理由もなくこればかり聴いてしまうCDのコーナー

CDはたくさんあるのですが、なぜか、いつもこればかり聴いてしまうCDを紹介します。

 

 

 

写真はなし
   
   

さて・・・・・・講演会のレポート中ですは、なぜか書きたいことがありますので、そちらを書きますが・・・
魂の叡智日月神示:完全ガイド &ナビゲーション (単行本) 」中矢 伸一 (著):徳間書店」ですが、そこにあります、悪をやっつける、滅ぼす、ということではなく、悪に洗心してもらい、そして、みんな一緒に次元上昇できるようにすることが、唯一の次元上昇を乗り切る方法である、という内容ですが・・・

たとえば、219ページにあります、
(引用:219ページ)
『アイカギ  コノカギハ イシヤト シカ テニギルコトゾ』
(以上)(この引用は、書き間違えはありません)
などなのですが。

おそらくこれを達成するためには、”対等”の概念をしっかり持っている必要があるのだと感じます。

それはおそらくこの3次元で言われている上下関係を超えたもののように思います。
それは、当然神と呼ばれる存在に対してもそうであるでしょうし、そのほかの上下問わず、いなかる者に対してもそうなのでしょう。



で・・・どのように思えば良いのだろうか、と考えますが・・・たとえば神社のお参りなどで作法があるのですが・・・私も良く走りませんが、たとえば、鳥居を入るときには、端を歩きましょう・・・のようなものがあります。

これを霊能者の方などが説明する時には、「真ん中は神さまの通り道なので、失礼ですので・・・」というような言い方をします。
私はこれはどうなのだろうか?と感じます。

実はそうなのではなく、端を歩くというのは、「そうすれば神さまが通ろうとしても、逆の端を歩くのでぶつからなくて済みます。人間の社会と同じことです」という意味なのかもしれません。
そして、拍手を叩いて、頭を下げますが・・・これも、映画・テレビなどで、頭を下げている向こう側で、お殿様などがふんぞり返っているようなシーンを叩き込まれていますので、神さまもそうしているとばかりに思っている人がほとんどなのではないか?と感じますが、実はそうではなく、天皇がそうであるように、こちらが頭を下げている時は、仮に3次元的には”上”とされている存在である神もまた、同じように頭を下げていてくれているのではないでしょうか?

このように発想してみますと、おぼろげながら、”対等”の意味が分かってくるように感じます。

私の知っている限り、この対等を感じさせるものは、森田健さんと岡田多母さんにありますが・・・
要するに、所謂”神”です、と言ってきている存在と、対等に話し合いをしている、ということなのですが。



森田さんは、例のモンロー研究所の話で、フォーカス35を通り超えて、その上に行った時に、確か観音さまですとか、UFOですとか・・・そのような存在と出会いますが、その時の話・・・
岡田多母さんは、神示を送るから書きなさい、と言う神からの命令に対して、「この世での生活を味わいたいので・・・」と話を付けた、というクダリですが。
また、森田さんには、そのほかにも小学生のような観音様が現れたり、孫さんの「観音様(光の存在だったか、あるいは両方ともそういう話だったか・・・)、また遊びに来てね」という対等な態度の話などいろいろありますが・・・。



これらの話を読みますと、どうも、対等がある程度以上分かっていますと、いわゆる4.5次元にいる一定以上の修行を終えながらも、まだ完全には囚われから抜け切っていない存在(神)と、完全に囚われから脱した存在(神)とを見分けられるようです。

そして、どうも、森田さんの言っている快と岡田多母さんの言っている喜は、ほとんど同じものであるように思いますので・・・つまり、快、喜とは、どんな概念なのかが分かるようです。


私は自分でもいくらか実感していますが、どうも、この快、喜が字面では分かりますが、体感として完全には分かっていないように思います。

また、おそらくは私には4.5次元の存在とそれより上の次元にいる存在とを見分けるのはむつかしいかもしれません。

4次元(船井幸雄さん森田健さん式での次元)にいる神なら、見分けられるかもしれない、とも感じますが、森田さんの本を読む限り、4.5次元の存在は、今地球で出回っている多くのアセンション関係の本に書かれているのと同じことを言います。
(と言うより、4.5次元の神が、正に所謂アセンションの種類の本で書かれているような神示を送ってきている、ということなのでしょうか?)

私の知っている限りで、4.5次元の神と5次元の神を見分けられるヒントを与えてくれるのは、日月神示でしょうか。
それは、つまり、「いわゆる悪をやっつけてはいけない。一緒に次元上昇するほかに、方法はない」という内容に含まれているものですが。



で・・・その森田さん岡田多母さんの書いているものが、どのような話かと言いますと・・・確か一度、引用した覚えがあるのですが・・・もう一度引用するのは、大変だなと思いながらも、なぜか検索に引っかかりませんので、(どこに書いたか分かりませんので)もう一度やらざるを得ないだろうか・・・などと思っていますが(笑)・・・



左記の森田さんの本は、左がオリジナルで、右が加筆されて最近再出版されたものです。
左の本では169ページから、右では、117ページに、「UFOとの遭遇」という小見出しの文章が始まりますが、そこの辺りに書かれている内容です。

詳しくは下で書きますが、フォーカス35から空間的にひとつ上の次元に行った時に遭遇するさまざまな高次元的存在との話です。(時間軸での上の次元もあるようです)

その存在たちは、相当いわゆる修行を積んできた存在ではあるようです。
そしてよくある神示のような話・・・「愛が大事」ですとか・・・をするのですが、森田さんが問い詰めていきますと、どうも変なのですね・・・



そして、左が岡田多母さんのものですが、74ページから「神さまとのコミュニケーション」というみだしが始まります。

ここでは、岡田多母さんと神とのやりとりについて書かれているのですが、非常に興味深い内容です。
どうも、相手が神であっても、「鵜呑みにする」、「言われたことを疑わないで信じる」という姿勢ではなく、しっかりと話し合うことが必要なのではないか?ということを考えさせてくれます。

