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旧理由もなくこればかり聴いてしまうCDのコーナー       

 

 

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もくじ

 

さて・・・

ザ・フナイ8月号ですが・・・
ベンジャミンさんですが、「裏の勢力のひとつが、家庭から女性を働きに出すために、伝際の給料を下げた・・・」とありますね。
こうなってしまった以上、女性が外で働くことをとやかく言いませんし、」それはそれで」ある意味能力を行かせるの良いとしますが、基本的には、男性だけ外に出て、女性が家を守ると言う形が良いようですね。

何度も書いていますが。

気づいた方々は、どう感じるでしょうか?




 

で・・・
ザ・フナイを読み終わった後、
二つの真実 (単行本)
船井幸雄 (著)
を読み直す予定ですが・・・
せっかく引用したので、下記の文書うをもう一度掲載いたします。

150ページより引用。大田龍さんの「竜であり蛇であるわれらが神々」の冒頭部分だそうです。





(引用、150ページより)

少数の人間が人類の大多数を支配したり意のままに動かしたりしたいと考えるときには、ある重要な仕組みが大切となる。操作しようとする相手が個人でも家族でも、民族、町、国家、大陸、あるいは惑星全体であろうとも、同じことだ。
まず必要なのは、正と邪、可能性と不可能性、正気と狂気、善と悪とを分ける「規範」を定めることである。ほとんどの人間は、少なくとも数千年にわたって人類に広くしみこんだ「群れに従う」という群集心理のために、疑いもせずそれに従うだろう。次に、与えられた「規範」に逆らう者に極めて惨めな生活を遅らせる必要がある。もっとも効果的なのは、他人と異なることを事実上、罪悪と感じさせることである。そうすれば与えられた「真実」と違うものの見方や考え方、生き方をする者は、ヒツジの群れに迷い込んだ一頭の黒ヒツジのように目だってしまう。すでにその規範を現実として受け入れるよう条件づけされた無知で傲慢な群れは、異なる生き方をする人間を笑いものにしたり非難したりする。この圧力が彼らを同調されるとともに、群れから離れようとする者への警告となる。
日本のことわざに「出る杭は打たれる」という言葉があるとおりだ。

これにより、少数派に必須の、大衆による自己管理と協調に必要な状況が整う。選ばれた「黒いヒツジ」は、その他の「ヒツジ大衆」にとって牧羊犬のような存在となる。逃亡しようとした囚人を周りの囚人たちが押しとどめようとするのに似ている。囚人たちはなぜそのような。とておも正気とは思えないことをするんどあろうか?だが人間は、自分が何の疑いもなく従っている規範に他のすべての人間を従わせようとして、日々、まさにこれと同じことをお互いに行っている。これは心理学的ファシズムにほかならず、あらゆる家庭、あらゆる場所に思想警察の工作員が配置されているようなものだ。この工作員たちは非常によく条件ずけられていて、自分たちがむしょうの意識操作官(マインドコントローラー)であるという意識すら持っていない。

「我が子にとって正しいことをやっているだけ」だと彼らは言う。しかし、そうではない。彼らは支配者にとって「正しい」ことを信じ、また、自分がさも物事をわかっているかのように思い込むようプログラムされているのだ。私は、イギリスの元チーフラビ(ユダヤ教最高指導者)とオックスフォード・ユニオン(オックスフォード大学の学生討論会)で議論したときのことをよく覚えている。ラビは教育と教化が別物であるとは露ほども思っていなかった。それには実に驚かされた。

私たちは、軍人など大衆から選ばれて大衆を押さえつける役目についた者たちが、同じことを日常的に行っているのを知っている。それを端的に表しているのが、「労働階級は俺の言いなり、ついに職制となったこの俺に」というイギリス労働党の党歌「赤旗」の風刺的な替え歌だ。これこそが、大衆の自己管理に不可欠な分断支配の要素なのである。誰もかれもがほかの誰かの精神的、感情的、または肉体的な換金に一役買う。支配者たちは、しかるべきときに糸を引くだけで、人間と言う名の人形を曲に合わせて踊らせることができる。そのために利用されているのが、私たちが「教育」と呼んでいるものや、彼らが所有するメディアを通じて発信される「ニュース」である。こうして彼らは、考えもせず疑問も抱かぬ大衆に、自分の属する群れや他の人々、人生や歴史や時事問題についても、信じるべき事がらを規定する。いったん社会の規範から形成されてしまえば、ジャーナリストやメディアのレポーター、政府の役人などをいちいち操作する必要はない。メディアやさまざまな組織が同じ規範に基づいて「真実」を規定するので、現実を別の見方で捉えようとする人間を、反射的に嘲笑したり非難したりする。何を「正常」と考えるか、どこまでが起こりうる範疇と認められるかをコントロールするだけで、システム全体が事実上、自然に動いていくのであえる
(以上)
※改行しています。

ということです。



で・・・
もう一度読んで欲しい、とはどういうことだろうか・・・と思いますが・・・
「運命は自分で作れるようになってくたようだ」より「運命は決まっているようだ」に偏りすぎているでしょうか?

