理由もなくこればかり聴いてしまうCDのコーナー

CDはたくさんあるのですが、なぜか、いつもこればかり聴いてしまうCDを紹介します。

 



 

271:ALONE TOGATHER:前田憲男    
 

前田憲男さんです。

ドラム:猪股猛、ベース:荒川康男、テナー:西条孝之助、バリトン:原田忠幸、アルト:五十嵐明要、トランペット:伏見哲夫、のみなさんです。

曲目です。

1.THESE FOOLISH THINGS
2.I’LL REMEMBER YOU
3.IN A SENTIMENTAL MOOD
4.LIKE SOMEONE IN LOVE
5.ALONE TOGETHER
6.LOVE IS HERE TO STAY
7.YOU DON’T KNOW WHAT LOVE IS
8.THINGS WE DID LAST SUMMER

 

録音は1975年です。  


今はこれのSACDが出ていますね。
ハイブリッドなので、普通のCDプレーヤーでも聴けるようです。

上記のものは、普通のCDです。

自宅のDVDプレーヤーはSACDも聴けるのですが、未だ、聴いたことがありません(笑)。

どれくらい音が良いのか、興味深いところです。




前田さんは、私が憧れた人の一人ですが、何かに、「(10代の頃)人に怒られるのが大嫌いだった・・・」ということが書いてあり、私もそうなろうと思いました(笑)。

ただ、そうなれたかどうかは、疑問で、そうなろうとしますと、人に怒られると、頭にくる、ということがついて回るようです(笑)。

それは、そうですね。
そうなりたくないのに、それを邪魔されるわけですので。

しかし、それが、そうしようと思ったでのそうなったのか、生まれたときからの私の性格なのかは、分かりません(笑)。

なんでそうしようと思ったのかと言えば、きっと、そういう性格になれば、前田さんのようになれる、と思ったかもしれません。

確かに、怒られないようにするには、何でもできる人になる、ということですので、その意味では前田さんのように、ピアノ、アレンジ、などなど何でもできる人になることに近づくということになるでしょう。

そして、確かにそういうような感じにはなったように思います。


しかし、別にピアニストにもアンレンジャーにもなったわけではありません。
要するに、性格、能力も運命の一部かもしれませんが、運命というのは、それだけではない、ということですね。
もっとも、前田さん並みにうまくなったものはありませんが(笑)。


むしろ、いろいろな人相の本を読むと、特定の人のような運命になりたいのなら、外見を真似した方が良いのかもしれません。

ただ、いろいろな啓蒙系の本には、「スターの真似ばかりする奴がいるが・・・」のようなことが書かれています。
つまり、そうしても、ぜんぜん違う人間にしかなってない、ということですが、思うに、それは、まねしているところが違うのでしょうね、想像ですが。

ポイントがあるようです。
その意味でも、森田健さんの面相占いが楽しみです。

良く言われる鼻が平べったく大きい人は、お金持ち、というのは、当たっているように思います。
筋肉質で細い人が神経質というのも、当たっているようです。

しかし、人が小宇宙であるとするのなら、六爻占術式に、何かの配置によって、何かが決まるというのは、あっても不思議ではありませんね。

みなさんは、どう思うでしょうか?


 



「みろくの世」―出口王仁三郎の世界天声社 ;  (2005/08) 出口王仁三郎言行録刊行委員会 (編集), 上田 正昭: ですが読み終わりました。

最後の章は、監修をしている上田昭さんのもので、京都大学教養学部長などを務めた方ということです。

しかし・・・船井幸雄さんが紹介する本を中心に読んでいるせいか、京都大学出身の人がやたら多く登場します(笑)。

私自身はこれまでは、京都大学には何の縁もありませんが・・・卒業生も知り合いにはいません。

京都大学出身のミュージシャンというのは、いるでしょうか?

調べてみますが・・・フリージャズ・トランペットの近藤等則さんは、そうみたいです。
後は俄かには、出てきませんが。


きっと良く探せばいるのでしょう(笑)。
でも、ジャズ系に多そうだな・・・という直感はありますが。


読み終わって残っているのは、
(引用:294ページ)
『宗教家は宗教家らしく、政治家は政治家らしく、教育家は教育家らしく済まし込んでいるのは、真の宗教・政治・教育を解したもので無いのは、恰(あたかも:はまぐりではない:笑)も味噌の味噌臭いのに上等の味噌の無いのと同じ事である』
(以上)

という出口王仁三郎さんの言葉ですが。

私はいつの頃からか、上記のような概念が心にあります。

ひとつは昔から常識と呼ばれているものの中に、嘘が目に付いていたこと、人に騙されたくなかったこと、洗脳とまで言わなくとも、強引に間違った考えに染まわされるようのないようにしていたこと・・・などなどが、3次元的理由なのだと思います。

もちろん、どうして、そうなったかと言う3次元的理由もあるのですが、切りが無いので書きません(笑)。

ただ、格好はいかにもっぽい人に偽者が多かった経験がある、ということはあるように思います。

出口王仁三郎に関して言えば、それを連想される話が書かれていますね。

それは、どうも出口王仁三郎さん関連では有名な話のようですが、私のような解釈をしている人がどれほどいるものかは、分かりません。

なんでも、家の裏に池があったのですが・・・それは、出口王仁三郎さんの家に権利のあるものだったようですが、良く人が落ちたりするし、邪魔だったのでそれを埋めようとしたそうです。

そうしたら、それは、他の農家にとっては農業用水になっていたようで、自分たちのものだ、と理屈に合わない権利を主張してきたそうです。

出口王仁三郎さんの家は経済的には苦しかったようで、それにより差別などを受けていたそうです。
そんな差別をしている人たちが自分の権利ばかり主張しますが、村全体を相手取って・・・10代だったようですが・・・議論の末、何らかのものを得る代わりに、その池を残すことになったようです。


私が思うに、恵まれていて、そして、人を差別するばかりか、自分の権利ばかり主張する・・・
そんな奴らは、肩書き的には、りっぱん肩書きで、しかもいかにもという格好もしている、しかし行っていること、やっていることは、とんでもない奴らだ・・・と出口王仁三郎さんは感じたのではないでしょうか?