もっとも、森田健さん岡田多母さん、どちらの場合でも、まず当人が”真実”をある程度以上認識していますので、話し合いが成り立つのですが。

で・・・
読み返したりしていますが、今読みますと、新たな気付きがいろいろありますね(笑)。
173ページあたりにあることを引用しながら書きますが・・・

森田さんがフォーカス35から空間での一つ上の次元へ行った時にあった光の存在は、「世界がひとつ」であることを説きます。「愛にめざめてください」とも言っています。
そして、その光の存在に包まれてみたところ、「冷たく」、「機械的」で、しかも「エネルギーを吸い取る」ということをしていたようです。
この存在の顔は、表情のない能面のような顔だそうです。

「もっと私を愛しなさい」、「愛を与え続けるのです」と言うのですが、そうやってエネルギーを奪い取っている・・・つまり愛というエネルギーを食べたいので、「愛、愛」と言っているようなのです。
「愛しなさい。ワクワク生きなさい。喜びに生きなさい。エゴを捨てなさい」と言いますので、「エゴなどと言うものは、愛しなさいと言われるからできてしまうのです。あなたの言うことは私には不要です」と答えますと、「だとすると、これ以上先に進むことは許されません。このエネルギーボールが見えませんか?」と言って攻撃してきたそうです。

この後に出てくる観音様風の存在も、「人は何のために生きるのですか?」という質問に、「成長するのが目的だ。何度も輪廻転生するのだ」と言いますし、また「自己をコントロールして、感情に縛られず、常に自分を客観的に見て、マイナスの感情に影響されないようにすることだ」ということを言いますが、森田さんがなぜそのような格好をしているのですか?と聞きますと、「地球の魂が貢物を置いていき、たくさんのエネルギーをくれるからだ。おまえの貢物であるエネルギーを置いていってくれ」というようなことを言います。

その後登場したUFOは、「地球は宇宙の一員であることを忘れている。地球だけに生命があると思っている。宇宙には生命のある星がたくさんあり連絡を取り合っているのです。今回あなたは選ばれました。地球を次元上昇させ、私たちの仲間に加わるための役目です」のようなことを言います。
森田さんは、「冗談はいけません。選民意識なら他の人にあげてください。私は私であることで十分なのです。それが最終的には地球を救うとさえ思っています」と言うのですが。

どうも、この4.5次元のとらわれた神たちは、「愛」をエネルギーとして食べて生きていますので、その愛を我々に生産させるために、「愛を、愛を・・・」と説いているようです。

どうしても、これを事実だと考えますと、本当に必要なものは「愛」という言葉で語られるものだけではないように思います。

不思議の科学の195ページには、要約しますと、「愛しなさいと言っている割には、”あなたもいつか正しいと言うことが分かるでしょう”と先輩風を吹かします。しかし、彼らのことが書かれている本を読んでも、温かみを感じることが少なかったのです。わくわく生きなさい、愛を大事にしなさい、という割には愛がないな、とも思いました」とありますが・・・

これは、私が多く出ている翻訳もののアセンションを説いている本に持っている印象と近いのですが・・・ただし私は翻訳もの故に、人間味のようなもの、アナログ的なものが欠けているせいではないかと感じていたのですが、もっと深い何かがあるのかもしれません。

また、私事を書きますと・・・2000年以降、時として表情、感情がなくなってしまうときがあるのですが、これは場合によっては、この4.5次元の存在の影響を少なからず受けてはいないだろうか?などと邪推してしまったりもします。
果たしてどうでしょうか?

この後に、面白いことが書いてあるのですが・・・
(不思議の科学V:同胞舎:195ページより引用)
『別名アセンション症候群のこの存在たちは、地球人の中に同胞を求めます。しかし本当の私自身には、私自身でしか遭遇できません。地球はこういう地球人としての生を体験するために存在しているのです。私たちはどこの星でもない、この地球人で「ある」ことが大切なのです。』
(以上)
で、
岡田多母さんの「愛しの地球(テラ)」:風雲舎:74ページには次のように書かれています。
(引用:74〜75ページ)
『源はいろいろなことを教えてくれますが、私たちに命令することはありません。私たち人間に命令をするのは、人間に近い四次元の神様たちだといわれています。(中略)
私はこうした神様からの命令にあるときから抵抗しました。徹底的に抵抗して、身体をぼろぼろにされたこともあります。それをいやだと思って抵抗したのではありません。神様の言われる通りにやっていきますと、私はこの地球時間を生きていけなくなると思ったからです。この地(地で正解)を、この世界を味わいたいのに、それができなくなってしまうからです。女であり、妻であり、母である、このいとおしい自分を無視することがどうしても納得がいかなかったのです。肉体をもち、愛しいものを愛しいものとして共に育んでいく、そういうことができないことに深い悲しみを覚えました。』
(以上)
その後、神様と話し合い、通信は夜のみとして、大学ノートに十何冊かのメッセージを書きとめた時に、(四次元の神)がようやく自立を認めてくれたそうで、源・太祖も、「それがいちばん」と言ってくれたそうです。

で・・・

森田健さんと岡田多母さんの言っていることは、不思議に同じようなことを言っている時が多いと感じるのですが、これなどはとても近い内容で、しかも、他の精神世界関係の本を書いている方などが、ほとんど書かない内容ですね。

どうも、岡田多母さん式での四次元、森田さん式での4.5次元にいる神は、人間と非常に近いようだ、ということは、ともかくとして、私などには自覚されていない「地球での生を味わいたい」という意識が両人にはきちんとあるのですね。

みなさんには、そういう意識はあるでしょうか?

早く悟って、次の段階に行きたい、とだけ思っているだけでは、どうも足りないようですね・・・。
私ごとであえて言えば(笑)、「車を運転していると景色が見えれないから運転したくない」というのに、似ているでしょうか(笑)?

