理由もなくこればかり聴いてしまうCDのコーナー

CDはたくさんあるのですが、なぜか、いつもこればかり聴いてしまうCDを紹介します。

 






270:クワイエット・ガール:テレサ・ブライト    

 

モダン・ハワイアンとでも言うのでしょうか?
第一人者のテレサ・ブライトです。

何をしてモダンと言うかといえば、ちょうど、LAのモダン・カントリーとハワイアンを混ぜたようなサウンドだからですね。
ちょうど、ハワイのFMなどで流れているようなサウンドです。

曲目です。  

1.ココナッツ・アイランド
2.パフュームズ・オブ・パラダイス
3.ザ・モア・アイ・シー・ユー
4.スコッチ&ソーダ
5.私の小さな夢
6.静かな夜
7.ヘヴンリー・アイランド
8.瞳は君ゆえに
9.マイ・シークレット・フレイム
10.アイル・リメンバー・ユー
11.トロピカル・タペストリー
12.虹の島
13.ブルー・ハワイ
14.ヘヴンリー・アイランド
15.オンリー・ザ・グッド・シングス(ボッサ・ヴァージョン)
16.オンリー・ザ・グッド・シングス
 

さて・・・
最近、朝の5時頃、起きたりします。
そして、外へタバコを吸いに出るのですが、空気のにおいがハワイに似ています。
外は見えはしませんが、海が近くですし、緑もうまい具合にあります。
そして、空気もまだ軽いですし、汚れてもいません。

すると、調合が良くハワイの空気になるようです(笑)。

朝の空気というのは、良いのですが、こううまい具合にハワイの空気になる場所には、今まで住んだことがありませんでしたので驚きです。

今日もまた、5時に起きましたので、そうしましたが、ちょうど、このアルバムの紹介の日とは、ツイテいます。




で・・・・・・
昨日、友人のサイトをリンクしましたが、面白いのは、全員現在関西在住ですね(笑)。
大阪2人に、奈良一人ですが・・・


私の血のつながった親戚は、全員、現在関東在住です・・・東京周辺ですね。
血の繋がっていない親戚は、妹の旦那の家族ということです・・・神戸ですね。

関西に縁があるかと言えば、そうあるとも言えないです。
もっとも、船井幸雄さん、正木和三さんなどは関西ですが。

仕事でも、主張で、2回だと思いますが大阪へ行ったきりです。

ただ、20代前半・・・思えば、ハワイに行く前まですが、京都に住みたいな・・・とは思っていましたが(笑)。



初めて京都へ行ったのは、中学生の就学旅行です。
それ以来、なぜか、京都が好きで好きでしかたがなく、卒業旅行や彼女との旅行でも行きました。
確か初めてのとき、三十三間堂で一回りして、戻ってきたら担任の先生に会い、なぜか、「もう一度みたい」と言ったら、「早く言って来い」と特別待遇を受け た覚えがあります(笑)。




森田健さん「自分ひとりでは変われない あなたへ」(講談社)に、奈良の唐招提寺に孫さんと一緒に行ったときに、千手観音さんが、孫さんに「境内の裏に赤に実がなっているので、それをここにもっ てきてください。手を合わせるだけで実は若返ります」と話しかけてきた話が載っていますね(189ページ)。

その実は言ったとおり、緑色になったそうですが。

私は話しかけられた覚えはないですが、さてどうでしょうか?(笑)。


そう言えば、先日、神に似てい る、として書いた3人の女性はみな関西の人ですね。
三田寛子に、オセロの松島に、まなかなですが(笑)。
正確には4人でしょうか?

さて・・・・・・
ロッテのあのWBCで活躍したアンダースローの渡辺投手ですが、「WBCはものすごい緊迫感があったので、帰ってきて始め、日本の試合でのテンションの持 ち方がむつかしかった・・・」と言っているようです。

それで、調子が出なかったそうですが、テンションというのは、その場の持っているテンションと動機しているのが、良いのかもしれないですね。

とにもかくにも、高いテンション・・・としてしてしまいますと、どこかに・・・3次元的だけではなく、高次元くぉ含めて・・・・歪のようなものが出てしま うのかもしれませんね。

私はしばし高テンション過ぎてうまく行かないケースがありますが、それはどうも、過去を思い出して、一番困難な状況の時を思い出す・・・ということをして いるせいかもしれません。





私 の過去の一番困難な瞬間というのが、どれほどのものか、たかが知れてしますが、ひょっとすると、上の渡辺投手のようなことが起きているのかもしれません (笑)。

 

み なさんは、どう思うでしょうか?







さて・・・・・・
就職活動の進捗テンポが少し遅くなっています(笑)。


昨日、女性のマラソン選手がテレビに出ていました。
女性マラソン選手は、みな少し変わっていますね。
私は好きなのですが(笑)。

やはり、一人で・・・少なくとも、競技中は・・・やる協議が得意、という人は、」マイペースなのかもしれません。
私が、長距離走が得意だったのが、理解できるような気がします(笑)。

しかし、どうも、サラリーマンをやらなくてはならないようですが(笑)。

こういうとき、従来の精神世界的発想では、「それがあなたの今生での修行なのです」というのかもしれません。
確かに、そう理解すると、理路整然としていますね。
そして、確かに、一般的な3次元論で言っても、団体行動ができるようにしなくてはいけません、となりますね。


「ただ、私が今まで聞いてきた”団体行動をできるように・・・”論が、「上の人の言うことをにしたがって、逆らわず、がまんをしなさい」というものですの で、私は一生懸命それをやってみましたが、対等、あるいはリードする立場ならともかく、どうしても、「上の人の言うことをにしたがって、逆らわず、がまん をしなさい」をやると、うまくいきません(笑)。

も ちろん、常識を守る、というレベルのことであれば、できるのですが。

もし、「得意で好きなこと・・・・」論であれば、「サラリーマンをやってはいけない」という答えが出てきそうですし、今生の修行、ということで考えれば、 「がまんしてサラリーマンができるような人間になりなさい」ということのようにも取れます。

さて、一体どれが正解なのでしょうか?

 

よ く聞くことは、「みんなやってんだろう!!?」という言葉ですが・・・私の場合(笑)。
そういう時、私は、「でも、みんなは私のできるようなことはできないじゃないか・・・」
です(笑)。

特に上の人に良くを言われましたが。
最近、思いますのは・・・私は上のようなことを言ったことはないですが・・・一般的な人は、当たり前ですが、個人の前でも、個人より組織が大事なのです ね・・・私はこれを知らなかったようです(大笑)。

ですので、個人と話している時でも多くの人が、「その人の能力を伸ばすることにより、組織に役立てる」という発想よりも、「こいつの能力を伸ばすことなん かより、とにかく歯車が回れば、前進はする」ということなのでしょう。

実に私は馬鹿ですが、多くの人がそう思っていることに気が付きませんでした(笑)。

私は23,24くらいの時、50代の強面の営業部長があまりに理不尽に聞こえるようなこと言うので、「あなたは結果しかみないが、その途中の努力も評価し たらどうだ!!」と怒鳴りつけたことがあります。

その人は、「当たり前だ。結果しか評価しないのは、当然だ。いいかげんしろ!!」のようなことを言っていました。

それはそうですね。
まったくその通りでしょう。

しかし、思ったのは、「この人は、私と言う人間をうまく操作する機会を失ない、損をした。かわいそうな人だ」でした。

利益を追求するのが企業ですので、構いませんが、果たして彼は、本気で利益を追求する気があったのでしょうか?

