理由もなくこればかり聴いてしまうCDのコーナー

CDはたくさんあるのですが、なぜか、いつもこればかり聴いてしまうCDを紹介します。

 

クリスマスアルバムのコーナー    2005年船 井幸雄オープンワールドの感想
                       

 



4月11日です。
キーボードを通常のフルサイズのもに、変更しました(笑)。
変なところに、”い”とか、”う”とかが、入ることが減るかと思います(笑)。

266:四季:秋吉敏子
   
  秋吉敏子さんのピアノトリオものです。


1.スプリング・イズ・ヒア
2.サドゥンリー・イット・イズ・スプリング
3.サマー・タイム
4.インディアン・サマー(小春日和)
5.オータム・シー(秋の海)
6.枯葉
7.ウィンター・ワンダーランド
8.サンタが街にやってくる
9.スプリング・タイム・フォー・ヒットラー


今までテレビなどでは、ソロピアノを見ることが多かったですが、この人は、トリオの方は良いですね。
ベースの音が多きいように感じますが、女性ゆえのパワー不足を補っているのかもしれませんし、ビッグバンドをやっていたので、ベース(基本)に流れる音を 大事にしているのかもしれません。




森田健さんが、ブログの方で、「不可能だ と思うとできる」というようなことを書いていますね。
実は私はこれは、あり得るのではないかと思っています。

但し、その対象は、相当に大きなものでなくてはならないのだろうと思います。

政木和三さんは、「できるだけ大きな目標を立てて、その後は、忘れて、足元1メートル四方だけを見て進めば、なんでもできる」、
あるいは、病因で見放された赤ちゃんの母親に、「助かりません。もう助からないと諦めて、”赤ちゃんはすでに治りました”と思いなさい」告げ、祖母たちに は、「そうすれば助かります」と次げたところ、次の日、病因で赤ちゃんが急に前回して大騒ぎになった話などをしています。

この”諦める”の対象は、政木さんの言うように、あるいは森田さんが書いているように、”ものすごく大きな対象”でなくてはならず、なおかつ、政木さん自 身は理解してはいたのでしょうが、実は”諦める”ではなく、”不可能だと素直に思う”というのが正解なのではないかと感じています。

あきらめるには、どうしても、「放り出して、止めてしまう」、という意味が込められているように思います。
もっとも、ひょっとしたら、世代差により、その言葉に込められている意味が若干違っているのかもしれません。

ですので、きっと、今の言葉の解釈でいけば、政木さんの言いたかった言葉は、森田さんが書いた「不可能だと思う」であり、「不可能だと素直に思う」という 内容なのだと思います。

まず、3次元的に考えても、仮に、この転職が多く病み上がりの私が、「ベストセラーを10年連続で出す」と思ったとして、これを従来の3次元的精神論だけ で、「諦めてはいけない。きっとできるに地kがいないと思ってやらなくてはいけない」だなんて思ったら、それこそ、背中に重荷を背負(しょ)
ったようになってしまい、なにもする気がなくなってしま います。

しかし、仮に、今、ものすごく大きなことを考え、そして、「ああ、不可能だ。でもやってみようっと」と思ってみてください。
私などは、とてもウキウキ、ワクワクしてきます(笑)。


これは、3次元的な解釈ですが、ひょっとしたら高次 元的にも何かあるのかもしれませんね。


ただ、小さな対象、つまり自分が知覚している3次元 的能力と常識で考えて、ホンの後少しでできるようなものに対しては、「がんばればできる」で良いように感じます。




まとめますと・・・
やろうと思っていることがものすごく大きなものである時には、無理をせず、素直に、「”不可能だ”と思い、それでもやってみよう」とやり出すと、出き る・・・
ということでしょうか。


みなさんは、どう思うでしょうか?




さて、思うのですが、爪が長いと、何となく運が良いように感じます。
私は楽器を弾きますので、中学生以来、深爪ですが、最近弾きませんので伸ばしますと、ちょっと違っていたりします(笑)。
ひょっとしたら、そんな占いもあるかもしれませんね。

ただ、あまり長いと、今まで深爪の習慣がありますので、ひっかいてしまいます(笑)。
もっとも、果たして長い方が良いのか短い方が良いのかは良く分かりませんが。
中間くらいが良いのでしょう、きっと。






4月13日です。

テレビでなぜCDが売れなくなっているか、という話をやっていましたが・・・
いままでもCDの音説などいろいろ書いてきましたが、他にもいろいろ考えます。

たとえば、新たな発想として、西洋的なメロディばかりになってしまったからではないか?というのはどうでしょうか?

私は音楽業界は詳しくないのですが、一番商品決定権のある世代というのは、まさか団塊世代ということはないですよね?
どれくらいの世代でしょうか?
普通の会社なら30代〜50歳くらいではないかと思いますが。

やはり、この世代ですと、アメリカが一番・世代なのだろう、と考えます。
私は42ですが、大滝詠一さん達が、それまでの歌謡曲っぽい曲調ばかりの中に、きちんとした西洋ぽい曲調のものをリリースしてくれたことに、大変な喜びを 感じたものでした。

最近爆発的に売れているものは、宇多田ヒカル、浜崎あゆみ、倖田來未などのようですが、みんな西洋ぽいですね。
これらを見ていると、やっぱり西洋の焼き直しみたいなもをやるのが一番売れる道ではないかとも思えてきます。

が、とにもかくにも、曲を直接作る人も現場の人も、20年前と比べれば相当に西洋音楽が身に付いていますので、曲調も全体的に言って、西洋ぽくなっている でしょう。
そうしますと、西洋ぽくても斬新さというのはないですね(笑)。

