが、男と女で違うところがありますね(笑)。

どうも、思い浮かび難いですね・・・。
佐野元春さんなんかは、そうなのかもしれません。
良く知りませんが。

もしいるとすれば、そいういう人は、二元性からも相対性からも脱却している可能性はありますね。

それで、各々、どういう人生を歩んでいるかと言えば、良く分かりません(笑)。
好きではありますが、特別なファンということもありません。
佐野元春さんは、大学生の頃、大好きでしたが。
真似して「ツイードのジャケット」を買ったりしました。


みなさんの周りには、二元性、相対性から脱却している(いそうだという)人というのはいるでしょうか?













さて・・・・・・
日付を入れるべきかどうか、時々迷いますが、たまには入れておこうと思います(笑)。
今日は2006年2月12日の朝(?)1時33分です。

今日テレビでまた記憶に関する番組をやっていましたが、「恋」について語っていました。
中に1つ、興味深い内容がありましたが、HLA遺伝子というのが人にはあるようです。
これが異なる同士が結婚すると、免疫力の強い子供が生まれるようです。
ということは、種の保存をしては、この状態を目指して相手を択ぶことになるようです。

どうやってそれを探り当てるかと言えば、どうやらフェロモンの匂いで、それが分るように人はできている、ということでした。


どうも、私の解釈では、上記のようなわけですので、必ずしも、今その状態で健康か健康でないかは、生まれてくる子供には、絶対的な影響力というのはないよ うですね。

とにかく、異なるHLA遺伝子を持っている同士が結婚するのが、健康な子供のためには良いようです。
3次元的にはですが。

また3次元的にはですが、基本的には、そういった違ったHLA遺伝子を知らず知らずのうちに探し求めているようです。
そして、そのフェロモンを出している人にめぐり合うと、恋愛状態に落ちる、というのが、3次元的・種の保存的には自然な成り行きのようです。
もちろん、3次元でも、そうではないことがいろいろあるのが恋愛ですし、更に根本のところでは、決まっている運命もあるのでしょう。

いつか書きましたキューリー夫人などは、確か江原さんだったか、他の人だったの話によれば、分御魂同士の夫婦ということのようですので、こうなりますと、 もう、結婚することは決まっていた、と考えるのが無理のないことのように感じます。

もちろん、この場合などはHLA遺伝子も、ちゃんとうまい具合の組み合わせになっているのだろうな、と想像します。

みなさんは、フェロモンの匂いが分るでしょうか?




さて・・・・・・
最近、性欲がありません(笑)。
ここ2,3週間ですね。
肉食を絶ったこととも関係があるかもしれません。
これは、セックスが嫌いな夫婦には、使える手かもしれません(笑)。
あるいは岡田多母さんの言った1月26日が関係しているのかもしれません。
本当のところは、良く分かりません(笑)。





さて・・・・・・
先の番組でもうひとつ興味深いことをやっていましたが・・・
ドラムのフレーズをすぐに覚えてしまい演奏してしまうアメリカに住む天才子供ドラマーの話です。

要するに、他人が演奏したドラム・パターンをあっという間に暗記してしまい、演奏してしまう、ということです。
何歳くらいでしたでしょうか・・・7,8歳前後なのでしょうか。
父親はプロのドラマーです。

実験では、日系人のドラマーに、20秒ほどの簡単なフレーズ、むつかしいフレーズを叩いてもらい、それとまったく同じに叩けるか、というものと、石原裕次 郎の、「嵐を呼ぶ男」の例の「おいらはドラマー、やくざなドラマー・・・」を聴かせて、それも暗記し演奏できるか、というものでした。
どちらもきちんとできていました。

「嵐を呼ぶ男」は、2回ほど聴いて、完全に暗記してしまったようですが、なんでも、暗記する時は、何か別のことをしながら暗記するようです。

あのドラムはだれでしたでしょうか?
ジョージ川口さんか白木秀雄さんだったように思いますが。


こういう人はいますね。
バディ・リッチがそうでした。
譜面は読めないようですが、バンドに、譜面が読めるドラマーがいて、まずその人が叩く、それを1回彼が聴くと、もう完全に暗記している、ということでし た。
バディはもっぱらビッグバンドで有名ですが、そうなりますと、当然、アドリブ・パート以外は、人が書いたアレンジですね。

ある意味、子供がこれをできるのは、不思議度が少ないのですが、バディができる、というのはすごいですね。
もちろん、子供も、それが叩ける、というテクニックはすごいことです。



何かやりながら暗記する、というのは、左脳を暗記のじゃまをしないように、違うことに従事させておく、ということでしょうか?
良く覚えていませんが、何か本だったか、ゲームだったかをしながらだったように思います。


それを考えると、この子は、完全に右脳と左脳を別々に使用する、ということができる、ということなのでしょうか?



男女の脳の違いについてもやっていましたが、良く言われる、男性は空間的に優れていて、女性は周りのことに良く気がつく、という話はともかくとして、女性 は右脳とい左脳をつなぐ管が太く、男性は細い、という話は、「ああ、そうかな」と思いました。

もっとも、これは個人差ありますね。


ただ、幼稚園の子供たちに描かせた絵は、番組の操作がなければ、実にそれが出ていました。
それとは、空間ということですが。
男の子は、みな自動車、虫などの動くものを実に立体的に書いていました。
女の子は、みな、同じ高さに足のある絵で、もっぱら、平面にいる動物や複数のお友達と一緒の絵でした。



確か、右脳は左半身、左脳は右半身を司っているということです。
私は基本的に目でもなんでも、左が弱いです。
目以外は右利きですので、当たり前と言えばそうなのですが、今度暗記するときは意識して、左側を動かしながらしてみようかな?と思っています。
どうなるでしょうか?

ただ、基本的には「勉強だ」と思わないと相当暗記できているようですので、違うところに何かがあるように思いますね。

みなさんはどう思うでしょうか?





江原啓さんの番組を見ていると、守護霊が前世という例が出てきます。
根霊を考えれば、それは何となく分ります。

でも、何かこそばゆいですね(笑)。
嫌ではないですが。

みなさんは、どう思うでしょうか?






狂牛病の牛が出荷されていた、というアメリカ農務省の報告があったようです。
どうも、アメリカ人の中にも、「日本のやっていることの方が正しいのではないか?」と思っている人も多いのかもしれないですね。
そうでないと、なかなか、あの報告は出てこないように感じますが・・・。

また、カルフォルニアでアルカイダによるテロ計画があったが、事前に防ぐことができた、というアメリカの報道は、日本では、ほとんどのテレビ局で報道しま せんでしたね。

テレビ局も、何か思うところがあるのでしょうか、最近は。

どうも、少しづつでも、良い方向へ行っているのかもしれませんね。

みなさんは、どう思うでしょうか?












さて・・・・・・
エハンさんのメールの独立個人ですが、エハンさんの サイトに書いてありますね。
褒め言葉のようです。

聖・フランチェスコの話として、中世の独立個人ことを、http://www.echan.jp/radio/vol.59-060208.html  で、ストリーミングで、放送しています。
この聖・フランチェスコですが、私は言葉を聞いたことがあるくらいで、まったく知らなかった人なのですが、ここ1ヶ月くらいで、この人の名前を聞くのは2 回目です。
1回目は江原啓之さんのテレビ・・・なんとかいう俳優の前世が、その人と一緒に活動していた、という話。
2回目がエハンさんですね。

私は・・・(笑)、この貧乏という言葉に昔から良く反応します(困)。
私の大先輩である70年代フォーク、ロックの人達の話でそういう話が多かったですので、成功してから「貧乏だったけど、楽しかった」などの話を聞くと、 「嫌だな。でも、そういうものかな」などと思っていたりしたものでした。

お金で、なんでも買える、というのは、大間違いですが、貧乏も嫌ですね。
ちなみに、エハンさんも、「貧乏になれ、と言っているのではありません。でも、お金があればなんでもできる、というのは幻です・・・」
と上記、ストリーミングで語っています。

その中には、聖・フランチェスコが、敵の軍に入っていって、相手の心を操った、とか、狼と友達になった、とかそういう話がでてきます。
彼のことは、映画「
ブラザー・サン、シスター・ムーン」になっているよ うです。
私は、昔は映画ファンで、ロードショウ、スクリーンの両方を毎月買う、ということをしていましたので、この映画のタイトルは知っていますが、内容はぜんぜ ん知りません(笑)。
同じように、「ディア(鹿)・ハンター」も、内容はまったく知りません。


しかし、42年間でほとんど聞かなかった名前がここに来て、2回も短期間に出てくるのも不思議です。
時代が変わっている証拠なのでしょうか?



聖・フランチェスコの話に、「名家の育ちの彼は、軍隊に行き、病気で返され、途方にくれていると、ハンセン氏病の人が前から歩いてきた。彼はその人を抱き しめ、有り金を全て与えた。そこから、彼の新しい人生が始まった・・・」というようにありました。
その病気の人が幻だったか、事実だったのか・・・とあります。

この話と関連つけてよいのか、悪いのか知りませんが、こんなことがありました。

私が前の会社を辞めたばかりで、まだまだぜんぜん心の状態がひどい頃、・・・
2,3年前ですが、
近くの神社へお参りをして出てくると、前から、あまり身なりの良くない50歳くらいの人でしょうか・・・が歩いてきました。
当時の私は、とにかく人にじろじろみられるのが嫌で嫌でしかたがない病(笑)でしたので、そういう人が前から歩いてくると、「こちらも人をじろじろ見るも のではない」として、意識して目をそらしていました。
すると、その人は、おそらく逆に、「俺を怖がっているのか、嫌がっているな」とでも思ったのでしょうか、すれ違いざま、私に近づいてきて、何か”攻撃”を しようとしました。
私は、
当時は今よりよっぽど体を鍛えていましたので、基本的に相手が自動車でもない限り、逃げるのが嫌で した。
ですので普通にまっすぐ知らぬ振りをして歩きました。
もちろん、腹筋には何をされてもよいよいように力を込めていましたが(笑)。
(どうも、バカっぽいですね・・私は)

で、どうであったかと言いますと、その人は、擦り寄ってきて、手を出す振りをしたものの、何もせず、変な顔をして、私の後ろへと去っていきました。
去っていったというか、私が勝手に、前に歩いていっただけですが。
もちろん、私はその後、振り返っていませんので、彼がどうしたかは知りません。
私の目的は、変な人が来ても、”じろじろ見ない”であり、攻撃をするではありませんでしたので。

今だったら、逃げるかもしれません。
鍛えるのはとうに止めましたし(笑)。
その頃はまだ、UWFのプロレスラーのように筋肉が隆起した体を見て、自己満足に浸る、という感じでしたが、それが何かとても意味のないことのように今で は感じます。
もっとも、変な脂肪が付かない程度に腹筋などはしていますが。

ただ、当時の私の目つきは、いずにしても、どこかおかしかったでしょう。
今振り返ると、当時は実に変なこともしていたように思います。
その人が、必要以上に反応したのも仕方がないかもしれません。
若い人ばかりの会社でしたので、私のひねくれ精神が、「地位とか頭とか経験ではなく、体力と瞬発力で勝負してやる」という思いも呼んでいたようです (笑)。
それでなくては、対等でないと考えていました。
変な人でしたね。

残念ながら、当時の私は聖フランチェスコのように、自分が打ちひしがれながらも、相手を抱きしめ、有り金を与えるなんていうことは、できませんでした。
それは、これからもできないかもしれませんし、する必要もないのかもしれません。
実際、どうなんでしょうか?

その人とは、その後一度も出会っていません。

みなさんは、どう思うでしょうか?




