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もくじ

さて・・・
今、例のNHKの旅の番組を見ていますが・・・
今日はザルツブルグだそうで、初めて画面を見た瞬間の感想が「日本に似ているな」でした。
モーツアルトの出身地だそうです。

気づいた方々は、どう感じるでしょうか?




さて・・・いろいろ考えますが・・・
2004年以来、私から何かがなくなってしまったのですが・・・
なくなってよいものもあるのですが、何かひとつ、無くなってはいけないものがなくなっているようでして・・・
それが何かと考えているのですが・・・どうも、正義感(あるいは正義感の肯定)ではないかと感じるようになりました。

まがりなりにも、生きてきまして、っそして精神世界を勉強してきまして、その中で、どうやら3次元での善と悪という概念は高次元的には、必ずしも善悪ではない・・・

また正義と悪という概念も、どうも高次元的には、立場の違いだけのものである要素が大きい・・・と。

そうなりますと、たとえば知っている知らない、できるできない、正しい(正解)、間違え・・・なども、一応3次元的には意味のあることなので「言う」ということは、するにはしますが、主張するほどのものではない・・・
言うにしても、自信を持っていうほどのものでもない・・・
のように考えるようになっておりまして、それはそれで正解なのだろうと感じています。

ただ、それにしても、いかにも3次元を生きにくいですので、「忘れた」状態から、少しだけ忘れたものを意識して入れようとっしてもいるのですが、どうも、その意識して入れているものが「違う」ようです。

これまで、「自信」ですとか「エゴ」のようなものを、「くだらない」と思いながら意識して入れてみたのですが、どうもそれではないのですね・・・

で・・・いろいろあってふと思い立ったのは「正義感」なのです。

特に、若い人やエゴの強い人を観察していてそう感じたのですが・・・
自信を持って、堂々と持論を展開する人を観察した結果、どうも「私こそが正義である。あなた方は悪である」というような波動を出しているように感じました。

そこで、「ああ、そうかな・・」と感じたわけです。

実際、時々、切れると蘇るその感覚・・・失った何かが蘇っている感覚・・・ですが、それも分析しますと、どうも「正義感に溢れている状態」になっているように感じます。

というわけで、これから3次元的な人間になる時には、馬鹿げていると感じながらも「正義感」を振りかざそうと思っています。

但し、馬鹿げていると・・・今は思っているのですが、ひょっとしたら、正義感というものは、大事なものなのかもしれません。

実際、私は、生まれてからずっと「正義感が強すぎる」と親や学校の先生、その他もろもrの人から言われ続けてきていた経緯があり、それも、また正義感を捨て去った一つの理由であるわけなのですが・・・

それも、正義感が中庸になっていなかった・・・行き過ぎていた、ということであり、ゼロにせよ、ということではなかったのかもしれません。

いずれにしても、意識してやってみようと思っていますが・・・果たしてどうなるでしょうか?

気づいた方々は、どう感じるでしょうか?




さて・・・・船井幸雄さんですが・・・
2008年11月28日の「今知らせたいこと」ですが、運命は決まっている、と言い切っているように読めます。

(引用)

われわれは定められたように生かされているのか?

 先週のことです。
 ある友人から言われました。
 『船井幸雄.com』の
「船井幸雄のこの人いいよ!」に11月10日付で載せておられる伊達巌さんのことと、彼が紹介していた「聖書の暗号」について読みましたが、本当ですかね?
 …との質問です。
 私は「本当だと思いますよ」と答えました。
 皆さん、ぜひ、このホームページの文章は読んでほしいのです。
 3000年以上も前につくられた旧約聖書を、ある手順で解明すると「私=船井幸雄」のことが詳しく出てくる(?)…ということを知ったのは今年のはじめです。
それの一部は、今年3月に徳間書店から出した私と中矢伸一さんの共著
『いま人に聞かせたい神さまの言葉』の中に、解明者の伊達巌さんの名前とともに少し紹介しました。
 彼は一週間ほどもかけて、私や中矢さんのことを調べてくれたのですが、船井=経営コンサルタント、中矢=日月神示、などが浮び上ってきたということでした。
 さらに11月10日付けの
「この人いいよ!」では、「日月神示のイシヤ(一四八)はフリーメーソンを意味しているようだ」とも書かれています。
 これらのことは、個人のことも、世の中の動きも何千年も前に、だれかによって定められており、われわれはそのとおりに活かされている…と考えねばならないことなので、やはりおおいにびっくりしました。
 しかし、私は8年ほど前から「どうも地球人の生涯は決められているのではないか?」と思っていました。
 2003年にビジネス社から発刊された拙著
『この世の役割は「人間塾」』の20ページから32ページに「私の過去をほぼ100%当てたインドの占星学者」と題して、スブラマニアン・ティルムルガンさんのことを書いています。
 そのはじめの方(20〜22ページ)を次ぎに紹介します。                           

