理由もなくこればかり聴いてしまうCDのコーナー

CDはたくさんあるのですが、なぜか、いつもこればかり聴いてしまうCDを紹介します。

 


 




272:写真はなし
   
 

さて・・・・・・
超私ごとですが・・・

ですので、まったく高次元と関係ありませんので、読みたくない人は是非飛ばして欲し いです。
ちゃんと、間が空けてありますので(笑)。








 




で・・・・・・本日、ある会社へ面接へ行きました(笑)。
50前後でしょうか、社長が出てきましたが・・・
大会社の技術者出身のようです。

しかし、偉そうですが・・・私と営業・音楽についての話を真剣にしたいのなら、もう少し・・・、と言いたかったです。
それくらい・・・でした。
音楽はともかくとして、営業職の面接だというのに。

森田健さん風に言わせて貰えば、
いろいろ斬らせてもらいました。
もちろん先方が先に斬りつけてきたからですが、全部避けました。
私の太刀は全部入りました。
ですので、あの社長は得るものがあったと勝手に思っています。
良いことをしました。

最後は、「何時まで大丈夫ですか?」
とこちらから聞いて、10分くらいずっとしゃべり続けました。
そして15分前に終えて、私が出て行くと、ちょうど10分、社長さんが次の仕事の準備に使えるように配慮しました。


はっきり言って・・・私の太刀を半分以上返すような社長の下でなければ、働きたくありません。
そうでなければ、どうせまたすぐに飽きてしまうのは、目に見えていますので・・・。

別に言い争ったわけではありません。
「これは、こうが真実です」
と、穏やかに、し言っただけですが。
本当に真実かどうか知りませんが、少なくとも、社長さんの言うことより、ぜっと真実に近いはずです。

社長さんにとって、私のしゃべっていることが、全て未知のものだったようです。
未知だけれど、絶対”正しそうだ”と感じたと思います。
ですので、太刀はひとつも返ってきませんでした。


それでも面接の練習になったので、感謝です。

しかし、どうして大企業出身者といのは、ああ横暴なんだ、と思います。
自分の今の会社は社員10名ということを忘れているのだろうか?
人の職歴を会社の大小と勤務の長さで否定したのなら、その小僧の太刀を全部返さなくてはいけません。
礼儀違反です。

同意できたのは、「アマチュア・ミュージシャン達に機会を与えたい」という言葉だけでした。
それも、一体どこまで本心なのか図りきれませんでした。
図りきるには、後1時間必要です。
しかしそうすると、社長さんが、1週間くらい立ち直れなくなってしまうかもしれません。
万一その言葉だけで、20代の若い社員を騙しているのだとしたら、残念です。
実際はどうかは分かりませんが。
私はスローガンだけでは騙されません。


私が大学生の時にインタビューに行ったIT起業の社長は、私の質問にすべて答えきりました。
そして「卒業したら来い」と言いました(笑)。

それぐらいでなければ、私を雇わせません(今は強気:笑)。



それで、こちらから「御社の考えは良く分かりました。ありがとうございました。もし(強)、興味があればご連絡ください。」と言って、頭を下げて、出て 行ったら、ほとんどのオフィスにいた社員らしき人たちが隣の部屋に集合して話を聞いていたことが分かりました(笑)。
そして、私が「ありがとうございました。失礼いたします」
と言うと、全員、
「ありがとうございました」
と、明るく大きな声で言ってくれました(笑)。
救われました(笑)、少し・・・気持ちがですが。

ひょっとしたら、私はみんなが言いたかったことを言っただけなのかもしれません。
それとも、みなさん、私の言ったことに、同意してくれたのかもしれません。

みなさんは、どう思うでしょうか?