また、同じように、今度は会社を止める寸前ですが、病院に通っている期間ですが、横浜駅を通ると、しばしば、みすぼらしい格好をした同じ女性を見かけてい ました。

年齢は分かりません。
あるときは駅の階段、ある時は外の銀行の側・・・毎回ではありませんでしたが。

その時は、船井幸雄さんの本を読み始めた頃でした。
もちろん、じろじろ見ない、という私の考えは、まだありましたし、波動というものを覚えかけでしたので、あまり良くない波動を出している人にはできるだけ 近づかないようにしてみよう、と思っていましたので、できるだけ、近づかないようにしていました。
(この私の解釈は船井幸雄さんの本意ではないでしょう)。

それ以前の自分は、人を差別してはいけない、という考えが強すぎて、普通の人が近づかないような人がいると、必要以上に近づく、ということをしていまし た。

どちらもきっと良くないでしょう。
今は、波動の法則は信じていますが、差別とか、波動とか意識せず、近づきたくないなら近づかない、近づきたいなら近づく、どっちにしても無理をしない、と は思っています。

 






そして、更に、その数ヶ月前ですが、その頃は会社を休職してすぐでした。
何もする気がなくなっている状態ですが、家族が、「ハワイへ行け」と言いますので、もうほとんど何も考えずに、行ってきました。
どうも、そういう精神状態の時には、無理して旅行などへも行かない方がよいようなのですが・・・。

例のhttp: //www.co.honolulu.hi.us/cameras/waikiki_beach/waikiki.htm 
の、像をビデオカメラに収めていました。
向こう側の道から収めていたのですが、私が収録を終えてカメラを、目から放すと、ボビーのような大きな黒人が、目をひん剥いて私を道の向こうから威嚇して います(恐)。
すぐにでも、こちらへ飛んできそうな勢いでした。
私は直感で「ああ、きっと、自分のことを録られていると思って怒っているんだな」と感じましたが、なにせ、道の向こう側ですので、誤るわけにも説明するわ けにも行きませんでした。
その黒人と一緒にいた白人が、どうも身振りを見ていますと、「あれは、アップにしてとっているから、おまえのことなんか見えてないんだよ、やつは、あの像 をとってただけだ」と説明をしているようでした。
恐らくは、この黒人は、私は像を取っているしばらくの間、私が彼を撮り続けていると思い、同じようにしばらくの間、ずっと威嚇し続けていたのでしょう。

もちろん。私には悪気はありませんが、すまないことをしたな、と思っています。
ただ、同じように、隣にいた白人は何とも思っていないようですので、やはり、いろいろあるのだろうと感じます。








半年ほどで起きた上記3つの変な出会いですが・・・
聖フランチェスコの話式に、道徳的に考えていくのなら、

1つは、「劣等感を持っていると、相手の行動が悪い方、悪い方に見える、感じる」ということを教えてくれている、ということは言えるかもしれませんね。



2つ目は、打ちひしがれている人に、その場で何かしてあげる、ということはむつかしいことだろう?
ということも、あるかもしれません。

私が会社を辞める1年くらいは、もう打ちひしがれ・・・のどん底で、どうしようもない状態でした。
どん底でも、変に物事はこなしてしまうところがありましたので、だれもそれに気が付いてくれません・・・というより、気が付いていたのかもしれませんね。
それでも、打ちひしがれている人に何かしてあげる、ということはどうも、すごくむつかしいことのようです。
それは、打ちひしがれの度合いが強ければ強いほどむつかしいのでしょうね。


まず、この黒人に、私は何をどう説明することもできませんでした。
もちろん、4車線くらいの道が間にあるので仕方が無いことですが。
しかし、例えば今の私なら、渡って行って、彼に侘びと説明をしたでしょうか?

良く分かりません。


横浜の女性ですが・・・
実は私は会社では、みんなが嫌がってイビルようなアルバイトの人をわざと引き受けて、私の元に置くようなことをしていました。
別にそれが善行だと思っていたわけではありませんが、そうしたかったのです。
精神的に打ちひしがれていた当時、「ひょっとしたら、そういった一連の行為はいけないことだったのだろうか?」という考えが、頭の隅あったのも確かです。

そして、読み始めたばかりの波動の法則によれば、「運の悪い人には近づかないこと」と書かれていました。
「運の悪い人は、とにかく遠ざけなくてはいけないんだ。私は間違っていた」とも感じていました。

波動の法則によれば、上位の波動は下位の波動をよい波動に変えることが出来る、とあります。
しかし、まだ今でさえ、そこまでの良い波動を放っているかどうかは、疑問です。

おそらく、私は今でも彼女に、何もできないでしょう。
「修道士じゃないんだから、別にいいんじゃない?」
は、きっと正しいです。

そして、私はきっと、彼女に今でも何もしないでしょう。
出来ない、といった方が正しいかもしれません。


神社の前で会った彼ですが・・・
やはり、今でも、さほど違わない対応しかできないかもしれません。
もちろん、初めから、こちらから威嚇すれば、彼は逃げるでしょう。
しかし、そんなことは、馬鹿のすることです・・・。
女性が痴漢を威嚇するのとは話が違います。




3つめは、単純に、「悪い波動を出せば悪い波動を持った人が寄ってくる」
ということなのでしょうか?

ただ、そういう状態だからこそ、船井幸雄さんをはじめとしたさまざまな人の書物に出会えたわけですので、全てが決まった運命かもしれませんし、波動もある のかもしれません。



ただ、当時自分がそういう悪い波動を放っていたか ら、「悪い波動」を放つものを引き付けていた、ですが・・・
これだけでは、自分が助かる方法にはなりますが、それだけでは、とてもエゴのように感じますね。
しかし、私には何をすれば良いのか分かりません。

自分を犠牲にせず、そして他人も助かる・・・これでなくてはいけないはずなのですが。

しかしこんなことを考えていては、それこそ、悪い波動を出してしまいますね。
できるだけ、「仕方のないこと」として、捉えるようにしようと思います。



で・・・
何が言いたいのでしょうか?
さっぱり分かりません。

何か分かったなら、何かできるでしょうか?

今はそういうことがあったら、とにかく、「波動の高い億万長者になれ」と心の中でつぶやくようにしています。
馬鹿ですね(笑)。
こんなことなら、何もしないほうが、良いのかもしれませんね。
しかし、それしか思いつきません、今のところは。




みなさんなら、何をするでしょうか?



聖フランチェスコに問われる形で書いてみましたが、分ったのは、独立個人は分るが、どうも私は少なくとも、彼と同じことをする気はないようです。
逃げているのでしょうか?
それとも、正しいのでしょうか?
いずれにしても本心の声に従うしかないですね・・・。

私は全員が助かることを是とします。
すみません。









ちなみに、上記の神社は、今年、厄除けのお払いに行った、氏神さまです。
42ですので。
前の2年は、川崎大使さんへ行って来ました。

なぜ今年は、この神社かと言いますと・・・
ひとつは、神道形式のお払いを受けてみたかったこと、
もうひとつは、昨年の暮れですが、この神社の神主さんが営業にきたのです。
白い衣装に身を包んで。

氏神さまというのは、神道では、地域ごとに担当の神社があり、神道的には、その担当神社が、担当地域を守る、ということになっています。
江原さんの話では、神社で修行をしていた頃は、
祀られている神が命令をだしているのだと思います が、夕方になると、稲荷の像なりから、生命体が飛び出 し、担当地域を守りにでかけて行ったのを、良く見ていたということです。


私は、一ヶ月に一度は、駅のすぐ近くですので、その神社に行っています。
ただ、何か”ありがとう”と言いたい気持ちはしてしまいます(笑)。
もちろん、政木和三さんの言うことを信じていますので、神にお願いはしません。
ただ、おみくじは引きます(笑)。
シータ波になった状態で、おみくじを引いたら、本質からのメッセージが引けるかもしれない・・・とは思っています(どうかな?)。

ですので、営業に来た時に、神社の案内と共に、「希望であれば何かお札のようなものを販売しますよ」、と言っていましたが、「いつも行っていますよ。買っ ても良いですが、どうせ来月行きますから」と行って、断りました(笑)。

そんなこともあり、今年はその神社で厄年のお払いをしました。

もちろん、あの神主さんが登場してお払いをしてくれましたが、どうも覚えていたようで・・・また、意外だったのか(私は行くと行ったら行きます)、嬉し かったのか、オマケの品々をいつも(他の人より)より多めにいただけたようです(嬉)。
巫女さんが、神主さんに申しつけられて、追加の品物を探しているようでありました。

神社の協会のようなところの決まりなのか、自主的なのか分りませんが、営業活動もするのですね。
私は、営業関係が一番長いですので、何か・・・大変だな、と感じます(笑)。
多めに頂いたオマケは私も嬉しい のは確かですが、営業の成果が出たことを喜んでいる神主さんが、私には嬉しかったです。

これが分る人は多いですよね?

みなさんは、どう思うでしょうか?













さて・・・・・・
二元性、相対性ですが・・・
時間の概念の誤魔化し・・・ということもあるのだろうか?と考えています。
相対性が誤魔化しなら、今と10年後というのも、同じく誤魔化しではないか?ということなのですが。


1次元では、2次元(縦横)以上は見えないというように理解しています。
2次元では、3次元(高さ)以上が見えないというように理解しています。
3次元では、4なのか5なのか、時間という空間以上が見えないということでしょうか?


どうも、2次元の世界では、相対性と二元性以外に、「どっちが高いか?」というマヤカシがあるのでしょうか?
3次元か見れば、「みんな同じ高さなんだよ」ということでしょうか?

同様、1次元には、相対性、二元性、高さ以外に、向こう側とか、「どっちが、より広がっているか?」というマヤカシがあるのでしょうか?
2次元からみれば、「みんな同じ点だよ」となるのでしょうか?

しかし、ひょっとしたら、2次元、1次元と落として行くと、点に行き着きます。
点には、一般的な意味で自由は感じませんが、しかしながら3次元的な相対性、二元性によるマヤカシはありませんね。
かといって、これが我々に求められているものかと言えば、きっと違うのでしょう。





さて、それでは、3次元は4,5次元から見ると、どうなのでしょうか?
確か船井幸雄さんだったと思いますが、4,5次元では、時間という空間の概念があり、最低の速さが光速である、と書いてあったように思います。
4,5次元がどうなのだか見当もつきませんので、これの考えにそって考えてみたいと思います。



仮に時間という空間があった場合、どういうことを思うでしょうか?
もちろん、二元性と相対性に対してですが。

二元性が、男と女というようなことであった場合、
そして、相対性が、どちらがお金持ちか?ということであった場合、

時間と言う空間があると時間の概念がまったくなくなるとすれば、全ての前世を考えれば、男だった時も女だった時もあるわけですので、それが全て見えるとす るのなら、その意味での二元性はなくなるかもしれません。
また、同じ理由で、お金持ちとか、そうでないとかも、いろいろな前世が一度に見えるなら、もうどうでもいよいことかもしれません。

前世まで行かなくとも、相対性という意味では、なんとも意味が薄くなります。
5歳の子供より、60歳の人の方が物知りなのは当たり前ですが、時間の概念がなければ、5歳の子供もいずれ60歳になるわけで、60歳の人にも5歳の時が あったわけですので、その意味で相対性の持つ意味が薄くなります。

こういうことなのでしょうか?

もしそうであれば、こうも言えるかもしれません。
生命体レベルでは、時間という空間を感じられているとするのならば・・・つまり3次元に縛られているのは肉体のみ、ということですが・・・今、という一瞬 で生命体レベルでは、あらゆる時間を感じ取っているのかもしれません。




それでは今度は、4,5次元では仮にすべてのものの速さの最低の速度が光の速さであったらどうでしょうか?

