理由もなくこればかり聴いてしまうCDのコーナー

CDはたくさんあるのですが、なぜか、いつもこればかり聴いてしまうCDを紹介します。

 

 

1〜20   21〜40   41〜60   61〜80   81〜100   101〜120   121〜140   141〜160   161〜180 181〜190
191〜200
     
201〜220   221〜240   241〜260   261〜280   281〜300                        
クリスマスアルバムのコーナー                          

 





191:A MAN AND A WOMAN: SAX AT THE MOVIES
   
  サックスによる映画音楽集です。

さすがに、自分でも良く分からなくなってきましたが、ひょっとしたら、このアルバムはすでに紹介したかもしれません。
しかし、とりあえず、初めて紹介するつもりで、ご案内します。

参加ミュージシャンで知っているのは、ニノ・テンポだけですが、ウォーレン・ヒル、エリック・マリエンタル(?)、スコット・メイヨ、キム・リッチモン ド、などのサックス奏者も有名な人かもしれません。

ポイントは、10曲目に、「セイントオブウーマン」の挿入曲のワルツが入ってることです。
この映画は、「天の理と時空のコーナー」に書いてありますので、興味のある方はご覧ください。

ニノ・テンポは、「Somewhere in time」と「As time goes by」に参加しています。

「As time goes by」は、ハンフリーボガートとイングリッド・バーグマンが出演した「カサブランカ」という映画の挿入曲です。

この曲は、私がピアノを始めた原因の一つになっている曲ですが、映画は私にはつまらなかったです。

理由は、おそらく、テレビでのイングリットバーグマンの吹き替えの人の声ではないかと想像します。


その人の声が、どうも私には好みではなかったのです。
いろいろ事情はあるのでしょう。

さて、山岡鉄舟さんという方がいました。
未だ良く調べていませんが、少し調べてみると、なかなか興味深いことを言っている方です。

山岡さんに興味を持ったきっかけは、北方謙三さんの小説「草莽枯れ行く」  (集英社文庫)でした。

山岡さんは剣の達人です。
歴史上での特筆事項としては、勝海舟さんが西郷隆盛さんと無血開城の交渉を行う際に、まず、山岡さんを事前交渉人に任命して送り込み、その時の山岡さんの 交渉により、無事無血開城を行うことが出来た、というあらましです。

その時の西郷隆盛の言葉は、「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」とい うものだったそうです。

私はそこにいたわけでもありませんし、西郷さんから直接聞いた訳でもありませんので、状況は良く分かりませんが、幕府軍側の人間が討幕波の陣地に一 人で入っていったわけですから、それだけでも、多くが推測できるように思います。




この山岡さんを、この役目に任命したのは、勝海舟さんですが、私は昔からこの人が好きです。
以前、大河ドラマで「勝海舟」をやったことがありましたが、その時の主演は渡哲也さんでした。
始まってすぐ、渡りさんが病気のため、松方弘樹さんに変更になりましたが、あまりに2人のイメージが異なるため、なかなか馴染めなかったのを覚えていま す。

当時は「どうしてこんなにイメージの違う二人を交代要員としたのだろう」と思ったものです。
今考え、想像すると・・・・・
渡さんは映画スターです。
としますと、芸能界の上下関係により、同じくらいのネームバリューの人と交代せざるを得ないところがあったのでしょう。
当時の状況を考えて、同じ年くらいで、同じくらいのポジションの映画スターと言うと、松方さん、菅原分太さん、くらいしかいなかったのでしょう。
鶴田浩二さん、高倉健さんあたりは、もっと年上ですし、安藤昇さんはあそのこテレビ局には出れないでしょうし、梅宮辰夫さんもイメージが違います。
そうすると、菅原さんよりは、まだイメージが渡さんに近い松方さん、ということになったのかもしれません。

実際のところは良く分かりませんが。




さて、その勝さんですが、福沢諭吉さんと仲が悪かったのは有名な話のようです。
「氷川清話」(勝海舟)であったか、他の本であったかには、福沢さんが学校を作るか何かで寄付金を勝さんにお願いに来ているものの、どうも考え方の違い で勝さんが断っている様子が書かれています。
すぐにはどのページだか分かりませんので、また分かりましたら掲載します。

今、森田健さんの不思議研究所のサイトで、時々慶応大学とプライドについて語られていますが、その中にあるものが何となく、勝さんと福沢さんが仲が 悪いということからも、想像されるように感じます。

どちらも近代日本の設立には尽力した方ではありますが、福沢さんは、資本主義下の日本の推進力となっていたのかもしれません。

それでは勝さんはどうかと言えば、日本人としての精神を残しつつ、近代化を進めると言うことに対して、大きな影響があったのかもしれません。



これは私の直感による物理的根拠のない意見ですが、「氷川清話」をめくっていくと、そこかしこに、勝つさんらしい発言が見られます。
たとえば、「党派をつくるな、子分をもつな」には、次のようにあります。
(引用)
『○なんでも人間は子分のない方がいいのだ。西郷も子分のために骨を秋風にさらしたではないか。おれの目でみると、大熊も板垣も終始自分の定見をやり通す こ とができないで、子分にかつぎ上げられて、ほとんど身動きもできないではないか。およそ天下に子分のないのは、そらくこの勝安芳一人だろうよ。それだか ら、おれは、起きようが寝ようが、しゃべろうが、黙ろうが、自由自在、気随気ままだよ
○油井正雪でも、西郷南州でも、自分の仕事が成就せぬということは、ちゃんと知っていたのだよ。おれも天保前後にずいぶん正雪のような人物と出会ったが、 この消息は、俗骨にはわからない。つまり彼らには自然に権力がつきまとうてくるので、何とかしなくては耐えられないようになるのだ。
しかし西郷は、正雪のように賢くない。ただ感情が激しいので、三千の子弟の血管を沸かした以上は、自分独り華族様などになって澄ましこむことができなかっ たのだ。それを小刀細工の勤皇論などもって攻撃するのはやぼの骨頂だ。
賢くないとはいうものの、勤皇論ぐらいは西郷も知っている。だから戦争中も自分では一度も号令をかけなかったというではないか。おれは、前からそれを察し ていたから、あのとき岩倉さんが聞きにきたのに、「大丈夫だ、西郷はけっして野心などはない」と受け合ったり、また佐野(常民)などにも西郷の心情をくわ しく説明してやったが、そのために一時とんでもない疑いを受けたこともあった。・・・・・・・・
(中略)
おれはこれほどの古物だけれども、しかし今日までにまだ西郷ほどの人物を二人と見たことがない。どうしても西郷は大きい。妙なところで隠れたりして、いっ こうその奥行きがしれない。厚かましくも元勲などとすましているやつらとは、とても比べものにならない。・・・・・』

※佐野常民
投稿した夜、この人についてのテレビ番組が偶然(?)、やってましたので、書いて おきます。

西南戦争の際に傷病兵を敵味方分け隔てなく救済する必要性を感じ博愛社を設立。
明治20年(1887)に日本赤十字社と名称を変更。
佐野は初代日本赤十字社社長となった。

どうも、この発言からは、私には、エリート意識の否定が読み取れます。


波動の高い人が、リーダーになってはいけない、ということではないのだろうと思います。

ただ、親分、子分の関係にはなるな、とは言っているようです。
これは、どういうことでしょうか?

上で語られたことは、波動の低い人間であれば、取るに足りないことなのだと思います。
親分になっても、義理も人情もへったくれもなく、好きにやりさえすればよいのでしょうから。

とすれば、勝つさんの言っていることというのは、はなから、波動の高い、精神レベルの高い人間は・・・・という前提なのだろうと感じます。


資本主義は波動は低くとも、精神レベルが低くとも、策略家であり、強引であり、権力などの力(フォース)があれば、のし上れるシステムです。

実際、トカゲの尻尾切りがまかり通っていた最近までの状況を考えれば、上と下の関係は、勝つさんの言っているそれとはまったく異なるものです。

時勢をかんがみて、まさに船井幸雄さんが言うように、エゴの時代に流れが入っていくところであったことを考えると、確かに、西郷さんの最後などは、 理解できるものであります。


勝さんの上記の発言は、その時代の流れを感じ取ってのものであったのかもしれません。
つまり、波動の高いものは、これから(当時)の時代、親分になると、つぶれてしまうよ、ということですが。
悪いことではあるが、それでも実際、義理、人情などが通用する世の中ではなくなっていくよ、ということだったのかもしれません。

逆を言えば、それ以前の時代では、波動の高い人が上に立てば、うまく物事が行くような時空の流れであったのかもしれません。

その意味では、今また時流が変わっているようですので、安心して波動を上げることができる時代に変わってきているとも言えるかもしれません。





勝海舟さんと福沢諭吉さんは、安政6年威臨丸で一緒の使節団でアメリカへ行ったそうです。
いろいろ読んでいると、勝つさんが得た気付きは、「近代化はするが、日本の精神を守ったほうが良い」ということで、福沢さんが気付いたことは、「世界に飛 び出して、欧米列強から、技術、精神まで全てを学び取り、一番を目指すべきである」ということだったような気がします。

しかしこれは、なにも、福沢さんだけが、当時そう思っていたわけではなく、一般人も含めて、多くの人が同じように思っていたのだろうと思います。
私だって、一時はそう考えていたときがありました。


ところで書いていて思ったのは・・・
「精神も学ぼう」ということなのですが、これはなかなかポイントのように感じます。

私は今世では日本人なので外国のことは良く分かりませんが、日本には昔から、何かを学ぶときに、「精神を学ぶ」ということが一対になっていたのでは ないかと感じます。


これは、日本国内だけで考える、あるいは広く東洋と考えても、ほとんどのケースで、学ぶべき対象となるもの、人というのは、精神面での成長も含めて、上級 者であり、そして、その精神面の内側を得ることにこそ、大きな真実があったように感じます。


当時この日本人である慣習を持って、欧米列強と接して行った事に、大きな間違いがあったのかもしれません。


あの時代の時点で、欧米は、どういう訳か文明は進んでいるが、実は精神面の発達は実に低いものである、ということを勝さんは、感じ取っていたのかもしれま せん。

それに対して、福沢さんはじめ、多くの方は、「文明が優れているということは、間違いなく、その精神面の発達にも、大きな鍵がある」と、今までの理 論を鵜呑みにしてしまい、そして、間違いを犯してしまったのではないかと感じます。

しかし、単なる想像ですので、本当のところは、よく分かりません。



しかし、この仮説が正しければ、時流が変わりつつある今、東洋、特に日本の精神というものに、とても大きな何かがあるように感じます。



さて、山岡さんの話を書くつもりが勝さん中心になってしまいましたが、あるサイトには、(http: //www.hokuriku.ne.jp/genkai/71tesshu.htm)には、山岡さんが23歳のときに書いた「宇宙の道理」を簡単に説明 した落書きがあると、書かれています。

説明として、一番上が「宇宙界」であり、
「漠として、宇宙界と名付くといえども、切言すれば吾 人 も亦等しきものなり」

「右のごとく宇宙の道理を系統して図解するにあたり、我ひそかに思ひらく、そ も そも人のこの世にあるや、おのおの其の執るところの職責種々なりといえども、その務むる所の業に上下尊卑の別あるにあらず。本来人々に善悪の差あるにもあ らず、人間済世の要として一段の秩序あるのみ。
されば何人によらず、おのおの本来の性を明らめ、生死の何物たるを悟り、かたがた吾人現在社会の 秩 序にしたがい、生死を忘れて、その職責を尽くすべきなり。その責を尽くすは則ち、天地自然の道によるものにして、いやしくも逆らうべからず」

とあるそうです。


サイト内には、ここで書かれている落書きの図は掲載されていないようですが、 非常に興味があります。

山岡さんは、幼くして母を失い、あまりに悲しいので毎日 お 墓参りをしていたところ、高次元と通じる能力が得られるようになった、と何かに書いてありました。

その山岡さんから出てきた言葉が、「宇宙の図」、「本来人々に善悪の差あるにもあ らず」、「天地自然の道」であることに、大きな興味を持ちます。
とは言え、いまだ調べていないのは、なぜかと考えれば、これほどの人なのだから、これくらいの言葉が出てきても、当然だな、と思っているのかもしれません し、おそらくは、船井さんなどが言っているのと同様なことが、語られているのではないかと確信しているのかもしれません。

こういうことを言っている人を、勝さんが、特使として討幕側へ交渉役 として送り込んだ、ということに興味がそそられます。

ちなみに、当時、山岡さんは、決して高い地位でもなければ、だれもが 知るような存在でもなかったようです。



私は勝さんが、かようなわけで、以前より好きなのですが、その想念が引き寄せたのか、いくつか面白いことがあります。

まず、以前、赤坂に小さな小さ事務所を持ち、仕事をしていたことが あったのですが、自転車で(当時、東京の大塚から赤坂まで自転車通勤していた)事務所の近辺を走っていたら、勝さんの旧屋敷跡を見つけました。

木製の小さな碑が立っているだけではありましたが。


また、私の母方の祖父は、昔(戦前)土地をたくさん持っていたそうな のですが、全て博打で全て失ってしまったそうです。
その土地は、
洗足池の周りのほとんどの土地だったそうなのですが、数年前に、勝さんの墓地はどこにあるのだろうと、ふとネットで探して みると、なんと、洗足池の敷地の中にあるということでした。

この公園には、以前、長原というところに住んでいた時に、何度も行っていましたが、ぜんぜん勝さんのお墓には気が付きませんでした。
また、長原に引越しをしようと思った時には、祖父が持っていた土地がどこにあったのかなど、ぜんぜん知りもしませんでした。

その話を聞いたのは、長原から引越しをして、ずいぶんたってからのことです。

晩年、勝さんは、洗足池の近くに別荘を建てていたくらい、その場所が好きだったようですが、その土地を祖父が所有していたかどうかは、分かりませ ん。


また、私はアメリカは、ハワイとサンフランシスコへしか行ったことがありませんが、どうも勝さんが渡米した場所も、サンフランシスコであ り、帰りに寄ったのはハワイだそうです。
実際、ハワイとサンフランシスコは、人気のある場所ですので、さほど不思議でもありませんが(笑)。



1年ほど前、浦賀、横須賀あたりを散歩しに行った時には、勝つさんが渡米の前に、断食修行をしたという東叶神社に、行ってきました。
特に、思い出深いということはありませんでしたので、前世・勝海舟説はないようです(笑)。



小学生くらいの時に見たドラマの中で、勝さんのお父さんが、勝さんが中学生くらいの年頃の時に言った、「もう麟太郎は、自分よりもの知りだから、麟太郎さ んと呼 ぶんだ」という内容の台詞が、どうも、それ以来離れません。

政木和三さんの例になぞれば、その言葉は「前世の自分の言葉」であるのかもしれませんので、もしそうなら、私の子供は、さぞかし立派な人物になるの かもしれませんね。

もちろん、冗談ですが(笑)

みなさんも、理由なく、こびり付いている言葉というものは、ないでしょうか?