(偉そうにすみません)










さて・・・・・・
ここから、高次元の話ですが・・・
そんな訳で、場所は秋葉原でしたが、御茶ノ水には寄らず(笑)、五反田に向かいました。
八芳園に行ったのです(笑)。


で・・・私の出身大学名を初めてばらしますが(笑)、明治学院という大学です。
ヘボンさんが作った大学です。
この八芳園の隣です(笑)。

この八芳園、明治学院、都ホテルが、どうも、細川家の屋敷の土地だったように思いましたが、思い違いかもしれません。

五反田で降りて、まっすぐ歩きました。そして、明治学院の前を左に曲がり・・・すると八芳園に着きます。
目黒からも行けます。
品川からも行けます。
あそこら変は、ちょうど山手線の曲がり角に当たるのでしょう。

今は地下鉄で、もっと近くまで行けるはずです。




なぜ、八芳園に行ったかと言えば、「気の力」(船井 幸雄 (著), 岡崎 久彦 (著)海竜社 ; ISBN: 4759309330 ; (2006/06) に、ここの庭園にある神社の石段辺りがすごく良い氣が出ている、と書いてあったからです。

で、行ってきました。

場所が良く分かりませんので、女性の職員さんに聞きました。
丁寧に教えてくれました。
庭に出ましたが、また分かりませんでした(笑)。
男性の職員に聞くと、はじめ、変な顔をしていましたが、教えてくれたので、「ありがとうございました」と言いましたら、嬉しそうにしていました。
どうも、私の顔は、どこなんでしょうか?怖いらしいのです(笑)。
昔はそんなことはなかったように思うのですが・・・

で、神社に向かいますと、さっきの女性 職員さんが、工事中なので分かりにくいだろう、とわざわざ庭まで来てくれていました。
教育の行き届いたところですね。
私は一円も落としていきませんのに、親切丁寧です。

私の妹の結婚式はここでやりました。
性懲りも無く、私はピアノをずっと弾いていました。
BGMは、私が出席する会では、他には任せられません(笑)。


で、その神社に着きましたが・・・
ちゃんと女性職員さんが、前までついてきてくれました。
若くてかわいい方です。
神社は、小さいこじんまりとした神社です。
八芳園の庭のせいでしょうか、それとも他の理由でしょうか、とても清潔感があります。

「船井幸雄さんという方によると、この神社にすごい氣がでている、ということなんです」
と、一応説明しました(笑)。

で、一歩踏み出しましたら、右手がしびれ出しました。

私は、この3,4週間、ずっと履歴書と職務経歴書を作り続けていましたので、スクロールのための右手人差し指が疲労して、それと、小学生の時、ピッチング 練習をやり過ぎて(笑)、どうも、右手の肘の軟骨か何かが変なようで、現在、瞑想中などにも、しびれ出します。
角度によるようですが、この神社に入ったとたんしびれ出したところをを見ると、角度ではなく、瞑想の何かがしびれさせている可能性もあるかもしれません。
悪いところがしびれるのでしょうか???

入ったとたんしびれ出した訳ですが、ずっと歩いていても、しびれる、という現象は一度も起きません。
やはり、何かあるかもしれません。

で、しばらく観察していました。
もちろんお参りもしましたが(笑)。

あっちこっち動きながら観察しました。
はじめは、確かに、良いようなのですが、特に何かすごいものを感じる、ということがありませんでしたので、持って行った上記の本の記載のある箇所(122 ページ)を開きました。

すると、どうも、石段辺りが、強い氣を感じるようです。
両者ともに来ているようですが、そこがすごいようです。
で、その石段をいろいろ観察しました。

どうやら、3段ある石段の2番目の石の上に立つと、足の裏からすごい磁力に似たものが入ってくるように感じます。
もっとも、岡崎さんも書いていますが、先に船井幸雄さんからそういう話を聞いているので、それこそ気のせい、ということもあるかもしれませんが・・・。

1段目も、3段目も似たような感じでしたが、2段目の石段が一番すごいと感じました。
どんな石段かと言いますと、2メートルくらいの長い石で、それぞれの段が出来ていて、整形はされておらず、自然のままの状態で、段に収まっている、という 感じです。



