CDはたくさんあるのですが、なぜか、いつもこればかり聴いてしまうCDを紹介します。
さて・・・・・・自分の人生を振り返ってみますと(大げさ)、面白い傾向があるのを見つけました(笑)。それはですね・・・ギターを買い換えると、新しい流れが来る、というものです(笑)。あるいは、逆で、流れが変わると買い換えている可能性もありますが(笑)。で、これだと、「思い過ごしでしょう」と言われる可能性がありますので、いろいろ考えてみますが・・・どうもひとつには、私は、今まで「者には何でも終わりがある」と思っていましたので、何かについ最終形のものが手に入りますと、そこで終端する、打ち止めにする、という傾向があったのですが、それが、何か運の流れに良くない可能性があるかもしれません(笑)。思えば、前の会社もそうでしたし、オーディオでも同じようなことが言えますし・・・特にギターというのは、実際問題、30年くらい前に、もうもの自体としての発達は止まってしまっていますので、自分にある価値観があり、それを100%満たすものを手に入れる、ということは可なのです(笑)。
ですので、先日売却したギターその1は、10年近く持ち続けていました。これが、最終形だと思ったわけですね。
その結果(最終形を手に入れたまま)、分かりやすい3次元的現象として、何が起きていたかと言いますと、まず、ギターに興味がなくなっていました。私に楽器が好き、という指導霊がついているかどうかは、3次元的には分かりませんが、もしいるのなら、消沈していたかも(?)しれませんね(笑)。で、売って以来、ギター好きがまた始っていますが(笑)。同じように、先日売却したギターその2ですが、これはハワイの思い出としてやはり10年近く持っていたものです。ハワイでも人前で弾きましたし、当時つきあっていた女性の前でも弾きましたし・・・いろいろ思い出があったわけですが、先日直感的に、「これはどうもいけないことなのではないか?」と感じまして、売却しました(笑)。また、更に同じように、12年前後所有していたバイオリン・ベースも売却しました。私はビートルズのファンですので、最近はほとんど人前でも、部屋でも弾く機会がなかったですが、持ち続けていました(笑)。
当然、いろいろ思いでもあるわけですが・・・しかし、どうも、過去の思い出をいつまで引きずり続けているのは、良くないのではないか?と思い、これも売却しました。更に更に・・・アルトサックスも売却しました(笑)。これは、今の部屋では、どう考えても、一所懸命練習するわけにはいきませんので、そうしたのですが、実はこのサックスには面白い歴史があります。ことの始まり、と言いますか・・・私が一番生き生きしていた留学の会社にいたときですが、渋谷で宝くじを買いました。200円で削るやつですね(笑)。そうしたら、それで50,000円も当たったのです(凄)。その後・・・ここらへんは、記憶があいまいですが、オービルというメーカーのES−175というギターが中古で50,000円で売っているのを見つけて買うことになりました。どちらが先かは忘れましたが、自分の中ではこの宝くじで、買ったように認識しています。それからしばらくして、会社をやめて、自分で留学の仕事を始めるのですが・・・その後、今度は、このギターを売り、アイバニーズというメーカーのジョージベンソン・モデル、というギターを買いました(笑)。そして、ちょうどその後、仙台へいくことになったわけですね・・・またまた、今度はこのギターを売りまして、先のアルトサックスを購入するわけですが、それは、前の会社に入って少し経った時ですね。その頃は唯一、その会社で認められ、仕事もうまく行っている時期でした(笑)。その後は、その状態で、5年くらい経ったわけですが・・・「まず売ることはないだろう」と思っていましたし、「必ずこのサックスを思いっきり大きな音で吹けるようなところへ引っ越してやる」、くらいに思ってもいました(笑)。で、最近私の楽器の状況はどうなっているかと言いますと、すべて今年になって手に入れた、ヤマハのフルアコ、グラスルーツのテレキャスター、フェンダージャパンのテレキャスター、7,8年前から持っているクラリネット、2年くらい前に買った電子ピアノ、ということですね。さて、このクラリネットはどうなるでしょうか?これは、仙台のお年寄りたちの前で、「上を向いて歩こう」と「テネシーワルツ」を吹いたクラリネットですので、またまた”思い出”を大切にすることにより、売ることができません(笑)。しかも、ほとんど吹いていません。楽器だけで言えば、テレキャスターが来てから急激に動きだしているわけですが、どうも、最終形を設定して、それが達成した時に、それで終わりにしたり、維持することだけを考えたりすると、何かいけないのだろうか?と考えれるこのごろです(笑)。高次元的には”維持”を考えるとどういうことが起こるでしょう?ひとつは人によるかもしれませんが、恐れ、心配の心が出るかもしれませんね。これは、波動的に良くないように思います。また意図という点でもいけないでしょう。自動詞、過去完了でも、うまい言葉を使いませんといけないでしょう。問いも、正しく発しないといけないでしょう。また3次元との折衷ですが、DNA的には、折角開いている・・・ONになっているDNAを使わないでほっておく、という勿体無いことにもなりますね。維持ではなく、次の興味、好奇心へ進むなら、それはそれでも良いのだろうと感じますが。で、話が急に変わりますが、DNAも意思があるのでしょうね、きっと(笑)。どう思うでしょうか?
その意味では、運命ということではないですが、個人の能力という意味では、DNAに高次元を通じて話しかけることができるのなら、きっといくらでもONにすることはできるのでしょうね。もちろん、船井幸雄さんは、良くそれに近いことをやっているようで、「にんげんクラブ」の会報などにも載っていますが、お酒を飲めない人に氣を入れて、飲めるようにする、ということをやっています(笑)。この行為は、DNAに語りかける、という行為なのかもしれませんね。運命には意思はないのでしょうか?よく増田俊夫さんが、「資本の意思を考えれば、分かる・・・」と書いていますが、資本、と言いますか、どこかにある大きな金脈というのは、まだ物質的なものですので、当然意思はあるのでしょうね。運命に意思があるのだとしたら、直接運命に相談してみる、ということも考えられるでしょう。どうなのでしょうか?あるでしょうか?みなさんは、どう思うでしょうか?今テレビで、偽者ブランドの話をやっていますが、「買うほうも偽者だと知って、売る方も偽者だと知って売っている。あきれますね・・・」というような感じです。もちろん、知的権利を守る、というようなことを考え、それが正しいとするなら、「そうなのだろうな」とは思うのですが・・・ギターが好きな私としては、「でもね・・・」とも感じます。先日、フェンダーでしたか、ギブソンでしたかが、日本のギターメーカーか市場を訴えて負けたことがあったのですが、要するに、ストラトキャスターなどのコピーモデルを作ってはいけないよ、という訴えだったのです。しかし、ずっと・・・30〜40年くらい、放置されていた、ということで、訴えは受け入れられませんでした。それで、一時期は、各メーカーとも自制していたのですが、最近は、大手を振って、コピーモデルを出しています。なにがどうかと言いますと、基本的には、フェンダーなどの本物は高いのですね。質も基本的には良いようです。もっとも、同じ価格なら、すでに日本のメーカーも、勝るくらいの質のものを作れるようですし、むしろ、もっと安くて良いものができてしまうくらいのようです。それでも、まあ、日本人はブランド好きですので、同じ値段を出すのなら、フェンダーですとか、ギブソンですとかを買うのですが。ただ一番弾きたい時期の学生というのは、それほど余裕があるわけではありませんので、コピーモデルで、多少音質が劣っていても、2万〜5万円くらいで買えるコピーモデルがよいわけですね。おそらくは最近の日本などの技術で、5万円を超えるくらいの価格で、外国製の10万円近いものと同じ品質のものが作れしまいますので、そこらへんを危惧しての訴訟だったのかもしれませんね。更に中国製となりますと、日本の技術者などが引っ付いて、一生懸命に教えているようですので、もっと安くてよいものができたりしています。これは昔は韓国製であり、アメリカならメキシコ製がそういう立場だったのですが。で、少し焦点がずれましたが、要するに、ギターの世界ですと、本物でなくとも、憧れの歌手、ギタリストの持っているのと同じ格好をしているギターで、ある程度音も良いし、品質もよければ、ブランド名などどうでも良く、買える値段の方がよい訳ですね(笑)。
もちろん、ブランド名の部分を、販売目的ではなく、個人の趣味で変更するということは、ぜんぜん違法でもないですので、そういうことをやっている人というのはたくさんいます。何を隠そう、私のグラスルーツのテレキャスターも、ロゴがFENDERに変えられています(笑)。ブランド品も、プロの目、というより、あるいは人がそれを見て、間違える、ということではなく、自分が「あこがれのセレブが持っているものと同じものを持っている」という3次元的自己満足のためならば、偽者でも、自分で改造しても、きっと同じなのでしょう。法律的にはそれを販売目的で製造して、売る、ということはいけないのでしょうが。ですので、コピーが正式に認められて、ちゃんと、コピーしている会社のロゴ、つまりギターなら、GRECOとか、ARIAとか、そういう風に入っている状態のほうがきっと健全なのかもしれませんね。そうすれば、学生などが無理をして、高級ブランド品を買う、ということもなくなりますし、それを買うために、変なことをしたりもしなくなるでしょうし、そして、ギターと同じで、働き始めれば本物も、買えますし、どうしてもひとつくらい学生時代に本物が欲しい、ということなら、”ひとつ”くらいなら、アルバイトをして、分割払いなどで買えるでしょう。ギターなどはまさに、そういうものでした(笑)。楽器全般と言いましょうか?グレコでもいいのですが、どうしてもフェンダーが欲しい、という場合には、一生懸命アルバイトして、分割払いをするのですね。そうすると愛着も生まれます。大事にもします。何が言いたいかと言えば、ブランド品も、デザインは開放して、その代わり、メーカー名だけは、ちゃんと自分の会社の名前を付けて発売しなさい、とすれば、「あこがれ」だけの人も、本物嗜好(?)の人も、丸く収まるように思うのですが?みなさんは、どう思うでしょうか?