とは言え、完全にそうなるのは、まだ10年以上先のようですし・・・
とは言え、確かに、これまでの経験を引きずっていますので、「まtだどうで、決まっている通りにしかならないのかもしれない」と思うフシもありますし・・・

そうではあっても、「今度こそ、思った通りの運命にしてやる」とも思いますし、
しかし、どうもそれを実現するのは想念力(と行動の合わさったもの)ではなく・・・むしろ森田健さんの「問い」であるように思えてなりませんし・・・

というのが正直なところです。

そうではあっても、「問たら」行動せざるを得ないのですが。

その意味では、想念力とは、果たして、何を言っているのか・・・要するに森田健sなんお「問いのことではないのだろうか?
とも感じます。

「自分が宇宙の一部であるということを分かっているのであれば、すべては力を貸してくれる」というようなことを、ザ・フナイ8月号の神坂新太郎さんのコーナーで書かれていますが(だと思いましたが)、これを考えますと、あるいは感じますと、ますます、船井幸雄さんの言っている想念力とは、森田健さんの「問い」のことではないのだろうか?と感じてしまします。


果たしてどうでしょうか?

気づいた方々は、どう感じるでしょうか?





さて・・・
森田健さんが、ニューヨークで見てきた、マッチ箱等を叩いて、そこからでてくる音・・・・のようなものだけで構成されたオフブロードウエーのミュージカル(?)に非常に感動した、ということを書いていますが・・・


3次元的理由は、そこには愛だの正義だののような人間模様は描かれていないこと、主役が人間でないこと・・・のようですが・・・

ただただ思うことだけ書いていきますと・・・・

昔・・・のことばかり言うのは、どうもネガティブかもしれませんが・・・

エディーコクランでしたか・・・サマータイムブルースで有名な人ですが・・・
バルコニーに座って、という曲がありますが・・・この曲でドラムのようなものが入っていますが・・・あれは確か、ダンボールだったか何かを叩いて、それをエコーを掛けて録音したものだったかと思います。

ドラムがなかったのでしょうか・・・手短なもので一番良い音のするものを探したのでしょうね。

吉田拓郎さんの「結婚しようよ」のパーカッション・・・あれは確か加藤和彦さんが、椅子を叩いているのだと思いましたが・・・
その椅子が一番良い音がしたのだそうです。



日本でジャズがモダンになり、フリージャズになり、相当実験的なことをしていた時・・・
ライブハウスなどでセッションが繰り返されていたようですが、もう音楽ではなかったようですね・・・一般的な意味では、ですが。
ギターの人などは、ガラスコップか何かをガシャンと割って音を出したり・・・ギターのチューニングを左右変えたり・・・とか、そういうことをやっていたようです。



で、それが、森田健三のミュージカルと関係があるかどうかは分かりません。

ただ音楽をやる人の何割かは、「これって、面白い音がするな・・・」と思う体質で、それが楽器である場合もあれば、そうではなく
どんなものへでも興味が向く、というところはありますね。

声などもそうで・・・人の声・・・こういうものにも興味がありますね。

で・・意識して何かを表現する・・・テーマがあると音楽は作りやすい面もあります。
「愛」、「自然」、「神」、「異性」、「日常」・・・
などですが。

ただ基本は、「これとこれを混ぜたら面白い音、いい音がするよね」であったろう、というのも、きっと事実でしょう。

気づいた方々は、どう感じるでしょうか?

 

 

 

 

 

 

さて・・・
岡田多母さんの「ラブコール あなたへ」http://tamo.thd-web.jp/ ですが・・・

(引用8月11日)

 

千年続く大切さは…
        万年続く重要さは…


        どこまでも見極めて見据えて
        思い図って思いを馳せて…


        感じて感じて感じて感じて…


        時を開いて時を超えて

        永遠に生きる真髄を現して生きて

        たくさんのたくさんに
        アレコレあっても
        たった一つの真髄を生きる

        たくさんのたくさんでも
        たった一つの真髄から生まれる


        たった一つの真髄…


        観える観える観える☆

        真髄は…永遠

        至高なる神聖なる時代…

        明けた!

(以上)



ということで、ザ・フナイ8月号にあったように、新しい幕開けの始まりである8月12日になりました。
みなさん、何か変化を感じたでしょうか?


私は劇的なものはありませんが、昨日くらいから「やっぱり、何でも表に出てくるな」と少し感じていますが。

で、1993年だったか1995年だったか・・・そこら辺から止めて遣り残したことがありましたので、再び開始したことがありますが・・・
作曲編曲ですね・・・

で、良い機材が安く入手できましたので、2週間くらい前からいろいろやっていましたが、今日やっと使い方が分かりました。
最近の機材はPCを使うのですが、で多機能でしかもノートPCだと画面が小さい・・・

で、とにかくできたのですが・・・
興味深いのは、どうしてもできませんので、ネットでヒントを探してみますと、例の2CHにその機材のスレッドがあるわけです。
読んでみますと、まあ、とにかくむつかしい・・・と、しかしできた、といろいろ書いてあるわけです。
詳細な方法などは書いていないのですが。

で、不思議なもので、だれかがむつかしいながらできた、ということを知りますと、「できるに違いない」と言いますか、「どうやらできるようだ」となり、そしてできてしまうわけです。

そのスレッドにたどり着いたのが問いの結果だとして・・・だれかができたという事実を目の当たりにしますとできてしまう・・・これは想念力とは少し違いますが確信力とは近いです。

陸上競技などで、だれかが何秒台の壁を破ると、比較的簡単にその壁を破る人が増える・・・というのも同じ現象でしょう。

これを考えると必死とは何だろうか?と感じます。

相当必死にやったのですが、できなかった・・・しかし誰かができた、しかも複数の人でしたが・・・そういう事実を目の当たりにすると、次の日にできてしまう・・・

これも決まっていた運命だったのか、それとも、確信力が原因の世界を変えたのか・・・

決まっていた運命だとすれば、それは確信力という必然をよそおって決まっていた運命がストーリーを実行した、となるでしょう。
しかし、確信力が決まっていた運命を変えた、と言いますか、確信力を呼び込む事実に出会うこと自体が「どうしたらできるのだろうか?」という問いの結果であった、ということかもしれません。

気づいた方々は、どう感じるでしょうか?



