*** メインコーナー ***

旧理由もなくこればかり聴いてしまうCDのコーナー       

 

 

もくじ



さて・・・
最近、精神世界がつまらなかったのですが・・・というか無意識ですが、なんとなくそう感じていたように思う、ということですが・・・
なぜかというと、日月神示によれば、次元上昇を超えられるのは、全体の3%、ということなのですが、こうなますと、正直言って、私は残れる自身はありません。
これから死ぬ氣で努力してもです。

変な話、よくテレビで見る芸能人が地方を訪れて現地の人と接触する番組などを見るたびに、
「ああ、この人たちは全員私より精神レベルも人間性も上だな。こんなに精神レベルの高い人がいるのに、3%しか創造主の意思に沿っていないだなんてことであるなら、ますますもって、私のような種類の人間が、次元上昇を超えられるわけがない。それなら、せめて、入ってきた情報だけでも、できるだけ出して、私より、次元上昇を超えられる可能性の高い人に役立ててもらおう」
のように思いていました。

こう考えたのは私だけでしょうか?

いいですか、3%ですよ。
50人に1,2人、100人に3人、1000人に30人・・・
私の年代は、まだ子供が多かった方ですので、大学入試などは、どこの大学を受けても大抵30倍以上でしたが・・・30倍とは、30人に一人です。
それの3倍以上です。
しかも、世界中で、です。

自分と似たような偏差値の人の中で、ではなく、世界中でです。



あなたの会社にだって街にだって、あなたより、人間性が優れていると感じられる人は、何人もいると思うのです。

それをきっと単純計算しただけで、人口の20%くらいはいるのではない
でしょうか・・・50%かもしれませんし。

ですので、どうあがいても、「3%には入れない」と感じました。


で、私はそう感じたわけですが・・
そうなりますと、精神世界というものに対しての興味というものは、もはや自分が生き残るというようなことではなくなってきます。
それでも、興味がありますので、「それでもいいや」、と思っていたのですが・・・

しかし、どうもそれではつまりませんので、とにかく、「3%に入ってみせる」、3%にはいることを”目標にしてやる”と思うことにしました。

気付いた方々は、どう感じるでしょうか?




何がそう思わせたのか・・・
良く分かりません。

ただ、ここしばらくひっかかっていたのは・・・

日本はなぜ神道なのか (ワニ文庫 P- 161) (文庫):中矢伸一(著):ベストセラーズ (2008/3/19)  で、中矢さんが、「気付いた人から型を見せなくてはいけない」でしたか、「神の国である日本人が型を見せなくてはいけない」だったか・・・私にとってじゃどちらでも同じなのですが・・・そういうことを書いているのですが、それです。

私はおそらく日本人の1000人に一人くらいしかやっていない「肉を食べない」ということをやっている一人ですが(ほぼ完璧:笑)、あるいは「争わない」ということをやっている一人(たまに争う:笑)ですが、残念ながら、今のところ、「肉を食べないからだめなんだ」、「逆らってきたり、いどんできたりするやつがいたら、やっつけけてやるようでないからだめなんだ」とは言われても、「ああ、あの人がやっていることなら、私も真似してみよう」とは、到底言われないような感じですので、型の「か」の字も示せていません。

ただ、それでも今までは、まず第一に「何をやっても3%には残念ながら入ることなど無理である。それでも、どうしてもやりたいので、やっているだけである」という考えがありますので、私的には「それでも構わない」というところがありました。

しかし、それでは、やはり「つまらない」のですね。
つまらないどころか、変な悲壮感すら出てきてしまいます。
これは、波動的には、いけませんね。

ですので、良く分かりませんが、「次元上昇してやる」と思うことにしました。



とは言え、今も、「ウルルン滞在氣」などという番組を見ていますが・・・
今日は、宮元亜門さんですが、この人も、どこかの国のこの人たちも含めて・・・この人たちが次元上昇できない、というのなら、私も絶対できないだろうな・・・と感じながらみています。

どう考えても、私よりすばらしい・・・そう感じてしまいます。

「田舎に泊まろう」を見ていてもそう感じます。


一体、何がどうだと次元上昇できる、と日月地大神様はおっしゃるのでしょうか?

何がどうだから、もしできないとするのなら、「彼らはできない」とおっしゃるのでしょうか?


