みなさんはどう思うでしょうか?

1〜20   21〜40   41〜60   61〜80   81〜100   101〜120   121〜140
121〜131はこちら
  141〜160   161〜180 181〜200      
201〜220   221〜240   241〜260   245〜249

250〜253

254〜255

254〜260


  261〜280    281〜300                    
クリスマスアルバムのコーナー    2005年船 井幸雄オープンワールドの感想
                       

 

 

 




256:ALAMOANA&WAIKIKI 
   
  これはDVDです。
しかも一般の人がこしらえたもので、ネット・オークションで確か800円くらいで数ヶ月前に購入したものです。

内容は、基本的に編集なしで、アラモアナ・ショッピング・センターと、ワイキキの一部が取られています。
時間は1時間ほどです。


なぜか、ワイキキとアラモアナショッピングセンターは、旅行へ行きましても、映像を取るようなことがほとんどありません。

ここ2年ほど行っていませんので、「ああ、あったらいいな・・・」と思い、探してみたところ、このDVDにめぐり合いました。

作成者と思われる人が、歩きながら録り続けている映像ですが、手ブレなどありますが、なかなか良く取れています(笑)。

もちろん、趣味がまったく同じわけではありませんので、「もっと、あそこを・・・」と思う場面もありますが(笑)、そこが、またライブっぽくて良い感じが します。
 
私も実は、いつかDVDにして売ってみようか、など と考えていくつか映像を持っているのですが、ズームが下手だったりして、なかなか納得のいくものではありません。


このような環境ビデオというのは、たくさん出ているのですが、どれも、変に懲りすぎているのか、納得いくものが少ないです。
いろいろ買いましたが、どこかの旅行会社で出している「はじめてのハワイ旅行」みたいなビデオが一番、良い映像でした(笑)。
視点が、旅行者になっている、ということでしょうか?
変に、普段見られない上空からの映像やレアな場所などが収録されていましても、ぜんぜん旅情が感じられず、ヒーリング効果はほとんどありません。



良く分からないのですが・・・
映像作成者というのは、どうも、音楽ファン、旅行好き、といった人の気持ちはあまり分らないのかもしれませんね。

以前持っていた渡辺貞夫さんのDVDなども、まるでアイドルのビデオのように渡辺さんの顔のアップばかりで、肝心の演奏している指先、引いてバンドメン バー全員が移っている映像などで良いショットなどが、ほとんどありませんでした。
売ってしまいました(笑)
同内容のCDは持っていますが。




何に由来するのだろうか?考えますが・・・
きっと、渡辺さんなり、ハワイなりのファンではない人がプロデュースしているからなのでしょうか?

渡辺さんのものは、渡辺さんの指先はまったく言うつっていないわりには、他のメンバーのそういった映像は映っていたりしますので、「映さないでくれ」とで も、申し出があったのかもしれませんが。


ハワイものに関しては、想像するに・・・
「行ったこともある場所の映像なんか、見たくはないだろうし、お金を出して買ったりしないよな」
という考えがあるのかもしれません。

しかし、それは落とし穴だと思います。
私は行ったことのない場所は、「行きたい」とは思っても、学術研究や何かの資料でない限り、その映像を持っていたい、とはあまり思わないのではないかと思 います。

逆に、たとえば、多くの人がコンサートなどに行くと、会場でそのパンフレットやCDなどを買ったりします。
それは、女々しいかどうかは別として、その時の感動、思い出を持続させたい、後で思い出してもう一度浸りたい、ということなのだろうと感じます。


ですので、その意味では、今や基本的には秘境などではないハワイに関しては、一度行ったことのある人が思い出にもう一度浸るための内容、というスタンスで 作るのがきっと売れる秘訣なのかもしれませんね。



みなさんは、どう思うでしょうか?










さて・・・・・・
政木和三さんの言う、
「高速では、気体が液体になり、水がコンクリートになる・・・」
ですが、これは逆を言えば、
「超低速では、コンクリートが液体になり、更には気体にもなる」
ということかもしれませんね。
(今更、書くまでもないとは思いますが:笑)。

もちろん、政木さん自身それをして、
「無限小の力で無限大の時間をかければ、奇跡のようなことが起きる」
と言っているのだと思いますが。









さて・・・
なんでも、米では、テロに関係しているのではないか?と思われる人を、第三国に移送して、そこで拷問をして、調査している、ということがニュースでやって いました。

無実だった人が、裁判に訴えているので、明らかになってきているようです。
第三国へ送るのは、「自由の国アメリカ」では、拷問が禁止されているからのようです。

どう思うでしょうか?








天皇機関説、というのがありました。
天皇機関説事件、として日本史に出てきますが。
戦争が始まる5年前・・・昭和10年のことのようですが。

私の解釈では、天皇と言っても、個人としての天皇と、政府の一つの機関としての天皇という意味合いの2つがある。
よって、機関としての天皇が何かあったとしても、それは個人天皇に責任の所在がある、というものではない、という解釈なのだと思いました。

これは、邦人の社長としての立場と、個人である社長としての立場の違いと似ているのでしょう。

解釈が違っていたらすみません。
何せ日本史は、人一倍できない人でしたので。

なんで、急にこんなことが思い出されたかというと、例の女系天皇と女性天皇問題で、どうも調査機関は、皇族の意見、気持ちはまったく無視して、とにかく結 果を急ごうとしているようだ、という報道を聞いたからですが。

皇族というのは、確かに今でも「機関」というべきでしょうか、ひとつの法的制度としての意味と、「肉体を持って、生きている人間としての皇族」という意味 の2つがありますね。


小泉さんは、数に頼んでまた強引にでも、女性天皇制度を成立させるつもりでいるように見えますね。
党議拘束をかけるつもりでいるようです。

今日、占い師が30人出てきて、あれやこれや占う番組がやっていましたが、5,6月に、小泉さんに何カル、と言っていた人がいました。

これは、多くの人が占わなくとも想像が付きますね。

いろいろ問題が出てきていますが、もしこれに党議拘束をかけたら、ほぼ間違いなく、離反する人が多数出てくるでしょう。
天皇についてはいろいろ書いてきましたが・・・少なくとも郵政民営化や、族議員、官僚の問題などと同じに考えて良いものではないでしょうね。


みなさんはどう思うでしょうか?



一応、書いておきますと・・・
男系天皇制度とは、天皇自身が男であっても女であったも、父親の血筋が天皇家である、ということで、
女系天皇とは、
天皇自身が男であっても女であったも、父親の血筋に 関係なく、長男、長女が天皇になる、という制度のようです。

天皇は、有史以来、過去何度か女性天皇はあったようですが、女系天皇は一度もない、ということです。
もちろん、昔々は、天皇には、何人か子供を生む対象となっている女性がいたこともあり、男子が生まれる確立は、今より数段高かったということもあります。


戦後、一応一般人となった旧宮家には、この天皇の血を直接引いている男性はいますし、今でも、皇室などとは親交があるようです。
また、イザとなったら、皇族に戻る覚悟もあると聞いています。
もちろん、中には、「旧宮家の復帰はだめ」と言っている人もいます。

おそらくは、総理大臣選挙よりも、ずっと、国民投票が相応しいのかもしれませんね。


みなさんはどう思うでしょうか?








どうやら、風邪をひいたようです。
みなさんは、大丈夫でしょうか?







さて・・・・・・
どうも、風邪をひいた様で、今日夜の9時ころ、ハワイアンを聴きながら、船井幸雄さんの新著「人類と地球のアセンション」(徳間出版:2006年2月)を 読んでいました。
さすがに集中力が無く、途中で本をおなかの上にのっけたまま、目をつむってハワイアンを聴いていました。
そうすると、まぶたの裏と言いますか、要するに目をいつむっているはずの目に何か見えてきました(?)。

ちょうとビデオカメラのビューファーを除いているような感じで、大きさも同じくらい(?)で、本当は大きさなんかないはずですが、3センチ×4センチくら いでしょうか。
ビューファーの枠の外は明るく薄いオレンジ色っぽいような感じです。

それは、どうもハワイらしきどこかの海のようです。
小さな島か、岩のようなものと空、海が「動画」でしかも、相当高画質、高解像度で見えてきました。
30秒くらいすると消えてしまいます。
どうも意識が高すぎると消えてしまうようなのですが、また、意識を手放すと、似たような景色が見えてきます(笑)。
実は、これは、数日前にもあった現象なのですが、その時は面白いものがあるものだ、くらいにしか思っていませんでしたが、今日のは、複数回でしかも、長 かったです(長)。

意識して出す映像とはぜんぜん異質ものもです。
ものすごい超高解像度でした(笑)。
私は放送用のモニターを扱っていたので、何をして高解像度というか知っているつもりです。

部屋は明るく、しかも、顔にむけて、パルックボール(ナショナルのちかちかしない電球・蛍光灯)の光がもろに当たっているような状況でした。

さて、これが何なのか、これからも続くのか、もっと良く見るようになっていくのか、何か意味があるのか、分かりませんが、あまりに、きれいに目の前に見え ましたので・・・ちょっと不思議なので、書いておきます。

これって、実は、私以外の人には普通だったりするのでしょうか?

みなさんは、どう思うでしょうか?








小泉さんは今日の国会で、「私は格差があることは悪いことだとは思っていません。 能力のある人、努力する人が報われる。今までは悪平等だと言われてい た。それが是正されると、今度は格差だといい、暗いところばかりに、目を向ける・・・」
というようなことを言っていましたが・・・

これはどうでしょうか?
別に今までも、日本では一般的に、弱い人を援助するということを悪いと言ったことはないはずですし、別に努力して能力のある人ばかりが一方的に勝って、負 けた人が窮地に立たされてしまうようなことを望んだことはありませんね。

今まで悪かったのは、努力しても、ちょうど最近明らかになったように、官僚の天下り先になっているような企業が勝ってしまったり、学歴で、大半が決まって しまったり、新しいアイディアがあるのに、古い法律のせい、省庁間のテリトリー争いなどのせいで、できなかったり・・・などのことが間違っている、として きたのが、日本人の考えだと思います。

一体だれが、一度チャンスをつかんだ人だけが、一方的に勝ち、一度でも失敗した人が一方的に落ちていくようなシステムを望んだりしたことがあったでしょう か?