以前は、生まれた時はまだまだ日本のメロディに慣れ親しんだ作曲家などが多かったでしょうから、どうしても今の人よりその影響はたくさん出てきます。
ですので、全体で見れば、今よりもっと日本ぽかったのです。
その中に、時々大滝詠一さんなどのようにきちんとした西洋ぽいメロディのものがあるとそれがひかるわけですね。

もし、この考えが正しいのなら、もっと全体でものを見ないとだめなのでしょうね。
言ってみれば、覆面レスラーは少ないから目立つのであって、全員覆面をしていたら、きっと覆面をしていないレスラーが目立つだろう、という話です。



次は、本当は日本ぽいメロディをみんな欲しがっているのではないか?という説ですが・・・。
これは単純にそういうことで、未だに西洋ぽいメロディばかり追いかけているのが、CDが売れない原因かもしれませんね。




ただ、やはり大きな原因はCDにあるように感じます(笑)。
もう慣れましたが、やはりCDの音は、優しくないです。
使用するオーディオにもよりますが。

そういうものを癒しや元気の元としてあまり使用したがらないですよね、生き物は。



おそらく思うに、人がオーディオ装置の前にずっといたがる様に考えれば良いのだろうと感じます。
きっとデジタルノイズも出ているでしょう。
PCほどではないにしろ。

ラジオを」つけてみると良い分りますが、PCを着けている時などは、ものすごいノイズがラジオからでます。
電源を切りますと、ラジオはきちんと入ります。
CDはそこまでではないですが、ありますね。

それを人間が感じていないわけはないと想像しますが。
ですので、痛い、という音質の問題だけではないということですね。



なんとか、もっと売れると良いですね。

ちなみに、私は人生史上、今が一番CDを買っていますが、ほとんどがインストロメンタルです。
器楽演奏ということですね。

ほとんどが昔の録音です。
最近の録音は、中域がないですので、変な音で、流石に買ってまで聴こうとは思いません(笑)。

市場を育てるのが必要だ、という意味では、良い音を一般に教える、ということも大切ですね。
変な音に慣れさせて、その上でそれを売って行こう、というのは、無理があり過ぎるように感じます。

いってみれば、昔のトマトは甘かった、であり、ビニール・ハウスで育てた野菜を食べて、野菜嫌いになった子供たちでも、有機農法で育てた野菜を食べて、 「おいしい」と感じるのと」似たようなことが音楽の世界でも起こっているのかもしれませんね。

みなさんはどう思うでしょうか?










さて・・・・・・
先日の「不可能だと思うとできる」ですが、やはり不可能だと思うと、自然に笑顔になります、私は。

思うに・・・想像ですが、ひょっとしたら、願望達成法による弊害かもしれませんね。
私がマーフィーを読んだのは、確か大学生くらいの時だったかな、と思いますが。

いろいろ書いてありましたが、「イメージを思い浮かべればできる」であり、それは、「できないのは、正しくイメージをできていないからだ」なわけですね。

つまり、言ってみれば、これもまた、「できないのは、努力が足りないからだ」と同じような土俵の話ではないでしょうか?

努力にしても、イメージにしても、情熱がなければ、単なる欲ですので、その点においては、まったく同じと言って良いのですが。


ですので、マーフィーなどの本には、「イメージできれば、不可能などはない」などと書いてあります。

もちろん、生命体の力が100%使えれば3次元では不可能はなさそうですが、マーフィーなどは、そういうスタンスではないです。

「潜在意識にイメージを入れ込むと叶う」であり、「潜在意識とは、顕在意識の裏側にあるもので・・・」であり、高次元がとか、アーカシックレコードとは? などには触れませんので、すべからく3次元上のできごととして処理しなくてはならないわけです。

私などは、「信じてみよう」とか思っても、理論的に矛盾が多いですので、その矛盾を克服するために、「宇宙のどこかに信号が届き・・・」などと考えたりし てみましたが。
あるいは、何か違うものからの知識だったかもしれませんが。

「イメージできれば不可能などはない」わけですので、やはり不可能がある、ということは、イメージする努力が足りない、ということになるのだろうと思いま す。

ですので、イメージも苦しいですが、大元は”不可能はない”ということを強引にでも思い込まなければならない、ということなのでしょう。
「不可能だという疑いが少しでもあれば、だめです」というようなことも書かれていたように思います。



これは、苦しいですよね?
不可能だ、と思った方がよっぽど、楽な」ことというのはあるのだと思います。

ただ、情熱があるときは、不可能だと思っても、やりますね。


政木和三さんは、「生命体の力を使えれば不可能はない」というようなことを書いています。

もし、これが正しければ、やはり、どうみても不可能だと思うことを可能だと信じたり・・・、実現しないのは、イメージが潜在意識に入っていないからだと 思ったり・・・などのことはどう考えても、脳波がシータ波などにはなりません(笑)。
波動も有害なものが出ていそうです(笑)。

守護霊も、指導霊も、ご先祖様も、
宇宙の存在も、神様だって、呆れているように感じます(笑)。

外応なんて見たり聞いたりする隙すらありません(笑)。




ですので、想像ですが、やはり3次元的には「不可能だろうな。でもやってみたいからやろう」が一番良いのではないかと思います。
そして、これは状況にもよりますが、一番良い波動を出しているようにも思います。
脳波も安定していそうです。

守護霊も指導霊もご先祖様も宇宙の存在も神様も安心しそうです(笑)。



みなさんはどう思うでしょうか?





