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もくじ

さて・・・
船井幸雄コムで船井幸雄さんが「岡潔先生」と言う方について書いていますが・・・この方が先達て少し書いた「情・・・」の話の方ですが、今日よくよく読みましたら、この方が言ったのではなく、この方の話を船井幸雄さんが話し、その中で「情の人は1%」という話が出てきたようです。

経緯は、にんげんクラブ福岡大会で、船井幸雄さんは大きな手術後で、あまり長時間は話せないはずだったのですが、60分以上話したそうです。
その中で・・・
有料ページなので、引用はしたくありませんので、とは言え当日出席した方は全員知っている内容と思いますので、おのままでは、あまりに分りにくいですので、いくらか要点を書きますが、(船井勝仁のウィークリーレポート 2009年7月〜2010年6月・「トラブルを楽しむ」より要約)


船井勝仁さんが印象に残ったのは・・・

船井幸雄さんが、数学者の岡潔先生の「智情意」の考え方を説明していたことで・・・
それは、人間には3種類いて、
1:情中心で裏表もなく「天の理」だけで生きている1%の人、
2:智情意をバランスしながら本音と建前を使い分けている96%の人、
3:情という感覚がなく平気で他人を裏切れる3%の人。

そして、これからの世の中を動かしていくのは「天の理」しかない1%の人であり、船井幸雄さん自身も3年間の苦しい闘病生活でこの1%の仲間になったようだと話していた・・・ということ、

(以上)

です。


で・・・船井幸雄コムの
http://www.funaiyukio.com/funa_ima/index.asp?dno=201004006 に、岡潔さんの
「市民大学東京校 ’74 岡 潔 1974年」の一部が掲載されていますが・・・
非常に難解ですね。

以前は、あの兒玉(上田)裕子さんが分りにくいものを、分りやすく説明してくれていたので良かったそうですが・・・
明日にでも、ちょっと、解読(?)してみようと思います。

きっと、今日の更新が遅かったのは、担当の方が、これを打っていたからではないでしょうか?
大体ですね・・・理解しやすいものとか、文体が覚え安いものというのは、早くタイプできるのですが・・・そうでないとむつかしいのですね。
しかも、長い。
加えて、「で」という字を使う人を私以外で初めて見たような気がします。

下記に明日以降のために、引用しておきますが・・・難解ですね。
でも、楽しいですね。



有意の方々は、如何様に思われるでしょうか?

 

 

で・・・先日、テレビに、セブン&アイホールディング会長の鈴木敏文さんと言う方が出ていまして・・・
セブン・イレブンは元々アメリカの会社ですが、それを日本に取り入れて・・・しかし、アメリカの法人は潰れてしまったそうです。
今は、日本の会社になっているということです。
そして、日本式のやり方を、外国の支店でも行っていると言う話がありまして、その中でですね・・・
「向こうのスーパーバイザーはポリスマン、しちゃいけないとか、していいとか、そういうことを言う。日本はティーチャー。そういう日本式でやっている」
と言う話がありました。

スーパーバイザーというのは、辞書を引くと、主任、とか出てくるはずです。
で、私のいたコールセンター業界というのも、アメリカからやり方そのものを移入したもので、その中でスーパーバイザーというのは、主任とかそういう・・・平と係長の中間ではなくてですね・・・要するに、平の方ですとか、そういう人に直接指示を出す人なわけですが・・・ティーチャーではなく、看守と言う感じです。

アメリカ式をどうしても取り入れたい、ということもあり、若い人がなったりもするのですが・・・そのせいもあってか、何というのでしょうか・・・看守ですね・・・相当に機械的にマニュアルをそのまま実行することを「喜び」とでもしているかのように、マニュアル通りにさせる役目でした。

おそらく、スーパーバイザーというと、この役目をほとんどの業種で言っているのではないでしょうか?
想像するにですね・・・お辞儀の角度は30度、とマニュアルに書かれていましたら、本当に1度のずれも許さずに、30度をやらせることが正しいと教育されて・・・あるいは命令されて行っている役目です。

私は、それが嫌いで嫌いで、その件で、辞めたようなものです。

で、ひどいのはですね・・・新入社員で、そういうように社会人になりたてで教わるわけで、本当に、他の業種でも、そうやっている、それが常識と完全に思っているようなのですね。