どうも、前世、勝家の使用人だったか、友人だったかくらいの可能性はあるのかもしれません。


映画音楽集でした。

 

192:THE MOST BEAUTIFUL VIENNA MUSIC:ウィンナ・ワルツ名曲集
ロベルト・シュトルツ指揮・ウィーン交響楽団・ベルリン交響楽団
   
  ウィンナ・ワルツ集です。
ここから写真のポーズが変わっています(笑)。

私はワルツが好きです。
本当は何でも好きなのですが、ワルツは生まれつき好きなようです。

また、不思議なことにワルツが上手に演奏できます。
私はジャズを演奏する時、早いテンポだといくらかずっこけるのですが、ワルツであれば、そういうことがありませんし、フレーズ的にも、良いフレーズが出て きます。

理由は分かりません。
きっと3拍子が合うような何かがあるのでしょう。

「ウィーンの森の物語」や、「皇帝円舞曲」、「美しき青きドナウ」など10曲が入っています。

1966年、および1969年の録音ですので、アナログ録音です。
それでもシンバルの金属系の高音などもしっかり出ています。





セスは語る」(1999年発行ナチュラルスピリット社)を先日、やっ と読み終わりました。
他の本と併読しながらではありましたが、5ヶ月ほどかかりました。
A4サイズで、750ページほどありましたが、字も、文庫本と同じくらいの大きさで、通常のものより若干小さめのサイズでした。
それせいもあるのでしょうが、なにせ文章が分かりづらいのが、難儀でした。

1文が長い(翻訳ためか?)のと、代名詞あるいは、そのような単語が前のどの事象を指しているのか、とても難しい本でした。
あるいは、そもそも内容が難しいので、前に出てきている事象を完全に把握していないせいもあるのかとも思います。

聖書に言われているキリスト教の話は間違いで、実は3人の人間のできごとによって、今語られている一人のキリストの話ができあがっているくだりなどが、読 み物 としては興味深 いです。
ただ、基本的には、セスが4次元で生きる人間たちに知っておいてほしい、と考えた”本当の時空のシステム”について語られているものです。

「思いが物質化する」という、比較的よく言われることが一番印象に残りますが、なぜ、そうなのか?どういうことなのか?について、時空のシステムと共 に語られています。
 




但し、私だけかもしれませんが、非常に難解です。

池田邦吉(”くにきち”ではないそうです。”くによし”だそうです)さんによれば、精神世界を語る上では、必読の本ということです。
加速学園のテキストにもなっていたようです。

興味のある方は、是非、ご一読ください。
但し高価な本ですので、なかなか購入しようと思われない方が多いかもしれません。
読みたい方は、お貸いたしますので、掲示板にでもどうぞ、お書きください。




書いてあることが事実なのかどうかについては、私には分かりません。
それでも、1960年の初期のアメリカにおいて、輪廻転生が当然であるこように書かれていますので、それはそれで、大きな意味があったことのように思いま す。
それでもセスによれば、本の内容ですら、読む人が起した物質化である、というようなことが書いてありますので、他の方が読んだら違うことが書いてあるかも しれません(笑)。
もっとも、この文章を読んで、セスを読まれた方は、私と同じ物質化された世界にいるようですので、私が読んだものと同じことが書かれている可能性が高いで す・・・・・とかような具合に、頭がこんがらがってきます。
難解です。






先日、ブックオフへ行ってきましたら、天外伺朗さんの古い著作で、デジタルオーディオの欠点について書いてある本がありました。
基本的には、天外さんが知っていたであろうが、知らなかったであろうが、どちらでも良いことですし、知っていて当然だろう、と思ってもいましたので、詳し くは読みませんでしたが、それでも、見つけた時には、やはり、と言いますか、”書いていたのだな”とは思いました。


ところで、CDが売れなくて、困っていると聞きました。
デジタルコピーの問題や、嗜好の多様化など、いろいろ理由はあるのでしょうが、私はひょっとしたら、CDそのものが、長い時間をかけて、人間のCD離れを 作り出したのではないかという仮説を持っています。

私は分かりませんが、私のように初めてCDを聴いた瞬間に、「この音は悪い」と思った人間というのは、少数派のようです。

それでも、その後出てきたいろいろな事実から、やはりCDはアナログレコードよりも音は悪いようです。
これは、ノイズとか低音の量などという問題ではなく、もっぱら高域周波数特性の問題なのですが。

それでも、その後、その点を修正することなく(知っている限り)、MDであったり、その他多くの高域周波数のとぎれてしまっているデジタルオーディオ機器 を作り出してきました。

そうしている内に、長い時間をかけて、多くの人間に、「この音は、悪い。あんまり聴きたくない」
ということを、分からせてしまったのではないでしょうか?

やはり、ノイズがないということはデジタルオーディオの一番の利点ですが、高域周波数は20kHzではなく、100kHzくらいまで、出さなくてはいけな いのではないでしょうか?

もしかしたら、ノイズがないことですら、CDが売れない原因なのではないかとすら、考えてしまいます。


この仮説はどこか、先日書いた孫社長の「年棒に上限をもうけると選手がアメリカにいってしまう」に対しての、私の「野球のレベルをあげれば、みんな日本へ 来る」にも、似ているように思えます。



便利で、パッと見の良いCDは、一見万能のオーディオ・メディアであるように見えたが、実は、人間が根源で求めていたのは、機械で測定した人間の聴覚現界 以上の高域周波数であり、それは、メディアの大きさや、ノイズの量すら超えていた、ということなのかもいしれません。
実際は、良く分かりませんが。



クールビズですが、なんだったかでしょうか、夏用の服装を政府が斡旋してます。
去年の暑さが引き金のようですね。 

これは、面白い現象です。
暑く暑くなっていったら、人間はどんどん、どんどん冷房を強くしていった・・・・
そうしたら、もっともっと厚くなっていった・・・・・・・

それで取った策は、なんとひょっとしたら何億年の前から人間がやっていた、薄着をする、という策だった・・・・・。

しかしこれも、日本人だから、そうできたのかもしれません。

ニューヨークでアロハが流行るのは、いつのことでしょうか?



193:WATANABE SADAO: 渡辺貞夫
   
   このアルバムは、一度、書いたような気がしますが、せっかく写真を撮ったので、もう一度書いてしまいま す。

バークレーに行く前の録音だと思います。
しかし、もうすでに、うまいです。
私の耳には、なんとも評論しようもありません。

ピアノは、八城一夫さん、ベースは原田政長さん、ドラムは猪俣猛さん、長谷川昭弘さん、トランペットは仲野彰さんです。

先日、有名な中古店で6000円で売っているのを見ました。
私は1500円くらいで買いましたが。


1961年4月の録音で、日本都市センターホールを借り切って録音したようです。
このホールはまだあるのでしょうか?
すでにないホールというのはいくつもあるはずです。
厚生年金会館中ホールというのは、もうないはずです。

1961年というのは、軽音楽史的には、ロックンロール旋風が一息ついた年とされています。
ビートルズは、まだ正式デビュー前です。
エルビスが兵役に入った頃です。

 CDが売れないのは高域周波数が少ないせいかもしれない、という話を書きましたが、もう一つ考えられるには、小さすぎてありがたみがない、という ものです。

 雀のお宿の話ではないですが、「大きなつづら」と「小さなつづら」では、一般的には大きいほうが、ありがたいのはしかたのないところです。
それを責められても、「神はそう言うと思いますか?」と、問い返したくなってしまいます(森田健さんではありませんが)。

イソップだったか、グリムだったかの、「金の斧」と「銀の斧」の話なら、まだ分かりますが。


LPレコードは、有り難味がありました。

なにせ、直径30センチもあって、ジャケットは、およそ32センチ×32センチくらいの正方形で、厚紙製です。
見開いたりすれば、64センチ×32センチの長方形になり、そこに写真やら文字やらがたくさん書いてあります。

豪華なものになれば、そこに数ページの写真集まで入っていたりしました。

ユーミンブランドなんかは、左右に色違いの透明シートの貼ってあるサングラスがジャケットに書いてあり、それを切り抜いて見ると、立体的に見える、 というすごいものでした。


レコードジャケットをそのまま額に入れて置いたりしても、見栄えがしていました。
それ故、レコードジャケットには、みな今よりもっと力を入れていたように感じます


確かに、たくさん溜まってきますと、LPレコードは収納場所に困っては来ますが、CDは小さすぎるかもしれませんね。
せめてオマケとして、ジャケットと同じデザインの30センチ四方くらいの硬い紙でできたポートレート風の飾り物での毎回付ければ、ちょっとは違うような気 がしますが。
それならCD屋さんの店先でも、商品は小さなままで済みますし。


私にとって、大きいくて有り難味があったLPは、と考えると、吉田拓郎のベスト盤(確か3枚だったか、4枚組あったような)、カーペンターズのベスト盤 (3枚組)、ビートルズのロックンロール(2枚組)だったでしょうか?

厚紙ですので、写真も色ののりが良く、きれいです。
そして、写真が大きいです。

CDは、写真に迫力がありません。

前田憲男さんの「いそしぎ」の入ったLPは、ジャケットが女性の水着の胸元のアップで、ほぼ実物大でした(なんのことやら)。
CDではそういうことはありません。実物大にしたら、片パイも入りません(くどい)。



また歌詞の字が小さすぎて、読む気がなかなか出てきません。
ですので、CD時代以降、歌詞を丸暗記した英語の曲は、ほとんどないように思います。

私は中学1年生の時に、ビートルズのLPの歌詞を塾の先生に持っていって、カナを振ってもらって、良く歌っていました。
先生の中には、「カナを振ると、なかなか覚えられないから、やめておきなさい」などという人もいましたが、まず、そういうことはありません。
それは、きっと、英語の授業かなにかで、指名されて教科書を読むときのような場合でしょう。

なにせ、こっちは、そのカナを振ってもらった歌詞を、数十回、数百回と歌うのですから、あの頃の柔らかい頭でしたら、いやがおうでも見える英語のス ペルまで一緒に覚えてしまいます。


それと、ケースを含めた材質でしょうか?

LPは、紙です。
CDはプラスチックです。
CDには、人間味が少ないように感じます。

またLPには匂いがありました。
特に輸入盤には独特の匂いがありました。
CDは無味無臭です(食べたことはないが)。




こう考えていきますと、CDはLPに比べて、肉体の五感に訴えてくる要素が、ぐっと少ない品物のように感じます。


今改めて、上記のように考えましたが、思い出してみると、確かCDが出たときに、まったく同じことを考えたような覚えがあります。

もうLPに時代が戻るとは考えにくいですので、CDの時代がしばらく続くのでしょう。
ただ、10年の内には、CDより好音質のメディアが出てくると想像しますが。
その時には、CDよりも、もっと五感に訴えるものに作り上げた方がよいように感じますが。
小さいだけでは、だめなように感じます。



足りない部分ばかりつっついていては、卑怯ですので、どうすればよいのかを自分で少し考えて見ます。

まず、盤の大きさなのですが、現行12センチほどですが、これを何とか、20センチくらいに出来ないでしょうか?
CDプレーヤーは、標準コンポーネント・オーディオスタイルでも、中は空洞の部分が多いですので、きっと、機械的には、問題なくプレーヤーはできるでしょ う。

20センチあると、ケースも大きくなり、ジャケットなども魅力的なものになります。
ライナーに写真などを入れても、見栄えがします。

ケースは現状のCDと同じ形式にするなら、やはりプラスチックになるでしょうが、何か工夫ができないでしょうか?

紙ではどうでしょうか?
CDには紙ケースというのもあります。
ただ、プラスチックに比べて、弱いですので、配送や倉庫での収納に問題があるかもしれません。

個人的にはパウチッコのようにシュリンクされた状態の紙を使うと言うのが、劣化もしませんし、見栄えもよいのではないかと感じます。
ただ、それでも、中身を守るという意味合いでは、若干弱さを感じさせます。

実際は作ってみないと良く分かりませんが。
大丈夫かもしれません。


匂いは作ればよいのだと思います。
ジャケットでもなんでも良いのですが、匂いを練りこむような技術で何とかできないのでしょうか?

匂いはとても大事です。
私が日本にいてハワイを思い出すのは、大抵匂いです。
匂いがした結果、それを検証してみますと、草の匂いであったり、いろいろしますが、大方、強い風と、日差しによって、空中にまった匂いが、うまい具合にハ ワイと同じようにして飛びこんできたときに、そう感じるようです。

また、昔の彼女を思い出すのも、同じ香水の香りを感じた時です(笑)。


いかがでしょうか?
みなさんには、どんな案があるでしょうか?