その種の経験がありますと、
(引用:294ページ)
『宗教家は宗教家らしく、政治家は政治家らしく、教育家は教育家らしく済まし込んでいるのは、真の宗教・政治・教育を解したもので無いのは、恰(あたかも:はまぐりではない:笑)も味噌の味噌臭いのに上等の味噌の無いのと同じ事である』
(以上)
のようなことを思うのは私にはよく分かります。

多くの方はこのエピソードで、悪をやっつけた話・・・と取るのかもしれませんが、どうでしょうか?
私には、いかにも、という格好の人は信用できないものだ、に取れます(笑)。


ただ、むつかしいのは、いかにも、という格好でも、正しい人はいるということですね(笑)。

変であれば、良いということでもありません。

そこら辺はいろいろ分かってくるのですが、私も勉強中です(笑)。

ただ、”いかにも”が120%の時には、要注意ですね。
カルト宗教の類はもとより、詐欺師、事なかれ主義人・・・などなどにそれが多いです。

良く、心の中が外側に出る、と言いますが、その意味で、外側120%を信用してしまう人がいるのでしょうが、逆に言えば、120%は100%を超えていますので、”嘘”なわけですね。

今はこの120%が多いです。
野菜・・・私が買う八百屋のきゅうりは曲がっています。
スーパーのきゅうりは真っ直ぐですね。

デジタル音楽・・・ノイズはなく、劣化もない・・・嘘ですね。
耳で観測できないデジタルノイズと、アナログ機器よりも、不正確な音しか再現できません。
しかし、メーカーに都合の良い、計測装置で計測すると、原音そのものです。

都合が良いのは良いことですが、これはちょっといけないですね。



有名な詐欺師で、船の船長さんの着るような白い服だったかで、女性の前に現れ信用させて、お金を奪った話がありますが、まさしく120%ですね(笑)。

人前に、そんな簡単にそういう服では現れないでしょう?

だれだったか有名な画家が、「ベレー帽に、パイプを銜えたような以下にも、という格好した奴で本物はいない・・・」のようなことを言っていたのを聞いたことがあります。

森田健さんの仙女の話などは、その意味で私には、「やっぱりね(笑)」と思わせてくれるものでした。
普通の格好をしているようです。
もちろん、センス、詳細などを見れば、特徴もあると思いますが。











さて・・・・・・
船井幸雄さんの新著「気の力」
(船井 幸雄 (著), 岡崎 久彦 (著)海竜社 ; ISBN: 4759309330 ; (2006/06) を、読んでいます。

まだ、読みかけですが、モーツアルトについて書かれていますね。
(今流れています:笑)。
モーツアルトの音楽が何か人に良い、というのは事実なようですが・・・
私はモーツアルトについて分からないことがあります・・・彼の晩年なのですが。

従来、彼の晩年は非常に不遇で、経済的にも貧窮しており、哀れな最後だった、とされていたのがもっとも多かったと思います。

しかし、先日、何かで・・・テレビだったでしょうか?・・・彼の晩年は不遇な面もあるにはあったが、少なくとも経済的には、今で言う所の何億円もの収入があり・・・と語っていました。

一体どちらが本当なのでしょうか?
精神世界の本では、彼の晩年をして、いろいろ書いてあるものも時々見受けられます。

また、道徳を”偏狭”に解釈するような種類の人(何も知らなかった以前の私や、生真面目な人なども含めて)は、彼の人生を見て、ちょうど「アリとキリギリス」の話に当てはめて、「好奇心や好きなことばかりに一生懸命になっていると、途中まではうまく行っても、いつかは、ああいうことになってしまうんだ」の、最高の例のようにとらえてしまうことが多いでしょう。

一体、どちらが事実なのでしょうか?
モーツアルトさん、教えてください(笑)。

 

 

 


偏狭という言葉は、「みろくの世」―出口王仁三郎の世界天声社:の「バリサイ派」の説明で見て、生まれて初めて(きっと)使う言葉ですが(笑)、これは、原理主義、という言葉とほとんど同義語ですね。

自民党前議員が、経済関係の大臣を称して経済原理主義者などと言ったり、いくつかの宗教団体にこの言葉が使われたりしますが・・・

近視眼という言葉なども、同義語でしょうか。

 

これは、自分にとって都合の良いところだけ浮立たせているのか、それとも、勝手に読み間違って、ある部分だけが異常に重要だと信じ込み、そう解釈してしまっているのか・・・疑問です。

どちらもあるでしょうし、悪意を持って、都合の良いだけ浮き立たせているものが、勝手に読み間違ったものを利用している、というケースもあることでしょうね。



そういえば、昨日、東大の先生がテレビで、私の解釈に間違いがなければ、「これからは欧米式に、出来高制の給与体系に日本もなっていくべきだ。”他の企業がいくら出すと言っているが、もし同等以上ださなければ、転職します”、というような話し合いもするべきだ」のようなことを言っていましたが・・・給与体系は正しいかどうか知りませんが、未だに、アメリカ式に・・・という言葉を使うことが、時代の最先端を行っているかのような人が東大には、いるのだなぁ・・・と驚きました(笑)。

そう言えば、村上さんが大騒ぎになっていますね。
東大って???
と考えてしまうのは、偏狭でしょうか?(笑)。


また、一流大学出身者が多い、テレビ局というもので、東大、早稲田、慶応あたりに関係した番組をやられますと、「どうなのかな?」と思うときがあります。
それ以上はありませんが(笑)。

公平、後世というのがむつかしいものは、素直に、宣伝的意図で作っています、と表明した方が、見る方も、作る方も、気が楽でよいですね、きっと。

あるいは、はなから、「この番組の制作には、どこそこ出身の人間は関わっていない」と表明しても良いのでしょう。


 

 

 



「みろくの世」―出口王仁三郎の世界天声社 ;  (2005/08) 出口王仁三郎言行録刊行委員会 (編集), 上田 正昭: ですが・・・・・・

霊界物語は読んでみたいですね。
少しだけ、内容が掲載されていますが興味を惹きます。

また出口王仁三郎さんと信者の人との対話なども掲載されていますが、これもまた興味不覚、もっと読んでみたいです。

ただ、私は特定の宗教にのみ、関わる、ということはしないと思いますが。
つまり、一人の高次元研究者として、出口王仁三郎さんに興味がある、ということですね。

今の日本を語るとき、宗教心がないので、風紀、道徳が乱れている、と良く言われますね。
なので、小学校などでも、宗教について教えよう、という流れもあるように聞いています。

で・・・果たしてこれはどうなのでしょうか?