逃げ口上を言うのなら、もう少し・・・少なくとも、中学生くらいは煙に巻けるくらいの話術を使ってほしいと思います。
それでないと、あなたが騙した日本人が可愛そうです。
私はこの程度のことしか言えないような人にだまされたのかと・・・。

少なくとも、自分の考えと違うからという理由だけで、非常に追い出して良いというのは、自民党内だけの常識にしていただきたいと思います。
それは、日本人の常識ではありません。
勝手に自民党の中だけでやって欲しいです。


それは、私だって、自分の考えと同じ考えの人が好きです。
私の周りには、そういう人ばかりのほうが生きやすいです。

しかしべつに、私は私の考えと違う人達を、不要に不幸にしようなどとは思いません。
どうしても、そうしたいような種類の人なら、はじめから総理大臣になどならなければ良いのではないかと思います。
自分で好んでなったからには、やらなくてはならないうことがあるように思います。



みなさんはどう思うでしょうか?







さて・・・・・・
映像が出ない、という話ですが・・・
どうも最近でることが増えました(祝)。
何をしたかと言いますと、「ヤマを張る」を「自分の思った映像の方にヤマを張って」みるようにしたのです。
今まではチェックするために、「出ていない方」、「似ているけれど、違うもの」にヤマを張っていたような気がして、それの逆をやってみました。
まだまだ、慣れになってしまっている所がありますので、100%ではありませんが、確立は上がっています。

これはこれで良いのですが・・・
思うに、頭の映像というのは、実態(×実体)がないのではないか?と最近考えます。
(もちろんさわれないという意味では実体はありませんが)
ヤマをはる、とはつまり、簡単に言えば「思う」ことであるでしょう。

そうならば、きっと思ったからそこにある、のであって、実は検証も減ったくれも無く、そう思ったからそうである、だけが、頭の中の映像の世界なのかもしれ ません。

そうであると、頭の中、というのは、もうすでに、高次元である、ということも言えるのかもしれませんね。
確かに3次元のように、今の私たちが触れる物理的なものはありません。
そして、おそらく世界中にほとんど私くらいでしょうが(笑)、頭の映像を検証しようとしても、結局それは、そう思ったからそれがある、というだけの世界 だった、となれば、私には、頭の中の世界は非常に高次元的なものです。


その意味では、高次元・・・4,5次元あたりでしょうか・・・は頭の中のような世界、ということに近いのかもしれませんね。

みなさんはどう思うでしょうか?







さて・・・
部屋を西洋式の椅子、テーブルの生活から、床に座る日本式に戻しました(笑)。
超時間の正座がつらいです。

前々から思っていたのですが、風邪をひくとうまく行くのです・・・(謎)。
どういうことかと思います。

ひとつは、風邪をひくと体が重くなりますので、「こなくそ!」という気持ちが起こってうまくいくのではないかという推測が出てきます。
しかし、数年検証てみましたが、どうもそうではないようです。

絶対的に言えるのは、強引さはなくなっている、ということです。
体がいうことを聞きませんので、筋力により達成しようとする思考はほとんどなくなります。

これが大きな理由なのかな?とも感じます。
ただ、筋肉うんぬんで言えば、風邪をひきますと、関節などいろいろなところが痛くなります。
喉も痛いですし、その他弱っている箇所なども痛いです。
それが、神経に作用して、ほど良く頭を活性化しているのではないか?とも思えます。
実際、風邪に限らず、どこかを切ってしまった時とか、打ってしまった時など、同様に頭の回転が良くなります。
みなさんは、こういうことは無いでしょうか?

ただ、最近得たいろいろな情報から考えてみると、「諦めている」のが良いのではにかと感じます。
もう基本的に・・・少なくとも3次元的な部分では100%の力は出せません。
ですので、結果も、「今の状態で最善を尽くそう」とか、「本調子の時の8割で良い」とか、そんなようなことを”真剣”に思いながら何かをしていることが多 いように感じます。

これが、よい結果につながっているのかもしれません。
想像ですが(笑)。

これを高次元的(?)に解釈すれば、やはり、通常は、度を過ぎた欲が、高次元、本質などと繫がることを邪魔している、と言えるのかもしれません。

違う言い方をすれば、風邪・・・と言っても、そこそこ重症の部類の時ですが・・・の時などは、ハンドルをうまい具合に手放している、流れに身を委ねてい る、とも言えるかもしれません。

実際、「なるようになれ」という気持ちはあります、そういう時には。
「だって、3次元的自力を出したいのだけれども、どうにも出ないのだからしょうがない・・・」
という感じです。


もし、これらのことが正しいのならば、ハンドルを手放すコツがあるとすれば、「重い風邪をひいているのに、どうしても仕事にいかなくてはならない時のよう な感じだよ」ということなのかもしれません。
良く分かりませんが。

そういう時の心境をもう少し詳しく考えてみますが・・・
決して、「どうでもい良い」とは思っていないようです。
「なんとかしたい」
「できれば良い結果、思ったように物を運びたい」
とも思っているようです。
「しかし、少なくとも、自力はいつもの80%〜50%くらいしかでないな、頭も体も・・・」
と、自覚しているようです。
「その状態での最善を尽くそう」
と思っているようですが、これは、少なくとも、私が「自力」だと思っているものを総動員しての最善ではないです。

しかも、そういう状態の時とは、常にいつもの80%ということではなく、大抵の場合、その%は揺らいでいます。
要するに、しばらくは80%で来て、何かの拍子で50%くらいにストンと落ちたり、案外まともな状態が訪れて、90%くらいになったり、時にはめまいなん かしたりして、30%くらいになったり・・・ということです。
ですので、気持ちとしては、あまり先のことまで考えていません。
せいぜい、1,2分先のことしか確かでないような状況で動いているように感じます。
ここらへんは、政木和三さんの「汝の足元1メートル四方のみ、一所懸命やる・・・」という状態に似ているのでしょうか?



しかしながら、本当は、風邪なんかひいていない時でも、実際はこういうようになっているのかもしれませんね。
自分の3次元的能力も、実は短いスパンで揺れ動いている・・・
1,2分先どころか、本当は地震でも来たら、30秒先だって分かりません。

その意味では、風邪をひいている時というのは、ある意味悟っているような状況と似ているのかもしれませんね。
まぁ・・・本当は風邪をひいていたら、寝ていれば良いのだとい思いますが、風邪をひくとい何かしだしたくなる、という私の性分は、どこか変わっているのか もしれません。

ただ、それも、風邪をひいて、
「しかたがない、寝るしかないな」
と思っているその心境が実はよいものであり、その状態が何らかのインスピレーションうを起しているのかもしれません。

みなさんは、どう思うでしょうか?



もっとも、決まっている運命から見れば、「風邪をひいている」という状態は、ひょっとしたら、何か良いものを呼んでいるような状態と重なっている要素を 持っているのかもしれませんね。

ちょうど、悟ったり、そうでなければ、問いを発した時と同じような状態なのかもしれません。


みなさんは、どう思うでしょうか?







さて・・・・・・
エハン・デラヴィさんにメールを送りました(笑)。
例のキネシオロジー・テストに関してですが。
船井幸雄さんのサイトで、この話題が出ていましたので、講習会でもやっていないかなぁ、と思い、「講習会や実践会はやっていませんか?」という問い合わせ を送りました。

今日、本人名義で回答が来ました(嬉)。

掲載して良いのか確認は取っていませんが、特に問題ない内容かと思いますので掲載します。
ペイストしますと、

エハンです。
キネシオロジーテストを実践する能力を付けたいと思っています。

私はキネシオロジーの専門家ではありませんおで指示できません。プロに聞いたほう がいいと思います。私は翻訳をした人間と紹介する役割だけです。

がんばって情報収集をして下さい。独立個人ですね。

エハン

ということです。

ありがとうございました。


プロに聞いた方が良い、ということですね。
エハンさんが一番プロかと思いましたが、どうも違うようです。

となると、作者本人に問い合わせるか、国内でこれをやっている団体があるかどうかを探すしかないかもしれませんね。

江本勝さんのサイトかなにかを読んでいましたら、この
パワーか、 フォースか 人間のレベルを測る科学」(2004年9月発行:三五 館社)
は、確か、江本さんがアメリカを訪れた時に、知り合 いが紹介してくれた本で、あまりに内容は素晴らしいので、なんとか翻訳できないものか、と思った・・・ということで、今日本に出ることになったというよう なことだったと思います。
となると、江本勝さんの所へ問い合わせれば、何か分かるかもしれませんね。

近いうちに、問い合わせてみようと思います。
また、掲載します。


がんばって情報収集をして下さい。独立個人ですね。
とありますが、これはなんでしょうか?
サイトのURLも送りましたので、それについてでしょうか(謎)?



O−リングテストにしても、これにしても理解してくれる協力者がいないと、できませんね(笑)。
もちろんOーリングテストは、一人でやってみましたが、なんだか良く分かりませんでした。

どなたか、キネシオロジーテストの権威を知りませんでしょうか?





さて・・・・・・
欲について考えますが・・・
本能に根ざしたものですので、女性には分らないかと思いますが、女性の脇の下は色っぽいです(エッチ)。
なんでだろう?と思います。

想像するに、普段見えないところだからではないだろうか?と思います。
外国に数週間〜数ヶ月滞在する、ということが今までありましたが、たとえばハワイで良いのですが、あそこは暑いですし外国ですのいで、みな薄着で胸元が開 いています。
しかも日本人より大きいです(エッチ2)。

そういうことですので、最初のうちは、とても感じます。
しかし、せいぜい1週間もすると、何とも思わなくなってきます。

「ああ、胸があるんだから、あってあたりまえだな・・・不思議ではないな」
という感じです。

じゃあ、裸ならどうかとい言えば、それはみなさんの経験の通りです(?)。
不思議でもあり、当然でもありますね。

もし、これが欲の本質を表わしているとしたら面白いですね。
しかし、先日のアスキーの元社長の話の、「300億円あると、500億円欲しくなる」を考えると、300億円そのものは飽きるが、新たな500億円は欲し くなるようですね。




これは、興味深いパラドックスを含んでいますね。
「有り難く思う」ということを考えれば、おおきな胸の谷間が見えていることに対しては本当は飽きてしまっても、「ありがたい」と思うべきだと思います。
「生かされている」という言葉に置き換えれば正にその通りだと思います。

しかし、大きな胸の谷間に飽きることにより、胸に欲を感じなくなる、ということを考えれば、一つ煩悩が去ったことになるでしょうか?