まず、3次元での物理的能力というのは、あまり意味がなくなるように思います。
どんな速いものでもおそらく捉えることができるでしょう。
ほとんどのスポーツにおいて、すべての人が達人の域に達していますね。

おそらく距離の概念もどうでも良いに等しくなっているでしょう。
隣のコンビニ(昔ならカンブツヤさんと書くところだが)に、買い物へ行くのと、ハワイのABCストアに買い物へ行くのと、ほとんど同じことになるでしょ う。



もちろん、重さに対しての能力というのは残るかもしれませんが。
但し、光が最低ですので、もっと速いスピードも可能なわけですので、そうすると、重量も軽くなってくるのでしょうか?
そこら辺の物理学的なことは知識がないのですが。




それでは、時間と言う空間も、最低速度が光速も一緒 に考えてみればどうでしょう?
過去と未来のすべてのもの、状態が、足元1m四方にあるような状態なのでしょう。

もしこれが正しいのならば、生命体レベルでは、
過去と未来のすべてのもの、状態が、足元1m四方に あるような状態ということですね。

そうであれば、確かに、二元性も相対性もないかもしれません。


考えれば、速度が遅い、時間がタイムコード式に流れるようにしか認識できない、これが、二元性と相対性を感じさせている大元なのかもしれませんね。

それでは、この
速度が遅い、時間がタイムコード式に流れるようにし か認識できない、を打破することは出来るのでしょうか?
今くしくも、打破と書きましたが、きっと打破の概念ではダメなのでしょう。
蘇生エネルギー的な概念が必要なのかもしれません。
政木和三さんの言う「無限大の時間と無限小の力により、奇跡のようなことをなすことができる」ですが、この言葉はまさに、3次元的な強引な打破と対極にあ るように感じます。

それを考えると、「
速度が遅い、時間がタイムコード式に流れるようにし か認識できない」から脱却するのは、強い力で押せば押すほどに、遠ざかり、急ごうとすれ ばするほどに時間がかかるものなのかもしれません。
恋愛に似ていますね(笑)。
そうでなくとも、営業でも、なんでもそうかもしれませんが。

ただ、これまでの3次元では、強い力、急ごうという意志により達成できることも多くあったように思います。
もちろん、時流だったのかもしれませんが、ただ、それらは成し遂げられたにしても、どこかにその反動が起きていたのかもしれません。
それは、その人に対してということではなくとも、いろいろなところへですが。



ジャイアンツを見ていると、そうなのだろうか?と思いますが、4番打者級の選手をたくさん引っ張ってきましたが、勝てませんでした。
これは、野球理論的にもいろいろ説明できますが、上のような発想から考えていきますと、高次元的に当たり前、ということだったのかもしれません。

ただ、そうとは言え、早急になさなくてはならないこと、というのもあります。
映画「クレーマ−・クレーマー」では、奥さんに離婚された主人公が
、育児でおざなりになってしまった仕事を首になり、親権を維持するために早急に仕事を見つけなくてはな らないことになります。
こんな時はやはり、
「無限大の時間と無限小の力により、奇跡のようなこ とをなすことができる」が必要となってくるのでしょうか。
それとも、運命で決まっているようにしかならないのかもしれませんが。



我欲を考えてみれば、基本的に我欲とは、 二元性、相対性から派生した考えの塊とも感じられますね。
その意味では我欲が強い、ということは、二元性、相対性のマヤカシにまんまと乗ってしまった状態とも言えるでしょう。
そして、足元1メートル四方の外側を見ている気持ちのようにも感じます。
もし、全てが足元1メートル四方にあるのなら、その外側には何があるのでしょうか?
おそらく、何もないのではないでしょうか?

その何もないところでもがいているのが、我欲の状態でしょうか?

そう考えると、案外、近くに”全て”はあるのかもしれません。


みなさんは、どう思うでしょうか?


今度は決まっている運命、という観点から、二元性、相対性を考えてみますが・・・
森田健さんによれば、「オギャー」と泣いた瞬間に運命はスタートするようです。

これが、全ての相対性、二元性の始まりでしょうか?
それとも、スピードが遅くなり、そして3次元的時間概念の始まりでしょうか?

しかし、幼少のころは、私にはあまり相対性という概念はなかったです。
二元性もあまり感じませんでした。

相対性をはじめて意識したのは、母親がテレビで「ステキな家ね」と言って見ていたら、父親が、おそらく嫉妬したのでしょうか?急に怒り出した時のように思 います(今ではこういうことはありません)。

私は中学受験というのをやりましたが、第一志望の中学校には落ちました(笑)。
ただ、なんとも思いませんでした。
まだ相対性という概念がそれほど芽生えていなかったのだと思います。
しかし、落ちて両親が落胆していた時に、確かこんなことを言ったのを覚えています。
「あんな中学校こわしてやる」だったか「火をつけてやる」だったか・・・です。
別に私はこんなことぜんぜん思っていませんでした。
じゃ、なぜそう言ったかと言えば、そういうと両親が喜びそうだと思ったからです。

私が特別かもしれませんが、私の小学生時代には、このように、私はぜんぜん思っていないが、両親がなぜそんなにいろいろ考えるのか知らないが、おそらくこ う”言う”ことを望んでいるのだろうな、と察してそれを言う、ということが良くありました。

上の中学受験の時は、その後、両親は、「そんなことを言うもんじゃない・・・」というように小学生の私を叱りましたが、当時は「なんだよ、そっちが落胆し てるから、こういう言葉を聞きたがっているんだと思ったので言ってやったのに」くらいに思っていましたが、おそらくあれで良かったのでしょう。

子供のその言葉によって、我を取り戻した、ということがあるように思うのはうがっているでしょうか?




それらは、両親との関係だけでなく、学校の先生、近所の人などでもあったように思います。

これは、子供っぽくないですね(笑)。
しかし、相対性を感じていない、という点について言えば、非常に子供的だと思います。

ですので、私の方小学生時代が良い子だったか悪い子あったかは知りませんが、相対性を「オギャー」と言った瞬間に持った、ということがないと思います。






二元性ですが、小さい頃は、女の子とも男の子とも遊んでいたようです。
当時、はやっていた、おままごとで本格的に小さなホットケーキを焼けるおもちゃを持っていた女の子に、焼いてもらったそれがおいしくて、何枚も焼いて焼い てもらったのを昨日のことのように覚えています(笑)。

その意味では二元性は相当小さな頃から持っていたのかもしれません。

しかし、おそらく、本格的に二元性を感じたのは中学生になってからでしょうか?
私はぜんぜんなんとも感じていませんでしたが、周りではやれ「あっちの中学校の方が程度が良い」とか、「あの地域はどうだ」とか、そんな情報が入ってきた り、すでに二元性を認識している友人んども現れたりしだしました。

ただ、それよりも、おそらく、中学校での中間テスト、期末テストなどによって、全校での順位が発表されたことによって、本格的な相対性、 二元性の認識が 始まったように感じます。
私は、なぜか学校のテストはできないが、いわゆる偏差値テストの成績が変に良い、という時代の申し子のような生徒でしたので、優劣両方を味わうことができ ました(笑)。
当時は、丁寧で真面目な生徒は学校の順位が高かったです。
私のように、学校の授業は聞いていない生徒はそういうテストでは良い点数が取れないものでした。
それじゃどうして、偏差値テストが良かったかと言えば、塾に言っていたからなのでしょう。
これは3次元的には両親に感謝ですね。

当時もっぱら、父親が学校での順位というものにうるさかったですが、今振り返ると、あれが、私にとっての相対性、二元性の始まりのように感じます。
そして、それが、私の苦しみの始まりであったようにも感じます。

その意味では、やはり、「オギャー」によって、二元性も始まっていないように私は感じます。





それでは、時間とスピードはどうかと言いますと・・・
幼少時代は1日ほとんど意識していなかったように思います。
ただただ、親の言うように、時間がくれば、銭湯に行き、時間がくれば食事をし、時間がくれば寝ていた、ということですね。
と、言っても、一体、何と比べてよいものか分かりませんね。
そして、時間自体、どうやら、短く・・・速くなっているようですので、この話題において、どう比べて良いのか分かりません。

ただ、他の子供同様めちゃくちゃ暗記力があったようですので、ここら辺は、右脳だけでなく、時間の概念とも関係がある可能性もあるかもしれません。

スピードについても、何も思い当たりません。

その意味では、時間、スピードというものこそ、「オギャー」の瞬間から、新たな3次元的なものを感じさせられているのかもしれません。




個人的な話ですが・・・

幼少時代(小学生の前くらい)で良く覚えていることと言えば・・・
近所の歯医者のせがれが友人で、よく遊びに行っていましたが、スライドがその家にあり、「きれいだな」と思い、いくたびに、何度も見せてもらったこと、
ある日急に、「絵の具で絵が描きたい」と母親に言い、絵の具を買って絵を描いてみたこと、
近所の廃棄された金属がたくさん置いてあるところへ友人と行き、「これでゴジラを作るんだ」と言った瞬間、
両親が喧嘩をしたので、「まあまあ、やめなさい」と言って止めたら、父親に跳ね飛ばされて泣いたこと(笑)、
貸本屋というのがあり、「バビル2世」という漫画を良く読んでいたこと、
それと、先のホットケーキの話(これは嬉しい)、
母方の祖母がお嫁さんが見たい、というので、近所の好きな子2,3人に頼んで来てもらったこと、
などでしょうか(笑)。

しかし、「まあまあ、やめなさい」ですが、私は・・・どうも、幼少時代が一番大人ぽかったように思う時があります(笑)。
どんどん、どんどん子供のようになって行っているようにも感じる時があります。
部分的でしょうか?すべてでしょうか?

みなさんは、そういうことは思わないでしょうか?


ただ、面白いのですが、上記に上げたことをどのような形で覚えているかと言いますと、
実に客観的(?)なのです。

まるで上空あるいは少し離れた横から、その有様を見ている、あるいはカメラで収めているような感じで頭に入っています。

一番カメラのアングルが低いのが、ホットケーキの話でしょうか(笑)?


何か、もう一人のだれかが、その映像を保存していて、それを見ているように今頭に浮かんでいます。
なぜなら、その映像に、ちゃんと自分も出てきているのです(笑)。
多くのアングルは、自分が画面の右端にいて、自分のやや左後ろ方向から捉えられています。

面白いですね。

みなさんは、そういう感じはないでしょうか?









2月15日です。




さて・・・・・・
どうも、マンションが売れているようですね(笑)。
なんでも、都内の新築物件は昨年んお同時期より減っているようですが、埼玉、神奈川などでは増えているそうです。
どこかバブルを感じてしまいます。
似てますよ、すごく。
あの頃と感じが。
ただ・・・螺旋が速くなっていますので・・・サイクルというのでしょうか、今後どうなるのか、見ていたいと思います。

みなさんは、どう思うでしょうか?