私は、一度、おかまを彫ってから、一切運転しなくなりましたが(笑)、本心は、「運転してると景色が見えない」なのです(笑)。
まあ、少し違う話ですね。




私の近くでも聞きますが、瞑想などをしていく内にチャネリングできるようになってくる方がいるようです。
どうも、その場合には、鵜呑みにせず、その神が、船井幸雄さん・森田さん式で言えば、4次元の存在なのか、4.5次元の存在なのか、5次元以上の存在なのか・・・ということを、見極められない時には、気を付けたほうが良いのでしょうね。

どうしようもない場合には・・・私なら、船井幸雄さんのサイトにメールを送ってみるでしょうか?
きっと、だれか・・・霊能者の方など紹介してくれるでしょう。




で・・・森田さんの方ですが、上記の後には以下のようなことが書かれているのですが、
(引用:不思議の科学V:同胞舎:196ページ)
『指導者になりたがっている彼らに愛を送ると、彼らは振動しました。うれしかったのです。彼らは本当は友達になりたいのです。・・・』
(以上)

ですので、4.5次元の神は、決して怖い存在ということではなく、きっと上記のように友達になりたがっているだけかもしれませんね。
その表れが「愛」という言葉なのかもしれません。

ですので、これはこれで、良いのですが、おそらく、アセンションというものの最も根本にあるものというのは、「愛」ではないのかもしれません。


大神様の考えるところ・・・これは何でしょうか?

変性女子を考えますが・・・・・・
ちょっとエッチですが、男性の性は、凸ですね(笑)。
いつでも、自分がジャックで、それをプラグが入るところへ入れていく、というものだとするなら、変性女子の概念というのは、その男性に、凹の心を持て、という意味なのかもしれませんね。

それは、どこか、悪を滅ばすことではなく、洗心してもらい、一緒になって行く・・・という概念に近いようにも感じますが。
征服しないで、蘇生させる、とも言えるのでしょう。

『アイカギ  コノカギハ イシヤト シカ テニギルコトゾ』・・・


みなさんは、どう思うでしょうか?




さて・・・昨日は、有名な方がたくさんなくなられたようですが・・・みなさん立派な方のようですので、年齢に関わらず、寿命だったのでしょうか。
私も、本当に久しぶりで朝から頭痛がしたりしていましたが、見る人が見れば、昨日は何か普通でない要素があったりしたのかもしれませんね。
良く分かりませんが。

青島幸男さんは、坂本九さんの「明日があるさ」の作詞をしたようですね。
私はあの歌が大好きです(笑)。

さすがに、しゃぼんだまホリディは見ていない・・・と思いますが(記憶にはないです)、直木賞から参議院議員、東京都知事までやったのですから、きっと、輪廻転生の回数が多いりっぱな魂だったのでしょうね。

今年なくなられた方の特集をテレビでやっていますが、私は・・・橋本龍太郎元総理が、とても印象に残っています。
私は、どこか好感の持てる政治家でしたが、テレビに出て、本気で年下議員に対して怒鳴ってしまうようなところもあったようですので、きっと、最後は怒こりすぎたのではないか、と想像したりします。

あまり聞きませんでしたが、あれは、ほぼ間違いなく、「イシヤ」にハメラレタのでしょうね。
当人もそれは知っていたのかもしれません。
でも、やっぱり、怒ったり、怒鳴ったりしてはだめだと思います。

前も書きましたが、国会で怒鳴った議員はみな一度下野しました。

私は昔は怒鳴られたりしますと、刺されても引かないような感じで、にらみ合ったりしましたが、今は、怒鳴られてもにこにこしています(笑)。
相手がだれでも。
ここで、以前から、絶対に怒鳴ってはいけない、と書いている以上、絶対ににこにこしなくては、ずるいですね。
嘘つきになってしまいます。
但し、やはり我慢しているせいでしょうか、その後一ヶ月くらい、後を引きますが(大笑)。


不思議ですね。
要するに、そこに発生しているエネルギーそのものは、変わっていないのでしょうか。
それとも、いくらかは減っているのかもしれません。
表に出さないと、内に来るのでしょうが、結局、そのエネルギーが心に影響している、ということですね。
本当は、孫さんが、病気治療などをする際に、邪気が治療する側に返って来ても、そのまま体をすり抜けていく、というような具合だと良いのでしょう。

それでも、事情がどうでも、理屈がどうでも、怒鳴り返したり、怒ったりしてはいけないのだと思います。
言うことがあるのなら、冷静に、淡々とでしょう。
現に、昔は怒りますと、必ず、どこか体に影響が出たりしていましたが・・・胃が痛くなったりですね・・・今は、後に影響はしますが、にこにこしていますので、体に変調はきたしません(笑)。
やはり、にこにこしていれば、発生したエネルギーそのものは、減るのだと思います。

とにかく、だれがなんと言おうが、これだけは確かです。
絶対に怒ったり、怒鳴ったりしてはいけません。

私は霊能力はないですが、耳は、そんじょそこらの霊能者よりも確かだと自信があります。
怒鳴り声というのは、
そこに、愛があっても、正義があっても、刃物は刃物です。
その波動がいかなるものかは、計測してみれば明らかなのだと思います。
みなさん、私はぜんぜん有名人でも著名人でもありませんが、これだけは確かです。
信用して良いと思います。


私の経験では、怒りは、腸に影響するのではないかと感じます。
確か関英男さんの本にも、「ハラワタが煮えくり返る、というように、怒りは腸に来る・・・」のような内容が書いてあったような覚えがあります。

橋本総理が、何かにハメラレタことにより、怒ったかどうかは、私には分かりませんが、今度地上に出てくる時には、どんなことがあっても、絶対怒らないと良いですね。
そして、絶対に大声を出したりもしないと良いですね。
絶対にご法度の心を持ってはいけないのです。

確かに、特定の省に肩入れはしていたでしょうが、それでもどこか好きな政治家でした。
小泉さんとの総裁選に勝っていたら、いくらか流れは変わっていたでしょう。
とても残念です。
しかし、今までありがとうございました。

ご冥福をお祈りいたします。



さて・・・
一転して、私のバカばなしからですが(笑)・・・
私は、学生の頃から、「どうも笑顔でいるのが良いようだ」と思い、たびたびそうするのですが、うまく行かず、やっては止め、やっては止めを繰り返しています(笑)。

どうも、私が常時微笑んでいますと、不気味、と他人から取られているような気がするのですね(笑)。

確かに、年中微笑んでいるということ自体不気味ではありますし、多少無理して微笑んでいますので、引きつっている時もあるのは確かですが。

昨日、新庄選手が、「いつも笑っていろ・・・つまり野球を楽しめ、ということ・・・」という内容をテレビで見ましたので、改めて、「どうにか、笑っていられないだろうか・・」と思ったわけですが、さてどうでしょうか?