と考えて行きますと、・・・本気で利益を追求するつもりがあるなら、もっと考えなくてはいけない、ということなのかもしれませんね。

で・・・ その後私はどうなったかと言いますと、干されました(笑)
できたばかりの支店に転勤になりました。

で・・・そこで売り上げが飛躍的に伸びるのですが・・・どうも私は回りに人が多いとだめなようで・・・しかし、伸びた辺りで今度は支店長とぶつかります (笑)。
彼がいじめていた男性が辞めたので、今度はどうも、私の番になったようです(笑)。
もっとも、思い過ごしの可能性もあるかもしれないですが・・・何せ例の彼女のことで、頭に来ていたのと病気がありましたので。

私 が辞めた後、彼のコネで入ってきた男性を、またいじめて病気になって辞めたらしいですが、その後、そのバブルショックなどもあり、その支店は閉鎖になった そうです。

支店長は、本社に戻って来ましたが、一度、次の会社の飲み会の帰り、その彼とすれ違ったことがあります(笑)。
同じ渋谷でしたので(笑)。

もちろん、お互い声を交わすことはありませんでしたが、彼は何を思ったでしょうか?
私は、「ああ、元気そうだな」と思ったきりです。

ちなみに、彼は、60年代の学生運動(60年安保)で幹部として活躍したそうで、強引な手法ですが歴史に名を残している人の子孫だそうです。


これも、一般的な精神世界論で語れば、「私の根霊の仲間で、私の修行のために、そういう役割を担ったということです・・・」となるのでしょう。

その方が、実際、後を引きませんので、精神衛生上では、良いようにも感じます。

しかし・・・最近感じてきましたのは、無感動体質になっていないかな?ということなのですが。


何があっても、すべからく上のように発想していきますと、で、どうすれば良いの?となってしまいます。
みなさんは、そんなことはありませんか?

「感謝しなさい」となるのだと思いますが。
私はそれを実行しています。

確かに感謝をしますと、五日市さんではありませんが、その後、良いことが起きているようなのですが・・・その意味では実行してみても害は少ないです・・・ どこか無気力体質になっているように感じます・・・。

何と言いますか、周りで何かが起きるのを待っている状態になっているようです。

しかしながらこの状態は、周りに問われて何かが始まる、というものと違うように感じます。
どこか、マニュアルにしたがっているだけ・・・のような機械、歯車状態に似ている感触があります。

そうなりますと、池田邦吉さんが書いているように、「向上心という良くはOK・・・」のようですので、向上心をバネにして、自分から問っていくようにする のが良いのだろうか?
とも、感じますし・・・
あるいは、好奇心・・・つまり自分の声ですが・・・に従い、自ら問っていくということが必要なのかもしれませんし・・・。
いずれにしても、良く分かりません(笑)。


で、書くつもりのない内容を書いてしまいましたが(笑)。

みなさんは、どう思うでしょうか?








和田さんという有名な画家さんが、スギさん(外国人)という人の絵を複数盗作したのではないだろうか?と問題になっているそうですね。
ご当人は、専門化が見れば違うと分かる・・・・といっているようですが、素人の私には、「盗作だようね?」というくらい似て見えます(笑)。
別に盗作自体を私は問題にしたいのではなく・・・

も しかして、次元上昇によって、アーカシックレコードに通じ易くなっている、ということが起きているのだとしたら・・・
従来の3次元的盗作ということではなくとも、つまりひょっとしたら、一度もその絵を見ていなくとも、そっくりな作品が出来上がる、ということは、あり得ま すね(笑)。

まして、時空に通じる、ということだけ考えれば、一般の人よりも、おそらく通じやすいようにも感じます。


もしそうなら、今後、同じようなことが頻発するかもしれませんね(笑)。

 

 

 

み なさんは、どう思うでしょうか?

 

 

 

 

 

さ て・・・・・・
にんげんクラブの会報が送られてきました。
良く読んでいませんが、とても気合の入っているのが感じられますね。
また、しっかり読みましたら、書いてみます。


 


「みろくの世」―出口王仁三郎の世界天 声社 ;  (2005/08) 出 口王仁三郎言行録刊行委員会 (編集), 上 田 正昭: ですが、読むスピードが遅くなっています(笑)。

3次元的理由は明らかで、出口さん自身のことではなく、出口さんへの他人の感想の項目に移ったからで す。

どうも、私はそういうのには興味が今のところもてないようです。
それでも、我慢して読んでいますが、時々面白いことにも出会います。

なんでも、詩、陶器の作成、絵画などにも精通していたということおなのですが、当時(戦前)あったいくつもの雑誌・・・今の感じとしては同人誌のような感 覚ですが・・・に参加といいますか、詩を掲載していたそうです。

私はこのやり方は好きです(笑)。
組織に対しての忠誠心がない、と言われてしまいそうですが、私はなぜか、幼少の頃から、ひとつの団体にのみ属して、忠誠を尽くして・・・というのが苦手で す(笑)。

なぜかと考えますが、想像するに、今までの3次元世界では、どうしても、ひとつの団体に忠誠を尽くす=排他的になる、という事実がありましたので、それが 嫌だったのかもしれません。
実際はどうか、分かりませんが。

ですので、たとえば音楽でも、大学時代などは、いわゆる軽音楽サークルにも属さず、それでいて、接触し、他の大学の連中とも接触し、雑誌などで知り合った 人たちとも接触し・・・

それは、ジャズも、やれば、ポップスもあり、作詞も作曲もやり、ギターもピアノも弾き・・・というような感じです。

感覚としては、「音楽」に属してはいるが、それはそのサークルに忠誠心を尽くす、ということとは、違う、というような感覚ですね・・・。

良いのか悪いのか分かりません。


とにかく、閉じ込められているような不に気のするものは、すべからく属したくない、という感じでした。

ですので、私はひょっとしたら、これからもいろいろな団体に属するのかもしれません(笑)。
こと仕事に関しては、同時に複数の団体に属する、ということができませんので、無理でしょうが、精神世界を語る団体ですとか、趣味の団体ですとか、そのよ うに複数属することが可能なものは、属していくのではないかと想像します。


中途半端にならないか?という意見もあるでしょうが、相乗効果で良くなるのではないかと感じます。
但し、役職というのには、やはり付きにくいでしょう?(笑)。

と・・・発想していて、少し分かってきましたが、私ごとではありますが・・・
私が役職としてのリーダーをどこかで嫌がっているのは、ここら辺に理由があるのかもしれません。