それでは、残れるはずがないということは、誰の目にも明らか、で、残ることにしました・

テレビもない、文明にも毒されていない、みんなのため、を考えて行動している、明るく朗らかで、人を落とし入れようともせず、一般的日本人にょりも、はるかに感謝をして、自然と一体になって生き・・・

まったく分かりません。


それでも、とにかく、次元上昇してやろう、と思っていますが・・・

それでも彼らは、私の目には、すでに日月神示で言われている基準を完了していると思えてなりません。

だれが、この問いに答えることができるのでしょうか?


もし、私が答えるのなら・・・「3%」という数字が真実ではない可能性がある・・・となるでしょうか。

あるいは、「3%」とは、先進国の中では・・・ということであるかもしれない・・・でしょうか。


このどちらかであるのなら、今の私には納得がいきます。

それでも、次元上昇に残ってやろうと思うことにしましたが。

気付いた方々は、どう感じるでしょうか?




先だってのテレビのヘリュームの実験の番組ですが・・・
主に空気を媒介として音を出す楽器では、空気の変わりにヘリュームを満たした環境では音が高くなるが、バイオリンのように弦楽器では、ヘリューム環境でも音程に変化が無い・・・ですが・・・

そういうものかと思えばそうなのですが、弦楽器だって、弦はなるが、結局その音は空気が振動して耳に届くはずなので、音程に変化が現れても良いのではないかと感じますが、どうなのでしょうか?

いくらかは変化しているのでしょうか?
その変化の量が少ない・・・なら分かるのですが。

精神世界で言われる波動とは・・・科学でもそうですが・・・物質を構成している最小の単位が、「・」ではなく「線」状のものであると考え、弦のように振動している、そしてそれぞれが固有の波動を持っている、ということですので、ありようは、正にバイオリン理論です。

となると・・・物質の出している波動というものは、少なくとも空気とへヘリュームでは、何の変化もないだろうな、と想像します。

しかし、確か・・・宇宙を想念は銅が伝わる時、それは「何らかの物質」を媒介とするので、超高速である、ということだったように思いましたが、これは伝わる際に、「音程の変化」に似たような現象は起こさないのだろうか?などと感じます。

だからどうなるのかは、よく分かりませんが。
ただ、そういう疑問が少しあるけれども、大きな問題ではないのかもしれないな、と感じただけです。

気付いた方々は、どう感じるでしょうか?



で・・・藤原直哉さんのネットラジオhttp://www.fujiwaraoffice.co.jp/ですが・・・
なんでも夏休みを取る、ということで、土曜日にはアップされていました。

なかなか興味深いことを話しています。

「洗脳からさめはじめた日本人」というタイトルですが・・・
その中で、「洗脳からさめてしまうと、もう会社で働き続けることができなくなってしまうので、洗脳からさめることを自ら拒否している人がいる・・・」というような内容を話しています。

これは、自民党の人などが、最近のいろいろな間違えた政策に対して「いいや、絶対に間違っていません」というのにも通じているように感じます。

要するに過去・・・というより、過去完了とでもいいますか、過去と、過去につながる今と否定していまうと、また「1」からやり直さなくてはいけませんので、過去やってきたことの努力とやり直すことに費やされるエネルギーという問題がそうさせているのでしょう。

いろいろあって、今日入手できた「にんげんクラブ7月号」の会報で、岡田多母さんが、高次元的な能力に目覚めた時のことを書いていますが、そこで、自分以外の多くの人の心について、「全員がうそをついている。こまかしている」、「誰も本心を求めない」。「本当は何となく分かっている氣はするけれども、できるだけその心の声を聞こうとしない」、というような内容を書いています。


これらはすべて一緒の話のように感じます。


そして、私もよく分かります。

トイレに行きたい時など(すみません)、どうしてもいけない事情のある時は、こまかしますね、自分の本心を。
あるいは、「忘れよう」としたり。

これはやむにやまれない事情があるケースですが・・・
正そうとは言え、ほとんどの場合が、やむにやまれぬ事情と言えば、確かにそうではあります。

とは言え、不思議研究所の孫さん瞑想で孫さんは「瞑想の途中でもトイレにいきたくなったら行きますし」でしたら、「おなかが空いたら食べます」でしたか・・・そういうことが書かれています。