ちなみに、小さくなって魅力がなくなってしまったものというのは、いくらでもあるように感じます。

ラジカセがそうです。
8センチCDは、さすがに人気がありませんでした。

他にもきっとあるのでしょう?


194:Night with Strings:渡辺貞夫
   
   渡辺貞夫さんの有名なアルバムです。確か1〜3くらいまであったように思いますが。
2は持っていましたが、あまり好みではないので、売ってしまいました。

このCDは、米アマゾンの中古で購入したものです。
日本では中古で1500円ほどで売っていますが、米アマゾンですと$3ほどで、送料が700円くらいになりますが、合計で1000円くらいです。

2枚以上、買えばお徳ですが、中古は、日本のアマゾン同様、他の業者がやりますので、うまい具合に、同じ業者で、2枚以上、欲しいものがみつかる必要があ ります。

ちなみに、右上に丸いアナが開いています。
新古品を中古にするために開けたのか、良く分かりませんが、この穴について説明がなかったのが少し残念です。
それでも基本的には、CDはきれいな状態ですので、構いません。
新品同様です。


内容は、バラード中心にストリングスオーケストラと一緒に演奏されたもののライブ盤です。
とてもよいと感じます。

音質も最高です。

 さて、キリスト教ですが、以前ルーテル教会へ通っている時、湾岸戦争(イランイラク戦争ではない)がありました。
その教会は東大が近いせいもあって、東大の学生の女の子がいました。

その子には、ギターを始めたいというので、一緒に買いに行き、ギターを選んであげたり、教えてあげたりしていましたが(別に付き合っているわけではな い)、そんな中上記の戦争で、どうやら彼女の友人が犠牲になってしまったということでした。

彼女は、そのせいで、心身的にまいってしまったようで、国(熊本)に帰ってしまいました。
その後会っていませんので、学校も含めてどうなったのかは、分かりません。

マタ聞きしたところによると、
「どうして神様は守ってくれなかったのだろう」
というようなことを、言っていたそうです。



私はその頃はすでに、いくら神に祈っても、避けられないことはある、ということを感じており、少なくとも、神は、人の願いを叶えてくれる存在ではない、と 思っていましたので、もし、会う機会が会ったのなら、そういうことを彼女に話してあげよう、とは思っていました。

しかしながら、今ふと思うと、「神は願いを叶えてくれる存在ではない」ということを確信していること自体、すでに私はキリスト教徒ではなかったのかもしれ ません。
もし、それを説こうと言うのなら、なんとも異端の限りだったのかもしれません。

「願いを叶えてくれる存在ではない」のなら、私は当時「どういう存在である」と、説こうとしたのでしょうか?

当時は、「見守ってくれる存在」と漠然と思っていました。

今のように、「宇宙に生かされている」だとか、「神は、汝の体の中にいる」だなんて言葉は、ぜんぜん知りもしませんし、思ってもいません。


「輪廻転生」については、どうだったでしょうか?
確信していたように思います。
定かではないのは、自分史での歴史考証が、あやふやな部分があるからですが、おそらく大学生の時にはすでに確信していましたので、もし、彼女がお別れの挨 拶でも来ていたのなら、「生まれ変わり」も含めても、当時の私の考えを延々と語ることになったでしょう。


しかし、きっと役に立たない話だったかもしれません。


それでは、今、やったとしたら、どんな話を彼女にするのでしょうか?


******************************************************


今、偶然、彼女と、道端で会ったとします。

そして、お茶でも飲みに(ほんとうはコーヒーだが)、喫茶店(本当はコーヒーショップだが)へ行ったとします。

9年ぶりくらいなので、いろいろ話をします。

いよいよ当時の話になります。
当然彼女もいろいろ勉強しています。


彼女は言います。
「実は運命は決まっているようなの。私、今、運命を変更するため六爻占術というのを勉強しているんです。聞いたことありますか?」

と,言われてしまったら、話は終わってしまいますので、そういうことは想像しません(笑)。


いずれにしても、今の彼女の状態によって、話す内容は違ってくると思います。


彼女の状態を特定します・・・・
彼女の台詞:
「あのときは本当に悲しかった・・・
神様は絶対に、罪のない人の命が無駄になってしまうようなことをしないと思っていた。
一体どうして、神様は、そんなことをするのだろう?とずっと考え続けたわ・・・
一体彼(彼女かもしれません)にどんな罪があったというのかしら?

いろいろな牧師さんとも話をしたりしたけれど、だれも、納得の行く回答をしてくはくれなかった・・・・
それでも、今でも教会へは通っている。

今は国際的な人道支援に関係している仕事をしているけれども、だれ独りとして、納得の行く回答をしてくれない。

どうして、幸福な人と、不幸な人がいるのかしら?」


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確か彼女は、国際的な仕事をしたい、というようなことを言っていました。
きっと、そうしていることでしょう。
実際は分かりませんが。


一番簡単(?)な説明は船井幸雄さん式の説明だと感じます。
そして知能指数の高い人ほど、これは理解しやすい内容なのではないかと思います。
非常に論理的なのです。3次元の空間と時間の流れを考えるならば。

それを私が言えば、つまり・・・
「それは・・・・人いうのは、実はその実体は今ある肉体の姿ではなく、魂の方なんだ。
その魂が神のような存在となるために、勉強をするため、この世に人間なら人間という姿になって、生きているんだ。
そうして、生まれ変わる前に、自分や神に近いような存在たちと相談して、どんな一生を生きるかを決めてから、この世に出てくるんだ。
だから、犠牲になってしまった友人も実は、それ自体、自分で一番効率よく勉強できるために、決めてきたストーリーだったんだ。

そうして、それは、いろんな人の人生とも絡んでくる。
実際○○さんが、そによって、いろんなことを考えるような運命に手繰り寄せられてきたように。

まずは、その友人も、本当の存在は魂であって、その存在に終わりはないんだ。
今でも、本来いるべき場所で生きているだろうし、そうでなければ、すでに生まれ変わって、この世に出てきているはずさ。

むしろ、友人などが哀しみ過ぎると、そういう存在は、うまく本来行くべき場所へ行きにくくなってしまうので、そうすべきではないようだよ。
彼はひょっとしたら、今のあなたのお子さんかもしれない・・・・・」


というような説明です。

これは、ある意味、非常に理にかなっています。
3次元的に、全てが非常にうまく、組み立てられています。

また少なくとも、「本来の姿は、魂である」、ということや、「何度も生まれ変わってくる」ということに関しては、だれも否定はしないようです。

みなさんなら、どのような説明をするでしょうか?
本当に自分の知人に話すとしたら、どういう説明ができるでしょうか?
(今の私の説明は、また追って次の写真くらいで、書いてみます。)



森田健さんは、
「自分でストーリーを決めて、勉強のために生まれ変わってくる」
という解釈については、違うのではないか、というように言っているようです。

私は良く分かりません。
生まれ変わりの村の話を聞く限りでは、「どうもストーリーを作っている暇はないようだ」、と感じます。
ですので、そのまますぐ生まれ変わってしまう様子を読んでいると、「本当に生まれ変わっても、勉強になるのだろうか?」とは感じています。

果たしてどうなのでしょうか?


私が今の自分の器で、純粋に疑問に感じてしまうのは、犠牲になった友人が、そういうことになったのは、
「決められたストーリーのせいなのか?それとも、想念、あるいは問いを発していたせいなのか?」ということです。


もし、自分の想念、想い、そうでなくとも、何かを問ったということなら・・・・
「犠牲になりたい」
という問いを発したことにより、周りの状況が、そうなるように答えを返してきた・・・・・
そうも言えるかもしれません。

一見立派な人、実際は、中途半端な人に、そういうことがありがちなのは、このような構造なのではないかと感じてしまいます(決して自分のことだと は、言いませんが)。


もっと言うなら、「他の人の想念、あるいは問いによるものなのではないか?」とも思えます。
ネットワークを考えると、むしろ、この可能性すら大きいと感じてしまいます。

とても不謹慎ですが、たとば、その彼女が、もしも!!
「私に人間的に大きくなれるような、大きな試練を与えてください」
という想念を抱いたり、

「もっと回りの日本人たちが、戦争を自分のものとして、捉えてくれるようになるにはどうしたら良いのだろう?」
という問いを発したりしたのなら、ひょっとしたら、それが、招いた回答だったりする可能性もあるのでしょうか?

問いの結果が、そういうことも、招くのかどうかについては、私には、よく分かりませんが。


彼女はきれいな子でした。あまりお化粧もしていないようでした。
こんなことを書くと、ちゃかしているのかと誤解されそうですが、彼女は、熊本から出てきてすぐだったせいでしょうか?”鼻毛”が伸びていました。
都内は、空気がきたないのです・・・。
毎日お化粧でもしているのなら、それくらいのことは、簡単に気付くことでしょう。

霊能者さん的に言うと、守護霊さんが、「はやく国へ帰りなさい」と言っていた、ということにもなるのかもしれません。
一理あるかもしれません。
実際は、そうではないとは、思いますが。


それとも、基本的には、しかっかりしている人でしたので、案外、ペンネームで有名な精神世界の著述者になっていたりするかもしれません(?)。


渡辺貞夫さんでした。




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追記:
さっそく、自分なら、こう言うだろうを書いてみます。

「人いうのは、実はその実体は今ある肉体の姿ではなく、魂の方なんだ。

その魂が、何らかの理由で、あるいは理由はないのかもしれないが、とにかく何度も何度も、この世に生まれ変わってくるということを繰り返してい る。

そして、これも理由は良く分からないが、一生の運命、ストーリーは生れる時に、すでに決まっているようなんだ。


一生が決まっていることや、何度も生まれ変わることについては、一説には、魂が神のような存在となるために、勉強をするため、そうしているという説もある し、加え、て生まれ変わる前に、自分や神に近いような存在たちと相談して、どんな一生を生きれば、もっとも効率的に勉強できるかを決めてから、この世に出 てくると いう説もある。

ただこれに関しては、そうではない、という人もいる。
森田健さんという人が調べた生まれ変わりの村という、村人の多くの人が、前世の記憶を持っているという村の調査では、どうも、神たちを一生のストーリーを 決める暇なく、生まれ変わってきているようなケースもあるようだ。


しかしながら、私が実際、前世の記憶があったり、あの世の記憶があったり、幽体離脱して、あの世を見てきたわけではないので、はっきしたことは言え ない。

それでも、神たちと一生のストーリーを決めて、勉強のためにこの世に生まれ変わってきているのだとすれば、たとえどんな不幸な目にあったとしても、 それ がその人にとって一番効率良く勉強できる方法であったということになり、一応納得することはできる。
だとすれば、そう思っていても良いとも思うし、本当にそれが真実なのかもしれない。


実際○○さんも、それによって、いろんなことを考えるような運命を歩んだのだから、結果としては、正しいとも言える面もある。

ただ、それを慰めの言葉に言うのであれば、やや、お門違いのようには感じる。
だから、これをもって、なぐさめようだなんて思ってはいない。
だれかが幸せになるために、誰かが犠牲になって良いだなんてことがあって良いわけがないのだから。


そうは言っても、どうやら、間違いなく言えるのは、魂の存在は永遠のようだ、ということであり、○○さんの友人もまた、あちらの世界で、暮らしてい て、少なく とも、肉体の自分は仮の姿であったということは、分かっているのだと思う。

ひょっとしたら、すでに、生まれ変わってきているかもしれない。


いろいろな話によると、家族や友人、人生の大事な時に現れる人というのは、前世でも、そのまた前世でも、あるいはあの世でも、知り合いだったり、友 人だったりすることが多いようなので、きっと、その人とも、今回が初めての出会いでなかったのかもしれない。


また、人が先にいってしまった時など、友人などが哀しみ過ぎると、そういう存在は、うまく本来行くべき場所へ行きにくくなってしまうそうので、そうすべき ではないようだよ。


ただ、運命は決まっていると言っても、大きな流れと、それに付随するかのような、小さな流れがあるようなんだ。
大きな流れとは、例えば、・・・・・・・
これこれこういう家庭環境に生まれ、その後、たとえば10歳で大きな出来事1にあい、そして17歳で大きな出来事2に会う。
その後、あるものを発見することになり、会社を経営するようになる。
そして、35歳で、大きな出来事3があり、49歳でまたあって・・・・・・・70歳で一生を終わる、
というような感じだと思うんだ。

小さな流れとは、宝くじにあたったとか、何かで、何度も良いことが続いた、とか、そういう種類のことなんだと思う。

ただ、どれが大きな流れで、どれが小さな流れなのかは、どうも、何年か・・・5年とか10年とか経ってみないと、良く分からないようなんだ。

だから、ある程度の長いスパンでものを見ていかないと分からないし、そういうことを言っている人もいる。

また、いずれにしても、悲観的になり、悪い想念を抱くと、良くないものを巻き起こす力が働くので、そうしないほうが良いことは事実のようだ。
その意味では、何が起こっても、必要、必然、ベストと捉らえることが、いいようだ。



また、、無理に運命のハンドルを握り締めて、自分の意思で操作しようとするより、ハンドルを手放して、運命の大きな流れに、まかせて生きるの が良い、とも言っている。

それが、かならずしも、大金持ちになったりする、ということには繫がらないようだけれども、そうすることにより、自分にとって一番良い状態が自然に 訪れるらしい。

ただ、そう簡単に、ハンドルを手放せるものでもないし、ハンドルを手放すといっても、運命を操作する、ということをしないようにする、ということで あり、 当たり前のことは、当たり前のように、きちんとやってよいし、やることが必要なようだけれどもね。


なんか、あんまり参考にならなかったかもしれないけれど、とりあえず、今自分が言えることは、こんなところなんだ。

一体どうして、この世とあの世があるような複雑なことをやっているのだろう。

そして、決められた運命の変更ができるものなら、是非とも自分の思うように変えてみたいと思うよ。」



みなさんは、どう言いますか?