例のしゃぼんだま石鹸ですが、実はあれを頭を洗うのにも使っていますが、いくらか髪の毛が伸びてきていたのでリンスも使っていたのですが、試しに使わない でみたところ、すごく快調です(笑)。
顔など洗うと分るのですが、油分が、きれいに取り去られます。
どうぞ、お試し下さい(笑)。






さて・・・・・・
今、テレビで、日本食が世界で流行っている、という番組がやっています。
油でも塩でもない、うまみ成分が日本食にはある、とか言っています(笑)。

と思ったら、宣伝だけだったようです。







さて・・・・・・
生まれた時には、相対性と二元性のまやかしには染まっていなかったようだ、という話を書きました。
もっとも私の場合だけですが。
そして、時間とスピードの概念はおそらく、肉体によるところが大きいですので、生まれた時からあるのかもしれません。
ただ、これも、あるにはあるが、生命体とのつながりが太ければ、超えられるのかもしれません。
その意味では、やはり生まれた時というのは、超えていたのかもしれません。
また、その有様自体、私が忘れてしまっているのかもしれません。

ただ、覚えていますのは、二元性、相対性はなかったですが、小学生以前の私はそれなりにエゴのある子供ではあったように覚えています。
プリンなど出ますと、妹に何とか言いくるめて、先に食べさせて、ゆっくり一人で食べようなどとも思っていたように覚えていますし、年上の人に失礼な言葉を 話していたようにも思います。
もっとも、小学生ですが(笑)。

どの時点ではじめて不幸感を感じたかと言いますと、覚えている限りでは、幼稚園の時ですね。
何かとても、神経質になっていて、憂鬱な気持ちであったのを覚えています。
トイレが異常に近かったり、太陽に向かって話していたりしましたので、脳波の検査に行かされたりした事もありました(笑)。

ただ、この憂鬱は二元性、相対性とはあまり関係がないのかもしれません。


考えますのは、やはり相対性、二元性は、今でも、もともと人間にはないものなのかもしれません。
おそらくは、外側、つまり今のこの世の中の常識が二元性、相対性の概念を人に植えつけているように感じます。

教育だろうか?とも思いますが、少なくとも私は、小学校までの教育ではそういうものを身に付けるようなことはなかたようです。

こんなことがありました。
親戚に10歳くらい年齢の違う人がいますが、その人が、
「期末テストの勉強とかしているときでも、友達が”勉強進んでるか?”とか聞いてきても、していても”してないよ”とかいうだろう?そういうように さ・・・」
のようなことを言います。
私が中学生くらいの時だったのでしょうか?
「えっ?」
と思いました。
私としては、「別に、本当のこと言って、何か問題でもあるのかな?」という感じです。
これは今でも変わりませんが、どうも、ひょっとしたら、私の感覚が、かように、「勝つ」とかその「手法」についての考えにおいて、どうも、平均的なもので はないのかもしれません。

そう言えば、どこかで、「平均的にしなくては」と思ったこともあったように思いますが、どうだったでしょうか?
どうであれ、根本はあまり変わっていませんね。


これを考えますと、果たして自分の例を基本にこういうことを考えて、意味があるのだろうか?とも感じます。
良きにつけ悪きにつけ、どうも、普通とは違うようです。


それでも、ひとつのケースとしては面白かろうとも思いますので続けます。



仮に、とにかく二元性、相対性が生まれた時にはないもので、その後作られるものあったとしたなら、やはり世間が変わらなくては、どうしようもないのでしょ うか?
どうしようもないとは、つまり人間から相対性と二元性を完全に取り去る、ということに関してですが。

それとも、気づけばなんとかなるのでしょうか?
あるいは、親がそれに気づけば、教育でその子供は、二元性、相対性から逃れられるのでしょうか?

ある程度はなんとかなりそうにも感じます。



方法論はとっぱづして、気づいたとしたなら・・・やはり大本教のような暮らしぶりになる、ということでしょうか?
そうなのかもしれません。

決まった時間にある程度の決まった仕事をこなし、残りの時間は、それぞれが仕事以外にことをやる・・・
争いも無く、わきあいあいと・・・


あり方としては一つの形を成していると感じます。

それじゃ、京都へ行こう・・・では終わってしまいますので、ここでは、違うことを考えてみます(笑)。







まず、大きくなっていく途中には、先で触れましたような期末テストの順位ですとか、いろいろあるわけですが、勉強だけでなく、いろいろな角度が自分を見て みる、ということは良いことなのでしょう。

逆手を取って、世間が相対的で繰るのなら、すべからく自分はどういう人間なのかを相対的に計ったやったなら、どうなるでしょうか?
これは結局、得意なものを探す、ということに繫がっていくかもしれませんね。

あるいは、相対的でこられますと、相対性を計った最初の時点で、偏差的に下方であった場合、それをバネにしてがんばるとか、嫌になって諦めるとか出てくる のだろうと思いますが、好奇心があって好きなら、とことん追い詰めていけば、良い、という概念を持っていると相対性のトリックに陥らずに済むのかもしれま せん。

おそらく普通、ここで二元性のトリックが登場して、相対的に見て実力のないものをいくらやっても、出世も金儲けも驚くような結果もでないよ、言ってくる人 もいるのかもしれません。
しかし、ひょっとしたら、ここに時間のトリックもあるかもしれませんね。
だって、いつ大きく化けるか分かりません。
大器晩成という言葉も伊達にあるわけではないでしょう。

スピードのトリックがどう関わってくるか分かりませんが、どうも、森田健さんの言う「あるがままの自分を肯定する」という概念は、相対性、二元性、時間の トリックからは逃れられる要素を持っているように感じられます。

「あるがままの自分の肯定」とは、要するに、好奇心があることを、相対性、二元性、時間のトリックを気にせずに、やることと、突き進むこと、ということな のかもしれません。

この時点で、好奇心があることは、得意である場合もあるでしょうし、時間のトリックで、まだ開花していない場合もあるでしょう。
そう考えると、好奇心があったのなら、その瞬間は、得意であったも得意でなくとも、良いように感じます。






好奇心と言う言葉に二元性はあるでしょうか?
好奇心がない、という表現はできますね。

好奇心に量はあるでしょうか?
あるようにも思います。
しかし、おそらくは量に関係なくOKなのだと思います。
なぜなら、だれかに与えるものでないからではないでしょうか?
愛は受け手がいます。
ですので、その関係において、相対性、二元性が生じます。




こんなことがありました。
前の会社ですが、私はその会社の基本的なスタンスが大嫌いでした。
しかし、ある時、それなりに責任のある立場にいましたので、どうしても最低限は会社の立場に立たなければなりませんでした。
しかし、私の主観では、「もうすでに、会社からは評価されないくらいに、会社側のスタンスははずしている」と感じることをしていました。

しかし、私としては会社のスタンスをはずしてまで・・・つまり、私の評価、立場、というようなものですが・・・それを与えていたと思っていた相手側の中の 責任ある立場の人間が、「あなたには愛がない」というのです。

つい最近までずっと迷っていました。
あの言葉に引っかかる。
一体なんだ?と

最近分ってきました。
要するに愛とは相対的なのです。
私は与えられるぎりぎりまで、愛に似たものを与えたつもりでしたが、それは相手が要望した量と質と種類ではなかったのです。
そうすると、その反応は、「愛がない」なのです。
実際は、「「愛」はあるのだが、私の望むものではありません。」なのだと感じています。
これって、実に「愛のない」言葉ですよね(笑)。
当時は船井幸雄さんの本すら読んでいませんでしたが、その女性は、何か体に良い薬の販売がどうした、というようなことを言っていましたので、今思います と、何か精神世界的なことをやっていたのかもしれません。

思いますに、彼女の接していたものは、「愛」をスローガンにしたものではなかったのではないでしょうか?
ここら辺は確認したわけではありませんので、単なる想像ですが。


そして私も、「愛」が相対的なものである、という認識はありませんでした。


もちろん、「愛」をスローガンとしている精神世界の方々が、「創造主の愛は完全な愛です。分け隔てありません。それは受けての問題です」と言うであろうこ とも分ります。
しかし、その受け手である我々人間が相対性、二元性に捉われているということが、創造主の愛を正確に受け取れない大きな原因であるわけですので、やはり、 「愛」はスローガンとして掲げるべきではないと感じます。





というわけで、どうも、「あるがままの自分の肯定」→「好奇心につっぱしる」→「相対性、二元性、時間からの脱却」のようだ、ということのようです。

みなさんは、どう思うでしょうか?











2月16日です。

さて・・・・・・
オリンピックがやっていますね。
スケート競技で、4位になった選手が、ポーズもあるかもしれませんが、「4位と3位はずいぶん違うので、残念です」とインタビューで語っていました。

確かに、0.05秒差でしかも、スタート時にアクシデントがあったようで、残念なことは事実ですね。
ただ、私は世界で100位にもなったことがありませんので、この気持ちは分かりません(笑)。
また、当人は一生懸命やったに違いないですので、責める気もありません。
また、1〜3位までの人より努力しなかった、とも思いません。
ですので、残念の気持ちになかなか同期することができなくて残念です。
ただただ、”すごいな”と思います。

これは、ひょっとしたら私のほうが相対的には幸せなのかもしれませんし・・・そうでないのかもしれません。
どちらでしょうか?と言うより、相対性から脱却すると、どっちでも関係ない、ということになるのかもしれません。

もちろん、やる前は、やるからには1位だとか、3位までに入賞するとか、思ってよいのだと感じます。
後はどうも決まっているようです。
当人が、自分のしたことに納得できればよいのでしょう。
もちろん3次元的には相対性、二元性から脱却しきっていないと、周りの人の反応というものに、その後左右されることになるように感じますが。

それと、これまでのデータからみて、当然のように3位以内が確実、であったのなら、そうでないと、惜しいですね。
それは、先の「分らない」とは別で、そうだな、と感じます。

ただ、一度くらい、そういう”一生”も、体験してみようと思っています。


みなさんは、どうでしょうか?





なんでも、年賀状のお年玉で、1等だったかのハワイが2つ当たった人に続いて、この度は1〜4等全部あたった人がいるそうです。
しかも、1等は書き損じの葉書で、しかも郵便局のお勤めということです(笑)。

何かすごいですね(笑)。

普通じゃありませんね。
少なくとも、こんな話物心ついてから聞いた事はありません。



さて・・・・・・
http://kotoba.fumika.jp/2003/02/tarikihongan
と言うのを読んでいましたが、以下のようにありました。
引用させていただきます。
(引用)
『ちなみに「他力」について触れましたが、作家の五木寛之氏は著書『他力』の中で、 他 力とは、目に見えない自分以外の何か大きな力が自分の生き方を支えているという考え方なのです。 とか、 他力とは目に見えない大きな宇宙の力と言ってもよく、大きなエネルギーが見えない風のように流 れていると感じるのです。 のように書いています。しかし、これでは他人の力も天候も「他力」になってしまいますので大変な誤解です。 仏教では「他力」以外の力はすべて「自力」ですので、宇宙の力も他人の力も「他力」と言ってはいけないのです。』
(以上)

要するに、この方の解釈では、他力は阿弥陀仏の力のことであり、それは、周りのものを使って行使されるということはなく、阿弥陀仏から直接そのものへの み、行使される、というように解釈しているように感じます。

これが、他力の正式な解釈なのかどうかは分りませんが、事実どうなのでしょうか?
この方の解釈は、まさに、阿弥陀仏という運を司る一人の神が存在し、その方が、人間の運命を操っている、というように聞えます。
きっと、これでこの方の言っていることの解釈としては正しいのだと思いますが。

ただ、仏教的解釈は別として、私は事実は、おそらく違うのではないかと感じます。
ただ仏教、またはこの人の解釈でも、「阿弥陀仏がAさんを動かしたことによりBさんの運命も動くこともある」、「阿弥陀仏がAさんを動かしBさんの運命を 変える」などはOKなのかもしれませんが。

森田健さんのネットワークの話などを読むと、私はやはり、どちらと言えば五木さんよりで・・・というか、この方がくしくも言っている、「
宇宙の力も他人の力」も、まさに、人の決まった運命 をそのように動かすように働いているものだと感じます。
言ってみれば、私にとっての他力とは、他力は正に運命を動かしているものの総称であり、それを理解しやすくするために、阿弥陀仏という名を使って擬人化し ているのだと感じます。

いつだったかの森田健さんの不思議研究所に書き込んでいた浄土真宗のお坊さんの説明も、私の解釈に近いものだったように思いますが、実際、教義としてはど うなっているのかは分かりません。

ただ、そうであるなら、理解しやすく、
このサイトにあるのが教義的には正しい解釈だ、とするのなら、私には受け入れられません。
むしろ、運命を司っている神々の総称である、ということならば、まだ受け入れやすいですが。

もし、一人の神が運命を司っている、とするのなら、創造主であろうな、という気はします。

森田健さんの言っている事は、ネットワークとの兼ね合いですし、自分から他力と言う言葉を出したわけではありませんので、基本的には他力と言う言葉は、大 きな意味を持たないのだと思いますが、他力という言葉を使うのならおそらくは、上の五木さんの解釈に近いものだと感じます。


みなさんはどう思うでしょうか?





