理由もなくこればかり聴いてしまうCDのコーナー

CDはたくさんあるのですが、なぜか、いつもこればかり聴いてしまうCDを紹介します。

 


 




272:写真はなし
   
 

さて・・・・・・八芳園を調べましたらhttp://www.geocities.jp/pccwm336/sub23.html
にいろいろ書いてありました。

それによりますと、八芳園は、「幕末は薩摩藩島津家抱屋敷」、「江戸初期に は大久保彦左衛門の下屋敷だったという噂」、加えて、http://cache.yahoofs.jp/search/cache?p=%E9%83%BD%E3%83%9B%E3%83%86%E3%83%AB%E6%9D%B1%E4%BA%AC+%E6%95%B7%E5%9C%B0%E3%80%80%E8%B7%A1&ei=UTF-8&fr=top_v2&x=wrt&meta=vc%3D&u=www.tcvb.or.jp/jp/COUSE/cousePDF/Yosyare.pdf&w=%E9%83%BD+%E3%83%9B%E3%83%86%E3%83%AB+%E6%9D%B1%E4%BA%AC+vc%3A%E6%95%B7%E5%9C%B0+%E8%B7%A1&d=QYmebzmtMuhf&icp=1&.intl=jp
によれば、「昭和初期の実業家・久原房 之助の屋敷」ということですね。

そして、明治学院は、「
元信州松本藩松平家下屋敷」であり、 「白金海軍墓地跡」でもあるようです。

調べていませんが、大学ができるより前ですので、この海軍には勝海舟さんが関係していたかもしれません(笑)。
良く分かりませんが。

都ホテル東京は、 以前は何だったかについての資料は見つかりませんでした(笑)。

ヘボンさんは、ヘボン式ローマ字で有名な人ですが、名医でもあったそうです。
また、驚きましたのは、
http://www.geocities.jp/pccwm336/sub23.htmlによれば、
(引用)「さらにもう一つ忘れてはならないヘボンの大きな功績、それが新・旧約聖書の和訳だ。明治13年にブラウンらとともに『新約聖書』を、同20年に は『旧約聖書』の和訳を完成している。」
(以上)
ということです。

もちろん、それまでにも、あるにはあったのでしょう、日本語訳は。
でないと、困りますものね(笑)。

知らないことが、たくさんあります。


どうも、細川家は関係ないようです(笑)。





さて・・・・・・
「昭和史からの警告―戦争への道を阻め」(船井 幸雄 (著), 副島 隆彦 (著):ビジネス社 ; (2006/06) )ですが、副島さんによる「船井幸雄論」は、なかなか面白いです。

正式には「船井幸雄氏は、東洋(東アジア)の道教(タオイズム)の思想家である」が章のタイトルで、「日本人よ、私たちの体に眠っている道教を呼び覚ま せ」が、文章としてのタイトル(?)のようです。
書いていることの基本は、「神道も、仏教も、儒教も、根底には道教がある。そして、日本人のDNAの根底にあるものは、道教である。船井幸雄さんは、まさ に道師である」
というものだと読みます。

興味深い内容がたくさんありま すが、閻魔大王について書かれているところが、面白い見方だな、と感じました。
閻魔さんの服装ですが、あれは道教の道服である、というのですね。

そして、調べますと、(244ページの要約)「閻魔大王はインド思想(ヒンズー教)に出てくるが、あの世での審査役になったのは、中国に渡ってからであ り、道教の「十王思想」がベースになっている。それが鎌倉時代に日本に入ってきた・・・」ということのようです。

確かに、閻魔さんの服装は、今でこそ、道教の服装だと感じますが、そんな知識がなくとも、どこか中国っぽいな、とは多くの人が思うで しょうね。
そして、役割柄仕方ないでしょうが、顔つきも、仏教に登場するさまざまな顔立ちとは異質ですね。

ただ、いずれにしても、閻魔さんが日本に初登場したのは、鎌倉時代、ということですので、遅いのですね。
やはりそうしますと、森田健さんの調査による「あの世に帰るとき、審査する人なんかいないかった」という事柄の信憑性が増してくるように思います。

場合によっては、民衆を当時するために、強引に連れてきて、今のような役割を持たせて広めたのか、それとも、民衆の心が廃退した時期か何かであり、同じよ うにそうしたのか・・・
何か、そんなことを感じますね。

どう考えても、道教にも、仏教にも、神道にも、似つかわしくない存在のように感じてしまいます。
むしろ、儒教に近い存在のように感じます。

とは言え、出口王仁三郎さんの「霊界物語」には登場してきて、みなさんが知っての通りのことを、あの世でしているように書かれていますが、それも、船井幸 雄さん式に言えば、「当人が持っている概念によって、見えるものが違う」ということなのかもしれません。


昨日の不思議研究所の森田健さんの書き込みは興味深いですね、私には。
どんな内容かと言いますと、

(要約)
「中国語には他動詞がなく自動詞しかない。

 火を付ける・・他動詞
 火がつく・・・自動詞
 
 ドアを開ける・・他動詞
 ドアが開く・・自動詞

であり、私は原因」から「私は結果」への移行は「他動詞」 から「自動詞」への移行と考えられ、運命変更でも「他動詞」ではだめかもしれない。運命変更すら「自動詞」の世界に入ることが、自由の世界に近づくことの ようだ」

というようなものです。

非常に私的に考えますと・・・
この自動詞ですが、「ドアが開いた」なのですが、どこか政木和三さんの「過去完了」に似ているように感じます。
仮に・・・政木和三さんが、自分の神から受けた神示が、「病気を治す、ではなく、病気が治るだよ」、というものであり、それを、「ん・・過去完了だ」と 思ったのだとすると、そこに勘違いがあったかもしれませんね(笑)。

どう考えても、私には神が直接的な言葉として、「過去完了」という言葉を使ったとは考えにくいのです。
「病気を治す、ではなく、病気が治るだよ」、なら、「そういう言い方はするかもしれないな・・・」と感じてしまいます。

もちろん、政木和三さん自身は直接聞いたので、自分の説明よりももっと概念的なものを分かっていたはずですので、自分でやってみようと思った時にも、そこ ら辺は修正されるはずですので、うまくできるだろうな、と感じますが、また聞きした私などは、特に理屈っぽいですので、過去完了とされますと、どこか肝心 なところを間違ってしまっている可能性があるかもしれません。

果たしてどうでしょうか?

みなさんは、どう思うでしょうか?


増田俊夫さんの本日更新のサイトによりますと、どうも、「辞めないでいいから、仕事でベストを尽くしなさい」が小泉さんの言葉のようですので、要するに 「0金利政策を続ければ、文句はないよ」、ということですね(笑)。
これで、ちゃんと、小泉さん側の計画通りになったわけでしょう。

みなさんは、どう思うでしょうか?







さて・・・・・・また不思議研究所のサイ トで面白いことを書いていました。
どんなことかと言いますと、
(要約)
『中国語には自動詞しかなく、しかも時制もない。昨日、明日、のように付けなくては、いつのことだか分からない。
未来と過去が同格に扱われているようだ。そこに、占いが発展した原因があるかもしれない。』
(以上)
というような感じです。



私っぽく考えて見ますが、もし、政木和三さんに神が、「なあ、政木さん、願いごとをかなえる方法なんだが・・・病気を 治す、ではなく、病気が治った(または、病気が治る)のように言うのだよ。お金なら、お金を儲けた、ではなく、お金が来た、のように言うということ。そし て、未来も過去も考えてはいけないよ。時自制をまったく意識しない、ということだ」

と言ったとしたら、中国語を知らない人、と言いますか日本人なら、「過去完了形」を思い浮かべるのがある意味正しいのではないでしょうか?

もちろん、日本語にも、厳密な意味での過去完了形というのはありませんので、それは、英語を学校で習った後で大きく出てくる概念なのだと思いますが。

その意味では、日本語の方が、より中国語に近いとも言えますし、時制という意味においては、意識の度合いは少ない言語だとも言えますね。



私も、初めて過去完了、現在完了、というものを学校で習った時、まったく意味が分かりませんでした(笑)。
しかも、I've been there. なら、「私はそこに行ったことがある」と、「私は、ずっとそこにいる」という2つの解釈ができる・・・というとんでもないものでしたの で、???状態だったのを思い出します(笑)。

その意味では、もし、「自動詞で言い、時制を考えない」が運命変更に大きく関係しているとするのなら、英語は、運命を変更しにくい言語とも言えるかもしれ ません。
ですので、逆に言えば、「自分、自分」という概念が東洋より大きいのかもしれません。
良く分かりませんが。


「私はそこへ行ったことがある」という日本語は、英語よりは、どこか自動詞的なものを感じますね(笑)
「行ったこと」が「ある」のですものね(笑)。
中国語ではなんと言うのでしょう?経験、ですが。
それも、日本語式に、単なる過去なのかもしれないですね。
そして、動詞には、過去形も現在形もない、と。
おそらくそうなのでしょう。
第二外国語は中国語でしたが、もう忘れてしまいました(笑)。
発音だけは、やったので体が覚えていますが(笑)。



そう言えば、先日、伊勢崎町でコーヒーを飲んでいましたら、隣で日本語の流暢な中国人女性と日本人女性が 会話していました。
彼女は、両親は日本に永住権があるそうなのですが、自分はないそうで、しかも、日本へは来たばかりのようです。
それでもぺらぺらの日本語でしたが、聞いていると、中国語っぽい発音が当然のように出てきます。

どういう傾向があるのかな?と思いながら聞いていましたが、要するに、中国語と日本語で同じ単語で発音が似ているものの時に、中国語の発音に近くなってし まう、と言うことのように分析しました(笑)。
もう忘れてしまいましたが、「年(ねん)」などが、「にぇん」のようになっているようでした。

それは、ちょうど、日本人が英語でRADIOをラジオと発音してしまうのと同じことでしょうね。




で・・・
時制に細かい言語がなぜ、自分を必要以上に大きく扱うのか(想像)ということにつてい考えてみますが、やはり「所有」ということの概念が強いのではないで しょうか?