で、「問い」ですが・・・
普通人の思考で「どうしてできないんだろう?」と考えますね。
これはすなわち「問い」としては、できない状況を呼び込むものであるように感じます。

問うていることを認識するなら、「どうやったらできるだろうか?」でしょうね。
その意味では、確かにポジティブなよそをもっていますと、何も知らなくとも、「どうしたらできるのだろう?」になっていく、自然に良い運を導く方向へ向かう・・・とも言えるでしょうか。


気づいた方々は、どう感じるでしょうか?

 

 

で・・・
森田健さんが、またむつかしいことを書いていますが・・・
どうも、「男女の愛について歌うこと」自体は、むしろ否定しないようです。

とは言え、男女の愛について歌う、ということに特別な意味があるかと言えばそうではなく、「男女の愛」が歌いたいという欲求があり、そして実際「男女の愛」を歌い、そこから問いが浮かんでくるなら、もっととことん下位へ突き進んでいくべし・・・と言うような感じですが。

私の解釈ですので、なんとも言えませんが。

森山良子さんの例で書いていますが、森山さんは、どうも、自分の作った歌から「問われ」そして、そこからまた、いろいろなことへの「問い」が発生する、という20代後半を生きていたようです。
(私の解釈です)

で、これを先だっての佐野元春さんとさだまさしさんの、「自分はだれかを知るために曲を作る」、「曲だできた時、こんな面が自分にあったのか、を知ことができる」と合わせて考えて見ますと・・・

確かに、自分が作ったものから「問われる」という要素はあるようです・・・曲作りには。


・・・・で前後しますが、森田健さんですが、そうではなく、「政治的メッセージのような種類のこと」を歌ってもしかたがない。むしろ男女の愛の方が良い、ということなのでしょう。
そのようです。

私はミュージシャンが政治的なメッセージを発すること自体は構わないと思います。
ただ、別にそうしたからと言って、特別偉いとは思いませんが、ただやりたいことはやればいいじゃないか・・・とは思います。

で・・・ここで言われている曲作りとは、歌詞のある曲のことになりますが。

もちろん歌詞のない曲からでも問われますし、その結果問いも発生すると思いますが、少し種類が違いますね。

それは人によるでしょうし、ただ、歌詞があるものの方が、具体的に問われるかもしれません。
どうでしょうか・・・

私も大学時代まで歌詞を書いていましたが・・・相当力を入れていたつもりですが(笑)、もう何十年も書いていませんので忘れましたが、人に見せて少し関心を持ってもらうようになった頃考えていたのは、情景の見えるような歌詞・・・絵のような歌詞、ということだったように覚えています。
直接感情的な言葉は使わないのですね。
読むと、映画かドラマか絵画のように絵が浮かぶ・・・
そして、読む人によって解釈の異なる・・・絵が異なるという意味ですが・・・が浮かぶと。

何で書くのを止めたのか・・・きっと当時歌がへたくそだったからではないでしょうか?
作っても歌わないのですからね。

それまでは、歌ってくれる人がいたわけですね・・・
確かそんなところだったかと思います。

あるいはキーボード奏者の宿命として重宝される(笑)、というのがありましたので、・・・それはつまりキーボードを弾くことのみ求められる機会が多い、ということですが・・・そういうことだったかもしれません。
別に未練もありませんので、よく覚えていません。

ただ、先だっての佐野さんの番組では、松本隆さんが出ていましたが、「歌詞が先で、曲が後が正しい」ということで、佐野さんも「厳しい意見ですが、そうですね」ということでした。

で、絵が見える歌詞を書く、ということ自体、確か当時、松本隆さんの言っていることが影響していたようにも覚えていますが、よく覚えていません。

ただ、楽しい、とか苦しいとかそういう直接的な感情を表す言葉は使わなかったように思います。




で、少しずれましたが、森田健さんが最近良く書く「簡単な表現をする」も「政治的」より「男女の愛」ということなのかもしれません。

これは簡単な題材、ということですが。
男女の愛が簡単かどうかは、いろいろでしょうか身近な題材、政治より先に経験する題材、と言う意味では「簡単」ということでしょう。


なんだか何を言いたいのかよく分かりませんが・・・


根本的なところに戻りますと・・・物を叩いて音を出す、それだけを見せるミュージカル、オフブロードウエーでロングランになっている・・・

見ていないので深くは分かりませんが・・・
例のブルーマン、あれはパイプを叩いて、その可能性を見せるミュージカルです。
ロックバンドの伴奏も付いていますが。

可能性大会と言う意味では似たようなものです。
あまりブルーマンには興味がないのですね・・・私は。

藤原直哉さんではありませんが、多くの人がデジタルの音にあきたから・・・と言うような見方もできます・・・見ていませんので何ですが。

私もいろいろ叩いたり、吹いてみたり、はじいてみたりして音をだしてみたりしますが(笑)、それを舞台に使用とは思いませんので、それをしてしまうのはすごい、という感じ方もあります。