で・・・先日、マグロにあたりました(笑)。私は基本的には、どんな魚を食べましても、生臭く感じますので、それをがまんして、あるいは無視して食べる、ということをしていますので、悪くなっていても、よっぽどでないと、気づかないようです(笑)。暑くなってきましたので、みなさん、食べ物には注意しましょう。
さて・・・・・・昨日は、変わったことがありました・・・。私は時計をネットオークションで趣味の範囲内ではありますが、売っていました。その中には、修理してからでないと人様へお渡しするには忍びないものもありましたので、当然修理をしてアップするのですが・・・。そうなりますと、修理をしてくれる時計屋さんを見つけなくてはなりませんでした。そんなある日、隣駅の近所を歩いていますと、一軒の時計屋さんを見つけました。榊原時計店という小さなこじんまりとした時計屋さんでした。それでも「修理」とは書いてあります。ものは試しとばかりに、その時計店に時計修理を頼んでみました。店主は、70歳を超えていると思われるご老人でした。ご自分で修理をするということでした。修理が上がって戻ってきたものは、とても素晴らしいできでした。その後、そのお店を私の修理をする常店として、何本もの時計を修理していただきました。話好きな方でしたので、行きますと、1時間くらい、お話につきあうようなこともしばしばでした。どうも、若い頃はなかなか活躍された方のようで・・・まず、お店自体はおそらく先代からでしょうが、もうじき100年を迎える歴史があるようです。また、以前は横浜と言いますか、神奈川と言いますか、一番のお店で、協会の偉い役などもやっていたようです。そして、いろいろやっているようで、テレビなどにも出ました、日時計の研究のようなことや、四柱推命、など、本格的にやっていることも、たくさんある、ということでした。
若い頃は、装飾品全般を扱っていたようで、宝石なども販売して、良くホテルなどで、販売会を開催したりして、大変お活躍されていた、ということです。
で、今年の3月ですが、お願いしていた修理品を受け取りに行きましたら、「実は、オメガの女性用の時計をネットに出品して欲しい」というお申し入れを受けました。なんでも、修理品として受け取ったそうなのですが、修理代が2万円くらいになりましたので、修理に出された方が、「いらないので、処理して欲しい」、と言っているのだそうなのです。私はそれを受諾し、時計の委託販売をやっているサイトに販売の依頼をしました。それが、3月24日ですね・・・メールを確認しますと。で、初め、完全にオーバーホールの済んでいるものですので、6万円で出品したのですが、なかなか売れませんでした。それで、「時間がかかっても良い」ということでしたので、徐々に値下げをして、先日売れました。売れましたので、時計店へ電話をして、「クーリング・オフの期間が過ぎましたら、お金が振り込まれる、ということですので、振り込まれましたら、持参します・・・」と伝えました。出てきたのは、時々お目にかかる程度でした奥さんでした。それで、昨日、お金を持参しました。いつもの通り、お店に向かいました。いつもと変わりないのですが、ただ、お店に、”50% OFF.閉店セール”のような紙がいくつも貼ってあります。それでも、「ああ、お歳だから、閉店なのだろうか・・・」と思いました。
それで、お店に入りましたが・・・出ていらっしゃったのは、奥さんでした。「旦那さんはどうしたのかな・・・」とは思いましたが、「きっと、何かの用事だろう」くらいに思っていました。なんとなくでしたが・・・「閉店セールと書いてありますが、お店をお閉めになるのですか?」と聞いたところ、奥さんが、「実は、主人が亡くなりまして・・・」とおっしゃいます。私は絶句しました。それでも、さすがに、死ということへの概念が以前とはずいぶん私の中で変わっているらしく、悲しいですとか・・・何と言いますか、以前のような感じはありませんでした。
もちろん、お年寄りであったということも関係あるのかもしれません。いろいろお伺いしました。「いつ亡くなったのですか?」と聞きましたら、4月20日、だということでした。もう、少し前ですね・・・尚且つ、私が、「売れた」という電話をしたときには、もう亡くなっておられた、ということです。なんでも、苦しむことは無く、寝ている間に亡くなった、ということです。急であった、ということです。私は、当たり前ですが、ご位牌がある、ということですので、上がらせていただき、お線香を上げ、お礼を致しました。私はこの方がいませんと、現状、はっきり言って、時計を売ることはとてもむつかしいのです。この方がいたから、安く、しかも確かな腕で、時計の修理をしてもらい、オークションにだすことができていました。それが、ちょうど、もうそういう生活を止めて、サラリーマンをしよう、と思ったその時期に、亡くなられた、ということに、何か運命的なものを感じました。その後、「お墓は近いのですか?」とたずねましたら、「駅のすぐ近くです」と言います。この辺は、神社、お寺が非常に多い場所ですので、どこだろうかと思いました。私は、「駅の向こう側ですか?」と聞きました。向こう側にいくつもお寺があることを、知っていましたので。「はい」ということです。
「なんと言うお寺ですか?」と聞きましたところ、「興福寺というところです」というご返事でした。私はいくつかのお寺を思いました。しかし、その思い浮かべたお寺とは、別で、少しお話から私が想像したのとは別の場所にあるお寺ではありましたが・・・ひとつのお寺を意識しました。「実は私は明治学院大学という大学を卒業したのですが、その大学は、ヘボンさんという人が作った大学で、近くのお寺に逗留していたことがあるんですが・・・」と言いますと、奥さんは、「そうです。お寺の前に、ヘボンさんと書いてあります」とおっしゃいます。びっくりです。私は、「そうですか・・・折角近くに住んでいますので、一度行ったことがあるんですが・・・何か縁があるのかもしれませんね」などと言いました。他にも、「私は、今は前の会社の関係で、横浜にいますが、生まれはとげ抜き地蔵の近くなんです。それでも、まったく縁がないということでもなく、ヒイお爺さんが、昔石川町でお医者さんをやっていたこともあるようで・・・」などと話しますと、奥さんのお顔が、「まあ」という感じになったように見えました。深くは聞きませんでしたが、何かそこら辺にも縁があるのかもしれません。実は、これだけではなく、先日ある面接に行きましたが、その会社はできたばかりの会社で、これから本格的に業務が始まるところなのですが、ダイアモンドの原石を扱う、ということを商売にする会社です。仕事の様子を聞きますと、それが、何度も、榊原さんから何度も聞かされていた、ホテルでの宝石の販売会そのままなのです。それでも、ダイアモンドの原石と言われても、私には、その奥・・・の話をいろいろ聞かされても、本当なんのかどうなのか、ビジネスとしての可能性はどうなのか、などまったく検討が付きません。面接ではとても気に入られ(怪しむか、信用するか・・・)、面接官もとてもよい人のようではありますが、「一度、榊原さんに相談してみよう、ダイアモンドビジネスを知っている人というのは、私の知り合いには榊原さん以外にはいない・・・」と思っていました。要するに、その会社から、採用された場合、私のこのような状態でも、迷っていたわけですね。なんでも、海外のある国から、特殊なルートで原石を入手することができる・・・という、詐欺だとしても、ありえるような会社です。なにせ、ダイアモンドについての知識がありませんので、いくつも質問はしましたが、真偽のほどが分からないのですね(笑)。ただ、面白いのは、その会社の社長は女性で、しかも、ちらっと見かけましたら、とても高級そうな着物を着ており、とても、高級(?)な波動を出しているのです。詐欺師は似たようなことをします。ただ、女性社長の着物姿が、妙に惹かれるのです(笑)。官庁街の近くにあるビルの一番上のフロアですが、その場所は、基本的には、NPO法人の日本事務所であり、その一部をその仕事に使用する、ということなのだそうです。さて、どうなのか3次元的には分かりませんが・・・どうも、採用されたら、”やる”ということを選択するのかもしれませんね。榊原さんですので、もうフォーカス27以上にはたどり着いていることでしょう。聞いた話はすべて”良い人生”を思わせるものでした。もちろん、苦労もあったことでしょうが。私の勝手なことを言わせて貰えば、人生の最後に、いくつも海外製の時計をもちこんで、修理の機会を提供できたことと、そういう会話をできたことが、何か良かったように思っています、勝手ですが(笑)。昔の話をたくさん聞きました。IWCという高級時計メーカーがあるのですが、昔の方はIWCとは言わずに、「インター」と言います。インターナショナル・ウオッチ・カンパニーの略がIWCですので。「ある時、知り合いが、インターが一番ではなく、海外にはナルダンというすごい時計があるんだ、って言うんだよ・・・」というようなことも言っていました。ナルダンとは、やはり高級時計メーカーである、”ユリス・ナルダン”のことです。横須賀に知り合いの時計店があるそうなのですが、アメリカ軍の船が付きますと、みな時計を修理に出すんだそうです。そして、陸にいる間に修理が上がれば、取りに来るし、そうでなければ、取りにこないんだそうです。やはり昔の方ですので、ラドーの時計をお店に並べたりしていました。日時計は、私もちょうどテレビを見ていましたが、榊原さんは、その時計について、良く知っているそうです。なんでも、研究成果を公でやっている何かの本のようなものに掲載した、というようなことも言っていました。ちょうど、羽田空港の時計店で、安くてかっこの良いシーマという名門の時計をみたばかりの頃、ちょうどシーマの話になり、「昔はものすごく質の良いものだったけれども、最近はどうも・・・。」というような話もしていました。それでも、「これなんか、定価30万だけれど、ぜんぜん安い値段で入手できて・・・」と言いながら、していたシーマの時計を見せてくれました。今は機械式時計でも、中身は中国製だったりしますと、非常に安く出来ます。また、日本のシチズン系のムーブメントなどは、機械式でも性能が良く、とても安価ですので、安くつろうと思えば、安く作れるようになっています。まだまだ話は付きませんが、また思い出しましたら掲載します。何か、この方とは、奥さんも含めてですが・・・前世で縁があったとしても不思議ではないな・・・と感じてしまいます。
みなさんは、どう思うでしょうか?
さて・・・先日テレビで面白いことをやっていましたが・・・すり鉢、というのがありますよね。あれば、右回転にするようにすり鉢の中の目ができているんだそうです。これなども、長年の間に、右回転によってできる良いエネルギーのことを経験し、そういうように作ることになっていったのかもしれませんね。伝統は科学を超える場合は、ありますね(笑)。みなさんは、どう思うでしょうか?
また、介護福祉師の給料を上げなくては・・・という話もやっていました。なんでも、少しでも良い給料の仕事が見つかりますと、多くの方は辞めてしまうんだそうです。大変そうだからそうなのだろうな・・・・と思いましたが、ただ、そうしますと、何か、いつか書きましたグラフィック・イコライザーの話みたいだな、とも感じました。ひとつ上げると、今度はまた別のところを上げなくてはならない・・・それを繰り返していくうちに、結局、全ての周波数の音を上げてしまうことになり、それは結局、音全体を上げたということと同じで、またリセットして、初めからやり直さなくてはならない・・・という話ですが。何か、本当は、そろそろ、給料基準というのは、リセットして、再構築する必要があるのかもしれませんね・・・。良く分かりませんが。みなさんは、どう思うでしょうか?北朝鮮のミサイル報道がやっていますね・・・これが安部さんでも、小泉さんでも、多くの人にとって、折り込み済みの話であったとするなら、なんとも、茶番のように感じてしまいますが、実際はどうなのだか分かりません。韓国の、日本への示威行動をしているようですが、もちろん、表面的に見ても、便乗なのだと感じますが、表面的便乗ではなく、もっと奥の方で、シナリオがあるのかもしれませんね。みなさんは、どう思うでしょうか?”今日”という日は、アメリカ建国記念日以外に、何か大きな意味のある日、あるいは時期なのでしょうか?思うに・・・期待ですが、闇と言いますか、表と言いますか、その権力が中国を次の大国に決めていて、その方向で動いているという考えもあるようですが、その意図、シナリオにおいて、東洋人と西洋人による、思考の違い、というものが、何か良い方向に動いてくれないだろうか?と感じます。その組織にしても、3次元的にも、占いのようなもの的にも、次は東洋・・・というように発想したのではないかと想像しますが、ただ、そこにある東洋人と西洋人の根本的な違いの見誤り・・・これが、良い方向に作用する可能性があるのではないか?と考えたりしています(笑)。
まだ、ちょっと考えただけですが、みなさんは、どう思うでしょうか?