それは物でも状態でもそうなのでしょうが。
「いつからいつまで、そうだった」、「いつからいつまで持っていた」
「どれくらいの期間、ずっとそうであるのか」、「どれくらいの期間、持っているのか」
のようなことが、日本人より重要に思っている、と言いますか、言語がそうなので、それが大事と感じるようになっているの方が正確なんのでしょう。

そして英語には他動詞どころか、使役同士というのがありますね。
(この漢字で良いのでしょうか?)

これも初めて聞いたとき、びっくりしました(驚)。
haveとか、makeとかですが。



命令形というのは日本語にもありますね。
しかし使役となりますと、だれかに何かをさせる、だれかを何かにする、ということな訳ですが、She makes me happy.とか、そういう言い方は日本語訳なら、「彼女は私を幸せにする」でしょうが、このような表現は今は少し増えてきていますが、以前はあまりない ように感じましたがどうでしょうか?
もし、同じような概念が現れた時、日本語なら、「彼女といると幸せだ」とか、「彼女がいれば幸せだ」とか、そのような感じなのではないかと思います。



これを強引に直訳的に英語で言いますと、「I'm happy when she is around me」とかになりますが、これだと「彼女が周りにいると幸せだ」になってしまいますね(笑)。
「I'm happy when she is with me」だと、「彼女が一緒にいると幸せだ」という日本語訳になりますが、あまり英語では言わないのではないでしょうか?どうでしょう?

ですので、英語にするなら、きっと、She makes me happy. なのではないでしょうか?

つまり、だれかが何かをどうにかする、ということですので、日本語よりも更に、他動詞形的な言語であると言えるのかもしれません。
良く分かりませんが。


ですので、使役動詞を考えてみても、英語は、「自分」をより意識せざるを得ない言語である、と言えるかも しれません。



そうなりますと、本当に、運命変更に、「自動詞」と「時制がない」ことが大切であるとするのなら、英語圏の人は、やは り3次元的自力・・・つまり物理的自力とも言えるかもしれませんが、そういうことをしないと、なかなか自分の希望は叶えられない、ということになるかもし れません。
想像ですが。

それゆえ、いろいろと画策をするのかもしれませんが、戦後、特に最近、日本人も、翻訳文化などにより、言語的にも英語的なものが身に付いてしまっている、 とするのなら困るかもしれませんね(笑)。

私など、特に、英語の勉強により、「使役動詞」、「完了形」というものを強く意識したところが、これまでありましたので、もし、私の状態が、そういうこと なのであれば、その可能性は高いですね(笑)。





日本語でも、未来系というのは動詞にはありませんね。
やはり中国語同様、「私は明日します」のように「明日」を付けませんと、いつのことやら分かりませんね。
過去については、「私は昨日した」ですので、動詞が過去形になっています。
英語では動詞そのものが未来形になったりはしませんが、willとか、現在進行形によって未来を表しますので、動詞の周りが変わってきます。

そして、過去に関しては、動詞が過去、完了形、と変化しますので、日本語より複雑です。

未来を表す進行形ですが、これも日本人にはややっこしいですね。
現在、進行していることなのか、明日(意思に近い?)のことなのか、分かりにくいものがあります。

これらを考えると、中国語が時制にとらわれていない言語なら、
日本語は、未来にはほとんどとらわれておらず、過去にはとらわれているが、継続的に続く過去には、それほどとらわれていない、
そして英語は、未来にもとらわれており、過去にもとらわれており、継続的に続いてきた過去の状態にもとらわれている、
と言えるのかもしれません。




その意味では、中国語は高次元的な言語、英語は3次元的な言語、日本語は4次元とは言いませんが、過去の 部分にだけ3次元的要素を持っている言語と言えるでしょうか?




一応説明しますと、船井幸雄さん森田健さんなどによると、 3次元はこの世です。5次元が天国です。4次元は3次元に未練やとらわれた何かを抱えているので5次元に行けない人(あえて)がいるところのようです。

ただし、4次元も昔から言われているような地獄のようなところではなく、少なくともそこにいる人にとっては普通の世界のようです。
それはどのように考えれば良いかと言いますと、勉強が嫌いで仕方のない人が、「これしか居合わせになる方法はないんだ」と受験競争に参戦しているような状 態でしょうか?

しかし、きれいな海と山に囲まれた南国で、自然のものを採ったり、育てて食事をし、日々みんなが幸せに暮らせること状態さえあれば良い、というような、西 洋人が入ってくる前のハワイのようなところに住んでいた人が、急に上のような受験競争のある社会へ移り住んだのなら、そこが地獄だと容易に理解できるわけ ですね(笑)。

4次元については、そういうような感じなのだと思います。




そして、どうも船井幸雄さんによれば、この4次元というのは、もともとはなかった領域のようです。
3次元での人の暮らし、考え方により、5次元にいけなくなってしまった人が行くところ、として長年の間にできあがった場所が4次元のようです。
そして、本当は5次元にいる自分の本質・・・自分の霊の片割れという感じでしょうか・・・が考えていることがすんなりと3次元に伝われば、今言われている どんなむつかしそうなことでも、簡単に3次元で実現できてしまうようなのですが、5次元と3次元の間に4次元という障害物がありますので、5次元の信号が 正確に3次元に届かなくなっているのが、現状のようです。
それでも、強い思いを持てばそれは5次元に届き、そして3次元にきちんと投影される、と船井幸雄さんは言っています。


森田健さんによれば、しかしながら、運命は決まっているので、そういった強い念などでは、運命を変更する ことはできない、としているようです。



この決まっている運命と5次元からの投影の関係が、今ひとつ分かりませんが、想像するのなら、決まっている運命とは、4次元という障害物があることを前提 としたものなのかもしれませんね。

もしそうなら、これは船井幸雄さんが言う、「近いうちに占いはあたらなくなる」ということで、つまり、4次元がなくなるので、ということになるかと思いま す。

確かに、岡田多母さんなどの書いていることを読みますと、4次元は急速に小さくなっている、ようです。
ですので、4次元がなくなると、決まっている運命は関係なくなる、ということなのであれば、確かに占いは当たらなくなるかもしれませんが、ただ、それは生 まれた日にちと時間で占う系統のものだけかもしれません。

そうではなく、ただただ、だれがどうして・・・ということを占うのなら、4次元がなくなっても、当たるのかもしれません。

それは六爻占術かもしれませんが、良く分かりません。

上の想像で行けば、盲師派推命占術やインドの占いなどは、当たらなくなるのかもしれません。




で、やや焦点がずれてきましたが、要するに、どうも時制と、他動詞的なことにとらわれると運命変更しにく い、という事実が言語の有様から見ると、言えるかもしれない・・・という話でした。

ですので、時制を考えずに、そして、自動詞的な発想で、いろいろ言ってみたり、やってみたりすると、何か生まれるのかもしれませんね。


みなさんは、どう思うでしょうか?






さて・・・・・・
誘拐事件がありましたね。
無事に救出されて良かったです(笑)。

警察の方が怪我をしたようですが、さすがですね、日本の現場の方々の活躍ぶりは。


いろいろ報道を見ていますが、今日辺りから、「アジア人による事件が多くなっている。在日の方がどうした・・・中国人留学生の不法残留者がどうし た・・・」
というものを良く見受けます。

まさかとは思いますが・・・
だれかが中日戦争を起こさせるために、まず日本人に対中国、アジアへの憎しみの感情を植えつけようとしている、といろいろな本に書かれていますが、それの 演出のひとつではないでしょうね???

本によれば、
第二次世界大戦前と同様、国内においては、地方と年の経済状態に格差を作り、地方から不満を起こさせて、その不満を戦争への原動力とし・・・

小泉さんの靖国参拝は、だれでもあんなことをすれば、中国が怒ることくらい分かっているので、わざと怒らせ、その結果、起きてくる中国の言動によって、日 本国内に対中国への憎しみの感情を植え付け、対中国戦争への原動力にする意図がある・・・

北朝鮮のミサイルによる脅しは、アメリカが日本と何か交渉するときに、それがうまく行きやすいようにするための援護射撃であり、また、近いうちに、日本で 何らかのことを起こし、それは治安維持法同等の法律、軍隊の強化、国民への対外国戦闘意識の高揚などを狙う行動である可能性がある・・・

などのことが書かれています。




少なくとも、横浜には良い中国人の方がたくさんいます(笑)。
在日の方は、日常生活では、日本人と同じですね。

だれかの策略とは思いませんが、絶対にアジア同士は仲良くしなくてはいけないでしょう。


しかし、ちょっと、うますぎますよね・・・
元団体員の方、在日の方、中国違法残留者の方の3人組・・・
北朝鮮がミサイルを打とうとしている・・・
アメリカが牛肉問題で圧力をかけている・・・
策謀の罪に関する法律が成立しなかった後・・・


きっと単なる偶然でしょう。

でも、車のナンバーを見られてしまう・・・という犯行は不自然ですね。


みなさんは、どう思うでしょうか?