私はそうではなく、高次元の話をもっと普通に普通の立場の人がすればよいだけなのではないか?と想像します。



 

もちろん、現状でそれをやりますと、「変な新興宗教にでも、入ったんじゃないの?」となるだろうとは思いますが。

新興宗教=変・・・はつまり、実際は、もっと高次元のことを知りたい、という人がたくさんいるはずなのに、従来の宗教などが、敷居が高すぎて、なかなかそれに接することができない、そこを裏手にとって、敷居を下げて、変な考えを売る込もうという何かが多いのが原因なのかもしれませんね。

あるいは、高次元のことを知りたいとなると、宗教しか、道がない、と考えてしまう人が多いのも、原因かもしれません・・・3次元的な。

 

もちろん、そこには、マスコミなどが、高次元rとなると、オカルト的な扱いかたしかしてこなかったのも、ひとつの原因なのでしょうが。

 

科学信仰もあるでしょう・・・・・・

3次元的な理由は、いくつでもあがりそうですね(笑)。

しかし、インターネットなどもあり、これからは情報がどんどんでますので、それらの理由があろうとも、普通の人が高次元に興味を持ち、話出すようになっていくような気がします。

 

テレビで、「以前の戦争ではマスコミの人間は情報操作に利用できるので、戦地でも保護されていたが、最近は、むしろ、マスコミの人間を狙い撃ちしているようなところがある」ということを言っていました。
これが本当かどうかは分かりませんが、ずいぶん、流れが変わって来たのだな、とは感じますね。

また、マスコミ自体がそんなことを言う、ということすら、時代が変わってきたのを感じます。

 

 

 

船井幸雄さんのサイトに、例の聖書にある「オーメン」などでも有名な666の」話が出ていましたね。
『アメリカに巣くう「闇の世界権力」はこう動く』(中丸 薫:2003年、徳間書店刊)という本についてで、ここですが
なんでも、WWWが、正に666である、というような話もあります。


詳細はお読みください(笑)。
上記だけでは、で、WWWは良いの悪いの、が分かりにくいですが、いずれにしても、インターネットが、何かを大きく変えつつあり、良い方向に使えば、相当なことができそうだ、というのは事実のように感じます。


私は、だれかがネットを全て検索して、特定の情報を必要な人に出しているのだろうな、と思っていましたが、やはりそういう商売はあるようです。

おそらくいろいろな団体が似たようなことをしているのでしょうね。

場合によっては、乱数表を使う、だなんてことが起きることにもなるかもしれません。

要するに暗号ですね。

 

私は大きな組織が情報を変に使う、ということについて、なぜか、昔からこだわるところがありました。

前世の記憶かもしれませんが(笑)。

ですので、昭和天皇がなくなったときなども、記帳に行かないと、次の戦争のときなどに、その名前で何か差別をされるのではないか?などと少し真剣に思ったりしたこともあります。

そのくせ、行きませんでしたが(笑)。


これは、私の学生の頃などは、天皇=軍国主義=独裁政治、というようなことを思うのが、どこかインテル風なところもあったように思いますし、また、きっと想像するにそういう風に情報操作もされていたのでしょうね。

 

今は、神道のことを少し知ったり、天皇の発言、姿などを私自身が見る機会が増えたりしたこともあり、それは大間違いだな、と感じていますが。

そして、どうも、天皇がいるから、日本は”良い”のだと感じています。



で・・・いろいろ書きすぎてまとまりがなくなってしまいましたが、要するに、普通の人が高次元を語るのが普通になる日は近いのではないか?と思っているし、そうなるべきだ、と感じている、ということですね。

 

みなさんは、どう思うでしょうか?




 

 

 

 

 

さて・・・・・・
人の顔を診ていろいろ思いますが、左側というのは、女性的、右側というのは、男性的ではないか?と感じる時があります。
それほど多くを見てはいませんが(笑)。

左半身を司っているのが右脳、右半身が左脳だそうですので、右が一般的に、イメージ、左が理論ですので、ひょっとしたら正しいかもしれませんね。

心臓というのは、左半身についていますね・・・
そうすると、心臓は女性的(?)とも言えるかもしれませんね。

 

 

 

さて・・・・・・
私ごとですが、先日の女性若社長の会社には採用されませんでしたが(笑)、何年ぶりかに履歴書の書き方みたいなサイトを見ると発見があります(笑)。

どうも、40歳後半くらいの人事担当者は履歴書は手書き、職務経歴書はPC作成が良いようで、それより下の世代は、両方ともに、PC作成で良いようですね・・・。

それは確かに、手紙が気持ちがコモっていて良いのは理解できるのですが、現在のようにほとんど手書きで長文を書かない時代、世代ですと、なかなか大変ですね(笑)。

まして私のように職歴が多いと(転職が多いとも言う)、手書きに通常2,3時間以上かかったりします(笑)。

で・・・もうPCで両方ともに作ることにしました(笑)。
そうでないと、求人先を見つけてから書類を出すまでに、2,3日かかってしまいます(困)。

さてどうなるでしょうか?


で、何を考えているかと言えば、できたばかりのIT企業を狙ってみようかと思っています(笑)。
しかも社員数の少ない・・・
それが比較的「入りやすいのであれば、きっとそれが決まった運命かもしれませんね。
流れに身を任せるとは、こういうことでよいのでしょうか?