スポーツで笑い顔と言えば、例のジョイナー選手ですね。
走っている時に笑顔でいることにより、世界記録(?)を出した選手ですが。

みなさんは、どう思うでしょうか?



で・・・イギリス英語のテキストが届きましたが・・・
私にはイギリス英語が聞き取りやすいですね。

理由は分かりませんし、前世がそこまで影響するのかどうかは、分かりません。
で、いろいろ思いながら付属のCDを聞いたりしていますが、ジョン・レノンの話し方は、当たり前と言えば当たり前ですが、イギリス語なのですね(笑)。

昔から「ジョンの話し方は独特だな」と思ったりしていましたが、どうもそうではなく、あれも、イギリス人の英語の一つの典型のようですね。

なかなか面白いです。


で・・・改めて思いますが、英語ができてもピアノが弾けても、ぜんぜんすごくないようだ、と納得しましたので、この1年位、話しかけられたり、どうしても、話さなくてはならない限り、勉強はおろか映画だろうがなんだろうが英語を最大限拒絶してきたのですが(音楽も極力最低限に)・・・楽しいので良いのではないか、と思いなおしました(笑)。

なんでも、TOEICでも、リスニングにイギリス語、オーストラリア語でのリスニングが混じるようになった、ということですので、また勉強を始めてみようかと・・・中年になって改めて思います(笑)。

また、「イシヤ」社会の言語ですので嫌だな・・・というのもありましたが、英語を話すのが全員世界征服を企んでいる、ということではないですし、ちゃんと高次元から神示を聞いている人もいるようですし、日本にも、「イシヤ」に魂を売った人がたくさんいますので、拘りなく英語を使っても、聞いても勉強しても良いのでしょう。
それが、別に「イシヤ」にこびている、ということにはならないと思いますし。

かように私は、「そうだ」と思ったら、その方向へ向かっていきますが・・・大体60%の確立でやりすぎますね。
そして、30%の確立で、やらなすぎます(笑)。

で、残りの10%くらいでちょうど良くやっていることもあるようですが、まあ、こういうのを”バカ”というのでしょう。

そう言えば、先日、耳に挟んだのですが・・・今は学校で教えている英語というのは、「アメリカ英語」だ、ということですが、そうなのでしょうか?
確か私の中学生の頃は、イギリス英語、だったように思いましたが。
ここら辺も、いろいろ変えられているのでしょうか?
良く知りませんが。





先日、朝のテレビで小林製薬の社長さんが出ていましたが・・・
なかなか面白い会社ですね。
社員は全員「さん」付けで呼ぶようです。
部長さんでもなんでも。
そして、確か・・・名前では呼ばずに、「Yさん」ですとか、そんな呼び方をしているそうです。

また社長さんが場合によっては直接末端の担当者に確認や指示を出すこともあるようです。
それは、要するに、即時解決と風通しを良くするためにやっているようでした。
社員からは、強制的ではないですが、常時新製品に通じるアイディアを募集していて、それをポイントとして集計しているそうです。
とは言え、別に、昇給とか昇進とかには関係させず、特別忘年会に出席できる権利を得るかどうかだけに使っているようですが。

それで、あの、目を洗う「アイボン」ですとか、消臭剤の「トイレそのあとに」などなどのユニークな商品を出して、売り上げを伸ばしているそうです。

なんだか、やっていることが、私がたびたび提唱していることの集大成みたいで、嬉しいです(笑)。
やはり、いろいろなやり方はあるでしょうし、いろいろな考え方もあるでしょうが、私の考えていることも、間違ってはいないのだな、と少しホッとしました(笑)。


で・・・江本さんの講演会ですが・・・
江本さんやゲストの方の講演もさながら、20周年記念らしくゲストが多彩で出口王仁三郎さんに所縁のある方(小さい頃そばで育った)ですとか、中学生の時に深夜放送をずっと聞いていて、その後、20年以上音沙汰を聞くことことができなかった瀬戸龍介さん(歌もうまいが、本当はギターもうまい)、その他いろいろな機会で名前だけお見受けする方々ななどが登場して、非常にうれしかったです。

ただ、今度は普通の状態で講演会に参加したいな、と思っています。
どうしても、だれかに見られていることを意識し続けまして、いつものように、ノートを取るのに氣が入りすぎて、目の釣りあがった怖い顔にならないように、ですとか、コンタクト装着で1.0は出ているのですが、とは言え、遠いところは良く見えませんので、それでもだれかを見かけたら最敬礼さしなくてはいけない、とか、変なことばかり考えていましたので、頭から公演内容がいくらか抜けてしまっています(笑)。

気分としては、1日中面接されていたような気持ちでしたので、後半はさすがに、精魂つきて、例の笑顔もひきつり顔以外のなにものでもなかったようです(笑)。
それは、目があった方々の顔色を見れば検討がつきます。

私はこの引きつり笑顔と、ノート取りなどで根を詰めた後の怖い顔で損をしたな、と実感することが何度かあるのですが・・・。
たとえば、エハンさんの講演の時ですとか、講演終了後のお客さんへの挨拶をしている時の佐野さんとかですね(笑)。
なんとか、直してやろうと必死にやってはいるのですが、必死に笑顔を作ろうとすればするほど、引きつった笑顔になっているようです(大笑)。
で、あんまり引きつっていますと、今度は、「不要に不快な思いをさせてはいけない」と思って、目をあわせないようにするのですが、またそのそっぽを向いたような顔が怖いようです(困)。
だれか、治し方を知っているでしょうか?