しかし、韓国スターの方が日本人中高年女性に人気がある、というのは、良いことですね、きっと・・・。
少しでもアジア間での親しみが増してくれることに繋がるでしょう(笑)。

まさか、日本の男性に嫉妬心をおこさせることをだれかが意図しているとは考えにくいですが・・・
どうでしょうか?

CMでも、中国人の方が、とても綺麗に表現されていて良いですね。
私は、お茶のCMに出てくるモデルのような中国人女性が大好きですが(笑)。



同様、朝のテレビ朝日での報道では、女性の乳がんについて、治療にかかる費用のことを事細かにやっていま したが・・・
今日本の生命保険会社が落ち込んでいるときに、この種類のことをやる、というのは、元気な外資系保険会社への加入者を増やす効果があるでしょうね・・・
出てきた大学教授は、「乳がんが増えた原因は、欧米式の食事になってきたからである」とは発言していましたが。
その後スタジオに、コンマ何秒かの間が空いたように感じたのは私だけでしょうか?

その資金は、また海外へと流れてしまうことになるのは言うまでもありません。

いずれにしても、そうなりますと、乳がんになりにくい食事、というのも、放送しなくてはどこか偏りを感じますね(笑)。
日本風の食事というのは、要するに、魚、野菜、ご飯、味噌汁ですね(笑)。
塩を自然塩にして、無添加のものを採る、ということでしょうか。



ただ、報道ステーションが、他と比べればがんばった報道をしているように感じますので、広告代理店のことを考慮すると、その他の報道では、極端に偏ったも のを放送する必要があるのかもしれないですね。

食べていかなくてはならないですものね。
せっかく受験競争を勝ち抜き、良い大学を出て、何倍もの倍率を勝ち抜きテレビ局に入り、ここまで順調にやってきて・・・それを振り捨ててしまうようなこと は普通できませんね。

それを考えると、報道ステーションに古館さんがキャスターとしてがんばっているのは、社員ではないからでしょう。
いろいろ理由は考えられますが。
テレビ局に良心があるとするなら、つまりは・・・そういうことでしょう。
がんばって欲しいですね、応援しています。
でも、無理はしなくて良いと思いますが。

みんなテレビから消えてしまっては困ります(笑)。



そう言えば、元新日本プロレスの鈴木健三選手がテレビで出ていましたが、鈴木選手によれば、アメリカのレスラーの食事は、茹でた鶏肉に、卵の白身、それと 野菜か何かでしたが・・・
だれかが、それをジャンクフード以下、と発言していましたが、それは違うでしょうね(笑)。
非常にカール・ゴッチさん式の良い筋肉を作る食事のように思えますが。

ただ、あれならちゃんこ鍋の方が美味しいかもしれませんね(笑)。
やはりアメリカ人はアミノ酸の美味しさを知らないのかもしれません。
基本的に欧米式の食事は動物性油による美味しさで味を出しているようですが、そうなりますと、動物性の脂を排除してしまいますと、本当に味気のないものに なってしまいますね。

かつおや昆布のダシ、味噌、魚などで、煮込むことによって出てくるもので味付けをすれば、体にも良いし、味も良いですね。
また干物などの乾物による味、というのアミノ酸でしょうか。

アジの干物などは、魚の油と干したことによる味の効果で、体にいいこと、この上なしです(笑)。

せっかく外国にレスリング修行に行ったのなら、そういう食事もある、ということを教えてあげるのも良いことなのでしょう(笑)。

鈴木選手は確かテレビ局を辞めてレスラーになったのだと記憶していますが(笑)。



さて・・・・・・
何か高次元的な話はないかと思いますが(笑)・・・・・・



昌平坂学問所につ いての記述が、「昭和史からの警告―戦争への道を阻め」(船井 幸雄 (著), 副島 隆彦 (著):ビジネス社 ; (2006/06) )の副島さんの船井幸雄さん論に出てきますね。

どうも副島さんによると、あれは単なるエリート養成所であったように読めますが。

どういう訳か、2,3週間前、生まれて初めてだと思いますが、昌平坂学問所へ行ってきました(笑)。
御茶ノ水の楽器屋さん街に行き、次に秋葉原へ行く途中で、なぜかいつもと違う道を歩きたいなと思い、御茶ノ水駅の近くにある橋を渡って、緑の見える方へ歩 いていきましたら、そこに出ました。
生まれて40年間近く東京に住んでいながら(今は横浜)、そこが昌平坂学問所とも知らなかった、というのは、少し恥ずかしいですね(笑)。

な んとも、中国フィーリングに溢れている場所で、少林寺拳法の修行僧でもいたら似合いそうだな、だなんて変なことを思ったりしながら見学してきました (笑)。

とにかく、老子が道教で、孟子が儒教である、ということですが、私などはその違いすら知りませんでした(笑)。
いろいろ書かれていますが、3次元的に見て、西洋うんぬん、と言うより、世界中で、孟子的な儒教=エリート・権力者による縦社会の流れから、老子的な横の 社会への移行の必要性がある段階に来ている、とも言えるのかもしれませんね。


そうしますと、資本主義社会のあり方というのも、その実は東洋の儒教に元があったとも言えるのかもしれませんね。
その中で、日本だけ、社会民主主義と言われていた期間がありましたが、それは、老子の道教的概念がきちんと日本人の心の中に埋め込まれていた、ということ によるものなのでしょう。

本当はもっと道教的になるべきなのでしょう。






さて・・・・・・
神田昌典さんのメールですが、


キーワード:
会いたい人に会うための効果的な質問・・・
「○○さんを知っていそうな人を教えてください」。

解説:
「知っていそうな人を教えてください」という質問をしていくと、世界のどんな人ですら、6関係以内に必ず出会えるという実験がある。
だから会いたい人に会うためには、このフレーズが魔法の杖になる。


というものが来ましたが(笑)・・・
何か気を惹かれます。

 

ちょっと仮想で検証してみようと思いますが・・・
だれでも良いですが、差しさわりの無いところで・・・浅見帆帆子さんに私が会いたい、と思ったとして(笑)・・・
まず私はだれに尋ねるでしょうか?

う〜ん、想像着きませんね(笑)。
きっと出版社にメールでも送るのでしょうか。
それでは面白くありませんね。

きっと青学の卒業生あたりに聞いてみるでしょうか?
とすると、案外簡単に行き着くかもしれませんね・・・。
なんとも言えませんが(笑)。


もう少し複雑にしてみますと、たとえば林原の社長さん辺りではどうでしょうか?
私の知り合いでは検討もつきませんが、妹の旦那あたりでしょうか?
ただ、東京より西の方で保険の営業をやっている、という理由だけですが(笑)。

ん・・・なんとなく行き着きそうですね、勘ですが(笑)。
だれかが同級生だ、というくらいまでたどり着きそうにも感じます。



ありえないところで(何をしてそう言うのか:笑?)・・・山口百恵さんなんかどうでしょうか?
音楽関係で行くか・・・それとも、どうでしょう?以前のキリスト教関係で品川のあのカソリック教会員のだれかまでたどり着くと、以前住んでいた高輪のマン ションの近所の人くらいまでは行くでしょうか?


面白いですね(笑)。
だれでも、大抵、いわゆる有名人と友人である、ということはありますね。
少なくとも、同級生だ、くらいは・・・なにせ、小中高とありますので・・・。
そうすると、うまくその人までたどり着けば良いのでしょう。
私ですら、紹介することのできる、いわゆる世間では有名人、とされている人がいたりします(笑)。

でもなぜか、そういう人とはまったく関係のないものを嗜好して、日々生きていたりするものですね(笑)。

ですので、成功者といわれる人が言う、「適切な時に適切なところにいたということだ」というのは、なんとも分かるように思いますね(笑)。

個人名だとなんですが、〜の役目をしている人、ということだと、もっと現実味があり ますね。

こんなことがありました。
以前父親がパン屋さんをやっていた時、近くにスーパーマーケットができることになったのですが、商店街としては、困ってしまいます。
しかし、そのスーパーの関係者だったか、建築会社だったかは、まったく交渉の机に乗ろうとしなかったようです。
そんなこんなで、困っていたようなのですが、夜店を閉めていると、お得意さんの男性が声をかけたようです。
どういう経緯かは知りませんが、状況を話すと、なんとそのお得意さんは、当時のどこかの役所の偉い人だったようで、次の日、すぐにスーパー関係者から連絡 があったということです(笑)。

これなども、一見1関係内のよに見えますが、その人が直接、スーパーに連絡をしたのではない可能性を考えれば、6関係くらいになっているのかもしれません ね(笑)。


自分で言えばなにかあったでしょうか?
ああ、ありますね・・・自慢話になりそうですので書きませんが・・・。

どうも、高次元的ではありませんでした(笑)。
きっと、本を読み終わってしまったせいでしょう。

 

みなさんは、どう思うでしょうか?