昨日、「にんげんクラブ」から届いたメールには、船井幸雄さんが、若い社員の方々と焼肉を食べている写真にリンクされていました(笑)。船井幸雄さん曰く、「昔は良く、みんなで月に一度、ホルモン焼きを食べに行ったものだ。懐かしいな」だったと思います。よいですね、そういうのは。もっとも、ホルモンは食べ過ぎない方がよいですね(笑)。コルステロールが多いですので(笑)。私はホルモンと聞くと、「日本の首領(ドン)」という映画を思い出します(笑)。鶴田浩二が扮する親分が、ホルモンを食べに行こうとするのですが、奥さんの市川悦子さんが、「あんた、またホルモン?・・・」と注意するのですね(笑)。
体が弱ると、気が弱くなりますね。
もっとも、私のように、魚が苦手なくせに、無理して食べて当たってしまうのも、問題ありますが(笑)。バランスよく食べるのが良いのですね。ちなみに、レタスを食べるようになってから、明らかに運が良いのですが、気のせいでしょうか?みなさんは、どう思うでしょうか?
さて・・・・・・精神世界をいろいろ読んできましたが、その方たちが、すべての人を良い方向へ導いて、地球を幸せにしたい、と思っていると信じています。その前提で、感じることがありますが・・・まず・・・「自分に都合のよいことばかり考える・・・は、いけない」とよく言われますね。私はこれは非常に相対性のある言葉だと最近思っています。私は思うに、精神世界的というべきか・・・何と言うべきか分からないのですが、その中にも、右と左(極右と極左)があるように感じています。もちろん、私が取り上げる人たちは、みなさん、真直の真平、0地点に近いかたばかりですが、道徳とか、あるいは、もっと右なら修道女、修行僧の生活・・・ああいうのは、精神世界極右なのではないかと感じます。当然、それが、一時的な何らかの意味があってやっているのであれば、きっとそれはそれで正しいのだろうと思いますが。また、もちろん、極左というのもあるのでしょうが、それがどういうのかは、良く分かりません。
しかし、当たり前ですが、極右というのは”間違い”なのです。0地点近くにいる人たちに向かって、「自分の都合の良いことばかり・・・」という言葉を投げかけて、そして、その言葉通りに反省したら、どんどん右へ行きます。普通は、どうなのでしょうか、左と言いますか、何と言いますか、右へずれて行けば0になるような生き方をしている人たちが多いわけですね。その意味では、精神世界極左とは、精神世界的に見て、自他共に自由でない心を持った状態とでも言うのかもしれません。それに対して、極右とは、他人に対して自由だが、自分に対しては自由がない状態、でしょうか。
ですので、本当は、今から言う言葉は、現在左にいる人向けなのか、右にいる人向けなのかを示しませんと、きっと、いろいろ言うのは、危険なのかもしれません。
こんな私のような視点から見ますと、船井幸雄さんでも、森田健さんでも、同じジャンルなのです。それは、つまり、右にいる人、左にいる人を、矯正する、というよりは、「どこにいいる人でも、この0地点に向かいなさい」と、言っている、(と私が思っている)という意味においてです。高橋信次さんなどは、私から見ますと、ちょっとだけなのでしょうが、左にいる人たちを、とにかく右方向へ引っ張っていこう・・・まずはそこからだ、というような基本的な考え方でものを書いているように感じます。もちろん、高橋さんも中庸、つまり0地点ということも書いていますので、真意は”0地点”にあるのではないかと想像しますが。ただ、私が読む限りは、高橋さんは、「まず、左にいる人を少しでも右へもってこよう。右に行き過ぎてしまうことはないだろう」というスタンスに読めます。
井出章彦さんなども、高橋さんの影響が強いからでしょうか、同じようなスタンスを感じます。
ですので、私が高橋さんや井出さんの書いているようなことを素直に従って取り入れますと、それこそ虫も殺せなくなりますし、それこそ、戦後孤児として生きていくことにでもなったら、1週間で死んでしまうかもしれません。宅急便で送ったものが壊れてしまったとしても、弁償を求めることもできなくなってしまいますし、外を歩くことすら申し訳なくなってしまいます。
「そんなの、読めば分かるだろうに」と多くの人は言うでしょうか。そうかもしれません。しかし、実際私などは、いくらか混乱することがありますので、私のような人もいるのだろうと思います。
これは、高橋さん、井出さんを非難しているのではなく、「まず、精神世界的に何かを言うのであれば、0地点からどの方向へずれている人を対象にして言っているのか?を明らかにすることが大切であろう」、ということが言いたいだけです。
みなさんは、どう思うでしょうか?私のように、ひたすら右へ右へ、とずれていってしまう人間というのは、3次元的きっかけはどうでもよいとしまして、おそらくは、やはりマーヤと言いますか、相対性と2元性の嘘に引っかかってしまっているのでしょう。高橋さん、井出さんなどは、そのようなことは3次元世界において、一度も経験がない存在なので、まさか、そんな間違いをする種類の人間がいるとは思わないのかもしれませんね。そうであるからこそ、それなりに、”正しい何か”を体得できている、とも言えるでしょう。それを考えて行きますと、まず2元性を何とかしなくてはならないように思います。つまり、棒グラフ的、単なる数値的な、上下によって、価値観が決まる方法論以外の概念をきちんと体得する必要があるだろう、ということです。それはなんだろう?と考えますと、おそらくは、この3次元世界では、やはり円なのでしょうか。もちろん、実際は、いろいろ説明する人たちも、2元論では説明せずに、円理論(?)で説明すべきなのかもしれません。円による・・・とはどのようなイメージ(概念〇。画像×)かと言えば、ある、とされる正解が円の中心の点、あるいは、もやもたした空間にある、中心点を中心として書かれる真丸、それが何かと導くような説明、ということですが。つまりは、私でもだれでも、 ずれている人と言うのは、2元論での右、左のずれというよりは、真丸であるべき状態が、一部分へこんでいたり、出っ張っていたり、四角くなっていたり、三角になっていたり・・・ということなのだと思うのです。それでは、どうすれば良いのか?と言えば・・・思うに、親切、とか、善行、というような説明は、これは、親切でない、悪行を働く、という状態に対して、つまり左によっているとイメージされている状態に対して、右へ向かうように、という矯正的作用を持っている説明なのだと考えます。そうではなく、ずばり真丸とは、なんぞや?ということを説明すればよいのだろうと考えます。まだ、何の考えもまとまっていませんが、たとえば、関英男さんの洗心で説かれる「常の心」、「ご法度の心」は、少なくとも、2つの方向から提示されていますので、分かりやすいものだと感じます。
引用してみますが、
(関英男さんの「高次元科学2」(中央アート出版社:1995年発行)の110ページよりレイアウトを変えて引用)
さて・・・・・・これから5年、いよいよ正念場―今からこのように対処しよう 船井幸雄 (著) 徳間書店 ; ISBN: 4198621853 ; (2006/06) ですが・・・・・・150ページに、カルキ・バガヴァンという人について書かれています。この人はどうやら、手を頭に触れるだけで、「ディクシャ(悟り)」を与える・・・つまり、人を悟らせてしまう、というすごい人のようです。これだけ読みますと、「なあんだ、インチキじゃないの?」とか、森田健さんではないですが、「悟ってはいけない」という人もいるだろうと感じますが、ただこの人の言っていることが、なんだかとても”すごい”んです(笑)。
もちろん、実際は手で頭を1回触るだけ、ということだけでなく、もう少しいろいろ書かれているのですが、詳細は上記の本をお読みください。なにせ、出たばかりですので(笑)。どんなことを言っているかと言いますと・・・「右脳と左脳を霊的につなげると、それだけで、『悟り』の入り口に立つことができる」「悟りは物理的なものだ」「悟りの状態は自分で努力して得られるものではない。与えられるものだ」の3つが、同書に書かれているものです。まず、「右脳と左脳を霊的につなげると、それだけで、『悟り』の入り口に立つことができる」ですが、何となく分かるような気がしてしまいますが・・・。同書114ページには、船井幸雄さんの古い書物に書かれていた東京医科歯科大学教授(当時か?)の角田忠信さんの話として、「日本やポリネシア人のような母音語民族は、右脳の一部をまとめて左脳で機能させている。通常、左脳で言語、理性、右脳で音楽、情緒などを司るが、母音語民族は、左脳で理性も情感も司っている・・・」(要約)、というようなことが書かれています。
これは、要するに、「母音語民族は左脳という枠の中に、右脳、左脳の機能が一緒になっている」、ということなのでしょう。カルキ・バガヴァンさんは、右脳と左脳がひとつになることが、悟りであると言っているようです。何か共通点を感じますね。
もっとも、ここで言う「悟り」が、私たちが一般的に思う「悟り」とまったく同じものなのか、あるいは、私たちの知っている「悟り」の概念は、本当に昔から言われてきた「悟り」というものなのか、については、一度しっかり考えてみる必要があるようにも感じます。同書に書かれているヒーラーの中西研二さんの言葉によると、「悟りとは、差を取るであり、言葉の壁を越えて、”すべては一つの世界である”と理解することだ」ということのようです。それは、「私はあなた、あなたは私」の世界であり、「あなたもない、私もない=エゴのない世界」のようなものである・・・(船井幸雄さんの言葉と思われる)(152ページより引用)ともあります。で、それらを踏まえて、いろいろ考えてみますが・・・陰陽合一を思い浮かべてみても、「右脳、左脳を一緒にするということが悟りである」、ということは、なんとなく納得してしまいます。どうも、私などは人間という単体において、陰陽合一となりますと、男女のことばかり考えががちでしたが、このように、右脳と左脳でも、そこには、陰陽があったのだな、と感じます。と言うよりは、理性と情緒、言語と音楽、などの関係が左脳と右脳、陰陽になっている、ということに対して、ほとんど思いがおよばなかったのですね、私などは(笑)。もっとも、以前、このサイトのタイトルである、「MOTIONS & EMOTIONS」も陰陽である、というようなことを書いたことはありますが・・・そう考えるとこのサイトのタイトルは何か意味ありげですね(笑)。
私はただ、以前のサイトと同じタイトルにしただけで、それはオスカー・ピーターソンのアルバム・タイトルから取った、というだけなのですが(笑)。
で、言語と音楽を一緒に感じる・・・理性と情緒を一緒に感じる・・・・を、考えてみますが・・・私ごとで言いますと、私はTOEICなどのテストを受けますと、記述式の点数が以上に高く、聞き取りの点数がどちらかと言えば低いです。どうもこれは、珍しい現象のようですが。で、いろいろ検証してみたりしているのですが、私は英語を聞くときに、どうも、音楽を聴く”耳”を使っているようなのです(笑)。つまり、言語として聞いていないのですね(大笑)。リズムと抑揚のメロディを聞いていて、意味を解そうとする脳が働いていない、ということなのかもしれません、脳的には(謎)。それじゃ、日本語を聞く時はどうなんだ、と言いますと、これはきっと言語用の脳を使っているのでしょう。同じように、京都弁などを聞くときには、いくらか音楽の耳を使っているようにも感じたりもしますが、これは意味を解しています(ますます謎)。強引に解釈すれば、音楽を通じて異常にたくさんの機会で英語に接したので、英語が鳴ると、音楽の耳が立ち上がるようになっているのかもしれません(本当か!それは?)