時間がありすぎるというのも問題ですね。
まとまりません。
また何か気づいたら書いてみようと思います。


で・・・
今日・・・ちょっとちがったことをしてみようと思い、フジテレビをつけると、さだまさしさんが出ていました。
なんでも、高校二年生で家計の関係でバイオリンをあきらめて、大学へ進んだところ、どうしても音楽がありたくなり、作曲家になろうとしたらしいのですが、歌詞を書いてくれる人がいあないので自分で書いて・・・歌ってくれる人がいないので自分で歌って・・・
ということだったそうです。

これは偶然をそよおって訪れる運命の分かりやすい例ですが・・・
私の場合、歌がへたくそだったので、自分で歌えないので、しかも歌ってくれる人もいなかったので、作詞も止めた・・・ということで、これもまた偶然を装ってはいるのですが、それが決まっていたストーリーだった、ということです。

で・・・船井幸雄さんがにんげんクラブのサイトhttp://www.ningenclub.jp/mess/09081.htmlの動画で、
(引用)

じゃあ今月の言葉に入ります。
自分の周辺の出来事は全て自分が引きよせているようだ。と思います。
だから、「自主的ホ・オポノポノ」で、これで対処するのがベストのようです。
いわゆる「Self Identity Through Hooponopono(セルフ アイデンティティ スルー ホオポノポノ)」です。これは私の『二つの真実』という本をですね、詳しく書いてます。これを参照してほしいんです。これが今月言いたいことです。よろしく。

(以上)
と話していますが・・・

私は確かに、決まっていた運命以外にも、こういうこともあると思っていますが・・・
ただ、見極めがむつかしいですね。

私としては・・・決まっている運命であるにもかかわらず、「自分が悪い、自分が責任・・・・」とやり続けていくと、人の顔を見るのも嫌になるくらい、気持ちがネガティブになってしまうことを知っていますので、「両方ある」ということを普通の人には是非知っておいて欲しいと感じます。

「すべて自分が責任」をやり続けることができる、ということは、その人は、どこかで無責任さを持っている(バランスがとれている)ので、やり続けられるのだろう、と感じています。

逆に、森田健さん式の「すべての原因は自分の外側」で成り立っていられる人は、ちゃんと自分の中に、責任を持っている(バランスがとれている)から成り立っているのだと感じます。

是非、まじめな人を追い込んでしまうような表現はしないように・・・と感じますが・・・
決まっている運命も、呼び寄せたものも両方あり、それは、そう簡単に見分けが付くものではなく、間違うと大変である・・・が事実だと感じます。

気づいた方々は、どう感じるでしょうか?



 

さて・・・
副島隆彦さんですが・・・
http://www.snsi-j.jp/boyaki/diary.cgi
(引用)


副島隆彦です。今日は、2009年8月10日です。

 前回の今日のぼやき「1058」番でお知らせしたとおり、現在、不当な裁判を次々に行い、「国家の暴走」の主要な要素となっている最高裁判所の裁判官たちの中で、私たちが特に問題があると考える、以下の4人の裁判官に対し、来たる8月30日の国民審査(衆議院選挙と同時に行われる)で、×(バツ)をあたえる運動  を始めたいと思います。

 名付けて、「最高裁裁判官たちに国民審査で×(バツ)を与える国民運動」 です。

 ×(バツ)を「つける」のではなくて、国民が彼らに「罰(×、バツ)をあたえる」のです。 私たちが、今回 ×(バツ)を与えるべきだと考えるのは以下の4人です。

× 竹崎博允 (たけざきひろのぶ、2008年11月25日から最高裁長官、東京大学法学部卒 、裁判官出身)

× 那須弘平 (なすこうへい、東京大学法学部卒 、弁護士)

× 近藤崇晴 (こんどうたかはる、東京大学法学部卒 、裁判官)

× 竹内行夫 (たけうちゆきお、京都大学法学部卒 、外交官)

 以上の4人です。私たちのこの判断に、ご賛同ください。

 そして、私たちの考えに賛同してくださる人は、、どうぞ、私たちのこのページを、ご自身のホームページやブログにどんどん 貼り付けて、公表してください。ひとりでも多くの日本国民に、この国民運動を知らせてください。よろしくお願いします。

副島隆彦拝

(中略)

まず、最高裁長官の竹崎という人は、最近導入された裁判員制度を実現させたという実績だけで長官になった人です。 政府や法務省の方針に忠実に従う判決ばかりをだす裁判官のことを、「ヒラメ裁判官」と、弁護士の間では言います。それは、魚のヒラメのように上しか見えないという意味で、自分の出世の事だけを考えている人間という意味です。

 ヒラメという魚は、海底の砂地にへばりついている間に、上のほうのエサの小魚ばかりを見ていたので、片目まで同じ側に移ってしまったという魚です。

 次に、“国策捜査(こくさくそうさ)”に引っかかった佐藤優(さとうまさる)氏の 最高裁への上告を、この7月1日に棄却(ききゃく)したのが、那須弘平(なすこうへい)裁判官です。この人は弁護士あがりです。

 三番目に、竹内行夫(たけうちゆきお)裁判官は、元外務次官です。次官というのが各省の官僚(行政官)のトップです。 この人物こそは、小泉政権時代に、駐レバノン大使だった天木直人(あまきなおと)氏が、「アメリカべったりの小泉政権のイラク戦争支持に反対する」と言って、外務省の方針に公然と刃向(はむ)かって外務省を解雇 (免職、めんしょく)になった天木氏のクビを切った責任者です。