この神社から見て、左の方は、北方謙三さんが常宿にしていた都ホテル東京で、神社の後ろ側が、明治学院です。
私個人にとっては、なんとも縁のある場所です(笑)。


枯葉が一枚落ちてきました。
よっぽど持って帰ろうかと思いましたが、人に踏まれないように隅に移しただけで、持って帰ってくるのは止めました。
悪いことがあると、その枯葉のせいにしそうですので(笑)。
良い事があったら、自力だと思うでしょうか?
それでも、枯葉のせいにするでしょうね、きっと。


工事中の人たちが、私のことを不思議そうに見ていました(笑)。

どうも、何か見えそうな乱視の強い、と(眼鏡屋さんに)言われている左目で見て見ました(笑)。
今はコンタクトで、乱視を矯正していませんので。
もやもやは見えるようですが、これはエネルギーなのか、目の状態なのか、なんだか良く分かりません(笑)。

私は、時として、目にクルクル回っている透明の模様とか、何か透明な煙状のものとか筋のようなものとか、紫色の点とかが見えるのですが、これは、目の病気 でしょうか?
それとも、何かあるのでしょうか?
だれか知っていたら教えて欲しいですね(笑)。
紫の点は、どうも何かあるようです(笑)。

そう言えば不思議なのですが・・・
「にんげんクラブミーティング」のことを書いていると、耳鳴りがします(笑)。
面白いですね。




本に岡崎さんが書いているように、両手を開きますと、何か感じやすいようでした。
気のせいかもしれませんが。


結局、どうでしょう・・・30分くらい いたでしょうか?あるいはもっといたでしょうか?
江原啓之さんによると、3時以降は神社のお参りはしない方が良い、というので、3時少し前には着いていましたので、30分くらいでしょうか。

今後、何か起きるでしょうか?
何か起きましたら、ご報告します。





ちなみに、ここに着く前に、通り道ですが、神社にひとつ寄りました。
五反田です。
どうも、次に書く履歴書が、この神社の近くの会社のようなのです。
(候補はたくさんありますが:笑)
どうしても、転職となりますと、過去の経験を問われますので、そうい仕事を見つけますと、S社関連の会社やオフィスが集まっている辺りが一度は登場しま す。

で、土地にご挨拶をしてきました。
お願いはしていません。政木和三さんは、それは違うと書いていますので。
「こんど申し込みますからね。よろしくね」ですね。
森田健さんのぬいぐるみを持った少女観音菩薩の夢以来、神社の神様が、そういう存在に見えてしまいます。

その意味では、本当に座敷わらし、というのは、神かもしれませんね(笑)。
もしそうなら、神が
「私はいつもこうして出てきているのに、だれも神だと気づいてくれない。人間が勝手に作った神の姿は、神じゃないのに・・・」
と言っているかもしれませんね。
もしそうなら、私には良く分かります(笑)。
私は”らしい”のが嫌なのです。
ですので、誤解も生みますが(笑)。

だって、らしい、奴で本物にあったことがないのです。
そのらしい、とは、典型的、ステレオ・タイプ、という意味ですが(笑)。
みなさんは、どう思うでしょうか?



そう言えば、朝も氏神さまの神社に寄って出て来たのを思い出しました(笑)。
あまり回りすぎるのはいけない時もあるようです。
三輪さんがテレビで言っていました(笑)。

きと、氏神さんと、これから履歴書を出す会社と、妹が結婚して船井幸雄さんの本に出てきた神社なら問題ないでしょう(笑)。
何か頼んだわけではありません。
ちょっと問いを発したのと、挨拶をしただけですので(笑)。

みなさんも、近くの方は八芳園に行ってみると良いかもしれません。
きれいな庭を見ながら、お茶を飲んだり、食事をすることもできます(笑)。

 

 

 


 

 

 さて・・・・・・いろいろ ありますが・・・



「みろくの世」―出口王仁三郎の世界天 声社 ;  (2005/08) 出 口王仁三郎言行録刊行委員会 (編集), 上 田 正昭: を、先日開きましたら、面白いことが書いてありました。
「霊界物語」の1節ですが、『大宇宙完成までの「五十六億年」』とタイトルされた箇所です。