ですので、
簡単なことは、できるに決まっている、と素直に思う。
少しむつかしいことは、がんばればできる、と素直に思う。
すごくむつかしいことは、不可能だと素直に思う。
で、良いのだろうと思います。


やるかやらないかは、情熱なんだと思います。


みなさんは、どう思うでしょうか?
2時49分です(笑)。





4月14日です。

白州次郎さんという方の番組を、縁があり、再放送を含めて2度も見てしまいましたので書いてみます。
戦後、GHQに対して対等の立場で物をい言った人で通産省を作った人でもあるようです。
アメリカには戦争で負けただけであり、奴隷になったわけではない、というのがこの方の心情であったようです。
とにかく、慎重が180センチ以上もあり映画スターばりの2枚目で後には、ファッションショウのモデルまでやったようです。
もちろん、所謂偉い役職などにも就いたようですが、戦中などは、食料が足りなくなることを見越して農業をやったりもしたようです。

番組曰く、「マッカーサーを叱った男」ということです。


この方は自動車が好きだったそうで、自動車会社にも、アドバイスなどをしたようですが、そこで、「掛け替えのない(No Substitute)車を作るべきだ」と言ったそうです。

Substituteは代替、代わり、といった意味ですので、なるほどな、ですね((笑)。

で・・・・・・
私はマーヤについて書きますが、競争、比べることがいけない、とは言いますが、それでは、何が良いと言いたいのだ?となりますと、自分にしかないもの を・・・とか、いろいろ表現はできますが、どれもピンときません。

それでも、この”掛け替えのない”という言葉は、それをうまく表現しているかもしれません。


掛け替えのない、とは要するに、他の何物にも変えられない唯一の・・・と言った意味なのでしょうが、それらの言葉では言い表せ
ない、「これがこれで ある故に大切で、重要で、必要で、貴重で、存在価値のあるものなんだ」という意味がありますね。


だからどうかと言いますと、「良い言葉だな」と思います。




最近、この言葉は使われませんね。

言葉自体が古いということではなく、
「これがこれである故に大切で、重要で、必要で、貴 重で、存在価値のあるものなんだ」という価値観そのものが、なくなっているのではないだろうか?とも感じます。
大量生産時代ですし、使い捨て時代ですし、尺度の多様化なしに多くの人を測るったりしますし・・・
”掛け替えのない”という言葉は忘れ去られても仕方ないかも知れませんね。


ただ、忘れようが、使われなかろうが、みな”掛け替えのない”ものであることには変わりないのでしょう。


これから、”掛け替えのない”という言葉を使ってみとたいな、と思います。

みなさんは、どう思うでしょうか?






4月14日です。
先の白州さんですが、なんでもイギリスに留学していたそうです、10年近く。
そこで、イギリス紳士の精神と、イギリスがアメリカを植民地化していたということを体感したことが、その後につながっている、とテレビでは解説していまし た。

それもあるでしょうね。

しかし、少し腑に落ちないところもあります。

やはり、どうであれ、日本人精神のようなものを持っていた、ということではないかと感じます。
確かではありませんが・・・。

ただ、こういう今の常識から見て尋常でない人を取り上げる時に、すぐに”外国の〜影響がある”とするのは、すごく変な習慣のように感じてしまいます。

もっと、日本に自信を持った解釈はできないものかと感じます。





これも、決まっている運命という方面から見ると面白いです。
彼はすごい長身であったようです。

まず昔の日本人は西洋人より背が低い、ということだけで、負い目を感じてしまっていたように思いますが、それがなかたっということですね。

私は背が低いのですが、どういうわけか、今までほとんどそれを負い目に思ったことがありません。
理由は分かりません。
しいて言えば、4,5歳の時に、母親が「背が高くなるといいね」みたいなことを言った時に、「そんなのどうでもいいよ」と言ったことをしっかり覚えていま す。

願望達成法的には、「その重いが背を低くした」とも言えますが、どうでしょうか?

前世に決めてきた論的には、「背なんかどうでも良い人生を送ろう」と決めてきたとも言えますね。

どれが真実かはなんとも言えません。




それはそれで良いのですが・・・

とにかく、普通に考えると、彼が背が高かったということは、運命的ですね。

おそらく、霊能者の方が見ると、白州さんのような人には、「〜という神の生まれ変わりです」とか、「前世、歴史的な〜でした」とか、「〜という守護霊が 守っていました」と言うのでしょう。

それはそれで事実なのでしょう。

しかし、それは結果であり、そういう方面から言い過ぎますと、江原さんが良く言う「どこそこでは、守護霊を付けてあげるだなんていうことをしているらしい です。そんなことは絶対にありません。気をつけてください」
ではないですが、そんな詐欺も横行するでしょう。



夏目漱石などは、イギリスへ留学して大変だったようですが、背が外国人より低いことに劣等感を抱いていたそうです。
私は、背が低いくせに、外国人と対等に付き合えますが、きっと、背が低くて損をした、という経験がないからでしょうか?

普通、背が低く、劣等感を抱くには、見た目、背が低くて損をした経験がある(競争に負けた、いじめ、振られた・・・)などなのでしょう。
私はこの経験がありません。

不思議ですね(笑)。

やはり、劣等感を感じる、感じないも、運命なのでしょうか。





みなさん、普通の身長の人は分からないかもしれませんが、人の顔というのは、上から見るか、下から見るかで表情、形はずいぶん違います。
髪型なども、多くの人は、鏡で正面から見ることを前提で決めていますが、背の低い人は上から見られることが多いですし、背の高い人は下から見上げられるこ とが多いわけです。

あるいは、鏡の中では良くとも、髪型をひとつのスタイルだとすれば、やはり姿見で見ないと何とも言えないでしょう。


その意味では、私は上から眺められると、良い顔をしているのかもしれません(笑)。

ですので、自然に劣等感がないのかもしれません。
ですので、背の高い友人が多かったのかもしれませんね。





あるいは、背の高い人の視点から見れば、背の低い人に対して何かあるのでしょうか?
そして、私には、それをついてしまう何かが無いので安心なのかもしれませんね(笑)。
背の低い私には分かりませんが。


森田健さんも視点の移動について書いていますが、日本はもっと正確に外国方面からの視点で物を見てみると良いかもしれませんね。

操作された情報と、操作でなくとも、もともとフィルターの強い人によって選ばれた情報だけで、日本を見ていると日本に対しての自信と言いますか、真実の姿 というものは、なかなか分らないのでしょう。




ただ、劣等感ではないですが、社会的通念のようなものには、弱いですね。
つまり、転職が多いとダメ・・・とか、一流大学でないとダメ・・・とかですが(笑)。

よくまあ、私が気にしない所だけ、ついてくるな、日本は・・・などと思ってしまうときもあります。
それ故、日本が嫌いだった時代もあります。
今は日本人としての自信を思い出しましたが(笑)。

是非、日本にがんばって欲しいです。


みなさんは、どう思うでしょうか?