「ごちゃごちゃ言ってないで、じゃあ、教えてやれよ、本当のことを」
と言う人がいると思いますが・・・当時は元気でしたので・・・・言われるまでもなく、そうしました。

もう、収拾つかなくなりまして・・・で・・・転勤しまして・・・そこでも、同じ感じでして・・・
収拾するために、同い年の取締役が出てきまして・・・いろいろ言うのですが・・・「お前の前にいた会社なんか、どうせ街の電気屋さんだろう?」とか言いやがりますので・・・一応、お金の心配だけすることにして(少しは大人になっていた)、心を100%閉じる作戦をしました。
(※注:この取締役は、本当にそう思っていたようなので、怒らせようとしてわざと言ったのではない。但し、転勤前の事務所・・・いわゆる大きな電気会社関係・・・では、その会社の経験で大きな結果が残せ、会社も褒められたというのに、なんでそんなこと言うんだ?と思った。加えて、私はその会社が好きで好きで仕方がなかったので、その意味でも頭に来た)

本当は、お金だけではなくてですね・・・もう当時、相当に情が勝っている状態で、「殴ってやっても、蹴ってやってもいいけれども、せっかくこいつは、こんなに若くして、取締役になるという良い生活をしているし、巻き込んで人生台無しにするのはかわいそうだな」と思ってしまったことが一番でしょう。

こういう発想をするようになって以来、少し気が抜けているかなぁ?でも正しいのかな?とか・・・迷うことがあります。

で・・・辞めました。
その後、このサイトが始まったわけです。

・・・絶対に見返してやります。
日本式のすごさを、思い知らせてやります。



それはさておき・・・アメリカでは、おそらくスーパーバイザーというのは、そういうものでして・・・それを私の良く知っている日本式のティーチャーに直して、アメリカにある意味輸入している(アメリカでそのやり方を取り入れている)、そして成果を上げている・・・ということでして・・・
本当に素晴らしいと思います。

期待しています。


有意の方々は、如何様に思われるでしょうか?



でもですね・・・辞めた後も、このサイトを読んでいる方には分ると思いますぐあ、会社の規模や種類などは違っていますが、似たようなことが繰り返されているのですね。

螺旋です。


で・・・これまでは・・・「見返すだなんてことは、仕返しのようで、精神世界的にいけないことだ」とこう強く思っていまして・・・
悔しいけれども、感謝、感謝・・・と思っていたのですが・・・どうも、それがいけないように感じています。

要するに、無理をしているのですね。
ですので、悔しい気持ちをこらえて、聖人のような振る舞いをしようと思えば思うほど、何かですね、ぜんぜん聖人的ではなくなっていまして、同じようなことが繰り替えされる・・・
心の状態を見れば、表向きは聖人ぽくしようとしていても、中身は「くっそう・・・」のように渦巻いている・・・

おそらくですね、「仕返し」はどうかと思いますが、「見返してやる」のように思うのが良いのだろう、と思っています。
高次元的には、どういう意味(意味があれば)かは分りませんが・・・

どうもこ堪らえるとことを教えようとしているよりは、「是非、見返してやってくださいな。誰も堪えよなどとは言ってません。昔のような元気のよさで、日本式のすごさを、教えてやってくださいな」とでも言われているような気がします。

有意の方々は、如何様に感じるでしょうか?


さて・・・一つ分ったことがありまして・・・藤原直哉さんがしばしば性善説と言う言葉を言うのですが・・・
私はずっと性善説の人だったのですが・・・そしてずっとそれをやっていて、今でもそうだと思っていたのですが・・・
どうも、この数年少しだけですね・・・性悪説的振る舞いになっている部分があったようです。

理由はいくらでも挙げられるのですが・・・基本的には、性悪説で行動売る人と多く付き合って来てしまったことによるものだと思います。
一つは会社、もうひとつは、いわゆるネットの書き込みですね・・・
あそこは、本当に性悪説の人が99%です。

ああ、なるほど・・・と感じています。
道理で人と付き合うのが嫌なときがあったりするものだ、と・・・

たとえばですね・・・一番初めの船井幸雄オープンワールドの時などは、あの衣相当落ち込んでいましたが、それでも、何かのブースに並んでいると、だれかが話しかけてきたりしたものなのですが、この1,2年はそういうことがまったくないどころか、人の目が痛いくらいでした。

確かにキーワードとして、「少なくとも、2年前の自分には早急に戻そう」というのがあったのですが・・・
なんとか戻りそうです。
もちろん言葉上は戻すですが、基本には進歩ですので。



ちょっとですね、意識して、きちんと性善説的振る舞いになるように修正してみたいと思います。

有意の方々は、如何様に思われるでしょうか?