そこには、宇宙の始まりについて書かれているのですが、はじめのところを引用します。
(引用146ページ)
『大宇宙の元始にあたって、湯気とも煙ともなんとも形容し難い一種異様の微妙のものが漂いいたり。この物はほとんど十億年間の歳月を経て、一種無形、無 声、無色の霊物となりたり。これを宇宙の大元霊という。わが神典(『古事記』)にては、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と称えまたは天之峰火夫神 (あめのみねひおのかみ)と称し、仏典にては阿弥陀如来と称し、キリスト教にては、ゴッドまたはゼウスといい、易学にては太極といい、支那(中国)にては 天主、天帝、または単に天の語をもって示されいるなり。国によりては造物主、または世界の創造者ともいうあり。』
(以上)

どうでしょうか?

いわゆるサムシング・グレート、あるいは創造主についてですが、
古事記では、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、または天之峰火夫神(あめのみねひおのかみ)、
仏典にては阿弥陀如来、
キリスト教にては、ゴッドまたはゼウス、
易学にては太極

支那(中国)にては天主、天帝、または単に天の語をもって示されいるなり、
国 によりては造物主、または世界の創造者、

というように書いています。



古事記については、きっとスタンダードな解釈があるのでしょうが、私はそれを知りません。
ですので、何とも言えませんが、とにかくこう書いています。


仏典においては「阿弥陀如来」が創造主である、という解釈は、私にとっては、斬新でもありますし、浄土真宗での、運命は阿弥陀如来に委ねるしかない、とい う言い方を踏まえると、実に論理的に成り立ちます。


キリスト教も、私は聖書 を良く知りませんので(笑)なんですが・・・ゴッドまたはゼウスというように書かれています。
全知全能の神、オールマイティ・ゴッドということですね、きっと。
少なくともキリストのことを指しているのではない、ということは確かですし、これは、欧米の人たちは、創造主とキリストは別、ということに関しては、常識 でしょう。


そして、易学では「太 極」というように書いています。
これは、また私にとっては新しい解釈です。
大極は、どこか形容詞のように感じていましたが、そうではなく、名詞として捉え、そしてそれは創造主のことを言っている、ということでしょうか?

それとも、元々古事記などは、状態を擬人化したものでありますので、太極は正に状態であり、状態をそのまま状態・・・形容詞で表しているのかもしれませ ん。



支 那(中国)にては天主、天帝、または単に天の語をもって示されいるなり・・・
ですが、どれも私にとっては馴染みのない言葉ですので、コメントはありません(笑)。


国によりては造物主、ま たは世界の創造者ともいうあり・・・
は、正に創造主ですね。



これが本当かどうかは私 には言えませんが、これらを踏まえて、それぞれを考えてみると、何か新しい発見があるかもしれませんね。



http://www5f.biglobe.ne.jp/%7Emotion -emotion/j99986.html に書いた岡田多母さんの「愛しの地球(テラ)へ」 (1996年:風雲舎)では・・・

何にもない時に、「アル」という存在だけがいて、「アル」が思いを抱き、それが明確になり・・・「アル」の石がひとつに結集され、そのすべてを想像した、 それを「アル」の意思が決定し、実行に移された(インパルスの発生)・・・

が、始まりのようですので、2つをつなぎ合わせれば、インパルスって何だろう?とは思いますが(笑)、インパルスの発生が、出口王仁三郎さんの言うところ の、もやもやした漂うものの発生なのだと思います。

GOO 辞書で調べましたところ、
(引用)

インパルス 3 [impulse]

(1)〔生〕 神経繊維を伝わる活動電位。
(2)〔物〕 力積(りきせき)
(3)ごく短時間だけ続く、大きな電圧または電流。落雷のときの 電流がその例。衝撃電流。

(以上)

だそうです。

で、仕方がないですので、力積を調べますと、
(引用)

りきせき 0 【力積】
力が作用した時間と、力との積。力の大きさや方向が時間とともに変化する場合に は、力を時間で積分した値。力積は力を受ける物体のその時間内での運動量の変化に等しい。イ ンパルス

(以上)