ええ〜、すみませんでした。
ニュースステーションではなく、報道ステーションですね(笑)。
お詫びして訂正いたします。






さて・・・・・・
最近明治学院大学という言葉を良く聞きますが・・・

それは良しとしまして、「にんげんクラブ」の会報誌の第二号が送られてきています。
スジャータで有名な「めいらく(名古屋製酪株式会社)」の社長さん・日比孝吉さんのインタビューが掲載されていますね。

終戦直後、仕事が当然のようになく、多くの人が露店商になりたがっているなか、順番待ちで並んでいたところ、地回りの親分の組織の中に高校時代の先輩がい て、「おい、日比じゃないか、生きていたのか・・・」ということで、偶然無条件で露店商になり、そこから商売が始まっていったようです。


こういう終戦直後の話というのは、幼少の頃から良く聞いているのですが、以前は本当に大昔のように感じていました。
私が聞いていたのが、昭和47、8年だとすると、終戦から30年弱後くらいの話ですね。

今日で言えば、1982,3年くらいの感覚でしょうか?

私が大学生の頃ですので、正についこの間のように感じます。
こういうことを考えると、歳のせいかな?とも感じますし、以前は「そうに違いない」と思っていましたが、どうも、時間自体が速くなっている、というのが事 実のようです。

歳の分を差し引いても、30代くらいまでの感覚で言えば、10年前・・・と見積もるのが妥当だな、という感覚です。
もちろん今30代の人は、正に今の時間のスピードの感覚が全てですので、比べようがないのだと思いますが。

そうしますと、変化に気づくのは、私の感覚でいけば、40代以上、ということなのかもしれません。

戦争の跡を感じさせる40代の私に経験と言えば、幼少の頃は、巣鴨のお地蔵さんの縁日には、復員兵の人がアコーディオンを弾きながらお情けを頂いていた り、
厨子の親戚の家に行く電車の中から見える風景には、防空壕の跡がまだまだたくさん見えたり、
最近ではまったくテレビでやらなくなりましたが、あの親と生き別れてしまった子供たち・・・特にハーフの子供・・・などを育てていたホームについての番組 が、今で言えばムツゴロウさんの番組と同じくらい定期的にやっていたり、

でしょうか。

私より年上の方はもっといろいろ知っているでしょうし、もちろん戦争に行った人たちというのは、それこそいろいろ知っているでしょう。

確か神田昌典さんが、
学生たちと偉い人に会って戦争体験を一 緒に記録している、といったことをしていたと思いますが。

今でも時々、東京大空襲で落とされた爆弾の不発弾が発見されたりしていますね。




昨日は、ニュースで、イラク戦争からの帰還兵たちが、戦争時の体験がひどいトラウマになり、なかなか立ち直れなくなっている・・・ということをやっていま した。
すばらしい報道です。

ニューヨークには、そういった人たちがホームレスになってしまったりしているそうで、そういう人たちを救う行動をしている団体があるそうです。
中には、イラク戦争どころか、ベトナム戦争のトラウマからそうなっている人もいるそうです。

どんな感じかと言えば、イラクの場合なら、戦争の記憶が残ってしまい、帰ってきても、薬や酒などで、紛らすのですが、そんな程度ではどうしようもなく、ど んどんエスカレートしていき、結局アパートを追い出されて・・・という感じのようです。


私の以前の会社の同じ課の同僚だった韓国人の金さんによれば、兵役の軍隊の訓練でも、気がどうにかなってしまう人もいる、ということです。


アメリカの場合ですが、普通の兵隊もそうですが、もっと深刻なのは州兵の方たちだそうです。
彼らは、州を守る任務で州兵になったわけで、当然、人殺しのためになったのではないですので、当然、トラウマ度は高くなるでしょう。
要するに、もともと戦闘的でもないし、思いもよらなかったということです。

私は自信ありませんね。
トラウマで済めばまだマシかもしれません。

私は当たり前のように戦争体験はありませんが、どうしてこういうことを考えるので しょうか?
不思議です。



ただ、昔から変なのですね(笑)。

たとえば、幼少の頃住んでいたアパートの裏で、家を建てていたりしましたが、すると、そこへ行って、置いてあるミノなんかを使って、木を削ったりします (笑)。
子供がほっておけば、よくやるパターンですね。

そうすると、子供ですので、ミノを掌に突き刺したりしてしまうのですね(笑)。
すると、指した直後というのは、痛くないのです。
それがだんだん、「ドクドクン」と脈打って来ます。
透明な・・・あれば白血球なのでしょうか?・・・液体が出てきます・・・
そして少経つと痛くなってきます・・・

そんなことがあって、今度はちゃんばらの時代劇などを見ますと、「ええ、あんなことしたら、もっと痛いに決まってるじゃないか!!」などと思うのですね (笑)。


きっと普通は思わないかもしれません。
ただ、ミノで突き刺してしまう程度なら、本当は幼少の頃に経験していた方が良かったりするのかもしれません。


確かそれでも、バンソウコウかなにかを貼っておいただけだったように記憶していま す。
私の幼少の頃は、その程度の傷くらいでは、だれも、驚きも何もしなかったですね(笑)。

同じ頃、鼻の頭に大きなおできが出来ましたが、母親がその建築をしていた大工の棟梁に聞いたら、「そんなものを針で指して膿を抜けばいいんだ」というの で、そうしました(笑)。
今でも、鼻の頭に、跡が残っていますが(まったくもう:笑)。

今考えると、あの大工の棟梁も当然戦争に行ったのでしょうね。

私が滅多に病院へは行かないのは、そういう幼少体験があるからかもしれません。
「そんなの自分で治せよ」という感じですね(笑)。

それは大抵良かったりしますが、時には、良くないこともありますね。



戦争の跡、を考えていましたら、いろいろ思い出してきましたが、日本中・・・東京都 内ですら歴史があった、ということを分からせてくれうものというのはありますね。

私の父親の実家のパン屋さんは板橋にありますが、板橋駅のすぐ近くには、近藤勇さんの碑があります。

池袋のサンシャイン60は巣鴨プリズンの跡ですね。



そんなものでなくとも、私の実家は中山道の近くですが、あれは、今住んでいる横浜でも見れますし、これが箱根の山を越えて、向こう側まで行くのです ね・・・。
それですら、何か歴史があったことを感じます。

みなさんの近くにもそういうものはあるのでしょうね。



ちなみに、「にんげんクラブ」の会報に掲載されている「めいらく」の社長さんの写真 はすごいです。
まず3次元的にですが、どうして、この紙質で白黒の写真で、顔がこんなにくっきり印刷されるのか?と驚きます(驚)。
しかも紙は黄色がかった色をしています。

次に顔つきが半端ではないですね・・・
片岡千恵蔵さんから鶴田浩二さんくらいまでの昔の役者さんの顔つきです。
私はすごい超能力があるような人間ではありませんが(人が後ろを通れば分かるのも科学を超えてる)、この顔から出てくる氣というか、波動は半端ではありま せんね(笑)。
是非一度、見て欲しいです。




ただ思いますのは、精神世界系の人の顔つきとは違いますね。
一般的な言い方をすれば、使命が違うのかもしれませんね。


本人に会ったら普段は優しい人なのだと思いますが、気おされそうな気がします(笑)。

精神世界の人は・・・1メートル以内で会ったのは、船井幸雄さんと岡田多母さんだけですが、気おされる、という感じはありません。
写真を見てもそうですね。


みなさんはどう思うでしょうか?



さて・・・・・・
就職活動ですが、怒涛のごとく履歴書を送っていますが、先日神社に「よろしくね」と言った会社はなんと書類選考ではねられました(笑)。

まあ、「やめとけば、ここは」ということなのだと思うことにします(笑)。






さて・・・・・・何か高次元の話はないかと思いますが・・・

ちょっとないですね・・・

ですので思い出したことを書きますが、「にんげんクラブ」の会報で、「恐怖心はいけない」ということが書かれいますね。
兒玉裕子さんと言う方が書いているようですが。



いろいろ書かれていますが、「子供が転んだ時、お母さんが、”痛いの痛いの飛んでいけ”と言うと、子供が泣き止む」という話があり、それは、転んだ痛みで パニックになった子供が母親の言葉でリラックスしたことによるのでしょうね、というように解釈されています。

ああ、そういうこともあるかもしれない、と感じました。

私も以前、同じ事例について書いたことがありますが、私は、ひとつは、ヒーリングの力、もうひとつは、子供はそれまでの経験で何かをしますので、転んだ ら、親が心配して、”どうしたの、どうしたの、大丈夫?”状態になりますので、それは泣かなくてはいけないものだと、泣くべきだ、と判断し行動することが あるように、私には幼少の記憶があります。

ですので、私の妹の子供などが、転んでじゅうたんの上で軽く頭をぶつけても泣き出しそうになったりしますので、「どうしたの?痛くないよ、大丈夫」という ように笑顔で言いますと、泣きません(笑)。

みなさんは記憶にないでしょうか?
本当はそうではないので、大人が大人の常識で標準と思っている状態を子供に求めるので、「仕方ないな。そうしようかな」と思いながらやったことは?