波動機器インストラクターは世界中で展開しているのですね。
そうであれば、江本勝さんの波動機器は、おそらくそうしてがんばっている方々が、いろいろな使いかをして、いろいろな方面で貢献していくことでしょう。

そして、感じましたが、江本さんを社員として盛り上げて協力していく方は、私のように高次元的なことから始まり、政治、経済、音楽、などなど多方面の情報を自分で得て、時には斜めから、時には正面からのようにして何かを探す、その過程で船井幸雄さんという方の存在を知る、政木和三さんという存在を知るというスタンスより、江本勝さんを心底愛して、江本勝さんに心底寄り添い、江本さんの考えることを実現させるために全力を尽くしていく、というスタンスの方(かた)の方が間違いなくふさわしいようです。

政木和三さんによれば、「林原研究所では、前世社長が殿様だった時に、同じようにお城に仕えていた方々が社員として、今生でも、勤めているので、チームワークは抜群です」、ということですが、きっと江本さんの会社もそうなのかもしれませんね。

これからも発展をお祈りいたします。




で、それで今回改めて私の特性を考え直してみましたが、私は、良いのもは、一見相反するものでも両方認めてしまうという変なところがあります。

しかし、それですと、普通は一つの系統で考えを集めたり支持したりしますので、なかなか理解されにくいことなどもあるわけですが。

それでも、どうも理由は分かりませんが、そういう特性のようです。
はて、こんな特性は何に生かせるのでしょうか?



さて・・・就職活動ですが・・・とブログのようなことを書いていますが(笑)・・・どう感じても、私はだれか名前がある人の下について一緒に活動していく、というよりは、7,8時で仕事が終われる会社に勤めて、その後の時間を何らかの活動に使っていく、というスタンスの方が良いように感じます。

「にんげんクラブ」が幸塾のような活動をするというのは諸事情あってむつかしいようですので、やはり早く次の仕事を決めて新しい活動を開始するのが正しいですね。

人任せではいけないようです。

ここ数年、どこか臆病風のようなものにもかかっているのか、30代のように、住むところも決めずハワイへ行ったり、自分で事務所を開いたり、インターネットで数十人規模で会ったこともない人を集めてジャズのジャムセッションを開いたり・・・などのようなことをしなくなりました。

それもこれも、必要・必然・ベストなのだと思っていますが、どうも、船井幸雄さんによりますと、2008年中に、諦めてもらわなければならない方々に諦めてもらわなければならないようですので、なんとか、氣を上げていきたいと思っています。

みなさんは、どう思うしょうか?




さて・・・政木ワールドのサイトからの引用ですが・・・驚異的な発想力を 生む「天才教育」 のすすめ という項目があります。

何が書いてあるかと言いますと、ひとつは、船井幸雄さんが良く書く「長所進展法」と同じことですが、もうひとつは、身構えて努力するよりも、「どうして?」と疑問を持つと、勝手に頭の中に知識が入ってくる、ということです。

(引用)
実地を中心に学ぶと、どうしてもその原理や理論をもっと知りたくなった。工業学校に入ると、私にとってのどから手が出るほど知りたかった原理、理論の授業をしてくれる。実地で「どうしてだろう?」という疑問を持っていたので、「そうだったのか」と先生の講義が2倍にも3倍にも自分の頭の中に入っていき、忘れようとしても忘れることができない程の深い記憶となっていっ た。
何事も覚えようと身構えると大きな努力が必要となってくる が、先に「疑問」を自分の中につくっておくと、砂が水を吸い込 むようにどんどん吸収していく。それがすぐに実用できる知識、学問となって身についていくのである。この世の中にはた くさんの人間がいる。
その中で何か飛び抜けてできる人は、そ
のできることだけをやって、できないことは他の人がやればい いのではないか。何事も全部やろうと思えば、その人は思う大
学へも行けなくなる。
自分の才能を伸ばすためにも、自分の得
意な学科だけで入学できる大学があってもいいのではない か、と私は思っている・・・。

(以上)
いかがでしょうか?

私はこれは良く分かります。
「実地をやり、そこで疑問が生じた後に、知識を教えてもらうと、すぐに頭に入る」ということがです。

みなさんも、似たような経験があるのではないかと想像しますが、政木和三さんがうまい表現をしていますが、正に「砂が水を吸い込むようにどんどん吸収していく」という感じですね(笑)。

これが、逆と言いますか、日本で行われている普通のやり方ですと、はじめに知識を詰め込まれるわけですが、勉強が嫌い、と思い込んでいる人(私も含めて)の多くは、結局この教える順番の間違いによる弊害が大きな要素になっているのではないかと思ったりもします。

現に、私などは、学校を卒業して以来、小説以外の本で読んだものと言えば、いわゆるHOW TOものと、精神世界の本がほとんどです(笑)。
それは結局、社会という実地で「どうしてだろう?」、「なんでだろう?」と疑問が生じて、それに対しての知識がそこにはあり、普通に読んでも内容が、勝手に砂に水がしみこむ様に入ってきますので、苦でもなんでもないからでしょう。
また、この「どうして?」は必ずしも、疑問でなくとも、実地で体験した何かに対しての好奇心であっても、同じ作用があるのではないかと思います。

疑問と好奇心はまったく同じではなく、重なっている部分もあるように感じますので、すみわけがむつかしいところではありますが。
逆に共通していることとしては、「知りたい!!」という感情でしょうね。


もちろん、この「どうして?」は、森田さん式の下位の問いではありませんが、何かとても大事なことを言っているように感じてしまいます。


みなさんは、どう思うでしょうか?