ということです(笑)。
単純に電流が走った、と思えば良いのでしょう。


としますと、創造主より前にもうひとつ「ある」という存在があるのかもしれないですね。
あまり細かく見ても仕方がないのでしょう。



やはり、創造主=阿弥陀仏=太極、
というのが、印象深い文章ですね。


一応太極を調べますと・・・
(引用)

たいきょく 0 【太極】

〔易経(繋辞上)〕易学に発し、宋学の宇宙生成論で重視された概 念。
気の原初の形で万物の源となる本体。
それ自体は形も動きもなく、ここから陰陽の二元が生ずるとする。
周敦頤(しゆうとんい)の「太極図説」や、太極を理として自然や 万物の存在を根拠づける朱熹(しゆき)の理気二元論などで説かれる。

(以上)

だそうですので、この辞書の書いていることは、まさしく、出口王仁三郎さんの書いていることと、一緒ですね。

そうしますと、太極を形容詞として捉えていたのは、概念ですので、間違えとは言えないのだと思います。


と言うよりも、もともと古事記、日本書紀などは、状態、概念を人間に分かりやすいように、擬人化したものだそうですので、実際は、概念として捉えて考えて いった方が、分かりやすいものなのでしょう。




出口さんは、
「一種無形、無声、無色の霊物となりたり。これを宇宙の大元霊という」を創造主としていますので、逆に考えれば、霊というものは、概念に近いものとも言え るのかもしれません。
意思のある概念・・・とでも言いましょうか。


そう考えると、何か生まれそうです(笑)。

そもそも、古事記、日本書紀が分かりやすいように概念を擬人化したということにより、その後もずっと、霊と言いましょうか生命体と言いましょうか、魂、あ るいは・・・いろいろですが、そういう存在の捉え方に対して、実際と、いくらかのずれが生じ続けてきた、ということもあるでしょうか?

もちろん、はじめはそれで良いのだと思いますが。

もし、本当にずれるとしたら、どうずれるでしょうか?

今、霊は意志を持った概念ということを考えながら部屋の中を見ていましたら、物体達が急にもやもやの煙に見えてきたりしました(笑)。


おそらくは・・・はじめに形ありき、として考えますね・・・擬人化そのものが真実だと発想するなら。
しかし、意思を持った概念である、としますと、やはり、「はじめに意思、あるいは概念、気持ち、創造・・・ありき」となるでしょうか。
「思うからある」
ということですね。

GOO辞書にあります「それ自体は形も動きもなく、ここから陰陽の二元が生ずるとする。」
を考えますと、何か分かるでしょうか?



私ですので・・・音楽で考えますと・・・
メジャーとマイナーというのがあります。
日本語で言えば長調と短調です。
和音・・コードで考えますと、C(ハ長調)というド・ミ・ソがあります。
そして、Cm(ハ短調)というド・♭ミ・ソがあります。
これで陰陽合一を考えると、ハ長調に♭ミを使いますとブルース色がでます。
これは西洋のクラシックの音楽理論にはないものだと思います。
しかし、ハ短調にミを混ぜましても、ただ音がぶつかるだけですね・・・

ド(ハ)を基調に考えるのを止めて、今度は、C=ドミソ、と、Em=ミソシを考えてみますが・・・
これは並び方を変えますと、C=ドミソであるなら、Em=シミソ、となります。
もちろん、どの音が一番低い音になるか、というのは、響き的には大事ではあるのですが、とりあえず無視します。


この2つは実は混ざります。すべての構成音である、シドミソあるいはドミソシを鳴らしますと、Cmaj7というコードになります。
このコードは、短調でもなく長調でもない・・・なんともメローな私の大好きな響きですが、私に言わせれば天国、みろくの世のイメージです(笑)。

もし、これをして陰陽合一と言うのなら、同じルートの長調と短調を混ぜても、陰陽は合一しない、するのは、ある決まりのある長調、短調同士なのだ、という ことが言えるかもしれないですね・・・。
単なる想像ですが。


こんなことも言えます。
Cにとってミはその音を♭させますと、全体が短調になってしまう音です。
しかし、そのミをキー(一番低い音、おおもと)にした短調を混ぜたならば、全体は天国の響きになる・・・。

さてどうなんでしょうか?