その意味で心配、恐怖心というのは、周りの人が抱くことによっても、3次元的には、だめですね(笑)。

自分はなんとも思っていなくとも、周りがそうだと、なんだかそういう気持ちになってしまいます。

もちろん、中には、結構大変な場合、というものあるかもしれませんが、だからこそ、ややこしいのでしょうね・・・。

これを書いた人は、病気で気絶するほどの痛みが出ることがあり、いつも薬を持っていた・・・しかし、「大丈夫、痛くない・・・」と30回称えたら治ったこ とがあり、それ以来、薬は持たなくても大丈夫なようになった・・・という話を書いています。


私はこういう経験はいくつかあります(笑)。

ひとつは鼻炎ですね。
以前は本当にものすごい鼻炎だったのですが・・・おそらく3次元的発端は、当時引っ越した新築マンションに使われていた科学素材によるものだと思います。
それと、走っていて鼻を激しくぶつけたことも関係あるかもしれませんが、それはどちらかと言えば鼻に意識を持っていくということを生んだ、という意味にお いてでしょう。


ですので、いつも鼻の薬を持っていました。
本当に口でしか息ができないような感じでしたので(笑)。

しかし、それは、意識というよりは、ハワイのカイルアにいる時に治って以来、なんともありません(笑)。
良い空気が良かったのか・・・あるいは、空気の香りが良かったですので、鼻を使うようになった、ということが大きいかもしれません。
非常に普通の精神世界的でなんですが、無意識に鼻に感謝をしていたでしょうね・・・。

何かそれって、やはり普通の人には大切なことのように感じます。


もうひとつは、以前ひどく腸の調子が悪い時期がありましたが、要するにいつでも下痢状態だったのですね。
ですので、怖くて駅の遠い電車の中ですとか、そういう状況では、どうしようもありませんでした。

ウオークマンなどで、優しいメロディの曲を聴いたりもしていましたが、どうしうようもない時には、大きく深呼吸をして、ゆっくり吐く・・・
ということを何度か繰り返すと、危機を逃れることができました。

これは思うに、今やっている政木和三さん式の腹式呼吸と同じですね。
江原啓之さんでも、だれでも、多くの方が、ゆっくり複式呼吸について語っていますが、あれは、何かを良くする効果があるのは確かですね。

ただ、その時は、「いらいらしない、いらいらしない」と半年くらい言い聞かせることによって治癒しましたが(笑)。
例の、発注から営業まで全てやってしまっていた時期に発病したのですが、何かを急ぎすぎていたのでしょうね。
早く仕事をこなすことが、良い結果を出すことに繋がる、と思い過ぎていたのでしょう。
これ自体は良いようですが、ものには限度がある、ということですね。

どれくらい速かったかと言いますと・・・・・・
受注が普通に営業をやっていた時期よりも3倍くらいに伸びた中で、全ての在庫・納期確認をして、それを顧客に伝えて、在庫がなければ、急ぎのものは別ルー トで探したりして、倉庫にメーカーから納品された品物を自分で梱包して、営業もそれまで以上にやって、勉強会にも参加して、工事打ち合わせから立会いまで して・・・うまく言えませんが、忍者か超能力者のようでした(笑)。

要するに、本社にいれば、それぞれの担当者が分担していた仕事を、受注が3倍意以上に伸びた状況でやっていた・・・ということですね。
ちなみに、小さいと言っても500人はいる会社でしたので(笑)。
私の支店は9人でしたが。

なんでそんなことしたかと言えば、仕事の面から言えば、それが一番効率的で、それが受注に一番結びつく、と信じていたからでしょうね(笑)。

そうしたかった理由は他にあるのですが。


ですので、前の会社の仕事が、遅く感じて遅く感じて、非効率的に感じてしかたがなかったです。
人間関係、人の扱い方同様、これも、またストレスの原因だったのでしょう。

ですのでむきになって、ほかの人よりたくさん仕事をしていたようにも思います。
きっと、それの反動で・・・この3年間くらいですが・・・・・・つまり、一種の恐怖心かもしれないですね・・・てきぱきやるのを怖がっている時期があっ た、とも言えます。

いずれにしても、恐怖心というのは曲者です。

森田健さんが7億円事件について、不思議研究所のサイトに書いていますが、私はあれを読みますと、「ああ、恐怖心が無いな。逆に楽しんでいる」と感じま す。
この楽しみは、時々、頑固な人が誤解している「ちゃらんぽらん」とか、「ふざける」という種類のものではないのです。
何と言いましょうか・・・力を発揮する機会にめぐり合えた、と言うべきか、力を試す時が訪れた、と言うべきか、何かそういう感じなのですね。


これは、みなさん、得意なことで、しかも乗っている時などに感じたことがあるのではないでしょうか?

つまり、自分がうまくいっている状況で、好敵手が現れた時などに、普通の人でも経験するような感覚なのだと思います。

普通であれば、乗っていませんと、強い相手が現れても、好敵手、だなんて思えませんよね。

森田さんはその状態について、「被害者意識が、良くない」と語っているように読めます。
それも大きいでしょうが、私は、人の心に根ざしている安定を求める心、が時として邪魔しているのではないか?と感じます。

学歴ではないですが、一度取ってしまえば、一生消えずに残ってくれる良い状態、というものが安定なのではないかと思います。
それは好都合ですものね。
東大を出れば、3次元で、日本にさえいれば、まあ、一生食いっぱぐれはないでしょう。

それが安定というものでしょうか。


ですので、一度安定状態、あるいは進む状態から外れた状態になってしまいますと、好敵手が現れても、「嬉しい」とはまず感じないのでしょう。

そして、多くの場合、恐怖心を抱くのかもしれません。


その意味では、私なども、今まで恐怖心にかられていた、とも言えるかもしれません。

今はもう、ぎりぎりですので、やっと、というか、嬉しいことに、恐怖心が消えました(笑)。
逆に、「ハードボイルで行こう、また。でも今度は宇宙の理に沿った、ハードボイルドだ」と思えるようになりました。

そう言えば、仙台から帰ってくることが決まった時もそうでした。
「もうどうせ、普通のコースからはずれてしまったのだから、いいじゃないか。」
と思えていました。
言いか悪いかは別として、
「カードでお金を借りて、人から借金をして、そしてアルバイトでつないで、就職活動をすればいいよ。それでもとにかく生きていけばいい」
くらいに考えていましたら、何と一部上場の会社にすぐに決まりました(笑)。

今振り返ると、いけなかったのは、「安定」を必要以上に求めたことだったかもしれませんね。
「こんな人聞きの良い会社に入ったのだから、一生がまんしていなくては・・・」と思ったのは確かです。
そして、辞めた後も貯金が相当ありましたので、それを如何に大事にするか、ということばかり考えていたように感じます。

恐怖心が先、とも言えますが、その恐怖心の元は、安定を必要以上に求める心、とも言えるでしょう。

もちろん安定は良いことだと思います。
特に平和の安定は大切ですね。

ただ、経済状態、身分などは、あまり不必要に・・・極端に・・・求めますと、恐怖心 が生じ、あまり良くないようです。

人には、いくらか、ハードボイルドなところが必要なのかもしれません。


私は昔からいくらかハードボイルド的傾向がありましたので、それがいけないんだ、と思ったりもしました。
行きすぎはいけませんが、それでも、私流に言えば、「宇宙の理に沿ったハードボイルド」という状態が、人には一番良いのかもしれませんね。

恐怖心もなく、しかも時空の真実に沿った状態、ということですが(笑)
もっとも、本当の宇宙の理、時空の全て、というものは、まだ全て分かっている状態ではないようですが。
きっとこれから分かるのでしょう。

みなさんは、どう思うでしょうか?








さて・・・・・・
いろいろ考えますが・・・
魂は鉱物、植物あたりから、はじめる、と良く書かれていますね。
私は信じていますが(笑)。
そうしますと、道端の石ころ、金属などは、これから何十億年かかけて、人になって行く、ということですね。

何か親しみを感じます。

もっとも、石の中には、賢者の石のように、すごいものもあるようですが。
そう言えば、政木和三さんの持っていた賢者の石は、今どうしているのでしょうか?
もっとも、政木和三さんが、アトランティスで神官だった時に付き合いが合った石ということですので、政木和三さんが持っていなくては意味がないのかもしれ ませんが。

そうしますと、その石は、人の魂には、なっていなかった、ということでもありますが、何か意味があるのかもしれませんね。

良く分かりませんが。
みなさんは、どう思うでしょうか?