追記していますが・・・
どうも、もっと複雑なようでして、私は確かにずっと性善説をやっているのですが、それが少し複雑でして・・・
皆さんもあると思いますが、性善説をやろうとしても、「悪い奴」というのが目の前に出てきて、性善説じゃ太刀打ちできない・・・というような場面が。
私もそうでして、特に会社関係がそうだったのですが・・・とにかく性悪説ですし、こちらがいくら性善説で立ち向かってもだめなのですね。

で、そこで性悪説になれば普通なのですが、私の場合は、「確かに悪いやる、嫌なやつもいる。それを前提に性善説をやってやる」となってしまうわけです。

どういうことかといいますと、相手が信用できる人間であると分るまでは、「悪」であると山をはって、あるいはすでに「悪」だと判定が済んだ後には、「悪」であると思いながら性善説をやるわけなのです。

分りやすく言えば、飢えたライオン、あるいは狂犬病の犬である、と決定した、あるいはその可能性があると思っているにも関わらず、「これは飢えたライオン、あるいは狂犬病の犬であることが分っている、あるいはその可能性があるが、俺は意地でも性善説で立ち向かってやる」と言う感じなのです。

そうするとですね、やっぱり腰が引けているのですね。
性悪説で行けば、それこそ、何か言ってきたら、同じくらい汚くプライドも人間性も根底から否定してやるような言葉を言い返してやる、とかですね、場合によっては、一発お見舞いしてやる、とか思っていますので、ある意味腰は引けないのです。

もっと分りやすく言うと、ガンジーさんではないですが、相手が殺す気まんまんで武器を構えてやってくるのに、あえて丸腰で、しかも平和的に話し合おう、加えて、殺される可能性が非常に高い、死ぬ(ひどいことをされる)覚悟で望もう、と言うような感じなのですね。

で・・・どうも、この2年間で人相が悪くなってしまった・・・

性善説を普通にやっていたころを思い出すことは容易で、しかしながら、その時は、性悪説の人が周りにいませんでしたので、いちいちそんな覚悟する必要もなかったわけです。

しかし、この数年は、性善説でも、性悪説の人間もやってくる・・・
性善説で性悪説の人間と、どう付き合うか?
基本的には付き合わなくてよいのですが・・・言ってみれば、だから会社を辞めたともいえる訳で・・・・辞めたからいいのかもしれません。
問題だったのは、自分がどうおなしくなってしまったのかを知り、どう直せばよいのか?ということだけだったのかもしれません。

どうおかしくなったかは、上記にあるような感じで、どう直せばよいのかは、やっぱり普通に性善説、そして性悪説の人とは付き合わない、でいいのだろうと思います。

これが半年以上分らなかったようです。


で、今日の藤原直哉さんがネットラジオで言っていますが、「性善説でも、光と熱がないと、日和見(善でも悪でもない人)の人間を性善説にすることはできない。」ということで・・・光と熱が必要なようです。

で、ここで思うのは・・・いわゆる精神世界で、謙虚もそうですが、「いい音楽」として、「静かなクラシック音楽」を進めることが多いですよね?私はそれを信じて、できるだけ静かな音楽中心に聞くようにしていたのですが・・・あれはですね、実感として、やはり何か力を失わせるところがあります。

確かに、穏やかで平和的で静かで・・・でいいのですが・・・元気でないとどうしようもないのではないでしょうか?

で、そういう精神世界の本などでは、「ハードロックなどはいけません」とか書くことが多いのですが・・・どうでしょうか?
確かに中には歌詞の内容も含めて良くないと感じるものもありますが、あるいはハードロックとは言いませんが、もっと元気が出る・・・光と熱が出る、ということも大事にした方がよいのかもしれないです。

どういう音楽が良いのかは、まだ分りませんが、一つ言えるのは・・・精神世界の本を書く人はよい育ちの方が多いせいもあるのだと思いますが、クラシックは疑問です。
あれはですね・・・音楽が小さい頃から好きな私に言わせますと、「小さい頃から聴き馴染んで」いませんと、非常に聴くのが苦しい音楽です。