さて・・・・・・
今日テレビで加賀の温泉特集をやっていました。
何とかという曹洞宗の総本山が出てきました。
禅寺なのですね。
知りませんでした。
私はずっと、母方の祖先は佐賀県だと思っていて、一時通っていたルーテルが最初に日本に上陸したのが佐賀であったようですので、何かの縁だな、と思ってい ましたが、どうも私の聞き間違いだったらしく、佐賀ではなく加賀ということを後で知りました(笑)。
ですので、母方のお寺は曹洞宗なのでしょう。

目黒祐樹さんらが禅を組んで、バシバシ叩かれていましたが、禅をする風景をみて、不謹慎ですが自然に笑っていました。
なぜでしょう?
きっと、「良くみんな、足首が腿に乗るなぁ」と感心したからだと思います。
私は乗りません(笑)。

ただ、ルーテルもまんざら縁がないわけではなく、実家で昔ヤマザキパンのパン屋さんをやっていましたが、確か社長はルーテル教会の信者ではなかったでしょ うか?
だからどうだということは、まったくありませんが。

また、踏み絵でも、天皇機関説でも、なんでも良いのですが、歴史のまったくできない私の心にひっかかったできごとの一つにルターの宗教革命があったという のも確かです。
一体、どんな変わった前世だったのでしょうか?私は(笑)。
いろんな偉人が絶えず周りにいたのでしょうか?
そうならば、それはそれで、嬉しい前世ですね。

その他にひっかかった歴史的事項としては、
聖徳太子が一度に7人の声を聞き分けた、とか、
「板垣死すとも自由は死せず」とか、

勝海舟が、何とか言う厚い本を2部も書き写して、1 部は売ったとか(勝さんではないかもしれない)、

要するにどうも根性ものに惹かれるのかもしれません。
そういう世代ですね。
「巨人の星」に「明日のジョー」ですから。








さて・・・・・・
相対性、二元性からの脱却ですが、精神世界を語る方の多くは、一般的に言えば、精神的にとても立派な方が多いです。
3次元的にもそうでしょうし、高次元的にも、宇宙、神からの啓示を受けている方が多いようですので、マクロに言ってそうだとしてよいのでしょう。

ただ、そこに落とし穴があるようにも感じます。
私は別に井出さんをどうこうとはまったく思っていませんが・・・ですので、だれでも良いのですが、そのような方にとっては、たとえば「愛」と言えば、それ で問題はないのでしょう。

しかしながら、私のような半端者・・・もちろんこれでも完全だと思っていますが・・・から見れば、やはり「愛」に相対性を感じ、それ故に、立派な方々の 言っていることが、その説明だけでは理解できないときがあります。

もちろん「愛」と言われて、「セックス」か?と言うほど、物分りが悪くはありませんが、人それぞれです。

これは「愛」に限ったことではなく、他にもきっと似たようなことはあるのだと思います。
ひょっとしたら私が理解できないことの多くはそういう系統で分らないのかもしれません。
それは二元性、相対性から脱却していないことによるのかもしれませんし、欲が強いことに起因するのかもしれません。

もっと言えば、転生が少ないからかもしれませんし、過去に良い行いが少ないせいかもしれません。
または、決まっている運命のせいかもしれませんが。



DNAのその理路整然とした精密な設計を見てただけ神を感じる人もいれば、男が凸で女が凹なのを見て、神の神秘を感じ取る人もいるかもしれません。

いろいろな人がいる、ということですね。


私はどういうわけか、昔から「東山の金さん」が気になってしかたがありません(笑)。
遊び人の金さんと、東山金四郎を使い分ける・・・と言うか、一般的な人の間に入っていき、一般的な人の考えを聞く・・・という姿勢ですが。
ただ、あまりにこれを意識しすぎ、無理に自分とあわない人間にあわせようとしていた時期がありますが、これはどうも、あまりお薦めできません。
やはり、素直に自分とあう人と一緒にいるのが良いようです。

ただ、それでも、アセンションがあってもなくても、東山金四郎的な人も、何人か精神世界を語る人の中から出てきて欲しいものだと感じます。

どうも要求だけして、申し訳ないですが。
単なる願望ですので。

井出さんは普通のサラリーマンのようですが、私からみれば、”普通”ではありませんね(笑)。
立派なサラリーマンです。

ただ、それでも、いよいよ経営者ではなく、サラリーマンが出てきたか、とは思います。


ただ、もっと私並に負け続けている人にも是非、出てきて欲しいですね。
そして、
「私は、特に趣味も特技もなく、50歳を過ぎて、万年係長なのですが、神が”地球が生まれ変わろうとしている”、と毎日言いに来るのです。なんでも、私は 前世で、饅頭を食べすぎて死んでしまったので、その罰として、今生では、死ぬまで係長のままで、アセンションに協力せよ、ということなんです。どうやら妻 の作った弁当をこれまで一度も残さず食べたことが認められたようで・・・」
とでも言って、本を出したら、私はきっとボランティアで応援にいくかもしれません(笑)。

これは、冗談ですが、しかし、こんなことでも、相対性からの脱却の助けにはなるかもしれません。

もちろん分りますが、それでも、アセンションを説く人達がみんな立派な方というのは、相対性が整い過ぎていますね。
しかし、そうでなくてはいけない、ということなのかもしれません。
少なくともこれまでは。

どうなのでしょうか?

みなさんは、どう思うでしょうか?








2月17日です。

さて・・・・・
今日は変な日です(笑)。
なぜか書くことが浮かんできません。
また、快適ですが、食欲がありません。
納豆とフリカケ、昆布の佃煮、玄米、白米、味噌汁というシンプルな食事を一度しました。

そんな日もあるでしょう(笑)。


こうなると、前倒しで何か書いてしまおうかと思います。
先日、ジョージ川口さんの若い頃の録音の収まったCDを買いました。
大体1960年前後の録音で、メンバーはみな30歳前後です。

今若いと書きましたが、確か私が10代の頃は、もう30歳を若いとは言いませんでしたね。
これは、時代のせいか、私の年齢のせいか、それとも両方のせいか良く分かりません。

みな、ものすごくうまいです。
もちろん、そんなことは、先刻承知のはずなのですが、まあ、私が30歳の時の1,000倍はうまいですね。
と、言いますか、今いるプロの人達を考えて見ると、相当主観が入りますが、4,50歳のベテランのプロの人達と比べても、遜色ないですね。

また、どういうことか、秋吉敏子さんの27,8歳くらいの時の録音もCDも手元にきましたが、これもやはり、同じです。
ものすごくうまいです。
良いです。

日本人が外国の音楽をやって・・・
しかも、戦後、そんなに経っていない時期に・・・
そして、若い。

そういう運命なのでしょうけれども、なんともすごいですね。




さて・・・・・・
相対性、二元性ですが、重力というのは、これの大元かもしれませんね・・・・。
今、急に思いついたのですが(笑)。

もちろん肉体あっての相対性のようですので、重力が大きく関わってくるのは当然でしょうが。

重力があると、ニュートンじゃないですが、ものが上から下へ落ちます。
もし、重力がなければ、そうはなりませんね。
宇宙のように、浮いたままということでしょうか?

きっとそうでしょうね。

ただ無重力だと、植物などは、どっちへ向かって伸びていくのでしょうか?
想像するにお日様があれば、そっちへ伸びていくのでしょう。
お日様がなければ・・・芽の出てきた方向へひたすら伸びるのでしょうか?
ここらへんはきっと、今の科学でも分っているのでしょうね。

みなさんは知っている方も多いとは思いますが、日本とオーストラリアでは、水道で水を流しても、渦の巻き方が逆です。
確か、森田健さんの本にも、それ故、だれかとの対談で、「右回転を左回転にする必要があるのですか?」と聞いていたようなシーンがあったかと思います。

これも、地球との関係で物理的に解明されているのでしょうけれど、面白いですね。

面白い話はこれくらいで良いのですが、少なくとも重力がないと上と下という概念はないかもしれませんね
少なくとも、物質に関してですが。



また、面白い話に戻ってしまいますが、物質世界は何とも面白くできています。
マンションなど見ても、ちゃんと上の階の方が高価ですね(笑)。
人間の志向がそうできているからそうなるのでしょうが、良くできています。

だからきっと、神も上の方にいる、と思っているのかもしれませんね。
どうも、神は内側にいて、外側の経路を考えても、それは、すごく近い場所のように思いますが。

そこら辺の不思議を、強引にひっかきまわしてみれば、以外に、「神は3次元にいる」だんなんてことも考えてみる必要もあるのかもしれませんね。
もっとも、ここも3次元神界だったそうですが。

ただ重力が弱くなると、大気などでいろいろ困ったことになるようですので、そこら辺はまったくもって、地球があるから3次元がある、と言っても良く、地球 があるから、岡田多母さん的に言えば、生かされて生きているのですね。


それでは、地球は相対性を本当は嫌がっているのでしょうか?
なんとなくですが、どうもそうでもないように感じます。
でなければ、重力という手段は使わないかもしれませんね。

それとも、精神面での相対性は否定するでしょうか?
それだけはあるようにも感じます。
しかし、相対性があってもいいじゃないか?とも言いそうに思います。
なぜかと言えば、そのままで完全なら、相対性を感じているその状態も完全だからですが。

とは言え、相対性に縛られてはいけないのでしょう。




あるいは地震などを考えて見ると、相対性に頼りすぎてはいけないよ、ということも言いたがっているのかもしれません。

マンションで上の方が高いのは見晴らしがいいからでしょう。
それは重力があるので3次元では容易に空を飛ぶことがでかいないからです。
そうなると、上の方が下より貴重なわけですね。

しかし、危ないわけですね。




明治以前、と言いますか、昔であればあるほど、日本人は小さかったです。
これも、うまくできたものですね。
180センチの人と150センチの人では、長屋の部屋もずいぶん違った生活環境であろうな、と感じます。
それに対して、なぜか昔から大きい欧米人は、広い土地の国に生まれていますね。


しかし、これもうまくしたもので、日本でも、山奥などでは、塩漬けにした魚しか食べられなかったようですが、それでも、余地が狭いから、塩漬けにした魚で も山奥まで持っていけたのかもしれません。
また、当然海の近くに住む機会が多かったでしょうから、魚は豊富に食べることができたはずです。

それに対して、アメリカ大陸では、内地では海魚は難しいですね。
また多きな手で秋刀魚くらいの魚をさばくのは大変なのかもしれません。

いろいろ考えるとうまくできています。













さて・・・・・・
日付を書いて気づきましたが、「今日はこんな日でした」というようなことを書いてしまいますね(笑)。
まったくもってブログと化してしまいます。

だからどうだとは言いませんが、人間は型にはまりやすいのだろうか?と思います。
その意味では「相対性と二元性からの脱却における、3次元的肉体への重力の及ぼす影響の功罪」というようなタイトルで書き始めると、まったく違ったものに なることでしょうね(笑)。

それで・・・
問うからか、気にしているからか分かりませんが、いろいろ出てきます。


ある消費者金融会社のCMを見ていましたら、「人間の脳は新しい情報が入ってくると、古い情報をおいやる性質がある」というようなことを言っていました。

時間の概念で脳が機能している、ということですね。
もしこれが本当なら、まあ、本当に、人間の肉体はうまい具合に3次元的にできているものだ、と感じます。
あるいは逆で、相対性と二元性の幻想にはまっているから脳がそう働くのかもしれません。
さて、どちらでしょうか?


しかし、これは、全ての情報ではありませんね。
確かに多くはそういう傾向があるようにも感じますが。
私など結構古いことを覚えていたりします。
ただ単に、年を取ったからかもしれませんが、そこまで、老人化はしていないと思いますが(笑)。

重力で考えてみますが、重力は当然、肉体には影響します。
でないと、地球外へ飛んでいってしまうかもしれません。
もうひとつ、重力が精神にも影響している、ということはないのでしょうか?