 
(I)私の過去をほぼ100%当てたインドの占星学者

驚異の的中率

 いまから三年前のことです。
 インド人が三人、訪ねてきました。紹介者がいたのですが、忙しい時でしたから、いきなりやって来られたときは一瞬困ったなと思いました。ただ、私の親友の紹介者(
「トータルヘルスデザイン」の近藤洋一社長)と一緒だったので、とにかくお会いすることにしました。
 それがスブラマニアン・ティルムルガンという占星学者との出会いです。彼が習熟しているのはインドの占星学の中でもいちばん基本になる「起源占星学」だと言っていました。
 「船井先生、あなたは特別な人のような気がします。だからこの起源占星学で、あなたの過去から未来まで観てみたいのです」
 そう言って、私の生年月日、生まれた時間を訊(き)いてきました。それさえ分かれば「誕生チャート」(運命図)ができるというのです。しかし私は、自分の生まれた時刻までは知りません。すると彼は、出生時刻は自分らで計算して出しますからといって、いくつか質問をしてきました。
 私の父の男兄弟でいま存命中の人の数、母の女兄弟の生存者数、生きている私の兄弟の数、そんなことを訊かれたように記憶しています。それを基に、三人は十分間ほど計算をして私の生まれた時刻を割り出したのです。
 「船井先生、あなたが生まれたのは朝の五時二十五分です」
 いきなりそういわれても、私自身、自分の出生時刻を知らないのですから、何とも返事のしようがありません。そこで怪訝な顔をしていると、ティルムルガンさんはこういいました。
 「この時刻は間違っていないと思いますので、とりあえずこれであなたのチャートをつくります。それに従ってあなたの過去について申し上げますから、当たっていたら私を信用してください」
 それから五分から十分ほどかかってチャートをつくると、まず母の妹、つまり叔母のこと、次には私の娘や息子たちのことをズバリといい当てたのです。
 叔母は当時、重い病にかかって私も心配していたのですが、ティルムルガンさんは叔母が病気であることを見抜いたうえで、「心配はありません。病気は治ります」といったのです。実際、叔母はいまでもピンピンしています。
 子供たちについては、各人各人の性格や行動のポイントを見事にいい当てました。実際そのとおりなのでびっくりしました。
 それで、彼の言うことを真剣に聞きはじめたのです。ティルムルガンさんは私の過去と未来について、いろいろなことをいいました。当然、未来のことは分かりません。だから未来の予言は別にして、過去だけについていえば、彼の指摘は九十九パーセントといっていいほど当たっていました。驚異的な的中率です。
 起源占星学は本物のようだと思いましたので、私が主宰している「直感力研究会」と「フナイ・オープンワールド」で、ティルムルガンさんを多くの人に紹介することにしたのです(転載ここまで)。


 興味のある方は、同書をお読みください。
 ともかく一流の占星術師や易者の言うことはよく当るのです。
 これは、われわれの生涯は、何かで定められており、その読み方が生年月日や時刻をはじめ、いろいろなところに分るようになっているということだと思います。
 私はこのように定められていることが大嫌いですが、聖書の暗号で、よりその感(定められているようだ。おもしろくない)を強くしました。ともあれこれは「びっくりする」ことです。
 もちろん、必要があって定められているのでしょうから、文句は言えませんが、あらためてびっくりしました。
 ぜひ読者も
「船井幸雄のこの人いいよ!」の11月10日に発信した伊達さんのところはお読みください。
                                            =以上=

 

(以上)

で・・・普通の人が、この「運命は決まっている」という事実を理解してしまいますと・・・おそらく半廃人のようになってしまうと感じます。
私がそうでしたので・・・他の人が同じとは限りませんが・・・

で・・・私は、試行錯誤して、「自力50%、他力50%で、やったと感じて、初めて他力50%である」と感じはじめました。

もし、廃人になりそうな方は、是非、これを参考にしてみてください。

「自力50%、他力50%で、やったと感じて、初めて他力50%である」とは、決起パルスがどこからこようが、潜在意識がゼロになろうが・・・
いずれにしても、「やってみよう」という意思のようなものが現れ、それに対して積極的にといいますか、素直にといいますか、従ってと言いますが・・・それがあって初めて、ものが動き出すようだ、ということです。

他力100%とは、何もしない、ということではない、ということですね。
意識して、とは少し違うのですが、何らかの「それ行け信号」に素直に動く、というのが自力50%です。

ですので、高次元的他力100%とは、人間的には、他力50%自力50%・・・ということです。

まだ、完全なものではありませんが、もしよろしければ、お試しください。


気づいた方々は、どう感じるでしょうか?