それから政治家の鈴木宗男(すずきむねお)氏と佐藤優(さとうまさる)氏を、外務省の北方領土問題のことで罠(わな)に嵌(はめ)て失脚させた時の責任者の一人です。

 佐藤優氏は、各所で、「外交官上がりの竹内行夫氏は、司法試験を受けて合格してから最高裁の判事になって欲しい。車の運転免許も無いのに、トラックの運転をされては危ない」と言っている。私も彼から直接聞きました。

 そして、最後の4人目の近藤崇晴 (こんどうたかはる)裁判官が、 植草一秀氏の「痴漢(ちかん)えん罪事件」の上告棄却(じょうこくききゃく)をした裁判官です。

 近藤(こんどう)裁判官は、仙台高等裁判書の所長上がりだが、普通は、仙台高裁長からは、最高裁裁判官にはなれない。それがなったということは、よほど小泉純一郎首相(当時)から、好かれていたのだろう、と業界で囁(ささ)かれている。彼が任命されたせいで、他の適任者たちが落とされたのだから。

 近藤裁判官は、防衛医科大学教授が、東京・小田急線の満員電車内で、女子高校生の下着に手を入れるなどして、強制わいせつの罪に問われた事件では、今年の4月14日に、無罪判決を出しています。それにもかかわらず、植草事件の方は、ろくに審理もせずに、上告をあっけなく棄却しています。

 最高裁裁判官は、権力に逆らう判決を出しては行けない、ということが脳に刷り込まれている人種です。長年「ヒラメ裁判官」の生活をしてきて、権力の大きな意志が働いている事件の場合、その判断に逆らないと、反射神経的に決断した人です。

 だから、防衛医大教授の痴漢えん罪事件では、判決の「補足意見」の中で、「被害者の供述は、たやすく信用し、被告人の供述は頭から疑ってかかることのないよう、厳に自戒すべきだ」 とか、「やったかどうかわからない以上、『無罪の推定』原理により、被告人には無罪を言いわたすべきなのである」 と言っておきながら、植草事件では、まったく正反対の高裁判決を支持するとした。

この不正な判決によって、現在、刑務所に収監されている植草一秀氏のことを考えると、私たちはこの近藤裁判官の矛盾した判決をとうてい許すことができません。

これらの4人の裁判官のこれ以外の主な判決については、

「忘れられた一票 2009   ★ 最高裁判所 裁判官 国民審査 判断資料」というウエブサイトにも詳しく載っています。(URL:http://miso.txt-nifty.com/shinsa/)

 自分たち裁判官が何よりも大切にすべき、「司法権の独立」 という考えを自覚せずに、ひたすら、自分たちに給料を払ってくれる法務省という“お上(かみ)”の方しか見ない癖くせ)が終生抜けない裁判官を、国民の多数意思で罷免しなければならない。

 私たち有権者が、この権利を行使できる、めったにないチャンスが、来たる8月30日の衆議院選挙の投票日です。

 

(以上)

ということです。
どうも船井幸雄さんのいうように隠し事は(自然に、自動的に)できなくなっているようです。

せっかくこういう権利と制度があるのですから、是非参考にしていただきたいと思います。

気づいた方々は、どう感じるでしょうか?



さて・・・
中矢伸一さんですが・・・

http://www.nihoniyasaka.com/
(引用)

先月19日午後7時45分頃、東京の豊洲上空にUFOが現れ、何千人もの人が目撃し、大騒ぎになったようです。
ちなみに、この記事が大々的に掲載された「東スポ」には、『たまゆら』の制作をお手伝い頂いている山口敏太郎さんのインタビューも載っていました。

これまで隠されていたいろいろなものが表に出る時代になってきましたね。
UFO(未確認飛行物体)がUnidentified(未確認)ではなくなる日も近いのかもしれません。

(以上)

ということです。

上の話とシンクロしています。

で、そういえば、ローマの老舗レストランで日本人カップルが9万円請求され、結局そのレストランが営業停止になった、というニュースがありましたが、これはテレビ、新聞ではほとんど報道されていないそうです。
しかし、従来のシステムが変わらなくとも、他のシステム・・・この場合インターネット・・・によって表に出てしまうわけです。

気づいた方々は、どう感じるでしょうか?




で・・・例の聖書の暗号ソフトですが・・・良く分かりません。
「船井幸雄さんが使っているソフトはこれですか?」と質問メールを送ったにんげんクラブ事務局の人から、「私も勉強中ですので、がんばりましょう」のようなメールをいただきましたが、全く分かりません(笑)。
(正確には船井幸雄さんが使っているということではない、ということですが、とにかく、このソフト(Bible Codes Plus http://www.bibledecoder.com./)です、ということです)

ここは読んでいないと思いますが(笑)、私はこういうとき、自分でとりあえずなんとかできるようになるまで隠れます。
どうも、野球の影響でしょうか・・・努力(?正確7には努力ではない・・いやなことをやっているわけではないですので)を人に見せてはいけない、という潜在意識があるのですね。

で、人前では、あたかも練習などせず簡単にできてしまったかのようにやりぬけます・・・と書いてしまってはあまり意味がないのですが・・・
ただ、もうこういうのをやめようかな、と最近感じています。
言ってみれば落合選手式なわけですが・・・
ただ、すごい人はみな、そうでしょうね・・・練習している姿は人にはみせないでしょうね・・・相当練習しているはずですので、そのさまはすさまじいわけで、人に見られたくはないですね・・・良く分かります。

で、聖書の暗号ソフトをそこまでやっているかといいますと、今のところそうではありません。
なにせ就職活動から楽曲作成、バンドの練習・・・いろいろやらなくてはならないことがあります。

それと、日本語のすごいソフトが近々に出る・・・というのが、ひょっとしたら一番の理由かもしれません・・・三次元的にはですが。

早く出るとよいですね。

 

気づいた方々は、どう感じるでしょうか?