精神が波動の性質を持ったものであるのなら、経路とし3次元を通る種類のものなえらば、当然なんらかの物質を媒介しているわけですので、まんざらないとも 言えないようにも感じます。
ただ、光やその他の3次元を通る高次元的波動と同じで、重力が関係ないくらい軽いものである可能性が高いですね。


しかし、強引に可能性を考えてみれば、脳にはあるかもしれませんね。
ボクシングで脳がゆれる、と表現する時がありますが、それはつまり完全には固定されていない、ということなのだと思います。
そうであれば、重力の影響は受けていますね。

心臓を押さえて寝ると、悪夢と見る、ということは良くあることですが、脳に重力がかかっているから、相対性と二元性から離れ難いともいうこともあるかもし れませんね。
その意味では宇宙へ行くと、脳はいくらかいつもの位置より浮いているもかもしれません。

それが原因で、宇宙飛行士たちが哲学、精神世界的なことを言い出すのだのかもしれません。
まったくの想像ですが。




政木和三さんが、「小さい頃、どうして月は落ちてこないのだろう?」と思っていたそうですが・・・
宇宙は地球上でモデルを作ったりすると、便宜上、上と下がありますね。
しかし、おそらく重力がないのだから、上も下もないのでしょう。

地球上での下とは、つまり地表であり、それは重力の引っ張る方向です。

私はしばしば”考えすぎ”をしますが、考えすぎとは”深く考える”、”深く考えすぎる”、というものとは違うようです。
どうも、0地点からものを見ずに、立体球座標での0地点から大きくはずれた場所を基準点として、物事を判断することが、考えすぎの正体なのだろうな、最近 思っています。

つまり、何かにおいて、左を考える時に、0地点からではなく、思いっきり右から見たり、あるいはその逆であたり、ということです。

どうも、私の迷いは、こういったとこころから生じることが多いのではないかと、最近考えていますが。
果たしてどうでしょうか?





しかし、こ右へ左へと、0地点がづれてしまうのは何が原因でしょうか?
もちろん、考え方とか、そうなるように運命がなっていた、ということも、そうではあるのですが、先の宇宙を考えると何かが引力の代わりをしているのではな いと想像してしまいます。

肉体でしょうか欲でしょうか?
というよりも、相対性、二元性から脱却した状態とは、精神に引力が働かない状態、ということなのかもしれないですね。

森田健さんの「ハンドルを手放した状態」は、オールを持たずに川の流れに身を委ねる状態ということですが、本当はもっと自由で、無重力空間を浮いているよ うな状態なのかもしれません。

川ですと川上と川下を想像してしまいます。
もちろん、時間の概念のある3次元では、逆にそちらの方が、分りやすいということもありますね。
それと、無重力には、加速感がありませんね・・・。

そうなると、竜巻にもで吸い込まれているような状態でも連想すると、実際に近かっかりするかもしれませんね。
みなさんは、どう思うでしょうか?





もし・・・
学校が一番成績の悪い人を表彰したり、一番成績の悪い人が一流大学へ推薦入学できる、というようなことが起きたらどうなるでしょうか?
一番下というのは、むつかしいはずです。
なぜなら、そういう制度下なら、一番下になりたい、という人がたくさんでてきますので、不正がないようにしたりするからです。
ちゃんと、テストを全部受けたか、マークシート方式のテストもあるでしょうから、カンニングして、どれが間違った解答かを見たりしなかったか、などチェッ クされるでしょう(笑)。

こうなると、今度は真ん中の人が困りますので、ちょうど半分・・・5人のクラスなら3番目ということですが・・・も、好きなところへ推薦入学、ということ にでもすると良いのでしょうか(笑)?


みなさんは、どう思うでしょうか?







さて・・・・・・
0地点ですが、あるいは陰陽合一でもよいのですが、私はバランスを取る、ということに関しては、相当幼少のころから考えていたようです。
しかし、どうもその有様は間違っていたように感じます。
私がやっていたバランスとは、なんともオーディオ的で、メリハリ付ける、ということのようで、低音と高音を同じくらい上げることして、バランスをとるを やっていたように感じます。
つまり、思いっきり良いことがあるなら、思いっきり悪いこともなくてはウエル・バランスとは言えない、というような感じですが。

それは言ってみれば成功があるなら、思いっきり苦労と努力がなくてはならない、であり、
異性にもてるなら、思いっきり美形か優しい人でなくてはならず、であり、
好運なら思いっきり不運もなくてはならない、というような感じです。


しかし、このありさまのバランスは2次元的なものですね。
あるいは、二元性でしょうか。

直感では、バランスが取れているとは言えない、と感じます。
直感ではバランスが取れているとは、真ん中の0地点です。


真ん中の0地点とは、螺旋が真ん中の0になったところのことです。
例のへたくそな図をまた出しますが(笑)。

いつだったか、三輪明宏さんが、「世の中は陰陽でなりたっている。正義があれば悪がある・・・」というようなことを言っていましたが、間違ってはいません が、誤解を招く言葉のように感じます。

正義と悪で考えて見ますが、平和な状態、というのは私は0なんだと感じます。
戦争などは正義・悪の二元性では悪でしょう。
正義とは、その戦争を終わらそうとする勢力でしょうか。
この時、平和な状態を正義と勘違いしますと、2次元 での図でものごとを捉えていると、悪が左端とするなら、平和を右端にもっていってしまう可能性があるように感じます。

2次元の図ならば正義が右端が正解でしょう。


2次元の図で真ん中は本当に0地点でしょうか?
つまり立体的球形の図にしても、真ん中の0に対応するかどうか、ということですが。

なんとなくそのように感じます。

それでは、陰陽合一した姿は2次元の図で真ん中でしょうか?
どうなのでしょうか?

そもそも、本当に悪と正義は陰陽の関係なのでしょうか?
あるいは陰陽と 二元論は同じことを語っているのでしょうか?

何か、違うような気がしてきました。





男と女は陰陽ですし、昼と夜は陰陽のようですが、正義と悪、好成績と悪い成績などが2次元性のように感じます。
想像ですが。
確か先達ての船井幸雄さんの本では昼と夜が二元性、ということだったようですので、あるいは、2二元性でもあり、陰陽でもある,というものがあるのかもし れません。
つまり、どう捉えるかによって、ということなのだと感じます。



どう違うのでしょうか?

男と女が陰陽であるのは、どうも確実なようですが、それを考えると、それ自体の存在そのものには、二元性、相対性が存在しないもの、それが陰陽であ り・・・
正義と悪はどうも二元性であるようですが、それはつまり、0地点をどこに置くかによって、それ自体の存在、程度がいくらでもずれるもの、あるいは、0地点 そのものの持ちよう・・・要するに、ちゃんと0地点を把握しているかどうか、ですが・・・が大切になってくるようなものが、 二元性なのかもしれません。

その意味では、昼と夜は、陰陽ではありますが、昼と夜の境目である0地点をどこに持ってくるかで、捉え方が変わってしまう、という二元性もあるのかもしれ ません。

全部想像ですが、もし正しければ、陰陽は合一が大事であり、2次元性は合一は必要なく、むしろあること自体に問題があり、正しく0地点を把握していること が必要なもかもしれません。

こう考えていくと「正義感」というものは、悪を左とするなら著しく右ということになり、やはり「正しくはないもの」であることも、納得しやすいように感じ ます。



また、天人合一も、神と人を二元性で捕らえると、「合一はありえない」ことになりますが、神と人を陰陽で考えると、「合一すべきもの」というように捉えら れるとも感じます。


つまり、神は人の上ではなく、下でもなく、男と女のように、「ある」ものであり、「それ自体には二元性は存在しない存在」と言えるでしょう。

想像ですが。

 



二元性というのは、相対性も大きく関係していますが、3次元において「抑制」ということも関係しているのかもしれません。


本当は悪があるなら、0地点へ、で良いのですが、相対性のせいか、そこで正義という抑制力を働かせてしまう。
もしそうなら、本当は0に戻りなさい、で、正義という抑制力を働かせる必要はないのかもしれませんね。

しかし0地点を知らないと、強引な逆方向への抑制力でしか、捉えられないのかもしれません。
0を知っているのなら、0であるなら、「抑制力をかけるのは止めなさい」ということは言えるのかもしれません。

そうなると、何が0なのか、となりますが、本質の声である好奇心に従ったものであるのなら、それは0と言えるのかもしれません。
確かに私などは、相当強い抑制力をかけています。
そうでないと、どこかへ飛んでいってしまいそうだ、と感じているからです。
その相当強い抑制力をかけているのに、しばしば、一般的な社会人像とは、かけ離れたところにいてしまいます。

なぜ、抑制力をかけ始めたかと、考えてみますと、ひとつは「暴力」の防止、「強引」の防止、「強制」の防止などから始まり、「まなけ」の防止、「悪行」の 防止・・・などなどへと広がりをみせているように感じます。

幼少時に知り合った・出合った人々(自分を含めて)を見て、幼い私は、「人とは・・・」と思ったことが3次元的原因なのでしょう。
そこには、同じく幼少の友人等も含まれているわけでしょうから、何とも、不確かな分析結果です(笑)。


ここら辺は、もう一度考えてみたいと思います。
0なら、抑制力は必要ない、ということですね・・・。



みなさんはどう思うでしょうか?





森田健さんのサイト:不思議研究所で、面白いことを書いていますね。
素で負けた・・・という話ですが。
詳しくはそちらをご覧いただきたいですが、勉強もでき、自信を持っていた少年が、中学を出て、八百屋さんで1年間働き、「八百屋のおじさんに負けた」、 「お客さんに負けた」として、再び親に頼み、お金を出してもらい奨学金の出る成績で早稲田大学に入りなおした、という話です。

いずれ感想を書いてみたいと思います。









さて・・・・・

「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「

これって、立体に見えませんか?
これは、「」の「を連続して打っただけですが(笑)。



さて・・・・・・

船井幸雄さんの新著「人類と地球 のアセンション」(徳間出版:2006年2月)内で船井さんが引用している「あ るヨギの自叙伝」の部分ですが、もう一度、引用してみます。


(引用256ページより)

『したがって物質科学は、現象世界の基本的構成要素であるマーヤの圏外に法則を探ることはできない。自然はそれ自身マーヤであるから、自然科学は、当然マーヤの性質を取り扱うだけである。 自然は、それ自身の領域においては永遠であり、無限である。科学者たちは、その無限の相を次から次へと、いつまでも探り続けるであろう。
だがそれは、果てしない流転をたどるのみで、永久に最後の本源的なものには到達しないのである。科学は、現存する宇宙の諸法則を発見することはできるが、 その法則をつくり宇宙を操っている大本の原因を発見する力は全くない。引力や電気の もつ森厳な働きについては、いろいろと明らかにされるようになったが、引力や電気の本源的正体は何かということになると、自然科学は、全くとらえるすべを 知らないのである。
マーヤを克服することは、数千年来預言者たちによって指摘されてきた人類の命題である。すなわち、被造物の二元性から抜け出して、創造主の一元性に目覚め ることが、人間の最高の目標であると考えられてきた。人は、宇宙的幻想に夢中になっている間は、その二元性が作り出す盛衰、興亡、昼夜、苦楽、善悪、生死などのくり返しから逃れることはできない。 しかし、何千年も生まれ変わっているうちに、こうしたくり返しの単調さがしだいに苦痛に感じられるようになる。そしてやがて、マーヤの支配を離れた彼岸に 目を向けるようになるのである。
マーヤのヴェールを引き剥がすことは、創造の神秘を解き明かすことである。・・・以下略』


(以上)



さて・・・・
自然はそれ自身マーヤであるから、自然科学は、当然マーヤの性質を取り扱うだけである。
とありますね。

自然はそれ自身マーヤであるから・・・」
とは、どういうことでしょうか?

引力や電気のもつ森厳な働きについては、いろいろと明らかにされるようになったが、引力や電気 の本源的正体は何かということになると、自然科学は、全くとらえるすべを知らないのである。

とありますので、たとえば、引力、電気、などの持つ性質そのものがもうマーヤである、ということなのかもしれません。
つまり、+極とー極が引き合うことや、今CMでしばしば見られるフレミングの法則などなど、すべてマーヤということですが。

究極には、カミナリが落ちても、電気など流れない、と確信できれば、流れない、ということでしょうか?
そうかもしれません。
炒った豆から芽が出るくらいですから・・・。

ということは、今ある科学法則というのは、ひょっとしたら、初めて発見した人が、「こうである」という意図で発見したのでそうであるにすぎず、本当は、そ んな法則などない、ということなのでしょうか?
さすがに、それは言いすぎなのかもしれません。

引力は、おそらくマーヤではないように感じますが。
マーヤでしょうか?
そして、本当は、そのようなものは、ないのでしょうか?