で・・・ぎっくり腰ですが、60%治りました。
で、先週はさすがに毎朝の腕立て伏せ、腹筋はやらなかったのですが、昨日シャワーを浴びる時、鏡を見ますと、腹筋が割れているのです(驚)。

てっきりぶよぶよになっているのかと思いきや・・・です。
で、考えて見ますと、おそらく、相当に腹筋、と言いますか、前側の筋肉を使って先週は行動をていたのでしょうね。
何せ背筋と言いますか、後ろ側の筋肉がぜんぜん使えない状態でしたので。

「そういうものか・・・」と感じました。
(食欲がなく痩せた、というのもひとつの原因だと感じますが)

気づいた方々は、どう感じるでしょうか?




さて・・・
少し前ですが、逆遠近搾取、というものをテレビでやっていました。
2次元の絵なのですが、その絵を見ると、へこんでいないのにへこんでいる、出っ張っていないのに、出っ張っているように見えてしまう絵です。
森田健さんのサイトに時々載る騙し絵と同じようなものです。

で、そう見える理由として、テレビでは、「長年の記憶、経験で目、脳がだまされる」ということでした。

このありようは、潜在意識により、間違えた・・・あるいはそのような3次元世界が具現化される、というものと似ていますね・・・

ふと思いましたが、ご飯・味噌汁・焼き魚よりも、ステーキ・パン・スープの方が、豪華に見えるようなことがあるとすれば、きっと似たような現象でしょう。

記憶を一度ゼロにしてみるとよいのでしょうね・・・

潜在意識という言葉に私などはとらわれがちですが、ヒューレンさんも書いているように「記憶をゼロ」というのは、とて潜在意識よりも身近で、そして正しいのかもしれないな・・・とも感じています。

もちろん潜在意識もゼロ、で良いのだと感じていますが。



気づいた方々は、どう感じるでしょうか?



ひとつ気付きましたが・・・
「生きたい」、「自分らしく生きたい」という心の叫びを感じました。

こういう言葉は精神世界の本などで大切なこととして智識として読みはしますが、それはあまり効果がないようです。
自分がそう言っているのを気付いて初めて意味といいますか、効果といいますか・・・そういうものがあるのだと分かりました。

で、なぜそういう根本的なことを忘れていたかですが・・・
いつの日には、「生きたいと思うから、嫌なこと、怖いものがあるのだ。死んでもよいと思えば怖いものなどない」と思うようになったっようですが、どうもそれが3次元的原因のように感じます。

そこには、つまり「死んでしまえば、すべてなくなる」という発想があるわけですが・・・
「生きたい」、「自分らしく行き続けたい」(生きる、の方に重点がかります。自分らしくよりも)という心の叫び、というのは、自然に沸いてくるのですが、そういう信号がきますと、イコール「死んでゼロにしたい」という発想と結びつくような心の流れができあがっていたように感じます。

そして、肝心の「生きたい」は顕在意識には上がってこなかったのですね・・・ずっと。

ここしばらく・・・


新説2012年地球人類進化論 (単行本)

中丸 薫 (著), 白峰 (著)
出版社: 明窓出版 (2008/02)  発売日: 2008/02

を、読んでいるのですが、そこで、中丸さんが、「どうやって」の次には「なぜそう思うのか、を考えてみる」というようなことを書きていますので、ちょっと意識していました。

そのせいかどうか分かりませんが、ある時、ふとそういう・・・「生きたい」という言葉が浮かんできました。

「どうして、こうさまざまな不満や欲求があるのだろうか?」と考えていましたら、出てきたのですが、これまでは「この余裕、不満は解消されないだろう。それなら死んでしまおう」式になっていたわけです。
おそらく、それは、「生きたいと思うからそういう欲求、不満があるのだ。いつでも死んでやると思えば良いのだろう」という逆説的な潜在意識によってもたらされていたように思います。

で、心に確認してみたら「生きたい」、「自分らしく生きたい」という声が聞こえてきたわけです。

「生きたいから、そういう場所に移りち」、「生きたいから、こうしたい」・・・

気付いた方々は、どう感じるでしょうか?