とにかく、どうも本当の相手は時空のようですが・・・大げさ過ぎですね。

普通は、ブランクが2年あり、転職が多く、42歳、というのは、まももな職などありませんね。
しかし、それは、普通の・・・やり方をした場合ですが。

これはこれで、またリポートします。







 

で・・・

女性的、男性的ですが、そもそも女性的、男性的とはなんでしょうか?
3次元的な見た目、ということでは比較的分かりやすいですね。
もっぱら眼でしょうか?女性的というのは分かります。

そうでないのが男性的なわけです。



しかし、性格というのは、分かりにくいですね。
本当のことを女性は言わない・・・とは言われますが、それだけではないわけです。

それだけではなく・・・性格とも関係ありますが・・・行動パターンですとか、もろもろありますね。

3次元で見れば、たとえば女性はバストがありますが、それだけでも、体の動かし方が変わってくるでしょう。
私で言えば、ギターを弾こうと思った時、抱えるように弾けば・・・座った状態などですが・・・胸の前に持ってくると言いますか、胸に押し付けますので、バストが大きいですと、ギターが体から離れることになりますね、男性よりは。

そうしますと、当然、物理的条件でフレーズなども変わってきますし、絶えずバストを意識するなら、それにより、絶えず女性を意識することになる、ということもあるのかもしれませんが、良く分かりません。


で・・・・・・思ったのですが、女性は体の柔らかい人が多いですね。
家の妹などは、幼少の頃からずっと、そうでした。

これは、科学的に、あるいは医学的にどうとかいうことだけではなく、やはり視点、考え方、心のありよう、ということも大きく関係していることでしょう。

従来型で言えばですが・・・
笑いたければ笑って良し、怖ければ怖がって良し、甘えたければ甘えて良し、不必要な能力を不必要につける必要なし(武道、学歴、資格、資本主義的な社会常識などなど)・・・

これらは、基本的に高次元と繋がるための基本的事項でもあるように感じます。
その意味でも、確かに良い波動も受けやすいでしょうし、船井幸雄さんが氣を入れて人の体を柔らかくするような効果が絶えず起きている可能性はありますね。

科学的にはストレスが少ない、という簡単な一言でしょうが。

しかし、ここ10年くらいは・・・もちろん戦後徐々にでしょうが・・・女性も男性に近いストレスを受けているかもしれません。


そうすると、女性的という3次元的な概念もまた違ったものになってくるかもしれません。
そうなりますとなんだか分かりにくくなりますが、少なくとも高次元的意味で、女性的というのは、いつでも笑えて、いつでも感情を表に出せて、不必要な努力などせず・・・つまり自由な存在、ということなのかもしれません。

その状態で女性が男性より劣っているかと言えば、決っしてそうではないのは、小学生の低学年時代を思い出してみれば分かるのだと思います。

男子より運動神経の良い女性ですとか、塾など行かなくとも、勉強のできる子などもいたはずですが・・・。
もっとも、最近は知りませんが。

 

しかし、書けば書くほど、上で書いた女性のような人間が、男性でも・・・いわゆる3次元的にでも、”成功”している、ように感じてきますね。
みなさんの周りはどうでしょうか?



それでも・・・良く分かりませんが・・・DNA的には、ある種の女性というのは、一般的3次元的な意味での男性的な男性をちゃんと好むようにも作られているようにも見えます。
かと言えばそれが全てかと言うとそうではなく、中世的な男性、というのを好む女性は昔からたくさんいます。


こう考えると、”女性的”とは、きっと性格ではなく、自由である、ということなのかもしれませんね・・・。
それでは男性的とはですが・・・よくも悪くも3次元的、ということでしょうか?
どうもこれでは、陰陽合一とは異なるようにも感じますが。

そして、男性性、女性性の2つを併せ持つ、ではなく、実際は、瞬時に切り替えられる・・・が高次元的理想でしょうか?
それとも、併せ持つでしょうか?

併せ持つは合一でしょうか?


さて、良く分かりませんが。

みんさんは、どう思うでしょうか?



 

 

 

 

 

 


さて・・・・・・・
またキーボードを変えました。
今回は、誤って水をこぼしてしまいまして、故障してしまったのですが(笑)。



なんで水などこぼしたかと言いますと、具導士さんの「喜神占星術」という本があるのですが、そこに、ある場所に水を置きますと、とたんに運がよくなる・・・ということが書いてありますのでコップに水を入れておいていたのですが、それがなんと机の上だったのですね。

 

それはそれで、3,4日はこぼしたりしなかったのですが、モニターの位置を変えようとしまして、いろいろやっていましたら、ほんの少しだけ傾いて、ほんの少しだけキ−ボードに水がこぼれてしまいました(笑)。
そうしましたら、とたんに故障です。

今までも、いろいろなキーボードを使いましたが、こんなに簡単には故障しませんでしたが?
ただ、その時に、政木和三さんの本やら、土偶やら、太極八卦鏡やら、みんな傾いて、以前のキーボードに倒れ掛かりましたので・・・総攻撃状態ですが(笑)・・・意味付けをすれば、このキーボードがいけなかったのか、新しいキーボードが良いのか、どちらかでしょうか?・・・
・・・意味付けですので(笑)。

それで、キーボードを新しくしましたが、もう一番安いものにしました。
フルサイズなのですが、キーの幅が狭い、と言いますか、何と言いますかちょっと打ちにくいです(笑)。


さて、どうなるでしょうか?

 

 




さて・・・・・・
船井幸雄さんの新著「気の力」
(船井 幸雄 (著), 岡崎 久彦 (著)海竜社 ; ISBN: 4759309330 ; (2006/06) を、読んでいます。

そこに、潜在意識=アルファー波は、4次元と通じている、超意識はシータ波になると通じ、それは5次元に通じている・・・というようなことが書かれています。

私は何かそうかもしれない、と感じています。

私の頭に間違った映像が出るなのですが、どうも、4次元に通じているのではないかと、以前より思っていました。

もし、そうなら、もっと下の脳波・・・シータ波にして4時限を通さずに、直接5次元まで届かないといけないようですね。

その方法ですが・・・
出たばかりの本ですので引用はしませんが・・・

ヒントになるかもしれない記述として、瞑想中にマントラを唱えると良い・・・ということについて書かれています。


私は孫さん瞑想をしていますが、最後に何分か所謂一般的な瞑想のような状態をしますが、その時にでも、何か唱えてみようかな?とも思っています。
どうもそうすることで、雑念が消えるようです。