あるいは、英語は左脳に右脳的機能が一切ない状態の方が良い、ということかもしれません。ただ、ここまでの予想は、すべからく、日本人・・・私の脳が、欧米人と同じく、右と左できちんとわかれているのだ、ということを前提にしたものでしたので、これから、私に対しての解釈はまた変わってくるかもしれません。
さて・・・・・・日をまたいでいますが・・・
昨日書いた内容についての追記ですが・・・京本正樹が、「喧嘩もできないよ・・・」と言った時、鶴田は、「なんだ・・・おまえは喧嘩をしに来たのか?」と言いますと、京本は、「そうじゃないけど・・・」と言いました。つまり、京本扮する青年が言いたかったのは、「遠慮が入っちゃうよ・・・」ということであり、「本心が言えないよ。もちろん、喧嘩なんかしようとは思っていないけど。だけど、嘘を言っても何も始まらないし・・・」ということなのでしょう。
怒鳴るのはいけませんけどね(笑)。本音で対等の立場で話し合うっていうのは、良いことですね。
森田健さんが、ブログで、「私が中国に来て、ひとつの変化が生まれます。 それは客観性を失うということです。 」というようなことを書いていますね。中国としての特性(特殊性か?)もあるでしょうが、旅行、とくに海外旅行というのは、どこかこういうものを誘発するものがあるように思います。多くの方にとって、それが魅力なのかもしれませんが。おそらくそれは、基準がすっとぶ、ということなのではないでしょうか?たとえば、日本にいますと、学歴(卒業学校)、勤務している会社、年収、・・・などなど、日本人なら日本人としての、社会から自分を図られる基準の中で生きていて、そして、自分でもそれを使って自分を図っている、というところがありますね。それが、なくなる・・・このような意味では、国内→外国→価値観の異なる外国・・・となればなれほど、自分の住んでいるところに存在する物差しから、一時的でも逃れられる、ということの量が増えて行くのかもしれませんね。たとえば、学歴ですが・・・・・・京大、東大級の学歴は別として、たとえば私の出身大学くらいだと、日本では人によっては、偏差値(?)の1や2の違いで、どっちが上だとかそういうことを言う人もいます。
しかし、海外へ来てしまえば、おそらくアメリカですら、日本の学歴なんて、京大、東大級の大学と、いくつかの大学を除きましたら、大卒か、高卒か、その程度にしか分類しません。
ですので、旅の途中、ふと、「ここで就職するとどうなるか・・・」なんて考えても、今まで日本国内ではあった余計な学歴なんかは、考える必要がなくなるわけですね。それが今度はアメリカでもハワイで、と考えれば、「就職なら、きっと観光業だな。それこそ、学歴なんか、ほとんど関係ないや」と思ったりします。こういう感覚が、私は行ったことはありませんが、西洋ではなくアジア、キリスト教の影響のある国ではなく、他の国・・・となっていきますと、いろいろな事象で、似たようなことがあるのかもしれません。
単純な意味で、外国旅行をしていまして、「ここに住んだら・・・」と考えた時、日本式基準で考えて、「できるだけ広い家、部屋に住みたい」という概念が飛びますね。アメリカなら、どんな安アパートでも、日本式に言えば・・・どうでしょう?10畳くらいは楽に有り、大抵、家具付き、ユーティリティ込み(電気、水など)だったりしますね(今はどうだか・・・)。
但し、このように、外国でまた日本式の暮らしをしよう、と考えるところに、まだ何らかの基準から抜け切れていないところもあるのでしょう。3次元的ですが・・・しかしながら、どうも、西洋先進国と比べたとき、日本の欠点は、せいぜいこの、部屋の広さくらいしかないのかもしれないな?と感じたりしています(笑)。それは、大事なことでもありますが、マクロに、込み込みで見れば、大した欠点ではありませんね(笑)。
日本は、どうも良いところだらけのようです。嬉しいですね。
で・・・あまりに感じ(漢字:いきなりですが:笑)の変換間違いが多いので、訂正していましたら、以下の箇所で、過去に聞いたことがないような大きな耳鳴りがしました(笑)。ここですが・・・
「もっとも、ここで言う「悟り」が、私たちが一般的に思う「悟り」とまったく同じものなのか、あるいは、私たちの知っている「悟り」の概念は、本当に昔から言われてきた「悟り」というものなのか、については、一度しっかり考えてみる必要があるようにも感じます。同書に書かれているヒーラーの中西研二さんの言葉によると、「悟りとは、差を取るであり、言葉の壁を越えて、”すべては一つの世界である”と理解することだ」ということのようです。それは、「私はあなた、あなたは私」の世界であり、「あなたもない、私もない=エゴのない」世界のようなものである・・・(船井幸雄さんの言葉と思われる)(152ページより引用)ともあります。」
何かあるでしょうか?少なくとも、「悟る」ことにより、人より上の存在になる、という解釈は、矛盾があるのでしょうね。「差を取る」ですので。GOO 辞書で調べますと、(引用)さとり 0 【悟り/▽覚り】
(以上)です。迷いは、
(引用)
まよい まよひ 3 2 【迷い】
(以上)
です。
この「迷い」の解釈は、何かとても、あっているようですね。「悟る」は、これが標準的な解釈なのでしょうが、「会得」という言葉が、正に、カルキ・バガヴァンの言う、 「右脳と左脳を霊的につなげると、それだけで、『悟り』の入り口に立つことができる」「悟りは物理的なものだ」「悟りの状態は自分で努力して得られるものではない。与えられるものだ」 (引用:これから5年、いよいよ正念場―今からこのように対処しよう 船井幸雄 (著) 徳間書店 ; ISBN: 4198621853 ; (2006/06) 152ページより)と、対照的な印象があります。もっとも、「会得」ですので、与えられようがどうしようが、得られれば「悟り」でありますので、ここら辺は、逆に、私などが、「悟りとは自らの努力で得るものだ」と勝手に思い込んでいることにより、対照的に感じているだけなのかもしれませんが。
この「迷い」の解釈は、何かとても、あっているようですね。「悟る」は、これが標準的な解釈なのでしょうが、「会得」という言葉が、正に、カルキ・バガヴァンの言う、
「右脳と左脳を霊的につなげると、それだけで、『悟り』の入り口に立つことができる」「悟りは物理的なものだ」「悟りの状態は自分で努力して得られるものではない。与えられるものだ」
(引用:これから5年、いよいよ正念場―今からこのように対処しよう 船井幸雄 (著) 徳間書店 ; ISBN: 4198621853 ; (2006/06) 152ページより)と、対照的な印象があります。もっとも、「会得」ですので、与えられようがどうしようが、得られれば「悟り」でありますので、ここら辺は、逆に、私などが、「悟りとは自らの努力で得るものだ」と勝手に思い込んでいることにより、対照的に感じているだけなのかもしれませんが。
また、悟るということは、「欲望や執着などの煩悩(ぼんのう)」というものを、なくす、ということであるのだろう、と考えますが、少し角度を変えて、「欲望や執着などの煩悩(ぼんのう)」を感じなくすること、とするとしますと、
の意味が、より分かりやすくなるようにも感じますが、どうでしょうか?つまり、右脳と左脳が一緒になると、「欲望や執着などの煩悩(ぼんのう)」が感じなくなるのではないだろうか?ということですが。
実は、「右脳と左脳を霊的につなげると、それだけで、『悟り』の入り口に立つことができる」については、書いたのですが、後の2つについては、まだ書いていませんので(笑)、ここで、取り上げさせてもらいますが・・・物理的にでも、つなげさえすれば・・・あるいは、正に物理的につなげることが、悟りなのかもしれないですね。しかも、それは、「努力して得られるものではなく、与えられるもの・・・」としています。
どうもそれは、情緒と理性(理論?)を同じ脳、ひとつの脳で感じる・考える(?)という状態でありますので、可能ならば、それを意識することにより、「悟り」に近い状態が訪れるかもしれませんね。そして、情緒と理論を同じもの(?)として捉えると、「悟れる」という状態に近いのかもしれません。ですので、「悟り」とは何か?と問うたならば、それは、「欲望や執着などの煩悩(ぼんのう)」を無くすのではなく、おそらく、感情と理論を同じ価値のものとして認識すること、なのかもしれませんね。同じ価値とは、どちらが勝っているでも、劣っているでもない、ということなのでしょう。一般に、女性は感情、男性は理論、と言われますが、これだけ考えれば、正に、女性性と男性性の合一=悟り、のようにも感じます。
私は、女性性とは、いろいろ言えますが、「子供を生んで育てる。家族を守る」ということであり、男性性とは、「糧を稼いてくる・子供を生んでくれる女性を探してくる」ということなのではないか?と思うときがあります。今風で言えば、男女差別につながりかねない表現ですので、なんともはや、ですが。その意味では、昔、というのは、地域社会としては、陰陽が合一していたのではないか、と思います。また、資本主義の時代になり、お金を生まないことが、すべて、価値の無いものである、となってしまったことにより、地域社会の陰陽がくずれてしまった、とも言えるかもしれませんね。感情・情緒と、理論・理性が同じ価値なら、女性性と男性性が同じ価値であり、その価値判断に、お金を有無、生まない、という基準はまったくないのが正しいのかもしれません。そもそも、どうなのでしょう?70年代のウーマンリブ運動が、特に、女性性の否定を促進させたようにも感じますが、あれは一体なんだったのでしょうか?
山咲梅代さんの書くような、一部での女性蔑視が、その裏返しとなり、ウーマンリブ運動にも繋がった、という可能性はありますが、それは、つまりは、女性性が男性性より下である・・・感情・情緒が、理論・理性より下である、ということであるようにも感じますので、その時点で、すでに陰陽の合一が崩れていた、とも言えるかもしれませんね。
よく江戸時代は、封建社会だ、と言われますね。士農工商で、武士がやたらえばっていた・・・女性は差別されていた・・・というように教わってきたように思います。しかし、ものの本によりますと、武士は決してえばっていたようではありませんし、飢饉などがあれば、大変だったでしょうが、農民も決して、虐げられていたということではないようですが・・・本の名前が分かりませんので、断定はできませんが。
同様に、女性の立場も、女性のするべきことをしている状態で、決して男性と差をつけられるようなことが無かった、ということもあるかもしれませんね。
想像でしかありませんが、どこかで、歴史が作り変えられているのかもしれませんね。よく分かりませんが。みなさんは、どう思うでしょうか?