つまり、ひとつの価値観に縛られる危険性を嫌がっているのではないか?ということですね。
そして、やはり、どうしても排他的になりますし、仲間に強制をしなくてはならないことも、出てきます。

ですので、きっと、ここら辺・・・排他的、強制、などがなければ、私は普通の人のように、位ですとか、役職ですとか、そういう責任、名誉のようなものが付 くことに素直に喜べるのかもしれませんね。


ただそうとは言え、何か大きなことをする時には、団体の力というのは必要ですね。
それが法人としての形を取っているものが良いのか、あるいは、個人の寄せ集めでも良いのか、なのでしょう。
簡単なのは、ちゃんとした既成の団体の方でしょうね。

 

と、書いていてまた思いましたが、要するに横の関係・・・森田さん式のネットワークの発想に近いのかもし れませんね。

しかし、それ故、団体が嫌い・・・ということになってしまっている現状があるのだとしたら、まだどこか発想が中途半端なのでしょう。

それとも、私がたまたま今まで横の関係を重視しないような団体に属してきた、ということだけなのかもしれれませんが。

もっとも、にんげんクラブは排他的ではないと、思っていますが。




その意味では私が唯一楽しく仕事ができた留学の仕事は横の関係がスムーズでした。
勝手にやらせてもらっていましたので(笑)。

私ごとを書きますが・・・
その会社で日本で始めての看護婦さんの海外の大学での編入コースというのをやりました。
どうもその発想はその会社にずっとあったようなのですが、実現はしていませんでした。

で・・・私が入り、その話を聞いて、普通のこと・・・と私は思いますが・・・あるオーストラリアの大学の担当者が日本にいましたので、すぐに来てもらいま した。
そして、いろいろ事情を話しました。

そうしたら、すぐに関係各位(岡田多母さん風)に話をしてもらい、数ヶ月でできてしまいました(笑)。
むつかしいことはいろいろあるのですが、視点がずれるので書きませんが・・・とにかくできてしばらくしたら今度は日本の円が異常に強くなり、たくさんの看 護婦さんが、その留学で一応海外の大学卒業の資格を取ることになりました。


もっとも、現在はどうなっているか知りませんし、その資格がどれくらい優遇されているのかも分かりませんが。

ただ、英語が医師よりうまく話せる看護婦さんが、いくらか増えたのは事実でしょうね(笑)。


またオーストラリア大使館へも勝手に・・・頻繁に接触していました(笑)。
私は、「仁・義・礼・智・信」は重んじますが、湾曲された上下関係は重んじないせいでしょうか?外国人の団体とはうまがあっていました。






で・・・やはり、横の関係でしょうね・・・

営業でうまく行っていた時期・・・実は今でも大抵のものを売ることはできると勝手に思っていますが(自己満足)・・・も、それ以前と、何が一番変わったか と言えば、勝手な人間になったのですね(笑)。
事情が分かった、というほうが正しいのですが・・・

自分の会社の購買ですとか、アシスタントですとか、上司ですとか、そういうところに頼るのではなく、自分でできるようになってしまったのです。

在庫でも、納期でも、価格交渉でも、資料でもなんでも、相手先の会社のそれぞれの担当者に直接コンタクトを取ることができるようになったのですね。

もちろん、人脈と、知識・・・大胆さが必要ですが(笑)。
ですので、対お客さんにしても、話がとても早くなりましたし、商品の製作過程から流通、お客さんが使うまで、全てが分かりますので、その相乗効果などもあ り、接客からシステムからたくさんのことで良い方へ影響していきました。

ただ、もっとも意外だったのは、私など人が勝手なことをしますと、嫌がったりするものだ、くらいに思っていたのですが、購買でも、なんでも、意外なほど に、面倒くさがりやだった、ということですね(笑)。


ですので、私が勝手に、仕入れ価格の値引き交渉ですとか、納期確認、希少品を先に押さえておくこと、詳しくは書きませんが、もっともっと奥の方にあるいろ いろなことまで、交渉済みで、自分の買い会社のそれぞれの担当者に通常の連絡をする際には、「〜で話をつけてありますので・・・」とすると、別に嫌がりも せず、ただ、「分かりました」と、逆に感謝さえされるような具合でした(笑)。

で・・・思い出しましたが、これが前の会社に入って以降の私から、忘れ去られていたことのようです。
何がそうしたのか・・・変な役についたせいか、会社が堅苦しいせいか、上の人間を必要以上に立てすぎたせいか、仕事の内容のせいか、人として落ち着くため に一生いなくてはならないと思ったせいか・・・分かりませんし、全部かもしれませんが(笑)。


どうも、当時は、上のようなことが、私に欠けているものだと思っていたのでしょうね。
違うように感じ出しました。

むしろ、怒鳴らないですとか、ご法度の波動を出さないですとか、そちらの方だったのでしょう。

あるいは、高次元に通じる、ということなのかもしれませんが。


上記の例は私のものですが、どうも・・・やはり相対的ということが気になります・・・。


 

 




たとえば、「仁・義・礼・智・信」ですが、これも、基準があるのだと思います。
ですので、撫養にやたらに・・・つまり仮に、これらの適正ポイントがすべて100なのだとしたら、すでに80の人に対して、+100をしてしまったら、や はりバランスが崩れるわけです。

逆に0の人には+100でよいのでしょうし。


ここら辺は難しいですね。


なんとか、その人の現状と適正ポイントの差が分かるような方法があれば、良いな、とは思いますが。

ただ、なぜそうなるかとい言えば、「もともと人間に備わっているのに、忘れてしまったものを、後付けで足そうとするから」なのでしょうね。

一番良いのは自然治癒力的な方法・・・なのでしょう。

みなさんは、どう思うでしょうか?

 

 

 

 

 


 さて・・・・・・


「みろくの世」―出口王仁三郎の世界天 声社 ;  (2005/08) 出 口王仁三郎言行録刊行委員会 (編集), 上 田 正昭: ですが、終わり近くなって、また面白くなってきました。

百面相についての章に興味深いことが書かれています。

その章は、山折哲雄さん(国債日本文化研究センター名誉教授)と言う方が平成6年に行った講演録です。
タイトルは、出口王仁三郎翁顕彰会・記念講演(百面相王仁三郎ー日本文化の脊髄)
というものです。

この方が、なぜ、出口王仁三郎さんが、いろいろな扮装をしたか?ということに、自分なりの考えを述べています。
仏教、神道などなどいろいろなことを絡めて書いていますが・・・

 

まず、面白い考察として、以下のようなことが、書かれています。
(引用:260ページより)
『大本の開祖・出口ナオ(一八三七〜一九一八)は神につかえ、神になった人であると思います。それに対し聖師・出口王仁三郎は神に憧れ、憧れるあまり神や 仏になろうとして、そのために自己をさまざまに演出した人であると思うのです。神になったナオ、神になろうとして、自分を演出した出口王仁三郎。自分を演 出するという芸術家的な資質を持つ人間、それが出口王仁三郎ではなかったかと思うのです。』