妄想が出てきた時・・・4次元でひっかかった時・・・マハリシ・ヨギさんのTM(超瞑想)では、マントラを唱えるようです。

禅では莫妄想と言うそうで、「妄想することなかれ」という意味なんだそうですが、禅宗では、妄想が出てきたら、壁を睨みつけるそうです。

私も壁を睨む、ということはやるときがありますが、目をつぶっていなくてはいけないのかな?とも思い、あまりやりませんでしたが、この度は積極的にやってみようかと思います。




どうも一般的には「オウム、オウム」と唱えるのが本当は初心者には良いようなのです。
この言葉は今は、例の事件からみで、良いイメージはありませんが、実際は、精神世界の本を読んでいますと、良く出てくる言葉で、この言葉自体には悪い意味はないようです。

船井幸雄さんによりますと、この言葉は西洋に入り「アーメン」になり、日本に入り「あ・うん」になったのではないか、ということです。

 

他の本には・・・確か天外伺朗さんだったでしょうか?オウムという言葉は、日本では、「南無」という言葉がそうである、というようなことが書かれていたように思います。

 

確かにオウムはいくらか抵抗感がありますので、「あうん」か「南無」を瞑想中とは言わず、妄想が出てきたら唱えてみようと思います。


ただ、どうやら、船井幸雄さんによれば、自分が気に入っている言葉であれば、なんでも良いようです。



 

さて、時々嫉妬というものについて考えますが、私は以前「自分は嫉妬をしない、あるいは止めるから、人が嫉妬をしても、それを認めない。無視する」と決めたことがあります。

しかしこれはどうもだめでしたね・・・
そうすればするほど、誤解といいますか、むしろ相手の嫉妬に火をつけるようなところがあります(笑)。

それで思ったのが、変な話ですが、「何かの意味で自分より恵まれていない人には、思い図らなくてはいけないのではないか?」のように思いました。

とても変に思いますが、理論的に3次元を見ますと、

嫉妬はどうもいけない→嫉妬は他人にも認めない→しかしそれをやると悪いことが起きる→いけないことのようだ→それじゃ、思い図るのだろうか?
のように発想したわけなのですね。

もちろんこれらは、精神世界の本などほとんど読んでいなかった時の話ですが、それで今思いますのは、やはりこれも間違っていて、むしろ、以前の方がよっぽど正しそうだ、ということです。

しかし以前のものも、そう正しくも無い。

ですので、私は完全で幸せでもありますが、それでも、一般的に言えば決して超セレブなわけでもなく、それどころか、就職先が見つかるかどうかの瀬戸際で・・・そんな状態でも、一般的3次元的意味で、私よりどこかの部分が”恵まれていない人”に意識が行ってしまいます。

どうも自惚れているのでもなく、慈善の意識などでもないようです。
おそらくは、徹底的に間違った考えが潜在意識あたりにあるのではないかと思います。

一体なんでしょうか?

その考えがどこか、3次元的に幸せになってはいけない、のような概念に結びついているような気がしてなりません(笑)。
おそらくは、「誰にも文句を言わせない」の文句の部分だけが強調されて、「どうだこの状態ならだれも文句を言いまい」になっているのではないか?と想像しますが。


とておもおかしいですね。

それで、「文句をいいたいやつは言えばいい」となることもありますが、それはそれで、やはり悪い波動を招いているようで、好結果に繋がった、ということもありません。
それで人を無視しますと、それはそれで、悪いようです。
で、今度は・・・とやって行きますと、始めに戻ってきます(笑)。


おそらくはバランスなのか、とも思います。
あるいは螺旋で考えれば、このようにぐるぐる回っても良いのかな、とも思いますが(笑)。

または、どこかに抜け道があり、そこが見つからないだけかもしれません。

それが問いによってもたらされる何か、ということであれば、きっと適切な問いが必要なのでしょう。


どうも、問いはWHYの形が良いようですが、森田健さんの書いていることを読んだりしますと、「できるだろうか?」のようなものも良いように、私には受け取れます。


問いの方面から考えれば、以前は、
「どうしてみんな私に嫉妬するのだろうか?」
「どうして、嫉妬はいけないのだろうか?」

のような問いだった可能性はありますね。

それでは、今後は・・・
上記故、人に見られたくない、という発想にたどり着いたのなら、「どうして人は、私をうらやましがるのだろうか?」でしょうか?
ちょっと違うような気がします。



「どうして私は幸せになっても良いのだろうか?」
でしょうか?
なかなか良いように感じます。
でも、これでは、足りませんね。


「どうしてこんなに人の協力が得られるのだろうか?」
はどうでしょうか?

何か今のところは、これが最善かもしれません。
またじっくり、考えて見ますが(笑)。


みなさんは、どう思うでしょうか?




ちなみに、ぐるぐる回るは・・・音楽で言えば、最後の音決めなどで、イコライザーの調整をしているのに似ているかもしれません。
これは、周波数、つまり低音がどれくらいで、高音がどれくらい出て・・・要するに、どんな印象の音にすべきか?ということを決めるわけですが、これは、考えすぎたり、多くの人の意見を聞きすぎたりしますと、結局ぐるぐる回って、最後はもとの音に戻ってしまったりします。

つまり、全部の周波数を同じ値で上げてしまえば、ボリュームを上げたのと同じことで、周波数特性はまったく変わっていない、ということなのですね(笑)。

ボリュームを上げる、と言うと聞こえは良いかもしれませんが、精神レベル(?)ではそうかもしれませんが、音ではそれは、再生時にボリュームを上げれば良い訳ですので、関係ありません。
この作業は、バランスを整える、あるいは変える作業です。



もっとも、テープにアナログ録音したりする時には、テープの持っている許容入力ぎりぎりにピークの音の大きさをすると、音的にも、ノイズ的にも良い音になりますし、デジタルも、音が割れないぎりぎりにピークをするのが、密度的(ビットレート的?)に一番良いようで、それはちょうど、画像データで、粒子量、サンプリング・レートを最大にする、あるいは減らす、というのと同じことのようです。


面白いですね(笑)。









さて・・・・・・
休日波動を受けているようで、どうも氣が入りませんが(笑)。

ケムトレイルというのが、小松英星さんのサイトに掲載されていますね。
私の部屋は、どうも真上あたりがアメリカ軍の飛行機の通り道のようで、毎日ではないですが、「ゴォ〜」という音がします(笑)。

当然、小松さんのサイトに出ているような飛行機雲も見えたりするわけです。

さて、あれも有害物質を散布している可能性はあるのでしょうか?
よく分かりませんが(?)。


リベンジという言葉が、格闘技ブームからはやっていますね。
リベンジは、どうも、辞書などでは、「復讐」という意味になっているようですが、ちょっと違いますね。
復讐には、関秀男さんの言うところの「ご法度」系の意味が入っているように思います。

リベンジはきっと正しくは、「負けた人、チームが再挑戦し、勝ち、復活すること」という意味なのでしょう。

いかがでしょうか?