4月16日です。
前からそうですが、食事をしますと、ものすごく眠くなります。
とか思いながら岡田多母さんのサイトを見ていましたら、「春は そういう時なので、あまり一度にたくさん食べない方が良い・・・」というようなことが書いてありました(笑)。
そうですね、食べ過ぎかもしれません。







先の白州次郎さんで忘れていましたが、なくなる時には、「葬式も戒名もいらない」と言ったそうです。
何かスタンスに、神と対等と言いますか、3次元と高次元を同時に生きている感じがしますね。

みなさんは、どう思うでしょうか?







さて・・・
頭に映像が出難いシリーズですが・・・
どうも、新たな想像では、私は幼少時から思考か嗜好か・・・が普通ではなかったですので、人になかなか」理解してもらえないことが多かったです。
ですので、人を説得する、理解させる、というようなことに、とてても苦慮したと言いますか、考えさせられることが多かったのですが、中学生くらいだったで しょうか・・・あるいはもっと後だったでしょうか、算数の問題並に、「一番難しい問題を解けるようになれば、簡単な問題もできるはずだ。それじゃ、この世 で一番理解力のない人を想定して説得する練習をしよう」というようなことを思ったことがあったようです。

それで、何かするにつけ、それをしてきたように思いますが、どうもそれを頭に映像を出す、という家庭でもしていたような気がします。

これが正解だとすれば、やっていることは間違っていますね。

この世で一番理解力のない人(能力ではなく、”理解力”)など想定したら、説得できることなんか、ひとつもないはずですね(笑)。

それに、想定する相手というのは、その都度違いますし、それによって、やり方がぜんぜん違うわけですので、まったくもって論外なやりかたです。


それじゃ、だれの同意が得られれば、頭に思った通りの映像を出して良いか?ですが・・・
これって、すごくおかしい発想ですね(笑)

どうして、こんなことを考えるようになったかと言えば、想像するに、マーフィー流の「頭にイメージを浮かべれば、それが実現する」を信じたならば、当然、 ひょっとしたら、そこには、とてつもない迷惑をかける部類のことが含まれている可能性があるわけです。

たとえば、マーフィーを信じた人が、「あんなやつ、〜になっちゃえばいい」と思い、映像を一度でも浮かべたなら、それが実現してしまうわけですので、当 然、普通の心があれば、恐怖心が出てくるのだと思います。

ですので、映像を間違えてはいけない、とか、何かの同意を得なくてはいけない、のような発想も出てきたのかもしれません。
もっとも、同意については、先に述べたような、説得の練習・・・ということ要素の方が主なのだと思いますが。


で・・・
とにかく、頭に映像を出す、ということについて、だれの同意も得る必要はない、あまつさえ、一番理解力のない人など想定する必要もない、ということなのだ と思います。
そうしてもみようと思います(笑)。

しいて、だれかの同意を得る必要があるなら、自分の本質でしょうか?
同意というより、きっと、断りに近いでしょうか?


マーフィーを本気信じて、支障を感じている人はいないでしょうか?
支障があるということは、間違っている、ということなんだと思いますが?

みなさんは、どう思うでしょうか?









さて・・・・・・
牛肉問題で報道では「アメリカ議会の忍耐に限界がきている」とアメリカが発言しているようですが、まったく、かみ合っていないですね(笑)。

忍耐というのは、何かをがまんする、という時に使う言葉ですね。
もっとも、翻訳ですので、何とも言えませんが。
日本としては、忍耐(善意の人が耐え忍ぶ)を強いているのではなく、正しいことをしてくれ、と言っているのですね。

私は牛肉は食べませんが、基本的には多くの日本人の感覚は、「早く牛肉の安全性を日本人が納得できるようにしてくれ」であり、こちらとしては、食べたい人 や、それに関わっている仕事をしている人もいるわけで、忍耐を強いられているのは、日本人の方だ、というのが、大方の意見なのだと思います。

どうしても、貿易問題にしたいのか、それとも、本当に頭の構造が日本人とアメリカ人で違うのか、一体どちらでしょうか?

みなさんは、どう思うでしょうか?








4月17日です。
自己紹介を更新しましたが(笑)、やはり表情が違いますね・・・ここ1,2年と。
良くなっているよう感じます。

そこまで無理したのか?とも思いますし、結果、このような世界に興味を持ったわけですので、良かったな、とも思います。

ただ多くのことは、宇宙の始まりから決まっていたようです。







さて・・・・・・
巨人が調子良いですね。
私はいくらか反体制志向の癖に、巨人ファンです(笑)。
やはり生まれた時からそうだった、というのが大きいように感じます。

とやかく言っても、巨人が強いと気持ち良い最近です。


ロッテが少し調子悪いですね。
その他、WBCに出た選手で、調子の悪い人が多いようです。

世間では、「疲れたから」と言っているようですが、私は少し異なります。

やはり、”場”と言いましょうか、あの独特な緊張感と、ほっておいても、緊張感、精神の高揚、集中力などを研ぎ澄まさせてくれる状況から、”いつもの場” に移ってきたことが大きな原因のように感じます。
決して、通常の試合を舐めているわけではないのでしょうが、いろいろ理由があるでしょう。


国対国、という大義名分がなくなっている状況は大きいでしょうね。
チーム対チームでも、いいのでしょうが、やはり、無意識でも、違うテンションになってしまうでしょう。

また、超短期決戦から長期決戦へ移行してきたわけですので、どのように精神、能力を分配していくのか?ということにも、迷いがあるのかもしれませんね。


ですので、ああいう試合が頻繁にあれば、そこら辺の切り替えもうまくなっていくのではないかと考えます。
そこら辺は、きっと、楽しんで調整したら良いのでしょう。

みなさんは、どう思うでしょうか?