 




さて・・・
下弦の三日月が出ていましたが、ものすごく大きかったです。


実家へ行ってきまして、11時ごろ、戻ってきまして、駅から部屋まで歩いていますと、向こうの方に大きな明かりが見えます。
ちょっと電球色です。
ここら辺りは・・・流行でもありますが、ほとんどの家が電球色のだいだい色っぽい灯りをともしています。
それでも、すぐに「月かな?」と思いましたが、あまりに大きいので「電灯かな」と思いました。
気になったので追ってみましたが、建物があり見えませんでした。

それで、部屋に戻ってから自転車に乗ってコンビニへ行きましたが、田園調布双葉高校の前の信号で止ままった時ふと後ろを見ると、月でした。


高さの関係でしょう・・・ほとんど高さを感じず、すぐそこに大きな月がありました。






さて・・・
昨日から朝起きてからラジオを聴いていますが・・・
選局も変えようかと思いましたが、なっているまま・・・いつそのチャンネルにセットしたのか忘れましたが・・・聴いていましたら、浅見帆帆子さんが登場しました。


短い時間の中で、パーソナリティの要求にあった回答をするのが大変だったようです。
「私が実験してきて、良い結果が出たことを伝えている」というようなことを最初に言っていました。
(私も良くそういうことを書きます)

で・・・ちょうと昨日浅見さんのサイトをみていたのですが・・・
なかなか更新されませんので、「う〜ん、かわいいな」とか思いながら、写真だけ見ていましたが(笑)。


「起きることはベスト」と言う話もしていました。


で、ラジオですが、リスナーからの質問で「人から”別に気にしないで”とか、言われると気になってしまう」でしたか「人が話しているのを見ると自分の噂話をしているように感じてしまう」でしたか・・・
それに対しての浅見さんの回答は、「私は気にしません。気になる人というのは、自分が人の噂話をするので、気になってしまうのかもしれません」と言うような感じでした。

これはこれで、一般的な回答で別に問題ないのですが・・・
浅見さんの回答とは関係ないのですが、思うに・・・こういう場合ですが、なんと言うのでしょうか、道徳的解釈とでも言うのでしょうか・・・・「人は人のうわさをするものだ。悪口も言うものだ。それじゃ、自分はしないようにしよう」というようなスタンスで「自分は人の悪口を言わない」とすると、どうも「人は人の悪口を言うものだ」も刷り込まれてしまい、決して自分は人の悪口を言わなくとも、人から悪口、うわさをされない状態というものは作れない(実際)ように感じます。


ですので、何と言えば良いのでしょうか・・・心理学的とでもいいますか、初期においてそういう側面から、こういう問題を対処してしまいますと、どうもいけないのだろうな、と感じます。

簡単に言うべきですので言いますと、「人は悪口やうわさを言うものなので、自分はいわない」をすると、「人は悪口をいう」までも物質化、現実化してしまうので、余計な形容詞は付けないで、「自分は言わないのだから、他の人もいわないだろう」くらいがよいのでしょうね・・・。


気づいた方々は、どう感じるでしょうか?




で・・・前世が見える方・・・浅見さんの前世ですが、どこかのお姫様か何かではなかったでしょうか?
何かそんな”気”がするのですね(笑)。





さて・・・
岡田多母さんの「ラブコール あなたへ」http://tamo.thd-web.jp/ ですが・・・
(引用)

タモのリサーチ(8/13−1)

      8月12日の結びは…

     7月7日の満月から7月22日の新月の流れを超えて
      幕開けの時流を高く結びつけた☆


      ハジマリのハジメ
      始まりの源…原始の原初

      ハジメ… 素 元 創 本 基 一 夲 大 新


      さぁ〜序幕終了
      本舞台の始まりだ…

      序章は既に幕を閉じた

      いよいよハジマリのハジメが始まった☆

      後戻りは出来ない
      ドタキャン無し
      ファール無し

      隠されていたすべてが露見し
      閉ざされていたすべてが放たれる

      明かされ解かれ自由に放たれる☆

      開放され解放する


      無拘束

      封印は…破られる?解かれる?消される?

      パンドラの箱☆最後は希望…

      終焉はハジマリだ…
      ハジマリはハジメだ…

      ハジメは…祝だ!


      祝福を祝福を祝福を!


      安らぎよ安らぎよ安らぎよ…
  

(以上)



ということです。


「ハジメ… 素 元 創 本 基 一 夲 大 新」・・・読めませんね。

それでも何でも、とにかく新しい時代の幕が開いたということですね。


気づいた方々は、どう感じるでしょうか?