ですので、どうなのでしょう・・・まずすぐできそうなことは、感情で出てきた答えと、理論ででてきた答えを、たまには同等に扱ってみる、ということにより、何か、陰陽合一のようなことに近いことが起きるのかもしれませね(笑)。
その意味ではエレキギターというのは、面白いのですよ(笑)。車などもそうかもしれませんが、私はあまり興味がありませんが。たとえば、かっこよいデザインのギターを見つけたとしますね。かっこよい、とは情緒です。しかし、ある程度になってくると、仕様を見たりします。どんな木材でできているか?ピックアップ(マイク)の質は?種類は?糸巻き(ペグ)の質は?木材は、1枚板か?合板か?色は、プラスチック性のもので塗られているか?ラッカーか、しかも薄いか?などなど・・・これらは、始まりは情緒かもしれませんが・・・つまり、実際、この材質はこういう音がしていたことが多い・・・カタログを見るようになってからは、理論ですね(笑)。周波数などの数値や、産地、工場など、を見たりします。しかし、それらも含めて、今度は実際に試し弾きをしてみて、音や弾き易さを確認したりします。これは、まったくもって、情緒ですね(笑)。そして、後は、どう選ぶのかは人それぞれですね(笑)。私などは、かっこは良いが(情緒)、音が悪い(情緒)と、買わなかたりします。逆もあります。理論ずくめで良いものを選ぶのは、どうも、良くなかったりします(笑)。メーカー名(ブランド)も、必ずしも、あてにならなかったりします。どうでしょうか?でも、これって、男性が女性を選ぶ時に、似ていますね?女性が男性を選ぶ時も同じでしょうか?それとも、若い時は、かっこう、歳を重ねると、音、みたいになるのでしょうか?女性ギタリストの方々の意見が聞いてみたいところですね(笑)。男は、音がもし同じくらい良いと、かっこのよい物を、選び続けるようですが、そのかっこの良いの基準は、歳とともに変わってくることもあるようですし、変わらないこともあるようです(笑)。一時期、理論よりになっていた時には、ハードウエア的、ただ良い音があることだけを考えたデザイン、のようなものに異常に寄って行ったような時期もあったように思いますが、やはり見た目も大事ですね。情緒でしょうか?この見た目、かっこよい、とは船井幸雄さんの言う「ええかっこをしない」ということとは違いますので(笑)。むしろ、「だってそれでも、このギターはかっこよい」が、「ええかっこしない」であり、その意味では、「このギターかっこいいけど、音は素晴らしい」もまた、正しい価値観でしょう。音も情緒です。要するに、情緒も、理論も、同じ価値だよ、ということですね。理論優先論で情緒を図ったら、だめですし、情緒優先論で理論的なものを図ってもだめですね(笑)。はじめから、情緒、理論同等論で、情緒、理論を見なくてはいけないのでしょう。それが、ひょっとしたら、悟りに近く、陰陽合一に近いのかもしれません。ただそうなら、普通に発想していると・・・資本主義的でしょうか?・・・陰陽合一はむつかしいものとなるのかもしれません。普通じゃないって言うのはなんでしょうか?なんでしょう?最近少し思うのは、例の右と左の関係ですが・・・線、棒ではなく、円錐を下から見たイメージで・・・要するに螺旋のような感じですが・・・その中で一番上の真ん中の点の分部が、ひょっとしたらあるかもしれない100点満点、というようなイメージが、正しいのではないだろうか?と考えています。
これが、普通でない見かたかどうかは分かりませんが、何かヒントが隠されているでしょうか?
さて・・・・・・”前田のクラッカー”を食べながらですが・・・これは100円ショップで買ったものですが、ご存知の通り、「てなもんやさんどがさ」で藤田まことさんが宣伝していたものですね(笑)。10年だったか20年だったか前に、ラジオでもCMを聴いたことがありましたら、その時ですら「へえ〜」と思いましたので、今ですと更に感慨深げです(笑)。ごま入りのクラッカーを食べていますが、蜂蜜を付けますと、なんとも美味しいです(笑)。これも一種の禁煙活動の一環ですが、減ったかなぁ?と思ったりしています。私は蜂蜜と相性が良く、夜寝る間に、蜂蜜を多量に飲みますと、朝、目覚めがとても良いです。寝起きが悪い人は、お試しください(笑)。前世、蜂か、熊か、花だったのかもしれませんが(笑)。
で・・・森田健さんが、中国紀行をアップしていますが、森田さんの報告を読みますと、普通に発想して、「私は結果」であること、つまり「運命は決まっている」ということが正しそうだ、と感じますね。で、思いますのは、これまでもいくつか書いたことのまとめ的ですが・・・「私は結果」=「運命は決まっている、でも、「私は原因」=「運命は決まっていない(修行などで変えることが出来る)」でも、3次元的な行動基準のようなものは、同じようです。例の六爻占術の達人のトラさんという人が、中国の空港でチケットを取るときに、血相を変えて、一生懸命になってチケットを得た行動などを読みますと、それは、要するに、まったくもって、表面的には、「運命は決まっていない」というスタンスの人と同じもののようです。そういった例はいくつかあったように思います。ですので、普通の生活の中では、無理して、森田健さんの「りんごの部屋」のようなところに篭らなくとも良いようですし、従来型の悟りの状態のような感じに盲師派推命占術ある必要はないようですね。それでは、どこが違うのでしょう?おそらく、「私は原因」の場合と同じように、当然のことを一生懸命やった後でしょうか?つまり、「行動が終わり、結果が出るまでの期間」、そして、「出た結果」、というものに対しての心のあり方、考え方のようなものが、違うのだろう、ということですが。結果が決まっているなら、一生懸命やる必要はない、というのは、普通ですよね(笑)。しかし、たとえば何ですが、一円も賃金がもらえないのに、妙に一生懸命やっている時、というのはありませんでしょうか?何らかの事情で残業代がまったく付かない時に、変にがんばっていたりとか・・・見知らぬ人から道を尋ねられて、なぜか、その場所の近くまで案内してしまったりとか・・・
上記のようなことは、理論的(理論優先で)に考えるとしないのですよね、資本主義理論では、お金にならないことに、一生懸命になることは、いけないことですので。しかし、してしまう。お金にならないのに。運命が決まっているとなったら、なおさらしないかもしれません・・・理性で考えれば。しかし、「やりたい」のですよね?どうでしょう?
みなさんはどうか分かりませんが・・・先のトラさんの件でも、理論がもしないなら、この飛行機にどうしても乗らなければ友人が予定通りに帰れない、となれば、私も、空港で駆け込んで、「こっちが先だ」とやりながらチケットを取りたくなります。それに、だれも傷つけるわけではありませんので、面白そうでもあります。
また、残業代が出ないとすると、いくら仕事をしても、会社に迷惑をかけることは無くなりますので、それが好きならいくらでもいることができます。普通「私は原因」だと、残業するとお金がたくさんもらえるからしますよね(笑)。でも、いろいろ知ってしまうと、どうも、不効率にいられると、それは会社に損だと分かりますので、実際は、効率的に仕事を終わらせて、できるだけ早く帰るほうが良いわけです。しかし、何も変わらない(給与的負担が)のであれば、効率的でありながら、それでも、効率の限界点を越しても、もっと仕事をしたければいられるわけですね(笑)。何も変わらない、とは、私は結果、ということと、似ているようにも感じます。何も変わらないから、一生懸命できる、という発想も、本当の意味で「私は結果」を分かっているとできるのかもしれませんね。で、私などは、昔・・・つまり「私が原因」の時から、「ひょっとしたら無駄になるかもしれないけれど、自分が納得したいからやるんだ」というようなところがありましたので、その意味ではむしろ、「本当の意味で「私は結果」を知っていると思われる状態の方が、好都合だったりします。価格と需要の限界点を必要以上に気にしなくて良いからですね(笑)。費用と効率の限界点でも良いのですが・・・つまり、二つのグラフがこう・・・交わる点ですが。私は非常に、理論的な状態に切り替われる人間でもありましたので、そうしますと、ものすごくこの限界点を意識します(笑)。しかし、別の角度から見れば、残業代がたくさんほしいから、やることなくとも、なんとなくでも、会社に長くいよう、というのもまた、「自由」なのかもしれませんね。こういう発想からだと、残業代が一定以上は付かないと、帰るのでしょうけれども。逆に、残業代がつなかいけれど、手当てでもらっていると、早く帰りにくい、ということもあるかもしれませんね。なんとも、ここら辺は分かりませんが(笑)。
で、結果に対しての心のありように戻りますが、それが正に決まっている、なのでしょう。決まっていたのだから、別にがっかりする必要はないのでしょう。
それでも、人間には希望、志向がありますので、普通がっかりするでしょう。森田健さんは、良く「目的を持たなければ、何が起きてもがっかりしません」のようなことを書きますが、おそらくはこれが一番むつかしいのではないでしょうか?どうなんでしょう?希望も、志向も、目的も持って良いのではないでしょうか?私は、これらがないと、どうしても生き生きとしていられない人は、無理してそれらを持たないことをする必要はないのだと、最近感じています。
ただ、ひとつ道がありましたね・・・森田さんがやはり書いていますし、「はじめだけ、目標をかかがて、後は忘れる・・・」ですが。これを徹底、できれば、それが良いようですが。これは、政木和三さんの、「はじめに、おもいっきり大きな目標を設定して、後は足元1メートル四方のみ見て、一所懸命にやる」、に似ていますが。
とは言え、どうしも目標がないとどうも・・・という人は、持てば良いのだろうとも思いますが、但し、100%がっちり、握り締めるのは、どうもいけないようです。
そうやって目標を持って、3次元的には自分でその方向へ行くように考えながら、創意工夫して生きて行き・・・しかしながら、どこかに手放している部分もある・・・その手放している何%かの部分で・・・あるいは、100%手放したある瞬間で・・・何か運命を根本から変更できることがあるのかもしれません。私は、「ある期間目的を100%手放したつもりになったことのある普通の人」として、「私は結果」をぎりぎりで受け止めるには、それが良いように感じます。
目的も、志向も、目標もない100%手放した状態は、私がやりますと、ただ夢遊病者のような状態になるだけのようです(笑)。きっと、結果を見た時の、心の持ちようだけでも、「こう決まっていたのね」と思えれば、それまでとは、大きな違いがあるのでしょう。現に、最近は、結果を見ても、以前のように、頭にはこなくなっているようです(笑)。
ただ、「それをやったて、お前程度の人生しか歩めないじゃないか?」という人はいるでしょう。でも、運命は決まっているようですので、あなたの運命は私の運命とは違うようです。ですので、どちらに出るのかは分かりませんが、私と同じ、ということはないでしょう。それが、「私は結果」ということです。