さて・・・・・・
精神の波動が上がると、時間が短くなる・・・ちょうど相対性理論における高速の乗り物に乗っている人が、短い時間しか経過しないように・・・
ですが、
例のセスで、チャネリングの寸前に、周りの人で加速感を感じる人がいたという話がありましたが、きっと、精神の波動が高揚し、その都度、毎秒、毎秒、時間 が短くなって行き、加速感を感じたのでしょうね。


私は今のところ、こういう経験はありません。

みなさんはあるでしょうか?



ただ、しいて言えば、私は調子に乗りすぎることがあります。
要するに、調子良く行っている時に、調子に乗りすぎて・・・ということですが、これは加速なのかもしれませんね。
人によっては、無意識に加速を感じ、うまい具合に流れに乗るのでしょうが、私は、加速感を感じていても、時間は一定のはずだ、と思い込み、それで、ずっこ ける、ということなのかもしれません。


バンドで、リズムが走る、という現象があります。
これは、テンポがどんどん速くなってしまう現象ですが、主にドラムですね(笑)。

これなどは、波動の加速感がいくらか影響しているかもしれませんね。



同様に、性的高潮感を得た時なども、加速感を感じているかもしれません。


その意味では、「どうして私はこんなに加速しているのだろう?」という問いを発すると、何か良かったりするいかもしれませんね(笑)。




今、加速感を考えていましたら、「スケーターズ・ワルツ」が自分の感じる加速感に似ているかな?と思いました。

みなさんは、どう思うでしょうか?










4月18日です。


ネットオークションで、また素人の方が作成したハワイもののDVDを買いました。
2枚組みで1,500円くらいでしょうか?

しかし、恐らくプロの撮影か、あるいはよほど詳しい方かの撮影、編集のようで、相当しっかりしています。
テロップなども入り、音も、3通りくらい入れてあり、選択可能になっています。
とは言え、プロほどではありません、がしかし、非常jに満足で、内容は私の求めていたもの、そのものです。

で、思うのですが、最近CDが売れていないこととあわせて考えますが、最近のものは”作り過ぎ”なのではないでしょうか?
つまり、考えすぎという意味ですが。
懲り過ぎとも言うかと思います。

なんと言いましょうか、ひょっとしたら、一般の人もニーズは、昔のように、歌手や芸能人、ソフト類などに”夢”を求めているのではなく、非常に現実的なも のを求めているのではないか?ということでしょうか。

ハワイは40年前なら、お金持ちの旅行でした。
30年前なら、ちょっと良い給料の人、
20年前からは、一般向け、しかし、外国へ行くのが怖くて行けない人などは、行かない、という感じでしょうか・・・
今は、熱海へいくのと同じですね。

ですので、昔は「憧れのハワイ航路」は古過ぎますが、「ブルー・ハワイ」であり、20年前でも、お土産は高級酒であったわけですが、20年前を切ります と、お土産はTシャツになり、チョコレートになってくたのかもしれません。

そうなりますと、もうハワイの映像が欲しいと思う人は、憧れが欲しいのではないのですね、きっと・・・少なくとも私は。

普通のハワイ映像や普通のハワイの音が欲しいわけで、それは普通に歩いている時に見える風景だったり、ラジオから流れてくる音であったりするのではないか と思います。

ですので、ハワイDVDは、プロ作成の物が、2,000円くらいでも売っていますが、それはつまらないものであり、素人の方がニーズを知っているとも言え るかもしれません。

もっとも、音などは、
著作権の関係上、入れ難いものもありますが、それで も可能なものや、逸れようにこしらえたりすればできるでしょう。

言ってみれば、無印良品的なもの、とも言えるでしょうか?
余計なデコレーションなし、基本は良い、シンプル・・・ですね。






同様、CDも、作成側で、聞く側でのニーズが分っていない可能性がありますね。
昔は、歌手は歌のうまさをアピールし、その後、歌はどうでも良くなった時期もありますが、今では、その傾向はなくなり、比較的、”さすがプロ”というもの を売っていますね。


で、今は何を求めているかと言えば・・・
たとえば、昔のフォーク系の人はアコスティック・ギターがうまかたですね・・・。
今、うまいアコギでの弾き語りで、良い曲と良いキャラの人がいたら、ちょっと無印良品ではないでしょうか?

曲も懲りすぎですね・・・(笑)。
かと言え、カラオケを意識して、妙に陳腐なものも変ですが。


きっと、無印良品が良いように感じます。
みなさんはどう思うでしょうか?