ですので、仮に瞑想がものすごく大切なことだとしたら、高次元的には、「それでも、やむにやまれない理由にはなりません」ということかもしれません。


たとえば、食品メーカーの人が・・・「黄色3号を使うと、今に日本人がみんな病気になってしまう」だなんてことを真剣に考えたら、新たな一歩を踏み出さなくてはいけないわけです・・・場合によってはすべてを投げ出して。

それよりは、普通は、「仕方が無い」で誤魔化して、そのまま働き続ける、気付くのを止めて、そのまま働き続ける・・・ということをする方が簡単でしょう。


佐野元治さんの歌で「一歩踏み出せば誰もがヒーローさ。たとえ、それが、だれかの罠だとしてもだ・・」という歌詞がありますが・・・
言いても妙ですが・・・
「一歩踏み出せば誰もがヒーロー」かもしれませんが、その先のストーリーは成功物語かどうかは、分かりません、というのが、「踏み出せない」理由です。
「分からない」をして「誰かの罠」と言っているのか・・・
「踏み出せない理由」をして、「誰かの罠」としているのか・・・
あるいは、「悪いやつにおびき出される」ということを言っているのか・・・

それとも、創造主の作ったストーリーをして「罠」としているのか・・・
この場合「罠」であれば、それは正に比ゆですが・・・。
要するに運命通り・・・ということなのだと感じます。


で・・・私は、「つまらないので、3%に入って、次元上昇を超える」に決めたわけですが・・・これをして「一歩踏み出した」とするなら、その先にあるものは「罠」でしょうか、それとも、運命通りに進んだのでしょうか。

「運命通りに生きれば、運命の方で勝手に更によい方向に変わってくれる」、は森田健さんですが、果たしてどうでしょうか?

私はつまらないので、そうしただけですが。
理由があるような、ないような・・・


気付いた方々は、どう感じるでしょうか?







さて・・・
にんげんクラブ7月号の会報、岡田多母さんのインタビューですが・・・
岡田多母さんは、いわゆる日本語の表現では「未来は自分で造る」という内容の言葉を言うのですが、このインタビューでは、「未来からの情報で未来を作る」ということを言っています。

森田健さんと岡田多母さんが同じようなことを書く、ということをしばしば書きますが・・・
また、「言葉はその人のものでしかない」ということもしばしば書きますが・・・

岡田多母さんの知っている事実というものは、いわゆる一般的日本語による「未来は自分で造る」というものとは違うかもしれないな・・・と感じています。

もちろん、それは森田健さんも、その他の全ての人・・・私も含めて・・・みなそうで、その人の感じていることと、一般的日本語の解釈から得られるものが、その人の言いたいことをきちんと伝えているのかどうかは、必ずしも分からない・・・100%伝わっているとは限りませんが。

で・・・にんげんクラブ7月号から引用しますが・・・
(引用)

世の中を変えたい、良い未来を作りたい、と思ったら、必ず人はそれを創造できるんです。
何かの革命を起こして、今までの何かを改善するのではなく、未来からの情報でつくることができるんです。
たとえば、エコロジーで、プラスチックなどのゴミを原料として何かに作り変えても、もとのデータは残りますよね。
愛の花園と呼べる良い未来はそういうつくり方ではないと思います。
今のものを改善していっても、その延長線上のものはできあがっても、全く本当のものはできない。
アセンションは、そういう形ではないと思うんです。
今のものを全部あきらめて未来からのインスピレーションでものをつくる
希望から希望を生み、病んだものを力強くかえるのではなく、力強さから力強さを有無んです。
憎しみから愛が生まれることは難しいです。
愛は愛からしか生まれない。だから、今の延長ではなく、未来からの情報で未来を作りたい。
そのためには、まず愛し合い、友愛を持つこと。常に新しい自分で生きること。
そのことを、今一番中心としてやっています。
(以上)

「今のものを全部あきらめて未来からのインスピレーションでものをつくる。」

ここには、「あきらめる」、「未来からのインスピレーション」という2つの大きな言葉がありますね・・・。

気付いた方々は、どう感じるでしょうか?