なぜ、日本語に一言でリベンジを表す言葉がないのか不思議ですね。

想像するなら、もともとリベンジという発想がなかった、ということでしょうか?

負けたことに対して、ご法度の心でなくとも、何らかの気持ちを持って、もう一度挑戦する、という考え方が基本的にはなく、ある場合は、復讐のように、「ご法度の心」がある場合だけだった、ということなのかもしれませんね。

そして、あるとすれば、ただ単に「もう一度やる」ということだけなのかもしれません。

もしこれが正しいとするのなら、日本には、負けても勝っても、その状態自体に上下は無い、ということなのかもしれませんね。
よく分かりませんが。

少なくとも、分かるのは、「復讐」というのは、「もう一度やる」、「もう一度挑戦する」ということとは違う意味がこもっている言葉だということですね(笑)。

みなさんは、どう思うでしょうか?

 

 

 

 

 

性格というのは、一体なんなんだろう?と最近思います。
人の行動パターンを決めるのは、性格だけではありませんよね?

性格以外にも、知識や状況というのも、行動パターンには関係してくると思います。
慎重な性格の人がいたとして、山へきのこ狩りに出かけて、毒キノコを食べてしまうかどうかというのは、おそらく知識の方が大きく関わってくるとすら言えるように感じます。

何か、きのこの本を持ち山へ入ったとしても、きのこに関しての一定の知識があり、山へ入ったとしても、食べられるきのことそっくりな毒キノコと遭遇したとすれば、逆に知識があるゆえに、食べてしまう可能性は大きいですね。

ですので、六爻占術的に性格が運命に大きく関わり、変わらないものだとしたら、ひょっとしたら、慎重という性格はないのかもしれません。

同じように「性格」とされている言葉の中には、実は性格ではないものも多くあるのかもしれませんね。
逆に言えば、正確として使える言葉というのは、ぐっと少ない可能性もあるでしょうか?

せっかち、短気、気長、あたりは性格のようにも感じますが(笑)。
短気は、短気がいけない、という知識があっても、やはり短期でしょうし、せっかちもそうでしょう。

 

同じように好みも、知識によって行動パターンが変わりますので、単順ではありませんね。

私は肉が好き、という好みなのかもしれませんが、今は肉はほとんど口に入れません。
それは、肉が体に悪そうだ、という知識によってそうなったわけですが、以前肉ばかり食べていたのは、家で肉が出ることが多かった、ということが3次元的原因のようです。

他には、理科の実験でフナの解剖をしたときに、臭いが嫌だった、ということや、お弁当に入っていた鮭が、つゆの時期でしたので、臭かった・・・というような経験にもよります。

ただ、こうであれば、嫌な臭いが以上に嫌いだ、という好みはあるのかもしれませんね。

 

 


そうすると、「自分」という3次元的存在は、一体何なのか?とも感じてしまいます。

いずれにしても、何か決まって起きる運命、というのは、大きく関係しているようですが。

みなさんは、自分の性格というのは、よく分かっているでしょうか?
私は時々なんだか分からなくなる時があります。

どうも、性格も、好みも、人やものとの相対性が関係しているように感じてしまいます。

 

 

 




どうも休日波動で・・・(笑)、過去から引っ張ってきますが・・・

いつだったかテレビでこんなことをやっていました。

染物職人だったご主人が作っていた行列のできるラーメン屋さん、があったそうです。

しかし、ご主人がなくなって後、家族が同じ材料でラーメンを作っていたがその味がでないので、常連客が来なくなってしまったそうです。
いろいろ、試行錯誤したようですが、それでもだめだったそうですが、ある時、ラーメンのたれをシャクシに擦り切れいっぱいちょうどにしたら、昔の味が蘇った・・・・・・ということだそうです。

それ以来、昔の常連さんたちも戻ってきたようなのですが・・・


思うに・・・

擦り切れいっぱいでも、それに極わずか違っても、味は変わらないですね・・・3次元的科学的には。
第一、水の量だってその意味では擦り切れいっぱいでなくてはなりませんし、面についてしまっている水分だっていつもまったく同じではなりませんね。


思うに、これは波動、あるいは5次元エネルギーを通して、ラーメン、あるいはスープのタレと会話していたのではないでしょうか?

なくなったご主人は染物職人だった、ということですが、修行中でも、あるいは師匠からでも、そういった高次元的(?)極意を習っていた可能性はありますね。
それは、ひょっとしたら、当人ですら無意識に行う行動の種類のものなのかもしれませんが。

それが、奥さんと同じにシャクシに擦り切れいっぱいだったのか、あるいは違うことの最中だったのか、分かりませんが、きっと、波動または、5次元エネルギーを通じての対話ではないでしょうか?

その意味で、奥さんがシャクシいっぱい擦り切れちょうどにする時に、何を考えながらやっているのか教えて欲しいものですね。

「良い子だから、擦り切れいっぱいになってね・・・」と言いながらかもしれませんし、ご主人の作っていたような「おいしいラーメンになって・・・」かもしれませんし・・・

良く分かりませんが。


みなさんは、どう思うでしょうか?