確かに、どこか外国では、貧困層に政治家をやらせると、不正をするので、富裕層にやらせる、という発想があるようです。
これは、正に、お金に対しての慣れを前提にしている発想ですね。

しかし、日本の官僚などは、すでにお金持ちですし、生まれた時からお金持ちなのに、不正をしたり、天下りをしたりします。
これを考えると、「お金持ちは、もっとお金を欲しがる」とも考えられますので、果たしてどっちが本当なのだろうか?とも思います。

お金持ちのお金の量にもよるのかもしれませんね。
数百億くらいの財産があれば、お金に対しての欲がなくなるのでしょうか?
と、言うより、きっと、そういうことではないのでしょうね。
もっと、根本的なことが、欲のあるなしには必要なのでしょう。

ちなみに、本当に欲と好奇心は分けないと分らないことになりますね。
どうも、コレクターは欲のようです。
研究者は好奇心のようです。


みなさんはどう思うでしょうか?







さて・・・・・・
先日、坂本九さんの「シングルベスト」というのを購入しました。
しかし、たびたび触れる「太陽がどうした・・・」という曲は入っていませんでした。
それで、もう一度調べてみましたが、どうも、中村八大さんの作った「太陽と土と水」という曲のようです。
1971年の作品ということです。

ということは、あの曲をテレビで見ていたのは1971年ということですね。
なるほど、あれが、私が7歳の時か・・・と思います。

不思議なの、母親によれば、私は西郷輝彦さんの「星のフラメンコ」が好きだった、ということなのですが、好きであったことをほとんど覚えていません (笑)。
「黒ネコのタンゴ」あたりは覚えているのですが。

しかし・・・
そうすると、「ヘイ・ジュード」を覚えているというのは、驚異的ですね。
あれは1968年のはずですので、4歳ということです。
ひょっとしたら、原体験ではないのかも、しれませんね。
よく分かりません。

「帰ってきたヨッパライ」が1967年、ということですので、1968年の曲を覚えていても、不思議はないのかな?とも思いますが。
この曲は当時親戚の車の中で聞いた覚えがありますので、原体験あり、です(笑)。



みなさんが覚えている一番古い曲はなんでしょうか?










さて・・・・・・

極限状況でも生きていける不思議な生物を特集してい る番組がありましたが、そこで、ネムリユスリカの幼虫というのが登場していました。
なんでも、通常のボウフラのように水の中に住んではいるのですが、繁殖地域では水がすっかり枯れてしまうこともあり、そういう状況下になると、仮死状態の ようになるようです。
そして、その仮死状態で、70度のお湯、−170度の状態、アセトンと言うプラスチックでんも溶かしてしまう薬品をかけた状態、の3つのケースで実験をし ていましたが、その後水をかけるときちんと生き返っていました。

何でも、記録されている最長では休眠後、17年して生き返った例もあるそうです。
なんでそういういことが出来るのかと言うと、トレハロースを体の中で生成できるから、ということでした。
シイタケや昆布なども、水に戻すと柔らかくなるのは、同じ理屈だ、という説明です。
これと、生命が寝たり起きたりするのと同関係があるのかは、私には分かりませんが、とにかく、水に浸すと柔らかくなる、というのは分ります。
なんにせよ、トレハロースは何かすごいようですね。
というわけで、今日、またトレハロースを2キログラム発注しました(笑)。
ネットオークションや、林原のサイトで購入できます。
林原のサイトには、「トレハロースは低カロリー甘味料ではありません」として、その場合には違う商品を紹介しています。
トレハロースの効能については、http://www.life -web.co.jp/toreha.html に紹介されています。

ちなみに、その番組では、放射線をあてても死なない微生物、6値クロムを無害にする微生物などなどが紹介されていました。






さて・・・・・・
船井幸雄さんの新著「人類と地球のアセンション」 (徳間出版:2006年2月)ですが、井出 章彦 さんという方が紹介されています。
アセンションの啓示を受けているチャネラーですが、なんでも、当人の受けた啓示によれば前世勝海舟さんであったようです(私には確認できませんが)。

もちろん、これは会いに行かねばなりません(笑)。
前世を覚えているかどうかは分かりませんが、「使用人にこんな顔をした人はいませんでしたか?」とでも、聞いてみようかと思っています。


これから井出さんの本を読んでみようかと思いますが、高次元は9次元まである、としているようです。
私は9日生まれですので、9は好きです(笑)。
天使の名前が頻繁に出てきます。
高橋信次さんの本を読み、感銘を受けたようなことも書かれています。
私はドライな政木和三さんですが(笑)。

また、詳しく読みましたら、掲載します。



同じく、
船井幸雄さんの新著「人類と地球のアセンション」 (徳間出版:2006年2月)ですが、どこかに、火星などには、生物はいるが、3次元の生命体しか見えない眼には見ることができない生き物であるので、そ れが確認できないだけである、というような内容がどこかに書かれていたように思います。

それは、ありえそうな話だと思いました。
増してその星が地球より次元が上であったなら、なお更ありえそうですね。
是非もし行くことがあるのなら、犬を一緒に連れて行って、調査してほしいと思います。
あるいは、地球からでも、写真などで犬などに見せて調査できないのでしょうか?

もちろん、犬でなくとも、超能力者でもい良いのですが。







さて・・・・・・
私は、幼少の頃母親から良く「おまえは隙(すき)がないから、もっと隙を作るようにしなさい」と言われました。
この意味は今でも良く分かりませんので、ずっと無視していました。
2000年くらいから、どうも人間関係がにっちもさっちも行かなくなりましたので、ひょっとしたら隙を作ればいいのかな?と思い、どういうことなのか分ら ないまま、自分の考える隙、というのをできるだけ着けようと努力してみました。

しかしどうも、自分の考える隙、というのは付ければ付けるほど、特に年下の人間からそこを欠点として突かれるようになり、更に人間関係を悪化させていたよ うに最近感じ始めました(笑)。

この母親が言う隙とは、意味が分らないのは元より、女性としての立場で言っているのか、母親としての立場で言っているのか、それもまた分かりません。

ただ、分ってきましたのは、隙が無い、と言われるということは、きっと隙が無いのが私なのでしょう。
あるがままとしては、それでいいような気がします。
ですので、少なくとも、私が意図して作ってきた隙は、また元に戻すようにしようと思います。

さて、どうなるでしょうか?

時々女性が男性に向かって、この隙がない、という言葉を言っているのを聞くことがあります。
みなさんは、この意味が分るでしょうか?

私には実際、今だに良く分かりません。





私が考えた隙(すき)とは・・・
私は完璧主義なところがありましたので、それをなくそうと思いました。
要するに、何をしたかと言えば、わざと間違えたままにする、だれでも分るような欠点をわざと分るようにさらす、というようなことなのですが。
しかしそれをやって、それを指摘してきた人間に対して、「じゃあ、俺はこれがこうできるがおまえはできるのか?」とやって、「まったく最近の若いやつ は・・・」と言っているとしたのなら、それはなかなか変なことですね(驚&笑)。




隙を作るのはもう止めますが、但し、優しいとか、軽い冗談とユーモアのセンスというのは、これとは別ものですね。
少なくとも、私の考えた隙を作るのをやめよう、ということです。

やはり、女性と男性は一部別の言語を話す生物とも言えるのかもしれません。
それで良いのでしょう。

みなさんは、どう思うでしょうか?





さて・・・・・・
M&Aですが、あれは「プリティ・ウーマン」ですね。
私はこの映画が好きで、英語の勉強も兼ねて、数10回見ました。

M&Aを繰り返し企業の部門ごとのばら売りを繰り返す主人公が、好感の持てる経営者の会社を乗っ取ろうとした頃、たまたま道で出会ったコールガールの女性 から「人間らしい生き方」を思い出させてもらい、そのM&Aをやめ、そして紆余曲折はありましたが、その女性と結ばれる、というハッピーエンド・ストー リーです。


彼女を道で拾い(?)、ホテルで数日の延長料金を話し合う時に、「DONE!(それで決まり)」という台詞がありますが、それをワイキキのインターナショ ナル・マーケットプレイスで値引きする時に使ったら、
「あなた、本当に日本人?ハワイに住んでいる人じゃないの?」
と言われたことがあります。
危うく、折角値切ったのに、なしになってしまうところでした(笑)。
その時はまだ、2度目か3度目のハワイでしたので、せいぜい本当の日常会話くらいしかできないころでした。
それでも、とても嬉しかったのを覚えています。
「ああ、いつか住もう」と思ったものでした。

あそこは好きです。
刺抜き地蔵の近くで育ったせいか、ああいう屋台の縁日状態は馴染みがあります。


この「あなた本当に日本人?」を言った人の気持ちを推測してみますが、
はじめはたどたどしく話していたのに、最後になって、そういう日本人が言いそうにない英語を話した・・・
ということなのだと思います。
つまりは、途中まで嘘を付いていたのに、最後に決まったら、本音が出てしまった、ということですね。
それはひどいです(笑)。
でも、何か面白いです。


M&Aがらみで、このプリティ・ウーマンのことをどこかのマスコミで言うかと思っていましたが、だれも言いませんね。
もう古い映画ですので、忘れ去られてしまったのかもしれません。
確か1990年くらいの映画だと思います。
当時、アメリカでM&Aが流行っていた、ということですね。




先日、何とかという結婚式プロデュースの会社の社長がテレビに出ていました。
若い人です。
何でも、仲間と一緒に、最初高額納税者にDMを送り、返事がないので、サンタクロースの格好をして押しかけ、最後には、そういう人の集まる社交クラブに、 何とか出入りをして・・・そしてやっとスポンサーを見つけ、今があるようです。
その時クラブで話した人は、DMもサンタの格好も全て覚えていた人だったようです。
すごいバイタリティですね。

それは、まま良くある成功話ですので、良いのですが、最後にその人が天使のつぶやきだか、ささやきだか、という声色をしていました。
どういう意味なのか良く見ていなかったので分かりませんが、終わりに、それをした自分に笑っていました(笑)。
この笑い声がとても好きで覚えているのですが・・・
先日購入した坂本九さんの曲で「幸せなら手を叩こう」がライブなのですが、そこでの九チャンの笑い声が何か、その笑い声に似ているように感じるのです (笑)。

面白いですね。
別にだからその笑い声に何かあるとか、そういう話をしようとも思いませんが、ひょっとしたら、「九ちゃんの
CDを近々買うよ」、という前触れだっとしたら、ロマン チックですね。







野球の松井選手が、帰国しているようで、テレビに出ています。
先だっては、「緊張」について語っていました。
何でも、野球で緊張したことは1回きりだと言うことです。
但し、正確には「あがった」ということのようです。
それは、はじめて甲子園に出た時の第一打席のことだそうです。
足ががくがくしたそうです。

しかし、それ以外は一度もあがったことはないそうです・・・大リーグですら。

どうしているので、あがらないか?ということで、「いつでもいルーティーンを作って、その通りにやること」だそうです。
逆に言えば、日本だろうがアメリカだろうが、大事な試合だろうが、普通の試合だろうが、変わったことをしない、いつも通りに朝起きて、それ球場へ行く、と いうことのようですね。

それと・・・
「観客の声はコントロールできない。コントロールできるのは自分のことだけ。なので、観客の声は気にしない」
とも言っていました。

確かにそうですね。
私は、時として”あがり”ます(笑)。
もう、本当に声も震えてしまうような時があります。
基本的に、何かにおいて初めての時にそうなることが多いようですが。
組織替え後のはじめての会議での発言であっても、声が震えてしまう時すらあります(笑)。

なんでしょうか?
力が入りすぎる、ということはあります。
私は未知なものは、最大限に警戒する、という変なところがありましたので・・・言ってみればその状況を信じていない、ということなのかもしれません。
それと、潜在意識的に、”イイカッコしい”なのかもしれません。
あるいは、そうではないのだけれど、失敗した時の、その団体での周りの人間の取るであろう態度を信用していないのかもしれません。


私は今でもそういうところがありますが・・・どういうところかと言いますと、自分への中傷は差ほど頭に来ませんが、ただその中傷が人道に反するような種類 のもの・・・違う言い方をしますと、自分を第三者的に見て、その自分である他人が、他社から非人道的なことを言われると、自分としてではなく、他人とて頭 に来る、ということがあります(笑)。

この状態の自分は、自分でも、「私は自分か?」と思ってしまうときがあります。
なんなのでしょう?