以上、追記でした。




きっと、こういうのを潜在意識というのかもしれません、ふとそう思いました。
彼女と会っていた期間というのは、ほんの1年ほどだったはずです。
きっと、自分でも知らないくらい、何かを説明したかったのですね。

そういう機会もあるかもしれません。
ただ、直接、助けてはいけないようですので、本でも、渡してあげるのかもしれません。

195:SADAO WATANABE  AT PIT IN
   
  1974年の、ピットインでのライブです。
ピットインは新宿と六本木にありましたが、新宿のほうです。
今はどうなっているのか、よく知りません。

ピアノは、シダー・ウオルトンが弾いています。 


日本人でも世界中で活躍している人というのは、昔から何人もいるのですが、私が物心付いた時に、そのような状態であった人というのは、この渡辺さんと、日 野皓正さんでした。

秋吉敏子さんなどは、もっと以前からアメリカをはじめ世界中で活躍していたわけですが、タイミング的なものから、物心付き始めた私には、情報としてすぐ には入ってきませんでした。
きっと、後、5年か、10年か早く物心ついた状態であったなら、違う感じ方があったことでしょう。


その他、昔から活躍している人も、小澤征爾さんをはじめ、クラシック界では多くいますし、科学、建築、絵画などなど多くの分野で、たくさんいるようです。



 今では、プロ野球で、野茂を筆頭に、松井、イチロウなどたくさんの人が活躍しています。
西本智実さんなどのように、クラシック音楽での新鋭もたくさんいます。



 スポーツでも、いますね。
卓球やゴルフの”愛”ちゃんを筆頭に。

多くの人がそう思っているかと思いますが、同じ名前である、”愛”ちゃんの活躍は、きっと偶然ではないのでしょう。
やはり、時空の演出は、ものすごいものがあると、思わざるを得ません。

日本が何かをやるのは、先ず間違いなく事実なのだと思っています。


「パパはニュースキャスター」というドラマがありました。
田村正和さん,浅野温子さんなどが出演するもので、1987年の放送だったようです。
その中での、田村正和さんが演じる鏡竜太郎が、酔ったときに女性をくどく台詞が、生まれた子供につける名前として、「”愛(あい)”と書いて、”めぐみ” と読む・・・・」というものでした。

あのドラマを見て、自分の子供に”愛”という名前をつけたとしたら、その子達は、一番年長で、18歳になっているはずですね。

スポーツ”愛”ちゃん達は、19歳ということですので、きっと、あのドラマより以前の生まれなのしょう。
ただ、このドラマの影響で、その後更に”愛”ちゃん達が増えているとして、その人たちが、同じような使命を持っているとしたら、きっと、今後、すごいこと が起こるのかもしれません。

私は”田中”ですので、外国に行くと”フェイマス・ネイム”ということで、覚えてもらいやすいですが、これから何年か後には、”愛”と言えば、だれ でも知っている国際的な名前になっているかもしれませんね。



今、関英男さんの「高次元科学2」(中央アート出版社:1995年発行)を読んでいます。
74ページには、人類の起源は500万年前にのぼり、パミール高原、マダガスカル島、そして日本列島にはじめて誕生した、ということが書かれています。
マダガスカル島は一度沈没したので、今の場所とは違うそうです。

パミール高原は、ネットで調べてみますと、「パキスタンから中国に入った国境のあたりはパミール高原である。天国のような絶景が続く。(http: //www.geocities.jp/w_akiaki/photogallery/kakudai/pami-rukuogenn.html)」とい うようなものや、
http://home.e-catv.ne.jp/wkt/ladies/pamirandtazik.html によれば、どうやら、三蔵法師もこの 高原を超えたことがあるようです。


マダガスカル島は、「アフリカ大陸の南東、インド洋西部に位置する世界第4位の大島。」だそうで、マダガスカル共和国という国があるそ うです。

国旗がなかなかステキです。


クリスマス・カラーですね。












黄色の中が国旗

関英男さんは、加速学園というものを開講して、洗心や、高次元のことなどを講義していたそうなのですが、私はなせ”加速学園”という名称なのかは詳 しく知りません。
ただ、この加速という言葉にはなにか意味があるようです。
森田健さんも、良く”加速”と言う言葉を使用します。

セスは語る」(1999年発行ナチュラルスピリット社) の677ページには、次のような文 章があります。
この本は、ジェーンという女性に、セスがチャネリングして、口述したことを書いた本ですが、普段は、ジェーンと夫のロバート・バッツ氏の2人が参加し、 ジェーンが語り、ロバーツが速記をしていくという形で行われます。
この日は、友人のスー・ワトキンズ氏も参加していたのですが、そのスー氏の言葉です。
(引用)

『セッション開始前にこの席についた私は、セスからこれまでに感じたことのない印象を受けた。私は、ジェーンとロブと私が一定の馴染みのあるス ピードで先へと進んでいるような気がした。しかし、進んでいうといっても、動きを伴うわけではない。セッションの直前にセスが「近くに」来ると、ジェーン の内側の何かが高揚して回転し始め、一定の別の信じ難いスピード------つまり、セスと呼ばれるジェーンの意識の一部------に到達するまで、ど んどん回転が加速していくように感じた。
その点に到達すると、適度なスピードのなか、ともかく「カチッ」とすべての辻褄が合っていく。ジェーンがいつものように眼鏡を外した。私の耳がこの行為を 感知したかのよおうに思えた。そして、セスという人格存在が意思を伝え始めた。セスUの体験は、いっそう加速の著しいなかで、ジェーンの言うピラミッド効 果の生じる点に到達する。
休憩中に私がジェーンにこのことを話している間でさえも、彼女の意識が意思疎通を継続する準備にかかると、この加速が再びなされるのが感じられた。これは トランス状態に入っていくのとは、ほとんど表裏が反転したプロセスのように思えた。そして数分後、セスを見守っていると、ジェーンの意識が彼女の見開いた 目を、私が把握できかねるスピードで急ぎすぎていくように思えた。その次は、意思疎通がどのようにして言葉に集約されるのかに思いを巡らす番だった。
こう記すことで、私はセスとジェーンが同じ人格存在であると言いたいのではなく、むしろこの加速が、通常はあらゆる実際的理由から二つの分離した人格であ るかのように異なっているところの、同じ意識の別の部分どうしを結び付けるのではないかと思う。私自身も、自分が何かを上手に書いて家う時や話すことに熱 中している時に、同じ加速の感覚を自覚できる。しかし、セスの目の向こう側にある想像を絶するスピード感覚は、私のそれをはるかに凌いでいるのだ。私は ジェーンとセスの両方のなかにスピード感を感じ取ることで、自分の一部もそのスピードに運ばれるのを感じた。
ジェーンのトランスからの目覚めも、私にとってはほとんど聴覚的だったーー極めて非現実的な引っ張るような高い音から、われわれの通常の「音域」あるいは 速度へと減速するような感じである。変容が起きたという顕著な感覚があった。まるでこの加速の一部である音声が、単なる聴覚の対象にとどまらない次元と繋 がっているかのようだった。それは素晴らしく活気に満ちた感覚だ。私はその感覚がセッション中、それぞれの休憩まで継続するのを感じていた』

(以上)


いかがでしょうか? 


まだ確かではないですが、何となく、何を加速と言っているのかの断片が分かってきたような気がします。

私は文章をワープロ打ちするとき、何かの歯車が「カッチ」と合った時には、必要以上の理論性や、漢字の変換などへの注意などを一切捨ててしまい、何 かに引っ張られるように打っていきます。
大抵その時の内容は、どこか良いものであることが多いです。
この「歯車感」や「引っ張られる感覚」がひょっとすると、加速なのかもしれません。

実際、私的には、こういうことは良くあります。
そして、大抵結果の良いことになるですが、ただ、この方法は、団体行動にはひどく向いていないようです。
周りに理解してくれる人が多い時などは良いのですが、そうでない場合などは、単なる変わり者、あるいは、「私を無視している」とでも捉らえられているよう です。


書いていて気が付いてきたのですが、どうも私はこの”加速”感は、全てあるいは多くの人が体験し、知っている感覚だと思っていたようです。
もちろん実際そうなのかもしれないのですが。

もし、これが、決して多くの人が知っている感覚でないのだとすれば、私の潜在意識にあると感じる「どうして、みんな邪魔をするのだろう?」という不 平感 が、拭いさられるように感じます。
つまり、この感覚下で行った”何か”が非常に良い結果につながる、ということを、みんなが知らないのであれば、多くの人は、故意に”邪魔”をしていたので はなく、単に知らなかった、ということであり、私の潜在意識下の被害意識がなくなる・・・・という理屈ですが。

実際はどうだかよく分かりません。
本当にそんな被害意識があるのかを含めて、私の独りよがりの可能性もあります。


どうも私の感じる加速感が正しいものであったとしても、それは、個人的な行動以外には、なかなか使用できない状態なのかもしれません。
それとも、周りも含めて、同じ加速に乗っていれば、良いのかもしれませんが。


また、加速後は、ゆっくりと減速していかないと、どうも、イライラ感として、残ってしまうように感じますが、どうでしょうか?
もっとも、これが、上で語られていることと、同じ内容であれば、ということではありますが。
そうでなければ、単に、せかせかしている、ということになってしまいますね(笑)。

そして、加速していっても、上の内容を読む限りは、ある一定の速度にきたら、そこでスピードを保つように読み取れます。
加速しっぱなしでは、いけないということかもしれません。

みなさんは、加速の感覚についてどう思うでしょうか?





先日、イチロウ選手の言葉として、次のようなものがありました。

当時イチロウ選手は、良い当たりがことごとく野手の正面をついてしまい、ヒットにならず、打率がどんどん下がっている状況でした。
「こういう時というのは、シーズン中には必ずある。その時に、自分の打撃が悪いと思って形を変えたりせず、ただがまんして、そういう時が過ぎ去るのを待つ しかない・・・」
という内容だったと思います。

私などは、少しでも結果が悪いとすぐに、形を変えてしまいます。
ただ、運に流れがあることを考えれば、結果は、やり方に問題があるから起きたものではないことも、多いようです。
また、そのような運の流れが悪い時に、形を変えたら、きっと更に悪くなってしまうのでしょう。

3次元的に見て、自分に原因があるのか、運の流れに原因があるのかは、見極める必要があるようですね。

その時、何がポイントになるでしょうか?

野球なら、「良い当たり」ということで、正面をついてアウトになっても、それは見極められそうですね。
他の事象は、きっと、それぞれでしょう。



1度、その方法でうまく行ったから・・・・というのは、決して、次もうまく行くという理由には繫がらないようです。
そのポイントだけではなく、周りの状況なども含めて判断しないと、いけないようです。

「あの人に、この方法で説得したら、何も言わなかった・・・さて、この人にも、同じ方法を使ってみよう・・・」
としたところで、それは決して、うまく行くとは限らないと思います。
たとえば、始めの人は
「なんてくだらない人なんだろう。何を言っても仕方がない」
と思い、黙っていたとしたら、次の人に、同じやり方を下なら、
「なんて、くだらないことを言うのだろう。そんな言い分は絶対認められない・・・・」
として、大議論に発展するかもしれません。

そうなると、結局、ある程度の積み重ねの中で、成功率が非常に高いもの、については、仮に、一定期間、結果が出なくとも、「これは、やりかたに問 題があるのではない」と思ったほうが良いのかもしれませんね。

よく分かりませんが。


ただ、時流は変わってきているようですので、野球のバッテングならともかく、時流の流れが落ち着くまでは、必ずしも、前の統計だけで見ても、そのやり方で 良いのかどうかは、はっきりしないようですね。

船井幸雄さんによれば、経営には、それが色濃く出てきているそうですが。
私は経営者ではないですので、じかにそれを知覚することはできませんが、ニュースなどから、何となくそれらを感じることはできます。
もし、経営者になるようなことがあれば、直に感じてみたいと思います。      


渡辺貞夫さんでした。


196:BLUE FLME:原信夫とシャープス&フラッツ
   
  シャープス&フラッツの40周年記念盤です。
少し前に、オークションで購入しました。

これ以外に、「RED ROSES FOR A BLUE LADY」、「APPLE HONEY」の合計3枚で出品されていましたので、一度に全て購入しました。
約6000円でしたので、CDとしてはそれなりに高額ですが、1枚2000ですので、この手のものでは、それほど高価ではありません。

購入後、購入資金として、同じくシャープス&フラッツのレアものを出品しましたが、それは3000円以上になりました。

リードテナーは、あの東京ユニオンのリーダーであった高橋達也さんが吹いています。

しばらく後に、登場する右記のDVDでも、リードテナー は、高橋達也さんです。

4大ビッグバンドのリーダーは、ほとんどアドリブソロを取りませんが、ソリストとしても通用する高橋さんは、その意味で、とても貴重な存在ですね。

もっとも、年齢的な問題もあるのだろうとは思いますが。


ちなみに、原信夫さんは、美空ひばりさんの「まっかな太陽」の作曲者でもあります。
このアルバムの11曲目にも収録されています。


関英男さんは、加速学園で、洗心というものを説いでいたそうです。

関英男さんの「高次元科学2」(中央アート出版社:1995年発行)の110ページには以下のようにあります。
(引用)





洗   心
宇宙想像の神がすすめる霊性を高める方法
@いつももつべき 正しい心。
強く(Be strong)
明るく(be cheerful)
正しく(be righteous)
我(が)を折り(Be humble)
宜しからぬ欲を捨て(Abandon avarice)
皆なかよく、相和して(Maintain harmonious friendship)
感謝の生活をなせ(Live in gratefulness)


A心のなかからなくすべき感情。
憎しみ(hatred)
不満(Discontent)
嫉(ねた)み(Jealousy)
疑い(Doudt)
猜(そね)み(Joundice)
迷い(Bewilderment)
羨(うらや)み(Envy)
心配心(Anxieety)
呪い(Curse)
咎めの心(Reproach)
怒り(Anger)
いらいらする心(Irritation)
不平(Dissatisfaction)
せかせかする心(Restlessness)

要するに、@いつももつべき正しい心と、A心のなかからなくすべき感情についての事柄です。



詳しい説明はしませんが、私が言いたいことは・・・・・・

池田邦吉さんは、「あしたの世界」の1〜3のいずれかで、「心配がいけない、ということがよく分からなかった」と書いています。
もちろん、その後、自分なりの解釈が書いてありました。

私は、不平がよく分かりません。

心配はよく分かります。
私の親などは、根っからの心配性ですので、心配されることによる身動きのできなさや、おそらくその想念が生むのであろう、心配事の物質化で、30代まで大 変でした。

もちろん、心配は、当人にとっても、良くないようです。

親は親で”心配してくれている”のですから、むやみに、嫌がるわけにもいきませんが。


親は、「ほら私の心配した通りになった」と、”喜ぶ(?)”かもしれませんが、私の勘では、どうも、それは想念によって、物質化したように思えてな りません。
最近は、電話があるたびに、船井幸雄さんの著作にあるようなことを説いて、「あなたの思った通りになるから」と釘をさしていますが(笑)。

以前は、私から電話を切ることが多かったですが、最近は、よほど、この話が耳に痛いのか、向こうから、「じゃあ」と切ってしまいます(V!)