私は、授業はあまり楽しくありませんでしたが、結構先生を見ていました(笑)。
興味がある、というのでしょうか。

中学生の時に気付いたのは、新学期が始まった時に、先生が始めての授業に来ると、何人かは、意味もないのに、いきなり大声を出して叱りだしたりしていました。
そんな時、「ああ、この先生は、まずはじめに、いっぱつ決めておいて、怖いぞと思わせて、その後の授業をスムーズに運ぼうとしているのだな・・・」などと思いながら見ていました。

とても変な中学生ですね(笑)。


幼稚園の時に至っては、「今日、〇〇先生ブラジャーが透けていた」と家に帰ってきて言っていた覚えがありますので(笑)、結構昔からそういう傾向はあったのでしょうね。

ですので、幼稚園生と言えども、なめてはいけませんね。
ちゃんと、下着までチェックしてるようです(笑)。

そこで思い出しましたが、私は小学校2,3年の時の通信簿に、「女の子ばかりと遊んでいます」と通信欄に書かれたことがあります。
あの欄は、「してはいけないこと」を普通書きますので、思い出しますと、「女の子と遊ぶと叱られる」と思い込んだような記憶があります。
今思うと、男子が女子と遊びたがるのは宇宙の理(笑)から言っても、当たり前ですので、変な話ですね。
もちろん、その年代の男の子であれば、男子同士遊ぶ方が普通だったのかもしれませんが、ませ具合は人それぞれでしょう。
別にそれで、奥手になったかどうかは知りませんが、小さい頃の記憶をなくした人には分からないかもしれませんが、私は確実に、4,5歳の時が一番まともで大人っぽかったように感じています(笑)。

言っても仕方のないことではありますが、教育関係者が何かの間違いでここを読みましたら、是非参考にしていただきたいと感じます。





で・・・テレビでちらっと見かけましたが、お医者さんの作る電子カルテで、キーボードで打ち込むのではなく、専用の紙の上を、手書きのカルテと同じように、タッチペンで書いたり、〇を付けたりすることで、それがそのままPC上にデジタルデータとして、あたかもスキャンしたように記憶される、とうものがあるようです。

「キーボードを打つと、患者が見えないので、患者の方を見ながらカルテが書けるように作られた技術・・・」ということでしたが、これは、応用によっては家庭用のPCにも導入できますね。
そして、キーボードが苦手な人や高齢者にとって、とても良いシステムなのではないかと感じます。

私が思うくらいですので、きっと、大手などでは、すでに着手しているのかもしれませんが。



昨日、あたかも子供のようですが、ちょっと良いことをしました(笑)。
近所のマクドナルドでコーヒーを読みましたら、ハンバーガーの無料券というのをくれました。
私は肉を止めましたので、当然食べないのですが、「はて、捨てるのももったいないので、どうしたものか?」と思いましたら、ちょうど隣に80歳近いのでしょうか老夫婦が座っていましたので、おばあちゃんに、「私は肉がだめですので、よろしかったらどうぞ」と言って、差し上げました。
おばあちゃんは、「ありがとうございます」と言ってくれましたが、久しぶりで本当の波動入りの「ありがとうございます」を聞いたように思いました。

で、ここで言いたいことは2つあるのですが(大げさ)・・・
まずは、「ありがとうございます」ですが、やっぱり、本当の波動入りのものとそうでないものがありますね。
私の耳が「そうだ」と言っています。

もちろん、何でも始めはありますし、慣れもありますので、本物の波動入りでなくとも良いですし、私もまだまだその境地ではないですが、お年寄りをなめてはいけませんね。
感服しました。

もうひとつは、「自分が国常立大神が”食べてはいかん”と言っているから止めた肉の無料券を、人にあげて良いものなのか?」ということですね(複雑)。

だって、体に悪いと思っているから食べないわけですよね?
もちろん、”毒”ではないですので、最低限3次元的なことはクリアしているのでしょうが、これに対して正しい解答を出せる人はいるでしょうか?

もちろん、
「あのおばちゃんは、ハンバーガーを飼っている犬にあげるつもりでいる」ですとか・・・
「肉だけ残して、パンだけ食べるつもりでいる」ですとか・・・
「もらったことにだけ、感謝して、本当は肉は食べてはいけないと知っているので、食べないつもりだ」ですとか・・・
「子供の時に、有機的な体に良いものを食べて育ったので、丈夫にできているので、少しくらいの肉を食べても問題ない」ですとか・・・
「精神レベルが悟りの境地に近いので、肉を食べても大丈夫」ですとか・・・
「そもそも、週に1,2回、100g程度なら、国常立大神も問題ないと言っている」ですとか・・・

いろいろ考えられますが。

みなさんは、どう思うでしょうか?





さて・・・
先日、以下のようなことを書きました。
大神様の考えるところ・・・これは何でしょうか?
変性女子を考えますが・・・・・・
ちょっとエッチですが、男性の性は、凸ですね(笑)。
いつでも、自分がジャックで、それをプラグが入るところへ入れていく、というものだとするなら、変性女子の概念というのは、その男性に、凹の心を持て、という意味なのかもしれませんね。
それは、どこか、悪を滅ばすことではなく、洗心してもらい、一緒になって行く・・・という概念に近いようにも感じますが。
征服しないで、蘇生させる、とも言えるのでしょう。
『アイカギ  コノカギハ イシヤト シカ テニギルコトゾ』・・・


で、過去何度も書いていますが、簡潔に言えば、正に「陰陽合一」ということでしょうね・・そう思いました。

で、それでは陰陽合一とはどういうことか・・・となりますが、良くアメリカの影響で「男女平等」というスローガンのもと、何でも男女同じにすれば良い、というような傾向がありますね。
どうも、これは、陰陽合一とはまったく逆の傾向のように思います。

法の下に「男女同権」は、陰陽合一とは関係なく、正しいのだと思いますが。
もちろん、法律の内容にもよりますが。
たとえば、仮に、法律で、「公衆トイレには防犯上、扉を付けてはならない」なんてことになっていたら、困りますし、良く男子トイレでは、女性の方が掃除をしている横で用を足したりすることがありますが、女性用で男性が掃除をしている横で用をたせ、といわれても、きっとそうはいかないでしょう。