(以上)


次に、読んでいる途中ですが、記憶に残っているところから書いてみます。


前後しますが・・・
まず、出口王仁三郎さんが弥勒菩薩の扮装をしている写真についてのものですが、それは、何でも、もともとは、阿弥陀如来が描かれている有名な絵の構図なの ですが、それを、弥勒菩薩の扮装によって演じられています。

山折さんの解釈によれば、山の向こう・・・これは浄土(感じとしては5次元以上の場所)を象徴しているようですが・・・から、こちらを救うためにやってく る図、ということです。

私には、その図は、神が3次元ではどんなことが行われているのだろう?と創造主が眺めているような図に見えますし、あるいは、だれかが問いを発するのを 待っている図のようにも見えますが、これは森田さんの本の読み過ぎかもしれませんし、本当にそうかもしれません。


山折さんの解釈によると、胸を肌蹴ている出口王仁三郎さんに、色気を感じる、そしてそういう色気を持っている教祖は、ほとんどいない・・・というようなこ とが書かれています。

また、この絵をして、仏教と神道の合一と言いますか、同じ枠の中で語ろうとしている、というようなことも書かれています。


で・・・
今のところこれらのようですね・・・私が引っかかる、あるいは、何かを考えさせられたのは。
こういうのを、問われた、というのかもしれません。


 

 

(引用:260ページより)
『大本の開祖・出口ナオ(一八三七〜一九一八)は神につかえ、神になった人であると思います。それに対し聖師・出口王仁三郎は神に憧れ、憧れるあまり神や 仏になろうとして、そのために自己をさまざまに演出した人であると思うのです。神になったナオ、神になろうとして、自分を演出した出口王仁三郎。自分を演 出するという芸術家的な資質を持つ人間、それが出口王仁三郎ではなかったかと思うのです。』
(以上)

ですが、私は大本教は良く知りませんが、この考察はどうでしょうか?
私は疑問があります。

しかしながら、対比としては面白いと感じます。

想像するに、神に憧れる、ということは高次元を見てきた人としてはないように感じます。
高次元・・・5次元以上の世界に焦がれる、ということはあったにしても。

また、おそらく出口王仁三郎さんは、自分の前世・・・つまり本質・魂はだれであったか知っていることでしょう。
そうであれば、おそらく、それなりの存在でしょうから、憧れたりはしないでしょう。
神に憧れるのは、私のような人間です(笑)。
冗談ですが。

 


それで・・・この扮装はなんであったか?と言えば・・・
いくつか想像しますが・・・


1つは、森田さん式の「人はだれでもない」・・・つまり何にでもなれる、ということでしょうか?
それは神ですら、そしてどの神にでもすら・・・ということを表現したかったのかもしれません。


2つ目は、「形」、「外観」でしょうか?
森田さん式に解釈すれば、形によって運命が変わる、ということですので、そこまで語っていないとしても、「形が変わることにより、どういう印象を受けます か?」と問っているのかもしれませんし、「形」は大切である、ということを言いたかったのかもしれません。

場合によっては、マーヤ的な3次元的なごまかしについて、何か言いたかったのかもしれませんが、もしそうであるのなら、それは、ごまかしというよりは、 「正に、形こそ3次元なんだ・・・」と言いたかったのでしょうか?


3つ目は・・・神を身近なものとして、認識させようとしたのかもしれません。
普通、宗教家であったりしたら、恐れ多くて、こんなことはできませんね(笑)。

しかし、「どうだい?面白いだろう?そして別にこれくらいのことをしても神は怒りはしないだろう?」ということかもしれません。

私は「霊界物語」は読んでいませんが、ひょっとしたら、森田健さんが幽体離脱して経験したようなことも書かれているのかもしれません。
まったくの想像と、期待ですが。

思うに、政木和三さんにしても、誰にしても、その人の存在を後世により権威立てて残したいと思う人がいるのか、それとも、解釈する人が、ひどく3次元道徳 に寄りすぎているのか、どうしても、そういった部分だけを強調しているような解説などが多く見受けられます。

しかし、むしろ逆にそういったところではなく、政木和三さんの例ばかり出して申し訳ありませんが・・・
小さい頃、オルゴールを分解してみたら、直らなくなって怒られたとか、
東条首相に直談判に行ったとか、
有名な社長が家に訪ねてくるので、何かあげようと思ったら、庭の3葉のクローバーが4葉になった、とか、

そういったところこそ、何か本質めいたものがあったりしますので、伝える人がどんな伝え方をするか?というのは大切ですね。





で、ちょっと、思い出しましたが・・・
私が留学の会社に入った直後、ある本が必要だ、ということになり、ある人が「買ってきてください」というので、買って来ました。

しかし、部長(小さい会社なので:笑)、私が入社そうそう勝手なことをしたと思い、私を叱りました(笑)。
(私はこういう経験が以上に多いのですが、そういう雰囲気があるのでしょうか?)
私は、小さな会社ですので、ほとんど全員その様子を見ていますので、「あの人が買いに行け、と言いました」とは言わず、罪をかぶりました(笑)。


しかし、その後、いつかは知りませんが、誰かが「実は・・・」と話してくれたようです。

それが、幸いしてか、むしろ私は部長以下の信頼を得たようです。


逆に、例の前の会社では、
上から下まで、私について、無いこと、無いこと、少しだけ有ること(笑)を、もっと上の人にチクリ回っていたようです(大迷惑)。

しかし、私は「それは事実ですか?」と問われることも一度もありませんでしたし、私から「あの人はこういっているようだが、まったく事実とは異なる」とも 言いませんでした。

「事実はいつかは分かる」
と信じていたのですね(甘)。


また、不思議なことに、そういうことを言う人間というのは、客観的に見て、立場が危うい、何らかの意味で劣勢に立たされている、ここで起死回生の一打を打 たなくてはならない、そういうものを感じさせる人ばかりだったようにも感じます。

つまり、うまい嘘もついたでしょうし、そういう人を見て、その当時は最終通告のような一打を打つことができない私でした(変でしょう?)