一時期、集中して自分を客観的に見る、ということをやっていた時がありますので、それが関係しているのかもしれません。
しかし、今は、客観などない、と思っていますので、もう客観的に見ようとは思っていません。
何度も書いていますが、私は、客観または事実とは、その人間の多角的レベルでの主観 である、と思っています。

これは、ひょっとすると、先に書いた、「外国にいると、大きく開いた胸が当たり前になる」とも関係しているようにも思います。
何をしてセクシーというのか?と考えれば、あるAさんにとって、大きな胸がセクシーであったとしても、その人が毎日大きな胸だらけの状況下にいた場合、セ クシーの対象が変わってくるだろう、と思うのです。

その意味では、与えられた環境、周りというものが、その人にとっての”事実”を作っている、と言えるかもしれませんね。

みなさんは、どう思うでしょうか?



このことと、運命を考えて見ますと面白いです。

仮にアジアのどことかの国の人が日本に留学するとします。
自国では普通以上の経済状態でいられるのに、日本は物価が高いですので、「もっとお金持ちになりたい」と思うかもしれません。

あるいは堀江氏でも良いのですが、彼が、今、アメリカ人でアメリカに住んでいたら、きっとM&Aには興味を示さなかったでしょう。
常識で、もう過去の失敗、であることになっています。

そして、大学院出が起業したり、すぐに社長になったりすることもありますので、それ自体はそれほど革新的でもありません。
そうなると、ひょっとしたら、そんなことには興味を示さないかもしれません。
仮に彼の性格が人と違うことをやりたい、という性格であったとしたのなら、それこそ、その国でも常識というものが、まっすぐに彼の行動を決定するものにな るでしょう。

私が仮に戦後すぐに今の状態であったとした、きっとジャズ・軽音楽・ピアニストになったでしょう。
この程度の腕前でも、なれたように思います。
しかし、実際、果たしてなったかどうか分かりません。
なれないから、「なりたかったのに」と思っているのかもしれません。

こうなると、固定された能力、性格、嗜好、経済状態すらも、周りの状況(時代、国、場所、人など)によって、評価、評点、方向性などが異なってくる、とい うのはあるのだろう、と感じます。




森田健さんが、「運命を変えたければ、中身ではなく外側を変えろ」と言っていますが、これは、3次元だけ見ていても、確かなところがあります。

一つは相対的、という意味ですね。
美人、利口、博学、優しい、背が高い・・・これらは正に相対的です。
程度が低くて申し訳ないのですが、学生時代コンパなどをやりますと、そこに来た女性を相対的に見ていました(謝)。
要するに、3人来ていたら、その中で一番好みの女性が1番なのです。
しかし、違う機会であったら、1番は違う人かもしれません。

私を振り返ってみても、ある場所では能力のお陰で3次元的によい思いをしているのに、違う場所では相対的に決して上ではないので、よい思いはできない、し かし、また場所を変えると、やはりよい思いができる、ということもありました。
もっぱら勉強などですが(笑)。

これらは、能力というか、相対的な上下があるものの例ですが、その人が今のままの状態でそう見られたい、見てくれる場所、というような例もありますね。

これは、少し問題ある例ですので、申し訳ないのですが、ハーフの人がいたとして、30年前だったら、なかなか日本では生き難かったろうと思います。
しかし、30年前でも、アメリカにいたとしたら、きっと、日本ほどその人にとっては生き難い場所ではなかったころでしょう。

それでも、今であれば、おそらくは30年前のアメリカと差ほど違わないくらい生き易いようにも感じます。

あるいは、ハーフでしかも身長が180センチある女性だとしたら、30年前なら、会社勤めは難しかったかもしれません。
しかし、30年前でもきっとモデルにはなれたことでしょう。
その意味で、彼女を受け入れてくれる場所と言う意味では、モデル業などは良かったかもしれません。
しかし、今度は、彼女自身の嗜好、志向というものが出てくるかと思いますが。


きっと、こういう関係も、六爻占術などで見れば、興味深い相互関係が見えてくるのかもしれませんね。
私には分かりませんが。



ただ、上の意味で、外側を変えるにしても、どう変えれば良くなるのか・・・については、にわかには分かりませんね。
私は最近、問いの回答(時空ネットワーク)、あるいは本質からの回答(内なる神)は、興味、好奇心という形で返ってくる、というようなことを考えていま す。

もちろん、問いの回答は外応のように、外側の有り様で回答が得られるのが良いのかもしれませんが。

私が最近思っているのは・・・
まずあくせくせず・・・つまり俗的に言えばリラックスした状態ということですが、実は私はこの言葉が良く分かりません(笑)。
リラックスという言葉の意味が、ずっと良く分からないのです(笑)。

要するに、自分は今のままで完全だ。私は幸せだ。理由は分らないが感謝したい気持ちでいっぱいだ、と・・なんだかいろいろな人の受け売りオン・パレードで すが、とにかくそういう気持ちであって、そして、その状態で心に沸いて来た、「あっ、ああやろう」、「あっ、あれやりたい」を損得、理由なしに、やってい くと、そこに何らかの運命改善の回答が待っているように感じています。


本当かどうかは分かりませんが、しばらく試してみます。

みなさんは、どう思うでしょうか?




257:HAWAIIAN HEALING JOURNEY
   
  ハワイアン・ヒーリングCDです。
結構まともに作られています。

なにせじっとしているのが苦手な私ですので、孫さん瞑想を始めた当初は、いつもこのCDをかけながらやっていました。

いろいろ試しましたが、私には、「パッヘルデルのカノン」あたりが一番瞑想にあっているようです。
その他、政木和三さんのアルファ・シータ、バッハなどいろいろ試してみました。
今は、音楽なしでやっていますが・・・。

このCDかけると、部屋の中の空気が暖かくなります。
そう感じる音楽なのか、このCDをかけながら孫さん瞑想をやったので、何か高次元的なことが起きたのか、よく分かりませんが。


 

さて・・・・・・
船井幸雄さんの新著「人類と地球のアセンション」 (徳間出版:2006年2月)ですが、前出の井出さんの他に、田村京子さんという方が登場しています。
この人も、アセンションに関しての啓示を受けている人です。
170ページには次のような啓示と言葉があります。

(引用)
『過去においても 心清い道を歩んできた霊であるから導いておる
苦しい修行などというものを 行ったところで 本心の汚れた者には 良い導きは得られない
素直な心で生きてさえおれば それぞれにふさわしい導きがされるのだ 
日々を素直に生きることが 大事な修行というものだ

結局、人間は自分の心に素直に生きることが大事だと実感しています。・・・・・・』
(以上)

良く聞く言葉ではありますが、これと逆の言葉もまた良く聞きますね。
過去が清いかどうかは、普通の人には分かりませんので、どうしようもありませんが、やはり自分の好奇心に素直に行動するのが、単純ながら、きっと正しいこ となのだと思います。

逆とは、
「好きなことなどやってはだめだ。確実で安定した職業につき、好きなことは合間に趣味程度にやれば良い。人生はそんなに甘いものではない。夢をみていたら ひどいことになるよ」
というようなものですが。

確かに、1990年くらいまでは、これも一つの真理だったかもしれません。
右肩上がりでしたので。
また、実際、自分の夢を追いかけて、失敗して、修正が効かないような人生を歩んでいる人が多かった時期もあったように感じますので、そこらあたりから出た 言葉でしょうか?

それとも、もっぱらゴシップねたを扱う芸能雑誌などの受け売りなのかもしれません。
どちらかと言えば、嫉妬が基本になっての言葉かもしれません。
プロ野球のドラフトで1位になった選手で体を壊してやめていった人とか、1曲だけ売れて消えていった歌手、などの記事を理論化すると、このような理屈が出 てくるようにも思えます。

高度成長期的観点から見れば、上のようなちょっとした失敗ながら、一見上下が大きく見えるようなものは、衝撃が大きかったでしょう。
なぜなら、どこの会社に 入っても、ある程度まじめにやっていれば安定して給料も貰え、地位も得られたわけですので。


しかし、おそらくは、その後のゴシップねたの元になった人達の人生を追っていけば、きっと、そのまま素直に好奇心にそった行動をし続けた人達はなんらかの 意味で、楽しい人生を送ったのではないかと想像します。

「なんで、好奇心に従って生きると、良い結果になるのか?」
と問われれば、おそらく、
「その人が歩むべき道を、好奇心という形で本質が教えてくれるから」
「その人が歩むべき道を、 ネットワークが好奇心という形で教えてくれるから」
のように答えるでしょうか。
良く分かりませんが。




さて、なんでも、郵政民営化後のことを話し合う会議で、今のところ積極的に郵政事業に参加する意志を示している宅配業者はいないようですね。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060204-00000071-jij-biz

に、そんなニュースが出ています。
まあ、外国では民営化したところ、赤字だ、という事実が伝わって来ていますので、なかなか大変なのでしょう。
増田俊男さんも、わけあって自民党を応援するまでは、郵政事業のように国の根幹をなす事業は峰以下するべきではない、と言っていましたが、私もそう感じま す。
ただ、アメリカが民営化しないのは、きっと、何かの捜査をする時などに都合が良いからなのかもしれませんが、どうなのでしょうか?