さて、それは良いのですが、私には、”不平”の意味に、分からない部分があります。

(Dissatisfaction)とありますので、不満足という意味なのでしょうか?
そうでなくとも、自己改善してはいけない、というイメージを感じてしまいます。
”不満”は、別にひとつの項目として登場していますが、Discontentとされています。

違いがよく分かりません。


ただただ我慢して、じっとしている、というイメージがあります。

きっと、私のこのイメージが間違っているのでしょう。
それが正しい訳がありません。


船井幸雄さんの、「長所を伸ばし、欠点には触れない」、という言葉も、きっと同じようなことを行っているのだと思います。

こちらは、よく分かりますので、
そう考えると、少し違うのかもしれません。

「感謝」、「ありがとう」、ということも、同じような意味なのかもしれません。
こちらは、よく分かります。
もちろん、「マニュアルに書いてあるから、”ありがとう”と言うのよ、あるいは言うんだ」式の”ありがとう”はいりませんが。
しかし、少し違うようにも感じます。
とりあえず、上記の2つと同じものだと思っていようとは思いますが。


しかし、それでも分からないのは、「間違い」、「改善点」に気付いてしまったら、一体どうすればよいのでしょうか?ということです。
自分のことなら、改善します。
しかし、団体のことととなるとそうはいきません。
皆に理解してもらわなくてはいけません。
しかし、その皆に理解してもらう、という行為が、まさに、不平、という行為そのもののような感じがしてしまいます。

その意味では、やはり、「間違い」、「改善点」が分かっていても、黙っているのが良い、ということなのでしょうか?
そうではない、と感じますが。
バランスの問題なのかもしれません。

それとも、根本的に、私が分かっていないのかもしれません。


どうも、ここらへんに、私にとって分からない何かがありそうです。
何とか理解したいものです。
みさなんは、ご法度の心の「不平」について、どう思うでしょうか?


もうひとつ、こちらは、”本当”に分からないのですが・・・・
猜(そね)み(Joundice)は、日本語的にも、よく分かりません。

辞書でそねむ、を見ると、
(1)嫉妬(しつと)する。ねたむ。
(2)嫌う。にくむ。
とあります。

嫉(ねた)み(Jealousy)
との違いが分かりません。

インターネット辞典では、Joundiceという単語は、見当たりませでした。
jaundice という単語はあり、ひがんだ;、という意味だそうです。

ちなみに、これは不平ではありません。
分からないのです。




さて、洗心は、精神レベルのアップに必要なことのようです。
魂のレベルアップとも言っても良いのだと思います。

これは、これで一つ大切なことだと認識しています。


ただ、最近ひとつ感じますのは、「精神レベルの上昇と、運命改善は無関係なのかもしれない」ということです。

船井幸雄さんなども、知っているのかもしれません。
実際は、良く分かりませんが。

ただ、船井さんは、「運命は90%以上決まっている」、とはいろいろな本に書かれています。
それから考えますと、魂のレベルを上げることと、運命を改善することは、小さな流れにおいては、重なる部分もありますが、大河を見るならば、きっと、関係 のない別の事象なのかもしれません。
もちろん、実際はまだ、よく分かっていないのですが。
私的には、一緒であったほうが、どんなに分かりやすいか、とは思います。

ただ、それは、これからの時代では、一緒のことになるのかもしれません。
時流が変わってきているそうです。

分からない、としながらも、少なくとも、これまでより以前は、私の視点では、「3次元的に恵まれた人」と、「良い人、立派な人」とは、せいぜい 50%重なっていたとしたら、良いほうだったのではないかと感じています。
もちろん、幸せかどうか、ということと、3次元的に恵まれていることとは、まったく別物ではありますが。

ただ、それでは、いけないように感じます。

みなさんは、どう思うでしょうか?



「精神レベルの上昇」と、「運命改善」は、どちらも大切なことのようです。
ただ、一緒に考えてしまうと、間違っているのかもしれません。
同じかもしれませんが。

とは言うものの、関係あるような気もします・・・・・

私情で言えば、関係あって欲しいと思います。



今テレビで、
「全国で108匹のレッサーパンダが立ち上がった・・・だから、あれは珍しくもなんともなく、ああいう習性があったんだろう」
、という話をしています。

それに対して、オセロの松島さんは、「違うねん、あれが、進化のはじまりやねん」
と言っています。
さすが、松島・・・・。

これは、100匹目のレッサーパンダ現象でしょう・・・きっと。
また、時空が粋な演出をしてくれています。

※動物園の人の話では、レッサーパンダは、前から短時間なら、立つこともあったそうですが。



197:Aurex Jazz Festival '80. King of Swing:
ベニーグッドマン、テディ・ウイルソン
   
  1980年に開催されたオーレックス・ジャズ・フェスティバルのライブです。

 今年になって中古で入手したものですが、10年以上前に新品を見て以来、今日まで、中古ですら1度しか見かけたことのないCDです。
LPは持っていました。

何年ぶりかに、ベニーグッドマンとテデイ・ウイルソンが共演するということで、大変話題になっていました。
ちょうど、バブル真っ只中くらいだったのでしょうか?
これと匹敵するような音楽イベントが、数年間目白押しだったように思います。

私はこれを、父親と一緒に、東京武道館へ見に行きました。

音のことは、良く覚えていないのですが、当時、ちまたで言われているほど、武道館の音は悪くないな、と思ったのを覚えています。

また、前のセットは、シェリー・マンのセットでしたが、自意識過剰でしょうか、シェリー・マンと目が何度もあったような気がして嬉しかったのを覚えていま す。
もっとも、向こうからみ見れば、1万分の1くらいですので、分かるわけがないのですが(笑)。
中学生の時です・・・。


同ジャズフェスで、次の年には、確かライオネル・ハンプトンのビッグバンドが目玉だったように思います。

アーティー・ショウというグッドマンと人気を2分していたクラリネット奏者がいました。
彼の「スターダスト」は、スイング史上の名作ですが。

彼は早くに引退してしまうのですが、彼が、「ポップ ヴォイス」(ジョー・スミス著・三井徹訳:新潮文庫)という本の中でインタビューに答えています。
(21ページより引用)

『「私は最高に売れていた。うまくやっていた。だけどああいう生活はいやでした。あの時代を作ったのは、私たち六人でしたね。ドーシー、グッドマン、私、 ミ ラー、ランスフォード、それにベイシー。みんな死んでしまいました。私だけが残っている。きっと何か正しい行いをしたのでしょうね』


この本をはじめて読んだのは、33歳前後だったと思いますが、その時は、「なるほど」と思いました。
何が「なるほど」かと言えば、「こういう考え方をする人が好運を掴むんだ」ということですが。

しかし、どうも違うように思います。
彼が長生したのは、”運命で決まっていたから”だと思います。
決して、上記の5人より正しい行いをしたからではないと思います。

ただ、結果であることを踏まえて考えれば、早く辞めたので、それだけ、体の負担は少なかったのだろうとは思いますが。

あるいは、仮に善行があったとしても、それは、きっと音楽活動絡みではないでしょう。
とにかく、長生きしたのは、運命的には、早く辞めたことが原因ではないのだろうと感じます。







今日、野球中継を見ていましたら、アナウンサーが、清原選手の座右の銘が「やられたらやり返す」だと言っていました。

もし本当なら、ここ数年、清原選手の活躍が今ひとつなのは、座右の銘のせいかもしれないと感じました。
実際は、どうだか分かりませんが。


人 間の意識レベル

測 定の数値は十進法ではなく、対数で、
300は、10の300乗の数値という意味


  • 恥:20
  • 罪悪:30
  • 無感動:50
  • 深い悲しみ:75
  • 恐怖:100
  • 欲望:125
  • 怒り:150
  • プライド:175
  • 勇気:200
  • 中立:250
  • 意欲:310
  • 受容:350
  • 理性:400
  • 愛:500
  • 喜び:540
  • 平和:600
  • 悟り:700〜
    1000

「やられたらやり返す」は、左の「人間の意識レベル」で見ると、私の感 じでは、「怒り:150」か、「プライド:170」、あたりではないでしょうか?

どうも、清原選手あたりは、船井幸雄さん式に言えば、「何らかの使命を持って生まれた人」であるように思えますので、その意味でも、また時流が変わってき た、という意味でも、「やられたらやり返す」という座右の銘を持つことにより、何かが、清原選手の活躍を妨げているように感じてしまいます。

とは言うものの、もし清原選手のように、デットボールをあれだけ多くぶつけられるような場合には、どうものを考えれば良いのでしょうか?
実際、私にも、良く分からないのですが・・・・

「地の理」の産物であるというスポーツにおいては、どう発想しても、「宇宙の理」に沿ったような考え方はできない、ということでしょうか?

「感謝」の大切さが、多くの本に書かれています。
創造主、あるいは宇宙のシステムに対して感謝しましょう、ということだと思います。

この場合で言えば、
「それだけ、あなたが、偉大なバッターであり、相手に力を認められているということです。その力はあなたの力ではありません。想像主の力なのです。宇宙の 力を使っているということなのです。」
と、なるのでしょう。

しかし、そこからは、恐らく、スポーツ選手としての、「相手を倒す」という気持ちにとってプラスにはならないかもしれません。
やはり、スポーツにおいては、フォースからパワーへの移行ですら、不可能なのでしょうか?

「勇気」以降の項目で考えて見ます。

「勇気」で強引に考えれば、「デッドボールなんかに怖がらず、ボールに立ち向かっていく」ということなのかもしれません。

「中立」なら、「ピッチャーにもピッチャーの立場があるんだから仕方がない。チームの事情もあるだろうし、家族も背負っているのだろうし・・・」
というような具合になるのでしょうか?

意欲なら・・・・・まったく分かりません。

受容なら、・・・・
理性なら・・・・・
愛なら・・・・

どうも、受容以上は、今のところ、歯が立たないようです。

もちろん、現代国語のテストなら何か書きます。
おそらく、自分の気持ちにない”嘘”を書くことに抵抗がなくなるからなのかもしれません。
あるいは、ひょっとしたら、その回答の中に、意外とすごいものがあるのかもしれませんが。


「勇気」の項目で、「デッドボールなんかに怖がらず、ボールに立ち向かっていく」ということなのかもしれません、と書きましたが、どうも、政木さんがゴル フをやるときのような、「自分の足元1メートル四方だけを見て、ボールを打つことだけ考えよ」となるのかもしれません。

これは、少なくとも、「相手をやっつける」という地の理的な、唯物論的な、フォース的な要素がないように感じます。

船井幸雄さんの古い本で、長島茂男さんと、対談しているものがありましたが、長島さんなら、分かるでしょうか?

長島さんなら、なんというでしょう?

「来た球をバッと打つ」
「お客さんを喜ばす」
「自分が楽しめるようなことをする」

といったところでしょうか?