要するに、陰陽合一とは、陰、陽それぞれ違うものであるということを認識した上で、陰、陽の形のまま、合一せよ、ということなのでしょう。

陰と陽をどちらかが指導権を取り、どちらかにそろえてしまえ、ということではないのだと思います。

その意味では、やはり、たとえば、男性・女性、食事の支度は半分ずつ、というのは、ぜんぜん陰陽合一ではないのでしょう。

有名なコックさんが昔テレビで言っていましたが、「家の料理はすべて妻が作ります。何が出てきても、できばえについて、文句を言ったことはありません」ということでしたが、理由は分かりませんが、家庭の料理は基本的に女性が作る、のどこかには、宇宙の理があるように感じますが。


その意味では、仮に善が陽、悪が陰とした時に、陰陽合一とは、やはり絶対に、悪を滅ぼすではないでしょう。
悪を善にしてしまえ、ということでもないのかもしれません。
もちろん、善を悪にされるのも違いますし、そもそも悪は善を奴隷にしようとしているようですので、滅ばそうとは思っていないようです。



それでは何かと考えますが、
日月神示では、「イシヤ」のことを、”学”と表現していますが、それを考えますと、「学や理論でなりたっている文化を心や気持ちで成り立っている文化で包み込め」ということでしょうか?

これもやや弱い解釈のように思います。


ちなみに、昨日日月神示の出口王仁三郎さんの項目を読んでいましたら、変性男子とは男の体を持ち、女性の心を持っている存在、変性男子とは女の体を持って、男の心を持っている存在、ということでした。

ここで勘違いしてはいけないのは、「女性の心」とは、「嫉妬深く、なよなよしたもの」、ということではないし、「男性の心」とは、「荒々しいもの」、ではないだろう、ということなのだと思います。

私も良く分かりませんが、良くテレビで見かける人などで、変性女子、変性男子に近いのではないかと思う人は・・・
変性男子なら、指揮者の西本智実さんですとか、美空ひばりさんですとか、山口百恵さん、松任谷由美さん、中島みゆきさん、工藤静香さんなどもそうでしょうか、表現すれば、外見は別に短髪・ボーイッシュではなく、髪も長くスカート・着物も似合うような完全に女性ですが、男の氣のようなものを放っている人・・・

変性女子なら・・・男性の方が思い浮かびにくいですが榎木 孝明(えのき・たかあき)さん、とんねるずのノリさん、佐野元春さん・・・などでしょうか?
要するに、やや女性的な概観ではあるが、仕草は普通に男性で、しかし、自然に女性的な細やな気持ちを持っているような人・・・

私の見立てが正しいかどうかは分かりませんが、みなさんは、どう思うでしょうか?

感じるのは、変性男子(つまり女性)は、概観は完全に女性ですが、変性女子(つまり男性)は、概観も無骨な男性ではなく、どこか繊細な表情を滲ませるものがある、ようですね。

となりますと、男性、女性では、おそらく概観のようなものを対象にしているのではなく、もっぱら筋肉の発達さを対象としているのかもしれませんね。

ですので、高次元的に求められる本当の姿としては、男性は筋肉が発達しているので女性的な心、女性は筋肉は発達していないので男性的な心、しかしながら、男性も女性も、どちらも概観は、いわゆる”女性”のような繊細な外観が求められる・・・

むしろ、男性は、筋肉が発達しているので、いわゆる一般的意味で、荒々しいで代表されるような男性的な心を持つが、その心は人としては必要のない心であり、これは、変性女子でも変性男子でも求められるものではなく・・
加えて、そういう心を持つと、男女に関わらず”繊細ではない”概観になってします・・・美人とかそういうことではないです・・・

その意味で、変性男子(女性)が持つべき男の心とは、上の芸能人などの具体例を分析すれば、指揮者のごとく”きっ”として、演歌歌手が着物姿で仁王立ちするような”研ぎ澄まされた気迫”を持ち、・・・と表現するより、

男女どちらも結局、明鏡止水の心ではあるものの、男性的心(変性男子、つまり女性が持つべき心)とは、硬水の湖の湖面での明鏡止水、女性的心(変性女子、つまり男が持つべき心)とは、軟水の湖の湖面での明鏡止水とでも言うのでしょうか。


みなさんは、どう思うでしょうか?



そう言えば、不思議研究所に登場する仙女の文(ワン)導師も、変性男子的に私には見えますが。





そう言えば、先のおばあちゃんもそうですが、先日、久しぶりで、本心から出る言葉を聞きましたが・・・
何とか言うTBS(確かTBS)かテレビ朝日の女性アナウンサーなのですが・・・
クリームシチューの2人と理科と言いますか・・・理科系等の内容を放映する深夜の番組なのですが、そこで、京都大学の教授が、アルコール漬けにされた爬虫類の標本を持ってきたのですね。

この女性アナウンサーは、そういう爬虫類でもぜんぜん怖がらず、かわいい、と心底感じている人なのですが・・・
そのアルコール漬けされたとかげの一種の小さい小指ほどの標本を手にして、「か〜〜わいい〜〜!!・・・」というのです。
その声は、丹田でしょうか、それとも胸のチャクラからでしょうか・・・どこかしかるべき大事な場所から反比例グラフの曲線のような流れでもって、出てきていたように聞こえました。

最近旅番組などで、食べ物を食べて、少し本当かな?というような波動の声で「おいしい」ですとか、「トロトロです」とか、味がまったくわからないようなコメントばかり耳にしていましたので、彼女の声は本当に、心に染み入りました。

その声で、「ああ、あれが本心の声だったな・・・」と久しぶりに思い出したような気がしました(笑)。
本心の声は、どこかのチャクラからしぼりだすような、反比例のグラフのような・・・そんな感じで出るものなのかもしれないですね。

そして、普通女性が怖がる・・・男性もそうですが・・・とかげのような存在に、あんなに気持ちのこもった「かわいい」を発せられる人間が、放送業界にいる、ということに、また、非常に感銘を受けました。

なんと言う名前でしたでしょうか・・・川田さんでしたでしょうか・・・忘れましたが・・・すばらしい女性だと感じました。


録画していなかったのが残念です。
あの声を毎日聞いていたらさぞかし幸せになるような気がしてしまいます(笑)。

みなさんは、見たでしょうか?