その意味では、その人の直感で、「この人は、文句を言わなさそうだ」というものがあったのか、あるいは私がそういうものを巻き込んだのか?良く分かりませ んが。




私は30を過ぎた頃から、「人というものは嘘とまではいかなくとも、客観性にはどうしても主観が入るものだ。
だから、もし、何か不都合なことを人が言ってきても、必ず双方の意見を聞くまでは、何も判定はしてはならない」、ということを感じていましたので、少なく とも、35歳くらいを過ぎれば、だれでもそう思っているものだと思っていました。

当然私に判定を下す人というのは、私の上司ですので、最低でも、35は超えています(笑)。
もちろん、大抵は年長者ですが。

しかし、どうも、そうではないようですね(笑)。

と言いますか、きっとそう思っているからこそ、もう会社なんてこりごりだ、と思っているのでしょう。


しかし、詳細に見てみれば、前の会社は大きい会社、よって、個人の事実など分かりもせず、大切でもない、
良かった会社は、小さい会社、見たくなくとも、全てが見える、分かる・・・

その意味では、私のような人間は、小さい会社があっている、とも言えるのかもしれません。
霊能者の人を見ると、落ち着く、というのも、ここら辺にあるのかもしれませんね。
全てが見えてくれた方が、嬉しい、ということでしょうか。
変わっています(笑)。

 

で、何が言いたいかといいますと・・・
ちゃんと詳細に見るのが良い・・・
人の考えには、どんなに客観性を重んじたとしても、絶対に主観が入るものだ・・・
少なくとも、人を評価したり、裁かなくてはならない時には、ちゃんと双方の話を本人から聞こう・・・

ということでしょうか?


ただ、良く知りませんが・・・と言いますか、さすがにそこまで執念深くないですが(笑)、別にそういった人たちにバチが当たったという話も聞きません (笑)。

また、私に、何かそのことで恵みがあったということも、ないと思います。
(いろいろな恵みは貰っていますが:感謝)


そう考えますと、その時、自分が最大限正しい、と思ったことをすれば、それで良いのでしょう。

違う、と思ったら、やらなければ良い、ということですね。


そして、何か解決したいなら、自分でやることですね、きっと。
ネットワークも使って、3次元の能力も高次元の能力も使って。
運命は決まっているのかもしれませんが、だとしても、それは時として、考えない方が良いのかもしれません。
事実は事実として・・・しかし、時と場所によっては、考えない方がうまく行く、ということもあるのでしょう。


みなさんは、どう思うでしょうか?







さて・・・・・・
横道にそれましたが・・・
神道と仏教の混合ですが、出口王仁三郎さんの考えには、全ての宗教は同根である、というのがあるようです。
政木和三さんも同じようなことを言っていますね。
私も賛成です。

 

山折哲雄さんが語っているところによれば、神道では、人は死ぬと神になる、仏教では、人 は死んで修行を積むと仏になる、この2つが合わさって、日本では、人は死ぬと、仏になる、という考えになっていった・・・ということのようです。

ここで語られている仏がフォーカス27以上の次元に行けることであるのなら、「人は死ぬと仏になる」、「仏は行が済んだ魂」をあわせると、実に真実に近い ものである
ようにも感じます。

山折哲雄さんは、日本人の宗教感、浄土感についていろいろ述べていますが、輪廻転生とい うことについては、今のところ出てきません。

そうすると、ずいぶん以前から、生まれ変わり、という事実は、ほとんど語られないものになっていたのでしょうか?

それとも、学者さんですので、あまりに科学的ではないことについては、語らないようにし ているのかもしれません。

結構輪廻転生ということが、高次元を語るには、大切な概念のようにも感じるのですが。


ただ、こういうことは書かれています。
インドでは、とてつもなく遠い東方の海のかなたに極楽浄土がある、としていた・・・
日本では、山の上に、極楽浄土がある、とされていた・・・


インドについては、このとにかくものすごく遠いところという概念がインドらしい、0という概念を生み出したインドの数に対しての考え方は、独特なものがあ る、というようなことが書かれています。




そう言え ば、例の関英男さんが、念波のスピードでとてつもなく速い数字を記載していますが、池田邦吉さんによれば・・・確かな数字ではないようですが・・・確か山 咲梅代さんは、関さんの姿というか、前世の姿なのだと思いますが、インドのお坊さんの姿を描写していますね。

どこか共通点を感じてしまいます。


日本人が山の上としているのは、月が山の端、東方に沈む様子を見てそう思ったようだ、というようなことが書かれています。

その意味では、インドの人たちも、海に沈む月を見て、同じようなことを思ったのかもしれませんね。


ただ・・・高次元は、通常の人にはなかなか見えないわけですが、それをして、遠いところ、としているので はないかと思いますが、きっとそういった説明が、知らず知らずの内に、高次元が近い場所である、というような概念、あるいは内側からも行ける、という概念 を、遠ざけていた可能性はあるかもしれませんね。

それもまた、輪廻転生の概念を忘れさせていった原因のひとつなのかもしれません。



で・・・仏教と神道の考えをひとつにした・・・ですが・・・
今の日本人が多くの宗教をあまり深く考えずに受け入れやすい下地は、おそらく神道の日本に仏教が入ってきた、ということが大きく関係しているのかもしれま せんね。

そして、どちらも基本的には同じことを言っているのだよ、ということを、伝えるためには、出口王仁三郎さんのような方法というのは、有効というか、必要な ように感じます。


私は、先日、天使だとか、いろいろな概念を各宗教間で翻訳できるようにしたら良い、というようなことを書きましたが、似ている概念だと思います。

 

山折哲雄さんは、出口王仁三郎さんの「全ての宗教は同根」という発想により、宗教間対立がなくなるかもし れない、というようなことを書いていますが、もっと言えば、各宗教間の言葉、概念を翻訳することにより、「ああ、そうなんだ。同じだね」というようなこと になるのではないか?とすら想像してしまいます。


みなさんは、どう思うでしょうか?






 

とは言え、この山折哲雄さんは、「これからの宗教家は、一面相ではいけない。」というようなことを述べて います。

簡単に要約すると、芸術をやるべきだ、ということのようですが、私が更に翻訳すると、「いろいろな手段で表現をすべきだ」というように読めます。

これは、出口王仁三郎さんが、絵、陶器、詩などをやっていたことに関連して語っているのですが、私はむしろ、「これから高次元を正しく伝えていくには、宗 教家であってはいけない」、とすら感じています。


前の会社のあわない奴に、「ミュージシャンは政治を語るべきでない」と」偉そうに言っていた奴がいますが・・・「私は「そう・・・」と適当に返事をしてお きましたが・・・だれが、何をしてはいけない、という発想がもしあるのなら、おかしいと感じます。


別にそんな制限があるわいけではありません。

しかし、政治に限らず、少なくとも、高次元については、宗教家以外は語るべからず、という暗黙の了解のようなものが、これまでは日本にはあったようです ね。

しかし、今はもうすでにそれはなくなっていますね(笑)。


この本に、出口王仁三郎さんの言葉として、
(引用:241ページ)
「わたしが、宗教が芸術を生むのではなく、芸術が宗教の母であると、喝破したのは、今の人のいう芸術のことではないのである。造化の芸術を指していうたの である。日月を師とする同化の芸術の謂(い)いである。」
(以上)