良く分かりませんね。

みなさんは、どう思うでしょうか?

ただ、陰陽のおおもとは、ハ長調とハ短調ではなく、ハ長調とホ(E)短調なのかもしれません が(笑)。

ちなみに、ドミソでドを1度、ミを3度、ソを5度と言ったりもします。





仮説として・・・実は西洋で言うところの短調と長調が陰陽なのではなく、長調とブルースが陰陽だとすると、ドミソなら、ド、♭ミ、ミ、♭ソ、ソという5つ の音が意味を持ちます。
もちろん、♭シというもの、本当は大事なのですが。
ドミソの近辺だけで考えれば、こうなります。

ブルーと短調がどう違うかは、言葉では言いにくいですが、ブルーは苦しい、悲しいというイメージでしょうか?
短調は暗いでしょうか?

何と言えば良いのかあれですが、単調はしょせん、長調から発生したもの、含まれるもの、と言う感じですが、ブルーは違うのですね・・・。

ただ、いずれにしても、キーを考えてしまいますと、五行のような関係ではなく、1度の音はい つも一定ですが、それでも、他の4つの音の影響で明るくも暗くもある、とも言えるでしょうか。




もうひとつの発想としては、ドを基準に考えると、ミの音が次に来て、3つ目にソが来ると、全体として、ハ長調ですが・・・
2つ目にミが来ても、3つ目に、ラが来ますと、キーの関係は無視しますが、ラドミというAm=イ短調になります。

次に、ドを基点として、2つ目に♭ミが来て、3つ目にソがくれば、Cm=ハ短調ですが、
3つ目に、♭ラが来ますと、キーを無視するなら、♭ラ・ド・♭ミ、というA♭=変イ長調になります(笑)。

このように、1度、3度、5度と言われる3つの音で、どうも、陰陽は変化していますね。




陰陽合一が先のメジャー7と言うコードだと仮に考えたなら、引用合一とは、何かを変化させるのではなく、また陰と陽を混ぜるのでもなく、何かを加えること なのかもしれないですね。

ハ長調=Cは、シを加えるとCメジャー7になります(ド・ミ・ソ・シ)。
ハ短調=Cmは、♭ラを加えると、A♭メジャー7になります(♭ラ・ド♭ミ・ソ)。


陰陽合一した状態もまた、意思を持った概念であるとするのなら、きっと、物を合わせるではな く、概念、意思をあわせる、ということでしょうか?

そうなりますと、たとえば男女を合わせる、ということではなく、男性性、女性性を合わせればそれもまた陰陽合一と言えるのかもしれませんし、実はそれその ものが本当の陰陽合一だったりするかもしれません。

・・・だんだんなんだか訳が分からなくなってきましたね。

みなさんは、どう思うでしょうか?






さて・・・・・・
分からないことがいろいろありますが(笑)・・・
日銀総裁が、辞めるかどうかとやっていますね。
どうも、世界の裏というか表というか2つの勢力を考えますと、小泉さん的には止めさせたくてしょうがないようなのですが、小泉さんは「辞める必要はない」 と言っています(笑)。

どうやら日本の将来的には、その通り辞めないほうが良いようですが。

これは小泉さんが寝返ったのか、それとも、そう言うことにより、野党が「辞めろ」と言うことを狙っているのか、なんとも分かりませんね。
だれか、真実を知っていたら教えて欲しいと思います(笑)。


 



さて・・・・・・
「昭和史からの警告―戦争への道を阻め」(船井 幸雄 (著), 副島 隆彦 (著):ビジネス社 ; (2006/06) )ですが、本文は読み終わり、今、副島さんによる「船井幸雄論」を読んでいます。

いろいろ書かれていますが、道教と儒教についての話がとても面白いですね。

私は儒教とのいうのは、どうも昔から、変だな、と感じていました。
一時期テレビで、ある東洋の国では儒教の精神が残っているので、親の前ですら、タバコを吸うのに、大変な氣を使わなくてはならない、のようなことを盛んに やっていました。
もちろん、たばこでもなんでも、当然の気は使うべきですので、無礼よりは良いのですが、少なくともそう いった番組では、もうまるで独裁者と奴隷のようにすら感じてしまうような映像でした。