さて・・・
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060414-00000022-zdn_n-sci
ですが、

テレビとネットの接触時間が並んだ、とあります。

調査は、3月28日から30日まで、15歳以上のネットユーザー1500人を対象に行ったそうですが・・・

1日あたりのテレビ視聴時間は、「1時間〜3時間未満」が4割で最多。
ネット閲覧時間も「1時間〜3時間未満」が4割で最多。

2003年の調査と比べて、
テレビを1日3時間以上視聴する人は5.0ポイント増え、
ネットを3時間以上閲覧する人は14.8ポイント増えた、と言うことです。

また、身近に感じるメディアは、
テレビ(79.3%)、インターネット(76.1%)、新聞(31.7%)、ラジオ(15.3%)、雑誌(12.7%)の順番で、

情報収集に役立つメディアはインターネットと答えた人が最多(88.1%)で、テレビ(48.4%)、新聞(34.2%)、雑誌(17.7%)、ラジオ (10.3%)と続いた、そうです。




もうこうなりますと、テレビとネットは認知度というか、人気度は同じですね。

テレビ出演したことのない人は多いですが、ネットに書き込みをしたことがある人は大勢でしょうし、自分のサイトを持っている人も大勢ですね。







4月19日です。

こういうメディアというのは、今までになかったですね。
しかも、やろうと思えば、従来のメディアの持っているそれぞれの特徴である手段を全て使える、とも言えますね。
動画、音声、記事、プリントすれば、紙面で読めます。

これは、本当にすごいです。
ある意味、サーバーをアーカシックレコードだとすれば、来る全員超能力者時代の練習のようなものかもしれませんね(笑)。






私が一番技術的に興味があるのは、リアルタイム動画ですね。
10年後には、全ての番地でリアルカメラが設置されている可能性すらあるかもしれません。

スーパーマーケットなんかにも全部入ります。

そうしますと、「あっ、安売りが始まる!」だんなて、PC画面を見ながら思い、おもむろに家を出る主婦の姿などが普通になるかもしれませんが、そうなるな ら、ネット経由で買い物をすれば良いでしょう。
その意味では、生中継のネット・スーパーマーケットなんかができている可能性もありますね。
どんどん、ネット経由で注文できます。

売り場が近いなら、その日の夕食の素材でも、間に合います。



そうなりますと、ティファニーでもなんでも、カメラ入りです。
日本から
「もっと、左の方の棚を映して・・・そうそう、アップにして・・・。いいわね。 今、私の画像と合成して見てみるから、待っていて・・・すてきね、これ頂 くわ・・・」
なんていうことも可能ですね。

もう、その頃には、PCモニターも、40何インチとかになっていますので、ほとんど気分は、その店にいるのと同じです。


更にすごいのは、有機農法の畑にカメラが入ります。
そして注文できます。
「そこの6番から9番までの枠のイチゴを送ってください。色がとても素敵ですね」
と言う具合です。



ニュースなんかはすごいです。
選挙の出口調査なんかは、もう独立記者という仕事の人がいて、生中継でやります。
「ああ、また○○党です・・・」
なんて具合です。


オリッピックでもなんでも、個中継時代でしょうか?
もうすべての競技が探せば見れます。
だれか中継していますので、きっと。


すごいですね。



生中継はすごいです。
素人の情報でも、絶対に事実です(笑)。

さて、どうなるでしょうか?

みなさんはどう思うでしょうか?














4月20日です。


さて・・・・・・
いつだったか、森田健さんの不思議研究所のサイトに、以下のようなことが書いてありました。



なんでも、森田さんが新しく言えを建てるらしく、そのデザインを打ち合わせしていた時の話のようですが、
工務店の人が
「最近は家を、『買う』という意識の人が多い。でも一緒に作りたいのです」
と、
言いったそうです。
 

持ち田さんは
 
「買うという意識の人は、家を外側から見ているのですね」

言ったそうです。

この工務店の人の言っているとが本当なら、よく人任せにできるな・・・と思ってしまいます(笑)。

確かに、何にも知らないことについては、ごちゃごちゃ言うより、場合によっては人任せにした方が良いケースもあります。
しかし、自分に関しては、大抵のことは、私はどうしても、私が参加していないと嫌です(笑)。



それは、もう仕事でも、食事でも、趣味でも、旅行でも、病気でも、なんでもそうですね・・・・・・
もちろん、それなりに勉強しますが。


と、書いていて思いましたが、、上のような次第ではありますが、
4,5年前私は、次のように思ったようです。

「どうやら、今まで私が社会的に成功しなかったのでは、自分の意見を言い過ぎたために違いない。これからは、サラリーマンになるのなら、良くテレビドラマ にあるように、上の人の言うことを、何でも、そのまま聞くロボット人間になるべきなんだな。みんな、そうしてるし・・・」


これは間違っていますね。

ひどい間違いです。



言ってみれば、”大人になる”という事にも似ている解釈ですが・・・
大人になるとは、ロボットになる、奴隷になる、に近い意味があるのでしょうか?
世間的には分かりませんが、私的には、そういう感覚があるようです






4月22日です。

で・・・
上の件ですが、これは会社にもよるでしょうね。
私の多い転職経験だとそうです(笑)。





人に任せるだけでなく・・・というのは、何も「人が信用できないから、自分でやる」ということではないですね。
私は以前は、そういうところがありました。

どうも、一緒に作る、というのが良いみたいですが、建築デザインと言う話で行けば成り立ちやすいように感じます。
どういうことかと言いますと、最終決定権は発注者というか住む人、しかし、場合によっては、逆に発注者の独占場になりそうですが、専門的知識が必要ですの で、デザインというか設計者は絶対ないがしろにされることはありませんね。

・・・と書いていて思うのは、やはり、この設計者の話と、立場が逆になってしまうようです(笑)
この人は、「なんとか、住む人にも参加して欲しい」というスタンスの話しなのですが、私がそれについて考えていくと、まず発注者の立場としては、「私が意 見をいうのは当然」であり、業者的立場では、「面倒なしに対等にやっていけるだろうか?」が出てくるようです。
こういうのは、真理テストなんかでも使えそうですね。


で、私ことで言えば、基本的には、施工主が意見を言うのは当然だと思っているのですが、ここ10年ほどの傾向として、「とは言うものの、あまり細かいこと を言うのも良くないかもしれない」というジレンマもあります。

どうも最近分ってきましたのは、これもまたいけないことのようです。

「うまく自分の意見を言う」ということなのでしょうが、私などは、テクニカルなことばかり考えてしまい、遠まわしに言うだとか、比ゆを使うだとか、そんな ことばかりしていましたが、それもどうやらそうではなく、ただ、怒鳴ったり、さえしなければそんなに問題なく言ってよいようにも感じています。
さってどうでしょうか?