逆に言えば、私より、お金持ちになっても、逆でも、偉くもなんともないようです(笑)。で、それでは、ギターやピアノを弾いているときはどうか?と考えますが・・・これは本当に目的がないのですね(笑)。音が好きだから、とかなんとか言うより、どうしても弾きたくなってします・・・恋愛に似ているかもしれませんが。もちろん学生のころなどは、それこそ、「プロになってやる」というつもりで、練習したりしていましたが、それでも、弾いていて苦しい、ということは、なぜかありませんでしたが(笑)。
で、いろいろ書きすぎまして、分からなってきてしまったのですが・・・最近の私の最大のヒットは、http://motions.fc2web.com/love16-23.html に書いた、
「たとえば、先だっての「めいらく」の社長さんの話にからめれば、あの時代なら、親にも会えず、食べるものに困った10歳くらいの子供が、露天から食べ物を盗んで逃げて行ったとしても、これは私の考える宇宙の理ではOKです。しかし、大国が、新しい市場を求めて、他国になんくせつけて、攻め入って、勝手に占領するのは、NGです。」
これがどうも、円錐を下から見た中心へ向かう意識、に一番近いようにも感じます。ひたすらに右へ右へ行ってしまうような線の解釈ではなく、中心へ向かう意識・・・という感じですが。おそらく、いろいろ言う多くの人たちは、自分ではちゃんと分かっているのだと思います。しかし、何が違うのか知りませんが、書いていること、言っていることだけを、見ましても、なかなかむつかしいですね(笑)。
船井幸雄さんが、「感謝する」とは書きますが、「満足してはいけない」とも書きます。私は、いろいろな意味でこれをある程度理解はしているつもりですが、普通はこれを見ますと・・・普通というより、人によっては、上の大国ではないですが、「もっと、もっと・・・」をするかもしれません。私が、一番分かり易く、相当正しそうだ、と思う船井幸雄さんの書いていることですら、このように”むつかしい”ですね(笑)。
そうは言いましても、やはり波動的なものも、正しいように感じています(笑)。明らかに、「野菜と魚」中心の食事にしましたら、表面的は運は上がってきているように感じますし、シャボン玉石鹸を使うようになってから、運は上がってきているように感じますし、「怒鳴らないように」してから運が上がってきているように感じますし、「仕返しをしよう、などとは思わずに、でも、復活戦には勝とう」と思うようになってから、運が上がってきているように思いますし「すべてのものに感謝」するようになってから、運が上がったように思いますし「すべてのもの」には、部屋の壁から守護霊初め、関係各位まで、高次元すべて入っていますし、とは言え、「私の領域にアセンションに協力しないものは入いるな。出て行け」と意図するようになってから、運が良くなったように思いますし、「妹との間にいた流産した弟を意識」するようになってから運が良くなったように思いますし、「昔死んだインコのピーコが、近くで守っていてくれていることを意識する」ようになってから運が上がったように思いますし、「掃除をする」と、確かに運が良くなっているように感じますし、「10年続けていた10キロのダンベルを、無理はよして、6キロに変えましたら」、運が良くなったように思いますし、「モーツアルトを聴きますと」確かに運が良くなったし、部屋が喜んでいるように思いますし、「昔良く聞いていた大滝詠一さん達のナイアガラ系の曲を聴くようにしてみたら」元気が出てきて、運がよくなったように思いますし、「佐野元春テレキャスター」を買ってから運が良くなってきたように感じますし、「すべてと繋がっている」と瞑想中に言うようにしてみたら、運が良くなったように思いますし、「頭の映像を無視する、変な絵が出ても動じない」をしましたら、運が良くなったように思いますし、「自動詞(過去完了の変形)で言うようにしてみたら」運がよくなったように思いますし、「恐れも恐怖もない」と何かの時に言うようにしてみましたら、運が良くなったように思いますし、「トレハロース」を使ってから、ある病状が完治しましたし、「孫さん瞑想」を続けていると、運が良くなったよう思いますし、「太極八卦鏡や財運ストッパー、土偶」も、助けてくれているのでしょう。「太極八卦鏡」は、すべての面接に持って行きました(笑)。「ハワイの人形も、神」も、そうでしょうし、「発声練習のために、当サイトに掲載されている方々の本を大きな声で朗読している」のも、良いのかもしれません。「みんな味方だ」と思うようにしてから、運が良くなったように思いますし、・・・・・・・他にも、たくさんあります。中には、「それって波動?」というものもあるかもしれませんが(笑)。それでも、客観的(多角的レベルからみた主観)に考えて、私歴として、以外に大きいのは、私の領域にアセンションに協力しないものは入いるな。出て行け」と意図するようになってから、運が良くなったように思いますし、」のように思います。この言葉の内、「出て行け」は、先に書いた、「たとえば、先だっての「めいらく」の社長さんの話にからめれば、あの時代なら、親にも会えず、食べるものに困った10歳くらいの子供が、露天から食べ物を盗んで逃げて行ったとしても、これは私の考える宇宙の理ではOKです。しかし、大国が、新しい市場を求めて、他国になんくせつけて、攻め入って、勝手に占領するのは、NGです。」
の影響が大きいです。
どういうことかと言えば、「私は自分が小さいくせして、答えはひとつである、という考えから、大国のようなことをしていたのだな・・・考えてみれば、むしろ逆に、高次元と繋がっているということは、岡田多母さんでも孫さんでも、戦後孤児になったら、だれよりも一目散に、露天から食べ物を奪いそうだ。そして、私はむしろ、道徳というより、”ええかっこしていた”から、それができなかったのだろう。大きくなったら大きくなったなりのこと・・・つまり、自分の大きさに見合ったことを普通にする、ということだな」というような概念が芽生えたということなのです。それが高次元的にどうなのかは、霊能者の方なら、「今までは4次元の霊が、あなたが優しすぎるので、出て行かなかったのです」というのかもしれません。4次元的にはそうでしょうし、きっと、5次元的にも、6次元的にも・・・いろいろな次元で正当性のある状態のように感じています。運命と日々の生活の2通りで、人生は動いているとするなら、波動は日々、運命は決まっているでしょうか?それとも、本当は両方ともに、両方に影響しているのかもしれません。今の私に言えるのは、どうも、波動も、「私は結果」も、両方ともに、人の運命には関係しているようだ・・・ということですね・・・。みなさんは、どう思うでしょうか?さて・・・・・・日をまたいでいますが・・・昨日書いた、「効率と費用の限界点を考えないと、いくらでも、楽しくできる。それは、残業代が、給料に込み込みの状態。それは、運命が決まっていることと同じか?そして、それを知れば、いくらでも楽しく出来るかもしれない・・・」は、何かすごいですね(笑)。
もっとも、込み込みの給料というのは、いくらだか知っているわけですが、込み込みの運命は、その内容を知らない人が多いわけですが・・・。ただ、そうだとしても、費用対効果のようなことまで考えて・・・経営者的思考というのですか(?)・・・働いているような人でないと、なかなかそうは思わないかもしれませんね。運命に置き換えると、給与は運命そのものですが、費用対効果何と何でしょうか?費用対効果が、その人個人の勤務時間と持続できる最大限の能力ですので、それを考えますと、努力と「私が原因」での運命、ということの限界点のことなのでしょうね。
その意味では、給料が、残業すればするほど、増えるのと同じように、努力すればするほど、とにかく運が良くなるわけですね。で・・・このような「私が原因」論だと、努力と運命の限界点というのを、理論的人間は当然考えると思います。「これ以上やっても、効果は上がりにくい。さすがにここまでで今日のところは止めておこう」のような具合ですが。あるいは、「やればやるほど運命は上がるのだから、納得の行く結果が得られるまでやり続けてやる・・・」と思う場合もあるかもしれません。
で、逆に、「運命が決まっている」のだとすると、何か努力に似たことをする、という行為は、運命を上げるためではないはずですよね?ほどほどで、やめても良いですし、止めない人というのも、別に絶対結果が出るまで・・・だなんて思わずに、「やりたいからやる」のでしょう。
つまり、何かをするという行為の原動力は理屈ではなく、まったくもって情緒ということになってくるでしょう。残業代が出るから残業する、しない、ではなく、友人を助けたいから助ける、ですね。もちろん今でも、このような情緒による動機というのもありますが、何か日に日に好薄くなって、「いくら稼げるから」という理論による動機の割合が増えているようにも思いますが。この理論による動機付けをするのは、知性ですね。ですので知性優先の教育をすれば、こういう人は増えますね。一方後者は、情緒ですので、情緒を育てる教育下では、こういう人も増えるでしょう。ただ、どうも、理論も情緒も対等で、しかも一つの頭で考えられる状態が「悟り」のようですので、どっちか一方がいらない、ということではないのでしょう。
古い精神世界論ですと、天国へ行けるので情緒的行動をせよ、となっていたように感じます。しかし、それに対して、船井幸雄さんたちは、情緒と言いますか、”正しい行い”をすれば、3次元的にも成功します、とこう説いているわけですね。私はどうもそれは事実であるし、こちらの方が健康的だとも感じます。ただ、今ここで、「運命は決まっている」とした時に、3次元的な効果に重きを置いて、船井幸雄さんたちの言うことを聞きたい、と思っていた人たちが、どういう行動をするのか、それが問題なのではないだろうか?と感じます。普通に考えれば、どうも・・・ですが、しかし・・・・・・意外に、どうでしょうか?変な話ですが、多くの人というのは、世界中の話ですが、旅行好きですね。それは、実は、今のこの世界の状態から、抜け出したい、ということかもしれませんね。そして、別にそれは、全員が高級な旅行をしたいわけではありませんので、今の状態の何かが間違っている、と知っている可能性は高いですね・・・つまり、抜け出したいだけさ・・・ということですが。そうだとしたなら、案外、多くの人々が、「運命は決まっている」、「私は原因」ということを、素直に認める可能性もあるかもしれませんね。結構、「そうだと思ってたよ」とか、「やっぱりそう」という人が多いのかもしれませんね。果たしてどうでしょうか?みなさんは、どう思うでしょうか?それでも、根本は、「運命が決まっている」としても、やはり、確実で多くの人ができる運命改善方法というものが、はっきりと提示できるのが、良いのでしょうね。船井幸雄さんの基本は、「解決方法が分からないものについては、世間に不安を与えるので、言わない」ということだと理解しています。私は、対一般世間、ということであれば、それは正しいと感じます。そうでも、どうやら、近いうちに、だれもでもできる運命改善方法がみつかりそうですね(笑)。みなさんは、どう思うでしょうか?