少なくとも、「やられたら、やり返す」という言葉は出ないように感じますが。

もちろん、「やられたら、やり返す」
で、良い結果が出るケースもあると思います。
一時のものかもしれませんが。

ただし、出ない人のほうが、何かが良いのかもしれません。
良く分かりませんが。







野茂選手が、日米200勝を達成しました。

野茂選手がアメリカに行って以来、次々とアメリカで活躍しています。

これも、どこか100匹目の猿現象に似たところがあるのかもしれません。
活躍したのは、当初野茂選手独りだけだとしても、その活躍を見た人間は、何百万人、何千万人といたわけでしょう。
そうすると、制度までが、日本人選手がアメリカに行きやすくなってしまう・・・・
このシステムは、なかなかすごいと、改めて感じます。







さて、現在、岡田多母さんの「愛しの地球(テラ)へ」(1996年:風雲舎)を読んでいます。
まだ、読み始めたばかりですが、書いてある限りでは、多母さんの転生は3度目のようです。
(思い出したの転生が3度、ということかもしれません)
私は人は、200年くらいに一度くらいの割で、この世に出てくると思っていましたので、勝手に、人は100回近く転生するのだろうな、と思っていました が、どうもそうでもうないかもしれません。

なかなか面白いです。
高校生の時、ダーウィンの進化論が信じられなかったので、テストには、回答を書かないで出したことなどが書かれています。
また、読み進んだら、追記します。


先日を眼鏡を新調し、本日取りにいきました。
なぜか、急に、”眼鏡を買いに行こう”という気持ちが起こりましたので、ためらわず、直感に従って行きました。
フレームは、決めた後、よく見てみると、”ジョンレノン”モデルでした(笑)。
もちろん、以前から、あの丸い淵の眼鏡には興味がありまので、まったくの3次元的偶然ではないとは思いますが。
お店の人が執拗に、
「似合う!!、似合う!!」
と言いますので、
「そうですか?」
とそれにしてしまいました。


営業ですので、当然、”似合う”とは言うと思いますが、男(20代)女(50代くらいか?)2人の店員の様子が、あまりにも尋常ではなっかたですので、決 めました。
この眼鏡を試着した瞬間の女性の発した氣(?)のようなものが、普通ではなかったです(笑)。

私は眼鏡をはずすと、ほとんど視力が0.05くらいですので、どの眼鏡を試着しても、自分では、良し悪しがぜんぜん分かりません。
(最近はコンタクトも、ほとんどしません。)



本日、取りに行きましたら、今日は、20代くらいの女性と、先日の女性の2人でした。

若い女性は、眼鏡のバランスや、きつさを点検し、直してくれる担当でした。
私は若干左の顔の眉が上がっています。
人相的には、左右対称が良いそうです(”そう”、と”相”をかけてもおもしろい)。




私が、「私は左の眉が上がっていますので、左右対称ではないですよ」
と言うと、その若い女性は、
「だれでも、そうですよ。左右対称だったら、人間味がないです」
と言います。
私は、「いやぁ、対称が良いようですよ」
と言いますと、ややムキになったように、「人間味がないじゃないですか。それじゃ、ロボットみたいじゃないですか?」
といくらか強い口調で言って来ました(笑)。
お客の言うようにしておけばいいのに、と思ったりもしますが(笑)、変わったことを言う人だと、なぜか思ったりしました。




しかし、思い返すと、5年前でしたら、私はこの女性の言う、”人間味説”や、”左右非対称でも別に良い説”に同調したと思います。
あるいは、ほとんど同じ考えを持っていたのかもしれません。
まったく忘れていましたが、なぜか、思い出しました。

だた、今は違うのです。
左右対称が良いように思います。


なぜでしょうか?

考えるに・・・
その女性は、「左右対称ではないと、人間味がないではないですか?対称だったら、ロボットみたいじゃないですか?」
と言いました。



私が今思っているのは、「本当に人間らしいとは、どういうことかと言えば、左右対称で、平らで、0地点にいる姿こそ本来の人間なのではないか?」というこ とです。


私は、失敗したり、弱かったり、欠点があっても、別に良いと思っています。
ただ、それをもって”人間味がある”とは、最近は思っていません。

ですので、「左右対称でない顔」、が人間味のある顔だとは思いません。
「左右対称な顔」が、本来の人間味のある顔なのだと感じています。
もちろん、そうでないからと言って、いけない、というわけではありませんが。


また、彼女は左右対称→完璧→ロボット、という仮説を私に言いました。
私は間違っていると感じます。

私は、左右対称→完璧、だとも思っていませんし、
完璧→ロボット、だとも思えません。

ただただ、左右対称→本来の人間の姿
のようようには、感じていますが。

無理に並べるなら、
ロボット<人間<人間の本来あるべき姿=平ら・0
という感じです。

あえて、彼女を弁護するような言い方をすれば、f1ゆらぎ、は、必要なようです。
関英男さんによれば、宇宙には、f1ゆらぎがあるようです。
そして、それは、生き物にとって、正しいようです。

ですでの、左右対処と言えども、f1だけゆらいでいるべきかとは、感じます。
但しそれは、目では測定できないゆらぎだと思いますが。




このようなことで、彼女がムキになったところを見ると、彼女は、私の何らかの問いに答えてくれたのかもしれませんね(謎)。

もしそうだとしたら、何を問うたのでしょうか?

直前に何かを問うた覚えはないのですが・・・

引っかかるのは、彼女の言った「人間味」という言葉ですが。

彼女は、完璧は人間味がないこと、と言いました。


確かに人間は完璧ではありません。
しかし、顔が左右対称になったからと言って、完璧になったわけではありません。

彼女がイメージしている完璧とは、きっと、まさに彼女の言うようにロボットのことだったのではないでしょうか?
そして、人間はロボットを越えられない、と思っている・・・。

どうも、私的には、彼女は人間を良く知らないように感じます。
もっとも、私だって完全には分かっていませんが。

透視だって、瞬間移動だって、1000歳まで生きることだって、未来予知だって、ぜんぜん話せない外国語を瞬時に話せることだって、炒ったピーナッツから 芽を瞬時に出す事だって・・・・・人間はできるのです。

そういう意味からは、まず彼女は、ロボットが完璧な姿だという概念を捨てる必要があるように思えます。
私は、別に完璧を求めている訳ではないのですが・・・。本当の私が知りたいだけなのです。

みなさんは、どう思うでしょうか?




どうも、私は、5年前の自分よりは、いくらか進歩しているのかもしれません(笑)。

ひょっとしたら、そこらあたりを問うたのかもしれません。
確か眼鏡を買いに行った自分を見て、「私はいつまでたっても、同じようなことをしている・・・・」
というような言葉を寸前に発したような気もしてきました。


それにしても、ロボットが”完璧”だなんていう概念は、20年前のものかと感じていた私でした。
それでも、5年前の私は同じようなことを考えていた可能性もあります。

しかし、「人間味」を語るあたりは、彼女は、いくらかは、宇宙の理に針が触れているのかもしれません。

みなさんは、どう思うでしょうか?





追記:
人間は、右脳、左脳、両方同じくらいバランスよく使用していると、左右対称になるようです。
これは完璧ということではなく、人間的ということだと思います。
はやね早起きと同じことだと思います。

ロボットは、決められたことしかできません。
マニュアル人間のようなものです。
バランスが悪いです。

左の眉が上がっているのが、どちらにバランスがよっているのかは、分かりませんが。


198:FULL CLARINET:北村英治
   
   北村英治さんが、クラリネット1台のみで録音したものです。
無伴奏です。


1. パルティータ (J.S.バッハ)
2. ダニーボーイ 
3. イフ アイ ハド ユー 
4. パーディド
 5. ソフィスティケイテド レディ 
6. ラブリーグリーンスリーブス 
7. ジョージ ガーシュイン メドレイ 《◎私の彼氏◎オー レディー ビー グッド◎アイブゴット ア クラッシュ オン ユー◎アイ ガットリズム◎サムワン トゥ ウォッチオーバー ミー◎スワンダフル》 
8. エーデルワイス 
9. シチリアーノ 
10. メモリーズ オブ ユー 
11. サムデイ スゥイート ハート 
12. アマポーラ 
13. ストンピン アット ザ サボイ
14. 阿吽双調

14曲目は、北村さんのオリジナルです。


 森田健さんが、不思議研究所サイトで、「時空は物理的な大きさは、小さいのではないか?」という仮説を述べていましたが、後出しジャンケンみたい ですが、私もそうではないか と感じます。

 多くの方が、高い波動は微細であると言っています。
あるいは、関英男さんは、4,5,6,7・・・と高次元と瞬時にやり取りできる”波”は、その次元に応じて、地球上では確認できないほどの高い周波数に なっている、というようなことを書いています。

そして、その高い周波数ほど、スピードも速いと書いています。

音楽に例えますと、高い周波数、高い音を出そうとするるほど、弦の長さは短くなっていきます。
分かりやすく言うと、エレキギターの「キーン」という高い音は、所謂、ハイポジションですが、ネックの下の方を押さえます。
つまり振動する弦の長さが短くなっているので、キーン、という音になるわけです。
また、弦も細ければ細いほど、周波数が高い音を出しやすいです。

低い音用の弦は0.40(センチ)くらいの太さがありますが、高い弦は0.09とか、そういう細さです。
また、大きな楽器ほど低い音は得意です。
簡単に言えば、バリトン・サックス、テナー・サックス、アルト・サックス・・・・と音が細くなっていくほど、楽器の大きさは小さくなります。

そう考えて生きますと、高次元というものは、高い周波数と同調するということを考えると、小さい可能性が高いように感じます。
実際は良く分かりませんが。


高次元科学2」(中央アート出版社:1995年発行)には、以下のようなことが書かれています。


幽体とよばれるものを、見えない脳、というように表現しているようなのですが(違っていたらすみません)、それが、7重構造になっているということです。

図解しますと次のような感じです。


不可視の脳
(幽体)
念波の種類
念波の周波数(Hz)

念波の説明
容量(それぞれに繫がったとき の)
コード体
複合波
10の1億乗


ケシ体
フィーゴク
10の42乗

物質化

コーザル体
ディレッジ
10の38乗
神とのコンタクト
物質化
読書の速度100億倍。
記憶容量は100億の4乗倍。(いずれも、見える脳と比べてか?)
メンタル体
ギネマ
10の22乗
高度な直感、啓示、予知など。

ガン治療可能。

アストラル体
セギン
10の18乗
テレパシー、透視など
相当自我が少なく、目に見えない世界のことが十分に受け入れられるよう になった人なら出る。
エーテル体
ディレカ
10の22乗
エーテル体と見える3つの脳をつなぐ、アンタカラーナという潜在神経が ある。
第六感、直感。
相当自我が少なく、目に見えない世界のことが十分に受け入れられるよう になった人なら出る。

病気治療可能。スプーン曲げ。
10の61乗ビット
シン体
ケゴット 10の10乗
誰もが出している。
肉体の脳
脳の種類:は虫類的脳、大脳辺緑系、大脳新皮質



10の10乗ビット

念パの速さ:光速の10の30乗倍(光速、電波は地球上では、秒速30万キロメー トル)
100億光年を、10000分の1秒以内
(私の解釈が、間違えているかもしれません)

スピードについても書いてありますが、5次元波とか、6次元波、7次元波などの説明も必要ですので、むつかしいので、書きません。
まだ私も良く分かっていません。



CDが売れない原因のところで、高周波が出ない、ということを書きましたが、本来、音には地上の測定器では測定できないような高い周波数成分が含まれてお り、それは、上の表に出てくるような、ものすごく高い周波数であったりするのかもしれません。
そして、CD前までは、聴いた人は、その周波数に、同調というか共鳴と言うべきなのでしょうか、そうすることにより、生命体の力を発揮する、つまり、関英 男さん指揮に言えば、目に見えない脳を使える状態に一時的なったりしていたのかもしれませんね。
仮説ですが。


その意味では、LPであっても、出てくる周波数は、カートリッジ、アンプ、スピーカーなどが持つ、周波数レンジまでに限られてしまいますので、完全とは いえないと感じます。
やはり、音楽の持つ周波数的な真実を得たいのであれば、生演奏ということになるのかもしれません。
ただ、PAを使用する大ホールなどの場合ですと、今度はPA機器(アンプやスピーカーなど)の周波数レンジまでが、周波数の幅となりますので、アコス ティック楽器の音を生で聴ける環境が良いのだと感じます。


もちろん、音楽には、周波数だけではなく、メロディ、リズムといった要素もありますので、上の話は周波数に限った話となります。



天外伺朗さんが、瞑想の際、「小さく小さくなっていくようなイメージ」というようなことをどこかで書いていましたが、この意味でも、”とても小さい場所” になにかがあるような気がします。

また、地球上での常識と高次元での常識(?)が逆であるとするなら、地球上では、一般的に、大きなものが強い、勝つ、得をする、という傾向がありますの で、高次元に行けばいくほど、そして創造主に近づけば近づくほど、小さくなっていくのかもしれない、とも思います。

その逆である、という意味では、外側と内側も逆である可能性もあるかもしれませんね。
上と下もそうでしょうが。

音楽を何もしらない人に、高い周波数の音を低い周波数の音を聴かせて、「どちらが高い音ですか?」とたずねたら、多くの人が、「低い音」を「高い」と言う のかもしれません。
ピアノの高い音と低い音を聴かされて、どちらが高い音ですか?と質問されて、低い音を「高い」と答えたことがある、という話を人から聞いたことがありま す。

高次元は永遠に続く、地上では寿命がある、と考えると、この世では、高次元と全てを逆になるようにこしらえたという可能性もあるかもしれません。
もっと言えば、高次元では、永遠に若返って行っているのかもしれませんね。





最近、やっと、共振、共鳴ということが、頭だけではなく、理解できてきました。
つまり、感覚的にも、分かってきたと言うことですが。

きっかけは何かと言えば、夫婦や、ペットと飼い主が似てくる、ということだったようです(単純!)。
だれが、どういう経緯で言っていたのかは忘れましたが、テレビを見ていたら、そういう発言がありました。

これで、どうして、夫婦が似るのか?と共振、共鳴とは?の2つの疑問が一度に解けました。
勝手な思い込みかもしれませんが。

もし、私の解釈が正しいのなら、、3次元的に考えれば、親が無理して幼稚園から私立の学校へ行かしたりするのも、一理あるということがになります。
幸福かどうかは、知りませんが、少なくとも、”お金持ち”、”育ちの良い”人たちとずっと一緒にいれば、いろいろなことで、共振することがきっとあること でしょう。

そう考えると、住む場所なども、きっと、大事なのでしょう。
これは船井幸雄さんの、”イヤシチロ”の話でも、分かっていることでは在りますが、お夫婦が顔まで似てしまう、ということを考えれば、共振の効果はすごい ものがあるのかもしれません。

従来、”イヤシチロ”的なことは、氣を受ける、であるとか、そういうことだけであるかと思っていましたが、共振、共鳴もやはり考える必要のあることのよう ですね。
あるいは、共振、共鳴自体が、そういうことなのかもしれませんが。
そうであれば、私の氣ということへの解釈が、少し違っていたか、足りなかったかということになるのでしょう。

みなさんは、どう思うでしょうか?