さて・・・
山城新伍さんがなくなられました。
そして、レスポールさんもなくなられたようです。
ご冥福をお祈りいたします。

この方は、ギタリストであり、「レスポールモデル」というギターを作った人でもあります。
私が以前やっていたサイトで、音楽の歴史のコーナーがあったのですが、そこにレスポールさんの説明も書いていたのですが、偶然見つけた知らないサイトのレスポールの項目が、私のサイトのその部分にリンクされていたのを見つけた時、何か嬉しかったのを思い出します。


で・・・
最近、ミュージシャンの方とか、芸能人の若い方などでガン系の病気になる方が多いように感じるのですが・・・
多くの場合、再起できずに、なくなってしまいますね・・・

で、私の知っている限り、ガン系の病気で治って再起したのは、プロレスの西村選手くらいなのですが、で、この方が他の人と何か違うだろうか?と考えるのですが・・・

新日本出身の有名な選手です。
今は藤波選手と一緒に、無我、という団体というか、グループと言うか・・・をやっていると思います。

ただ、それほど強い選手でもありません。
中堅の選手です。

吉田拓郎さんでもだれでもよいのですが・・・だれと比較したらよいだろうか、と思いますが・・・
あまり実名を出したくないので出しませんが、昔プロ野球に、ものすごくたまの速い押さえのピッチャーの方がいました。
この方は脳腫瘍になってしまったのだと思いましたが・・・
確かプロになった当初、あまり度胸のある方ではなかったようで、よい結果はでなかったのだと記憶しています。
しかし、それでも、球が速いですので、その内押さえのピッチャーとして成功します。
それでも、確か・・・当番のたびに、相当緊張といいますか、ストレスを感じていたように思うのですが・・・

で、ピッチャーとしては好成績を挙げます。
あまりに球が速く、某有名球団の4番打者の手首を折ったこともあるくらいです。

で、病気になってしまうのですが・・・野球から離れて、療養、治療を続けるうち、聴いている限りでは、一度よくなったようなのです。
で、野球の練習を始めたら、また再発してしまった・・・・・・のだと記憶しています。


運命は決まっているもののようですが、それでも、いくらかは決まっていないとして考えますと・・・
西村選手の場合、何らかのストレス、あるいは、創造主のような存在から「それは使命ではない」と言われているものが・・・ひょっとしたら新日本という大きな団体に属すること、であったのかもしれないですね・・・違うかもしれませんが。
「天然」だなんてことも、プロレス雑誌に書かれるくらい、本来自由な人のようですので、大きな団体でのしがらみの中で生きる、ということそのものが原因だったのかもしれない・・・ということですが。

ピッチャーの方の場合、「それは使命ではないよ」というものが、「過度なストレスの元、押さえのピッチャーをやる」ということだったのかもしれません。
何せ、とても気持ちの優しい方だったようですが・・・しかし、この仮説も違うかもしれません。

で・・・多くの場合、病気になった時、「もう一度復帰してやる」、「あのマウンドにあがってやる」、「ステージに立ってやる」という具合で、必死になってがんばるのですが・・・
どうも、それ自体に・・・つまりもし創造主が関わっているというのなら「そうではない、方向が違う。がんばる対象が違う。使命が違う」ということなのではないだろうか?と感じてしまいます。


たとえば、前田明選手(プロレス)のような商売ですと、体力的なことがあり、引退、ということがあるわけです。
ですので、次の使命として後輩を育てる・・・ということがあっても、普通に移れるけですが・・・
吉田拓郎さんの場合、歌手ですので、よほどでなければ、引退ということはないですので、「歌う」ということ以外で使命が訪れても、「自分は歌いたいんだ」となりますと、なかなか、使命に気づく、ということはむつかしいわけです。

ちょうど船井幸雄さんが、「気づいていない人にも・・・すべての人を救う」ですとか、「場を浄化してしまう」ですとか・・・自分のやりたいことをするわけですが、それが、使命と異なっているので、それを気づかせるために、病気になる(三次元的理由は他にあえるようです)・・・
のと同じです。

で・・・私を考えますと、どうも、サラリーマンとして、そこそこの生活で安定した暮らしをする・・・そしてそれができそうになってくる・・・と病気をする・・・・と言う感じのようですので(過去2回)・・・どうも「それは使命じゃないからね。」ということのように感じます。
(今回の転職は病気ではないですので、少し特別)

で、この場合、その生活は自動的に辞めざるを得ないですので、それでとりあえず創造主の忠告のようなものの第一段階はクリアするようで、その後なんともないわけですが・・・

ただ確かに、相当気に入っていた仕事の時、「絶対に完治して復帰してやる」と思っていた期間は、完治はしなかったようにも思います。
こう書いているので、気のせいかもしれませんが。


もちろん、いろいろな話は表面的なことしか、外部には伝わってきませんので、よく分からない部分があり、結論は出せませんが・・・
船井幸雄さんの体験を見る限りでは・・・使命と違うことをやっていると、いつまで経っても、病気は治らない、ということのようではあります。


気づいた方々は、どう感じるしょうか?




今、世界陸上をテレビでやっていますが・・・
ちょど400メートル走りをやっていました。

この400メートルですが・・・・中学生時代に変な思い出があります。
中学2年生の時ですね・・・

運動会のことなのですが、1年生の時、運動会の長距離走で一番になりました。
長距離と言っても、どうでしょう、きっと2キロくらいではないだろうか、と思います。

で、次の年、やはり、みな期待しているわけです。
当然走者に選ばれました。
ただ・・・400メートルにも選ばれたのですね。

もちろん、陸上部ではないですので、そんな距離は走ったことはありません。
実は陸上部に入りたかったのですが、入れてくれなかったのです。
確か・・・部活動以外に、強制的にやらなくてはならないクラブ活動というのがあり、私はそれに入ったか何かで(詳細は忘れました)、いくら頼みに行っても入れてくれなかったのですね。
担当の先生は筑波大学を出たばかりの、やたらきびしい若い先生でした。