ですので、私の場合、根本にあるのは、「いかに参加するか?」ではなく、「参加して、以下に正しく表現するか?」にあるのだな、と感じます。


どうも個人的以上に発展しません(笑)。











さて・・・・・・
いろいろ考えますが、私は良く言う「変える」をする時・・・もっぱら、世間だとか社会だとか、そういうものですが、対場上下の人間を良くすることにより改 善される、ということばかりに目が行っていましたが、どうも最近いろいろ思いますので、そうではないかもしれない・・・ということです。


むしろ、上立場の人間、富裕層だとか、取締り役だとか、大きな権限のある人だとか、そういう上を変えることが、何かを変える時には、一番の早道であり、効 果的な方法であるように感じます。

どうしてこんなに単純な視点移動ができんかったのか不思議です(笑)。
おそらくは、そういう種類の人間を”悪い状態”を作っている張本人と捉え、そんな人達を接したくなかった、ということなのかもしれません。

あるいは、どこかで説得は無理だ、という考えがあったのかもしれません。


で、治療で考えますと、初めの考えは、治療ですね(そのまま)。
新しい発想は、元から治す、変える、ということですね。


どちらもありなのでしょうが、有様ずいぶん異なりますね。








4月23日です。

今日は、吉方位に進んでいくと良いことがあるようなことをどこかで聞いたので、ためしに磁石を持って散歩へ行きました。
本命掛によれば、一番良いのは東ですが、すぐ海になってしまいます。次は北で、次は東南です。
東南も海ですので、とにかく2番目の北へ向かって歩きました。
せいぜい、3時間くらいですが・・・。

北は、丘を越えることになりますが、超えました(笑)。
確かに、空気はよかったです。

運が変わるかどうかは別とし、思いがけず、良い風景に出会いました。
富士山が正面に障害物なく見える場所、その右方向に桜のきれいな公園・・・

で、どうかと言いますと、きれいでした。





さて・・・・・・


頭に映像がでにくい件ですが(笑)、いろいろ考えますが、新たな想像としては・・・
たとえば、いろいろなことが起きますが、本気で頭にくるヤツというのがいたります。
それで、たとえばそいつがひどい目にあっている映像なんか出しますと気持ち良いのでしょうが、仮に本当に悪人(?)であたっとしても、それで、本当にそう なってしまったら、寝起きが悪いですね・・・・・・

と言いますか、もし本当にマーフィーの言っていることが本当だとするなら、めったなことで、頭に映像なか出せない、というのが普通だと思うのですが?


みなさんは、どう思うでしょうか?







次に・・・・・・
どうも頭の映像というものは実態はないようなのですが・・・
良く世間に、何でも自分の都合の良いように解釈する人というのがいますね(笑)。
もちろん、どっちとも取れることがらについてはそれで良いのだと思うのですが、事実というものがあることについては、それでは困りますね。
で、私は、私の主観で、大学くらいまでに、それで嫌な経験がありましたので、頭の映像にも”事実”を求めて、自分に都合の良い判定をする、と言うことを止 めていました。
3次元でも同様で、極力自分に都合の良い判定をせず、むしろ都合の悪い方に傾いた判定をしてきました。
これはケアレスミスが多かったことなども、それの要因となっているように感じますが。

ですので、ポジティブ思考なんていうのとは、全く持って逆ですね(笑)。
しかしそれでないと、私は、「客観に基づいて正義を行っている」という確信がもてなかったのですね・・・。

今ではこの客観も、「客観とは、多次元的レベルによる、その人の主観である」という概念を持っていますので、当時とはぜんぜん」違う感覚を持っています。
これはとどのつまり(鯔:トド's つまり)、「人間は、マーヤに騙されている」ということが基本になっています。


ですので、頭の映像とは、実態はなく、単純に自分にとって都合の良い解釈をすれば良い・・・と言いますか、それがおそらく普通の状態なのでしょうが・・・ そうしていれば、自分が意図した映像が出ている状態になっている、ということのようです。


その意味では、精神状態がそのまま、映像がでにくい、という現象に繁栄されていたということなのでしょうか。
今、自分にとって都合の良い解釈をするように、と意識していますが、明らかに出やすくなっています。


どうしても、ヒトラーのような人間を見ていると、自分にとって都合の良いように解釈しているだけ・・・としか見えなかったわけですね。
今でもそうですが。
ただ、なにも、自分にとって都合のよい解釈をする、と言うこと自体がいけないことではないようです。
その前に、それを発想する大元の概念によって、それ以降の方向が決まるようです・・・3次元的には。
と言うよりも、実体の無いものは、都合の良いように解釈すれば良い、ということですね。

また、私はかように極端な例をしばしば考えてしまいます。
これもどうもいけないようです。

極端な例というのは、どうも一般的なできごとと同じ理論では測ってはいけないようです。


ただ、極端な例というのは、場合によっては、分りやすいケースである場合もあります。
恐らくは、大学生時代くらいまでの時期に、祖極端なケースにこそ、真実がある、というような考えを持ってしまったのでしょうか?
間違いだと思います。





また、こんなこともあります。
私は怖がっていない、ということを証明したがります(笑)。
昔ある人が私に土下座して頼めよ、と言ったことがあります。
今はこの人はそんなことを言うような人ではありませんが。
その時幼少の私は、「してやるよ、そんなこといくらでも。怖くないよ」という気持ちになり、しました。
それ以来、相手の脅迫に負けない一つの方法は、怖く無いことを証明することだ、と思ってしまったようです。
ですので、都合の悪いことが思い浮かびますと、それを否定するために、わざわざそうしてしまいます。


また、器の大きな人間になろうとしていましたし、人から許可された人間になりたかったですので、「害がないこと、は許可しよう、許可させよう」という気持 ちもありました。

この2つが、どうも、「怖くないことを証明する、害がないことは許可する、都合の悪いことでも許可する」ということが行動の基準、頭に映像を出すことの基 準になってしまっていたのではないだろうか?と想像しています。

利点としては、バカ正直ですね(笑)。

ですので、これも、もう、怖くないとか、害がないとか、実体のないものに、都合が悪いかどうかなんてことを考える、なんてことを行動の基準にしない、とい うよう改めてみようと思います。


さて、みなさんは、どう思うでしょうか?