と書かれています。

彼の言いたい芸術とは、形作る、ということのようです。
つまり、美を極める、ということではないようですね。

もしそうであれば、私の言っていることにとても近いように感じます。
表現する、ということの多様性を言っているように思います。


それは、場合によっては船井幸雄さんのような経営によって、でも良いのだと思いますし、森田健さんがDVDなどを使って表現するのも良いのだと感じます。

ただ、そういうことだけではなく、いろいろな分野の人たちが、もっと高次元を表現すればよいのだと思います。

そうでないと、正しく表現できないのではないかと想像します。


もちろん、今まででも、歌などで宗教的なことを表現する人というのはいました。

ポップな・・・たとえばフォーク的な歌で表現する人もいました。
黒人の人がやるR&B調ゴスペルもそうでしょう。

ただし、今までのものの多くは、「神をたたえよ」、「イエスが・・・」、のようなものばかりでした。

私はそれは高次元を表現しているとは言えない、と感じます。

もっとうまく表現していく方法がきっとあるでしょう。
その意味では美空ひばりさんの「川の流れのように」などは、よっぽど、高次元を表現している、と言えあるかもしれません。

もっとも、「じゃ、おまえやれ」と言われて、すぐにはできない私ではありますが(笑)。

 

 

少しずれますが・・・
私は、歩いている、人が不思議そうに顔を見ます(笑)。
無視してほっておくと、ずっと見ています・・・

で、それが、不愉快で、一体私の顔のどこがそんなに不思議なんだ、とこの数年ずっと思ってきたのですが・・・
いろいろ試行錯誤して、「どうも、私は、勝手に見ろ、としているのが原因で目が動いていないのが珍しく見えるようだ」、「まっすぐ歩いているのが異様に見 えるようだ」などなど考え、そうでなくやってみたりしました(笑)。

で、ある程度効果はあるのですが、どうも違うようでした。

最近、船井幸雄さんや森田健さんが、太陽のようなものに包まれる意識を持って・・・と書いていますので、なかなかイメージできませんでしたが、仏像の後ろ にある後光をイメージして、その後光で人を一緒に包んでしまうような意識で歩くことをしてみました(笑)。

そうすると、どうも、人が私の顔をじろじろ見なくなってきました(驚)。

ですので、しばらくこれをやってみますが・・・

 

3次元的理由を考えますと、私はこの4,5年・・・と言いますか、5,6年前にいろいろあり、顔つきがど うしても、怖い顔になってしまっていました。

自分ではどうすることもできませんので、少なくとも、その顔によって人に迷惑をかけたくない、と思い、で きるだけ、人に顔を見られないようにしようと思いました。

しかし、どうしても、変な氣を発していたようで、私が離れていても、人が振り返ります。
ですので、氣、気配自体をまったく消そうと思ったことがあります。

どうも、これにより、何か氣、気配のようなものが、どこかおかしくなっていたのではないか?と、想像します。
それが、背中あたりに、金色の丸い後光のようなものを意識することにより、以前のような正常の形に似戻った・・・ということなのかもしれませんが、実際は 良く分かりません。


みなさんは、どう思うでしょうか?




で・・・「運命は決まっている」、ですが・・・
私は、この概念を知って以来、どうしても、どこかやる気が沸いてこない状態が続いていました(笑)。
実際は、こんなことを書いているくらいですから、やる気がないのではなく、どこか自分の人生というものをほおり出してしまっているような感じがしていまし た。

森田さん自身、「決まっているのだから気が楽ではないですか・・・」など書いていますが、それらを読んでも、どこか、無気力感のようなものが付きまとって いました。

で、いよいよいろいろやらなくてはならなくなりましたので、試行錯誤していますが・・・
どうも、「運命は決まっている、ということを知っていながら、あたかも知らない振りをして、自分で運命を変えてやる、人生を切り開いてやる、と思いながら 一所懸命やる。そして、その結果がでてきた後、”ああ、こういう運命だったんだな”と思えばそれで良いんだな」
と思ってみることをやっています。

以前よりは、ずっと自らやってやる、という気が出てきています(笑)。

森田健さんのように、「運命は決まっている」と知っていながら、なんでもやってしまえる人もいますが、もし、私のように、そうでない人は、試してみても良 いかもしれません(笑)。
まだまだ試行錯誤中ですが。


あるいは逆に、私の方で、「こうしたら、良かった」というのがあれば、聞いてみたいくらいです。

 

みなさんは、どう思うでしょうか?

 

 

 

 

 

さて・・・・・・


「みろくの世」―出口王仁三郎の世界天 声社 ;  (2005/08) 出 口王仁三郎言行録刊行委員会 (編集), 上 田 正昭: ですが・・・
山折哲雄さん(国債日本文化研究センター名誉教授)と言う方が平成6年に行った講演録:タイトル:出口王仁三郎翁顕彰会・記念講演(百面 相王仁三郎ー日本文化の脊髄)
の続きです。

昨日少しあやふやでしたので、正確に書きますと、仏教では、悟った人間のことを仏という、その発想と、神道の死んだら神になる、という発想が合わさり、死 んだら仏になる、と日本ではなっていった・・・と書かれています。
きっと、そうなのでしょう。

ところで、みなさん、神道って知っていますか?
もちろん、精神世界に詳しい方はよくご存知だとは思いますが、そうでない方はどうでしょう?

私が神道を知ったのは正確には覚えていませんが、今生では、ずいぶん後だったように思います。
しかも、最初は、戦争とからめてひどく悪いものとして、知ったようにも思います。

ここら辺は、前の戦争で日本の底力のようなものが神道によってなされた、と想像したアメリカの戦後教育政策によるところが大きいように感じます。

もちろん、国家神道のありかたの反省もあるでしょうが。

普通でしたら、神道の概念というのは、あの戦争で消されていたかもしれませんね。
しかし消えなかったのは、仏教と一緒になってしまっていたが故、仏教も神道も知らないアメリカには、区分けができなかったので、完全に消すことができな かった・・・・ということもあるかもしれないと、想像しますが。

私の世代は、「♫戦争を知らずに僕らは生まれた〜」どころではなく、「♫神道を知らずに僕らは生まれた〜」世代とも言えるでしょうか?




しかしながら、お祭りですとか、七五三、豆まきなどなど、神道を知らずに、私などは仏教のものだと思い込んで育ってきても、ちゃんと神道というものは、ど こかに受け継がれているわけですね。
ですので、私がちゃんと神道を知っているとも言いませんし、神道が完全に高次元の全てを語っているかも分かりませんが、ちょっと神道のことを知れば、ある 程度自然に入ってくる下地はあるようです。

それをして日本人とも言えるかもしれませんが、私より更に下の世代・・・生まれるのが遅い世代・・・が、更なるゆがんだ教育を受けた(と想像される)結 果、はたしてどうなのかは分かりません。





で・・・本当に少しだけ深く神道を知ったのは最近ですが、感じとしては、「そんなに悪くないな」、「なかなか正しそうだ」という印象があります(笑)。

と、言いますか、私がとりあえず今のところまでの知識で、既成宗教として、高次元のありかたを一番正確に伝えているのは神道のように感じています。

もちろん、私は正しい宗教が知りたいのではなく、正確な高次元の有様が知りたいだけですが(笑)。





で、どうしたかと言いますと、神道はもっと自ら神道がどういうものなのかを、知らせていけば良いのにな、と感じています。

豆まきって神道ですよね?
私は幼少の頃から豆まきといえば、巣鴨の刺抜き地蔵(仏教のお寺)にしか言ったことがありませんでしたので、すっかり仏教の行事だとばかり思っていました (笑)。

もっとも、今ではどちらでも良いのでしょうし、今でも、というより、それが高次元的に何か意味のあることであるのなら、宗教の枠など、もともと関係のない ものであるのでしょう。

みなさんは、神道って知っているでしょうか?