 

 

 

 

 

さて・・・・・・
願望実現ですが・・・
あるいはそこまで行かなくとも、意識ということでも良いのですが、私は以前から、「〜ができる」のように思っていました。

4,5年前、どうにも立ち行かなくなった時も、「私はなんでもできる・・・」のように自分に念じていたように覚えています。

しかし、いろいろな本を読んだり、思い出したりしますと、それはそれで確かにいくらか叶ったりするのですが、どうもそうではなく、特に森田健さんを読んでいますと、それよりはまだ、「〜になる」、あるいは「何にでもなれる」の方が、まだ効果的であり、もっと言えば、「〜のような状況になれる」がベストのように感じます。

 

私が「〜をできる」、「何でもできる」のように意図していたのは、考えるに、

「願望は実現するようだが、最終的な形までそれでやったら、神様に怒られてしまうかもしれない。ずうずうしい、と思われるかもしれないな。それなら、とりあえず、この能力をつければ、後は自分の力でやろう」

のように思ったようになんとなく覚えています。

 

しかし、この発想は、どこかいびつですね。
まず神との対等性が内容にも思えます。
あるいは、神を慮(おもんばか)ったりしていますので、対等とも言えるのかもしれませんが。

いや、と言うよりきっと、神に起こられるのが嫌だったのでしょうから対等とはいえないですね(笑)。

 

そして、「何でもできる」→「何でもなれる」→「どんな状況でも得られる」と仮にした時、
右に行けば行くほど、空間的には、大きく広がっていますね。
それは当然、多くの人、ものを取り込んで、ということになるわけですが。

これは人として、道徳(?)的見地・・・というより、精神衛生的(笑)にも、良い状態ですね。

もちろん、悪いことに回りを巻き込むとなると、そうとはいえませんが。

 

そう言えば、願望実現を考えていた頃、「これは私の欲であり、他の人は、それを望んでいるわけではないので、周りに迷惑がかからず、自分だけで完結するようなことを願望(意図)しよう」のように思ったこともあったように思います。

しかし、いずれにしても、このように、点と言うのですか、一人完結では、どうもいけないようです。

周りを巻き込んでいく・・・にはどこかネットワーク的なものも感じますね。

 

 

 

 

森田さんの孫さんが言う「部屋の中のものは、すべてあなたの願望をかなえるのに協力をしてくれます」ではないですが、森田さんの周りが原因で人の内側が空洞である、を考えても、回りを巻き込んだ何か、という発想がどうも、良いのかもしれません。

それは、周りを自ら変えるのではなく、周りに変えてもらうということでもあり、かと言って好きなように変えられてしまう、ということでもなく・・・何でしょうか?

周りに問いかけて、答えてもらう・・・回答ということではなく、伴のうしてもらう、ということが根本にあるのかもれません。

その意味では、船井幸雄さんの「にんげんクラブ」でも、そう言った船井幸雄さんからの問いかけに対して、何らかの反応を見られるようなシステムがあると良いかもしれませんね。

 

 



人生相談コーナーを船井幸雄さんがやっています。
船井幸雄さんというよりも、船井幸雄さんの周りのそれなりの人が回答をするのですが。


私のような人間にとってはとてもよいことだと思います。
しかし、変な話ですが・・・
いろいろな人が回答してくれているのですが、もし私がゴーストライターになったのなら、ほとんど同じようなことを書くようなことが書かれているのです(恐縮)。

私は気が弱いので(笑)、怒られた良くは無いのですが(笑)、たとえば、岡田多母さん、政木和三さん、ひょっとしたら船井幸雄さん、場合によっては森田健さんのゴーストライターになって、この読者からの質問に回答してください、という依頼が来たのなら、私は多くの人に気がつかれないような回答を書くことができるように思います。

もっとも、森田さんは、時々、思いもよらないことを言い出しますので、なんとも言えませんが(笑)。

(誤解のないように書いておきますが、別に、回答がゴーストライターによるものだ、だなんてことを言いたいのではないです。)

 

これは、どういうことでしょう?

もちろん内容によっては、「言うだけなら簡単。私はそれを実行しています」のような種類のものもありますので、それは私が言えたとしても、ぜんぜん違うものであるのは言うまでもありません。
つまり、実践している人、結果を出している人が言うから説得力がある、ということでしょう。

 

で、いろいろ考えてみますが・・・ひとつは私が頭でっかちである、ということかもしれません(笑)。



2つ目は、もし質問者がその回答で満足しているのだとすれば、読者たちは、想像以上に、それらの人たちの本を読んでいない、ということなのかもしれません。
中には、うまく本を探せない人や、たまたま、その箇所に出会わなかった人などもいるのでしょうから、それはそれで良いのでしょう。

ただ、本当ならば、副島隆彦さんではないですが、「本を○冊以上読んでいること」のような条件を言いたい人もいるかもしれませんね。
もっとも、これは議論する場合のようですが。

 

 

 

3つ目は、質問する人は、今のような回答を求めていないのではないか?という想像もあります。
良く分かりませんが。

仮に、私が政木和三さんに不可能を可能にする方法、運命を変更する方法を尋ねたなら・・・

「脳波をシータ波にして、完全にあきらめて、もう叶ったと思いなさい。そして、決して神仏などに願っても叶いません。神はなたの中にいます。但し、神社などで神に祈る、ということは、神を完全に信じることで、脳波をシータ波にすることができますから、それはそれで効果はあります。
一度目標を決めたなら、後は、自分の足元1メートル四方のみを考えていなさい。一生懸命ではなく、一所懸命なのです。ばんばってください。」

と、答えるかもしれません。

一方通行だとこれで終わりなのですね・・・。

まず、私は、
「政木和三さん、ご回答、感謝しています。しかし、それは本で何度も読みました。私が知りたいのは、運命は本当に決まっているのか?そしてそれを変更するには、六爻占術以外の方法はないのか?ということが知りたいのです」
のように返信するでしょう。

「そうか・・・だったら、はじめからそういう質問にしてれくれよ」
と言うかもしれませんが・・・(笑)。

 

のようなこともあり得ますので・・・と言いますか、往々にしてあるようにも感じますので、本当ならばもっと双方向性のある(この言葉はあまり好きではないのですが:笑)・・・レスポンス可能なシステムであれば、何か思いもしなかったようなものが生まれたり、より知りたいことが正確に伝わるような気がします。

それらは疑問ということだけではなく、回答に問われて、また次の質問がでてくる、何かに気づいて知りたいことが出てくる、ということでもあるのかもしれません。

 

上の政木和三さんで言えば、
「自分の中の神とはどういうことでしょうか?」
のように・・・

そうすれば、
「それは、私の生命体から教えられことです。神は汝の中にいる、と」

「そうですか、それは、ハイヤーセルフ、と同義語なのでしょうか?」

「そう思って良いと思います。」

などなど・・・ですが。


もっとも、みなさん、忙しい方ばかりですので、なかなか難しいのだとは思いますが・・・。


みなさんは、どう思うでしょうか?