なんでも、郵便料金が全国共通なのは、郵便の世界協会みたいなのがあり、それでそうしなくてはいけない、と決められているそうです。
そうなると、離島もきっと同一料金体系にしなくてはならないはずですので、大変ですね。
















さて・・・・・・
船井幸雄さんの新著「人類と地球のアセンション」 (徳間出版:2006年2月)ですが、
前出の井出さんですが、やはり、高橋信次さん同様、 反省をしなくてはいけない、人のせいにしてはいけない、ということを強く主張しているように読めます。

もちろん高橋さんの影響を強く受けているようですので、当然といえば当然なのだとは思いますが。

私も反省の言わんとしているところは分ります。
失敗したら、間違ったことを反省して、直せ、ということなのだと思います。

また、この方は努力の人のようです。
機械体操から、極真空手(黒帯)・・・自分のように体が固い人間、争うことの嫌いな人間には向いていないことであったので、大変な努力を要したら、なんと かしてものにした、というようなことが書かれています。
家が傾くくらい、関節を柔らかくする運動をし、喧嘩10段と言われている師範について懸命に空手を学んだそうです。
それは努力の賜物とし、努力の必要性を説いています。

どうなのでしょうか?
 
私は井出さんを良くは知りませんが、それでも、一角の人物として認めた上で、私は「反省」ということと、「努力」ということに、疑問があります。

それらは、おそらく本当は、好奇心と探究心なのではないかと思います。

私は努力を語る人で、
「これだけはいくら努力してもできませんでした」
「一生懸命やったのですが、どうしてもこればかりは興味が持てず、やめてしましまいました」
のような言葉が出てこない人の言う言葉は100%は信用できません。

そうでないと、ただの「好運な人間」としか見えません。

むしろそれなら、船井幸雄さんのように、「私は芸術などには一切興味がありませんでしたので・・・」と努力さえする気が起きなかったことがあるような人間 の方は説得力を感じます。

そうでなくては、甲子園出場までは行けたが、プロ野球選手にはなれなかった人などのケースが納得が行きません。
絶対にこの種類の人は努力をしています。
ひょっとしたら、同期でその後、プロ選手としてものすごい活躍をした選手よりも”努力”をしたかもしれません。
やはり、そこには、努力などではどうにもならない運命があると思います。

それを無視して、努力というのは、私は絶対に間違いだと思います。

そうであるなら、先の田村京子さんのように、

(引用
70ページより
『過去においても 心清い道を歩んできた霊であるから導いておる
苦しい修行などというものを 行ったところで 本心の汚れた者には 良い導きは得られない
素直な心で生きてさえおれば それぞれにふさわしい導きがされるのだ 
日々を素直に生きることが 大事な修行というものだ

結局、人間は自分の心に素直に生きることが大事だと実感しています。・・・・・・』
(以上)


の言葉の方が納得が行くのです。


ですので、この井出さんの言葉でも、努力と反省ではなく、もう少し深く考えていけば、好奇心と探究心 になるのではないかと感じます。
船井幸雄さんは、どのように思って、この2方の言葉を掲載したのでしょうか。

私は
、井出 章彦 さんは「素直な人」なんだと思います。
ですので、結果、ふさわしい道として、器械体操であったり、空手という自分でも気がつかない”ふさわしい道”にたどり着き、そして、その結果、好奇心があ ることですので、一所懸命でき(努力ではない)、探究心を持って望めた(反省ではない)のではないかと思います。

もちろん、たどりつけた理由は、私的に言えば、本質の声を正しく聞くことができた、あるいは、ハンドルを握り締めない上体であった、ということなのだろい うと思います。

逆に、私のように素直ではない人間として今生生まれてきたのなら、そこら辺は分るのではないでしょうか?
あまりに素直すぎるため・・・それは良いことですが・・・その素直という素性が、どれほど生きることに対して大切であるのかが、今ひとつ分っていないので はないか?と感じます。

とは言え、そんなことが分っているより、「素直」であれば、井出さんのように、人生はうまく運ぶのでしょう。







但し、もしアセンションがあるのなら、あるいは、そうでなくとも、このような精神世界、宗教などの世界に興味を持つのは、よほどでない限りは、藁にもすが りたいくらいに、3次元の糸が絡まってしまっている人間であることが多いように思います。

もちろん、中にはそうではなく、俗に言う「悟り」を「目標」にするほどに、精神性の高い人間もいるのだろうとは思いますが。

そういう藁にもすがりたい人間が、残念ながら、井出さんほど、本質と太い結びつきを得ていないでしょう。
しかし、そういう人をかわいそうと見るか、甘えるんじゃない、とするかは分かりませんが、「努力」と「反省」という言葉では、「救い」にはならないケース が多いのではないかと思います。

堀江氏は努力をした、と思います。
まだ調子のよい頃は、マスコミでも人受けの良い話を良く流していましたが、それによれば、営業活動のようなことから、得意先で調子が悪いと言えば、バイク で駆けつけ様子を見に行く、といったことまで当人自らやっていたようです。
それで、とにもかくにも、比較的法律の範囲内でのことをしていたであろう時期でも、きちんとある程度の大きさの会社にしたようです。
反省もしたことでしょう。
いくら頭が良いとは言え、いろいろやっていれば、失敗もあるでしょうから、当たり前のように反省もするはずです。





ここからは私の想像がかなり入りますが・・・
ある若い作家が、堀江氏をして、「彼の行動は基本的には女性にもてない、ということへの劣等感からきているのだと思います。女性もお金で買える、という彼 の発言にそれを感じます」
というようなことを言っていました。

私はこれは相当高い確立でそうではないかと感じています。
実は私も、一回目の大病の時は、思い返せば、これが原因でした(笑)。
もちろん、スケールがぜんぜん違いますが、一応恥ではありますが話しますと・・・

当時、社内恋愛をしていました。
27,8の時です。
そんな時、私は本社から出来立ての支店へ転勤になりました。
もちろん、なかなか逢えなくなります。
そんな中で、彼女は、良く2人で言っていた洒落たバー兼小料理屋のマスターの子供を妊娠します(笑)。
結局、結婚はせず、いくらかお金をもらって、雑貨屋か何かを開いて、一人で子供を育てたようですが。
私は、なんとも、男としては、どこに気持ちを持っていって良いのか分らないような方法ふられたわけですが。

もともと奥手ですので、そんなに頻繁に彼女ができる人間ではありません。
それでも、やっとの思いで、つきあった女性でしたので、そのショックは相当のものでした。

それでも、当時の私は、負けを認めるのが嫌でしたので、「これは、私にお金がなかったのが一番の原因としか思えない。それなら、絶対、出世してやる。なん としてでもお金持ちになってやる」と思いました。

それで、営業に全力で当たりました。
支店は少人数でしたが、それでも、営業成績はどんどん上がっていきました。
そんな中でも、汚いことは一切しませんでしたが。
そうとは言え、私という人間においては、精神と体力の限界までやりました。
どちらかというと、「怒り」を努力の源にしていたようです。
私は馬鹿ですので、昔読んだ、「男どあほう甲子園」に出てくる場面で、主人公の甲子園の投げる球を見たある登場人物の言った「この球には怒りが足りない」 と いう言葉ですら真に受け、本当に怒りを糧にしていました。

そうすると、腸を患ってしまいました。
どうにもならない症状でした。
症状は書きませんが(笑)。
最悪の状態になっても、意地で会社に出続け・・・結局最悪の状態から1年くらい出たのですが、それは地方の営業が多かったので、直行が可能だったというこ ともあります。
そのうち、結局、ある大きな会社の代理店でしたし、上役のほとんどがその会社の出身者でしたので、私の状態を見ていた大きな会社の人間からどうやら、 「○○君の状態は相当ひどい」とでも、忠言があったようです。
結局、半年、休業し転職となりましたが。


少なくとも、この状態は努力していない、とは絶対言えない、と感じます。
それは、堀江氏も同様で、仮に彼の意地でもお金持ちになってやる、の原動力が、やはり女性にもてないコンプレックスであったとしても、彼は努力はした、と 思います。

もちろん、今後、反省もするでしょう。
しかし、努力と反省だけでは、おそらく、また同じくらい大きな過ちを犯す可能性があるように感じます。
私は、その後努力で、また違う失敗を繰り返しました。
堀江氏は基本的にパワーがありますので、あのままでしたら、いくら努力と反省をしても、同じくらい世間を騒がす失敗をするかもしれません。






それでは何が足りないかと言えば・・・
一つは、運命は決まっている、という大前提なのだと思います。


堀江氏がもてないのは、彼が悪いのではなく、「運命」でそうなるように決まっていただけのことだと思います。
ほっておいても、時がくれば、ちゃんと伴侶は現れますし、そういう運命でない時にいくら、大金持ちになっても、彼に本当の伴侶など現れません。

なんでも努力で手に入るなどということはないのです。
なんでも努力で手に入るなどと言えば、私であれば、せいぜい、自分の会社と家族に迷惑をかけるくらいで済みますが、パワーのある人であれば、あのように世 間どころか、世界にまで迷惑をかけるくらいに、間違った努力をしてしまいます。


それでは、どうすれば良いのかと言えば、努力、反省を無用に促すのではなく、もてないのなら、それはそれで、その状態を肯定すれば良いのです。
肯定と言っても、「それがバネになって、いつか役に立つよ」的なものではなく、やはり・・・森田健さん式の、「そのままのあなたで完全なのです」、という ことなのだと思います。

強引に舵を握り締めて、自分で運命という川を漕いでいくのではなく、もともとそんなことはできないのだ、ということを認めて、運命の舵を手放す、というこ とが必要なのだと感じます。

そして、はやり、何度も出している
森田健さんの「自分ひとりでは変 われないあなたへ」(2005年:講談社α文庫)147ページ の、自由への扉(体内離脱の世界)として書かれている次のような内容が、本当は堀江氏だけではなく、多くの人に必要なのではないかと感じます。

(アンレンジの上、引用)

従来の価 値観・3次元的、資本主義的価値観
本 来の価値観・本来の姿
なること
あること
嫉妬
肯定
努力
無努力
経験
直感
目標
自然
信念
自由
念力
蘇生

(以上)


いかがでしょうか?