 

さて・・・

岡田多母さんの「ラブコール あなたへ」
http://tamo.thd-web.jp/ですが・・・



人間には二つの面がある

ひとつは動物
もうひとつは神

(略)


動物を抑えて神を満足させる…
動物は反抗し攻撃する

そうなれば、人間の内側で混乱や暴力、葛藤が増すばかりだ
そのうち外側へ溢れてくる!

神を抑えて、動物を満足させる…
そんなことはありえない!
生命は、そんなことをしたら破壊されてしまう!


(略)


すべての二重構造的二重存在を、思惟してみる―

すなわち
観照すること…

過去でもなく未来でもないところで…

過ぎ去ってしまったものを持ち出さず、こだわらず、すがりつかず、
未だ訪れていないものを渇望せず、願望せず期待せず


過去にも未来にも属せず
今この瞬間に
今ここに真実であれば

現在にとどまり
二つを超える!


ただあるがままにある…だけ
「私」は存在している…


観照するとき、人間はいない…
観照者、見守る者となり、存在が目撃して在るだけ…
アハハ…


闘いはなく
暴力はなく
葛藤も渇望もない
もちろん緊張などみじんもない



ただ観る者であるとき

特定の人物も、人間も存在していない…

純粋に単純な「在ること」だけで

まさに
自由そのものだ―


無碍自在―

はてしなく
私は在る…  


(以上)



人間には、動物の面と神の面がある・・・
しかし2つの矛盾するものを見ている限り、永遠に不満足である。
そうではなく、今だけ観測する、ただあるがままだけに私は存在する・・・
すると、争いも、葛藤も緊張もなくなり、自由そのものとなる・・・

というような意味でしょうか・・・


で・・・
先だって、さだまさしさんがテレビで、通り魔事件の犯人をして、
「彼だって、途中で子供が溺れていたら助けたでしょう。つまり、防ごうと思えば防げる事件だった、ということです」
というような内容を言っていました。

私は似たようなことをと時々思ったりします。


あるいはこういうことも考えますが・・・
小学生の時、美術の授業で自分の紋章を木に刻む、というものがありました。
先生は(なぜか私を評価してくれた、数少ない先生)、「以前、世が世なら、お殿様であったすごい紋章を持ってきた生徒がいた・・・」

その時から「世が世・・・で変わるものもあるのか・・・」と気付きました。

思えば、これが、よく書く、星新一さんの「門」への興味に通じるのかもしれませんが・・・



過ぎ去ってしまったものを持ち出さず、こだわらず、すがりつかず、
未だ訪れていないものを渇望せず、願望せず期待せず


は、「反省」と「願望達成法」の方面から見ますと、逆ですね・・・



・・・学校の先生に復讐した、という事件がニュースでやっていますが・・・
これは、思うに、おそらくこの人の「今」が混迷しているのでしょう。
そして、どうしてそうなったのかの「理由」を自分なりに考えた結果、「間違いなくあの先生のせいだ」となったのではないでしょうか?・・・創造の域を出ませんが・・・

しかし、本当は理由なんかないようです・・・
といいますか、理由はあるのでしょうが・・・

もし、この方が、船井幸雄さんの本を読んでいるような人であれば、理由を「裏の権力」に求めたかもしれません。
よく分かりませんが・・・
確かにそれもまた事実でしょうが・・・


私は、運命で決まっていないものは、願望達成、波動などで、変えることは可能であると確信しつつあります。
しかし、決まっているものは、決まったとおりにしかならないようです。

但し・・・どうも・・・
岡田多母さんによれば・・・
今の自分を改善するのではなく、未来からの情報、あるいはインスピレーションを感じることにより、まったく新しい自分を創るということはできるようです・・・

森田健さんに似ていますが・・・

どうも、真実のように感じます。

気付いた方々は、どう感じるでしょうか?

 

 

メルマガ「船 井 幸 雄 流  本 物 時 代 の 生 き 方」

が届いていますが・・・


(引用)

━━━━━━━━━━━━━━━━今週の船井幸雄のメッセージ━

●皆さん、こんにちは!船井でございます。

 人はやはり自分のことが大事ですから、どうしても自分のことを話したり、自分の意見を主張してしまうことがよくあります。

 しかし、相手の人にとっても、自分自身は大事なのです。あまり主張しあわないほうがよいでしょうし、できれば自慢もやめたほうがよいと思います。

●自分自身のことはあまり過大評価しても
  ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
 よくないようです。もっとも、必要以上に
  ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
 過少評価する必要もありません。
  ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^