しかし、よく考え直してみると、例えば、氣で体の悪いとこっろを直すことを考えた時・・・
悪い、ということが、正常でない振動をしていて、直るということが、正しい振動に戻るとすれば、氣によって正しい振動波を送られて、それによって、悪いと ころが、その振動に共振して、正しい振動に戻る、ということが、治癒ということなのかもしれませんね。
分かっている人は、正解を知っているのだと思いますが。

これも正しければ、”イヤシチロ”も、その場所が持っている波動の振動に、そこにいる人が共振して、良い方向へ行く、ということになるのでしょう。

と、書きましたが、要するに、書いていることは、正に、波動の話そのもののようですね。


きっと、共鳴、共振の感覚がつかめたことにより、波動への解釈が、深まった、というのが事実なのでしょうか(笑)?

みなさんは、どう思うでしょうか?

これは、結果、先の、関英男さんの、高次元と通じる念波にも関係していることなのでしょう。

結局、始めの話に戻ってしまいました。


北村英治さんでした。




199:Beautiful Love:Eddie Daniels
   
    人気クラリネット奏者エディ・ダニエルズのアルバムです。


1.Awakening
2.Beautiful Love
3.First Gymnopedie
4.Waltz for Mirabai
5.Ninth Step
6.We'll Always Be Together
7.Take on Five
8.Loves' Journey
9.Brunete
10.Summer's Gone

バッハやサティまで、演奏されています。

この人を聴いていると、クラリネットの可能性を感じます。

これからは、こういう木管楽器が、人気を取り戻すのではないでしょうか?
なんとなく、そう感じます。

現在発売されているものは、ジャケットが異なるようです。
これは、97年の発売です。




 
”ずるい”というか、”卑怯”という言葉   がありますが、一体何を基準にすれば良いのだろう、と考えることがあります。

私は、勝つためには何でもやる、というのは、基本的にきらいなのですが、その考え方は、3次元では、今のところあまり特をしません。
高次元では、どう思っているのか分かりませんが。

何にしても、みんながやっているから、良い、ということでもないとは思います。
法律で禁止されているから、いけない、ということではない、と感じます。
だれも、見ていないから、やってよい、ということでもないと思います。



しかし、スポーツならば、ルールの範囲内ならば、最大限生かして良いのかも、しれません。
野球でピッチャーがインコースに投げて、バッターの腰を引かす、などということは、構わないのだと感じます。
プロレスの天龍のグーパンチは、あれは、きっといけないのでしょうけれども(反則)。



書いていて思いましたが、・・・
法律というのはルールです。
しかし、私は、法律で禁止されているからと言って、全てがいけないということではない、と言いつつ、スポーツは、ルール内、最大限まで良いのではないかと 言っています。

これは、どういうことでしょうか?

おそらく、スポーツのルールには矛盾を感じておらず、法律に関しては、矛盾を感じているのでしょう。

スポーツは人間が作ったものですので、人間が顕在意識上で知覚されている要素を全て踏まえてルール作りをすれば、それで大きな不満がないのに対し て、・・・
法律は、言ってみれば、3次元でのルールですが、これは、顕在意識上で知覚されている要素だけで、ルールを作ったところで、潜在意識上では、”間違えてい る”と言っているのかもしれません。
よく分かりませんが。

ルール、法律というものは、それぞれの人の好み、ものの考え方が違うので、必要なのだ、という考えから作られているのだろうと考えます。

しかし、私は、最近は、、意識レベルの違いによって主観的事実が人によって異なる、という仮説を持っていますので、その意味から、法律というものは、どこ かあり方自体、間違っているのではないかと感じられます。


この2つは、「人によって・・・・・・違う」、という点では、同じなのですが、根本的なところで違うと感じます。

前者は、どんな考え方をしても、正しい、という前提に立ってのものだと思うのですが、後者は、意識レベルに差があり、しかも、ルールを適応する際に必要と される”事実”ですら、意識レベルによって異なっている、ということだと思います。


この考え方から言えば、意識レベルによって法律を変えていく、というのが、正しいことになるのだろう、と思います。
実際校則などは、学校によって、著しく異なります。

学校全体での、意識レベルの平均を取っての採用ということになるのでしょう。
しかし、厳密には、それですら大雑把ですので、学生一人一人の意識レベルで決めていかないと、学生の効率良い進歩というものは、むつかしいのでしょう。

しかし、そこで間違えやすいのは、意識レベル=社会的常識レベルではない、ということ、あるいは、意識レベル=従順である度数、ではないということなのだ と思います。



と考えて生きますと、ずるい、という概念もまた、その人の持っている意識レベルによる主観的事実の違いが大きな要素となりますので、「あれは、ずるい」と 傍から見て感じても、やっている当人は、「ずるい」と分かっていてやっている場合と、「そうではない」場合の2通りがある、ということになるのだろうと思 います。
また、当然、意識レベルによる主観的事実の違いで、「ずるい」と見えたり、「ずるくない」と見えたりもするはずです。

そうしますと、学校などで、「ずるいことはしてはいけません」と教えるのも、先生の意識レベルによって、言うことがかなり異なってくるのだろう、と感じて しまいます。
どうも、学校の先生というのは、極論ですが、ひょっとしたら道徳だけ教えればそれで良いのかもしれません。
よほど、高い意識レベルの人のみ、学校の先生になる資格を持つ・・・・と。


社会ルールというのもあります。
並んでいるところへ、割り込んではいけません、というようなものですが。

社会ルールの基本は、「他人の迷惑になることをしてはいけない」だと思いますが、これほど、相対的なルール決めもないように感じます。

もちろん、人の迷惑になるようなことはしないほうが良いのですが、これは基本は多数決理論によるものだと感じます。
つまり、その場で一番多い意識レベルの人たちの考えが全ても基本になる、ということなのだと思います。

そうしますと、悪い所ではいつまで経っても、悪いまま、良い所でも、それ以上の進歩はなかなか望めない、ということになるような気もします。


知識は、どうも「百匹目の猿」理論で、限られた場所以外へも広まっていくようですが、意識レベルというものは、一体どうすれば、効率良く広まっていくので しょうか?
これにも、「百匹目の猿」理論は適応されるのでしょうか?


下にあわせるか、上にあわせるか、というのもあります。
これは、どっちも間違っているのだと思います。
本来は、全員が浮かばれるようにすべきだろうと思います。

但し、どうしても、どちらかに合わせなくてはならない理由があるのであれば、はみ出してしまった人は、そこにいるのは、あまり幸せなことではないのかもし れません。
無理に合わせるのは、いけないと感じます。
それは、上でも、下でも。



話は変わります。

先日、夜中の映画で、くも男、の映画をやっていました.
主人公は、優しさだけが取り得のような人です。
研究所の警備員だったのですが、族が押し入ってきて、一緒に警備員をしていた同僚は、ピストルで撃たれて亡くなってしまいます。

そのことによって、彼は超人的な力が、あれば・・・と考え出し、研究所にあった「くも」の遺伝子を自分に注射します。
そして、だんだんと、超人的な筋力や蜘蛛のように糸を出す能力などを身に着けてくるのですが、映画「スパイダーマン」とは違いますので、だんだんと蜘蛛の 怪獣のようになってきてしまいます。
最後には、とても心配してくれていた恋人までも襲ってしまいます。

しかし、殺せず、大きな蜘蛛の巣に捕えます。
そこで、以前より操作中の刑事があらわれますが、くも男は、瞬間正気に戻り、
「彼女を救い出してくれ」
と言います。
「自分を殺してくれ」
と言います。
彼女も、刑事も、
「きっと直る。がんばれ」
というようなことを言いますが、
その後すぐにくも男は、怪物に戻り、彼女を食べようとします。
そこで、刑事が発砲して、くも男はやられてしまいます。


私の感想ですが、このストーリーを、「問いの結果」と捉えることができるように感じます。
つまり彼は、神に評価されるような、大きな徳、大きな善行をしたかったのではないでしょうか?

その問いが発せられたのは、同僚が犠牲になってしまった直後かもしれませんし、それよりずっと前かもしれません。
彼の優しい心が、そうさせたのは当然としても、もしこの事件以前に、彼がそういう問いを発していたのなら、最初の事件ですら、一連の流れの中で、問いの結 果と言えるのかもしれません。




これから、何が考えられるかと言いますと、大きな善行を望んだり、問うたりした場合、これに限らず、大きな辛い目が、回答としてやってくるということは、 往々にして、あり得るのではないか?ということです。

大きな善行を時空が望んできるかどうかは、別にして、もともと大きな善行などというものは、そうそうできるものではありません。
できるとしたら、それ相応の状況、舞台であり、この映画のように、「くも男になってしまい、心までくも男になってしまいつつあるのに、最後に人間としての 心を振り絞った・・・」というような、通常ではあり得ないようなスチエーションでなければむつかしいものです。

この映画はフィクションであるとしても、大災害や、大事変のような状況下でないと、なかなか一度に大きな善行というのは、でき得ないと感じます。

もちろん、仮説ですが、もしこれが事実なら、一度に大きな善行を行いたい、だなんてことは、思わないほうが良いのかもしれませんね。
雀のお宿の話はこういうことを言いたかったのかもしれませんね。


しかし、もしそうなら、もう少し、説明がほしいと感じます。
単にプレゼントとして、大きなものと小さなもの、どっちが良い?と聞かれたら、大きなものを良い、というのが、たいていの場合、素直で良いと感じます。
もし、詳細な説明なしで、多きなつづらをもらうと良くないよ、としてしまうのなら、どこか、素直がいけないことだ、というようなことを教えてしまっている ように感じます。
実際、私など以前は、いくらか、このように解釈していた節がありました。
私だけかもしれませんが(笑)。



どうも、問いと言うのは、何を問うのか?ということに、気をつけないといけないのかもしれません。


エディ・ダニエルでした。






200:TONY BENNETT'S "SOMEYHING"
   
     トニー・ベネットです。

1.Something
2.Long and Winding Road
3.Everybody's Talkin'
4.On a Clear Day (You Can See Forever)
5.Coco
6.Think How It's Gonna Be
7.Wave
8.Make It Easy on Yourself
9.Come Saturday Morning
10.When I Look in Your Eyes
11.Yellow Days
12.What a Wonderful World


12曲目では、ルイアームストロングが1フレーズ参加しています。

「ロング・アンド・ワインディング・ロード」では、アビーロードの「ゴールデンスランバー」のフレーズも出てきます。
時代的に、その頃の作品なのだと思います。

このCDは、買ったときのことを覚えている数少ないCDです。
渋谷の東邦生命 ビルにあるCDやさんで買ったはずです(今はどうやら渋谷クロスタワーというらしい)。
なぜ、そんな場所でCDを買ったかというと、当時勤めていた会社が渋谷で、当時東邦生命ビルにあった伊東屋へ、よくコピー用の厚紙を買いに行っていて、そ の帰りによく、そのCDやさんへ寄っていたからです。

 今調べましたら、その伊東屋は、移転しており、東急東横店に変わっているそうです。

最近は渋谷などへも、年に1,2度くらいしか行きませんし、増してや、そのビルなど、5,6年行っていませんので、CDやさんがどうなったかなど さっぱり分かりませんが、当時は、大きなCDやさんには置いていないようなレアなものがたくさん置いてありました。

トニーベネットは、バブルのころ、来日し、コンサートを行いました。
その模様はテレビでも放映されました。
シャープス&フラッツをバックに歌っていたのを覚えています。
「ザ・マン・アイ・ラブ」で、森川さんだか、福島さんだか、白磯さんだかが、トランペットソロを取っていたのを、テレビで見ていたのを良く覚えています。

ジャケットのトニーは、まだ髪の毛が黒ですね。
今は白髪ですが、今のほうが好きです。

ケースには、シールが張ってあり、「3-TIME GRAMMY WINNER」とあります。
その後、アンプラグドでも、グラミー賞を取ったでしょうか?
良く覚えていませんが。

ライナーノーツには、フランク・シナトラの手記が掲載されています。
「Tony Bennett is the greatest singer in the world」というものです。
1970年に書かれたものであるようです。

但し、トニーは最高に良いのですが、世界中にはすごいシンガーがたくさんいるようです。
1国に1人はいるのではないでしょうか?
どうも、アメリカ中心的な感じがします。
是非、生前のシナトラに、美空ひばりさんを聴いてほしかったと感じます。
今なら、AIKAさんですが(照)。

今聴きなおしていますが、ドラムがすごく良いです。
ライナーには何もありませんがだれでしょうか?
バディ・リッチでしょうか?
良く分かりませんが。




現在、岡田多母さんの「愛しの地球(テラ)へ」(1996年:風雲舎)を読んでいますが、1996年に、地球は、もう一度、がんばろうと、本格的に 動き出したようですが、それについて、いろいろと詳しく書かれています。