4月24日です。
時計が2時49分になっています(笑)。


今日は、1,2年ぶりくらいにお茶の水へ行ってみました。
非常に上位で3次元的ですが、私の好きな場所です。
楽器やさんがたくさんありますので。

ここ1,2年では、明治大学がきれいになったくらいで、ほとんど変わりませんね。
といいますか、ここ20年位でも、ほとんど変わりません。
中央大学が昔はあったようですが、私が物心ついたときには、もうありませんでしたし。
正確には、私の中学生くらいのときに、移転したのですね、確か。

北方さんのエッセイに学生運動中の話しとしていでてきますね、あそこら辺は(笑)。
もう忘れましたが、あの御茶ノ水の通りに学生が集まって・・・北方さんはいつもの喫茶店にいてだったか、初めから参加してだったか・・・そんな話です
ああ、そういう言えば北方さんは中央大学ですね。



それより、電車に乗るとき、東神奈川駅へ行きましたら・・・こちらの3,4ヶ月ぶりくらいですが、マクドナルドと、ツタヤがそれぞれ入っていた2つのビル が取り壊されていたのには、びっくりしました。
広いひとつつの更地になるようです。
何ができるのでしょうか?





もちろん、秋葉原にも行きました。

ジュラクという名のホテルの前を通り、総武線ぞいに歩くのですが、そのホテルで3,500円食べ放題ディナーというのが、辺に気をそそりました(笑)。
でも、夜はそんなに食べられませんね。


駅前が変わりましたね。
後はここ4,5年、表面的にはそんなに変化を感じません。
ヨドバシは、疲れたでの行きませんでした。


帰りにスターバックスで、甘いのを飲みましたら、お腹が痛くなりました(笑)。
私は、乳製品をうまく消化できません(笑)。
ものが悪くなっていたわけではありませんので、念のため。

スターバックスは、私の経験では、アラモアナショッピングセンターで見たのが初めてでした。
もう10年以上前・・・分らないくらい前なのでしょうか。

モカのいい香りがしてくるのですが、なぜか、入り難く入りませんでした。
別に今日本にあるの変わらないのですが(笑)。

私は、なぜか躊躇してしまうときというのがあります。
変ですね(笑)。


で・・・肉を食べないとしていると、外食には困りますね(笑)。
ですので、鶏肉はOKということにしました。
でないと、何も食べられませんので。
毎回回転すしというのもなんですし、あるとも限りませんね。

もちろん、肉以外のものがあれば食べますが・・・・かに玉とか(笑)。










さて・・・・・・
先日以下のように書きました。


「イメージできれば不可能などはない」わけですので、やはり不可能がある、という こと は、イメージする努力が足りない、ということになるのだろうと思います。

ですので、イメージも苦しいですが、大元は”不可能はない”ということを強引にで も思い込まなければならない、ということなのでしょう。
「不可能だという疑いが少しでもあれば、だめです」というようなことも書かれてい たように思います。



これは、政木さんの完全に諦めて・・・少しでも欲があってはだめ・・・とは好対照ですね。
実際は諦めるではなく、不可能だと思う、ということのようですが。





良く70年代の学生運動を語る人が、「あれははじめから勝つ気がなかったんだからだめだ・・・」と言っているのを聞きます。
しかし、本当に不可能だと思ったならば、何か達成できた可能性もありますね、良く分かりませんが。

その意味では、実は「勝つ気があった」のではないでしょうか?
あるいは、ひょっとしたら勝つかもしれない、と思って始めた、ということですが。
もちろん3次元的には、それの方が、成功する可能性があるのでしょうが。












さて・・・・・・
人間クラブに申し込みました。
セミナーも3万円以上払いました
計6回くらいのセミナー料金ですが。
10月くらいまでの先払いですが、さて、私はその頃、サラリーマンをしているでしょうか(笑)?
でないと、きっと行けませんね(笑)。

3年ぶりくらいに国以外の”何か”に属したことになりますね。


人から一方的に聞かされるのがセミナーですが、それだけでしたら、つまりません。
意見を言う場面は出てくるでしょうか?
何か行動をする場面は出てくるでしょうか?

いっそ、議員を一人でも出すくらいのことにでもなったら、それはそれで3次元的には面白そうですが。
そうでなくとも、何か行動したいものです。

しかし、私の今の考えでは、議論しても、また浮いてしまうでしょうか。
それでも、セミナーで人から話を聞かされるだけではつまりませんね。

船井幸雄オープンワールドの延長ではいけないのだろうと感じます。
お金を払いましたが、お客さんだとは思っていません。
きっと、そういう集まりだと思うから、申し込んだのでしょう、私は。
楽しみです。

ただ思いますのは、「私は神と対等です。ですので船井幸雄さんとも対等です。岡田多母さんともだれとも対等です・・・」
と言うのでは、きっと私だけでしょうね。

そして、何か言ったら、私のことを「このくそガキが・・・」くらいに思うセレブに属する人もいるでしょうか(笑)?

楽しみです。



みなさんは、どう思うでしょうか?



 

 

 

 

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