そう言えば、池田邦吉さんのどの本だったかに、
「魂というのは、どんどん分裂していく・・・なので、人口が増える、ということにはいくらでも対応できる。しかし、人口が増えると、人生経験の少ない魂も 人にならざるを得ないので、どうしても、知らないことの多い魂が人をやることになってしまう、という傾向はある。日本の人口が減ってきているが、それは、 逆に言うと、複数の魂になるはずのものが1つになって生まれてくるので、今生まれてきている子供たちは、ものすごい超能力を発揮できる人である・・・」
と言うような内容が書いてありました。

なるほどね・・・
と思います。
私は直感で、信じてしまいます。

もちろん、現在のアカデミックな、あるいは科学的な何かで発表するには、現在の科学などの範囲内で分かっている”事実”を使って説明できないものは、出せ ませんが。

ただ、直感というものは、いつも使っていないと、知力と同じで劣るもののようです。

どちらも使わなくてはいけない、ということですね(笑)。




直感で、正しそうだ、と感じて、それが3次元的に説明できそうだ、と感じたもの、などは、科学的と言いましょうか、知力と言いましょうか、現在の3次元で すでに解明されている事実を使って説明してみようとは思いますが。



良く分からないのですが、たとえば、世界を牛耳っている組織があるとして、突き詰めていけば、どうして彼らはそういう考え方をする人間になったのだろう か?まで行くように感じますが、そうしますと、家族編成だとか、そういうことより奥に行けば、それこそ、”科学”では説明できない・・・ような所まで考え が及んでいく、と思うのですが、そういう触れてはいけないことを無視して、科学的だとか、そういうことを言う人と言うのは、自分の”真実”にどれくらい自 信を持っているのでしょうか?

何と言えば良いのでしょうか・・・高次元も、3次元も含めて世の中ですので、高次元 的なことを無視する、否定する、ということは、事実を捻じ曲げているわけですので、その思考で3次元のことを考えても、結局、ある箇所(高次元)を間違え て解釈しているわけですので、理論体系全体としては、絶対に間違えたものになっているわけですよね。


ちゃんこ鍋が今あって、仮にピーマンがなぜか入っていたとします。
しかし、ピーマンは味が独特である、ということを絶対に認めずに、「なぜ、今日のちゃんこ鍋は味が変なんだ」ということを理論体系化しても、そこから出て きた理論というのは、絶対に間違っているわけですね。

「どうやら、タラと白菜が、3:5の割合で混ざり、80度の温度で、5分間熱せられると、化学反応を起こし、独特な味を出すらしい」だとか、変な結論を出 す可能性すらあります(笑)。

これはたとえ話ですので、タラにも白菜にも罪はありませんが。


みなさんは、どう思うでしょうか?




「戦国自衛隊」という映画が、もうテレビでやるんだそうですね。
見ませんが(笑)
「へぇ〜。やっぱり本当なのかな?」
と思えてしまうのですが、どうなのでしょうか?




で・・・・・・
自動詞の話ですが、何かこれは本当ではないか?と最近感じています。
何が本当かと言えば、過去完了形で「そうなったと思えよ」ということではなく、自動詞で思えよ、ということなのですが(笑)。

私は実は、社会人になって以来、「就職運は良い」とことあるごとに、頭の中で言って来たのを思い出しました。
それは3次元的に起きている事実を分析したらそう思えたので、「会社運は悪いけど、就職運は言いな」と思っていたわけですね・・・。

確かに、いろいろあっても、以前はすぐに就職できることが多かったのです。

ちなみに、私は一大学卒でもありませんし、人一倍面接がうまい、ということでもあり ませんし・・・。



そして、どうも、「会社運は悪いが・・・」
これは、私の友人が私の人生を分析して言った言葉で、「なるほど」と思ったので、それを信じるようになったのですが、それ以来、確かに会社運は悪いのです ね(笑)。


もちろん、これだけではないくいろいろ考えての途中での結論ですが・・・(途中経過とも言う)

その意味では、ひょっとしたら、「金運は来た(来る)」とか、「出世運は来た(来る」とか、そういう言い方が、本当に運の流れを変えることに繋がるのかも しれません。

いろいろやっていますので、何らかの結果が来たら、また書きます(笑)。




で・・・少し方向性を変えて考えてみますが・・・
どうも、”私”という存在はない、と発想してみますと、何か分かりやすいのですね・・・
もちろん、私、はあるのですが、私とはそもそもなんだ?という哲学みたいなことを考えますが、あk理にそれが魂といいますか、本質あるいは本質の分身であ るとして、いずれにしても、意思を持った概念みたいなものだと仮定するなら、それに付随するもろもろの3次元的現象というのは、そもそも論で言えば、私で はないわけですね・・・

この場合の私ではない、というのは、つまり、私という人間が自分の細胞のようなものを分裂させて作り出したものではない、とでも言えば良いのでしょうか?


なにせ、心臓だって、どっかの器官だって、”私”の命令で動いて意いるわけではないのですよね(笑)。

どこか別の何かによって動いているわけですね。


創造主はこの世を作り出したのは、意思によってのように理解しています。
そして、魂は、創造主からどんどん分裂していったようです。

これを考えますと、ひょっとしたら魂以外のものは、自らを分裂するような方法、理論によっては作り上げられない、と思うのが正しいのかもしれませんね、ど うでしょうか?

そうしますと、やはり使役動詞によっては、何も生まれない、ということも言えるかもしれません。

仮に、運、3次元での全てが、すべて魂・・・意思を持った概念であるとすると、それ に協力を仰ぐには・・・この中間の理論があいまいですが・・・自動詞的な意思でないとできないのかもしれませんね。




いろいろありますが・・・
1:形の共鳴というのが言われますね・・・
2:波動で・・・可愛がって、愛してあげると、人間以外のものでも、それに答えてくれる、などなど・・・というのがありますね・・・
3:意図する、というのもありますね・・・
4:問いを発する、というのもありますね・・・
5:で、今、自動詞で思う(過去完了の改良形)というのを考えていますが・・・



これらが仮に全部正しいとしてみると、何かで特性が違うということでしょうね。


今たまたま上の順番で書きましたが、私の勝手な思いつきでは、上のものは、大きさの 順序でもあり、変化の状況の順序でもあるでしょうか?

左の数字は今つけてみましたが。
4と5が逆かもしれません。


大きさとは、実際に動く何かの媒体ですが、下に行けば行くほど小さくなっているかな?とも感じます。
どんどん小さく・・・: 形→感情の波動→自分ということへの波動(?)→自分の周り、状況への波動→高次元全体への波動
(4と5が逆の可能性が高いですね)

変化とは、3次元でうごめく実物の大きさと言いますか、実際は高次元でもそうなっているのかもしれませんが・・・
形あるもの全て→生き物→人間としての自分→一人の人間を取り巻く状況→全ての人間を取り巻く状況(?)


どうでしょうか?



これがどういうことかは、いろいろ考えられますが、何か面白そうですね(笑)。


みなさんは、どう思うでしょうか?






さて・・・・・・
不思議研究所のサイトで森田健さん が「加害者意識を乗り越える」ということについて書いていますね(笑)。
私が読む限り、「加害者意識」というよりは、「奪者意識」というような表現の方が、言っていることをより正確に表しているように感じますが。

詳細は上記サイトを読んでいただきたいですが、私が読む限り、
「目の前に現れた状況に対して、少なくとも”私の考える宇宙の理”の範囲内で当然のことをして、その結果、相手から、何かを奪ってしまうようなことになっ ても、別にそれを恥じる必要もないし、罪悪感を抱く必要もないのだよ」、
ということを言っているように読めます。

この”私の考える宇宙の理”の”私”は、私で、森田さんではありません。



もし、私の考えていることが正しいとするのなら、キーはこの私の言うところの”宇宙の理”ということになるでしょうか?

良く言われることは、何かをしたときに、「だってしょうがないじゃない」とか、「当然でしょう」という言葉ですが、3次元的には・・・あるいは高次元的に も・・・少なくともその人自身には基準があるから、それに対して、上記のような言葉が出てくるわけですね。



たとえば、先だっての「めいらく」の社長さんの話にからめれば、あの時代なら、親にも会えず、食べるものに困った10歳くらいの子供が、露天から食べ物を 盗んで逃げて行ったとしても、これは私の考える宇宙の理ではOKです。

しかし、大国が、新しい市場を求めて、他国になんくせつけて、攻め入って、勝手に占領するのは、NGです。


昨日こんなことがありました。
履歴書を出した会社から、月曜日に面接の予定が入りました。
実は床屋さんには、先日行ったばかりなのですが、自分で手を加えてしまい(笑)、変になってしまいました。
私はこれを中学生の時からやっては、反省しますが、またやります(馬鹿)。

ですので、床屋に行くことにしました。
床屋さんはいくつもあるのですが、生麦という駅にある床屋さんが、とても腕が良く、そして本命掛からみて吉の方角にありますので、そこへ行くことにしまし た。
ただ、つい2週間くらい前に行ったばかりで、しかも、短く切ったはずなので、変に思われるだろうな、とは思っていました。

で・・・行ったのですが、その日の担当の人は、先日刈った人とは別の人でした。
結果はものすごく綺麗に刈っていただいて大満足なのですが、ただ・・・
先日刈ってくれた人が、どうも、怪訝そうなのです(ん・・・)。
態度もやや威圧的です(笑)。

私はその人にも、にこやかに挨拶をしましたし、終始多少無理して笑顔でいましたが、想像するに、
「俺が先日、刈ってやったのにケチを付ける気かい?第一、あの時だって、あんたが自分で手を入れた後を、できれば長く残して欲しいって言うから、無理して 工夫してやったんじゃないか?まったく職人魂を傷つける野郎だ・・・」
と言ったところでしょうか?