どうも、今ひとつ、科学がマーヤである理論が分っていないようです。


以前引用した岡田多母さんの「あなたへ・・・そして イヤサカへ 存在からの伝言」(知玄舎: 2003年6月9日発行)、第二章「ユクミチ」の「調和とは」(38ページ)にある「喜と不喜」について書かれているところをここでもう一度取り上げてみ ます。

※文章が不自然なのは、以前の文章をできるだけ使おうと思ったからです。
(結局、打っている字の数は、ほとんど変わりませんが:笑)


要約して引用します。
(39ページから)
「自然界での生の基準は「喜と不喜」。
喜はせいの否定を意味し、不喜は 生の否定を意味する。自然界では絶対に喜へ生を向かわせる。つまり快適な方向へ生を進ませる。植物は地中では栄養、水のある方向へ根を進ませ、地上では光 の方向へ枝葉を伸ばす。
なぜなら、生に向かって進んでいるから。強引だろうがそうする。
彼らは絶対に喜に進むので、それぞれ何があってもお互いに喜に進む。
誰もが絶対的に喜びに進むので「誰彼のおかげで喜べない!」はない。それぞれが、独自に生に進むのだから、絶対的生が成り立つ。
自然界では外から何か特別な変化を起さない限り、生は絶対的に成立する。外側から喜(快)をくずさない限り、生は成立する。
だれもが生きている。これを「生かされる」と呼ぶ。絶対的に生かされる価値、すなわち秩序ー生の肯定ーこの秩序の中で独自に向かって生きて進むーこれが生 きるー生の基準。
それぞれが、個々で生かされ生きるーこれが調和ー生の表現。

自然界の価値は生かされて生きる。秩序によって生かされる調和。この価値を生きてこそ自然なので、 センチメンタルモードは有り得ないのが自然界。
センチメンタルモードは不自然。生に対して最も否定的な不喜ということ。
自然界は単純シンプル。
「センチメンタルだから喜べない」、「喜べないからセンチメンタル」でもない。
自然界は「原因と結果」が分離していない。因果がひとつになっているので秩序。
<因 直即(チョクソク) 果>「どうして(因)こう(果)なるのかしら・・・?」などない。・・・」

(以上)


ということです。


何かヒントになるかと思いましたが、どうも分かりません。

ただ、「自然界は「原因と結果」が分離していない。因果がひとつになっているので秩序。<因  直即(チョクソク) 果>「どうして(因)こう(果)なるのかしら・・・?」などない。・・・」

というところは、引っかかります。

これは、ある事象があったとき、それ自体が原因であり、結果でもある、ということなのでしょうか。
つまり、引力がある、と言う事象があったとき、「なぜ、引力が存在するのか?」を科学的に解明する、ということは科学はすると思いますが、実のところ、 「引力があること自体が、引力があることの理由である」ということなのかもしれません。


確かに、「波動の法則」を考える時に、「じゃ、どうして、同じ波動同士は引き合うんだ?」とは考え ないですね。
このスタンスでよいのでしょう。

とすると、因果は求めてもダメ、法則までの追求にすべきです、ということなのかもしれませんね。
もちろん、その場合、どこから、「そのように追求したりしなかったりするものなのか?」という話もあるでしょう。

昔、「汗のついたシャツとチーズを箱に入れると、ねずみが出来上がる」という説があったそうですが (興)、確かにできるでしょうね。
これはミクロに言えば法則ではありませんね。
因果としては成り立つかもしれませんが、今の”科学的”ではありませんね。
因果としては、汗の臭い、チーズの臭いでねずみがやってきた、ということなのでしょう。
そして、おそらくここからが、法則とか、原因、結果の世界なのでしょう。
つまり、「なんで、汗の臭いとチーズの臭いでねずみが寄ってくるのだろうか?」
ですね。


科学ではおそらく、ねずみはどのような成分を含む臭いが好きか?などを分析するのでしょう。
しかし、結局、なぜ、ねずみは、その成分を含むものが好きなのかについては、科学では解明できないのでしょう。

これは、先の岡田多母さんの「植物は水のある方へ根を伸ばし・・・」ということであり、つまり、 喜・快に従っている行動であるわけなのです。


それは、要するに創造主がそう作ったから、ということなのでしょう。

これはもうすべからく、そうで、DNAの中身は解明できても、なんでDNAはこうなっているんだろ う?ということは科学では解明できないでしょうし、脳でもなんでもそうなのでしょう。
創造主が作ったから、ということですね・・・。

そして、少なくとも、我々の3次元的肉体から見て、生きているものに関しては、それ自体の行動はす べからく喜・快に従っているだけである、ということのようです。
そして、人間のみ、センチメンタル・・・つまり、
喜・快を意図的に歪めることもあ るという性質を持っている、ということのようです。
他の自然、と言いますか、もともとあったものというのは、外側からそうされない限り、自らそうするということはないようです。
まさしく人間固有の特性のひとつ、ということですね。




これを岡田多母さん理論で考えれば、因果は同じですので、



科学は、高次元的ロマン(?)を持っている人が好むものでもありますが、理論好きで高知能指数で、唯物論者の好むものでもあります。
この2つはなんとも対象的ですが。

現在の所、少なくとも、日本では後者の、理論好きで高知能指数で、唯物論 者の方が優位のたっているように感じますが、この方たちの根本は、やはり、「なぜ」であり、「何が原因で何が結果なのか?」の追求なのでしょう。
これは、もちろん科学世代である我々大半が、少なくとも、人生のある時点ではそうであったのだと思います。


それで・・・
自然がマーヤである、ということについて、何か分かったでしょうか?

ここまでを踏まえて、再解釈してみますと、
「二元性に捉われている限り、ねずみがどういう臭いを好むのかということについては、いくつも答えがでてくるだろうが、どうして、ねずみがそういう臭いを 好むのかについては、絶対に解明できないよ」
ということなのでしょう。


二元性がどう関係しているのでしょうか?
想像するに、臭いAは好き、Bは嫌い、Cは好き、Dは嫌い・・・で、永遠に地球上の物質を検査し続ける、という意味なのかもしれません。
それはつまりどういうことでしょうか?

きっと、ここから法則でしょうか?


とすれば、創造主がそう作ったから、であり、
運命でそう決められたからであり、
DNAのその部分がONになっているからである、
かもしれません。

とすれば、もし解明しなくてはならないのならば、
運命にはどういう法則があるのだ?
DNAの各スイッチをON,OFFするための法則は?
ということのように思います。

そうなりますと、やはり、高次元を調べなくてはいけない、となるように感じます。
なぜなら、ねずみが汗とチーズの臭いを好きなのは、そういうDNAがONになっているからであり、創造主がそうしているからでしょう。

しかし、まだ、自然がマーヤである、ということには繫がっていないですね。


基本に返りますが、
マーヤが二元性と相対性のまやかし、であるとするなら、自然は二元性と相対性のまやかしそのもの・・・。

今想像するに、自然に「理由などない」、「優劣などない」、なぜなら、全ては、喜、快、生に向かう習性・・・つまり本質の声、に従って 生きているだけである。
そして、そこには秩序があり、それは運命も含めて、創造主が作ったものである、
ということのようにも思います。

そして、唯一の特異性は、人間という生物は、この喜、快、好奇心、生に向かう習性、を故意に歪める 能力を持っている。

ということなのでしょう。

但し、同様人間は、モノを創造する、という能力を持っている唯一の生物でもあるらしいですが。


ちなみに、欲と好奇心は違うようです。
そして、我欲でない、食欲等の欲は、どうも、好奇心と同じく、
喜、快、生に向かう習性・・・つまり本質の声、の仲間の ように感じます。


みなさんは、どう思うでしょうか?


まだ、自然がマーヤ・・・が良く分かりませんが。







2月21日です。


さて・・・・・・
自然がマーヤ、が分かりませんが(笑)。

少し、脱線しますが、最近、渋柿を良く食べます。
禁煙を兼ねてですが、どうも渋柿が好きなようです。
これまでの人生で、2,3度しか食べたことがなかったですが、意外なところに、好きなものがあるようですね。

今日、食べたところ、1つですが、なんとかびていました(笑)。
出しましたが、口に入れて味わってしまいました。
カビと言うのは、苦いのですね。
知りませんでした。
しかし、言われてみれば、あの何とかチーズというかびたやつがありますが、あれと似た味であったようにも思います。
それは、そうでしょうね(笑)。


ハンバーガーの特集、というイギリスで製作された番組をやっていましたが、ニューヨークで4, 800円くらいのハンバーガーを出す店があるようですが、そこでは、最高においしいハンバーガーを作るために、「松坂牛」を使っているようです。
やっぱり、おいしい牛肉、となると、松坂牛になるようですね。
その意味では、アメリカ人も味覚は、それほど日本人と違わないのかもしれません。
そうすると、やはり、アメリカ人にとっての牛肉は、日本人にとっての牛肉と違うものなのでしょう。

彼らにとっては、マグロ・・・は違うかもしれませんが、少なくとも、何でしょう・・・塩鮭くらいの ものなのかもしれませんね。
おいしい塩鮭と言うのもありますが、とりあえず”鮭”というような感じのものでも、お弁当に入っていたりしますね。

そうしますと、その感覚で牛肉を語られても、困りますね。
日本人にとって牛肉は、基本的には、なくても構わないけれども、あれば食べる、程度の食料品のように思います。

要するに、松坂牛に代表されるイメージに近いのかもしれません。

やはり、そういうイメージのものを、病気になる可能性がある、としたら、食べませんね。
アメリカの偉い人が、「交通事故で死ぬより、狂牛病になる可能性は低い」と言って、なんとか日本へ、危険な牛肉を輸入しようとしていますが、これが、お米 ならとにかく・・・やはり感覚を日本人にあわせないと、なかなか商売として、牛肉の輸入はむつかしいように感じます。

また、アメリカでは、牛肉の団体がすごい圧力団体であり、狂牛病も、ほとんど報道されていなし、日 本版ニューズウィークには記事が載ったのに、アメリカ版には載らなかったようですね。
アメリカでは、アルツハイマー病で無くなった人の内、良く覚えていませんが10数%くらいは、この関連の病気であった可能性もあるようなこともニュースで やっていましたが、特に、届出病にもなっていないようで、確かには分らないようです。
勝手に病気になってください、ということなのでしょうか?
自由の国は、良く分かりません。



増田俊男さんのサイトが 更新されました。

なんでも、それによれば、
もう小泉さんは、引き際を美しく飾ることにやっきになっているので、アメリカには必要のない人材になっている。
アメリカは中国経済を肥大させ、日米の対中軍事包囲が完成したところで、バブルがはじけさせるつもり。
その意味で、中国へ資金を出し続けるような親中であり、しかし実は親米の政治家に総理大臣になってもらうつもり、
のようです。

詳しくはサイトをご覧ください。
増田さんは、さも、自分が親米派でもあるかのような書き方、あるいはどちらの見方か分らないような書き方をしていますが、その実、日本に注意を与えている ように読めますね。
いろいろ、あるのでしょう、きっと。


そうすると日本は、これの逆手を取るのが良いのでしょうか?
アメリカに従っている振りをして、実は、アジア平和、世界平和を目指す・・・

それとも、振りなどせず、「私たちは中国ともアメリカとも仲良くしますし、どこからも搾取するつも りはありません。」
と宣言するのか?

とにかく、中国を破滅に追いやったり、アメリカと一緒になって戦争をするようなことは起こらないで しょう。


みなさんは、どう思いますか?