さて・・・

国際評論家小野寺光一によりますと・・・
http://www.asyura2.com/08/senkyo56/msg/379.html より引用
(他もメルマガにも書いています)

今回のネット弾圧法案は、自由な言論を封じ込め、政治での虚偽を隠ぺいしよう
とするものです。電子メールを送信しただけで罪に問うなど、まったく現実的で
はなく
めちゃくちゃな法案です。
解釈次第で、人が個人的に誰かにメールを送って、「この映画いいよ」
とすすめるだけで処罰にされることもありえるとんでもない法律です。
特定商取引法には占いまで含めるなどということになっていますが、
誰かに占いのサイトを「これ面白いよ」といってすすめるだけで
罰金が100万円ということにもなりかねません。
また、何かの本をこのサイドで売っていると紹介したりするのも
だめとなってしまうかもしれません。
こういったひどい法案の背景には、小泉政権以降「なんとかして言論弾圧して
真相を隠したい」という勢力がいるからではないかと思います。

(以上)

ということです。

またテレビで報道もせずに、変な法律が決まっていたようですが・・・

 

ただ・・・小野寺さんの情報は貴重だが、読むと、暗くなる、嫌な気分になります。
本当(事実の報道)のことなので、しかたがないのですが。

応援はしているが、ベンジャミンさんも似た傾向があります。
最近少し変わってきたように感じますが。

こういう悪い波動を流す、というのも、裏の権力の作戦の一部であるわけですが・・・
そう考えますと、なんだか分かりません。

解決方法や希望の持てるような言い回しをしてくれると、よいと感じますが・・・
気づいた方々は、どう感じるでしょうか?



さて・・・
「新説2012年地球人類進化論 」も読み終わり、どうしようかと思っていましたが・・・
帰りに田園調布の本屋さんに寄って、何かあれば買ってみよう、と思っていました・・・。

で、帰宅の途中、なぜか蒲田の駅で、上記本のあとがきにある「白峰さんが白峰という名前で本を書くのはこれが最後で、これからは今中悠天という名前で書く・・・」ということが思い出されました(?)

・・・帰宅時ですので、駅は人が多かったのですが、理由も無く、「今中悠天、と唱えたら、私の前に人がいなくなるだろうか?」と思い唱えてみますと、いなくなります(笑)。

「本当かな?」と思い、何度かやってみました、そうなります。
「ふ〜ん」とだけ思って電車に乗り、駅に着き、本屋さんへ行きました所・・・
何と、知りもしない、白峰さんの新しい本が置いてありました(驚)。


超予測2012 地球一切を救うヴィジョン―なぜこの宇宙に「日本というひな型」が作られたのか (単行本)
白峰 (著)
  • 出版社: 徳間書店 (2008/12)
  • ISBN-10: 4198626197
  • ISBN-13: 978-4198626198
  • 発売日: 2008/12

    というものです。


  • 白峰さんの本を読みますと、いつも、読んでいる最中、変化と言いますか、いろいろ起きますので、体がついていくのが大変なのですが・・・
    どうも、2冊続けて、白峰さんを読むことになりました。

    楽しみです。


    気づいた方々は、どう感じるでしょうか?



    森田健さんの不思議研究所http://www.fushigikenkyujo.com/menu.aspですが・・・
    六爻占術のトラさんは、とても知りたい、という気持が強いそうです。

    (引用)
    彼らの「知りたい」という「趣味」は、限りがなさそうです。
    (以上)
    ということですが・・・

    知っているだけではだめ、できる、ということに意味がある・・・というようなことを井出章彦さんhttp://raphaelchama.thd-web.jp/などは書いていますが・・・
    もちろんトラさんという人は、なんでもできるようですが・・・

    知りたい、の後にやってみたい、という気持がわいてくることもあるのですが、ただ、知りたい、やってみたい、できるようになってみたい・・・というはじめに沸いた欲求に素直に動いてみる、というのが、おそらく50%の自力・・・50%の他力・・・つまり本当の100%の他力であるのかもしれないな・・・と感じます。

    基本的に知りたい、と、やってみたい、できるようになりたい・・・
    違うように感じます。

    ビートルズの音楽をもっと知りたい、ビートルズのことをもっと知りたい、と思ったことはありますが、ビートルズお曲を演奏できるようになりたい、とはあまり思いませんでした。

    世良譲さんのようにピアノを弾けるようになりたい、と思ったことはあります。
    世良譲さんのことを知りたい・・・と自発的に思ったことはないのですが・・・結果、知り、結果、戦後のことなどについて知った、ということはあります。

    ですので、知ることよりできることが上、ということもないのだろうな、と感じます。

    気づいた方々は、どう感じるでしょうか?



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