まあ、そういうこともあるかもしれないな・・・とは10%くらい思ってそこへ行きましたし、仮にその人が刈ってくれたとしても、私としては特に問題はあり ませんでした。

仮に100%、森田さんの言うところの「加害」を避けようとするのなら、その床屋さんへ行かなければ良いのですね(笑)。
しかし、私としては、そこの床屋さんが一番腕が良く、面接前には、どんなことでも最善を尽くしたい、と感じました。
ですので、とにかくそこへ行ったわけですね・・・。

しかし、森田さん式に言えば、私は先日刈ってくれた人に対して「加害者」になったわけです(笑)。
どちらかと言うと「加害」という言葉を使う方が焦点がぼけてしまうように感じますので、「奪者」の方がやはりしっくりきますが、要するに、私の利益のため に、この先日買ってくれた床屋さんのプライドですとか、そういうものをキズ付けたわけですね・・・まあ、何かを奪ったわけです。
ギブ&ギブどころか、ギブ&テイクにすらなっていない・・ただテイク・・・ですね(笑)。


しかしながら40過ぎの病み上がりで2年間ブランクのある人が、会社の面接だ、という状況で、一番腕の良いと思っている床屋さんへ行く、というのは、私に とっては当然ですし、私の考える”宇宙の理”の範囲内です。

もし・・・精神世界を超右翼化して考えれば、きっと私は、この床屋さんへは行かないでしょう。
その結果、だれも傷つけないし、何も奪わないかもしれませんが、私の将来はどうなるか分かりませんね(笑)。
あるいは、面接すら受けないかもしれません・・・「私が採用されたら、他のもっと苦しい人の人生を左右してしまうかもしれない・・・」ということですが。

もっとも、「そんなに床屋さんの腕って違うかよ?」という人もいると思いますが、”違います”が、その議論は焦点がぼけますので、ひとつの例として読んで いただきたい、と思います。


さて、どうでしょうか?
私はなるほどと思いました。
確かに、私などは、マクロな理論を考えすぎて、ミクロなことにまで、いやおう無しに適応してしまっていた、とも言えるかもしれません。
おそらくは船井幸雄さんだって、他の多くの人だって、そういうことを言いたいのではないのでしょう。

マクロに言えば・・・ということなのでしょう。

ですので、本当に・・・何と言いましょうか、何かを一言で言い表す、というのは、非常に難しいことだし、例外がたくさんあるのなら、無理して一言で言い表 す必要なないのではないか?とも感じます。

それも、私が強引に一言で言い表すとするのなら、目の前の状況に対して、
”私の考える宇宙の理”の範囲内で最善のことをすべし。その結果、奪者になってしまったとしても、それは仕方のないことだ。悩むな、迷うな。恐れるな”
でしょうか?


そこで、問題になってくるのが、”私の考える宇宙の理”ですね(笑)。

もう理論では言えませんね・・・今の私には。

それではどうするか、と言いますと、人、物にそれを代表させるしかないように感じます。

人で言えば、森田さんの言う、ぬいぐるみを抱えた小学校4年生くらいの女の子(菩薩らしい:笑)でしょうか?
孫さんでしょうか?

あるいは、船井幸雄さんだったり、政木和三さんだったり、森田健だったり、
男性でない方が何か良さそうにも思いますので、岡田多母さんだったり、田村京子さんだったり、するのでしょうか?

岡田多母さんなどは、結構すごそうにも感じます(失礼)。
優しいのでしょうが、怒られたら、だれよりも怖そうですし、みなさんはどう思うか分かりませんが、戦後、孤児になってしまっていたりしたら、迷い無く、脱 兎のごとく、露店商から、何か奪っていけそうに感じます(失礼)。
もちろん、平安な状況でしたら、優しいと思います。

きっと、これは岡田多母さんだから、と言うよりは、女性だから、ということなのかもしれません。
その意味では、孫さんなどもそうかもしれません。
小学生少女菩薩もそうかもしれません。

逆はどうでしょう?
つまり露店商だったら・・・ですが。

絶対に、奪わせないでしょうか?
思うに、自分も困らず、その子供も困らない程度に、「奪わせる」のではないかとも想像しますが?
どうでしょうか?
決して、お店が成り立たなくなる状況を生むようなこと・・・仕入れた食べ物を全て与える、とかですが、そういうことはしないのではないかと思います。

もちろん、これが、商売どころではない状況、戦時下だたっりしましたら、またいろいろミクロなことを考えなくてはなりませんが。


私は、どうもこれまで、自分には、変に精神世界的超右翼的なものをしいてきていましたが、他人には、どうも比較的正しい”私の考える宇宙の理”を当てはめ てきたようにも感じます。

いつだったか、1枚5万円のステーキを食べる20代セレブ女性の話を書いた時、「5万円のステーキを食べるなら、1万円の食事をして、4万円は寄付してや れば良いのに・・・」と書きました。

1万円の一人分の食事というのは、相当豪華ですよね(笑)。


これは比較的、今の私の思っている”私の宇宙の理”に近いです。
ただ、ひょっとしたら、2万5千円の食事までOKなのかもしれません。
5万円のステーキを食べるなら、半分寄付して・・・ということですが。

ただ、この人が、どうしても、どうしても、5万円のステーキを食べたい、しかも、使ってよいお金は月100万円もある・・・
というのなら、食べてよいのでしょう、きっと。
それが当然なのでしょう。

毎食だとすると、さすがにどうかな?と思いますが(笑)。

そして、むしろ、「どうしても食べたい”それ”を一般的に言われる常識を破ってでも食べる人」の方が、ずっと”どこかにあるかもしれない本当の宇宙の理” というものを知っていたりするのかもしれません。

それは、例の孫さんの、”肉まん8つ全部食べ事件”ですとか・・・
痛風ならあきらめれば良いのに、肉に氣を入れてまで、食べられるようにした船井幸雄さんのこと(笑)などを読みますと、そう感じてきてしまいます(笑)。


ただ、これらを一言で理論化しろ、と言われますと、今の私には難しいですね・・・

それ故自分でも、迷ってしまう瞬間があるように感じます。
右脳と言いますか・・・いや、本質は知っているようです(笑)。

それを左脳という3次元に下ろしてこようとした時に、なんだか分からなくなってしま うように感じます。
それは、どういうことかと考えれば、言葉の限界、一言の限界、周りを見れば、みな違う理論で動いている、しかしながら、一番採用されている理論と言うのは 間違っているように見える・・・
という3次元現象によるものでしょうか?(笑)。

みんさんは、どう思うでしょうか?


ちなみに、森田健さんが言おうとしていることが、上記のようなことかどうかは分かりませんので、ご自身で読んでみてください。







ちなみに・・・床屋さんですが、波動的には、「悪い波動」を前に刈ってもらった人からは受けてしまったかもしれません。
それに対して私は「あなたが、前に刈ってくれたから、今このかっこよい髪型がある。感謝」と逆波動を送りました(笑)。
これは、先日書いた内容的には、2番目くらいの状況のものですね。

しかしながら、もう一人の床屋さんから、「面接に行きますので、品の良い髪型にしてください」とお願いをしましたので(笑)、良い波動を受けています。

後は、神が何かを言う存在だたっとするなら、私の考えた”私の宇宙の理”にどういう評価を下すか、ということでしょう。

もし、運命が決まっているだけなら、すべては決まっていた通りです。

私は、きっと、「髪の毛をどうするか?」という問いを発していたのかもしれません(笑)。

いろいろ考えてしまいますね。






さて・・・・・・
巨人がやっと勝ちました(笑)。

あんなに調子が良かったのに、分かりませんね。
けが人続出というのが、3次元的原因ですね・・・。

しかも、キャプテン、リーダー役、しかも、打線の中枢がリタイヤしてしまったのですから、どうしようもありませんね。

三輪明宏さんによれば、どうも黒い服は、勝負ごとには良くないようですが、ジャイアンツの今年のビジターでのユニフォームは黒ですね。

私は黒い服は本当に・・・NGです。
昔からですが(笑)


また、リーダーというのは少なくとも野球では大切なようですね。
西選手が、とりあえずのリーダー役として指名されていたようですが、当人にしても、いきなりそう言われても、なかなか大変でしょう。

ただ、どうして、リーダーが必要なのかと考えますと、役割分担化がされ過ぎているからでしょうか?
特に日本のスポーツはそうですね・・・
しかしながら、そうでなくとも、牽引役というのはどこでも必要ですね。

みんな、役割分担という意味でも対等にしておけば、いざという時に困らないのだろうか?とも思えますが、どうなのでしょう、良く分かりませんが。
ただ、普段から、次のリーダー役を決めておけばいざという時に困らないのかもしれないですね。

その意味では、小久保選手がキャプテンで、その次を担うのが高橋選手なのかもしれませんが、2人ともいなくなってしまったのですね(笑)。

ただこういうところにも相対性を感じるのですが、小久保選手ががんばっている時には、怪我がちな高橋選手の影はどうしても薄く感じてしまうのですが、小久 保選手がいない中に、高橋選手が出てきますと、やはり、頼りがいを感じます。