さて・・・・・・昨日は、夜遅かったですが、船井幸雄さんは、朝の3時くらいに更新していましたね(笑)。まったくすごいですね。見習いたいですが、夜9時に寝るのは普通のサラリーマンには不可能ですね。大抵まだ、会社にいるか、せいぜいやっと家についたくらいではないでしょうか?私のように独り者ですと、9時に家に付いて、食事、その他をすると、すぐに11時、12時になりますね(笑)。早く、9時に寝て、3時に起きる状況が来ることを、願っています(笑)。(良く考えたら、船井幸雄さんが自分でアップするはずないですね:笑)
で・・・・・・テレビで最近の一部(私感)のサラリーマンは、アメリカ人並み外見に手間をかけるようになっている、人によっては、歯の矯正から、スーツ類の買い替えまで、何から何まで含めて、1,000万円以上かけている・・・当人曰く、「アメリカの企業と対等に付き合うには、外見を重視するので、それくらいしなくてはならない・・・」というようなことをやっていました。実際、外見身奇麗にする、というのは、日本人だって戦前どころか、大昔から常識ではあったわけですが、そのテレビを見ている限りでは、要するに、アメリカの流行にあわせる、ということのように感じました。その意味では、正式には、アメリカ企業と付き合うには、アメリカの常識にあわせろ、というタイトルの方が、良いような番組ではありました。逆は言わないのですね(笑)。
つまり、日本の企業にあわせろ、とは・・・登場人物の一人は、「ある日昇進して、ある部門を統括する役目になった。それまで、外見が若いのが自慢だったが、ある時、取引相手に、”そんな若い奴と話し合いはできない” と言われ、それから、外見を変えた。そうしたら、仕事がやりやすくなった・・・」というようなことを言っていました。
ある程度分かります(笑)。私は、数年前までは、実年齢より、4,5歳若く見られるのが普通でしたので、似たような経験はたくさんあります。もちろんDNAもあるでしょうが、私は、ハンドルを手放すまでは行ってませんでしたが、30を過ぎましても、音楽や海外のようなことに夢中になっていましたので、結婚して、子供がいて、それなりの役職について・・・という人たちと比べますと、やはり、若く見えていたでしょう。それは、高次元的に言えば、好奇心に夢中になっている状態ですので、蘇生エネルギーが、他の人たちよりいくらか多く降り注いでいる状態だったのでしょうが、それで、3次元的に、不利益がありますtろ、どうも・・・となりますね。しかしながら、それも、時流であったようです。それで、前の会社では、「もう、落ち着かなくてはいけないので、老けなくてはいけない・・・」のように発想したこともあります。それがもし、いろいろあった原因の一つだとしますと、なんとも、「あまのじゃく」の話を思い出してしまいます。あれは、いくら言っても、逆のことをする子供にあきらめた母親が、自分の骨かなにかを流す場所を、子供に逆を伝えたところ、子供は洗心していて、その言葉の通りにした・・・という笑えない話ですね。良い話ではありません。そのテレビでやっていた良い外見は、要するに、今ファッション雑誌でやっている、「ちょい悪」なおやじ達の感じでした。要するに、イギリス風の紳士ということでもなく・・・私は詳しくないですが、どちらかと言いますと、アメリカ発の中高年おしゃれファッションのように見えました。髭を蓄えて(嫌いではないが)、そういうファッションをして、足を組んで、少しだらしない姿勢で・・・みたいな感じでした。
番組では同様、グローバル化にあわせなくてはいけない・・・としていましたが、その割には、出てくる例はアメリカのものばかりだったように感じます。ニクソンとケネディの選挙でのテレビ映りの話や、リンカーンの話、などですが。ケネディの話は有名ですね。テレビ出演で、ニクソンよりずっとかっこう良かったので、それで流れが変わったというものです。確かにどちらもそつないことを演説したのでしょうから、そうなりますと、後は外見ということになりますね。
リンカーンは、彼の言葉として、「人の外見は、その人の全てが現れる」というものを引用したり、スタッフは外見で選んでいた、というような話です。戦略で考えると、外見で選ぶというのも、一つの方法ではあるかと思います。
それは要するに、どういう層が、対象なのか?ということが関わってくるかと思いますが。一般大衆という大きなマスの場合・・・特にアメリカでは・・・それは有効なのかもしれません。どうも、今の日本でも有効でしょう。映画監督がゲストにきていましたが、彼はどちらかと言うと、もっと深い外見を見る人のようで、「中身のない、という役柄を作る時には、思いっきり豪華な服装に演出する・・・」というようなことを言っていました(笑)。これはどういうことかと言いますと、その番組のようにただ、流行風にすれば良い、ということではなく、見る対象をもっと”上(?)”の人、あるいは日本人にあわせたものだということですね。日本では皇族を見れば分かりますが、品も家柄も、良識も、お金もある人たちというのは、それなりに、高価なもので身を包んではいますが、それこそ「中身が分かる」よう服装をしているのですね(笑)。そんなファッション雑誌から飛び出してきたようなカッコウはしていません。ただ、逆に、今までは、あまりに、落ち着いた服装、型にはまった服装を、良しとし過ぎたところがありましたので、すこし、金色のものを身にお付けたりしますと、いろいろ言われるようなこともあったりしたように感じます。中間とまで言いませんが、日本人はこの従来の日本スタイルでありながら、あまりに型にはまった分部だけを微調整する、という程度がよいのではないかと感じます。考えるに、ほとんどがアメリカの話でしたので、ヨーロッパ、あるいは他の世界はどうなっているのか、までやってくれたら、親切だし、もっといろいろ言えるのに、と感じました。むしろ、そこまで、かっこよい、アメリカ人に好かれる、と意識しなくてはならないと、主張するのであれば、いっそ、着物、羽織、などで、商談に接したらどうでしょうか?日本式に超正式で、おしゃれで、礼儀正しい格好ですし、むしろ外国人は喜んでくれるのではないでしょうか?とにかく、グローバル化という言葉とアメリカ化という言葉を一緒にするのは、いけないですね。そういうことをテレビのような一応中散るの振りをしている公の場所で語るのはずるいですね。アメリカ人と接するには・・・なら面白い番組だな、と感じました。
さて・・・・・・なんでも、マグロの値段が上がっている、とやっていました。キロ当たり200円くらい、どこかの時点と比べますと上がっているそうなのですが・・・当然、昨日と比べたら、数円でしょうが。いずれにしても、一人前で、10円くらいでしょう、きっと。おそらくマグロの代替材は、牛肉でしょうか・・・。
値上がりの原因としては、
1:原油高騰で日本の船会社(マグロ漁船)が倒産したから、
2:台湾でのマグロ漁業の影響・・・何かの連盟に加入していないので、取りすぎた、故に自主的に474代だった船を、194へ減らした。
3:中国での消費拡大、最近は刺身を食べるようになった・・・を言っていました。それなら、一人前10円くらいなら値上がりするでしょうね。ただ、それをテレビでやりますと・・・トイレットペーパー品切れ騒ぎではないですが、うわさがうわさを呼んで、必要以上の値上がりに結びつく可能性があることは、当然知っているはずですね(笑)。焼肉←→回転寿司牛肉←→マグロのお寿司が、一般的な解釈ではないかと思いますが(私は両方とも食べない・刺身苦手、牛肉止めた)、みなさんは、どう思うでしょうか?さて・・・・その朝の3時に更新された船井幸雄さん (http://www.funaiyukio.com/funa_ima/)ですが・・・(引用)「・・・私の言ったことは、いままで当ってきたし、これからも当ると自分では思っていますが、これはたえず第一線にいて、時流に直接ふれているから分ったのです。学者や評論家、マスコミ人などでは、なかなか分らないと思います。・・・」(以上)と書いています。学者、評論家、マスコミなどが、なかなか未来を読めない、というのは、事実のようですが、なぜでしょうか?もちろん、普通に考えて、何かに擦り寄るようなスタンスが底にあるから、ということもあるのでしょうが、私は、理論的に物を考え過ぎるあまり、過去との整合性を取り過ぎるからではないかと考えます。これは船井幸雄さん的に言えば、「素直でない、謙虚でない」ということのかもしれませんし、「直感を大切にする。直感力を磨く」ということができていないからなのかもしれません。マスコミのほんの一握りの人の中には、こういうことが出来る人も時々いますね。要するに過去との整合性にとらわれずに、直感的に未来を読める人ということですが。但し、報道ですとか、そういうところにはほとんどいなのかもしれません。
佐野元春さんが、1980年代に面白いことを言っていました。一度大ブレークした後、ニューヨークへ音楽の勉強(?)で行き、戻ってきた時でしたが。佐野さんは、大学を卒業ご、一度広告代理店へ勤務していたようです。で・・・「日本に戻ってきて、テレビでCMを見たとき、なんぜこなにも西洋人ばかりCMに起用されているのだろうか?と感じた」という発言です。時期的にはバブルの頃ですが。 これは直感とは違いますが・・・少しずつその状態に慣らされていると、分からなくなって来るでしょうが、日本という東洋人の国で、CMに西洋人ばかり起用されている、というのは変に決まっていますね。しばらく外国にいたからそう感じたというのもありますが、それでも今度は逆に気づきにくくなる、とも言えるかもしれません。それでも、そう思った、と。するどい人ですね。少し前の少女漫画を見ますと、日本人の姿というのは、まったくもって西洋人のように描かれていましたね。それは、理想形への憧れ、ということなのかもしれませんが、その理想形は外側から入れ込まれたもんだとするのなら、変ですね。私が昔読んでいたもので、女流漫画家さんのものですが、「旦那さんがアメリカ駐在になって、一緒に住んでいた時の体験談を漫画にしたもの」は、そのことが書かれていました。「日本にいるときは、まるで西洋人のように日本人を書いてきたけれども、こちらで日本人を正しく描くと、目はもっと細く・・・というように描く。今までの書き方は?」というような感じだと思いました。しかし、普通は、彼女のように、「描く」というようなことにでも、関わっていない限りはそういうことには気づきませんね。で・・・過去との整合性にとらわれる、ですが、当然、とらわれると言いますか、過去と同じ流れのものもあります。しかし、まったく変わるものもあります。その中には、その方向に変わると問題がある、というものもあれば、変わって正解というものもあれば、とにかく変わるので、それを正確に読もう、というものもあるでしょう・・・ですので、この言葉も必ずしも、一言で表しますと、誤解を生むのでしょうが。ただ、今までは、アメリカで起きていることを見ていれば、大抵それは日本で10年後くらいで起こることでしたので、理論的に先を予測できた、というのは事実なのだと思います。
船井幸雄さんは、左記の本で、問屋制度がなくなり、メーカー直販体制が訪れるとした学者の良そうに対して、現場で感じた直感からそれはない、とした予想が当たったこと、郊外型の大型ショッピングセンター時代は、日本の車のの状況を考えるとありえないとした世間の予想に対して、ある、と予想したことが当たったこと、などを書いています。これなどを見ますと、郊外型・・・は、車社会を含めて、アメリカと同じになる、というような発想でも当たるものではありますが、それでも、車の台数そのものは増えましたが、都市部などでは、通常の交通手段としては、電車の方が便利であり、アメリカと同じにはならなかったようですし、むしろ、ここ10年くらいを見れば、アメリカが日本での電車の便利さを取り入れているとすら言えるように感じます。 ですので、アメリカの10年後を追いかけているだけでは、日本の姿を完全に予想することはできないようです。