 

 

 

さて・・・本の続きですが、いよいよこの方の講演の最後に近づき、身体の美しさ、と変性男子、変性女子です。

出口王仁三郎さんですが、いろいろ変装していますが、決して今日で言うところのシェイプアップされた体、ということではありません。

今の常識で言えば少し太めですね(笑)。

もっとも、江原啓之さんによれば、「霊能力のある人の中には、体質的に太めの人がいる」ということですので、そのせいもある のかな?と思いますが。

いずれにしても、それにより、胸なども膨らんでいますので、身体によっても女性を表現することができています。


思うに・・・男性は太るとちゃんと乳房のあたる部分に脂肪が付いてくるのですが、どうでしょう、仮に165センチ・80キロ、という女性と男性がいたら、 顔と下を隠しさえしたら、男だか女だか分からないかもしれないですね。

場合によったら、胸の大きい方が男性だった(笑)なんてこともあるかもしれません。

体重のある方には恐縮ですが・・・変な話、太りますと、顔も、男女あまり区別が付きにくいですね。

 

私は小学生3年生くらいの時、太っていた時期があり、胸が出ていましたが(笑)、プールなどで裸になるのが恥ずかしかった記 憶があります。
プールで撮った写真というのは、大抵、手を上に上げて、少しでも胸のふくらみが出ないようなポーズになっています(笑)。



それはどうでも良いのですが、やせているのが美しい、という今の西洋文化による美の基準は、男女さをより浮かび上がらせる効果のあるものともいえるかもし れませんね。

それが、良いのか悪いのか分かりませんが。
身体的に男女差が如実である、ということは、何を招くでしょうか?



経済的な効果はあるでしょう。
洋服ひとつにしても、男性用、女性用がきっちり分かれてくるところです。

現代医学で言えば健康にも太り過ぎよりは良いですが・・・果たしてこれは本当なのか疑問です。
あくせく働くには痩せている方が良いでしょうね。

しかし、エスキモーなどはそれなりに寒さ対策として脂肪は必要でしょうし、奥地の民族でも、いくつかの国でも、太っている方が、美しい、としているところ はたくさんありますね。

よく分かりませんが。

ただ、もし痩せ政策をアメリカがやっているとするのなら、肉を売ったりはできないでしょうから、この点については、陰謀があるかどうかは疑問です(笑)。

しかし、八頭身美人=美人、というルールでやられますと、西洋人のほうが圧倒的に有利ではありますね。
男女ともに。

もちろん、最近は東洋人も西洋人的になりつつありますが・・・良いのか悪いのか。


それでも、アメリカのドラマなどには、70年代の映画では到底考えられなかったような、日本にいるような女性が出てきたりしますので、アニメなどの影響 で、日本人的良さが、西洋人にも浸透しだしているのかもしれません。

そうなってきますと、今度は、だれの操作もなければ、そういう仕草は日本的、東洋的な体系の方が似合っていますので、今度は逆の傾向が出てくる、つまり、 日本的美さ、東洋的美さの時代になってきたりもするかもしれませんね。

そうなった時に、西洋人の方が、東洋的美を知っているだなんてことになっていたくないですね(笑)。

 

 

みなさんは、どう思うでしょうか?


 

 

 

 

 

 

さて・・・・・・
変性男子、変性女子ですが、284ページには、大本では、男性は、女性の魂を持ち、女子は、男性の魂を持っている、として、それを山折さんが解釈をして、 男性は、肉体は男性だが、精神は女性の魂を持っている、女性は肉体は女性だが、精神は男性の精神を持っている、としています。

また、山折さんは、ガンジーを研究したことがあるそうです が、ガンジーは女性になろうとしていた・・・、
当時イギリスの軍隊に対して、反英独立戦争は非暴力によらなくてはならない、と考えた。そして、肉体の限界を超えて、女性になることができるか、という実 験を始めた、と書いています。

ひとつ???なのは、イギリス軍に対して、なまじっかな暴力では対応できない、それならと繰り出した非暴力、と山折さんは解釈しているように読める箇所が ありますが、この解釈はどうでしょうか?
後で書きますが、違うように感じます。



で・・・
これは、分かりやすいようで分かりにくいですね(笑)。
そもそも、男性に在る精神、というものがあるのなら、それをして男性の精神であるわけで、それは女性でも同じです。
それをわざわひっくり返すということは、どういうことでしょうか?

つまり、本当は、男性は体は強いが、精神は弱いとか、優しいとか、繊細とか、
は女性は、体柔らかだが、精神は、強いとか、エゴ的とか、大胆とか・・・
(事実かどうかは知りません。たとえばです)

そういう言い方をすれば良いわけですね。


思うに、山折さんの解釈を正しいものとするなら、出口王仁三郎さんは、高次元的解釈として、3次元 一般で言われているような典型的な女性の内面像というのは、実は虚構であり、それは男性のものであり、そして、同様、男性に言われている男性像というの は、嘘であり、それは女性に備わっているものである、ということをあえて言い表したかったのでしょうか?



大本で伝えられているものを直に読んでいませんので、良くは分かりませんが、私的には(笑)、政木和三さんの言っていることを参考にするのなら、

「大本では、男性は、女性の魂を持ち、女子は、男性の魂を持っている」というのは、おそらく、高次元の制度上、必ずしもそうなっている、ということではな い、ということであり、


・・・人間に2つ目がついている、のように決まったことではなく・・・という意味ですが。

政木フーチ・パターンによれば、どうも理想的な生命体の有様というのは、男女ともに、まん丸の女性的と表現されるもののようです。



そこで、これらを加味して、道徳的解釈をするのなら・・・

男女ともに、理想とされる精神状態は、このまん丸であり、どちらかと言えば、女性よりも、男性にこのまん丸の生命体を持っているものが多い・・・
そして、男性には、男、男というのではなく、もともと持っているその優しい何かを使えるようになりなさい、しかし、強い肉体があるから、そう簡単ではない だろう・・・
(大国を見てみれば分かりますね・・・
・・・かく言う私も、実は体・・筋肉を鍛え始めて以来、心のどこかに、ぐちゃぐちゃ言わず(きっと話し合いでなく)、体で来い・・・というような、まん丸 ではない間違ったことを考える時があったりしましたが)

 

女性には、精神は男性的だが、今生では、肉体的な力も少ないし、子供も育てなくてはいけない、母性もある。女性的なまん丸の精神を学んでいくには、 最適ではないだろうか?
(ガンジーの非暴力のイメージですね。
・・・非力な時に、暴力によっての不条理を受けますと、多くの方は、比較的容易に非暴力の発想に行き着くように感じます。
また守らなくてはならない人がいますと、強くもなりますが、全体での平和というものを望むようになりますね)


という解釈ができるかもしれません。


これは、一理あるかもしれません.