 

 

 

 

 

さて・・・・・・
神田昌典さんの配信メールがありますが・・・


『神田昌典365日語録本文は著作権により保護されていますが、
あなたのビジネスのお役に立てるのであれば、商用の場合を除き、
ご自由に転送、転載していただいて構いません。ただ、その際には、
「神田昌典によれば・・・」と、出典を明らかにしてくださいね。 』

と書かれています(楽シ)。

問われたようで、私は早速反応しています。



で、私のところに来た昨日のものですが・・・


『キーワード:
顧客は内容ではなく、見た目、大きさ、重さに反応する。

解説:
どんなにおいしくても、包み紙が酷ければ、まずく見える。
どんなに内容がよくても、軽ければ安く見える商品がある。
お客は品質だけにお金を出すのではなく、
品質を感じさせるすべての体験にお金を出す。』

というものでした。

私は少し偏狭なところがありましたので、外側より中身にこだわりすぎるところがありました。
ですので、「無印良品」ですとか、「玄人志向」のような外装、ブランドを廃して、品質で勝負というようなものを必要以上に高く評価するようなところがありましたが、「人は外側にこまかされる」ではなく、事実は「人は外側からも、癒しや、喜びを受ける」ということですね(笑)。


私は自分の外見でも、同じようなことを考え続けてきました。
変な話ですが、私は自分で言うのもなんですが、幼少の時から、”品が良い外見(?)”で、小学生の父母面談などには、自営業の家でしたので、店の手伝いもすれば、妹に食事まで作るようなごく一般的な生活でしたのに、「お宅は甘やかしているんじゃないですか?」などと、あらぬことを言われるような子供でした(大笑)。

ですので、外側と中身(?)の相違、人は外側にこまかされる、というマーヤに、非常に拘っていたように思います。

 

そのせいでしょうか、10〜4,5年前などは、できるだけ”品のない外見”、”品のない振る舞い”しかし、”正しい行動”というものを心がけていたように思います。

実際、それに拘れば拘るほどに、商品でもなんでも、簡易な包装でも中身が素晴らしい、そして低価格、のようなものばかり目に入ってきて、よりそれに対して、「正しい確信」のようなものが出てきたりしていました。

しかし、どうも、それは間違いですね・・・・
品が良いかどうかは、別として、外側というのも、大事であり、それは人を騙している、ということではなく、外側でも喜びを提供している、くらいの感覚でよいようです。

確かに、汚れてが汚いですと、仮にその人がどんなにすばらしい中身を持っていたとしても、引いてしまいますね・・・。
もちろん、それで、権利の差別をする、ということはありませんが、少なくとも3次元的、喜びは提供されない、ということは事実なんだと感じます。

よく外見は中身を表す、と言いますが、これは必ずしも事実ではありません。
それを見る人の目にもよるかとは思いますが。

もし、見えるならオーラ、氣のようなものを見るのが良いのかもしれませんが、それは一般的には、なかなかむつかしいですね。

私は美人の前で、あがる(笑)、という傾向がありますが、これは、私の直感では、近寄りたいのだけれど、人を外見で判断しているのではないか?という変な板ばさみ状態によるものだと思います。

ですので、中身が分かるまで、絶対にちやほやしたりしない、という見方によっては、「嫌っている」に見える行動もしたりしていましました。

しかし、動物は、条件なしで、「心は綺麗」と思っていますので(人間差別な:笑)、可愛いと素直に、かわいがれます(笑)。

いずれにしても、どうやら、外見が綺麗、良い、ということは、それだけでも、3次元的喜びを与えている、ということですので、きっと良いようです。

そして、自分を広い意味で商品として考えれば、外側は実に大切ということですね。
そこには、悪い欲はないでしょう。
良い外側を提供する、ということですね(笑)。

みなさんは、どう思うでしょうか?

かっこよい・・・・ということは、案外大切ではないか?
というメモがすぐこの下にあるのですが(消しましたが)、何か、昨日来た神田さんのメールと同期していますね(笑)。
波動が共鳴したのでしょうか?




補足ですが、過剰包装はいけませんね・・・
「何でこんな小さなものを買ったのに、こんなに箱が大きいんだ」と感じることもあります(笑)。
まあ、大きい方がありがたい、というのは、すずめのお宿式に分かりますが。


ただ、人の外見は、いくら良くしても、邪魔にはなりませんね(笑)。
中身と外側は、別々に飾り、向上し、楽しめば良いということなのかもしれません。


みなさんは、どう思うでしょうか?


 


ただ、高次元的にはどう考えればよいのだろう?とも思います。
しかし、それ(高次元的見方)をしたからこそ、必要以上に中身に拘ったとも言えますし、あるいは、正しい高次元のあり様を知らなかった、とも言えますね。

どうも、森田健さんによれば、外側が運命、ツキを変える大きな要素である可能性が高いようです。

そう言えば、どうにも立ち行かなかった時期、「私の外見が若すぎるのがいけないのではないか?」と思い、できるだけふけるようにした覚えがあります。

貫禄という意味では良いのもしれませんが、これは、どうもいけないようです・・・3次元的にも、高次元的にも。
女性と言うのは、自然な状態で、この若々しさに対しての拘りを持っていますね。

どうもそれは、高次元的にも正しいようです。

高次元的なツキを呼びこむためにも、外見は若々しく、のようです。

これは、男性には、普通の3次元的行動をしていますと、なかなか分からないことですね。
実際、今までは童顔、若作りですと、それだけで、損をするようなことがありました。
これをして、年功序列の否定に結び付けようとするのなら、それこそ、何かのたくらみに、引っかかっているのではないかとすら思ってしまいます。

実際は、若作りで徳をしていたことに気が付かなかっただけなのかもしれませんね(笑)。

みなさんはどう思うでしょうか?

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