 大事なのは、分相応の姿勢だと思います。
 今回は、そういったことについてお話をしたいと思います。

 どうぞじっくりお読みになってください。
 よろしくお願いします。
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
                               
     【今週の船井幸雄のメッセージ】  
           
     
 「分相応に、多少謙虚に、ひかえ目に生きて
           いくのがこれからの正しい生き方です」
                               
┗━━━━━━━━━━━━━船井幸雄流 本物時代の生き方━┛

●自分の力相応のところで、多少謙虚に、ひかえ目に生きていくのが、もっとも人からみとめられ仕事ができるようになるのだと思います。

 背伸びをやめて着実に力を貯え、人から
 ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
 本物だからと押しあげられる方が、
  ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
 時流に合っているように思えます。
  ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
 生地のまま生きる。そして努力する。
  ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

 それが、これからの正しい生き方の
  ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
 ように思えてなりません。
  ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
               
             (船井幸雄談)


●謙虚であり続けるというのはむずかしいことですね。謙虚とへりくだりもまた異なるわけで、本当の謙虚さというのは、

 「背伸びをせずに分相応に生きること」という船井会長の意見は、身にしみてよくわかる気がします。


●人は、無意識に自己主張をしてしまう
  ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
 動物であるという指摘もありますが、
  ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
 だからこそ「多少(意識して)謙虚に、
  ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
 ひかえ目に生きていく」ことが、自分自身
  ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
 の成長という側面から考えてみても、
  ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
 必要なのだと思います。
  ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

 本当に力をつければ、自分から主張する必要は少なくなってきます。周囲から押されて、担ぎあげられるくらいになれるのが理想の生き方なのかもしれません。

 私もこれまで、いろんなとき、いろんな場面で背伸びをしてきたように思い返しています。最近、かなりフラットに生きられるようになってきた気はしますが、まだまだ修行中の身。

 「生地のまま生きる」という領域へは、もうしばらく時間が必要なのだと思っています。肩の力を少しでも抜いて、あるがままの自分を表現し、その一方で、成長するための学びを継続していく……。

 しばらくは、こんな日々をおくっていきたいと思っています。

             (文責・佐野浩一)

(以上)

 

という長いメルマガです。

謙虚について書かれています。
     
 「分相応に、多少謙虚に、ひかえ目に生きていくのがこれからの正しい生き方です」

多少謙虚にひかえ目に・・・ですので、私がよく書いている内容と同じになってきて嬉しいです。

で・・・なぜ「多少」が付かないとまずいか・・・ですが・・・

今の人・・・私を含めて、点数主義によって育っていますので・・・どうもそれが原因ではないか、と感じます。
点数というのは、限りなく上へ・・・です。
もちろんテストは100点がありますので、そこで止まることができますが。
しかし、100点が五感で感じられないものは、上限なしなのです。

そうしますと、「これでだめなら、もっと点数を取らなくてはいけないのだ。もっと上へ進まないとだめなのだ・・・」と点数の軸をひたすら上昇することになるのだと感じます。

つまり、点数主義には中庸がないのです。

中庸が最もよい地点であります、なのに、仮に中庸の点から0.0001右にずれているがために、安定していない状態だったとしても、点数主義ですと、左に0.0001修正するのではなく、ずっと、ずっと右へ右へとづれていく・・・という習性になっているので、どんどん間違えた方向へ進んでいってしまう、というわけです。


私はこう感じますが・・・
気付いた方々は、どう感じるでしょうか?




で・・・
森田健さんが最近「積み上げの否定」を語る時がありますが・・・
私は森田健さんの言うことのいくつかは、私にとってはとてもむつかしく・・・おそらく多くの人にとっても、とてもむつかしい・・・特に”実践もの”についてはその傾向が強いと感じていますが・・・

そして、「積み上げの否定」も、また同様、そう感じるわけですが・・・

ただ・・・
先の岡田多母さんの書いたもの・・・

・・・にんげんクラブ7月号から引用・・・
(引用)