「これはいくらなんでも、少し違うよな・・・」
と私は普通に思っていました。

大体10年くらい前でしょうかね・・・そういった番組を良く目にしていたのは。

ただ、この本に書かれている、「儒教とは、権力者、官僚が人民を統治・支配するための学問である」という説を読んで、なるほどな、と感じました。

儒教の言う、「仁・義・礼・智・信」についても、上記同様、権力者による支配のためのもの、というように書かれています。

これは、最近、船井幸雄さんが良く書く言葉でもありますが、船井幸雄さんの頭の中では、上に立つ人間が、船井幸雄さんの言うところの「天の理」を実践して いる人間である、という前提に立っているものだと私は思います。
その意味で、エリートコースを突き進んできた、とにかく手段を問わず、人の上に立った・・・という一般的な資本主義的な中でできてきた上に立つ人間を想定 してのものではないように感じます。


「仁・義・礼・智・信」は、上に立つ人間の人間性を問わなければ、それは正に、独裁体制を作り上げるには、もっとも適したスローガンですね。

ひょっとしたら、私がしばしば上の人間を斬ってしまう、という人生を歩んできたのは、「仁・義・礼・智・信」がまず前提、というような発想が頭にあったか らかもしれませんね、良く分かりませんが。

そうであると、上の人間は、”立派な人間”でなくてはなりませんし、立派でない場合には、斬らなくては独裁体制が確立されてしまいます。
そして、私は独裁体制を許しませんので、自分の出世ですとか、そういったものを捨てでも、斬らざるを得ませんね(笑)。


言い換えれば、私の考えは、何をして立派というかは、いろいろありますが、少なくとも”人間性において立 派な人間でなくては、人の上に立ってはならない”というものがあったかもしれません。


しかし、逆に発想しますと、副島さん的、道教の発想・・・争いごとはせず、支配秩序維持の発想なし・・・があるなら、ある意味、どんな人間、少なくとも、 そこまで立派な人でなくても良いくらいの人間が上に立っても良いことになるかもしれませんね。

それが正に、年功序列であり、20年くらい前までの日本には、まだまだそういった争いごとは無益である、という考えが残っていたとも言えるかもしれません ね。

ちょっと矛盾しますが、渡井頃は若い頃で、私は、きっと普通よりは優しい人間ではあったのかもしれませんが、理屈ぽかったですし、偏差値教育とアメリカが 一番という宣伝の中で一時期育ってきた人間でありましたので、実力者が上に立つ、というのが正論となりますので、当然、そうしますと、上の人間が私より 劣っていましたら、斬らざるをなかったのかもしれません。

何かどっちにしても、以前は、同じようなことをする運命だったように感じてしまいますが(笑)。



その意味では、ちょうど、私・・・東京オリンピックあと・・・くらいに生まれた世代、というのは、徐々に日本的なものを忘れ去ってきた世代かもしれません し、私はいつも、同世代よりは、先取りでしたので、あるいは、マクロでは、私より、いくらか後の世代、東京で言えば学区制度が崩れていった時期、世間で は、昭和50年前後に生まれた世代、というのが、日本式道教的発想がきわめて少ない世代、とも言えるかもしれません。
良く分かりませんが。


しかし、複雑ですね。

儒教的だと、勉強以外は、まったく能力を問われない人材が、人の上に立ち、それ故、絶対に制度として上に 従え、となり、
道教的だと、勉強は別として、人間性が高い人が上に立つ役目になる可能性が高くなり、それゆえ、別に上に絶対服従などというようなことはだれも言わないけ れど、自然に上に従うようになっていく・・・


今よく言われているアメリカン・スタンダードであるという「実力主義」ですが、これは裏を返すと、
「人間性なんかは、はなから考えていませんので、みなさん自然に任せていたら従わないことでしょう。ですので、法律とかそういうので、強引にそうするよう にしておきます」、
という主義、とも言えるのでしょうね。