今パックン(パトリック・パーラン:外人)が、
「はじめて日本そばを食べた時に、パスタとぜんぜん違っていて・・・さっぱり、とかあっさり、という言葉の概念は英語にはなかなかないです」
と言っています。


それは、初耳です(驚)。
是非、さっぱり、あっさり、をそのまま英語にして欲しいと思います。

どうも、彼は、前世日本人だったのかもしれない ですね(笑)。
梅干やら、煮物やら、なんでも好きなようです。

「蟹を食べるとき、バターなど付けずに、素材の味をそのまま食べる・・・驚きですね・・・」
とも言っています。





さて・・・・・・

自然もマーヤである、ということですが、ニュートンの法則もまた、マーヤであると書いています。

確かに、宇宙に上と下がないのならば、りんごは上から下へ落ちたのではなく、単に、地表側へ引っ張 られただけ、ということになりますが、そういうことが言いたいわけでもないでしょう。


 ニュートンの法則と言えば、

第1法則 : 慣性の法則.静止または一様な直線運動をする物は,これに力が作用しないかぎり,その状態を保つ.
第2法則 : 物体が力の作用を受けるとき,力の向きに,力の大きさに比例した加速度が生じる.
第3法則 : 作用反作用の法則.力を他に及ぼした物体は、同じ大きさの反対向きの力を及ぼされる.


ということらしいです。
私は、あまり勉強をしなかったので、覚えていませんが(すみません)。

私など、一般人がみますと、 普段の生活の中でも、よく感じられることを法則として、まとめたのだ な、などと感じてしまいますが、政木和三さんが、面白いことを書いています。

「人類を救うヒット商品開発法」(東洋経済新報社:1995年)の66ページにありますが、

(引用)
65頁の図表C「ハンマーの飛び上がる理由」をご覧いただくと分る が、私はこの実験のために金属の10万分の1のひずみを測定できる金属歪計(ストレーンメーター)をつくり、明確な答えが得られた。
図のようにハンマーが堅い物に当たると、当たった部分が圧縮され、そこに圧縮波が発生し、ハンマーの他の端までいき、戻ってくる反射波は圧縮された歪み分 だけ長くなる。長くなることによってもち上げられ、はね返ってくるのである。』

(以上)

ここでの、圧縮されるのは、ハンマーの方です。

私などが考えると、これなども、作用反作用の法則のように思えてしまうのですが、どうなのでしょ う?

マクロに見れば、作用反作用の法則でしょうか?

とにかく政木さんの実験によれば、強さによる違いは書いてありませんが、叩くとハンマーが圧縮さ れ、そこに反射波が生じ、それがハンマーの中で逆側につたわり、また叩いた方へ戻ってくる。
その戻ってくる反射波は、「なぜ」はなしで、圧縮した分だけ長いものであり、それ故、ハンマーがはね返る、ということなのだそうです。
私などは「へぇ」と思いますが、こういうことに詳しい人には常識なのでしょうか?


そうすると、100の強さで押すと、100の強さを自分も受けてしまう、ということだけでなく、
とにかくその強さで押したことによって圧縮した長さだけ、押した支点(してん、がこんなにたくさんあるとは思いませんでした)からはね返る、ということな のですね。

これは、堅いものの話だけなのでしょうか?
はハンマーより対象のほう柔らかかったなら、また違うでしょうし。
よく分かりませんが。


で、とにかくこれも、マーヤだそうです。

みなさん、どのように感じるでしょうか?






2月22日


今まで食べたものの中で、何がおいしかったかな?とふと思いまして・・・
思い出しますのは、千葉県で埋め立てをしている頃、私が幼稚園くらいの頃ですが、近所の鶏肉やのおじさんとその息子(同い年)と、潮干狩りに出かけて、ア サリを取ってきました。

それで作った味噌汁が、ものすごく惜しかったのを覚えています。
どうも、あれよりうまい、と感じた味噌汁は食べたことがないようです。

ちなみに、今、潮干狩(しおひが)りをなんとか打とうとしましたが、「ひよしがり」、と頭が覚えて いるようでなかなか打てませんでした(笑)。





http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/economy/aquaculture/?1140491287
に、海外で、タラ(スケソウダラ)のすり身が人気で値上がりしている、というニュースがありました。
良く分からないのですが、海外でも、牛肉の需要は下がっているのかもしれませんね。

少なくとも、一般的なお年寄りには、肉より魚が「おいしい」場合が多いのではないでしょうか?
カニかまは、サラダに入れるとおいしいですね。
きっと本物のカニよりヘルシーなのではないでしょうか?

ただ、国内消費は減っている、とあります。
どうも、日本だけアメリカ化して、世界中は日本化しているかもしれませんね。


みなさんは、日本食は好きでしょうか?






さて・・・・・・
今日、2冊の天外伺朗さんの本を購入しましたが、
「あの世の科学 この世の科学」(1998)と「宇宙の神秘 誕生の科学」(1999)で、共にPHPです。

「あの世の科学 この世の科学」には、「粒子力学の波動関数には収縮と いう現象があり、観測によってそれまでの状態が変わってまったく別の状態になってしまう・・・」
というようなことが書いてあります。
いつでも出てくる、粒子が2つ穴があると、2つに分かれて・・・という話も、面白いですが、この話は非常に「マーヤ的」です。
もちろんマーヤについても、いくらか書かれています。


「あの世の科学 この世の科学」の151ページを引用してみます。

『たとえば、コペンハーゲン派の考え方によると、「意識をもった人間が観測すると、波動関数の収縮 が起きてそこに物体の存在が観測されるが、意識をもった人間が観測しないと、それは波動関数で表わされていて、何が何だか訳の分らない状態になる」という ことになります。要するに、「意識をもった人間が観測することによって、物体は局所性をもって観測され、そうでない場合いは局所性がまったくないような状 態だ」ということです。さらに言い換えると、「意識をもった人間が観測することによって、はじめてそこに現象界が現れてくる」となります。これは、まさし く唯意識の根本と同じです。・・・』
(以上)


この理屈は良く分かります。
MIDファイルの原理と似ているな、と感じます。
MIDは、ご存知の方が多いかと思いますが、アレンジ済みの音符の塊のファイルですね。
それを、PCにインストールされているシンセサイザー音源で鳴らすわけです。

しかし、これがやっかいで、今はゼネラルMIDという規格がありますが、それ以前、あるいはそうい うように作られファイルでないと、少し困ったことになります。
簡単に言うと、音源のメーカー、ソフトメーカーによって、音がいくらか違うのです。
仮にファイルの1トラックに001(ピアノ)という具合に書かれていた場合でも、分りやすく極端に書けば、001がドラムなんてなっていると、ぜんぜん違 う音ですし、仮にピアノでも、音の伸ばし方等、”ピアノ”とされている音の特長が違ったりしますと、ファイル作成者の意図と違った演奏が、されてしまうこ とになります。

そこで、今ではゼネラルMIDという規格があります。

逆に変な面白みもあって、あるメーカーの特定の音源用に作られたファイルを、違う音源ソフトで鳴ら してみると、面白かったりします。

どうも、上で言っている事は、この「あるメーカーの特定の音源用に作 られたファイルを、違う音源ソフトで鳴らしてみる」ということに似ているのだろう か、と感じます。


ある特定の時間、位置に特定の波動(MIDファイル)があるが、それは観測する人の意識(音源ソフト)によって変わる、ということですね。


これなどは、分りやすいマーヤですが、自然がマーヤとは、どういうことが言いたいのでしょうか?

みなさんは分るでしょうか?






2月23日



さて・・・・・・

頭に映像が出にくい話ですが・・・
この一連の話と関連付けるならば、頭の中の映像も、実は実体はなく、「そういう映像が出ている」という意識によって映像化されている、ということなのかも しれません。

私は頭の中の影像の実体を求めようとしていたのかもしれません。
そして、映像の真偽を確かめようとしていたのかもしれませんね。

そうなると、厳密をきすために、「そうでないものにやまを張って確かめよう」としていたのかもしれ ません。
実体はない、そう思うからそれが見えるだけである、ということが事実なのかもしれません。


そう考えて、やってみたいと思います。


もし、それが回答とするのならば、この現実性かもまた、似たようなことをして生きている可能性があ りますね。
たとえば、「本当に私に実力や運があるのなら、逼迫した状況でも、 抜け出せるはずだ」
を確認しようとして、そういう状況を作る、ということをやっている・・・・と。

想念で、3次元的な物質化した世の中が作れるのならば、その可能性はあるように感じます。

いろいろやってみます。



これを運命は決まっている方向から見てみると・・・
運命とは「意志」の部分が決まっている、と言えるかもしれませんね。
なぜなら、もともとある波動は決まっていて、それを見る人の意志によっては同関数が変わり、さまざまな状態が見える訳ですので、この意味でそれはありえる のではないかと感じます。


これは夢がそうあるように思えます。
私・・・だけかもしれませんが、胸に手を置いたり、うつ伏せになったりして、胸を圧迫して寝ますと、大抵、悪い夢を見ます。
つまり、苦しい、ということにうよって、私の意志が、その気持ちを受けた状態になり、その意志により、夢空間の波動関数が収縮し、悪い夢、怖い夢を見てい る、ということは言えるかもしれません。

実際はどうかは、分かりませんが。


その意味では、意志が決まっていたらもうどうしようもありませんが、それでも、自分の気持ちという ものが、日常のストレス、考え方などにより影響を受けるのだとすれば、同じように、着る物、食べ物などにも影響を受け、そrねいより意識が変わる可能性も あるかもしれません。

どうも、今のところ、感じるのは、締め付ける、ということは、よくないような気がします。
想像ですが。


良く、体格と性格の関係の書いてある本に、「筋肉質な人は神経質」と書いてあります。
事実化どうか、分りませんが、もし事実なら、なんとなく、筋肉質というのは、体を締め付けているイメージがありますね。
そうなると、それにより意識が影響を受け、そういう3次元の物質化された状態が見え、神経質にならざるを得ない状況を作り出している、と言えるかもしれま せん。

確かに、私は締め付ける服装が好きですし、以前は、何か締め付けるような目標があるのが好きでし た。
めがねなども、ものすごく締め付けますし、コンタクトも痛くともしていました。
下着も締め付け系が好きでしたし、ベルトはものすごく締め付けます(笑)。
本当かどうか、分かりませんが、まんざらないこともでないかもしれませんね。


みなさんは、どう思うでしょうか?




さて・・・・・・
先日、クラシック・ギターの荘村清志さんがテレビに出ていました。
この人は、あの「禁じられた遊び」で有名な、ナルシソ・イエペスが1963年に来日した時に認められ、翌年スペインに渡り師事し、69年からプロとして活 躍している有名な人です。


私が中学生の時には、イージーリスニングのLPも発売していて、購入し、よく聴いていました。
懐かしいです(笑)。

そのLPは、悪名高き「カラーLP」で、シースルーに近いような感じの青白でしたが、案の定、入力 が小さく抑えられていました。
カラーLPは要するに、黒色ではなく、色が付いているのですが、どうも、そういった材質だと、いろいろ音質に問題があるようで、音を小さく入れておかなく てはならないなど、工夫が必要なようでした。
入力が小さいと絵私のイメージでは、メリハリがない・・・というか、ふくよかさが出ないような感じがしていました。
もっとも、演奏自体、どこかふわふわした印象の演奏、アレンジでしたので、そのLPは、比較的すんなり聴くことができましたが。


その
荘村清志さんが言うには、
以前は、なんとかギターを鳴らしてやろうという気持ちで弾いていましたが、今はギターに鳴って貰おう、と思って弾いています・・・」
ということでした。

これは、なんとすごいですね。
波動で考えれば、「いたわる」に近い波動を出すことによって、ギター自身に良い波動が届き鳴る、ということもありますね。

もっと、深く、もし、荘村清志さんが、天目レベルでギ ターと対話している、とするのなら、孫さんの炒った豆から芽を出す、と同じようなことが起きているのかもしれませんね。

「ギター、鳴ってくれよ。・・・」
と、いうことですが。


みなさんは、どう思うでしょうか?


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