やはり、高橋信次さんの本にあるように、井出さんも、「鉄にできたサビはそぎ落とさなくてはならない」というようなことを言っています。
これは、私的には、森田健さんの言うところの、従来の価値観である”念力”の概念に思えてしかたがありません。

これは、いわゆるスプーンを力で捻じ曲げる念力の元になっている力は4次元のものである。
それに対して、”蘇生”・・・炒った豆から芽を出させる孫さんという超能力者の能力の元は、5次元の蘇生の力である、ということから、本来の価値観とし て”蘇生”という言葉が上げられています。

もちろん従来の3次元的発想なら、サビはまさしくそぎ落とす必要があります。
そしてそれは、正に西洋医学の切り取ると同じなのだと思います。


しかし、来るべき状態・・・それはアセンションなのかもしれませんが・・・において、人間に必要なものは・・・
今まで間違っていた概念がそぎ落とす、念 力、という概念ならば・・・それは、「蘇生」、「無努力」ではないかと思います。

みなさんは、どう思うでしょうか?





私はどうしても、多くのアセンションを唱える人達が、前のアセンションの時と同じことを言い、同じ 間違いをする可能性があるのではないか?と思えてしまいます。


それは、何かと言えば、この「努力→無努力」、「念力→蘇生」によるところが大きいように感じてなりません。


なぜなら、それらは一見、不真面目であり、多くのアセンションを語っているような「立派」な「努力家」の人達、「努力」によって大きなことを成し遂げてき た人達には、荒唐無稽のものに見えるのではないかと思えるからです。

その意味では、良くは存じ上げませんが、田村京子さんという比較的普通の人が受けた啓示の内容に、


(引用70ページより
『過去においても 心清い道を歩んできた霊であるから導いておる
苦しい修行などというものを 行ったところで 本心の汚れた者には 良い導きは得られない
素直な心で生きてさえおれば それぞれにふさわしい導きがされるのだ 
日々を素直に生きることが 大事な修行というものだ

結局、人間は自分の心に素直に生きることが大事だと実感しています。・・・・・・』
(以上)

という、森田健さん式の考え方にいくらか近いものがあったことが、とても嬉しく感じています。


もちろん、今素直であり、今のままで心身ともにうまく言っている人には、井出さん式の説明で良いのかもしれません。




私は今生、3次元では、船井幸雄さんどころか、井出さんの空手の黒帯ほどにも、大きな成果を残している人間ではありませんし、宇宙からの啓示を受けている わけではありません。
せいぜい、欲しいCDが向こうから現れてくれるくらいの直感力の人間です。

しかしどうしても、こう思えてなりません。

 

みなさんは、どう思うでしょうか?










さて・・・・・・
関英男さんや、なわひふみさんの書いていることに影響されたのかどうか良く分かりませんが、 肉食を止めて3週間くらい経ちました。
たばこは止められないのに、肉は止められるところを見ると、やはり、差ほど好きでもないのでしょうか?
但し、正確には、途中、買っておいたベーコンをケイシーさんの書いているように「カリカリにして」食べましたので・・・それでも、3週間くらいは経ってい ますね。

体調が良くなったかと言えば、ほとんど変化ありません(笑)。
もっとも、もともとこの1年弱、鶏肉メインでたまに豚肉という感じでしたので、そんなに、大きく違わないのかもしれません。

但し、大きく違ってきたことがあります。
体臭ですね・・・。
いわゆる音国際・・・・・・ではなく、男臭い匂いというのがしなくなりました(笑)。
良いのだか悪いのだか良く分かりませんが、とにかくしなくなりました。

最近コマーシャルでやっていますね、
「家の旦那はなんだか匂う・・・」
と言って消臭剤を売っています。
失礼な話ですね(笑)。
おそらく、女性には特に感じるのでしょうね。
女学校に行っていた女性が、はじめて共学に通うと、はじめ、あまりに臭いので気持ちが悪くなった・・・という話も時々聞きます(笑)。

家畜の飼育に良い水、食料を使うと、臭いがしなくなる、ということは、船井幸雄さんの本などにも出てきますが、どうやら人間もそのようです。

旦那の匂いが気になるという女性は、どうも食べ物を変えると良いようですね。

どう思うでしょうか?






さて・・・・・・
どうも、思いますのは・・・最近、波動の影響が速くなっているように感じる時があります。
波動を意識しているせいかもしれませんが。

なんで、こんなに今日は変なことがあるんだ?と考えると、重い荷物を持って、知らない間に苦しい顔をしていたりします(笑)。
さて、どうでしょうか?






さて・・・・・・
堀江氏が、本当はもてたいという願望、もてないというコンプレックスで、金儲けに走ったのではないか?という話ですが・・・
なんとかという美人の芸能人と自家用機で南国へ旅行していたようですが・・・ありえますね。
別にそれ自体は少しも悪いことではない、と思います、女性にもてたい、という感情ですね。

ただ、女性にもてたいのなら、せいぜい年収1,000万円あれば、金銭的には、それほど関係ないようですね。
・・・もっと、何か浮かんでくるかと思いましたが、これ以上なにも浮かばないようです。
どうやら、このこと自体には、差ほど興味がないようだ、ということが分りました(笑)。





さて・・・・・

headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060204-00000090-kyodo-soci
によれば、
(引用)
世界に「好影響」日本1位 ワーストはイラン、米国

 【ワシントン3日共同】世界に最も「良い影響」を与えている国は日本−。米メリーランド大が世界の約4万人を対象に実施した英BBC放送との共同世論調 査で、こんな結果が出た。同大が3日発表した。逆に最も悪影響を与えている国は、核問題が国際社会の反発を招いているイランで、次いで米国だった。
 調査は昨年10−12月に米州、欧州、中東、アフリカ、アジア各地域の33カ国で行われた。質問の対象となったのは日本、米国、中国、ロシア、フラン ス、英国、インド、イランの8カ国と欧州。
 調査結果によると、日本が世界に「好影響」を与えているとの回答は、33カ国中31カ国で「悪影響」を上回り、平均すると好影響が55%、悪影響が 18%だった。具体的に何が判断材料となったかについては触れられていない。 

(以上)

ということです。


日本が海外で評判が良い、という報道はほとんどされませんね。
なんでも、ニューヨークのレストランなどでは、必ず日本語名の料理がある、ということです。
真偽のほどは分かりませんが。
ほとんど、というのはどうか分かりませんが、日本料理が西欧で評判だと言うのは、良く聞く話ですね。

アメリカのものは、料理でも、音楽でも、どこか、「硬い」というイメージがあります。
料理的には、きっと、アミノ酸系の味、というのが少ないからなのでしょうか。
音楽的には、何でしょう?
どう理論化すれば良いのか良く分かりませんが、フランスのポップスとアメリカのポップスのブラスのフレーズなどを聴いていると、「ああ、なるほど」と思っ たりする時があります。





PUFFYがアメリカでブレイクしているようですね。
なんでも、彼女等を主人公にしたアニメがすごい人気で、コンサートなどにも、1,000人ほどの会場ですが、長蛇の列ができるほどのようです。
今までも、日本人歌手がアメリカで・・・的な報道はあることもありましたが、PUFFYのは本当のような気がします。
向こうの報道の論調も、「ビートルズの曲調を真似た・・・」のようなものだったように記憶していますが、正しいです(笑)。

本当に・・・日本アニメの影響でしょうか、アメリカの女の子の日本人化が起きているように感じます。
良いことだと思います。
あの70年代から始まったウーマンリブ・・・私は好きではありませんでした。

上の調査は多国に渡っているようですので、一体何がポイントだったのか知りたいとこですが、アニメのようなポップ文化のはたしている影響は大きいかもしれ ませんね。





先日、例の「ゴルゴ30」のさいとうたかおさんがテレビに出ていましたが、もう70近いのにハードに働いていますね。
そこで面白いことを言っていました。
なんでも、素人時代、手塚治さんに作品を酷評されたようです。
曰く「子供に夢を与えるようなものでなくてはだめだ」と言うような感じだったように記憶しています。
さすがの手塚さんも、その後、大人のための漫画が登場してくる、ということまでは読めなかったようですね。
もちろん、それで、手塚さんの評価が落ちるようなことはありませんが。

ゴルゴ30のようなものは劇画と言われていますね。
従来のマンガのように丸くない四角い絵です。
硬い、という意味では、ひょっとしたら先の音楽、料理の例でもそうであるようにアメリカの影響、あるいは資本主義の影響というものがあるのかもしれませ ん。

しかし、いずれにしても、文化として成り立っていますね。

私はゴルゴ30は、なぜか昔から読みにくく、ほとんど読みませんが、好きな人は好きなようで、長いこと人気が続いています。

ただ、読みにくい漫画というのは、ありますね。
私は妹がいますので、女性用の漫画というのも読みましたが、初めて絵を見た時には、タッチが違いすぎて、非常に読みにくかったのを覚えています。

その意味では、絵画なども、幼少から親しんだ人などには、私などとは違った感覚があるのかもしれませんね。
もっとも、それを言ったら、音楽だって、料理だった、何だってそうでしょうが。






アミノ酸の味ですが、あれはどうなのでしょう、やはり海の幸を食べている国のほうがアミノ酸への理解度があるのでしょうか?
アミノ酸の味がないと、料理としては、塩か油でコクを付けることになりますね。
ですので、アメリカ料理は油こいものが多かったりするのでしょうか。

その意味ではソ連などは、案外日本とすぐに仲良くなれる何かを持っている国なのかもしれませんね。
そうでなくとも、今アメリカでもアミノ酸的な味・・・つまりひょっとしたら、それはアニメだったりするのかもしれませんが・・・を、恋しがっている流れと いうものが押し寄せているのかもしれません。

そうであれば、日本がもっと、正しくアメリカと仲良くなれる時も案外近いのかもしれません。


高次元的な話がなく、すみません(笑)。






相対性と二元性からの脱却

さて・・・・・・
船井幸雄さんの新著「人類と地球のアセンション」 (徳間出版:2006年2月)を読み終わりました。

256ページ前後に大変興味深い話が掲載されています。
”マーヤ”ということについてですが。

私はこの言葉を見る機会はこれで2回目です。
1回目は、岡田多母さんのサイトである多母の広場で す。

私は、同サイト内の「天使と語る」にある、まるで森田健さんが書いたような岡田多母さんへの質問(
2005/10/29 (土) 20:47  ID: 72 )に問われて、同サイトへ質問を書いたのですが、正に、その岡田多母さんへの質問(2005/10/29 (土) 20:47  ID: 72 )にマーヤという言葉が登場します。

そこでの岡田多母さんのマーヤについての発言は以下のようなものです。
引用させていただきます。

(引用)
自 己探求の大切なテーマですね。この世は「変化」の中に現象化させていきますが、この時、自己の進化のプログラムを実現する知性が意志です。この意志によら ないものは、進化に対立しますので変化の中で対立に向かう現象を実現します。これが負のカルマ、エゴと言われています。運命を現象だけで捉えると表層の感 覚のみの世界となり、表面的で何だかわからなくなりますよね。お釈迦様は確かこのことを「マーヤ(幻想)」と呼びましたね。・・・・・・』