今、焼酎を飲みながら坂本九さんのCDを聴いていますが(笑)、ステレオのスピーカーは、2本ではなくやはり真ん中にもうひとつシステムが入っていた方が断然良いですね。

今のシステムには2種類のスピーカーが付いていますが、その2つを一緒にならしているわけですが・・・ちょうど、一つのシステムがもう一つのシステムの真ん中にはさまれているような具合で配置されていますので、大きなスピーカ−2本の離れたシステムの間に、センタースピーカーが入っているような感じになっています。

最近はやりのサラウンドシステムは、これと同じようにセンタースピーカーがありますが、定位が安定していて良いです。
と言いますか、センターに集中力が働きますので、酒を飲んでいても、意識の焦点がぶれません。
もっとも、違う種類のスピーカーですので、出力の周波数が異なりますので、偶然、2つのシステムが私に都合の良い具合に混ざり合っている、とも言えるのかもしれませんが。
(メーカーは2種類ともパイオニアですが)

坂本九さんの歌は、歌詞が良いですね。

どの曲もとても明るい気持ちにさせてくれます。
そして、精神世界の本で説いていることを、実に完結に3分間で語っているような歌詞が多いです。

「めぐる糸&仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」(作詞:石山透)という歌では、「いざとなったら玉を出せ、力が溢れる不思議な玉を・・・」という歌詞まで出てきます。
三味線などもアレンジで使われていますので、すでにこの時代に、”日本”の精神を守ろう、という発想があったのかもしれません。

その他、どの歌を聴いても、「元気を出せ。笑おう」そんな歌詞ばかりです。

「幸せなら手を叩こう」(作詞:きむらヒリト、曲:アメリカ民謡)は、私の年代でも、すでに幼稚園で歌っていたくらいの古い歌ですが、素晴らしい曲・歌詞ですね。

「明日があるさ」、「夢を育てよう」、などは、青島幸男さん歌詞です(曲:中村八大)。

このように、一見道徳(?)と思える内容を歌っていながら、ちゃんと、題材としては、彼女、彼氏、などの日常的なものを使用し”普通”の心を大切にしています。
日常から、離れすぎていないわけですね。

視点が自分の側にだけあるのではなく、世間と言いますか、そちら側からの対象(歌・歌手)への視点を重視していますので、世間に受け入れられやすかったのでしょうね。
「ああ、ちゃんと、お茶の間にこういうことを広めていた人がいたんだな・・・」などと、感激しながら、聴いています(笑)。

日月神示にある「教会になってはいかんぞ」とはこういうことなのかもしれません。
それは、アトランティス、ムーが滅んだ理由のひとつである「儀式」ということにも通じるのかもしれませんね。
一箇所にかこんで、狭い範囲で布教していく、そして、組織という縦のつながりで行動していく・・・これが、日月神示で言っている「教会になってはいかんぞ」の”教会”の意味でしょうか。

もちろん、各発信元が”教会”にはならず、単なる発信基地の存在であり、横のつながりのひとつである、という姿を持ち続けることができるのなら、問題はないのだろうと感じますが。


そのようなことを考えてみますと、坂本さん、永さん、中村さん、青島さんなどのやっていたことは、どこか「イシヤ」の裏をかいでいるようにすら感じます。
イシヤは「信仰心を取り去ることにより、牧師などの権威を奪い、人心を乱れさせる」ことを狙ってやっているようですが、永六輔さんなどは、更にその裏をかいで、「芸能活動というような、人心を乱れさせるような手段を逆手に取り、その中で、宇宙の理に近いことを広める・・・場合によっては、そこから、目に見えない形で信仰心のようなものさえ、人の心に宿していく・・・」ということをしていた、とも言えるかもしれません。

もちろん「ポピュラー・ソング」のあり方だけを見れば、正に、坂本さん、永さん、中村さん、青島さんがやっていたことこそが、あるべき姿なのだとは思いますが。
しかし、明るく楽しく老若男女まで指示を得る歌曲、でしかも、そういう歌詞で・・・というのは、相当難しいテクニックだと思いますが。
大抵は特定の年齢層を狙いますし、こういう歌詞はやり方を間違えますと、普通若者には、受け入れられにくいですし、しかも軽快なリズムですので、高齢の方に聞いてもらえているというのは、すごいことです。

そこら辺を分析すれば、坂本九さんという存在も、同じくらいに大きいのでしょう。
タレント性から歌声まで・・・いろいろな要素ですね。


みなさんにも、よろしければ坂本九さんをお薦めします。



私が今聴いているのは、左記のものですが、坂本九さんの曲を書く方々が高次元と通じるような方々だったのか、それとも、この時代では、歌謡曲が、このような歌詞を扱うことが普通であるすばらしい時代であったのか、私には分かりませんが、普通にこういう歌詞が毎日テレビやラジオから流れていれば、本当は、船井幸雄さんなど多くの方が”人として当たり前のこと”を、大きな会場を借りて、講演していく必要などないのでしょうね。

売れる歌詞を狙って、芸能プロダクションがそういう曲を作っているのでしょうが、ひょっとしたら、今、民衆が望んでいるのは、この時代のこういう曲・歌詞なのかもしれませんね。

みなさんは、どう思うでしょうか?

「 悲しき60才」などは、正に今の時代のぴったりの歌詞かもしれませんね。
拝金主義者が、お金持ちにはなったが、老後、寂しい人生を迎えてしまう・・・という歌詞ですが。
これは青島幸男さんの歌詞です。
もっとも、平均年齢が伸びましたので、この曲は60歳を人生の終わりに近い存在としているのですが、今で言えば、80歳くらいにあたるのかもしれませんが。

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