122ページには、次のように書かれています。
(引用)
『その進化のプロセスは、これまでは螺旋状で、一度終わると初めまで戻って、再び 始まりましたから、どうしても初めのカルマを引きずりました。ところがこれからのサイクルは一周すると、螺旋状ではなくクォンタムリープ(周期起動を逸脱 する動き・相転移)して、新たな一周を始めますから、カルマを引きずらず、確実に新しい物質転換をするようになりました。いったんガス状となって姿を消 し、新しいサイクルで再びその姿を現すとき、それはビッグバンのように、一瞬にして場が変わります。この新しいサイクルの始まりの兆しは、一九九〇に見え はじめ(ダブルメビウスの流れ)、一九九六年にははっきりとしました(地球の蘇りの決意)。
それは、地球だけではなく、地球の存在する宇宙空間すべてがそうなります。空間が 変わるとき、時間を引きずりませんから、古いカルマを引きずりません。』
(以上、引用)

どうも、カルマはあった、と定義しても、一九九六年くらいからは、カルマはなくなってしまったように読み取れます。


また、これまでのサイクルは、過去から現在、未来という線上にあったが、これからはひとつひとつがバラバラであり無限大になるものであり、座標しか なく、そのベクトルは五次元、六次元に行くことも可能で、自分が点を打ったことから全てが始まる、としています。

123ページから引用します。

『ここという一点は、ここがすべてであり、ここが無限大の可能性をもってい るということです。いま、ここに、現在も過去も未来もあります。これまでの時間の流れは、過去、現在、未来という一直線上の流れでしたが、地球の進化と ともに時間の流れはもまた変わりました。これまでの時間軸は連続していましたが、それは光がこの世を支配していたからです。この世では光の速度がいちばん 早いと私たちは思っていますが、じつは光より早い速度があります。光速に合わせてみると、無数の点は連なって見えますが、光より早いスピードで見れば、そ れは線ではなく点が連続しているだけであることが鮮明に見えます。
私たちの視覚という能力が光速を超えて見るということができれば、本当は私たちの 身体も消えたり出たりしているのが見えるはずです。光は、ものがひとつの形としてあさまる、動かないように見えるスピードです。いま、この世は太陽の光が 中心ですから、そんなふうに止まって見えています。
ところが地球が、後述するテラからテラスにレベルアップしますと、太陽の光を超え る光が地球から現われ、この世はミヨになります。そうすると、光の世界は光を超える世界となり、直線上の時間軸ではない、すべてがたたみこまれた時間にな りますから、「いま、ここ」はさらに確実になります。』

(以上、引用)

セスの本にも、物体は、点滅している、という記述がありましたが、それも上記と同様に、光のスピード故、連続して見え、それより速ければ、点滅して 見える、ということを言っていたのかもしれません。
実際は違うことを言っていたのかもしれませんが。
いずれにしても、上記の連続していない、の説明は分かりやすいです。


二〇七二年には、ミヨになる、としていますが、ミヨが具現化される時について、次のような記述があります。
(136ページより引用)

『ミヨがまさに具現化されるそのときに必ず現われてくるものがあります。この三次元世界 を反転させ、新生させる新たなる「始まりの初め」の一(ヒ)の点です。そこは無であって、無限の一点です。あの世でもなく、この世でもない、プラスでもな く、マイナスでもない。どちらでもあり、どちらでもないところ、そしてビッグバンが起きる点、ビッグバンを起こす点、ホワイトホールとブラックホールが同 時にある点ともいえます。また「阿(あ)の呼吸」と「吽(うん)の呼吸」が同時に起きるところといったりもします。なにしろこの一点が現われてくると世の 中が変わる、相移転(クォンタムリープ)が起こるといわれています。絶対のゼロであり、「ゼロ磁場」といわれているとろこに似ています。
この絶対のゼロが現われると、いまの光の世界から、光を超えた世界・ミヨに入ります。
いま現在の私たちの見ている光は、太陽の光を基本としています。この光はいまの地球のレベルに対応するための光ですので、全宇宙空間の光レベルではいちば ん遅い速度です。私たちの視覚はこのレベルに対応しているため、すべての物体はとまっているように見えます。
(中略)
光速を超えると世界が変わります。今のこの世の常識を超えてしまう世界に入ります。それは次元を超えてしまうからです。三次元という次元を超えて、四次 元、五次元というところへ自然に入っていくのです。肉体はこの三次元に存在していても、意識は次元を限定しないために、どの次元にも存在可能です。神々の 姿を見るということもこれと同じ現象です。
宇宙の知性体・UFOのように、本来はガスのように漂っていつ状態から、瞬時に物質化することがあり、それが見えるようにります。次元を超え、意識の目で 見ると、見える現象があるのです。
ミヨになると、基本になる光そのものが変わります。現在の地球のように太陽の光を基本とするのではなく、地球自体が自らの光を発するようになるのです。そ の光(影を照らす光)のもとで私たちは世の中を見ることになります。
 太古の世界では、色は、白、黒、金、銀くらいしかなかったようです。色は少しずつ光の特性であるプリズム効果を出すようになって、現在のように無限に広 がるようになりました。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・』

(以上、引用)



ビデオと言いますか、テレビといいますか、日本で使われているNTSC信号では、1秒間 に30こまのフレームという紙芝居の1枚の紙に相当するものがあります。
更にこのフレームは、2枚のフィールドというもに分かれて書かれていますので、1秒間に60回、書き込みが行われています。
アメリカ、カナダなど以外の海外では、ビデオ方式が異なりますので、このこま数が若干増える国があります。
詳細は、省略します。


DVDや、家庭用プロジェクターが登場して以来、プログレッシブ、あるいはノンインターレースという言葉が出てきましたが、これは、フィールドが2回か かって書いていたフレームを一度に書いてしまう、という方式のことです。

それによって、”チカチカ感”を減らし、尚且つ、密度感の高い画質を作る、ということを目指しているようです。


60こまの話ですが、こまを増やせば増やすほど、”良い画質”になると思われるかもしれませんが、実際はそうではないようです。
いろいろな説があるようですが、一説では、これ以上大幅に増えますと、残像効果のように前のフレームが目に残ってしまい、画像が重なって見えてしまうとい うのがありました。



PCモニターはリフレッシュ・レートというものがあります。
この設定を上げると、モニターの、”チカチカ感”を減らすことができます。

ちなみに、PCモニターは、ずいぶん前から、ノンインターレース方式を採用しています。
現在では、いちいちノンインターレースかどうかを、確認してモニターを購入する必要はほとんどなくなっていますね。

私ごとで言えば、私は目が悪いせいか、鈍感のせいか、動画に対する興味が少ないせいか、PCモニターを見ても、チカチカした覚えは一度もありません。
また、ノンインターレースの画像を見ても、「若干、のっぺらな画質になったな」と思う意外、特に高画質だな、と感じたこともありません。

しかし、分かる人には、分かるようで、PCモニターを見て、「チカチカする」といっている人は多いようです。

これは、音に置き換えれば、私はどうやら、ほかの人には気がつかないような部分(音)が聴こえたりしているようですので、その逆のことが起きていると考え れば、不思議なことではありませんね。



と、動画の話を書きましたが、上記の多母さんの話によれば、今の地球の人間の多くは、太陽の光のスピードに合った目を持っているので、地上のものが、止 まっている、というか、そこに今あるように見えるようですね。
これが、光を超えると、どうも違う世界が見えるようです。
そして、それが、何十年か先には、普通のことになるようです。



そしてビッグバンが起きる点、ビッグバンを起こす点、ホワイトホールとブラック ホールが同時にある点ともいえます。また「阿(あ)の呼吸」と「吽(うん)の呼吸」が同時に起きるところといったりもします。

は、あの難解な岡田多母さんの「ヘソの話」(2004年7月発行:風雲舎)にも出てくる話ですが、この本を読んで、少しは分かったように感じます。


もう少し先から引用すると、
あの世でもなく、この世でもない、プラスでもなく、マイナスでもない。どちらで もあり、どちらでもないところ、そしてビッグバンが起きる点、ビッグバンを 起こす点、ホワイトホールとブラックホールが同時にある点ともいえます。また「阿(あ)の呼吸」と「吽(うん)の呼吸」が同時に起きるところといったりも します。
ということですが、基本的にはゼロ、平ら、ということを表現しているいのだと思うのですが、どういうことでしょうか?

全てが一緒になる、ということでしょうか?
相反するものが、どちらでもなく、どちらでもある、という状態でしょうか?

男でもなく、女でもない、しかし、男でもあり、女でもある。
勝ちでもなく、負けでもない。しかし、勝ちでもあり、負けでもある。
善でもなく、悪でもない。しかし善でもあり、悪でもある。

作用するものと、力が一緒ということでしょうか?
何かを起こそうとする人と、起こそうとする意思が一緒・・・?

何かを起こす何かと、起こそうとする意思が一緒になるとも取れるのかもしれません。
そうすると、今は、起こそうとする意思と、人あるいは、ものが別ということでしょうか?
運命が決まっている、という考え方でいけば、正にそうなのだと感じますが。

高次元では、思ったことが、すぐに物質化する、ということを考えると、
今のこの世の常識を超えてしまう世界に入ります。それは次元を超えてしまうから です。三次元という次元を超えて、四次元、五次元というところへ自然に入っていくのです。
は、疑うこともよしもなく、高次元とつながった状態、あるいは、高次元と一緒になった状態と」考えてよいのかもしれません。



光より速いものを感じ取ることにより、それが直接、何か違うものにつながる事になるのかもしれません。
関英男さんの念波は、光より光速なようです。
きっと、以外に身近に、光より速いものがほかにもあるのかもしれません。
それを感じ取ったり、意識したりすることにより、何か違うことが分かるのかもしれませんね。
実際はどうかは、良く分かりませんが。




私の解釈に勘違いがなければ、どうやら、氣というものも、念波のひとつであるようですので、光より速いのでしょう。

「清水の次 郎長」  http://www.hokuriku.ne.jp/genkai/71tesshu.htm の、
http://www.geocities.jp/u_yu1/rs0084.html には、清水の次郎長と山岡鉄舟さんのエピソードがあります。

どうも山岡さんは、氣を使えたようです。
剣の達人で、高次元とも通じていた人ですので、当然と言えば当然なのです。
下の話ではないですが、氣によって、人が動かされたりすることを考えれば、ひょっとしたら、だれでも、光速以上のものを感じ取れる能力をもともと持ってい るのかもしれません。

http://www.geocities.jp/u_yu1/rs0084.html より引用:「小倉鉄樹「おれの師匠」島津書房より抜粋、一部現代仮名使いに改変」とあるのを、更に私が変更)

子分三千人といわれた清水の次郎長は、鉄舟に心酔しよく出入りしていた。ある時、次郎長親分 が こんな事を言いだした。

「先生。撃剣(げきけん。剣術)なんてたいして役に立たないもんですねえ」

「どうして役に立たないと思う」

「私の経験ですがね。刀をもって相手に向かった時にはよく怪我をしたものですが、刀を抜かず に 『この野郎』とにらみ付けると、たいていの奴は逃げちまいます」

「そういうこともあろうな。それでは、お前はそこにある長い刀でどこからでも俺に斬りかかってこ い。俺はこの短い木太刀で相手をしよう。もし、俺にかすり傷ひとつでも負わせたら、お前が勝ったことにしてやる」

そこで、負けん気の強い次郎長は、端然と座っている鉄舟居士をしばらくの間にらみ付けていたが、

「これはいけねえ。どうしてもお前さんにはかかれねえ。このすくんでしまう気持ちはどうした訳だ ろ う。先生には分かっているだろうから教えておくんなさい」

「それはお前が素手で、この野郎と相手をすくませるのと同じことだ」

「それでは私が素手で、この野郎と睨み付けるとなぜ相手がすくむんだね」

単純な次郎長は一心に追求していく。居士は楽しそうに言葉をついだ。

「それはお前の目から光りが出るからだ」

「撃剣を稽古すれば、よけいに出るようになりますか」

「なるとも。目から光りが出るようにならなけりゃ偉くはなれねえ」

といって「眼、光輝を放たざれば大丈夫にあらず」と大書して与えた。次郎長親分はこれを表装して ずっと床の間にかけていたという。



なにせ、江戸に攻め入ってくる最中の官軍の陣地に、勝家に厄介になっていた(一応は囚われの身?)薩摩藩の益満休之助さんを伴って入って行った人というこ とですので、その時も、氣?で、有無も言わせず、敵陣に入って行ったことでしょう。
この調子で、山岡さんは、西郷隆盛さんにも、氣を送ったのでしょうか?

ちなみに、北方謙三さんの「草莽枯れ行く」 (集英社文庫)では、山岡鉄舟さんと益満休之助さんは、ずっと以前からの知り合いとして描かれています。
もちろん、フィクションでしょうが、北方さんなりの、脚色が楽しめます。

ちなみに、浪士組という、後の新鮮組になるものが作られたとき、江戸から京都まで、メンバーをつれて行ったのが、山岡さんということです。 当然その中には、土方歳三さん、近藤勇さんなどもいたようです。



122ページの
「この新しいサイクルの始まりの兆しは、一九九〇に見え はじめ(ダブルメビウスの流れ)、一九九六年にははっきりとしました(地球の蘇りの決意)。

それは、地球だけではなく、地球の存在する宇宙空間すべてがそうなります。空間が 変わるとき、時間を引きずりませんから、古いカルマを引きずりません。」

によれば、1990年あたりから、変化のきざしがあり、1996年から変化が起き始めているようですが、どうも、私的には、この頃から時間が異常に 短く感じられてしかたがありません。
何か関係があるのでしょうか?
みなさんは、どう感じているでしょうか?
同じように感じている方はいないでしょうか?

単に、年を取っただけかもしれませんが(笑)。

そう言えば、森田健さんも、不思議研究所のサイトで、1990年が何か重要な年であったようだ、というようなことを書いていたようです。
不思議研究所の発足、孫さんの初めて蘇生成功、その他、数々の大きな出来事があった年だったようです。


個人的には・・・・覚えている限り、何もなかったようです(笑)。
みなさんは、どうでしょうか?

トニー・ベネットでした。




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