私はここでは、マーヤの意味が良く分かりませんでした。
岡田多母さんの言葉を読んでもです。
かと言って、深く調べようともしませんでした。
実際は、ネットで調べたのですが、納得の行くようなことが書いてるサイトにたどり着かなかったのですが。


そこで、今回、船井幸雄さんの新著「人類と地球のア センション」 (徳間出版:2006年2月)
の256ページ前後にめぐり合いました。

255ページには、船井幸雄さんは次のように書いています。

(引用)
『近代科学の方法論では、彼らが起す軌跡を理解することができません。その理由について、ヨガンンダさんはヴェーダの聖典にある「物質界は一つの基本的な 法則マーヤ(相対性と二元論の原理)によって操られている」という言葉を引用して説明しています。
(中略)
マーヤによって、本来一体で無限のものが個々別々の有限なものとして存在するようにこの地球上では現れているのだというのです
(中略)
マーヤを克服することこそが人類の究極の命題であるといっているのです。・・・』
(以上)

実はもっと引用したい箇所もあるのですが、新著ですので、船井幸雄さんが書かれていることをあまり多く引用するのも、どうかと思いますので、次に同書内で 船井さんが引用している「あるヨギの自叙伝」の部分を引用してみます。


『したがって物質科学は、現象世界の基本的構成要素であるマーヤの圏外に法則を探ることはできない。自然はそれ自身マーヤであるから、自然科学は、当然 マーヤの性質を取り扱うだけである。自然は、それ自身の領域においては永遠であり、無限である。科学者たちは、その無限の相を次から次へと、いつまでも探 り続けるであろう。
だがそれは、果てしない流転をたどるのみで、永久に最後の本源的なものには到達しないのである。科学は、現存する宇宙の諸法則を発見することはできるが、 その法則をつくり宇宙を操っている大本の原因を発見する力は全くない。引力や電気のもつ森厳な働きについては、いろいろと明らかにあれるようになったが、 引力や電気の本源的正体は何かということになると、自然科学は、全くとらえるすべを知らないのである。
マーヤを克服することは、数千年来預言者たちによって意的されてきた人類の命題である。すなわち、被造物の二元性から抜け出して、創造主の一元性に目覚め ることが、人間の最高の目標であると考えられてきた。人は、宇宙的幻想に夢中にあっている間は、その二元性が作り出す盛衰、興亡、昼夜、苦楽、善悪、生死 などのくり返しから逃れることはできない。しかし、何千年も生まれ変わっているうちに、こうしたくり返しの単調さがしだいに苦痛に感じられるようになる。 そしてやがて、マーヤの支配を離れた彼岸に目を向けるようになるのである。
マーヤのヴェールを引き剥がすことは、想像の神秘を解き明かすことである。・・・以下略』


さて・・・
これらから、私が何を思ったかと言いますと・・
私はかねがね、「
客観または事実とは、その人間の多角的レベルでの主観である」という考えを持っていると書いてきましたが(少し づつ言い方は変わっているが)、上の文章を受けて、私が、ずっと言い表したかったのは、「事実、客観とは、その人間の多角的レベル、あるいは視点による、二元性、相対性でしかない」 ということのようだ、ということです。

相対性とは、つまり、上下のあるものであり、量のあるもので、例を挙げれば、美人、お金持ち、広い、大きい、頭が良い、偉い、美味しい、などのようなこと です。

300億円は大金です。
年収600万のサラリーマンから見れば、夢のような金額です。
しかし、300億円あると、500億円にしたがる、そうです。
きっと、相対性から逃れられない限り、永遠に多くの金額を求めていくことでしょう。

私の部屋は10畳くらいのワンルームです。
以前は6畳のワンルームでした。
その前は、4畳半くらいの実家の部屋の時もありました。
きっと、大邸宅を手に入れても、相対性から逃れない限り、永遠に広さを求めていくことでしょう。

すべからく、こうであるように感じます。

私は二流の私立大学卒業です。
それでも、きっと高卒の人には、”良く”聞えるのかもしれません。
この二流大学という表現も、私の客観でしかありません。
きっと、人によっては3流と表現をするかもしれません。

また、私はなぜか、学歴には相対性をほとんど感じませんが、早稲田卒の人は東大に劣等感を抱くそうです。
そして、東大卒の人は、海外の有名大学などに憧れを持つようです。

かように、相対性とは、劣等感と、もっともっと、のいくり返し以外のなにものも生まないのではないでしょうか?



そして二元性とは、上にあるように、昼と夜、のようなものです。
要するに、陰陽のことではないでしょうか?

男と女、太陽と月、右と左・・・
これらは、本当は陰と陽などではなく、一つのようです。
私もまだ、今ひとつ実感がありませんが、こんなことがありました。

私は都内(あえて東京ではなく都内)生まれの都内育ちです。
そうすると、空が明るい暗いに関係なく、活動時間としての昼は起きてから夜の10時くらいまで、活動時間外の時間としての夜は、それ以降から起きるまで、 のような感覚になってしまいます。

外はずっと、どこかの店が開いていて活動しています。
そうでなくとも、山手線に乗って、2,3駅行けば、夕方の6時なんだか、夜の10時過ぎなんだか、良く分からないような・・・ほとんど同じような空間を手 に入れることができます。

しかし、ハワイのカイルアというところに数ヶ月いたことがありますが、そこでは、もう完全に夜の6,7時を過ぎると夜です。
昼間ワイキキにいても、7時くらいまでには、カイルアの部屋にたどり着こうと思います。
なぜなら、カイルアが7時を過ぎると寂しい、ということもありますし、自炊でなくまともな食事・・・少なくとも口にある食事を取ろうとすると、ワイキキが 一番簡単なのですが、バス停が便利なアラモアナで夕食をとってから、帰路につくのが日課でしたので、そうしますと、6,7時くらいにはアラモアナ・ショッ ピングセンターなどで食事をしませんと、大衆的な店は閉まってしまいます。

ですので、自動的に、そこで活動は終わり、を宣言されるわけです。
そういう生活をしていると、今度は、活動時間としての昼とは夕方6時まで、そして、夜とは、それ以降から朝起きるまで・・・ということになります。

何が言いたいかと言えば、要するに、その人次第で昼と夜など、いくらでも変わってしまうということであり、本当は明確な・・・あるいは実際上、昼も夜もな いのだろう、ということです。



二元性、相対性とは、このように、人間の肉体からの、あるいは、その人の多角的レベル
での主観であり、人はまさにそれを、事実、客観と呼 んでいるだけなのではないでしょうか。

だとすれば、そこにマヤカシがあり、それにより人間が元々持っている神性が、一般的ないはなかなか表面に出てき難い理由があるのではないでしょうか?
そして、それこそが、何らかの意味で人間が気が付かなくてはならないもののように感じます。

マヤカシがもし、適当でない表現なのであれば、それは、時空から人間に問われた謎解きということなのかもしれません。



上記から分るように、二元性、相対性は、エゴ、我欲を呼びますね。
世間では、比べるのはいけない、とは良く言われます。
小学校では、徒競走で順位をつけるのが良くないので、みんな一緒にゴールに入りましょう、としたりしているところもあるそうです。

これが良いのどうかは分りませんが、少なくとも、比べるのは何かいけないようだ、というところまでは比較的多くの人間が気づくようです。
しかし、体の大きな人は小さな人よりたくさん食べなくてはなりませんし、薬なども大人、欧米人の方が量が多いです。
これは、その他の大小でも言えることだと思います。
また、長い距離を走るには、短い距離よりもガソリンが必要です。

こういった”事実”により、人間はやはり大小という相対性からなかなか逃れにくいのではないかと感じます。
しかし、これは何なのでしょうか?

お金の大小のようなものなら、「足りるを知る」ということで解決ができるように感じますが、これらはそうは行きません。
隣のお店に買い物へいくより、海外旅行する方が時間もかかります。

おそらく・・・これすらも、どこかにマヤカシがあるのかもしれません。
つまり、幻想ということですが。

もしそうであれば、本当は足りるを知る、などではなく、もっと違う何かを感知しなくてはいけないのかもしれません。

今のところ、それは分かりませんが・・・。




ただ、分りますのは、相対性、二元性を求めていては、何の解決にもならないのではないか?という想像は正しそうだ、ということです。


「人類と地球のアセンション」 (徳間出版:2006年)
を読んでいて、実はひとつ引っかかる箇所がありました。

238ページですが、そこで、井出章彦さんが次のように語っています。

(引用)
『もっとも大事なことをひと言でいい表わそうとすれば、「愛」ということになります。愛とは想像主の心であり、「永遠の大調和」を目指すものです。三次元 の生活のなかで調和は「助け合い」や「支えあい」「相互互助」によって実現されます。
そして、お互いに助け合い、支えあって生きていることへの感謝の心が大事です。
感謝は謙虚な心をつくり、やがて愛の心を育てます。船井先生がおっしゃる波動の法則にあるように、感謝の心を送ると、愛の光が返ってきます。・・・』

(以上)

なのですが・・・・・・

井出さんの真意は、前後読みますと、大方私は理解できるのですが、ここで言われているように、「
もっとも大事なことをひと言でいい表わそうとすれ ば、「愛」ということになります」というような言い方は、私は問題があるように感じ ます。

おそらくは、これを読まれた方の多くが、井出さんを信じれば信じるほど、「愛」をスローガン、目標のように掲げることでしょう。

引っかかって以来、何に引っかかっていたのは、分らなかったのですが、先のマーヤについての記述を読み、はっきりしてきました。
それは・・・
井出さんの真意とは別に、一般論として、「愛」を語ったときに、それには、「量」を生じるように感じます。
「量」があれば、そこには、相対性が発生します。

つまり、「もっと愛して」、「もっと支えて」、「あの人にはあんなに親切にしたのに・・・」、ということです。
それが、私にとって引っかかるポイントのようです。


マーヤの克服が大事なことであるのなら、私は、「もっとも大事なことは・・・」であるとか、「ポイントは・・・」などのような時に、相対性、陰陽の生じる ような事象を持ってくるのは、問題があるように思いますし、おそらく間違っているのではないかと思います。


くしくも、何度も書いてきた、「陰陽合一」、「天人合一」、「0地点」というようなことこそ、マーヤの克服に繫がることであり、むしろ、マーヤを克服でき たからこそ、「愛」を人に与えられ、「愛」が育つのではないでしょうか?