で・・・
上記本には、第二次世界大戦前に、「エロ・グロ・ナンセンス」で表現される大衆文化の時代があった、とされていますが、今がそうでしょうか?
「エロかっこいい」だんなていう売り出し文句(キャッチフレーズ:とも言う)で売れている歌手もいますね。
当然彼女自身は売れるまでに苦労もあったことでしょうが、彼女という個人ではなくシステムを作り出したのは企業であり、そこには、もちろん、いろいろな繋 がりもあるのでしょう。

また、苦節何年で売れているお笑いの方たちがたくさんでてきていて、それ自体は、賞賛に値することだと思いますが、これがだれかが故意に作り出した状態で あるとしたら、やはり第二次世界大戦前と同じ状況が作り出されている、とも言えるかもしれません。


これらは、民衆が真剣になにかを考えるという思考回路を麻痺させる目的なのでしょうか?




また、都市部では景気が良いが、地方ではまったくだめ、というのも、第二次世界大戦前の状況と似ているそうです。
そうして、地方から不満の感情が大きくなっていくのを待っている、ということのようでしたが。
そういう不満を、敵国に対しての戦闘意識に変えていこう、というのが狙いのようです。

そして都市部でお金持ちになった一部の人は良いのですが、戦時体制に入りますと、配給制度になり、貧窮状態の人は救われますが、貴族のような人たちは除い て、後はせっかくお金持ちなりましても財産没収で、みんな配給品のみで、過ごしなさい状態になるようです。

そう言えば「ラスト・サムライ」など日米のいくつかの映画は、戦闘意識高揚の目的があるようなことも書かれていました。
戦闘意識というよりは、戦艦かっこいい、ですとか、争いかこいい、というような意識高揚ということですが。

「ラスト・サムライ」は新品のDVDが500円くらいになっていましたので、購入して見ましたが、みなさんが言うほど、私は感動はしませんでした・・・。

なんででしょうか?
強引に考えれば、私は古い時代劇映画を見ていますので、あの昔風の画質、セット、役者の顔たちでないと、感動しないようです(笑)。
だって、そこらへんに歩いている今時の若者の顔そのままみたいな人が、戦をやっていたり、刀を差していたりしますと、やはり違う、と感じてしまいますね (笑)。

お侍の顔つき、というのはあります。
片岡千恵蔵さんのようなの顔が出てこないとだめみたいです(笑)。




映画で思い出しましたが、先日のチャプリンで、「独裁者」のチャップリン演じるヒトラーの演説の場面をやっていました。
身振り手振り、声の大きさ、抑揚など、ものすごいのですが、言っていることは、「もっとソーセージを食べよう。ザワークラフトも食べよう・・・」という中 身のないものであり、その後に続いた、何語かへの通訳は、内容がまったく違うものである・・・というものです。
今は500円DVDでも買えるようですので、興味のある方は、見てみてください(笑)。

当たり前ですが人は騙されやすいのですね。
一般には騙された方が、痛くないし、苦しくないし、楽だということもあるのでしょう。

私のように、「洗脳されないでいられるだろうか?」だなんて問いを持っていた可能性もある人というのは、あまりいないでしょうか?
しかし、どうして、私は、騙されたくないのでしょう?
それはまさに、どうして真実なんか知りたいのだろう?
にも通じるかもしれませんが。

普通、騙されたくないだなんて思うのは、辛いですし、出世しませんものね(笑)。
上の人、企業のいいなりになって、嘘でも間違っていても、そのまま信じてさえいれば、ちゃんと良い生活ができます。
まして、私のようにバブル期に大学を出たような人間はまさにその通りです。


今はなんでも、中学高校では、内申書というものが、進学に大事なようで・・・私は詳しく知りませんが・・・もうその世代で、言論統制と言いましょうか、 言ってみれば儒教的なことをしているようですね。

そのくせ、優秀な人材を、とか、言っているようですが、これは、正に、儒教的と道教的の違いを代表しているような話かもしれませんね。


みなさんは、どう思うでしょうか?

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送