世の中を変えたい、良い未来を作りたい、と思ったら、必ず人はそれを創造できるんです。
何かの革命を起こして、今までの何かを改善するのではなく、未来からの情報でつくることができるんです。
たとえば、エコロジーで、プラスチックなどのゴミを原料として何かに作り変えても、もとのデータは残りますよね。
愛の花園と呼べる良い未来はそういうつくり方ではないと思います。
今のものを改善していっても、その延長線上のものはできあがっても、全く本当のものはできない。
アセンションは、そういう形ではないと思うんです。
今のものを全部あきらめて未来からのインスピレーションでものをつくる
希望から希望を生み、病んだものを力強くかえるのではなく、力強さから力強さを有無んです。
憎しみから愛が生まれることは難しいです。
愛は愛からしか生まれない。だから、今の延長ではなく、未来からの情報で未来を作りたい。
そのためには、まず愛し合い、友愛を持つこと。常に新しい自分で生きること。
そのことを、今一番中心としてやっています。

(以上)

ですが・・・岡田多母さんも、「積み上げ」を否定していますね。
つまり・・・欠点を是正して、今あるものを良くしていく、というのではなく、未来からのインスピレーションを得て、全く新しいものを造ること・・・
を語っているように読めます。


欠点是正をしない・・・は船井幸雄さんと同じですが・・・長所を伸ばすのではなく、全く新しいものを造る・・・
気付いた方々は、どう感じるでしょうか?







不思議研究所のサイトで、森田健さんが「良い人として生きることと、悪い人として生きることと、どちらがよいと思いますか?」と書いていますが・・・

実は、ここ数週間くらいでしょうか、「良い人であることを捨てると楽になる」という言葉が少し気になっていたのですが・・・

この言葉は、自己啓発のコーナーに行きますと、ほんのタイトルとしてしばしば見かける言葉です。
だれでも、この言葉から「そうだろうな」とは思うと感じます。

但し、「自己中心的なやな奴、変な奴になってしまわないだろうか?」とも思う人は多いと感じます。
私もそうです。

で・・・そういうタイトルの本を読んだかと言いますと・・・読んでいません。
なぜかと言いますと、高次元的なことが出てきそうにないな、と感じたからです。


で、森田健さんはどうかと言いますと・・・
(引用)

 「トラさんの考え方はこうです。
 良い人は、自分が悪いことをしないように行動に規制をかけています。すると次第に体を悪くしてしまうというものです。
 自分に規制をかけているからリラックスできず、周囲からの色々なサインも見逃して、事故にも遭いやすくなるというものです。」

(以上)

ということです。

で、どこかに高次元的なものがあるかどうかは、別にして・・・
まず、「ああそうだな」と思うのは、「悪いことをしないように規制をかけている」ということですが・・・

「良い」を選んでいるのではななく、「悪」にならないように、「規制」をかけている・・・のが、「良い人」を目指している状態なのですね。


私は実際多くの規制をかけています。
たとえば、私はとても熱情的(情熱的でもよいですが)ですので(よく言えば)、一度火がつきますと、止まりません。
いわゆる良いことに向いているなら、半分くらいしか問題はにのですが・・・
「こいつと刺し違えてやる」と思ったことも数知れません。
但しそうしますと、大抵、相手が逃げてくれます・・・
私が強いのではなく、運が良かっただけですが。

良い方向へ行っていても問題があるというのは、つまり、いくらか周囲が見えない状態になりますので、当然、無意識にだれかを傷付ける、ということもしているようなのです。

ですので、私はいつでも、「熱しないように、熱情的にならないように」を大事にしているところがあります。
実際、本当にそうしませんと命がいくつあっても、足りないな・・・と感じます。

私がどこか不健康なのは、このせいかもしれませんね・・・
相当強烈に抑えていますので。
大リーグボール矯正ギブス並みです(笑)。


他にも、規制をかけていることは、多くあると思いますが、また機会があれば考察してみようと思います。

で・・・そうしていると、「次第に体を悪くする」ようですが・・・

ただ、私の場合は、ちゃんと相殺されているのかもしれませんが・・・つまり、命がいくつあっても足りない状態にならないけれども、不健康・・・なわけですので、まあ・・・生き延びられているだけでも、相殺というより、プラスかもしれません。

ただ、良い人になるために、熱情的な部分に規制をかけているのかと言えば、そうではなく、命がいくつあっても足りないので、気勢をかけているわけです。

で・・・良い人になるためにも規制をかけているかと言えば、やはりかけているようです・・・
いろいろ思いますが、初めの会社の社長に「田中さんは、良い人だ」と言われたのが嬉しかったので、そうしているのだろうか・・・とも感じますし・・・