不思議ですね(笑)。

私が変に記憶に残っていますのは・・・その意味で潜在意識あたりにいるのかもしれま せんが・・・ずっと以前、日本テレビで「姿三四郎」をやっていたのですが・・・
道場には、三四郎を含めて、強い人が確か3人だか、4人だかいました。
そして、敵方の空手だか拳法だかの使い手にすごく強いのがいました。

道場の強い人でも、やはり、差がありまして、その中の一番したの実力の人が、門下生何人かと歩いていたのですが、とにかくその強い敵と出くわします。
何か伝えてくれ、というようなことだったように思いますが。

その時、当然、弟子たちは恐れおののくのですが、「今日は、〇〇さんがいるから、みんな大丈夫だ・・・」というようなことを言います。
しかし、テレビを見ている人とか、あるいは当人、敵などは、その人は強いとは言え、この相手方の人間に適うほどの実力者ではない、ということは分かってい るのです。

確か、その敵は、
「心配することは。今日は〜の用事できただけだ・・・」
みたいなことを言ったと思います・・・


で、私はどうして頭に残っているかといいますと、やはり相対的、というものなのですね。
強いってどういうことだ?と思ったわけです。

門下生たちにしてみれば、この一緒にいた人はすごい強い人なわけです。
そして、彼らの実力、知識では、どうもこの人以上の実力の世界は見えないようなのです。
ですので、「今日は〇〇さんがいるから大丈夫だ」なのだと思います。


これはシナリオではありますが、それでも、良くありがちな事のように感じます。

で、その後、私はどういう影響をこの場面から受けたかろ言うと、”上には上がいる、をかみ締めよう・・・”と思ったのですね(笑)。

よく落語で言われますが、”相手が自分より下手だと思ったら、同じくらい。同じだと思ったら相手の方がうまい。うまい、と思ったら相当上だ・・・”という のがありますね・・・


私は「ああ、そういうものか」と思ったものでした。

で、そういう感じでやってきましたが・・・
どうなのでしょうか?
実は、この何年か疑問を持っている、と言いますか、これも何か条件が足りないのではないだろうか?と感じています。


この落語の師匠の話で行きますと、どうも、それは、ある時期までの修行をしている人に当てはまる言葉なのではないだろうか?と感じるのですが・・・。

私は、私の勝手な感覚では、この師匠の言葉をかみ締めてでも、いろいろ見ていきますと、ある時点で、「自分と同じ。自分より上。」などが相当確かに分かっ てくるようにも感じるのですが?

良く分かりませんが(笑)。

たとえば、私には、ジェフ・ベックと、スティーブン・ルカサーのどちらがうまいのか分かりません(笑)。
と言うよりは、もうどちらが上とか、そういう段階は超えているように思うのです。

速いとか遅いとかは分かりますね(笑)。
小節ごとに入っている音の数を数えれば良いわけです。


また、たとえば私が一番ピアノを弾いていたころの録音などを聴きますと、今は、いろ いろ客観的(自分の多角的レベルから見た主観のことだと思っている)に聴いて、これはどの程度だ、と思いますが、当時は、もっとうまい、と思っていたりす るわけです(笑)。
もちろん、若い時は、その自信と勢いが必要だとも思いますが(笑)。


これなど、本当に、一般で言われている客観という言葉は、「自分の多角的レベルから見た主観」だな、と感じてしまいます。
なぜなら、当時は当時で、「これが客観だ」と思って、信じていたわけですので(笑)。

この例は、”能力”というものについてですが、おそらくは、もっと広く”事実”というものも、同じようなものなのではないかと感じます。

多角的レベルというのが、なんとも曲者ではありますが(笑)、要するに、別に人間性のレベル、ということではなく、そしてもちろん学歴、知能指数などとい うことでもなく、仮に言えば・・・
さまざまな知識、
もちろん知能指数もあるかもしれない、
五感のそれぞれの感知能力、
心のさまざまな部分の感知能力、
性格、
健康状態、
魂の状態、
場合によっては前世などもそうか、
などなど・・・
ということですね。


しかし、仮に、以前〇〇で、今はいろいろ知って❑❑と感じ、たとしても、またもっと 知ったりしますと、「やっぱり◎◎だ」とか「〇〇に戻った」とか、いろいろある種類のものもあるようですので、そう考えますと、客観性というのは、結構あ てにならないな、とも感じてしまいます。
裁判証拠ですら、3次元のものですので、テクノロジーが発達しますと、変わってきたりすることもありますし、第一、だれかが隠していたりすれば、出てこな いものもあるわけですので。

で・・・何が言いたかったのでしょう(笑)?




不思議ですね・・・「何が言いたかったのでしょうか?」とすると、次が出てきません(笑)。




きっと、これで出てきます(笑)。

で・・・何が言いたいかと言えば(笑)・・・
「多くの場合、客観的というのは、やはりどうも、”その人、その時代などの、多角的レベルから見た主観に過ぎない”場合が多い」
ということと、
上ではぜんぜん述べていませんが(笑)、あまりレベル、というものを考えすぎない方がきっと良いのだろう、ということですね(笑)。

なぜなら、しょせん「客観は、その人、時代などの多角的レベルから見た主観」である場合が多いのなら、それはつまり違っていることも多いわけですので、何 らかの約束事の範疇で縛られていない限りは、レベルの上下などは気にせず、どんどん心の赴くまま、やってみるのが良いのでしょう。

どうも、その時にも、”本当の宇宙の理”が分かったのなら、その枠組み内であった方が良いのだろう、と感じていますが。

みなさんは、どう思うでしょうか?



 

 

 



さて・・・・・・
テレビタックルを見ていますが・・・
「中国がひどいことをしている」、「次の総理は福田さんではない」、「小泉さんはすごい」、「イラク戦争は正しい」・・・ということばかりですね(笑)。

この番組で言っていることの、逆が正しいと考えていれば良いのかもしれませんが、どうなのでしょうか?


小松英星さんのサイトにの、http: //www21.0038.net/~gaia-as1/qa06b.html
に 面白いことが書かれていますが、引用します。


(引用)
『テレビや新聞を見ないことは、何も問題ありませんよ。
テレビや新聞に浸っている 人のほとんどは、私が言うようなことは知らないでしょう。
つまり、どうでもいい膨大 な情報を撒き散らしながら、本質にかかわりのないことを誇大化して、肝腎なことには気付かせないという仕掛けの中に取り込まれているわけです。』


一般論として言えば、どんな現実でも、自分の現実は 自分が創っているし、また創ることができます。そしてこの地球世界では、ほとんどの人が「創造力のマジシャン」として、メディアや社会や周りの者が教える ままに、望ましくない現実を、せっせと創っています。その背後には、誤った認識や、様々なルートからの人心操縦の影響を受けて(それと知らず)行動してい ることがあります。創造力がないことが問題ではなく、(誰もが本来的に持っている)創造力を、どの方向に使うかが問題の本質です。』

(以上)


 いかがでしょうか?
「”回り”では、どっちが正しいのだか分からないではないか?」
ということを言う人もいるかと思いますが、そこですね・・・

直感が働けば良いわけですが、一般的には「金銭的なもの、利権が絡んでいないもの」が正しい、で判断するのが良い様に感じます。


もちろん、実際問題は、金銭、利権が絡んでいても正しいものもあります。
ですので、絶対とは言えませんね、この理屈は。

3次元的なものだけで検証できるものなら、検証してみて、矛盾があるか、ないかで、分かるでしょう。
事実が隠されていたり、高次元が絡んでいるとなると、そうはいきませんね。


みなさんは、どう思うでしょうか?





さて・・・・・・
いろいろ考えますが・・・
私は顔つきが怖くなって時期以降(今は怖くはないと思うのですが・・・)、その害を払拭するために、「私はあなたの味方だよ」と心の中で思うようにしてき ましたが、実はこれはあまり効果がありません(笑)。

で、最近、例の「自動詞」にインスパイアされて、「この人は味方だ」と思ってみることを試してみました(笑)。

どうも、今のところ、こちらの方が、良いようですね・・・
まだ、検証が足りませんが。


どうも自動詞を意識しますと、いろいろ思いつきます。
良くうまく行っている時に、人は、「売り上げがどんどん上がっている」、「人材がどんどん集まっている」のような”自動詞”的な言い方をしていますよね (笑)。

これが他動詞ですと、「私は売り上げをどんどん上げている」とか、「当社は人材を集 めている」とかでしょうか?

まだまだ、検証途中ですが、どうも、自動詞には何かありそうです。






本日、左記の船井幸雄さんの新著が届きました。
まだ読んでいませんが、読み進めましたら、いろいろ書いていきます。

で、「にんげんクラブ」ですが、その内いろいろアイディアが出てくるのでしょうが、なんだかこのままではもったいないですね(笑)。

出版社と船井幸雄さんがOKなら、船井幸雄さんの本を朗読してCD−Rに焼くくらいのことなら、いつでもできますが(笑)。
何をやるにもお金がかかりますので、すぐにそうそう何でも出来る、ということでもないでしょうが・・・。

本当は各地に連絡所のようなものがあり、そこに船井幸雄さんの本が置いてあり、良く 内容を知っている人が常駐していれば、何かできそうにも思いますが(笑)、さて今後どうなるのでしょう。

みなさんは、どう思うでしょうか?




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