船井幸雄さんは、左記の本で、問屋制度がなくなり、メーカー直販体制が訪れるとした学者の良そうに対して、現場で感じた直感からそれはない、とした予想が当たったこと、郊外型の大型ショッピングセンター時代は、日本の車のの状況を考えるとありえないとした世間の予想に対して、ある、と予想したことが当たったこと、などを書いています。これなどを見ますと、郊外型・・・は、車社会を含めて、アメリカと同じになる、というような発想でも当たるものではありますが、それでも、車の台数そのものは増えましたが、都市部などでは、通常の交通手段としては、電車の方が便利であり、アメリカと同じにはならなかったようですし、むしろ、ここ10年くらいを見れば、アメリカが日本での電車の便利さを取り入れているとすら言えるように感じます。
ですので、アメリカの10年後を追いかけているだけでは、日本の姿を完全に予想することはできないようです。
で・・・・過去との整合性ですが、郊外型ショッピングセンターは、ありえない、とした人たちは、過去との整合性で、「そこまでの車社会は来ない」と思っていたのが、分からなかった原因のように本には書かれ提案すが、もちろんそれだけではないでしょう。当時・・・きっと1960年代・・・の日本の状況をみれば、地方はまだまだ多くの農地があり・・・地方とは言わずに、今では通勤圏となっている都市から1,2時間の距離の場所も、もちろん、農地、自然が多くあり、住んでいる人も少ない・・・そんなものを見れば、それまでの日本の発展状況などを考えても、なかなかそういう予想は立ちにくいのが普通ですね。サラリーマンが作る俳句で、「マイホームを建てたら、いつかきた遠足の場所だった」、というのがありましたが、そういうことなのでしょう。きっとここに理論的予測があるとすれば、近い将来、この農地も、歳から1,2時間の場所も、通勤圏になり、人口も増える・・・ということがわかるかどうか、ということなのでしょう。
ただ、そういうことは、あの時点では、理論では出てこなかったのでしょう。また、多くの人が持っている直感で分かったとしても、過去との整合性を取ろうとすることにより・・・それは理論でもあるが・・・その答えが分からなかった、ということでもあるでしょう。問屋制がなくなる・・・は、どうも、中間業者のマージンがなくなれば、ものがもっと安く売れるし、流通網も発達するから、なくなるよ、という学者さんの予測だったようですが、船井幸雄さんは問屋さんや、流通業の現場を見て、直感でそういうことは起こらない、と思ったようです。理論的に今船井幸雄さんが分析すると、それまで農業に関わってきていた人たちが都市へサラリーマンとして勤務する機会が増えることになったが、そのほとdのが、そのような流通業関係に付くことにって言った・・・ということのようです。これなどは、アメリカを見ていても、予測できませんし、過去の日本の状態を見ていましても、予測できませんね。
これだけで言えば、学者さんは現場を見ていないから、予測がはずれる、とも言えるかもしれませんが、しかしながら、多くの流通業者は、この学者の言うことを信じたようですので、必ずしも現場にいれば、分かる、というものでもないようです。しかしこの学者さんにも直感はあったのでしょうから、もし過去との整合性にとらわれてはいけない、ということを知っていれば、その直感を認知でき、そしてそれに従って、いろいろ分析し、正しい予想をできたかもしれませんね。この過去との整合性にとらわれない、ですが、いろいろ書いていると、もう少し詳しく言うべきですね・・・そうしますと、「未知の新しい事実を目にした時に、直感で正しいと感じたのなら・・・」でしょうか。もっと大きく、直感の前では・・・でもいいのかもしれませんが。
その意味では、船井幸雄さんがよく書く、「私のところには、びっくり現象が集まってきます。それを見ていると、未来が分かってきます」は、正に、「未知の新しい事実を目にした時に、直感で正しいと感じたのなら・・・過去との整合性にとらわれてはいけない」が、当てはまるように感じます。それは、森田健さんでも同様で、びっくり現象がたくさん目の前に現れるのですが、これもやはり、過去との整合性にとらわれず、直感で正しいと感じたのなら、そこから未来に起きること、新しい事実への予測ができる、ということですね。
逆に言えば、そういう姿勢だから、両人には、そういう現象が現れるのかもしれませんね・・・非常に波動的ですが。
もうひとつ・・・私事ですが、私の妹は昔から勉強が苦手です(笑)。しかし、私より3次元的に良い運と暮らしをします(笑)。
これを理論的に考えて見ますと、変に過去から作られた理論をこねくり回さず・・・あるいはこねくり回せないので・・・直感によった判断を日ごろからしている・・・ということなのかもしれません。これをして、そういう運命だ、とも言えますが、直感に従うと運命変更ができる、という事実がこれから出てくるかもしれませんし、直感を使うようになると、自然に問いを発する傾向になる、ということなのかもしれません。
で・・・何が言いたいかと言いますと、過去との整合性にとらわれると正しいことが分からない、正しいこととは、今でもあるし、未来でもある・・・ということですね。
まとめておいてなんですが、過去との整合性の過去とは、学校で習ってきたこと、経験、学術的理論などなどです。もちろん、新しい事実がないと、これらに頼らなくてはならないのだと思います。その意味では、それまで得意で運のついていたものをすると良い、長所を伸ばす、という船井幸雄さんの書いていることは正しいのだと思いますし、それ以上のものもあるように感じます。
それを踏まえた上で、尚且つ、「新しい事実の前では・・・」のように感じます。もちろん、自分の心の声を聞いて・・・直感ですが・・・今までない、何かをする、ということもあると思います。ですので、新しい事実をたくさん知り、その際、過去との整合性よりも、直感を大切にする、ということですね。
たとえば・・・
肉を食べないとスタミナがつかない・・・というのは多くの人が言いますね。しかし、飛脚の話や、一部のスポーツ選手の話などを聞きますと、違うかもしれない、と感じましたので、肉食は止めました。
もちろん、なわ・ふみひとさんの書いていることなども参考にしましたが(笑)。それで、元気です(笑)。
みなさんは、どう思うでしょうか?どうも、新しい事実がたくさんあるようです。みなさんの直感は何と言っているでしょうか?過去との整合性にとらわれていないでしょうか?ひとつだけ、感じますのは・・・、直感だとして、「そうだ、アメリカ式にやるのが一番だ」的に感じてしまう人もいるのでしょう。私は預言者ではありませんが、しいて言えば、「輪廻転生がある」、と直感でも分かる人は、直感に従った方が良いのでしょう。
いかがでしょうか?その意味ではすべての始まりは、「輪廻転生を認める」ということかもしれませんね。みなさんは、どう思うでしょうか?
さて・・・・・・神田昌典さんの配信メールで、「キーワード:ライフサイクルの初期および末期は、製品寿命が短い。解説:成熟期に突入した製品は、成長期の製品の、約三分の一の寿命となる。逆にいえば、製品寿命が最盛期の三分の一になると、その製品群は成熟期を迎え、間もなく製品全体に、新たな革新が起こることが予測される。」
というものが、来ましたが・・・これは、製品に関しては、なるほどな、ですよね(笑)。これは、人には適応できるでしょうか?・・・個人であれば、きっと、趣味とか、職業とか、そういったものにあたるのだろうか?と感じますが。やや強引に考えていますので、ピンと来ませんが(笑)。ただ、「お笑いブーム」の一人当たりのスパンが以上に短い、という現状には適応できるのかもしれないですね。何か新たな革新が起こるのでしょうか?または、ジャイアンツですね・・・監督でも、選手でも。
しかし、電気製品、車などは、確かに製品サイクルが短くなってくると、革新前ということになるでしょうが、楽器などは、どうも、革新というのはないようです。バイオリンなどのように、何百年という伝統があるものは、分かるのですが、エレキギターのように、発明後せいぜい、5,60年のものでも、革新というのはないですね・・・これからあるのかもしれませんが。ただ、革新ぽいと言えば、多くのギターの生産地が中国になっているようです。高価なものは日本製だったりしますが、比較的安いものは、以前の韓国から中国生産に移っています。しかも、安さが半端でないですね。弾いたことがないので質は分かりませんが、テレキャスターでもストラトキャスターでも、アッシュという木材を使ったものが、日本で1万円くらいで売られています。日本製ですと、アッシュ材ですと、比較的高価なもので、安いものは、もう少し安い木材となります。しかしながら、今あげたテレキャスターでもなんでも、それは、1950年代くらいからあるモデルで、革新というようなことは起きていないようですね。
商品サイクルは比較的短い品物ですが、何かあるとしたら、きっとこれからでしょうね。
きっと、逆に発想すれば、すでに長く存在しているにも関わらず、商品サイクルが長いものというのは、すでにその状態で完成品とも言えるのかもしれませんね。
ギターでも、ラジオでもなんでもですが。CDプレーヤーもそうでしょうか?
この話題はここまでで・・・。
カルキ・バガヴァンの言う、 「右脳と左脳を霊的につなげると、それだけで、『悟り』の入り口に立つことができる」「悟りは物理的なものだ」「悟りの状態は自分で努力して得られるものではない。与えられるものだ」 (引用:これから5年、いよいよ正念場―今からこのように対処しよう 船井幸雄 (著) 徳間書店 ; ISBN: 4198621853 ; (2006/06) 152ページより)のうち、まだ触れていない「悟りの状態は自分で努力して得られるものではない。与えられるものだ」ですが・・・
カルキ・バガヴァンの言う、
(引用:これから5年、いよいよ正念場―今からこのように対処しよう 船井幸雄 (著) 徳間書店 ; ISBN: 4198621853 ; (2006/06) 152ページより)のうち、まだ触れていない「悟りの状態は自分で努力して得られるものではない。与えられるものだ」ですが・・・
これは、どういう意味でしょう?「努力してはいけない(苦しいことをがまんして、という意味で)」ということのか?「運命で決まっている」ということなのか?「ください」と言えば、だれでも得られるものだ、ということなのか?「右脳と左脳を霊的につなげると、それだけで、『悟り』の入り口に立つことができる」「悟りは物理的なものだ」「悟りの状態は自分で努力して得られるものではない。与えられるものだ」
の3つで、「精神的要素」のあるものは、「右脳と左脳を霊的につなげると、それだけで、『悟り』の入り口に立つことができる」だけですね。しかしながら、3つ読みますと、精神を向上させたからと言って、右脳と左脳が1つになるわけではないように読めます。もちろん、勉強(?)の過程で、その事実(脳を1つにする)が分かる、ということはあるかもしれませんが。
それでも、霊的につなげる、と物理的は、相反するようにも読めます。そうとは言え、霊的につなげることは、入り口に立つ、ということのようですので、本質的には、物理的ななんらかの状態を得ることにより、1つになるのかもしれません。
しかしながら、自分で努力して得られるものではないようですね(笑)。禅問答がどのようなものかは、詳しくしりませんが、とても面白いですね。もし、右脳と左脳にそれぞれ生命体がついているのなら、5次元を通じて話しかけてみれば、1つになるのかもしれません。良く分かりませんが。みなさんは、どう思うでしょうか?