しかし、どうでしょうか?(笑)。
どこか違う話ですね。

となれば、おそらく、まん丸の生命体、という話と、男性性、女性性、という話は同じ土俵の話ではないのでしょう。


マーヤから考えて見ますと・・・おそらくは、上記の解釈に似たような話にたどり着きそうな気がします。



陰陽合一から考えるとどうでしょうか?
・・・良く分かりません。
しいて言えば、男女ともに、もともと1つの性で、陰陽合一しているのだよ、ということなのかもしれませんが。


森田健さんが女装をしたことにより、運が上がった、ということですが、これが、3次元的に視点移動により、何か違うものが見えてきた・・・・ということだ けなのか、それとも、高次元的にも、大きな意味があり、それが、この出口王仁三郎さんの言っていることと、何か関係があるのだろうか?とも考えますが、良 く分かりません。

ただ、女性を演じる、ということに、何かあるのかもしれないな・・・・と漠然と思いはしますが。

これが、女性も、男装してみることにより、同じような何らかの意味があるのかどうかについては、良く分かりません。

ガンジーの話を考えれば、女性は女性のまんまで良いようにも感じます。



みなさんは、どう思うでしょうか?

何を思うでしょうか?


ところで、先のガンジーの件で、なまじっかな暴力・・・ですが、これは違うように感じます。
むしろ、
「暴力は暴力の連鎖を生む。
仮に暴力で加藤が負けようが、それによってイギリス兵が傷つけば、その家族、友人たちはまた、我々に対して敵対の意識を持つことになろう、その連鎖がある 限り、本当の独立、自由などは勝ち取れるはずはない。」

と考えたのではないかと想像します。


みなさんはどう思うでしょうか?

 


 

 

さて・・・・・・


「みろくの世」―出口王仁三郎の世界天 声社 ;  (2005/08) 出 口王仁三郎言行録刊行委員会 (編集), 上 田 正昭: ですが・・・

いよいよ最終章に入りました。
思うに、意見を書いている方のほとんどが学者の部類の方のでだとは思うのですが、出口王仁三郎さんを、宗教家(宗教人)、思想家としてだけ扱っているの が、感じられます。
つまり高次元に通じている人、と言うスタンスがない、ということですね。

それはそれで、その通りでもあるのですが、どこかに違和感を感じます。
一体どこでしょうか?

想像するには・・・ある方向があった時に、精神世界では、大抵神示によってのものですので、

その方向性への疑いを持つ持ち方(?)に困ってしまう訳ですが、思想家とした場合には、その方向性そのものへの、感想、意見 というものが入ることができる、ということかもしれません。

いろいろ読んでいますが、カルト宗教などは、別として、あまり神示そのものへ疑問を持つ、というような本はないように感じます。

私は時々、「その神啓は、どこか翻訳(高次元→3次元)に勘違いがあるのではないか?」などと書いたりしますが、あまりそう いう人はいませんね。

ただ、それは、「信用できそうだ」と言われているほとんどの人が、同じようなことを言っているから、ということもあると思います。

つまりは、同じようなデータしか集まりませんので、3次元的に、それを観察してみると、信用できそうだ、となるのだと思いま す。

その意味では、神示ではないですが、森田健さんの集めている高次元データは他の人と違いますので、その方面からの考察、ということが可能ですね。


一度、学者の方も神示と向き合ったりしてみると、何か生まれるかもしれませんね。


そして、高次元に通じている人がいる、ということを、または、高次元の記憶がある、という人がいることを、真実であるとした上で、学者の方がいろいろ考え みるのも、面白いかもしれませんね。


テレビなどでは、まず「それが信じられるか?」のようなところから始まりますが、もちろんそれは当然ではありますが、一度、信用できそうな神示をしている 人と、高次元と通じている人がいるというのはあり得る、というスタンスで、議論のようなものをやってみると何かあるかもしれません。

そうしますと、仮に、
A:「こう言っています」
B:「それは、どういう表現ですか?」
A:「〜〜こうです」
B:「ああ、それなら、そうではなく、こういうことですよ。だって〜ですから。」
A:「ああ、そうですか。やっと分かりました」

のようなことだって、あるかもしれません。


たとえば、今副島隆彦さんの、本当はこうだ・・・みたいな本が出ていますすが、あれらが真実だとすれば、もし、神示で、
「だれそれがやったことは間違いです」
と言われたとして、そもそも、だれそれがやったと歴史上されていること自体が、事実と違っていたとしたなら、当然解釈も違ってくるのだと思います。

いかがでしょうか?
みなさん、はどう思うでしょうか?




さて・・・・・・
また時間が短くなっている、ということで、考えが浮かびましたが・・・

小松英星さんなどは、「時間が短くなっているので、優先順位をつけて、必要なことを優先しよう・・・」のようなことを書いていますが、これが正しいとしま すと、その人を取り巻く物理的なものというのは、以前と同じ状態にある、ということなのだと感じます。

 

変わったのは意識だけかとも思いますが、しかし、もし自分という3次元的な物体も、時間とともに完全同期しているのなら、時 間が短くなろうがどうであろうが、すべからく速くなっている、というだけですので、きっと何の不便もないのではないでしょうか?

とするなら、ひょっとすると、人間という物体だけは時間との同期からはずれている可能性があるかもしれませんね???

どうでしょうか?


政木和三さんは、「スピードが速くなると、水はコンクリートのように、空気は気体のようになっていく・・・」
と書いていますが(これは科学でも正解ですが)、もしそうなら、そして、人間だけ時間のリンクとはなれているとしたら・・・

日本からホノルルまで従来時間で6時間くらいかかりますが、これが今でも6時間かかっているとするのなら、それは、以前よりは早くなっているということでしょ う。


燃料はどうなっているでしょうか?

 

以前より燃費が悪くなっているのか?
良くなっているのか?

悪くなっているとしたら、これはすべからく人考えても、スピードあたりの抵抗が大きくなっている、ということなのしれません。

つまり、以前と同じ時間内で同じ量のことをしようとするなら、以前より、大きい抵抗を感じなくてはならない、ということで しょうか?

もし、抵抗が大きくなっているなら、以前よりゆっくりやらなくては、何事も、苦しい、ということになるでしょう。

あるいは、何らかの理由・条件で逆かもしれません。

 



何かここらあたりに、時間が短くなった、ということの意味がありそうにも感じます。


みなさんは、どう思うでしょうか?


 

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