で、何度か交渉に行ったのですが、あきらめました。

ただ、そのくせ、だれでしたか・・・ものすごい記録か何かを出した生徒を、同じ条件だったのに、入れたのですね・・・
「ああ、大人って奴はこの程度のものか」と思ったでしょうか・・・どうだったでしょうか・・・ただひどく、ばかげているな、と感じたことだけは確かです。

で・・・元に戻りますが、2年生で400メートルを走ったのですが、ぶっちぎりで、1等賞でした。
ただですね・・・何せ初めて走るものですので、もうへとへとになってしまったのですね。
ほとんど100メートル走と同じに走りましたので。

で、そのすぐ後、30分くらいでしたでしょうか・・・長距離走があったのですが、当たり前ですが、もうぜんぜん足が動きませんで・・・
惨敗でした。

で・・・もう時効でしょうから、といっても私の問題ではないですが・・・書きますと・・・

その先生・・・当然生徒には嫌がられていましたので・・・生徒間では名前を呼び捨てで呼ばれていたのですが・・・
ある放課後、教室に私と、とておも優等生の女生徒と、あと1,2人いたでしょうか・・・
その時、その優等生の女生徒が、何かの話で、窓から校庭にいる友達に、「○○がね・・・」とその先生の名前を呼び捨てにしたのです。(生徒間では普通のことでした)
そうしましたら、ちょうど、そのタイミングでその先生が入ってきたのですね。
で、何をしたかといいますと、180センチ以上ある陸上競技の選手だったその先生が、その女生徒にピンタを食らわしたのですね。

教室中に「パリ〜ン・・・・・・」という大きな音がしたと思います。
もちろんその女生徒は泣き出してしまいましたが・・・

で、私はと言いますと・・・私も大人にピンタを食らってふっとばされたことがありますので(5,6歳の頃、店の前でスーパーボール遊んでいましたら車に引かれそうになりまして、おやじに往復ピンタを食らったのですね。左右に2,3メートルくらいふっとびました。私はいけないのですが、ピンタは痛いよ、ということは知っていました。)
で、私は反射的に、その先生をにらみ付けました・・・155センチくらいの中学生ですが。
昔から・・・もう反射的なんです、私は。4,5歳の頃からですね。

で・・・しばらくにらみあっていたのですが、その先生はなにもせず、何言わず・・・出て行きました。


別に私が強いわけではなく・・・
当たり前ですね。これで私にピンタを食らわして、後に問題になり、理由を問われた時、「女生徒に呼び捨てにされて逆上してピンタを食らわして、詰め寄ってきた男子生徒にも一発食らわしました。それが何か?」とPTAだか、校長先生の前だかで言えるものなら言ってみたらよいわけで、それくらいの判断はだれでもつくでしょう。

ただね・・・当時2,34歳でしょう・・・今思えば、その程度だと思います。
普通だと思います。
ですので、なんとも思いませんし、担任のクラスの中の良い学生には、一緒に出かけて食事をおごったりもしていたようですので、根は良い人でしょうし、今は良い先生になっているのでしょう。


どうも、大人不信・・・ですとか、スポーツをやっている人は立派だとか・・・
それ自体がどうのこうのではなく、「常識」と言うものに対しての「必ずしもそうではない」という概念は、この頃から育ってきているのかもしれません。
ですので、船井幸雄さんの書いているような、一般では非常識にもとれるようなことでも、簡単に理解できてしまうのかもしれないですね・・・
その意味では感謝です。
これを、必要、必然・ベストというのかもしれません。

ただね・・・感謝はしますが、普通に幸せな人生、というもの、焦がれるわけですが・・・
きっと、これ(このまま)でいいのでしょう・・・全部ベストです。

決まっている運命的には、その先生が悪役を演じてくれた、ということでもあります。


・・・・・・それでも、後々いろいろ考えるのですね・・・あの先生がかかってきたらどうすべきだったろうか・・・とか。
もちろん普通にやりあったら負けます。
負けないにはどうしたらよいか・・・とてもここには書けませんが、いろいろ考えてました。
井出さんなら見当つくでしょうか・・・

但し、こういうことを考えること自体、どうもいけないようで、その意味では、そういう地域に住んでいる人というのは、そういうことを考えなくてはいけませんので、そういう場所から脱出しないとどうしようもなく螺旋が繰り返してしまうのでしょうね。

いけない、というのは、引き寄せの法則的に、ですが。


気づいた方々は、どう感じるでしょうか?





で・・・スポーツがらみですが・・・
初めてUWFの山崎選手のけりを見たときには、感動しましたね(笑)。
子供みたいなことばかり書いてすみません(笑)。

それで、足が高く届くように・・・という意味もあって、又割をしたのかもしれません・・・
異常に体が柔らかい妹を見て「疲れやすいのは、体が硬いからかもしれない」と思ったのが直接的な理由だったように思いますが。

で・・・今疲れにくいかと言いますと、そうでもないです。
むしろ、妙に足の後ろ側が柔らかすぎて、歩き方が変なくらいです(笑)。

そういえば、一昨年の新日本プロレスの夏のG1戦で、後藤選手(昔からいる方)が、回し蹴りを藤田選手の後頭部に入れたのには感動しました。
後藤選手は空手出身で、以前は異種格闘技戦にも出ていたのですが、例の越中選手の平成維新軍に入ってからは、・・・だったのですが。
きっと最後のG1だったのでしょうけれども・・・何か嬉しかったですね。
相当練習しなおしたはずです。
何か・・・そういうのってかっこよいですね。

気づいた方々は、どう・・・と言ってもプロレスなんかどうでもいいかもしれませんが・・・感じるでしょうか?





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