エゴの汚い人(強いというより汚い)があまりにも多いので、「そういう人間にはなりたくない」と何度も思いましたので、そうしているのか・・・
実際幼少の頃から極端に正義感の強い性格でしたので、そのせいもあるでしょうし・・・

但し、この10年くらいは、勧善懲悪というのは、間違いだ、と感じていますので、規制するまでもなく、極端さは昔よりは減ってはいるのですが・・・

しかし・・・良い人として生きるのは辛いことでもあります。
私は、なぜか、道徳的にストイックなものに惹かれてしまう傾向がありますので、そう考えますと、良かろうが悪かろうが、やってしまう、というところもあります。

但し・・・例によって八方塞状態になっていますので、「良い人として生きる」のを止めてみようかな?とも思っています。
別に「悪い人として生きる:というわけではなく、ただ、「良い人」はやめようかな、と思っているだけですが・・・

ただ、この10年くらいでしょうか・・・中身は別として、見掛け上「良い人」でないと、ものすごく行きにくい社会になっているようにも感じます。
どうでしょうか?

以前は、日本の社会には勧善懲悪は間違っているのは当然、という常識がきちんとあり、四角四面はおのずから間違え、ちょっとくらいずれているところがある人の方が「本物」である、というような認識があったようにも感じるのですが・・・

江戸っ子というのはそうですね・・・
私は父方は3,4代くらい東京の人ですが・・・
母方は、神奈川もいくらか混じっています。


で・・・「自分に規制をかけているからリラックスできず・・・」は、そうの通りです。
私はいつでも緊張しています。

奥底まで自分を探って行きますと、「怒らせないでくれ。頼む・・・」という意識が見えます。

健康に良くないですね・・・さすがトラさんです。


で、そうしますと、確かにいろいろなしんごうを見落とすかもしれませんね・・・

ですので、タバコを吸っている時が、いろいろ変わったことが起きたりします。
昨年の船井幸雄オープンワールドで、EM菌の比嘉 照夫 先生がぶつかってきたのも、タバコを吸っている時、ヒューマンカレッジで、船井幸雄さんが車に乗るところに出くわしたのも、タバコを吸っている時・・・
などなど・・・

きっと、「良い人」を捨てているからでしょうか・・・
私の家族は、父も母も、タバコを吸いますが、私は「あんなものは絶対に吸わん」と意地になっていました。
一度目の病気をした時、父親が、精神安定のために吸え、というので、いろいろあって、吸い始めたのが、32,3歳の時だったでしょうか。

で、確かに、タバコを吸い始めてから、いろいろな知り合いができるようになりました。
勧善懲悪を捨てたから、とも、「良い人」を捨てる瞬間ができたから、とも・・・いろいろ考えられますが・・・

で・・・北方謙三さんにはまっていた時が、私が一番「良い人」を捨てていた時、とも言えます。
実際、いろいろな人とも知り合いになりました。
但し、「刺し違えてでも・・・」が相当強くなっていて・・・それがいくらんでも、いけなかったのだな・・・とも感じます。

最も、その前のアイドル(?)が鶴田浩二さんでしたので、そんなに違わないのかもしれませんが・・・

但し、鶴田さんには、当たり前の「善」という建前があります。
日本人の心とも言えるのでしょうか?

北方さんの小説には、それは「ない」のですね・・・ハードボイルドですので・・・
ヘミングウエーが北方さんのアイドルですので・・・つまり、そういう「男」を感じられるなら、「何でもやるよ、俺は、」みたいな世界です。

但し、波動は悪いです。
荒いです。

変性女子とは、大違いです。

それでも、どこか今よりは「良い」のかもしれません。

その意味では、現在は、精神世界右翼に、自分で気付かないうちに寄っているのでしょうか?
そんなこともない、とも感じますが・・・どうでしょうか?

そう考えますと、鶴田さん、北方さんのマイナーチェンジくらいが、私にはちょうど良い・・・一番運の良い状態を作ってくれるのかもしれませんが・・・実際はどうだか、よく分かりません。

私の中庸は、そこら当たりに、あるのかもしれません。

気付いた方々は、どう感じるでしょうか?




もくじ

 

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