「陰陽合一」、「天人合一」は、森田健さんの受け売 りであり、「0地点」は岡田多母さんの受け売りですが・・・
総合的に考えるなら、あるいは「もっとも大事なこと・・・」とひとつを挙げるのなら、それは、森田健さんの言う「今のままのあなた(私)で完全です」が適 当のように感じます。

「完全」と言う言葉は陰陽のある言葉です。
しかし、
「今のままのあなた(私)で完全です」ので、それは 永久のものです。
進歩しても、後退しても、「完全」なのです。
ですので、この言葉の裏、陰陽、二元性はありません。
そして、当然、相対性もありません。

ですので、
「今のままのあなた(私)で完全です」が納得できた 時には、「愛」も育つでしょうし、「感謝」の気持ちも自然に沸いてくることでしょう。





「自分ひとりでは変 われないあなたへ」(2005年:森田健著:講談社α文庫)147ページ の、自由への扉(体内離脱の世界)ですが、

(アンレンジの上、引用)

従来の価 値観・3次元的、
資本主義的価値観
本 来の価値観・本来の姿
なること
あること
嫉妬
肯定
努力
無努力
経験
直感
目標
自然
信念
自由
念力
蘇生

(以上)

これが、納得し難い方は、相対性、二元性(陰陽)からの脱却を想定して考えて見ると、何かが感じら れるのではないでしょうか?

私もやってみますが・・・

1:「なること←→あること」は、まさに、今のままの状態で完全である、ということだと思います。
何か他のものに変化することなど必要ないということです。

2:「嫉妬←→肯定」は、相対性の否定ですが、「嫉妬しない」、つまり嫉妬を抑えるのではなく、今 の自分を肯定する、今の自分で完全だ、ということだと思います。

3: 「努力←→無努力」は、努力をしない、何もしない、ということではなく、「もっと努力しろ、「あの人の方が努力の量が多いから成功したんだ」という相対性 の否定で、結果いかんに関わらず、Aさんより努力の量は少なかったかもしれないけれども、それでもあなたは完全なのだよ、ということなのだと思います。

4:「経験←→直感」は、あの人は君より経験があるから〜だ、私の経験ではこれは〜だ、ではなく、 おそらくは「あなたはなんでも知っている」ということではないでしょうか?
森田さんの著作からは、「あなたには360度の可能性がある」という言葉がこれに良く当てはまるように感じますが、私は、「あなたの本質、内なる神と合一 さえすれば、可能性は360度なんだよ」という言葉で解釈もできるのではないかと思います。
それは、経験の量、質などという相対的なものが3次元の何かを決定するのではなく、相対性、二元性からの脱却こそが、大事なのだ、という意味でもあると感 じます。






5:「目標←→自然」は・・・実 は大変私にとって難しい言葉でしたが、マーヤからの脱却を念頭において解釈することにより、より明確になってきました。

つまり、目標を持つ、ということは、「なる」ことであり、現在の自分の否定である。
それは、つまり、相対性を基にした発想であり、現在の自分を肯定できるのであれば、目標など出てくるはずもない。
現在の自分を肯定することにより、自分の好奇心、探究心に素直に従って行動しさえすれば、良いのである。
そして、その姿こそ「自然」である。

ということなのではないでしょうか?






6:「信念←→自由」は、信念と は、二元性のたまものではないでしょうか?
私は神を信じる、でもいいですし、もっと具体的に「私はイエスを信じます」という信念をだれかが抱いたとします。
しかし、それは、その二元性として、「イエスを信じない存在」を念頭に置いていることにならないでしょうか?
もっと分りやすくすれば、「私は正義を貫きます」という信念を持つのならば、その二元性の対象として、「悪」を持っていないでしょうか?
もし、その人が、その人の心から自然にわいてきた感情として「正義」、「イエス」、「神」というようなものがあったとするのなら、別に信念などにする必要 はないはずです。
自由に自然に任せておけば良いのではないでしょうか?



「それじゃ、悪が自然に出てきたらどうするの?」という人もいるかと思いますが、まさに悪こそ、「二元性、相対性」から脱却できないが故に生まれてくる感 情ではないでしょうか?


「人類と地球のアセンション」 (徳間出版:2006年2月)
にも、「チベット永遠の書」を引用して、「闇の霊 性」の例が掲載されています。
それは、まさにゾンビの映画のような世界で、死んだ人を生き返らせ、奴隷のように使っている超能力者の話です。

これなど、主人と奴隷、生と死、そういった二元性、使われるより使う方というような相対性から抜け出せないが故の「悪」ではないでしょうか?

超能力と言いましょうか、高次元の能力をどれくらい使えるか、ということと、その人間の心の”自由度”とは、完全な相関性はないようです。
但し、どの種類の能力が使えるかということに関しては、心の”自由度”は関係あるようですが。

たとえば、例の孫さんの炒った豆の蘇生などは、相当自由な心がないとできないようです。

この死者を生き返らす、という能力がどういう種類のものか、どのように生き返っているのか、などは分かりませんが、恐らくは、生き返った人間が、文句も言 わずに、生気のない目でロボットのように命じられた仕事だけをこなしているということですので、孫さんの豆が「暑いから水をちょうだい」を言う式のものと は別の種類のものだと感じます。

しかしながら、蘇生後、催眠術のようなものをかけられてしまっているのなら、その限りではないのかもしれませんが。

いずれにしても、仮に心の自由度と相関関係がないとしても、この手の人は、死者を蘇らせ、自分の言うことを聞くロボットとして扱いたいということのようで すし、それに興味を持ったヒットラー、あるいは同じようなことを言っている変わった宗教など、すべからく、相対性、二元性からの脱却ができていないが故の 所業のように感じられます。


これらを考えてみても、やはり、相対性、二元性から脱却が、必要なものであるように感じます。







7:「念力←→蘇生」は、森田健 さんの著作を読んでいないと理解ができませんので、少し説明します。

いわゆるスプーン曲げなどに用いられる超能力は、調査の結果、4次元に存在する媒体を介してのものであり、それは、3次元空間を通じて、「力」として、ス プーンなどに直接、物理的(?)に働きかける力です。

それに対して、蘇生に用いられる能力は、天目を通じて、5次元にいる豆の霊、生命体、とコンタクトをして、「生き返ってくれる?」とお願いして、同意を得 ることにより、それは成し遂げられます。




4次元までの能力は、心が自由ではあるものの、それはある意味、単なるわがまま、非常識というレベルでの自由さであり、私的には二元性からは脱却している とは”言えないことはないものの”、相対性からの脱却は、ほとんどしていないような種類の人でも、頻繁に得られる種類の能力のようです。

森田さんの本に出てくる念力超能力者は、人にレストランのツケを払わせたり、特別許可があるのをいい事に、車をぶっとばしたりする人です。
確かに常識に囚われず自由ですが、せっかちであったり、お金の価値などにはきちんと縛られているように感じられます。
但し、この人をして、二元性からは脱却している、相対性からは脱却していない、というような分りやすい理論的説明が可能なのかどうかは疑問ですが。

あるいは、質の低い超能力者として、良く言われる動物霊の力を借りている人なども、決して5次元の力を借りることができるような種類の人ではないように解 釈できますが、単純に4次元の能力を使っている、という解釈で良いのかどうかは、分かりません。



そして、この5次元に通じる能力は、心の自由度が高い・・・つまり私的に言えば、二元性、相対性からの脱却度が高くないと、得られない能力のようです。

これをして、
「念力:4次元の力←→蘇生:5次元の力」としています。



ただ、この対象での、”心の自由度”は、一般的には分り難いものも含んでいます。
車をぶっ飛ばす有名な超能力者(4次元)と、朝食の肉まんを人に頼んで、一緒にいる人数分買ってきたのに、一人で食べてしまう孫さん(5次元)は、私はそ の違いは感覚的に分りますが、今の3次元的価値観で、「どっちも、自己中なんじゃないの?」と言われてしまいますと、説明に困ります(笑)。

他の心に残っている孫さん語録としては、セミナーのため来日して、いつもより帰国が早いので森田さんが理由を聞いたところ、「明日、日本に大きな地震が来 るので
、私は今日中国へ帰ります」であった、 というような事柄です(笑)。

あるいは、デズニーランドの乗り物を怖がったりもします。

しかしながら、指導霊や宇宙人から修行法を教わったり、ものの瞬間移動など一般的な超能力が使えたり・・・要するに一般的な人、考えでは、デズニーランド より、もっと怖いがってもおかしくないような高次元的なことをいくらでもできたり、経験したりしています。



この2人の違いが直感的にでも感じるでしょうか?

例えば私などは、人に言い忘れたことがあったりすると、繫がるまで電話をし続けますし、メールを送りまくりますし、コンタクトが取れるまで気がきではあり ません。

もし、私が明日大きな地震が来ることがはっきり分かったのなら・・・もちろん場所など特定できないと、どうしようもありませんが・・・考えられる手段を全 て講じて、それを伝えようとやっきになることでしょう。

それでも、現在の3次元的価値観では、そうした方が、「素晴らしい人だ」と賛美の言葉を得られる可能性は高いです。
ただ、私は賛美の言葉がなくとも、やりそうなくらい、変わっていますが(笑)。



あるいは孫さんは、人の心もコントロールできる能力があるようですが、それをしようともせず、普通に普通に生活しているようです。
つまりは、先の「闇の霊性」の人がやりたいようなことを、やろうと思えばできるわけなのですが、しません。

私も、できても人をロボットにしとうとも思いませんが、愛の告白がテレパシーでできるのなら、それに頼ってしまうくらいのことはするかもしれません。
・・・ああ、しませんね。それ(テレパシー)でも恥かしい(照)。


理論化こそできませんが、それが、5次元の力を使える種類の人のようです。
そして、どうも、本当に、二元性、相対性を脱却した時の姿というのは、どうも、この孫さんの姿に近い(全く同じではないにしても)もののように感じます。




みなさんは、どう思うでしょうか?



マーヤからの脱却・・・二元性、相対性からの脱却が重要であるようだ。
どうしても、 何か一つ掲げる必要があるのなら、二元的、相対的なものであってよいはずはない。
「今のままの自分(あなた)で完全だ」
5次元、あるいは、本質などと通じるにも、やはり、二元性、相対性からの脱却が重要なのではないか?

ということが主旨です。

そして、それは、アセンションを唱える人の多くの方の説とは、少し違うところがあります。

みなさんは、どう思うでしょうか?


みなさんはどう思うでしょうか?
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クリスマスアルバムのコーナー    2005年船 井幸雄オープンワールドの感想
                       

 

 

 

 

 

 

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