「じゃあ、あなたはそういう本を読んでクラシックを聴いて、苦しかったのですか?」と問われますと、実際そうなのです。
もちろん中には、そうでもないものもありますし、苦しいながら一生懸命がまんして聞き続けて好きになったモーツアルトのクラリネット協奏曲などもありますが・・・大抵はですね、聞いていて結構苦しい、つまらない、というものが多いのです。

今振り返れば、聴いているときはそういう気持ちだったわけですから精神衛生上も、高次元的にも良いわけはありませんね。

しいてクラシックでいいな、がまんしなくても聞けるな・・・と思っていたのは、ピアノ曲のいくつか・・・でしょうか?
それとウインナーワルツですね・・・あれが純粋にクラシックと言えるかどうか・・・舞踏音楽ではないか?と言われる方もいるしれませんが。

要するにポップス世代の人間としては、歌えるようなメロディときちんとしたリズムが必要なわけです。

アイネクライネナハトムジークなんかでも、それらの要件は詰まっているのですが・・・メロディラインが、違うのですね。
ポールモーリアの「薔薇色のメヌエット」などは、似た曲ですが、何が違うのでしょうか?
音楽的にもあるかもしれませんし・・・そうでないとしますと、おそらく小学校中学校の音楽の時間の嫌な思い出がフィードバックされてくるからかもしれません。

本当にですね・・・1人くらいの先生を除いて、音楽の時間と言うのはつまらなくてですね・・・というか、嫌でして・・・
今でこそピアノは弾けるのですが・・・小学校の時など、何がドレミで何が長調で・・・とか何も分らないわけです。
で、何か知りませんが、むつかしい曲を聞かせるわけですね・・・
当時でも歌謡曲などは大好きでしたが・・・音楽の時間が憂鬱でしかたがなかったのです・・・(「ゆううつ」なのですね、「ゆうつ」では変換しません)。

ですので、一部のクラシック音楽を聴きますと、憂鬱に近い気持ちになるのは、そのせいかもしれません。

思い出しついでに書きますが・・・よく音楽の時間に「これが長調でこれが短調ですよ」とか言ってですね、おなじみのメロディを長調と短調で弾いて聞かせてくれるのですが・・・あれはどうでしょう?
子供心ながらに思っていたのは「だって、メロディラインが違ってるじゃない?それじゃ比べても意味がないじゃない」です。

どういうことかといえば・・・
先生のやるのは・・・「ドレミの歌」なら、「ドーレミード、ミードミー」(長調)、「ドーレ♭ミード、♭ミード♭ミー」(短調)なのです。
これを、「どちらもドレミの歌でしょう?でも調を変えると換わるのですよ」とかやるのですが、当たり前のように子供は「短調の方が、ドレミの歌ではない。雰囲気が違うのは当たり前である」なのです。
そうでしょう?
あの時、普通に、長調で作曲された曲と、短調で作曲された曲を、普通に聞かせてくれたら、それでよかったのだと思います。

「ドーレ♭ミード、♭ミード♭ミー」(短調)は「ドレミの歌」ではないのです。
違いますよね?著作権も、きちんと、「ドーレミード、ミードミー」(長調)で登録されていますし・・・これは絶対に子供の方が正しいと思います。
(追記:むしろ、コードを付け替える、と言うことの方が、ずっと分り易いと思います。ドレミの歌に、Cのコードではなく、Amを付けて聴かせるのです)

いずれにしても・・・どうでしょう?
私だけかもしれませんが、クラシック音楽が精神世界的にいい、というのは、必ずしも正しくない、と思います。
元気で明るい性善説人間を作るのに必ずしも適していない、と思います。

ひとつは・・・あれですね・・・正当性、万人性を目指すあまり、「マリアカラス」ですとか「モーツアルト」ですとか、そういうものに頼りすぎているのがいけないのかもしれません。

できればいつでも、その時の最新の曲・・・あるいは、20年以内くらいの曲で、そういう曲を見つけて「薦める」というのがいいのかもしれません。

私は・・・世良譲さんのCD、カーメン・キャバレロさんの日本の曲を主にラテン調にアレンジしたCDを聴いて寝ると、運が良いです。
おそらくは、「性善説で熱と光」体質になるのだと思います。
そして、そういう曲というのは、個人個人でまったく違うのかもしれません。
水や花などは、比較的個別差なく、みな同じ曲でそうなるのかもしれません。

この話はここら辺で・・・

有意の方々は、如何様に思われるでしょうか?

 





 
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